2023年 テーマ
「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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2022.12.25 週報.pdf
「イザヤ2:4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」
クリスマスおめでとうございます
昨日は、クリスマスコンサート&メッセージが行われました。
200名を超える方が会場でご参加くださいました。また、ライブ配信でも多くの方がご参加くださいました。テーマは「いやし」でした。クワイヤーの歌声にいやされたという方もたくさんおられるのではないでしょうか。また、多くの方のご奉仕がありました。クリスマスをみなさんで一緒にお祝いすることができました恵みを主に感謝いたします。
「戦」
毎年、一年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」が発表されていますが、これは一般の応募の中から最も多かった文字が選ばれます。今年の漢字は「戦」でした。「戦」が選ばれた理由として、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻など戦争を意識した年であったことや、円安、物価高など生活の中での「戦い」を多くの人が体感したことが挙げられています。
今ウクライナ情勢をめぐって、国連で会合がなされていますが、その国連広場の壁に刻まれていることばが、掲題のみことばです。今まさに戦争によって、世界中の国と国とが対立し、この先何が起きるのか分からないという緊張関係がずっと続いています。このみことばは、預言者イザヤを通して語られたことばです。それは世の終わりの時、キリストが再び来られ、この世は、神による完全な統治がなされ、戦いの武器であった剣や槍は、土地を耕すために使われる鋤や鎌など、平和の道具へと変えられることを意味します。つまり、戦争などの争いが一切ない、神による全き平和、平安がもたらされるという預言のことばです。
争いは人の罪が原因である
ある人は、「神がおられるのになぜ戦争や争いが絶えないのか。」と言います。聖書は、「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。(ヤコブ4:1-2)」と言います。神がその争いを治めることができないのではなく、その原因は、人のうちにある罪であると言っているのです。「手に入れないと気が済まない」という貪りが争いを引き起こします。毎日のように流れて来る事件のニュースは、金銭をめぐるトラブル、土地や相続をめぐるトラブル、家庭内で起きる問題など、ささいなもめ事が原因となっていたりすることが多かったりします。人はみな、自分の欲が満たされないとそれを手にしないと気が済まなくなり、極限まで行くと人殺しをしてでも手に入れようとします。私たち人間の罪はそれほど愚かなものであるということを忘れてはなりません。人間の罪は、神と私たち人間との間に大きな隔ての壁を作ります。そして、罪や争いの問題は、人の力で解決することはできません。
イエス・キリストは、平和をもたらすために来られた
その隔ての壁を打ち破るのが、イエス・キリストの十字架の血による犠牲です。イエス・キリストは、人のすべての罪を負って身代わりとなって十字架にかかり、人を罪から救い出すために、この地上に来てくださいました。人々が願っている争いのない世界は、イエス・キリストによってもたらされます。ヨハネの黙示録11章15節には、「第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。『この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。』」とあります。世の終わりの時、イエス・キリストが再び来られるときに、神の完全な統治がなされ、争いがまったくない完全な平和がこの世にやってきます。ですが、イエス・キリストが、二千年前に地上に来てくださって、罪の身代わりを果たしてくださったがゆえに、イエス・キリストを救い主として信じる者は、今、神との関係が回復され、天にあるところの完全な平和が心にやってきます。神の赦しをいただき、和解させていただく道が開かれました。罪赦された喜びを知った私たちは、主がしてくださったのと同じようにして、人がした悪、罪を見て、それを赦すことができるように変えられます。真の神だけが、罪を赦す権威をお持ちであられ、この方以外に罪から救われる道は他にありません。
戦うことをやめて降参する
私たちは、天と地を支配しておられる真の神の前に、ひれ伏し、へりくだって、神のご支配、主権を認めなければなりません。神はご自分がしたいことを何でもすることのおできになるお方です。今日、あなたのいのちを取り去ることのできるお方であり、新たないのちを与えることのおできになるお方です。あなたに今起きていることは神の主権があって起きていることです。自分勝手に生きてきたことが間違いであったことを認めて降参し、神に従って生きるという正しい関係を持たなければなりません。イエス・キリストは、私たちに平和をもたらすために、私たちと神様との間に和解をもたらすために、この地上にお生まれくださいました。このことを感謝しつつ、クリスマスの時を過ごしてまいりましょう。(岩下 栄作)
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2022.12.18 週報.pdf
「Ⅰコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
人間っていいな
日頃、テレビの番組やニュースなどで、アスリートや芸術家の活躍を見て、「私もがんばらなくちゃ」などと励まされることはありませんでしょうか。先日のサッカーのワールドカップでは、日本のチームが強豪国であるドイツやスペインに勝利して世界を驚かせました。両試合とも、「もうこのまま負けてしまうかも」と思われるところからの大逆点でした。多くの人が、「困難があってもあきらめないでいよう。」と励まされたことと思います。また昨年印象的だったのは、10月に開催されたショパン国際ピアノコンクールで2位に入賞した、反田恭平さんです。歴代日本人最高位タイ(同点)で51年ぶりの快挙でした。同コンクールに入賞するために、何年も前から入念な練習の計画を実行してきた経緯を本人が話すのを聞いて、「ビジョンをしっかり持って、計画的に取り組めば、大きな目標も達成できるんだ。」と励まされたのは、私だけではなかったと思います。
昔、テレビアニメの主題歌に、「いいないいな、人間っていいな」という歌詞がありましたが、人々の活躍に励まされるとき、神様が創造された人間って本当にすばらしいな、と思います。
人は神の栄光を現すために造られた
神様は人をご自身のかたちに創造されました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。(創世記1:26)」。「かたち」と言っても神様は姿がなく、霊(心)だけで存在されておられるお方です。人が神様に似ているのは、この霊が与えられているところです。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)」。いのちの息とは霊のことです。この霊によって、神様と交わりを持つことができ、神様の御声を聞き分けて、みこころを行うことができます。動物などほかの被造物は霊を持ちません。人は特別に造られました。
神様が人を造られたのは、人が神様と交わりを持ち、自然などの被造物を支配し、神様の栄光(すばらしさ)を現すためです。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。(イザヤ43:7)」。神様がいかに偉大で聖いお方であられるのか、また力強くいつくしみ深いお方であられるかということを、人が現して生きるためです。
十字架の栄光
ところが人は罪を犯したために、神様が造ってくださった良いかたちを損なってしまいました。霊は死んで、神様との交わりが断たれてしまいました。しかし神様は、人をあわれんでくださり、人の罪の身代わりとして、イエス・キリストを地上に送ってくださいました。イエス様は、父なる神様のみこころに従順に従われて、人として生きてくださり、人としての苦しみを味わってくださいました。そして十字架の上で死んでくださいました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、(中略)父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:6~11)」。
イエス様は十字架によって神様が人をどれだけ深く愛しておられるかということを表してくださいました。そのようにして、神様の栄光を現す生き方の模範となってくださいました。
神の栄光を現す
私たちは、イエス様の十字架の贖いを信じて救われました。罪ゆえに死んでいた霊が新しく生まれ変わり、神様との交わりが回復し、神様の御声を聞き分けて、みこころを行うことができるようになりました。神様の栄光を現して生きることができるように変えられました。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」と教えています。私たちは自分がほめられることを求める生き方を捨てて、自分を通して神様のすばらしさがほめられるために生きる生き方を求めなければなりません。
神様の栄光を現すにはどうすればよいでしょうか。私たちの多くはアスリートや優れた芸術家のように特別ではありません。しかし家族の中で、職場の人間関係や仕事の中で、学校の勉強や友だち関係の中で、家事や育児をする中で、教会の中で、それぞれの置かれている場所で、神様の栄光を現すことができます。それは神様のご命令に従順に従うことによってです。神様は、あなたの敵を愛しなさい、寛容でありなさい、親切でありなさい、と言われます。また、勤勉でありなさい、上司に従いなさい、と言われます。憤ったままでいてはいけない、感情をコントロールしなさい、と言われます。私たちが神様のみことばに従って生きようとするとき、周りの人が私たちを見て「あの人が変えられている。」と励まされ、神様を求めるようになります。神のために生きる人生は決して空しくありません。(鈴木千史)
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2022.12.11 週報.pdf
「箴言24:16 正しい人は七度倒れても、また起き上がり、悪しき者はわざわいでつまずくからだ。」
人の言葉が自分を支えている
先週は、サッカーのワールドカップ決勝トーナメントが行われました。日本は、初戦でクロアチアに敗れ、史上初のベスト8とはなりませんでした。
試合後、選手たちはフィールド上で泣き崩れていました。そこへ監督がやって来て、選手たちを集めて話しました。「ベスト16の壁は破れなくて、ベスト8という新しい景色を見ることはできなかった、と言われるかもしれない。しかし、ドイツやスペインなど優勝経験がある国に勝てるという、新しい景色を選手たちは見せてくれた。何よりも日本が世界で戦い、世界に勝っていけるという新時代を見せてくれた」と選手たちに話したそうです。「新しい景色を見に行く」という言葉は、今回の日本代表の合言葉だったそうです。監督は、まだ見たことのない、経験したことのない世界の景色を、選手たちと一緒に見に行こうと伝え、その言葉が苦しい境地に立たされる選手たちに希望を与え、心の支えとなっていたのだと思います。
支えがなくなると立ち上がれなくなる
私たちは普段、関わりを持っている家族や友達、職場の人たちなど、周りの人たちが声をかけてくれたり、励ましてくれたり、楽しく話をするだけでも、「さあ、また前を向いて行こう」と、やる気が湧いてきたりすることがあると思います。しかし、人との関わりが薄れていき、孤独を感じたり、仕事や人間関係がうまくいかず、絶望感を感じると、生きる気力を失い、人と関わりを持つことをやめてしまい、自分自身を責める方向に向かっていきます。それが極限まで追い詰められると最終的には「もう死にたい」というところまで行ってしまいます。
以前の私は、自分の出来なさ加減に嫌気がさし、「自分は出来ないダメな人間だ。こんなダメな自分は価値がない。」と毎日のように自分自身を責めていました。そのようにして自分で自分を傷つけていました。救われてからは、それはみこころではない、「こんな情けない私はかわいそうだ」と自分で自分をあわれむことは罪であって、主はありのままのこの私を愛しておられるのだと知って解放されました。私たちは、追い詰められて孤独を感じ、希望を失う時、人に慰めを求めたり楽しいことに心を向けたりしても、そこに解決はありません。
主が支えてくださるので、立ち上がることができる
私たちは、主が支えてくださるので、困難な状況の中で倒れてしまいそうになっても、また再び立ち上がることが出来ます。
ダビデは、サウルに追われ、殺されるかもしれないという恐怖の中で主に全き信頼を寄せていたので、主が彼の取る行動のすべてを支えてくださった結果、彼は守られました。
私は、もしみことばによって支えられていなかったら、今喜びを持って仕えていくことなど決して出来ていないと思います。もしみことばによって支えられていなかったら、「家族のために仕えて行こう、喜んで犠牲を払って行こう」というような思いを持つことは一切なかったと思います。主がみことばによって支えてくださるので、自分を責める言葉や人から言われた言葉に腹を立てたり、思い煩っていたとしても、「安心して行きなさい。(マルコ5:34)」とみことばによって語られ、再び立ち上がって、「愛して行こう」という思いにさせられます。主のみことばに支えられているとつくづく思わされます。人のことを考えず、自分のことばかり考えていて、素直に言うことを聞こうとしない頑なな者であるにもかかわらず、それでも、罪を認めて悔い改める時、主が赦してくださるので、また立ち上がることができます。主は、みことばに従おうとする人を支えてくださいます。私たちが、「主が私を支えてくださるのだ」と確信を持って、イエス・キリストだけに希望を置く時、過去のことでずっと悔やんでいたり、将来のことで心配したり、思い煩ったりすることから守られて、今するべき仕事や勉強、家事育児に愛を持って取り組むことができるように変えられます。
主のあわれみにすがって生きる
主は、すぐに弱り果ててしまい、思い煩ったり、怒ったりしてしまう私たちをあわれんでくださいます。主のあわれみにすがって生きてまいりましょう。自分の力で何とかしようと思って生きている人は、主に助けを求めることができません。自分の無力さを本当に自覚して、主の前に降参する時にはじめて、へりくだって主の助けを求め、主により頼むことができます。そして、「主は、私を耐えられない試練にあわせることはなさらない。必ず脱出の道が備えられているのだ。」という信仰に立つことができ、主の支えを確信して前進することができます。進んで主に助けを求めてまいりましょう。主に信頼する人は、何度倒れても、また立ち上がることができます。(岩下 栄作)
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2022.12.04 週報.pdf
「ヨハネ5:17 イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。』」
庭のさざんか
先日、休みの日の昼間のこと、いいお天気だなあと思ってふと窓から外を見ると、庭のすみにあるさざんかの木が、いつの間にかたくさんのあざやかなピンクの花を咲かせていました。そして気づいたのですが、木の丈もいつの間にか高くなっていました。以前はとなりの家の窓の高さより確かに低かったはずなのですが、久しぶりに見ると、窓の高さを越していました。
このさざんかの木は、自分たちが住む前からあったものを、取り除かないで残してもらったものです。あれから16年経ちましたが、木が成長していると感じたのははじめてでした。毎年、見た目にはわからないくらい、少しずつ少しずつ丈が伸びていったのでしょう。いつかはとなりの家の窓を隠すくらいに成長するのかもしれません。普段注意してみることもなく、世話などもしていませんが、神様が知らない間に成長させてくださっていました。
神様は休むことなく働いておられる
