17.06.25 心を注ぎ出す祈り (5)納得を捨てて

17.06.18 心を注ぎ出す祈り (4)わたしの霊によって

17.06.11 心を注ぎ出す祈り (3)心の中には常に神との会話があるように

17.06.04 心を注ぎ出す祈り (2)心の中と外の会話

17.05.28 心を注ぎ出す祈り (1)心の中をみな主に話す

17.05.21 ありのままが勝利

17.05.14 脱出の道

17.05.07 誰が私を打ち負かすと言うのか

17.04.30 神がともにおられる最高の恵み

17.04.23 その気になれないという問題

17.04.16 イースターおめでとうございます

17.04.09 泣かれ、怒られた主

17.04.02 イエスとともにいる人

17.03.26 お休み

17.03.19 造られたものに過ぎない

17.03.12 壮大な計画によって造られた

17.03.05 すばらしい世界

17.02.26 お休み

17.02.19 人前で主を告白する

17.02.12 降参して今を生きる

17.02.05 すべてのことを働かせて益としてくださる

17.01.29 あなたを愛している

17.01.22 父と母を敬え

17.01.15 知っていること とは

17.01.08 とことん信頼しよう

17.01.01 踏みとどまれる知識を持つ



「ルカの福音書 5:5 するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』」

心を注ぎ出す祈り

 心を注ぎ出して祈ることは、心の中にある思いを、全て口に出して神様に告白する祈りです。その目的は、心の中の会話を悪魔を相手にしてすること、がないようにということです。
 口に出して祈っていることが神様との会話であるなら、そして祈りながら、全く違うことを考えていることがあるとすれば、そのときの心の中の相手は、神様でないことになります。口も心も同じ内容の会話があるなら、問題ありません。口でも、心でも、同じ神様相手に会話をしているからです。しかし、会話の内容が違うとなると、全く別の相手と話していることになります。
 口では「イエス・キリストの御名によって」祈っていますから、神様相手であることは間違いありません。であれば、心の中の会話が、神様以外であることがわかります。
 私たちの心の中には、様々な会話がありますが、この会話の相手が、神様相手であるなら、たとえ良くない内容であっても、問題ありません。助けてくださる神様からの、助言を受けるからです。罪ある私たちでも、正しく取り扱われていくことになります。
 心を注ぎ出す祈りは、私たちの心の中の憂さを晴らすためなどではなく、私たちの心を、すべてのことを知っておられる神様のところに差し出すことです。ゆめゆめ思い違いをしてはいけません。

心を注ぎ出すときに気づかされること

 私たちの心には、多くの不平不満があるものです。その傾向が特に強い人もいるでしょう。ですから、祈りの時にも、心の中では、何か他ごとを考え、人や状況に対する不満をよぎらせていることが多いでしょう。そのような時、これを心の中のことと放って置かないで、口に出して、神様に差し出して行きます。
 そのようなとき、どんなことが起きるのでしょうか。このとき、祈りは、まことの神様相手であるので、その会話の中で、みことばが示されます。主は、みことばによって語ってくださるのです。
 みことばは「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル 4:12)」。それで、示されるみことばによって、不平不満の正体が、判別され、心注ぎ出す祈りの最中に、教えられることになります。どんな思いを差し出しても、必ず神様の取り扱いがあるということです。
 例えば、そのときの祈りの中で、示されることは、不平不満の思いの正体は「承服できない」という思いであるということではないでしょうか。どんなことであれ、「受け入れられない」という思いで憤っているときには、不平不満の思いが募るのです。

不平不満が取り扱われる

 賛美とは、神様をほめたたえることです。そして賛美は、私たちの力となります。賛美は「賛成」「賛同」を意味します。神様のなされることに、賛成することです。
 神の宮として、神様がうちに住んでいてくださっている私たちは、すでに「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにある(ヨシュア記 1:9)」という主のみ声を聞いています。私たちの行く所、いる所はどこでも、神様がともにおられます。ですからたとえば、体はしようがなくそこに置きながら、心は「いやだ、いやだ」と逃げ出しているようなことは、み心でないことを知っています。そこで、体がその場所にあるように、心もその場所にあろう、と決意するのです。「私はここにいる」という決意が信仰を生みます。心が嫌がろうが、好もうが、体のいる場所は同じなのです。逃げ出そうとする心が、敗北を招いています。一旦「体がここにいなければならないなら、心もここにいる」と決意するなら、戦いは止みます。悪魔は、私たちを、恐れで動かすことはできなくなります。このように主に賛成することが、私たちの問題を解決します。
 不平不満は、神様に対する不賛成以外の何物でもありません。主はこれを取り扱われます。私たちの問題を放って置かれないのです。

自己中心の最先鋒、納得できない

 私たちの生まれながらの性質を「肉」と言いますが、「肉」は罪を好むという特徴を持っています。罪の実態は「わがまま」であり、自己中心でないと気が済みません。つまり、自分の思いが納得できないことに、怒りを覚えるのです。
 私たちが神様を信じて、神様のみことばに照らして、納得できない、ということであるなら、それは神様の基準によって、良し悪しを考えていることですから、そこには神の義があります。たとえば、誰かが「教会に集わないでも、神様を信じていれば、それで良いのだ」と言ったとします。そのとき、あなたは「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル 10:25)」のみことばによって「それは納得できない」というでしょう。これは正しいことです。
 問題は、私たちの自己中心から、納得できないと言うときです。神様の言われることでも、いちいち、自分が納得しないと、従おうとしません。そのようなことは、もはや信仰ではありません。自分の判断こそが正義であって、神様に対する信頼はそこにはないからです。世の中的には、自分が納得することをする、というのは正しいことのように見えますが、神様の前では、ただの自己中心です。神のみ心にでさえ、自分の納得という許可を得ていないものは、否定していることになります。まるで自分が神なのです。
 私たちは、神のみ前に、自己中心が徹底的に砕かれる必要があります。たとえ納得できなくても、ペテロのように「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言わなければなりません。
 心を注ぎ出す祈りは、私たちの心を判別される主によって、私たちの心の思いの正体が明らかにされ、解決されて行くのです。心の中で、悪魔を相手に話しているうちは、一向に解放されない自分でしたが、神様相手に会話するなら、たとえ不平不満の思いであっても、根本的な解決に至らせていただけるのです。