14.06.29 信頼

 信頼


「マタイの福音書 9:27-30 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが『わたしにそんなことができると信じるのか。』と言われると、彼らは『そうです。主よ。』と言った。 そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。 すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、『決してだれにも知られないように気をつけなさい。』と言われた。」

盲人のいやし

盲人たちは、イエス様が通りかかると、イエス様の名を叫んで、ついて行きました。「ダビデの子よ」というのは、救い主はダビデの子孫と信じられていたことから、救い主をそう呼ぶことが普通だったからです。
盲人たちは、イエス様のことを聞いて、「この方こそ、自分たちを救ってくれる方である」と信じたのでしょう。周りの人たちが、うるさがるほどの大声で、叫んでイエス様を呼び求めました。イエス様は、ついて来た彼らに「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われました。彼らは間髪入れずに「そうです。主よ」と答えます。イエス様は、彼らの目にさわられると「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われて彼らの目をいやされました。

主にすがることだけ

彼らは必死でした。「何としてでも、この目をいやしていただかなければ」。そのような思いで求め続けたことです。おそらく彼らは「自分にはその資格があるか」とも「人がなんと思うか」とも「拒否されたらどうしよう」とも、考えなかったと思います。いや、考えたとしても、そんなことをいちいち問題にする、余裕はありませんでした。
とにかく「いやされたい」の一心でした。もし、心によぎる、ちゅうちょする思いが勝っていたら、彼らの信仰はなかったのです。彼らはいやされることはなかったでしょう。イエス様の答えは「あなた方の信仰のとおりになれ」でした。

救い主が必要なのだ

彼らの信仰の姿勢、そしてイエス様の応答を見るとき、私たちに必要なことは何なのか、が教えられます。
私たちには、ともすれば、ふさわしい者、価するものであろうとする傾向はないでしょうか。「いやしては欲しい。しかしこんな自分が、厚かましくも、求めて良いのだろうか」。このような思いがあるとき、私たちの心には、ちゅうちょする思いが強くなります。祈って求めはしても、「何が何でも」という思いは弱くなります。いきおい「もっと強い信仰で」と信仰の思いを強くしますが、実際に必要なのは「ふさわしい者か」という考えを捨てることなのです。
「人がなんと思うか」も「拒絶されたらどうしよう」も同じように信仰を弱くします。「強い信仰を」と決意し、力むことは心が空しく、空回りするだけです。「人がなんと思うか」「拒絶されたら」も捨てなければなりません。

余裕なんかないのだ

私たちにとって、必要な理解は、イエス様というお方が「いやすことのできる方か」ということです。「救うことのできる方か」ということです。盲人たちは「そうです。主よ」と答えました。
私たちが「イエス様は必ずいやすことができる方」であることを信じているなら、「いやされたい」という願いに、ちゅうちょする余裕が生じることはないでしょう。
「資格があるのか」という思いがよぎったところで、「資格がなくとも、いやされたい」という思いが勝ります。イスラエル人でないので、求める資格がないといわれた、スロ・フェニキアの女は「マルコ 7:28 でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と言い、その信仰が認められました。
「人がなんと思うか」という思いも「いやされるなら、なんと思われても良い」という思いに取って代わります。「拒絶されたら」という思いは「それでも、食い下がるまでだ」という決意に変わります。
主に信頼するとは、このような姿勢なのです。

14.06.22 誠実 中と外の一致

 誠実 中と外の一致


「ガラテヤ 5:22−23しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

御恵みによって、週報が1000号を超えました。主に感謝します。今週は、御霊の実でもある誠実について考えてみましょう。

誠実とは

誠実とは「偽りがなく真面目なこと」です。英語では「信仰深いこと」の意味でもあります。
偽りがない信仰を神様は求めておられます。
「詩篇 31:23 すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。」
偽りがないということは、私たちの外の態度と、心の中とが一致していることです。神様を礼拝するにしても、手を上げ元気に讃美していても、心の中にその態度や歌詞とは全く違った心を持っているなら、誠実とは言えないことです。
「神様、あなたに信頼します」と言いながら、心の中では「完全に明け渡すのは、したくないな」と思っているなら、不誠実ということです。もし、私たちが祝福されないなら、それは神様のせいではなく、私たちにその原因があることです。
もし、神様の前に誠実であることができるなら、わずらいがなく、最高に平安で、祝福されることです。