創造主であられる神様は、世にあるすべてのものを造られました。空も海も山も、植物も、月や星や太陽も、すべての生きものも、そして人も神様によって造られました。そして造られただけでなく、神様は今に至るまで働いておられます。雨が降るのは、海などから水蒸気が空に上って雲となり、小さい水のつぶが互いにくっついて雨粒となって落ちてくるのですが、そのような気象のしくみを造り、支配しておられるは神様です。太陽の光を休みなく地上に降り注いでくださり、植物や動物を生かし成長させてくださるのも神様の働きです。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)」。
そして、神様は人の心に働いてくださいます。神様は人を愛して造ってくださいましたので、一人一人に関心を持っておられます。そして、すべての人が神を信じて救われ、祝福された人生を歩むことを願われ、そのために働いてくださっています。私たちが救われたのも、神様が周りの人を使ってくださり、あるいはできごとを起こしてくださって、福音を聞くように導いてくださったからです。そして、神を信じ信頼する者を、神様は休むことなく守っておられます。「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。(詩篇121:4)」。人の心を探り、思いを知ってくださる神様は、みことばによって私たちを励まし、また罪を指摘してくださいます。ですから私たちはどんなできごとも感謝して受け取ることができます。「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。(詩篇139:3)」。
自分のことばかり考えている
ところが、私たちは自己中心であり、日常生活の中で何か問題が起こって来ると、落胆したり心配し出してしまいます。たとえば、人に何か言われると気にして、自分は受け入れられていないのではないかと悩んだり、あの人にそんなことを言われたくないなどと、裁く思いで心の中がいっぱいになってしまったりするような者です。自分の気持ちのことばかり考えてしまうのです。しかし神様が働いておられるのですから、人に言われたことばも、神様がその人を通して指摘してくださったのだ、と受け取らなければなりません。神様は人を使って、私たちが気づいていない罪を指摘してくださることがあります。
ダビデはアブシャロムから逃げている時に、サウルの一族の者、シムイに出会いました。その時シムイはダビデに石を投げて盛んに呪いました。当然ダビデの家来はシムイを討ち取ろうとしましたが、ダビデは、「彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。(Ⅱサムエル16:10)」と言って止めました。ダビデはそこに神の働きがあることを見ていました。彼の目線はいつも自分自身にではなく、神様に向けられていました。
神が働いておられる
自分のことばかり考えていると、何か起きた時に神様の働きが見えません。私はやることが遅いことや、言われたことを素早く理解できないことが罪であるということに、人から言われてはじめて気づきました。それまで、それは自分の性質や特徴であるぐらいにしか考えていませんでした。普段の生活では支障のないこともありますが、仕事や奉仕においては、それでは済まないことがあります。しばらく悩んでしまいましたが、神様に申し上げて祈っていく中で、それは主が私を愛してくださり、私を整えるために人を使って指摘してくださったのだと悟り、悔い改めました。悩むことをやめて、いつも主に助けていただいています。
神様はいつも働いておられます。「神様は今、私に何をしてくださっておられるのだろうか。」と、いつも神様のことばかりを考える者となりたいと思います。「私はいつも 主を前にしています。(詩篇16:8)」。(鈴木千史)
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2022.11.27 週報.pdf
「箴言13:4 怠け者の心は欲を起こしても何も得ない。勤勉な者の心は豊かに満たされる。」
働く人の心が売上に影響する
みなさんは、飲食店に行って「またこの店に来たい」と感じる時、それは店のどんなところを見てそう感じているのでしょうか。「料理が美味しいから」というのが、まず一番にあると思います。他にも「店員さんの接客態度が良い。」これも多いと思います。ですが仮に、料理が美味しい、店員の接客態度も良いのに、トイレに入ってみたら、何となく臭かったり、手洗いのゴミ箱からティッシュペーパーがあふれて散らかっているような店だとしたら、もう二度と来たいとは思わないと思います。トイレメーカー「TOTO」が調査したアンケートで、「あなたは、トイレがきれいだとどのように感じますか」という質問で、「トイレがきれいだとお店の印象が良くなる」と答えた人が全体の8割を占めたそうです。トイレがきれいかどうかで店のイメージが決まり、当然店の売上にも大きく影響してきます。「トイレは店の鏡だ」とも言われたりします。トイレがきれいであれば、清潔感を感じますし、掃除が行き届いている店だとわかります。反対に、清掃を怠っていれば、少しずつ売上に響いてきます。繁盛している店、活気がある店には、ちゃんとそれなりの理由がありますし、そこで働く人の心の思いが、その店の売上を左右しているのだと思います。
罪ゆえに働くことは苦しみとなった
労働は、神が私たち人間に与えて下さった良きものです。「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。(創世記2:15) 」とありますように、エデンの園では、人は神から与えられた仕事を、純粋な喜びを持って働いていました。しかし、人が犯した罪ゆえに働くことは苦しみとなりました。創世記には、「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。(創世記3:17)」と書かれていますが、労働が苦しみとなったのは、人が罪を犯し、神から離れた結果であると聖書は教えています。「働きたくない」「楽をしたい」「苦しみから逃れたい」「めんどくさい」と思う怠惰な心は、私たちの生まれながらの罪の性質のゆえです。詩篇の作者は、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)」と、人生は一瞬であり、ほとんどが労苦やわざわいであると、人間のはかなさを表現しています。初めは喜びと希望を持って始めた仕事も、成果が出ないことや、人間関係が上手くいかないことなど困難にぶつかると、そのやる気が簡単に失われてしまいます。すると、「なぜ人生はこんなに苦しいことばかりなのか」と考えるようになります。働かなければ生活していけないので、仕方なく大変な中で自分を奮い立たせて頑張るか、苦しみを忘れさせてくれるような楽しいことに心を向けたりしてやる気を保つか、もしくは、プレッシャーに押しつぶされてすべてを放棄して引きこもってしまうか、ということになって行きます。
神を離れると怠けてしまう者だと自覚する
私たちは、自分自身が弱くはかない存在で、神の助けがなければ何もできない者だと悟らなくてはなりません。
目の前の仕事や勉強に集中したいのに集中できずに、他のことばかり考えてすぐに怠けてしまう自分、やりたいと思って始めたことも、その気がなくなると続かなくなってしまうような弱さを抱えている自分、人から注意されるとすぐにふてくされてやる気をなくしてしまう自分、それがありのままの自分だと認めて、それらの思いが湧いて来る時にそれを無視しないで、感じたままを主に祈らなくてはなりません。私たちは、自分の弱さを認めてはじめて、主から今必要なみことばが語られて、御声を聞くことができます。イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」と言われました。「私は、神の支配から離れてしまえば、すぐに怠けてしまい、何もしたくなくなってしまう者だ」と、へりくだって自分の弱さを自覚する時、主により頼み、御声を聞いて行動できるようになります。
御声を聞いて、喜んで働くことができる
神の御声を聞いて、みことばにとどまって生きるので、私たちは主によって豊かな実が結ばれます。つまり、仕事が成功し、勉強がはかどって成果が出て、良い人間関係が築かれて行きます。仕事や勉強の多くは、「こんなことやっていて意味があるのか」と思うようなことや、「めんどくさい」と感じることだったりします。しかし、それを避けていては前進はありません。ですから私たちは、みことばを聞いて生きる必要があります。エデンの園では、人は神の御声を聞いて働いていたので、喜んで働き、日々の糧を得ていました。私たちも、御声を聞いて生きるとき、喜んで働くことができます。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。(ヤコブ4:6)」と約束されています。進んでへりくだって、御声を聞いてまいりましょう。勤勉な人の心は、いつも豊かに満たされます。(岩下 栄作)
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2022.11.20 週報.pdf
「イザヤ53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
紅葉
先日リトリートハウスのご奉仕の行き帰りに、美しく紅葉したもみじをところどころで見ることができました。ほかの木の葉とはどこか違う、深いのに明るいもみじ独特の赤色です。車中からでしたので、じっくりと見ることはできませんでしたが、通り過ぎる瞬間に、「あっ、きれい」と心おどりました。そしてもみじに負けないくらい鮮やかだったのが、いちょうの黄色です。遠くからでも、「あそこにいちょうがある!」とすぐにわかる存在感でした。薄暗くなった夕方でさえ、まるであかりが灯っているかのように見える鮮やかさで、心まで明るくなりました。
今は行楽シーズンで、もみじ狩りに出かけて行く方もおられるでしょう。自然の中へ出かけて行き、春は桜、秋はもみじなどと季節ごとの風景をながめることを多くの人が好むのは、心身のいやしを求めているからではないでしょうか。
人は癒やしを求めている
日常生活の中で、多くの人は毎日仕事や勉強に励み、家事や育児に忙しくしています。そんな中で、知らず知らずのうちに、心身ともに疲れが積み重なっていることがあります。過去に、私の周りでも、元気に働いていた人がある日突然倒れてしまった、という話を少なからず聞くことがありました。疲れは体の疲れだけではなく、多くは心の煩いをともなうものです。経済の不安、人間関係の問題、病などによる思い煩いです。体の疲れは、休養をしっかりとれば癒やされますが、心の疲れは休養しても癒やされるものではありません。気分転換に旅行に出かけるとか、仕事や趣味に没頭するとか、読書や映画鑑賞やゲームなどで気持ちを紛らすことはできても、すべては一時的な慰めであり、心の煩いはなにも解決していません。日常に戻ってきたときには、また同じように煩う生活がはじまることになります。
打ち傷のゆえに癒やされた
人が思い煩うのは、すべての人が生まれながらに持つ罪のゆえです。まず造り主をみとめないことが罪です。聖書には、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者12:13)」とあります。思い煩うのは造り主であられる神様のご命令に従っていないからです。聖書によれば、神様のご命令は「愛しなさい」に要約されます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(マルコ12:30)」、「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(同12:31)」と書いてある通りです。神に従って愛することがなければ、思い煩うのは当然であるということです。愛することがなければ、職場や家族の人間関係はうまくいくはずがありません。そのような人間関係の煩いがある中では、仕事に対する集中力や意欲も失われて経済的な問題が起こってきます。また煩う中で健康が損なわれていきます。
イエス・キリストは、罪ゆえに思い煩い苦しむ、愚かな私たち人間の罪の身代わりとして、十字架にかかってくださり、いのちをささげてくださいました。罪のないお方が身代わりとなってくださったので、私たちの罪は一つ残らず赦されました。それゆえ、死の恐れからも解放されました。罪ある者は神の永遠のさばきを受けなければなりません。しかしイエス・キリストを信じる者は罪赦されましたので、永遠のいのちをいただくことができます。ですから、私たちがイエス・キリストを信じて罪を悔い改め、神に従って生きようとするならば、人生のあらゆる思い煩いから解放されて生きることができます。それは決してなくなることのない本当の癒やしです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」。
やり直すことができる
私は最近ご奉仕の中で、罪を指摘されたことがありました。それは、失敗したときに「自分は悪くない」と言ってしまう罪です。何か注意されてもすぐに認めないで、なにかしら言い訳をしていました。今回強く指摘されて、やっと罪に面と向かうことができました。最初は強く言われたことがショックで、神様にありのままの感情を申し上げて祈りました。すると祈っている中で、それほど強く言われなければ悟らない自分の愚かさを神様が明らかにしてくださり、神様があわれみをもって起こしてくださったできごとだとわかり、感謝して悔い改めました。
クリスチャンになってからずっと、忠実でありたいと願い、少しはできていると思っていた高ぶりを神様がくだいてくださいました。愛することなど少しもできていませんでした。罪に対する悲しみの中で、「打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」、とみことばが迫ってきました。イエス様はこんなに罪深い私のために十字架の上で苦しんでくださったのだと感謝がわきあがってきました。キリストを信じる者は何度でもやり直すことができる、と励まされました。本当の癒やしはイエス・キリストを信じる人生にあります。どんなに罪深くみじめな者も決して見捨てることなく、寄り添ってくださる神様に感謝します。(鈴木千史)
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2022.11.13 週報.pdf
「ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
世の風習に流されている
今年も残すところあと2ヶ月足らずとなりました。年末年始を迎えると、日本では昔からの風習で様々な行事を行います。クリスマスが近づくと街はツリーの電飾が至るところで見られ、店ではクリスマスの音楽が流れ、クリスマスムード一色になります。クリスマスの日にはみんなで集まってパーティーをしたりケーキを食べたりします。そして大晦日になると、今度は寺に行き、除夜の鐘を「ゴーン」と鳴らし、新年を迎えると、こぞって神社に初詣に行き、自分の願い事をしておみくじを引いたりします。良さそうなものであれば何でも取り入れようとする習慣が私たちの日常にもあったりします。「なぜやるのかはよく分からないけど、みんなやってるから私もやっておいた方が良いかもしれない」と感じて、自然と世の習慣、風習に流されていることがあったりします。
周りと違うことを恐れる思い
人は、自分だけが周囲の人たちと違うことについて恐れを感じたりします。今、性のあり方をめぐって、ニュースやネット上でLGBTの問題が取り上げられています。「性は多様であって、周囲の人たちはその人の人権を尊重して受け入れてあげなければならない。みんなでそのような社会にして行こう」というような動きが至るところで見られます。また、男女の恋愛においても、結婚をする前に同棲をしたり、肉体関係を持ってしまうことについても、「みんなやってることだから別にいいんじゃないの?」とか、「今は昔と違ってそういう時代なんだよ」と片付けてしまい、それが当たり前であるかのように考えられていたりします。人は、真の神を知らないで生きていると、世の考えや思想に流され、簡単に世の影響を受けて調子を合わせてしまいます。
聖霊によって心を新たにしていただく
私たちは救われて神の子どもとされました。私たちの内側は神の国であり、聖霊がうちに住んでおられます。私たちは依然としてこの世に生きていますが、その中で神の国の価値観で生きることによって、正しく祝福された歩みをしていくことができます。
みことばは、「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」と私たちに勧めますが、それは、心の内にある一切の罪を捨てて、聖霊によって心を新しくしていただくということです。ダビデは自分の内にある罪の誘惑、欲望によってバテ・シェバと姦淫の罪を犯しました。彼はその後、砕かれて自分の弱さを思い知らされました。そして、「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。(詩篇51:10)」と告白しています。私たちが、主の前に砕かれて、主にすがり求める時、聖霊は私たちのうちに住んでくださり、助けてくださいます。イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」と言われましたが、私たちは神様を離れては正しいことを行うことができません。自分の罪を自分ではどうすることもできません。主の赦しが、助けがなければ、生きて行けません。今、「主よ、助けてください。私を新しくしてください。」と祈り求めなくてはなりません。
イエス様は、「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。(マタイ5:46)」と言われました。世の価値観で生きている人は、自分に良くしてくれる人、好意を持って接してくれる人には良くしてあげることができます。反対に、良くしてくれない人に対しては同じ態度を持って返してしまいます。しかし神の国の価値観に生きる人は、良くしてくれない人、愛してくれない人に対して愛を持って接することができるようになります。それは、聖霊が私たちの内に働くからです。聖霊が働いて、みこころが何なのかということが分かりますし、みこころを行いたいという信仰が与えられ、行動を起こさせてくださいます。聖霊が私たちのうちに住まわれる時、私たちは神様のことを考えるようになります。そして世間や周りの人の言葉に影響されず、みことばに影響を受けて生きられるようになります。
信仰の姿勢を明確にして生きよう
私たちは、自分自身の信仰の姿勢を明確に表してまいりましょう。そうでないと、自分の子どもや周りの人が間違えた道に進んでいると気がついた時に、ハッキリと言えなくなってしまいます。ダビデは、自分自身が犯した罪ゆえに、自分の家庭内で問題が起こった時に、きぜんとした態度を持って対処することができませんでした。信仰の姿勢をハッキリと示すことが、周りの人に対しての証しとなります。「私は、日曜日は何があっても礼拝に行く。」という姿勢で生きているなら、それが周りの人に対して証しとなります。イエス様は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19:29)」と言われました。私たちは、主にまったく信頼をして、神様を第一にして裏切られることは決してありません。そして信じるその先に、主の素晴らしいみわざを見ることが出来ると信じます。(岩下 栄作)
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2022.11.06 週報.pdf
「マルコ4:8-9 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。』そしてイエスは言われた。『聞く耳のある者は聞きなさい。』」
種(たね)はいのちを持っている
11月に入り秋も深まって参りましたが、秋は実りの季節です。柿や栗やくるみなど、木の実の収穫の時期です。くるみと言えば、以前何かの読み物に、こんなクイズが載っていました。「くるみの殻を力を入れずに割る方法は何か?」。答えはくるみを地面に埋めることです。あのかたいくるみも、土に埋めるとやがて内側から殻をやぶって芽が出てきます。くるみも種ですから芽吹くのは当然なのですが、動画で確かめてみると、芽が殻を破る力強さに感動し、創造主であられる神様を賛美しました。
種はいのちを持っています。多くの人は小学校で、朝顔の種をまいて育てた経験があると思います。朝顔の種は5ミリくらいの小さな粒です。知識がなければ、この乾いた黒い小さな粒からあの美しいピンクや青色の花が咲くとは想像できないと思います。しかし、土に埋めて水をあげて世話をすれば、やがて芽が出て葉が開き、つるがのびて、つぼみがつき、ある日美しい花を咲かせます。まるで手品のようです。そしてやがて花は枯れ、たくさんの新しい種を結びます。種がいのちを持っているからです。
みことばは種
イエス様は、聖書のみことばを「種」にたとえました。まるで種のように、みことばはいのちを持っています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。(へブル4:12)」。聖書は見た目には普通の本と変わらないように見えますが、その中に書いてあることばは、生きて働く神のことばです。
またイエス様は人の心を、種がまかれる「地」にたとえられました。みことばは生きて働くことばですから、人の心に働くことができます。しかし植物の種がまかれるときに、よくたがやされた土に、適切な深さに埋められなければ芽を出すことができないように、みことばも、良い心で受け取ることがなければ働くことはできません。
聞き方に注意しなさい
イエス様は、「聞き方に注意しなさい。(ルカ8:18)」と言われました。みことばを聞くすべての人が実を結ぶわけではない、と言われたのです。種は、まかれた地が「良い地」であれば芽を出して育ち、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができるが、道端(みちばた)や、岩地や、茨(いばら)の中に落ちた種は実を結ぶことはできない、とイエス様は言われました。つまり、どのような心でみことばを聞くかで、実を結ぶかどうかが決まると言われたのです。「道端」の心はみことばを理解しようとしない、かたくなな心のことです。「岩地」の心はみことばを聞いて喜んでも、困難が起こるとすぐにあきらめてしまう心です。「茨」の心はこの世の思い煩いや欲望に惑わされる心です。
では「良い地」の心はどうでしょうか。イエス様は、「良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。(ルカ8:15)」と教えられました。私たちは毎週の礼拝でみことばを聞き、普段も聖書を読みますが、みことばをただ聞いたり読んだりするだけでは実を結ぶことはない、みことばを「良い心」で聞くことが重要であると教えられたのです。
良い心でみことばを聞く
では、私たちはイエス様が言われた4つの心のうち、どの心でみことばを聞いているでしょうか。
私はみことばのご奉仕をさせていただく中で、みことばを深く理解できていないことを痛感させられています。それにはもちろん、みことばの意味(神学的な釈義)を正しく知るということも含まれますが、それよりも自分自身がみことばを聞いて生きているかを問われるのだ、と教えられています。
「みことばを聞く」とはイエス様が教えられたように、毎日の生活の中で「良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐」することです。ですからみことばを聞いて生きるために、神様と絶えず会話することを、真剣にしようと思いました。バスに乗っている時も、道を歩いているときも、人と話しているときも、心の中で「神様」と呼びかけてから思ったことを言う(考える)ようにすると、自然にみことばを言うことになります。たとえば「神様、あの課題がなかなかできません、どうしましょうか。」と言っていると、「だけどあなたに不可能なことは何もありませんね。」と自分でみことばを言うことになっていきます。
そうして神様との会話を積み重ねていると、自分の勝手な考えが少しずつ変えられて、神様と同じ考えになっていくことが楽しくなります。心は放っておけば、まるで雑草が生えるように、不平不満などの悪い考えに支配されてしまいますから、みことばを聞いて生活することができるのは、本当に大きな恵みです。
みことばの種がまかれたら芽が出て育って実を結ぶ、そんな良い地の心でみことばを聞いて参りましょう。(鈴木千史)
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2022.10.30 週報.pdf
「マルコ10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」
満足してもらう
「岩下さん、とても満足したよ。ぜひまたここを利用させてもらいたい。」私は以前、会員制リゾートホテルのセールスの仕事をしていました。ホテルに泊まりに来たお客さんに会員になってもらうためには、ホテルを気に入ってもらい、満足してもらわなくてはなりません。限られた時間の中で、おもてなしをしなくてはなりません。「食事や部屋は満足してもらえただろうか」「子供や孫など家族みんなで利用したいのか、それとも温泉やランチなど日帰りでの利用が多い人なのか」など、お客さんのニーズをよく理解して、まめにコンタクトを取って様子を伺っていなければなりません。しかし実際心の中は、「今日、売上が欲しい」という毎日が切羽詰まった状況でした。お客さんは、ほとんどが経営者ですから、「契約が欲しい」という思いばかりが心にあるとそれは表に出さなくても、相手もそれを敏感に感じます。契約が取れた時にいつも感じていたことは、ただ純粋にお客さんに満足してもらい、ホテルの魅力を知ってもらい、またここに来たいと言ってもらえるようにと、心を尽くして仕えていくその姿勢がお客さんに伝わって、その結果として契約という道が開かれて行くということでした。
主は私たちに仕えてくださった
主は、私たちが罪の中から救われて、神とともに歩み、幸せな人生、祝福された人生を送ってほしいと願っておられます。イエス・キリストは、その父なる神のみこころが成し遂げられるために、つまり、私たちを罪から救い出し、永遠のいのちを与えるためにこの地上に来てくださり、私たちに仕えてくださいました。私たちが救われたのは、主が私たちに仕えてくださったからに他なりません。
私は、救われてからもなお、神様に背き反抗して生きていました。みことばを聞いても受け取らないようにして心を閉ざしていましたが、砕かれて主に心を開いた時、私の心に神様の愛がどっと流れ込んで来て、その深い御愛で満たされたことを覚えています。それと同時に、「主はこんな頑なな私のことを見捨てることなくずっと愛しておられ、私のために必要なことを起こしてくださって仕えておられたのだ」ということが、悔い改めてはじめてわかりました。主は今もなお、私たちを祝福したいと願われて、休むことなくずっと働いておられ、仕えてくださっています。
イエス様は苦しみの中でも仕えてくださった
イエス様は、十字架の苦しみの中にあっても、ご自分を十字架につけた祭司長や長老、律法学者たち、またそれに賛同した大勢の群衆たち、そして、すべての人の救いのために祈っておられました。イエス様の心は、父のみこころが成就するというただその一点に向けられていました。
私たちもイエス様が仕えてくださったように仕えていきたいと思います。心にゆとりがある時、楽しいと感じる時には出来ることも、大変な状況に置かれると、「自分だけがこんな苦しい目に遭っている」「家族のために、会社のために、こんなにやってあげているのに、全然わかってくれない」と感じたりします。しかし私たちは、仕える気になったからするのではなく、その苦しい大変な状況の中にあって、それでも主が言われるので、主のみこころが成されるようにと、素直に喜んで仕えて行くことが、主が望んでおられることであると信じます。
主は、喜びを失い、落ち込んで弱り果てている私たちのためにとりなして祈っていてくださいますし、みことばによって語られ、私たちの身に起こる出来事を通してみこころを示してくださいます。そのようにして主は、今も変わることなく仕えてくださっておられます。主は、あなたを通して家庭や職場を祝福したいと願っておられ、そのために今の場所や状況に置いてくださっておられます。ですから、イエス様を模範として、喜んで主のために、人のために仕えてまいりましょう。主は隠れた所であなたがしている善行を見ておられ、報いてくださいます。
神は、喜んで仕える人を豊かに祝福してくださる
私は、主の働きに召されて仕えて行く中で、「こんな私がここで仕えていていいのだろうか」と感じて、置かれている状況に不満を言ったり、いやがっていた間はずっと平安がありませんでした。「主が私をこの場所に遣わしてくださったので、私はここで喜んで仕えていきます。自分の時間、与えられた能力、持っているものすべてをあなたに献げます。あなたが使いたいようにこのしもベを使ってください。」と決意した瞬間に、それまで抱えていた不安や思い煩いは一切消え去りました。それから、家族のために、兄弟姉妹のために、セルのメンバーのために祈るように導かれて、さらに愛する思い、してあげるべきことが示されて仕えて行く思いが与えられています。主は、喜んでみこころを行い、仕えて行く私たちを必ず祝福してくださいます。主は今日もあなたが祝福されるために心を砕いておられ、仕えてくださっています。(岩下 栄作)
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2022.10.23 週報.pdf
「詩篇141:2 私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように。」
金木犀(きんもくせい)の香り
朝、二階から降りて来たら、玄関がふんわりといいにおいがしました。金木犀でした。家には金木犀の木はありませんが、玄関の網戸の部分を少し開けておいたので、向かいの家の庭木の香りが入って来たようです。それから家を出て、バス停への道をいつものように歩いていると、いつの間に咲いたのか、あちこちの庭から、金木犀の香りがあたり一面にただよっていました。なんとも心地よく、明るい気持ちになりました。
知らず知らずのうちに、私たちは香りを楽しんでいます。花の香りで季節を感じたり、木で作られた建物の中で木の香りを吸い込んだり、コーヒーを入れる時の香りでリラックスしたり、おいしそうなカレーのにおいにわくわくしたりします。よい香りは人の心を和やかにし、また活気づけます。
香(こう)は祈りの象徴
創世記6章において、神様は人を滅ぼそうとして洪水を起こされましたが、正しい人ノアとその家族を箱舟で救われました。洪水の後、ノアが祭壇を築いて全焼のいけにえを献げたとき、神様は「その芳ばしい香りをかがれ(8:21)」ました。その香りは、ノアの神様への感謝と献身の祈りをあらわしていました。祈りは届き、神様は再び生き物すべてを打ち滅ぼすことはしない、と言われました。また出エジプト記において、神様は、神殿の聖所に金の香壇を作り、毎日朝と夕に香(こう)をたいて、かぐわしい香りをささげるように命じられました。香は礼拝にはかかせないもので、天に上っていく祈りの象徴でした。
祈りは届いている
ところで私たちは祈っているとき、「この祈りは神様に届いているのだろうか」と空しさを感じることはないでしょうか。神様は姿のないお方ですから、祈っているときに、ふとひとりごとを言っているように感じることがあるかもしれません。
使徒の働きには、ローマ軍の百人隊長であるコルネリウスという人が救われたできごとが記されています。彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、いつも真の神に祈りをささげていました。ある日彼が祈っていると、幻(まぼろし)の中で神の御使いを見ました。御使いは彼に呼びかけて、「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。(使徒10:4)」と語りかけました。そしてペテロを招くように告げました。ペテロが彼の家で福音を語っていると、みことばを聞いていたすべての人々に聖霊が下り、彼らはペテロから洗礼を受けることができました。神様はコルネリウスを異邦人の救いのきっかけとして用いられました。私たちが祈る時も、祈りは香のように天に上っていき、確実に神様の御前に届いています。
神様に祈りをささげよう
冒頭の詩篇の作者は一日の終わりに、彼の祈りが香のように御前に立ち上ることを願いながら祈りをささげました。私たちも神様に祈りをささげましょう。神様は私たちを愛してくださり、私たちが話しかけることをいつも心待ちにしておられます。
まず私たちを愛し造られ、救ってくださった神様をほめたたえて祈りましょう。そして、今日神様が起こしてくださったすべてのできごとを感謝して祈りましょう。問題があって悩んでいることも、願いや希望も、おくせずにそのまま祈りましょう。神様は私たちの願いをかなえたいと願っておられ、もし願いが間違っていたら祈りを変えてくださいます。ですから安心して何でもお話しすることができます。また人々の救いのために祈りましょう。私たちの祈りのかぐわしい香りを神様は喜んでくださり、私たちの心を平安で満たしてくださいます。(鈴木千史)
秋キャンプ2022感謝