誠実であるために

私たちが神様の前で誠実であるためには、祈る時や、礼拝の時だけでなく、生活そのものが誠実でなければなりません。誠実であることによって、家庭は守られますし、誠実であることがビジネスの成功の秘訣です。誠実であることだけで、それらの成功が保証されるほどに、重要なことです。誠実に生きようではありませんか。
ダビデは、神様の前に誠実に歩みました。サウル王の次の王として神様に選ばれましたが、その約束を信じ続け、決して神様から離れることがありませんでした。
サウル王に追われ、命をねらわれましたが、その苦しみの中でも、決して神様の約束を疑うことはありませんでした。ひとり荒野において、神様を見上げる日々が続きましたが、神様に信頼し続けました。その外側の姿勢と心の中とは全く同じでした。
そのようなダビデは、命をねらって来るサウルに対しても、誠実を貫きました。神様が見限ったようなサウルに対しても、自分が仕える王として、神様が一旦は選んだ王として、誠実を貫きました。
ダビデの私生活の中にも、誠実が貫かれていました。ダビデは、サウル王に敵視されました。そして、サウルの間違いは周知のことでした。
しかし、ダビデはサウル王を殺すことができる機会があっても、かえって手出しをせず、自分がサウル王に対して敵意がないことを示しました。そのようなことが、二度もありました。「王よ。私はあなたを殺すことができましたが、私はあえてそうしませんでした。私はあなたに敵意はありません。」と彼はサウルに進み出て、本意を伝えました。それで、一時的にせよ、サウルは心を動かされたことです。
ダビデは、サウルに対して、ほとほと苦しんだはずです。しかし、周りの人に愚痴をこぼしたことは全くありませんでした。「サウル王には困ったもんだ。神様は彼を退けられている。早く、終わりにしたいものだ。」などとは言わなかったのです。サウルに手を出さなかったのは、点数稼ぎのためではなく、彼の心の中も外も全く同じであり、サウルを尊敬したからです。彼は日常において誠実でした。そして、神様に対して、誠実でした。

一致させることが誠実

憎んでいるのに、憎んでいないような顔をするのは、不誠実と言えます。だから、憎んでいる態度を取るなら誠実であることができます。外側には平気を装い、心に憎しみを持ち続けている人は珍しくないのではないでしょうか。それで、その苦しさから逃れるために、怒りを鎮めようと一生懸命です。これでは不誠実の問題は解決しません。
このようなとき、誠実に生きるためには、取るべき態度は二つしかありません。ひとつは、心の中を正直に現して、憎んだ態度を見せたり、言ったりすることです。
もしそれが人として正しいことでないと思うなら、心の中を変えなければなりません。ですから、もうひとつは、相手を赦して受け入れることです。
心の中が正しいのに、勇気がなくて言えないなら、それを人に言えるように、勇気をくださいと祈らなければなりません。たとえ今すぐできなくても、誠実であること、つまり「心の中と外が一致していることが、どうしても大切なことだ」という方向に生きなければならないのです。
そうすれば、神様はあなたを誠実にするために、助けてくださいます。

14.06.15 自分の信仰

 自分の信仰


「エペソ人への手紙 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」





本人の信仰

イエス様が、出会った人々の信仰について、述べられていることをいくつか見て見ましょう。
12年の長血をわずらう女性は、イエス様の着物の裾にでもさわればいやされると信じ、さわっていやされました。そのときイエス様は、女性に向かって「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た二人の盲人は、イエス様にいやしていただきました。そのときイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、いやしてくださいました。他にもたくさんありますが、これらは、いやされる本人の信仰によって奇跡がなされた例です。

とりなす人の信仰

またあるときは、ある百人隊長が、家で病気で寝ているしもべのいやしをお願いしました。イエス様が行っていやしてあげようとしたとき、百人隊長は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と答えました。そのときイエス様は驚かれ「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」とその信仰をほめられました。そして、そのとき百人隊長のしもべはいやされました。
スロ・フェニキア生まれの女性が、自分の娘から悪霊を追い出してくれるようにお願いに行きました。イエス様はこの女性が外国人であることを理由に断りますが、彼女は「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と言って食い下がります。そこでイエス様は「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言われ、同時に彼女の娘はいやされました。
この場合は、いやされる本人の信仰ではなく、とりなしをする人の信仰によって、イエス様の奇跡がなされたことです。

イエス様の信仰

本人の信仰でもなく、またとりなす人の信仰でもなく、いやされた人がいます。
イエス様が弟子たちと道を行かれる途中、道ばたの盲人をいやされたことがあります。弟子たちが盲人を見て「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と質問しました。イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と言われて、この盲人をいやされました。
ラザロが死んで四日目にイエス様は彼を生き返らせました。墓に向かって「ラザロよ出て来なさい」のひとことで、ラザロはよみがえって出て来ました。これらの例は、イエス様の信仰によってなされた奇跡ということができます。
神様は信仰を通して働いてくださいます。自分の信仰が弱いと思うときでも、とりなしてくれる人の信仰に頼ることができますし、またイエス様の信仰に頼ることができるということです。このように見ますと、私たちは、あきらめないで、信仰によって生きることができます。たとえば、イエス様は「からし種ほどの信仰が山を動かす」と言われましたが、この信仰はイエス様の信仰だから、イエス様の信仰にすがれば山も動くのだ、と言われる先生方もおられます。