昨日22日(土)に、宮川リトリートハウスで、秋キャンプが行われました。朝のオリエンテーションで「互いの重荷を負い合いなさい。(ガラテヤ6:2)」とみことばをいただき、奉仕の中で、また遊びの中で、ほかの人を助けてあげることを実践したキャンプとなりました。サウナは大好評で、大人も子どももゆったりとしたひと時を楽しんでいました。モルックは大変盛り上がりました。すばらしい一日を与えてくださった主に感謝します。
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2022.10.16 週報.pdf
「箴言25:28 自分の霊を制することができない人は、城壁のない、打ち破られた町。」
心のバランスを保つこと
最近、テレビのニュース番組などで、孤独やうつの問題について取り上げられているのを目にします。「メンタルヘルス、心の健康を保たなければならない」と叫ばれています。
以前に、私が子どもを迎えに幼稚園に行った時のことでした。先生とお母さんが今日あった出来事について話している声が聞こえてきました。恐らく子供が何か落ち込むような事があったのだと思います。そのやり取りの中でお母さんが、「うちの子はメンタルが弱いんですよね。」と言っていました。そのやり取りを聞いて私は、「人はみな『弱くてはダメだ。心を強くしなければいけない。』と思って必死になっているんだろうな」と感じました。そして私自身も、今までそうやって生きてきたのだと思わされました。私たちも日々、自分の心が折れてしまわないようにと、心のバランスを保とうと必死になっているかもしれません。
心を制することができない
私たちは、焦ってしまいそうになる時、誘惑に陥ってしまいそうになる時に、その思いをコントロールすることが出来るなら、不安や恐れ、怒りの思いに勝利して前進することが出来ます。しかし実際にはそう出来ない問題を抱えていたりします。
例えば、職場で、社内の人たちがみんな楽しそうに和気あいあいとした雰囲気の中で、自分だけが落ち込んでいたり、イライラしていたりするときに、周囲の人との温度差を感じて、その場にいることがとても居心地が悪いと感じたりすることがあると思います。また、礼拝で賛美をしたりメッセージを聞いている時、周りの人はとても恵まれているように見えるのに、自分だけが何となく悶々としていると感じる時に、「こんな自分が、ここにいて良いのかな」と、疎外感を感じたりします。すると、「あの人は楽しそうにしてていいよな。私はこんなに大変な状況なのに。」と人をねたんだり、さばく思いが湧いてきて、どんどん良くない思いに引き渡されて行きます。そして、「早くこの場から離れたい」と思い始め、心が落ち着かなくなります。「心を落ち着かせなくては。」と言い聞かせたところで、思った通りに心を落ち着かせることはできません。私たちは、自分で自分の心をコントロールしたいと思いますが、それが出来ない者です。
置かれた場所にとどまる時、主は助けてくださる
そんな時に私たちは、自分の心を良い方向にコントロールしようとすることではなくて、今置かれている場所にとどまり、主の助けをいただくことによって、心を制することができます。
南ユダ王国の王ヨシャファテは、三民族の連合軍という大軍が襲ってきた時、とても恐れました。彼はユダの全土に断食を呼びかけ、祈り求めました。そして主は、「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。(Ⅱ歴代誌20:17 第三版)」と彼に語られました。彼は、主のことばに信頼し、主への喜びと賛美の声をあげて出陣し、勝利を得ました。彼らは、恐れる状況の中にあって、逃げたり、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせたりはしませんでした。「動かずにいよ」という主のことば通りに、敵が襲って来るその中で動かずにいました。そして主がその場所にともにおられ、戦ってくださると信じました。
私たちも、疲れ果て弱り果てている時、また疎外感や周囲の人との温度差を感じる時、その場から逃げようとしたり、忘れようとしたり、気丈に振る舞ったりすることではなく、今自分が置かれている状況を嫌がらないで、そこにとどまっていなければなりません。そして、「主はこの窮地から必ず救い出してくださる」と信じて、主に感謝をしつつ、事が起きている現場におられる主と一緒に、立ち向かって行かなければなりません。その場にとどまることを決意し、「主が必ず勝利を取ってくださる」と主に信頼する時、主は働かれ、私たちを助けてくださいます。
主にあって心を制することができる
Ⅰヨハネ4:4 には、「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」とあります。私たちのうちにおられるお方は、この世にいる悪魔、サタンよりも力があるお方です。主はすでに十字架の上で、一切の罪、悪の支配に対して勝利を取って下さいました。敵はもうすでに敗北しています。ですから、私たちの心が御霊に支配される時、敵は私たちに働くことが出来なくなります。敵は、私たちのうちにおられる主を見て、逃げ去ります。私たちは、主にあって勝利を得て、心を制することができるのです。(岩下 栄作)
キャンプ感謝!
今週22日(土) は、リトリートハウスにて、デイキャンプが行われます。今回のキャンプの目玉は、テントサウナとプールです。
5~6人が入れるテントサウナの中で汗をかき、テントのすぐとなりにある大きなプールの中に入ります。また、食事は、魚介類をふんだんに使った料理、パエリアを予定しています。主とともに、恵まれてまいりましましょう。
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2022.10.09 週報.pdf
「エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」
「ちむどんどん」
先月末、朝ドラ「ちむどんどん」が最終回を迎えました。沖縄本土復帰50周年を記念して製作された、沖縄の家族の物語でした。沖縄が主な舞台でしたので、沖縄のことばがたくさん出てきて話題にもなりました。「ちむどんどん」は胸がわくわくするという意味です。ほかにも印象的に使われていたことばの一つに「まくとぅそーけー、なんくるないさ」がありました。「正しいことをしていれば、なんとかなるさ」という意味なのだそうですが、父親が娘を励ましたことばです。ドラマの中で要所要所に出てきましたが、父親が残した家訓のようにも思えました。
家族の形はそれぞれですが、私たちは自分が生まれた家族の中で、生活のいろいろなことを学びます。おはしの持ち方、服の着方、顔の洗い方などの基本的なことから、家事の仕方、友だちや近所の人とのつき合い方、生き方の指針まで、知らず知らずのうちに身につけています。それは家によって様々で、家風のようなものかもしれません。だれでも自分が生まれた家の家風を身につけながら成長していきます。
神の家族の一員となった
ところで、私たちはイエス・キリストを信じて罪赦され、神様と交わりを持つことができるようになりました。神様との交わりの方法は祈りです。「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りですが、まず神様に「天にいます私たちの父よ。(マタイ6:9)」と呼びかけます。またガラテヤ書には、「あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。(4:6)」とあります。「アバ、父よ」は「父ちゃん」という意味です。救われた者は、創造主であられる神様を、お父さん、と呼べる親しい関係が与えられました。教会の人々はみな、おひとりの神様をお父さんとする「神の家族」です。ですから兄弟姉妹と呼び合います。
神の家族は、お父さんである神様の教えに従って生活します。私たちの地上のお父さんは人間ですから、当然間違えることもありますが、天の父なる神様は正しく、その愛は完全です。神の家族の交わりの中で私たちは、神様の教えを身につけていくことができます。一緒に礼拝に参加し、聖書を読む中で、みことばによって、神様のお考えを知ることができ、それを兄弟姉妹との交わりの中で実践することができます。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22)」。神様の教えは私たちを守り、正しい方向へ導きます。ですから教会の交わりの中にいるならば、健全に成長していくことができます。
交わりの中で研がれる
救われる前、私は自己中心ゆえに交わりが苦手でした。救われてからも、みんなでわいわいと話すことが苦手で、交わりからそっと抜けて一人でいることがありました。しかし、そうして一人でいると、誰かが見つけて話しかけてくれたり、食事に誘ってくれたりしました。内心、ほうっておいてほしいと思いながらも、正しいことをしたいと思う方向へ、神様が導いてくださいました。そうして誘ってもらえたので、交わりの中へ入って行くことができました。また兄弟姉妹と一緒に奉仕をする中で、意見が合わないときも、日頃心に蓄えた「互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」のみことばによって、自己中心を納めることを教えられました。そのようにして愛することを教えられました。
聖書には「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。(箴言27:17)」とあります。神様は兄弟姉妹を用いて、神様のお考えを身につけさせてくださいます。
神の家族の交わりを大切にしよう
私たちは救われても尚、弱さを持つ者で、自己中心になりがちです。礼拝でみことばを聞いて「よし、愛そう」「仕えよう」と決意し、しばらくは続いても、だんだんと面倒になって、いつの間にか自分の感情や自分の都合を優先してしまうような者です。
しかし教会の交わりは、「しなければならない」という規則ではありません。神様は、私たちを罪の滅びから救い出してくださるために、ひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださいました。そのことによって私たちは愛されていることがわかりました。そして神様は、あなたがたも兄弟姉妹を愛しなさい、と命じておられます。神様から愛されているその愛で、私たちは愛することができますし、何よりも神様を喜ばせたいのです。兄弟姉妹を愛する方法は、交わりの中に入っていくことです。私たちはみな罪人ですから、ときには気に入らないことも起こります。そのようなときは、神様がありのままの自分を受け入れてくださったことを思い起こしましょう。兄弟姉妹のありのままを愛そうとするとき、神様は必ず助けてくださいます。
神の家族の家訓は、「互いに愛し合いなさい。」です。神の家族の交わりを大切にしましょう。そうして主の働きのために、愛することを身につけて参りましょう。(鈴木千史)
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2022.10.02 週報.pdf
「ヘブル11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
神を求め、祝福にあずかる者とされた
私たちは救われて神の子どもとされましたが、それは神の豊かな祝福にあずかる者とされた特権です。エペソ1:3には、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とありますが、私たちは天にあるすべての祝福をいただくことができるようにされました。神を求めて救われ、罪赦されて、永遠のいのちをいただきました。神の愛を知りました。神の全き平安をいただき、神の完全ないやしをいただき、神の聖さを求める生活へと導かれました。また、みこころを行う力をいただき、神から来るところの希望にあふれて前進することができるようにされました。これらの祝福は、私たちがキリストに属する者とされたがゆえ、つまり神の子どもとされたがゆえである、と聖書は説明しています。神は、私たちがご自分の子どもであるがゆえに、あふれんばかりの祝福を与えたい、幸せな人生を歩んでほしいと願っておられるのです。神の祝福は、私たちが主を求めて行った結果与えられる賜物です。
主は私たちが求めるのを待っておられる
神の祝福は、私たちが神様と何の関わりも持たないでただ過ごしているだけで、次から次へと自動的に与えられるようなものではありません。主は私たちと関わりを持ちたいと願っておられ、私たちの応答を待っておられます。神の祝福は、主を求める者、主のみこころに喜んで従おうとする者に与えられると約束されています。
ダビデが神殿の建設を息子のソロモンに託した時、ダビデは彼に対して、「わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちを持って神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。(Ⅰ歴代誌28:9)」と言われました。主は、私たちの心の動機を見ておられ、ただ一途に主を求め仕えて行くならば、主はその思いに応えてくださいます。私たちが自ら進んで愛の動機によって主に仕え、求めて来るのを待っておられます。ですから、私たちは進んで主に応答したいと思います。
主を求めなくなると信仰は後退する
しかし私たちが、主を求めることをやめてしまう時、私たちの信仰は後退して行きます。イスラエルの民は、長い歴史の中で、幾度となく、真の神から離れ、他の神々を拝む偶像礼拝をしていました。ペリシテ人の脅威がやって来る時にも彼らは、他の神により頼んでいました。預言者サムエルは、彼らに対して、「偶像を捨て、ただ一筋に主にのみ仕えよ。あなたがたが救われるためには、力ある真の神に尋ね求める以外にはない。」と教えました。サムエルのことばを聞いた彼らは、断食し、悔い改め、主を求めて祈りました。その祈りを主は聞いてくださり、勝利をとらせてくださいました。
私たちも、もし神様よりも優先するものがあるとすれば、それが偶像となり、神様からの豊かな祝福にあずかることを妨げる要因となってしまいます。神様よりもお金が優先されれば、お金が偶像となり、神様よりも仕事で成功することが自分の第一優先事項になるならば、仕事やビジネスが偶像となります。神様よりも、家族や友達、自分の趣味が優先されるならば、それらが偶像となります。すると私たちは、主を求めず、自分勝手な生活に陥ってしまいます。「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)」とありますように、私たちは、主にだけ仕えて、主にだけより頼み、主を求めてまいりましょう。
豊かな神の祝福
私は今、主の導きによって、主の御用をさせていただくために仕えていますが、献身した時、とても主に飢え渇いていました。自分の無力さを身を持って教えられ、ただ主にすがる以外に道はないという状況に置かれていました。献身の表明をした後、「この先の生活はどうなるのだろうか」という恐怖、不安に襲われましたが、そこから離れないでとどまらせていただき、その結果、悔い改めへと導かれ、心の向きが変えられました。その後、親子関係の回復、夫婦関係の回復、家庭の祝福、病のいやし、聖霊の満たしなど、多くの祝福をいただきました。「主は、私が主を求めるその心をご覧になっておられて報いて下さったのだ」と知りました。私たちは主を求め、「『神がご自分を求める者には報いてくださる方である』というみことばは事実であり、主は確かに報いて下さるのだ」ということを信仰生活の中で経験しなければなりません。主は「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」と約束しておられます。主を求め続けてまいりましょう。主は今も絶えず、私たちの思いの動機をご覧になっておられます。私たちは、「神がご自分を求める者には報いてくださる方である」と信じます。(岩下 栄作)
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2022.09.25 週報.pdf
「ヨハネ6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
人はそれぞれの道を歩いている
朝、教会へ向かって道を歩いていると、たくさんの人が同じ方向へ歩いていきますし、たくさんの人とすれ違います。地下街から階段を上がって行くときは、よく5、6人の若者たちが後ろから早足で追い抜いて行きます。そんなとき、「この男の子たちはきっとあの専門学校に行くんだろうな。どんな分野の勉強をしているのかな。」と想像したりします。また、夕方の帰り道でサラリーマン風の人々とすれ違うとき、「この人たちは、これからそれぞれの家に帰って、くつろぐのだろうな。」と思ったり、仕事帰りらしい若い女性が一人で歩いていると、「どんな仕事をしているのかな、一人暮らしかな。」などと想像したりします。
人の人生は様々です。目標を定めて一直線に進んで行く人もいれば、寄り道しながらマイペースで進んで行く人もいます。自分の仕事のキャリアを積むことに一生懸命な人もいれば、仕事よりも家庭生活の方が重要だと考えて、家族中心に生きている人もいます。また、社会で困っている人々を助けることに夢中になっている人もいます。どんな人でも、今自分が良いと思う道、今自分が歩きたい道を歩んでいるのだと思います。
だれのところに行けるでしょうか
ところで、ヨハネの福音書には、イエス様が群衆に、ご自分のことを、「わたしはいのちのパンです。(ヨハネ6:48)」と教えられた記事があります。主は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(同6:54)」と教えられました。イエス様の肉を食べる、イエス様の血を飲む、ということばは、主のからだの象徴としてパンとぶどう酒をいただく聖餐式を思い起こさせますが、その意味は、イエス様が自分の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じ、イエス様を救い主として受け入れるということです。
しかし、彼らはイエス様が話されたことを理解することができませんでした。それまでイエス様に従ってきた多くの者たちが「これはひどい話だ。(ヨハネ6:60)」と言って、イエス様から離れ去って行きました。それで、イエス様は十二弟子に、「あなたがたも離れて行きたいのですか(ヨハネ6:67)」と尋ねられました。するとペテロは、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と答えました。彼らは、イエス様が神であられ、救い主であられることを信じており、ほかに救いの道はないことを知っていました。十二弟子はイエス様のもとにとどまりました。
イエス様のほかに道はない
私は救われる前、まったく自己中心的な生き方をしていて、人を愛そうとしない者でした。人間関係の問題に苦しむ中で福音を聞き、こんな自分が神様に愛されていると知り、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われました。しかし救われても、自動的に状況が改善するということはありません。かえって、礼拝でメッセージを聞き、聖書を読んで神様のみこころを知るほど、やっぱり愛せない自分に落胆し、毎日のように心は揺れていました。しかし、救われる前と違うのは、イエス様がともにおられることでした。できないありのままの私を受け入れてくださる方がおられることが慰めであり、希望でした。
教会でみことばに触れる生活を続ける中で、少しずつ家族や教会の交わりを楽しめるようになりましたが、その中でもやっぱり愛せない、とさばく思いで心がいっぱいになって、投げ出してしまいたくなるような思いにとらわれることがありました。そんなときにいつも心にわいてきたのは「そんなことをいくら思っても、私がいる場所はイエス様のところしかない。もうほかのどこにも行きたくない。」という思いでした。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」と言われました。この世に真理は一つしかありません。永遠のいのちに至る道は、イエス様を信じて歩む道以外にはありません。そして主はどんなときにも「愛しなさい」としか言われません。なんとかして愛したいと思いました。何でもすぐにあきらめてしまう者でしたが、主に従うことは絶対に投げ出したくないと思いました。そして今も、毎日のようにみことばによって建てあげられ、悔い改めて、主からの守りと平安の中を歩み続けています。
主にとどまり続ける
イエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハネ15:4)」と言われました。主にとどまるということは、できなくて何度失敗しても、それでも主のみことばに従って生きようとすることです。主はその人を守り、導き、平安を与えてくださいます。
人の人生は様々ですが、永遠のいのちに至る真理の道は一つです。人はだれでもイエス・キリストを信じなければなりません。そしてすでに信じた私たちは、主のみことばにとどまり続けなければなりません。そうして、イエス様とともに歩む人生のすばらしさを証しする者となりたいと思います。(鈴木千史)
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2022.09.18 週報.pdf
「ヨハネ14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」
高所作業者の訓練
以前にあるテレビ番組で、高速道路の橋梁(きょうりょう)や吊り橋、ダムなどで、点検やメンテナンスなどを行う高所作業技術者の作業現場を取材していました。高所作業は、高い所では海抜300m近くにもなる現場もあるそうです。ある時、社員研修の場として使われている高所スペースで、若手の社員が、ロープが2本渡してあるその上を向こう側まで渡り切るという練習をしていました。彼はロープの上で腹ばいになりますが、足をスタート地点から離すことが出来ず、手に力が入りロープにしがみついてしまいます。そこで指導者から、力を抜いて、やじろべえのように手足をダラーんとしてみるように指示され、やってみました。その状態が一番バランスが取れるのだそうです。ベテランの指導者は、「いかにロープの上でリラックスしていられるかどうかで、現場での疲労度が変わって来る。」と話していました。
心を騒がせて、ひるんでいないだろうか
私たちも、日々襲って来る様々な困難や試練の中で、落ち着いて冷静に、前進して行けるような心の平安が欲しいと望みます。
イエス様は、ご自分が地上を去られるという時を前にして、弟子たちに、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」と言われました。私たちは今、苦しみの中にあって、ストレスを抱え、心を騒がせたり、ひるんではいないでしょうか。仕事でのプレッシャーや心配事、また人から言われた一言をずっと気にして悶々としていたり、人と自分を比べて気落ちしていたり、将来に対する心配がある時に、私たちの心は思い煩い、心を乱してしまいます。人によっては、そのストレスを抱えた状態から目をそらして、心のバランスを保とうとして楽しいことに目を向けてみたり、心が騒がしく平安がないのに、「平安でなくてはいけない」と自分に言い聞かせながら、平安があるかのように振る舞ったりすることがあるかもしれません。しかし、いくら楽しいことに心を向けても、平安であるかのように振る舞ってみても、心に思い煩いや心配、恐れの思いがあるならば、いつまでも心に平安を得ることは決してできません。
主との関係が回復される時、平安が与えられる
では、主が私たちに与えてくださる平安とはどのようなものなのでしょうか。イザヤ書には、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)」とあります。イエス様が私たちの罪の罰をすべて代わりに引き受けてくださって、罪に打ち勝ってくださったがゆえに罪から解放されて生きられるのが、主の平安です。それは、苦しみや困難な状況に置かれるその中にあって得ることができるものです。
主の平安は、私たちと神様との関係が回復されるときに与えられます。例えば、私たちは人を恐れたり、苦手だと感じる人がいたりすると、その人の前で自然に振る舞うことができなくなり、心が急に騒がしくなります。相手の腹を探ったり、何か言われるのではないかと指摘を恐れたりして関係がギクシャクしていきます。しかし相手がどんな態度を取ろうとも、それに反応して苛立ったり、恐れているならば、それは自分の側の問題ですので、悔い改めない限り平安はありません。人を恐れるなら、それは愛の姿勢、つまり、みこころではありません。与えること、愛することがみこころです。悔い改めて、自分から進んで関わりを持とうとして愛そうとする、つまり、みこころを行おうとする時、主との正しい関係が回復され、心にある一切の恐れや思い煩いが取り去られて、全き平安で心が満たされます。
聖霊に満たされることを求めよう
ですから私たちはいつでも主に祈り、聖霊に満たされることを求めてまいりましょう。祈る時、私たちの心は神様に向けられます。私たちが祈り続けて行くならば、主のみこころを知り、主がなされることを見ることが出来ますし、また罪の思いが示される時には悔い改めへと導かれます。
イエス様が天に昇られた後、弟子たちに聖霊がくだりました。そこにいた弟子のひとりであるペテロは、「私は何があってもイエス様について行きます」と決意しましたが、イエス様が捕らえられた時、自分の身を守ろうとして逃げてしまいました。そんな彼が大胆に福音を語る者と変えられたのは、聖霊に満たされたからでした。
私たちの内にも、聖霊様が住んで、生きて働いておられます。私たちがそのことを信じるなら、今自分が平安を失っているとしたら、それは健全な状態ではないとわかります。自分の罪を悔い改め、みこころを行う決意をする時、主から与えられる平安によって毎日が喜びの時となります。「良いことが続くから平安だ」とか「調子が良いからうれしい」という気分や感情に左右されるような世の平安ではなく、主からの全き平安を得て生きることができるようになります。それは、この世の中では決して経験することのできない、いつまでも限りなく続く平安です。私たちは、イエス・キリストのあがないのゆえに、主からの全き平安によって生きられる者とされたことを感謝して、主からの平安をいただいて勝利してまいりましょう。(岩下 栄作)
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2022.09.11 週報.pdf
「Ⅰコリント1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」
選ばれることはうれしい
先週、イギリスのジョンソン首相の後任を決める与党・保守党の党首選でリズ・トラス外相が選ばれました。トラス氏は、イギリス史上3人目の女性首相となります。その日、氏は新党首として党員の歓迎を受けて壇上に上がり、「党首になるのは名誉なことだ。」と感謝のことばを述べたそうです。
世の中でだれかを選ぶときは、大統領選挙であっても、ミスユニバースのコンテストであっても、クラス委員を決める投票であっても、選ぶ人は、その人のキャラクターを、ほかの誰よりも気に入ってその人を選びます。より優秀な人、より美しい人、より頭が切れる人、より人柄のよい人、また考え方や方針が自分とと一致する人などを選びます。イギリスのトラス氏は、対立候補が富裕層であるのに対し、より庶民性をPRしたそうですが、これも選んだ人が、彼女を気に入った要素の一つとなったことでしょう。この人こそがふさわしいと気に入られて選ばれるわけですから、選ばれた人はうれしく誇らしい気持ちになるでしょう。
私たちは神に選ばれている
私たちが救われたのは、神様が選んでくださったからです。イエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネ15:16)」と言われました。そう聞くと、いや私は選ばれた覚えはない、自分で信じたのだ、と思うかもしれません。私たちはそれぞれ事情があって救いに導かれました。ビジネスに失敗して困難の中で、教会へ導かれた人もいます。家族の関係に問題があって救われた人もいます。小さいころから親に連れられて教会に来ていて、救われた人もいます。無理やり誘われて教会に来て、メッセージに心刺されて救われた人もいます。しかし聖書には、「神は、世界の基(もとい)が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ1:4)」とあります。すべてのできごとは偶然ではなく、神様が私たちをあらかじめ選び、導いてくださっていたことでした。考えてみれば、日本の人口は約1億2,500万人で、クリスチャンは人口の1%未満だと言われていますから、この日本で私たちが救われたのは、とても希少なことです。神様に選ばれていることが、さらにうれしく誇らしい気持ちになります。
神は愚かで弱い者を選ばれた
では、神様はどういう基準で、私たちを選んでくださったのでしょうか。パウロは、「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」と教えました。私たちが救われる方法は、ただイエス・キリストを信じる、という単純なことです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)」。立派な知恵や知識もいらないし、強さも必要ありません。しかし知識人や強い人は、自分の知識や力に頼っているので、神様に頼ることが難しくなってしまいがちです。愚かですぐに失敗してしまう人、弱くて自分の力では生きていけない人は、神様にすがるしかないのです。私たちの多くも、愚かで弱かったので神様にすがって救われました。
イエス様が選ばれた12人の弟子たちは、無学な普通の人たちでした。職業も、漁師や罪人とされていた取税人などです。ペテロはおっちょこちょいで、よくイエス様に叱られましたし、ヤコブとヨハネの兄弟は短気で、イエス様から「雷の子(マルコ3:17)」と名づけられました。彼らは、自分たちの中で誰が一番偉いかなどと議論してしまうような、愚かな者たちでした。しかし彼らは、多くのユダヤ人の知者たちが、イエス様が救い主であると信じることができず、イエス様を迫害する中で、イエス・キリストは神であると信じ、忠実に行動をともにしました。そしてイエス様が昇天されてからは、命じられた通りに、主が送ってくださった聖霊によって、力強く福音を伝える者に変えられました。
弱さに神の栄光が現れる
神様の願いはすべての人が救われることです。神様が私たちを選んでくださったのは、私たちが神様の栄光を現すため、つまり人々が私たちを見て、あなたの信じている神様はすばらしい、と神様がほめたたえられて、人々が救われるためです。
私は説教のご奉仕で、伝えたいことをわかりやすく話すことを目指しておりますが、なかなかうまくいきません。普段の会話も拙(つたな)く、また柔和とはほど遠くすぐに感情的になってしまう者です。こんな者はふさわしくないのではと思い悩む時、いつも「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる(Ⅱコリント12:9)」と語られます。神様は、私が何かができるから選んだのではなく、愚かで弱いありのままで用いようとしてくださっておられるのだ、と励まされます。あの人はあんなに下手なのに、少しもめげないで前向きだね、と神様の栄光が現れるためです。
私たちは皆、福音を伝えるのにふさわしいとして神様が選んでくださった者です。ありのままで、喜んで神様の働きのために用いられて参りましょう。(鈴木千史)
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2022.09.04 週報.pdf
「Ⅱコリント2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」
人となりは生活の中で現れる
最近は、SNSでの文字でのやり取りが増えて、文字を打つことはあっても、書くことは以前よりも減ったという人も多いのではないでしょうか。「書は人なり」ということわざがあるように、文字には、その人の人となりが現れるとよく言われます。
先日、息子が漢字の練習をしているのを見ていた時に、以前よりもとても上手になったと感じました。なぜかと尋ねると、学校の担任の先生が、字を書くことに関してはとても厳しいとのことでした。とめ、はね、はらいがしっかりと出来ていないと、簡単にマルをくれないそうです。最初は「厳し過ぎるのではないか」と思いましたが、その先生の指導の効果もあってか、以前と比べて読みやすいきれいな字に変わってきました。私も自分のためにメモを取る時は、多少なぐり書きのような粗い字になったりしますが、人に見せるために書くときには、見た人がきちんと読めるような字を書くように心がけています。
人となりは、日常のあらゆる場面で現れて来ます。文字だけではなく、普段人と会話をする時の言葉の端々に出てきますし、仕草や、態度、表情などに現れてきます。それは自然と内側から出てくるもので、変えようと思って簡単に変わるものではありませんし、隠すことも出来ません。
主は私たちを通して、キリストの香りを放たれる
私たちは、キリストのあがないによって救われ、キリストを内に宿すものとされました。ですから、信仰生活の中で自然とキリストの香りを放つ者とされて行きます。それは、私たちがキリストの香りを放つのではなくて、主が私たちを通してキリストの香りを放たれるのです。
例えば私たちが、神様が造られたものを見る時に、主をほめたたえることになります。私は以前は、道端に咲く花を見ても目を留めることはありませんでしたが、今は珍しい見たことのない花を見かけると、足を止めて花の写真を撮って名前を調べたり、興味を持って見るようになりました。花に近づくと、ほのかに良い香りがしてきますし、その花びらが規則正しく並んでいる姿や、とても鮮やかな色を見るときに主を見上げて、「神様のなされることは本当に素晴らしい。この花がこんなにもきれいに美しく咲いていられるのは、神様が装ってくださり、太陽の光や雨、空気など、この花に必要な栄養が毎日送られて、養っていてくださっているからだ。」と主をほめたたえます。日々、私たちの身の回りに起こるあらゆる出来事の上に、主の働きがあることを知る時、私たちの心は主への感謝であふれます。私たちが、主に感謝を献げて祈るとき、主は私たちを通してキリストの香りを放ってくださいます。
自分自身を主に献げる時、キリストの香りが放たれる
そして私たちは、主が私たちを通してキリストの香りを放たれるのは、自分自身を主に献げる時であると知らなければなりません。ノアは主の前に全き人でありました。主が人の悪のゆえにすべての生き物を洪水によって滅ぼされましたが、そこから救われたノアが箱舟から出てきて一番最初にしたことは、主の前に祭壇を築き、全焼のいけにえを献げたことでした。主がその芳ばしい香りをかがれ、主は「わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。(創世記8:21)」と約束されました。パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)」と勧めていますが、私たちもまず、ノアが神様を礼拝したように、自分自身を主に献げて生きなければなりません。それは、神様の前に自分の内にある一切の罪や汚れをきよめていただくことです。罪を抱えたままでは、主は私たちを受け入れることは出来ません。主の赦しを受け取る時、私たちは御前に出られるようになり、神に受け入れられます。その上で、私たちの持てるもの、自分の時間や、仕事、家族、経済、健康な身体を主の働きのために献げて、用いていただくことが出来るようになります。
いつでもどこでも神を礼拝する生活
ですから私たちは、いつでもどこでも神様を礼拝する生活をして行きたいと思います。その中で、主が私たちを通してキリストの芳しい香りを放ってくださると信じます。
私はコロナに感染して発熱、のどの痛みがあってもがき苦しむ中でみことばにとても飢え渇きました。詩篇のダビデの祈りの箇所を読んだときに、彼の窮地に追いやられてもなおも主に信頼し続ける姿勢に励まされました。それと同時に、私は病になったことで、「いつまでこの状況が続くのか」と、不平不満を言っていたことを悔い改めて祈りました。そしていやしを求めて祈り、主がいやしてくださいました。私はこの出来事を通して、私がどこにいても主はともにおられ、働いておられるということを改めて教えられました。主は、私たちを通してご自身の栄光を現したいと願っておられます。私たちはすすんで自分自身を主に献げ、キリストの香りを放つ者として用いられたいと思います。(岩下 栄作)
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2022.08.28 週報.pdf
「ルカ12:20-21 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
バベットの晩餐会
「バベットの晩餐会」は、1987年製作のデンマーク映画です。デンマークの清貧な寒村で、神に仕える初老の二人の姉妹のところに、ある嵐の日、フランスからバベットという女性が突然やって来ます。彼女は戦禍で夫と子どもを亡くし、自身も命を狙われてこの国へ亡命してきたのでした。老姉妹は牧師であった父の遺志を継ぎ、生涯を神の働きのために捧げ、村人に毎日食事を届けていました。それをバベットが担うようになると、食事がおいしくなっていくのが、村人たちの表情からわかりました。夕暮れに、彼女が野原で香草(ハーブ)を摘む場面が印象的でした。
そんなある日、バベットは、パリの友人が彼女のために買っていた宝くじに当たったことを知ります。老姉妹は、そのお金で彼女がパリに帰ってしまうだろうと思いました。しかし彼女は、牧師の生誕100年のお祝いの食事を自分に作らせて欲しい、と頼み込みます。当日の食事は、贅(ぜい)を尽くしたフランス料理でした。実は、彼女はかつてパリの有名な料理店の料理長だったのです。信者たちは料理については(信仰上)何も言わないのですが、飛び入りで参加した、昔、老姉妹の一人に思いを寄せていた一人の将軍のことばによって、料理の価値が明かされます。この食事会は、元は村の信者たちの隣人愛を取り戻すために企画されたものだったのですが、料理の美味しさによってみんなの心は和らぎ、わだかまりは溶けていきました。バベットは宝くじで当たった一万フランを、すべてこの食事会に費やしたのでした。「神に対して富む」というみことばを思い巡らしていたら、何十年以上も前に観たこの映画を思い出しました。
神に対して富まない者
冒頭の聖書箇所は、貪欲(どんよく)を戒めるためにイエス様がされたたとえ話です。ある金持ちの畑が豊作でした。彼は穀物や財産をしまっておくために、今よりもっと大きい倉を建て、そして「自分のたましい(ルカ12:19)」に「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。(同)」と言おうとしました。しかし、神は「愚か者、おまえのたましいは、今夜お前から取り去られる。」と言われました。この金持ちは、自分のいのち(たましい)は自分のものだと思っていました。つまり創造主であられる神を認めていませんでした。収穫は、神が恵みの雨を降らせてくださるがゆえのものであり、また小作人たちの忠実な労働があってのものです。しかし彼は神様への感謝もなく、小作人たちと分け与える気持ちもなく、全部自分で得ようとしました。彼の貪欲に、神様の怒りが下ったのです。「神に対して富まない者はこのとおりです。」。
すべては預かり物
私たちが持っているすべてのものは、私たちのものではなく神様からの預かりものです。ダビデは、民の長たちが神殿建設のために、進んで多くのささげ物をした時、「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。(Ⅰ歴代誌29:14)」と言って、神様をほめたたえました。
今、私たちが持っているお金や時間も、人間関係も、また性格や気質、特技や技術なども、さらにはいのちも信仰も、すべては私たちが神様の栄光をあらわすために、神様から預かっているものにすぎません。神様の栄光をあらわすとは、神様のすばらしさをあらわすことです。「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)」。
神に対して富む
イエス様のタラントのたとえでは、主人から預かったお金を活用してさらに儲けたしもべを、主人は「良くやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう(マタイ25:21)」とほめました。今、私たちの持っているものはわずかかもしれませんが、それを神様のご用ために活用するならば、神様はさらに多くの恵みを約束しておられます。私たちはみことばに忠実でなくてはなりません。神様がまず、私たちを愛し、十字架で私たちの罪の身代わりとしてご自分のいのちを与えてくださり、私たちにも「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。(ルカ6:38)」と教えてくださいました。与える生き方こそが、神に対して富む、ということです。
私は救われたことがうれしくて、できるだけみことばに忠実に生きたいと思い、わずかしかありませんでしたが、お金や時間などの賜物をできるだけ神様の働きにささげてきました。神様は、みことばの通りに、豊かに増し加えてくださいました。何よりもいつも平安のあることが喜びです。前述の映画の主人公は、自分のすべてを費やして、多くの人を幸せにしましたが、一番幸せだったのは彼女自身だったと思います。私たちは、神に対して富む者となりましょう。(鈴木千史)
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2022.08.21 週報.pdf
「ローマ4:19-21 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」
「ピンチはチャンス」
今、夏の高校野球が開催されています。各都道府県の代表校が集まって日本一を決める大会ですが、一試合でも負ければその時点で終わりです。選手たちにとっては、毎試合が真剣勝負です。高校野球は、観る人をひきつける魅力があります。それは、暑さの中でプレーする選手たちの表情が真剣そのもので、たとえいくら点差をつけられようとも、決して最後まであきらめることなく全力でプレーする姿に心を動かされるからだと思います。
先日、愛知県の代表校、愛工大名電高校が出場していました。試合は1-1の緊迫した状況から、5-1と4点差をつけられます。流れは完全に相手チームにありました。さらにピンチが続く中でピッチャーが代わります。すると、続くバッターを抑えて守り抜きました。彼の好投によって試合の流れが一気に変わりました。すると今度は名電の攻撃になり、得点を重ね、ついに同点に追いつきます。そして最後は逆転勝ちをおさめました。野球に限らず、どのスポーツでも試合の流れは、どこでどう変わるかまったく分かりません。恐らく彼はピンチの中で、「必ずこのピンチを乗り切ることができる」と信じていたと思います。「もうダメかもしれない。打たれたら終わりだ。」という思いがよぎるその中で、弱気にならず、かえって最高のパフォーマンスを発揮することができたのだと思います。
逆境の中で気落ちしていないだろうか
私たちの生活も、「もうダメかもしれない」というピンチや逆境の時があると思います。「苦しいことは、出来るならば避けて通りたい」というのが人の本音だと思います。しかし現実はというと、次から次へと問題が自分の身に降りかかって来ます。私たちは、それを何とかしないといけないと思って必死になっているかもしれません。プレッシャーで押しつぶされそうになってしまいそうになる時、それに抗(あらが)おうとすればするほど、心はどんどん疲弊して行きます。
私たちの信仰生活は、霊的戦いです。ですから、神様を信じる私たちを神の支配から引き離そうとする見えない敵の働きがあることを忘れてはなりません。悪魔は、私たちの弱さをよく知っていて、責めと誘惑を持って、言葉巧みに語りかけて来ます。「そんなことで心が折れているのか、弱いなあ。クリスチャンとして情けないじゃないか。」と語りかけてきます。それに対して、「いや、私はそんな弱い人間じゃない。ちゃんと信仰はあるんだ。」と反論し、心の中でずっと見えない敵との戦いを繰り返していたりすることはないでしょうか。
信仰は、逆境の中でかえって強められる
私たちは、逆境の中で「主の約束は必ず成る」という信仰に立たなくてはなりません。信仰は、逆境の中で明らかになります。目に見える現状に打ちのめされてしまうのか、それとも、その中で主を見上げて、信仰によって立ち上がることができるのかが明らかになるのが、逆境の時です。
アブラハムは100歳になり、妻のサラも90歳と高齢で、常識的には子どもを産むということはとても考えられないことでした。月日が経つに連れ、目に見える状況は絶望的でした。しかし彼の信仰は弱まることなく、かえって強められて行きました。それは、常識では不可能であろうということを十分認めた上で、神はその常識を超えて働かれるお方で、「神には約束したことを実行する力がある」と確信していたからでした。
私たちが愛することを学ばされるのも、愛せない状況に置かれる時ではないでしょうか。私も、日々主からのチャレンジを受けています。イライラしている時、言い争いになったりすると、怒りが湧いてきて、愛することなどできなくなります。それは私の高ぶりが砕かれ、愛することを訓練させられる場となります。関係を壊して行くのか、信仰によって愛することを選ぶのかが試されます。そこではじめて私は、自分のことを冷静に見詰めるようになり、悔い改めへと導かれます。信仰がなければ、「私は悪くない。向こうが悪いんだ。」と、関係を壊す方向に向かっていたであろうことが、信仰によって愛することを選択し、信仰によって行動を起こすことができるようにされます。
すすんで主からのチャレンジを受けよう
逆境は、主からのチャレンジの機会なので、私たちはいとわないで、すすんで主からのチャレンジを受けてまいりましょう。
主がそのようにされるのは、主が私たちを子どもとして扱っておられるからです。神の子どもである私たちをご自分のきよさにあずからせようとして訓練されるのです。ヘブル12:11には、「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」とあります。私たちは試練の苦しみの中で、何が神の御心であるのか、何が正しいことであるのかを教えられ、神様との正しい関係を築いていくことができます。そして、平安を持って、日々前進して行くことができます。私たちの信仰は、逆境の中で強められ養われることを主に感謝します。(岩下 栄作)
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2022.08.14 週報.pdf
「詩篇55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」
ゆだねて生活している
先日、歯の定期検診に行きました。歯石を取り除くのには機械を使いますが、歯科の機械のあのキーンという音が苦手な人は多いと思います。それがいやで何年も歯科に行かないでいる人を何人も知っています。私は平気なほうなのですが、やはり金属のとがったものが、歯の際(きわ)をまるでドリルで土を掘るようになぞって行くとき、ぞくっとします。ですからいつも「主よ、守ってください」と祈って時間が過ぎ去るのを待ちます。
考えてみると、歯の掃除をしてもらっているときは、歯科衛生士に信頼して、自分をゆだねているということだな、と思います。ゆだねる、というのは任せるということです。もしかしたら失敗するかもしれないと思ったら、とても口を開けてじっとしてなどいられないと思います。ほかにも、たとえばバスや電車や飛行機に乗るときは、運転手に信頼しています。もしかしたら事故を起こすかもしれない、と心配する人は、公共の乗り物に乗ることなどとてもできないと思います。私はタクシーに乗る時に、私はこの運転手さんは必ず目的地に連れて行ってくれると信頼して乗っているんだな、と思います。普段あまり意識はしていないかもしれませんが、私たちは生活の中でいろいろな人に自分をゆだねています。
神様にゆだねたダビデ
冒頭の詩篇55篇は、親しい友に裏切られたダビデが嘆き、失望する中で、神様に重荷をゆだねて平安を持ち続ける姿を表しています。ここに出てくる裏切り者は、ダビデの助言者であったアヒトフェルのことかもしれないと言われています。アヒトフェルはダビデの子アブサロムが謀反を起こした時、アブサロムに加担しました。ダビデはどんなに失望したことでしょう。彼は「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。(Ⅱサムエル15:31)」と祈り、主にゆだねました。すると主は「王の友」と呼ばれ、ダビデの相談役であったフシャイをスパイとして用いてくださり、彼がアヒトフェルの優れた助言を封じ込めるように導かれました。アブサロムは打ち負かされ、ダビデは勝利しました。ダビデは主に信頼して正しく歩むべきことを、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」と、私たちにも勧めています。
あなたの重荷を主にゆだねよ
「重荷」というのは、生活の中で、大変だと感じることがらのことです。たとえば職場では、仕事を重荷に感じている人がいます。家庭では、家事や育児、また介護に重荷を感じている人がいます。学校の勉強や部活や人間関係に重荷を感じている人がいます。神様は、大変だと感じる時、気落ちしたり心配したりしないで、わたしにゆだねよと言われているのです。
最近私は、やらなければならないことがいくつも重なって、どうしたらこれを全部果たすことができるだろうかと、心配にさいなまれたことがありました。「主よ、時間が足りません、助けてください。」と祈っていると、「あなたの重荷を主にゆだねよ。」とみことばが与えられました。「そうだ、ゆだねればいいんだった。」と心の向きが変わりました。時間がない、どうしよう、という思いにばかり目が行っていました。「でもゆだねるってどうすればいいんだろう」と思った時、神様は、リラックスしなさいと言われているとわかりました。心配していると心身が緊張し、やる気がそがれてしまいます。サイドブレーキを引いたままでは車はスムーズに走れませんが、リラックスするのは、サイドブレーキを解除するようなものかもしれません。その週はキャンプがあったのですが、心配を主にゆだねてリラックスして楽しんで過ごすことができました。ときどき、心配が頭をよぎるので、よぎったらすぐに心配を手放して、またリラックスするようにしました。
振り返ると、結局やるべきことは全部やり遂げることができました。時間がないと思い込んでいましたが、神様は隙間(すきま)の時間を有効に使うことをさせてくださいました。リラックスしているので短時間で集中することができました。みことばの通りに、ゆだねたら主が支えてくださいました。
主にゆだねよう
イエス様は、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。(マタイ6:27)」と言われました。神様は主権を持って働いておられます。私たちが心配してもしなくても、神様のなさることに変わりはありません。神様は米粒のような存在である私たち一人一人に配慮し、助けることのできるお方です。
何かを重荷に感じているならば、私たちは主にゆだねることができます。心配を手放してリラックスして、神様のみことばに心を向けましょう。リラックスする中で、たとえゆっくりであっても今日また一つ前進することができます。支えてくださる神様に感謝します。(鈴木千史)
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2022.08.07 週報.pdf
「Ⅰペテロ2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」
かわいそうに思う
コロナ禍で生活の中の多くのことが制限されて来ましたが、ここに来て少しずつ制限が緩和される動きが出始めています。学校での給食は、これまで黙食が続いていましたが、今年の6月、感染者が減少傾向になり始めた頃から、「大声でなければ会話をしても良い」として、黙食を徐々に緩和する自治体が出て来ました。久しぶりに給食時に会話ができるようになり、児童たちは、「今までずっとしゃべっていなかったから、解放感があって楽しい」「急にみんな明るくなった感じがする」と話していました。学校ではこれまで、修学旅行や部活動の大会が次々に中止となり、「楽しみが何もない」「何にも思い出がない」と、どうすることも出来ない状況の中で、やり場のない怒りを表す子どもたちの声が聞かれました。そんな子どもたちを見て、保護者や私たち大人の中でも、「今の子どもたちはかわいそう。コロナで青春がなくなっちゃって」と同情を寄せる声があったりします。
それは、子どもたちのことだけではなく、例えばウクライナで今もなお起きている戦争によって、多くの犠牲者が出ている現状や、豪雨などの災害によって住まいや家族を一瞬のうちにして失う人たちを見る時にも同じように感じたりします。しかし、私たちはまず、自分自身があわれみを必要としている存在であることを知らなければなりません。
人はみな、あわれみを必要としている
あわれみは、「かわいそうに思うこと」「気の毒に思うこと」です。人はみな生まれながらに罪人であり、造り主である神様を認めないで神に背いて生きている者です。聖書は、「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」と言いますが、私たち罪人はそのような神の御怒り、さばきの下にある者です。神は義なるお方なので、罪ある者を必ずさばかれます。そして私たちはその罪を自分ではどうすることも出来ません。ですから神は、自らの罪ゆえに死んで滅び行く私たちをあわれんで、救いの道を開いてくださいました。御子イエス・キリストを遣わし、全く罪のないお方が、人のすべての罪を負って身代わりとなってくださいました。そのあがないにより、私たちは悔い改めて主に立ち返り、罪赦されて、主に受け入れられる者とされました。本来さばかれるべき立場の者が、受け入れられました。このことを知った私たちの心は、悲しみから喜びへと変えられ、主とともに新たな一歩を踏み出すことができるのです。もし主のあわれみがなかったとしたら、依然私たちは罪の中で一人もがき苦しむことになります。人は誰でも、主のあわれみなくして生きることは決して出来ません。
自分をあわれんではいけない
イエス様は、あらゆる町や村を巡り、福音を宣べ伝え、癒やしのみわざをなされましたが、群衆をご覧になり、深くあわれまれました。それは人々が苦しんで弱り果てて倒れていたからでした。そのあわれみの視線は、私たち一人ひとりに対しても注がれています。私たちは弱い者です。幾度となく「わたしの声に聞きなさい」「わたしに信頼しなさい」と語られているのにも関わらず、御声を無視して生きてしまい、その自分の愚かさゆえに苦しんでいます。そのように神から離れて生きる時、自分だけが大変な思いをしていると感じて、「ああもう大変だ、苦しい、嫌だ」「何で私だけこんな目に遭わなければならないのか」「この私の大変さをわかってほしい」と思ったりします。そして、自分の苦しい胸の内をどうすることも出来なくなると、「情けないなあ。こんな私はダメだ。こんな私はかわいそうだ。」と言って、自分をあわれむことになります。私たちは、人に同情を求めたり、自分をあわれんではいけません。主のあわれみにすがらなければなりません。
主のあわれみを求めよう
私たちが悲しい出来事や困難に遭遇し、憔悴(しょうすい)しきっている中で、主のあわれみにすがる時、主はその悲しみ、苦しみ、罪、咎のすべてを負ってくださいます。主の十字架はそのためです。重荷のすべてを主にゆだねる時、私たちの心は、悲しみから喜びへと変えられます。
ヘブル4:15-16には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあります。イエス・キリストは、私たちが遭ったどんな苦しみも知っておられるお方です。それはイエス様ご自身がすでに経験されているからです。そして私たちは、救われて神の民とされています。ですから、あわれみを求めるならば、今受けることができます。主に心を開き、大胆に近づいてまいりましょう。主のあわれみを受けて生きられる恵みを感謝します。(岩下 栄作)
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2022.07.31 週報.pdf
「ヨハネ14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」
「あなたがどこかで」
NHKのみんなの歌「あなたがどこかで」という歌が反響を呼んでいるのだそうです。「あなたがどこかで悲しいときは あなたが見上げる星になりたい あなたがどこかで寂しいときは あなたに微笑む空になりたい 忘れないでもう一度言うよ あなたは一人じゃない 忘れないで何度でも言うよ あなたは一人じゃない」という歌詞です。メロディーが親しみやすく、安全地帯の玉置さんの深くて温かい声に聞き入ってしまいます。しかし歌詞を熟読したとき、「あなたは一人じゃない」と言ってくれるのは誰なのだろうと考えてしまいました。もちろん歌は聞いた人がそれぞれ自由に感じて良いのですが、気になったので検索してみました。するとこの歌は、「コロナウイルスの猛威に加え、世情の不安定な日々が続く中で、実際には会うことはできなくても決して独りではなく、常に誰かから思われて守られている」というメッセージが込められた楽曲なのだということでした。「あなたは一人じゃない」と言ってくれる人は、家族や友だちなどのことなのでしょう。しかしふと、では守ってくれる家族や友だちがいない人はどうすればよいのだろうと思いました。
人は孤独に弱い
人は一人では生きていけません。神様は「人がひとりでいるのは良くない。(創世記2:18)」と言われて、最初の人アダムの助け手としてエバを作られました。人はほかの人を必要とするように造られています。だから孤独に弱いのです。昨今起こっている放火事件や銃撃事件などの凶悪事件の犯人は、多くがさまざまな事情で家族や職場の人間関係に恵まれず、孤独を強いられた人々です。孤独の中で人に対する憎しみや怒りが増幅し、自暴自棄になって犯罪に至るケースが多いように感じます。
しかし孤独なのはなにも凶悪犯だけではありません。一見仕事にも人間関係にも豊かに恵まれ、何一つ不足なく普通に暮らしている人々も、心の中には孤独があるのです。有名な芸能人の自殺が相次いで起こっているのもその現れなのだと想像します。あのパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることが出来ないのだ。」と言いました。意識していなくても、人の心の中には他の人からは見えない孤独があります。人は造り主であられる神様のもとに帰るまで、孤独から解放されることはありません。
わたしのもとに来なさい
私は幼い頃からずっと孤独を感じていました。私が生まれたのは両親と三人兄弟の普通の家庭で、裕福ではありませんが特に不足を感じることもなく育ちました。どこが孤独なのかと言われそうですが、実際いつも心の中は孤独でした。神様を信じて救われて、その原因は父親に対する怒りゆえに、自ら人に心を閉ざした罪であるとわかりましたが、当時はただどうしようもなく孤独で、いつも心のよりどころを求めていました。家にいるよりもすぐ裏に住んでいた祖父母のところにいることを好んでいました。好きな作家の小説や映画の世界に傾倒して、そこに浸ることで心のよりどころを得ようとした時期もありました。大学生、社会人になると、サークル活動や趣味の人間関係に心のよりどころを得ようとしました。しかし、当然そのような人間関係ははかないもので、時が来れば消え去ることを痛感しました。またある時は仕事を心のよりどころにしようとしましたが、何をしてもうまくいかず、空しいだけで何の解決にもなりませんでした。
そのように飢え渇いているときに福音を聞きました。こんなにどうしようもない私を愛してくださるお方がおられ、いつまでも一緒にいてくださることを知りました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とみことばを聞いたときに、ほっとして涙があふれてきて、人を愛そうとしなかった罪を悔い改めて救われました。そして孤独から解放されました。
あなたは一人じゃない
イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と言われました。イエス・キリストを信じて受け入れるならば、たとえ見かけ上は孤独に見えても一人ではありません。主は私たちが失敗して落胆しているときも、愛する人と死別して悲しみにくれているときも、「忘れないで何度でも言うよ。あなたは一人じゃない。」と言ってくださいます。同じことばを人が言えば空しく響きますが、神様が言われるならば真実です。神様の愛は決して変わりません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル13:8)」。
私は日常生活の中、昔の感じ方の習慣で、ときに心に孤独の感情がわいてくることがあります。そんなときはいつも、「主よ、あなたは私の思いをすべてご存知です。今助けてください。」と申し上げて、心にある思いをそのままお話ししています。そうしていつも心が守られています。神様が心のよりどころである恵みを感謝します。どんなときも、「あなたは一人じゃない」という神様の声を聞いて生きたいと思います。(鈴木千史)
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2022.07.24 週報.pdf
「Ⅱ列王記5:13-14 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は〈身を洗ってきよくなりなさい〉と言っただけではありませんか。』そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」
ナアマンの癒やし
このみことばは、異邦人ナアマンの病が癒やされた話ですが、彼は自国の勝利に貢献し、王からとても尊敬される存在でした。しかし彼は重い皮膚病に悩まされていました。そんな彼に朗報がやって来ます。ある預言者のもとに行けば病が癒やされると聞いたのです。彼は王を通して預言者エリシャのところへ行きます。エリシャに遣わされてやって来た人から、「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。(Ⅱ列王記5:10)」と告げられます。彼はその言葉に怒りを覚えました。それは、エリシャが直接やって来て、彼の患部に手を置き、主の御名によって癒してくれると思っていたので、自分の思っていた方法とは全く違うことを告げられたからでした。彼はその場を立ち去りましたが、部下の言葉にいさめられて、エリシャの言葉通りにやってみました。すると彼は癒やされました。
主が命じられることは難しいことではない
主が命じられることはとてもシンプルです。主が人を罪から救われる方法は、とてもシンプルです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)」とありますように、救いは、「イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって死んでくださった」ということを心で信じて、口で告白するだけで救われます。「あなたは、救いを求めて神に受け入れられるために良い行いを積み重ねてきたので、救われる資格が得られるようになりました」とは言われません。
そして、福音が伝えられるその方法も、とてもシンプルです。「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(Ⅰコリント1:21)」とあるように、「あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたは救われますよ」と人が語る言葉を通して、福音を聞いた人が信じて救われるというのが神様の宣教の方法です。イエス様は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」と言われました。私たちは出て行って福音を伝えるだけでいいのです。信じるか信じないかの責任は私たちにはありません。福音を伝えることが、私たち信じる者に命じられている使命であり、責任です。
そのまま受け取る信仰を持つ
しかし私たちは、このシンプルな主の命令に対して、自分なりの解釈をしたり、自分の考えを付け加えたり、混ぜ物をしていたりすることはないでしょうか。例えば、「悔い改めれば、すべての罪は赦されます」と聞いても、「そんなことだけで本当に赦されるのか」と思ったり、「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」と語られても、「求めるだけで本当に与えられるのか。主の恵みにあずかるためには、それなりの努力、善行がなければならないのではないか。」と思ったり、「もっと神に喜ばれるためにふさわしい自分にならなければ」と感じたりするかもしれません。福音を伝えることも、「もっと神様のことをよく知って恵みを受けられるようになれば、家族にも伝道することができる」と感じたりするかもしれません。
アブラハムは、神様から多くの祝福を受けた人物ですが、彼は良い行いをしたから祝福されたのでしょうか。そうではありません。むしろ彼は、自分の身に危険が及んだときに妻を差し出してしまう様な愚かなことをしました。聖書は何と言っているでしょうか。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記15:6)」とあります。主は、彼の信仰のゆえに彼を豊かに祝福されました。私たちは、語られるみことばに自分の考え、感情を挟んではなりません。信仰によって、そのまま受け取らなければなりません。
喜んで従う人は多くの祝福を受ける
私は、6~7年前に帯状疱疹の病を患ったことがきっかけで、「主は癒やしてくださる」という信仰を持つようになりました。それまでは、ずっと不規則な生活を続けていました。夜遅くまで起きているので朝早く起きられず、憂うつな思いで目を覚まし、あわただしく行動していたので、心にはいつも焦りがありました。食生活も乱れていたので、体調を悪くして苦しんでいました。働いていても仕事に集中することが出来ず、いつも苛立ちがありました。自分に問題があるのにもかかわらず、「何で自分がこんな目にあわなくちゃいけないのか」と怒ったり苛立っていました。病になって語られたことは、「習慣を改めなさい。そうすればあなたは癒やされる。」ということでした。その御声を、へり下って素直に受け取りました。それから、偏食をなくしたり、食べすぎないようにしたり、朝早く起きるために夜早く寝るようにしたり、毎日運動をしたりすることを積み重ねて来ました。以前の怠惰な生活から、落ち着いて冷静に判断をし、ゆとりを持って行動することができるような健やかな生活に変えられました。
私たちが神様の方法に喜んで従う、その素直な信仰に主が働いてくださり、私たちは豊かな祝福にあずかる者となることを信じます。(岩下 栄作)
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2022.07.17 週報.pdf
「マタイ5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」
塩パン
よく立ち寄る駅の売店に、今まで見たことのないパン屋さんのパンが並んでいたので一つ買ってみました。いろいろ種類のある中で迷わず「塩パン」を選びました。塩パンは、細長いバターロールの上に少し塩がついているだけのものですが、食べる時にその塩がアクセントになって美味しいのでよく買います。
調べてみると、塩パンの元祖はオーストリアの「ザルトシュタンゲン」というパンで、日本では2005年に愛媛県のパン屋さんが夏の塩分補給用に作ったのが始まりだそうです。7年前ぐらいにブームになり、今では年中売っていますが、もとは今頃の季節のパンだったと知りました。食べながら、つくづく塩ってすごいなと思いました。ゆで卵に少しつけたり、魚に少しふって焼くだけでおいしくなります。おにぎりも、塩でにぎっただけでおいしい塩むすびになります。あるのとないのとでは全然違います。
また塩は味つけだけではなく、生命の維持のために重要な働きをします。自然塩である海塩や岩塩には、体に必要なミネラルが含まれています。これらの成分は心臓を動かす働きや、血液をきれいにする働きをします。神様は人が生きるために必要な物質を自然の中にあらかじめ備えてくださいました。
聖書の中の塩
聖書には旧約聖書のはじめから塩が出てきます。神様がソドムの町を滅ぼそうとされたとき、ロトは家族を連れて逃げようとしましたが、「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)」とあります。またヨブ記には、「味のない物は塩なしに食べられるだろうか。(6:6)」と記されているように、塩は昔から味つけに欠かせないものでした。そして塩はきよめの象徴として用いられています。エリシャはエリコの水を、塩によってきよめました。「わたしはこの水を癒やした。(Ⅱ列王記2:21)」。
またレビ記には、「穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。(レビ2:13)」とあります。漬物などの保存食に塩がかかせないように、塩は腐敗を防ぐ働きをします。「神の契約の塩」は神と民との親しい関係が永遠に変わらな
いことをあらわしています。
あなたがたは地の塩です
イエス様は山上の説教で、弟子たちや、主に従ってきた人々に「あなたがたは地の塩です。」と言われました。クリスチャンはこの地上で塩の働きをする者たちだ、と言われたのです。
聖書の中で塩の働きをしたのは預言者などです。たとえばモーセは神様と非常に親しい関係にあり、神様が彼に告げることばを忠実に、イスラエルの民に語りました。しかし多くの民は彼に従わず、「水がない。エジプトへ帰りたい。」などと言って激しく反抗しました。それでもモーセはひるまずに神のことばを語り続けました。同様にイザヤもエレミヤもそのほかの預言者たちも、民の迫害に苦悩しながらも神のことばを忠実に語り続けました。
私たちが生活の中で塩としての役割を果たすには、どうしたらよいでしょうか。それにはまず、預言者たちがそうであったように、いつもどこででも神様と親しく交わりを持ち、神様に忠実であることです。言い換えれば、いつもどこででも「今どうしたらよいでしょうか。」と神様に聞いて忠実に行うことです。それは、たとえば職場や学校において、「この人に仕事を任せれば安心」とか「この人がいると楽しい」と言われる存在であることですし、身の周りで正しくないことがされていたら、勇気をもって指摘することや、加担しないことです。たとえば、友だちが人のうわさ話をしていても加わらないことです。また自分に不利になるようなできごとが起こるときに、怒ったりうろたえるのでなく、冷静に対処できることです。そして「時が良くても悪くても(Ⅱテモテ4:2)」神の福音を伝えることです。
私たちは地の塩
私は以前働いていた職場で、同僚から「ブレないね」と言われたことがあります。救われて、生きるための正しい基準は聖書だと知りました。聖書には「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」とあります。みことばに従うと、はっきりと判断することができるようになりました。会議でも、正しいと判断すればひるまずに強く発言できましたし、日曜出勤は、自分で選択できる限りすべてはっきりと断りました。そうした中で困ったこともなく、すべてが守られていました。今思えば「塩」の役割をしていたと思います。その同僚に頼まれて、職場で福音を伝えることもできました。今も彼女の救いを祈っています。
私たちは「地の塩」です。私たちの職場やクラスには、クリスチャンはあなた一人しかいないかもしれません。しかしほんの少しの塩が食物をおいしくするように、神様のことばに忠実に従うことによって、その場所に良い影響を与えることができます。塩の役割を果たして参りましょう。(鈴木千史)
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2022.07.10 週報.pdf
「Ⅱコリント9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
あいさつすること
毎朝出かけるときに、同じマンションに住む年配の男性とよくすれ違うことがあります。以前は、こちらがあいさつをしても返事をしてくれているのかどうか分からないような感じでしたので、「無愛想な人だな」と思っていました。しかしよくよく考えてみた時に、「私の方も、その人に対して好意を持って接していないのではないか」と気づかされました。それからは、その人の立場に立って考えるようになりました。「恐らくあの人は、人見知りで自分から話しかけることが苦手なのかもしれない」と思い、私は自分から進んであいさつをするようにしました。そしてあいさつをするのも、ただあいさつをすればいいということではなくて、「相手が言われて嬉しくなるようなあいさつをするべきではないだろうか」と示されて、同じあいさつでも、親しみを込めてあいさつをするように意識しました。そうやってその人と会うたびにあいさつを交わしていると、ある時、明るくあいさつをしてくれるようになりました。喜んで与え続けることによって、私自身もその人に対して、もっと近づいていきたくなる思いにさせられましたし、好意を持って接することができるようになりました。
喜んで与えることがみこころ
冒頭のみことばは、パウロがコリントの教会に対して献金のもたらす祝福について述べている箇所です。彼は、マケドニアの諸教会のささげる姿勢を模範としてコリントの人たちに紹介しました。それは、マケドニアの諸教会が、キリストを信じるがゆえに迫害を受け、苦しんでいましたが、その苦しみの中にあっても惜しむことなく喜びにあふれて献金をしたことでした。彼らは「自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ(Ⅱコリント8:3)」ました。そして、自分自身を主に献げ、パウロにも献身して仕えていました。その動機は、救われた喜びにありました。献げずにはいられなかったのです。
私たちも、主のしもべとして与える生き方をしたいと願います。献金も、惜しむことなく喜んでささげることによって、さらに豊かに与えられ恵みを受けることになりますし、礼拝をささげることも、「日曜日だから行かなくちゃいけない」と思って参加するのではなくて、「すすんでみことばを受け取ろう」と思ってメッセージを聞くので、とても恵まれる時となります。人から助けを求められることがあれば、嫌々ながらではなく、喜んでしてあげることによって自分自身が恵まれることになります。すべてのことを、「喜んで」与えることが主のみこころであります。
ゆとりのない中で喜んで与える
しかし、私たちは時に、「お金にゆとりがあればもっと献げることができる」とか、「心にゆとりがある時であれば、もっと人に良くしてあげたり、助けてあげたりすることができる」と感じることがあるかもしれません。
イエス様が、宮の献金箱の前でお金を投げ入れる群衆の様子を見ておられた時、多くの金持ちが、持っているお金をどんどん投げ入れていました。そこに一人の貧しいやもめがやってきました。彼女は、手にしていた最小単位の銅貨であるレプタ銅貨二枚を投げ入れました。それは彼女の全財産でした。イエス様は、「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:43-44)」と言われました。彼女は、自分が持っている100%をささげました。すすんで喜んでささげました。イエス様は、ささげた金額の多少ではなく、その人のささげる心、姿勢を見ておられました。私たちは、今与えられているもの、持っているものの中から、精一杯出し尽くして、惜しみなく喜んで与えたいと思います。
「今は人のことを考えるような気になれない」と感じる中で、信仰によって与えることを選び取ってまいりましょう。「自分のことで精一杯で、人のことにかまっていられるゆとりなんかない」と思う中で、助けを求めて来る人がいれば、いとわないで喜んでその人のために犠牲を払うことによって、結果的に私たちは祝福されることとなります。どんな状況に置かれても、その中で今自分ができること、持っているものをすべて出し尽くす思いを持って、喜んで与えてまいりましょう。主はその信仰に働いてくださり、その行いに報いてくださいます。
与える人は豊かに祝福される
私は信仰生活の中で、これまで、いかに自分のことばかり考えて生きてきたのかということに気づかされて、それを自覚するようになってから、自分から喜んで与えることを主に促されてきました。人を恐れる時に、「それは自分のことばかり考えていることだ」と示され、自分から愛そうと行動を起こしたり、人の祝福を祈りました。「面倒くさい」「やる気が出ない」という時に、「家族のために、兄弟姉妹のために、喜んで与えなさい」と語られて、自分のことよりも周りの人の必要のために、進んで犠牲を払うことをしてきました。そのようにしても、「時間がなくなってしまうのではないか」という思いになるようなことは全くなく、むしろ、家庭の雰囲気が良くなったり、その人との関係が良くなったりして、私自身が恵みを受けることなのだと教えられました。主は、喜んで与える人を祝福してくださり、さらに豊かに与える者、与える生き方へと変えてくださる恵みを感謝します。(岩下 栄作)
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2022.07.03 週報.pdf
「Ⅲヨハネ-2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」
健康を保つことはみこころ
先月、年に1回の健康診断に行ってきました。心電図や胃の検査、採血や目や耳の検査などたくさんの項目があり、すべて終わるのに半日かかりました。検診センターの中をあちらへこちらへと移動しながら、人の体は複雑で、たくさんの部分からできているんだなあと、あらためて感じました。ある医師は血管について記した本の中で、人の体のしくみには無駄なものが一つもないと言われていましたが、人の体を完璧に精巧に造ってくださった創造主であられる神様に感謝しました。
パウロは「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。(Ⅰコリント3:16)」と言いました。神を信じる者の体は聖霊が住まわれる神殿です。ですから自分の体を管理して健康を保つことは神様のみこころです。
健康保持の四原則
私たちが健康を保つにはどうすればよいでしょうか。私は今、神学校の学びの中で健康について学んでおりますが、師である尾山令仁先生は、著書「心の健康・体の健康」の中で、健康保持の四原則として、「心に平安を持っていること」「睡眠を十分にとること」「適度な運動を続けること」「正しい食事をすること」を挙げています。そして、その中でも「正しい食事」と「心の平安」について、多くの人が無関心であることを指摘しています。
まず「正しい食事」についてですが、食事と健康に密接な関係があることは広く知られていても、正しい知識を持っていることが重要だと言われています。基本的には昔からの日本食である玄米、野菜、豆腐などの大豆製品、みそのような発酵食品、海藻類、小魚や貝類などを食べるのが良く、食品添加物など、体に害のあるものを避けることを強調されています。このような食品に関する情報は私たちも何となく知っています。しかし実際に自分が病にかからない限り、多くは実行には至っていないのではないでしょうか。自分が食べたいものよりも、健康によいものを選ぶには「自制」が必要になってきます。たとえば野菜が好きでなくても、毎日食べる努力が必要です。聖書が教える御霊の9つの実の中には「自制(ガラテヤ5:23)」があります。健康を保持することは信仰に属することだ、と師は教えています。
「病は気から」は本当
では「心の平安」についてはどうでしょうか。「病は気から」ということわざがあります。「病気は気持ちの持ちようによって良くもなるし悪くもなる」という意味ですが、多くの研究から、これは本当であることがわかっています。聖書にも「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある。(箴言15:13)」とあります。ある研究では、ほとんどすべての病気の原因は、さまざまな原因によるストレス(緊張)であるという実験結果が発表されています。動物にはない、人間に特有なストレスは、心配や怒りや憎しみなどの感情によるストレスです。日常生活でストレスをすべて避けることはできませんが、脳の中で感情を調節する働きをする間脳が平静であると、ストレスが加わってもびくともしないそうです。つまり、人が病気にかかったり治ったりするのは、その人の心に平安があるかどうかにかかっているのだ、と師は教えています。「平安(ガラテヤ5:22)」もまた御霊の9つの実の一つです。
平安を保つには
では、平安を保つためにはどうすればよいでしょうか。イエス様が十字架で死なれ葬られたあと、弟子たちは恐れつつ集まっていました。イエス様はそこに現れてくださり、「平安があなたがにあるように(ルカ24:36)」と声をかけてくださいました。復活の主にお会いした弟子たちは、どんなに平安に満たされたことでしょう。主がともにいてくださることが平安の源です。
先日、宮川リトリートハウスでのご奉仕がありました。キャンプの準備で、広い田んぼ一面に生えた草を草刈り機で刈って行きました。日差しを遮るものもなく、終日暑い中でのご奉仕ですが、そんな中で心が癒やされるのです。黙々と草を刈っていると、心が100%神様に集中していることに気づきます。機械の騒音も青い草の匂いも心地よく、何とも言えない平安に満たされます。普段こんなに神様に集中しているだろうか、と思わされます。主がともにおられるというのは、心が神様に集中していることと教えられます。最近私は「現場で主の声を聞け」と教えられ、毎秒主の声を聞くことを訓練していますが、ちょっとしたことで自分の感情にとらわれると、とたんに平安を失うことを痛感しています。主から離れるときに平安が失われます。神様は「喜んでいなさい」「感謝しなさい」「愛しなさい」などといつも話しかけてくださっておられます。その声に集中することが平安を保つ方法です。
健康を保つために、「自制」の実、そして「平安」の実を結ぶことが重要であると教えられました。信仰によって主の宮である自分の体の健康を保って参りましょう。(鈴木千史)
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)