私は愛されている

このような中で、どうしても本人である自分の信仰によらねばならないことにつて知っていただきたいと思います。神様は、私たちを愛しています。この世が造られる以前から、神様は私たちを愛して、私たちの存在のためのご計画をお持ちでした。私たちは生まれる前から愛されているのです。
しかし、愛されていながら、私たちに罪があるので、私たちは神様から遠く離れた存在でした。当然、神様の愛は私たちに届いていません。そこで、イエス・キリストが私たちの罪のために、十字架で死んでくださいました。誰でもイエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、神様との関係が復活し、神様の愛が届くようになります。このことは完結されています。あなたは愛されており、あなたがイエス・キリストを信じるなら、神様の愛はあなたに届いているのです。
私たちは、信仰によってこの愛を受け取らなければなりません。「私は愛されている」。このことを受け取るために、人の信仰に頼るわけには行きません。自分で受け取らなければならないのです。
神様はあなたを愛しておられます。私はこのことを知っています。だから、あなたに「あなたは愛されています」とお伝えします。このことであなたは、一時的には励まされるかも知れません。しかし、あなたが自分の信仰によって受け取っていなければ、あなたの心の中には違う会話が始まります。「私は愛されているとは思えない。私は愛されているのだろうか」です。
自分で自分に神様の言われることを言わなければなりません。「私は愛されている」です。人に言ってもらうのではなく、自分でいうには、自分の信仰が必要なのです。

14.06.08 主のものである祝福

 主のものである祝福


「詩篇 24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」



すべては主のものであるという事実

すべてのものは神様によって造られました。造られなかったものは、何ひとつありません。宇宙も、地球も、自然も、動物も、植物も、土や鉱物も、そして人も、すべては神様によって造られました。
神様が造り主ですから、すべての所有権は神様にあります。神様のものでないものは一つもありません。

神様はすべてのものの支配を人間に託した

神様は人を造られ、人に次のように命じられました。「創世記 1:28 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
神様が人を造られた目的の一つに「被造物を支配させる」ということがあります。(他には神様との交わり、神様の栄光を現すために、という目的がある)
神様は、神様のものである人間に、神様のものである万物を、支配させました。この世の支配権は、人間の手に委ねられたのです。しかし、人が悪魔に従ってしまい罪を犯し、神様から離れてしまいました。
それまでは、人は神様の支配にありました。が、悪魔に従うことにより、悪魔の支配に置かれるようになってしまいました。このとき、人の支配下に委ねられていた万物も、同じように悪魔の支配下に置かれてしまいました。

悪魔の支配から取り戻すために

このような状態になった人間を救い出すために、イエス・キリストが遣わされました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架におかかりくださり、身代わりの罰を受けてくださいました。それは、私たちの罪を赦し、悪魔の支配から私たちを救い出すためでした。
「ローマ人への手紙 10:13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
神様から離れて悪魔のものとなっている人間を、そこから救い出したいというのが、神様の切なる願いです。そして、被造物すべても、人間が救われて神様のものとなることを待ちわびているのです。「ローマ人への手紙 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」

神のものであることが祝福

人は神様から離れて幸せを失います。悪魔の支配に置かれてしまうからです。ほとんどの人が、このことをおとぎ話のように思っています。実際に自分が悪魔、悪霊の下にいることを知りません。しかし、実生活は、愛されようとして必死に生きているというわずらいの連続です。愛されていないと感じるからです。
社会で、人々の間で、自分の価値を高め、認められようとします。しかしながら、このことが満たされるのは、イエス・キリストを信じ、神様のものとなることによってでしかありません。
「私は愛されている」「私は認められている」「私は受け入れられている」と、すべてにおいて満たされているなら、実際に多くの人が、今やっていることに魅力を感じなくなるはずです。愛されるためにやっていることですから。
今度は神様の命令されることを、したくてする人生に変わります。愛されている人の歩む道は、自由であり、祝福です。
神様のものとなっていない人生は悲惨です。知らず知らずのうちに行き詰まることになるからです。たとえ華々しくなくても、すべてが満たされ、幸せを味わう生活を送れることが、最高の祝福です。
あなたが神様のものとなっていないなら、今すぐ神様に明け渡しましょう。そうでなければ、あなたは悪魔のものであるのです。
あなたの仕事・経済を神様のものとして差し出しましょう。そうでなければ、悪魔のものとなっています。あなたの家族を神様のものとして差し出しましょう。あなたの住まいを神様のものとして差し出しましょう。あなたの勉強・趣味・遊び・友人を神様のものとしてささげましょう。
神様のものでないものは、悪魔のものです。

14.06.01 思いわずらいの正体

 思いわずらいの正体


「イザヤ 40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」

思いわずらう日々

さて、今週は「思いわずらい」をテーマに取り上げました。多くの人が「悩むのはやめて、前向きに考えよう」と幾度も決意をしつつ、その数分後にはまたもとのように「一体どうしたら良いだろうか」と考え、大丈夫だと考えたり、心配したりを繰り返しています。そのようなとき、将来を心配し、くよくよ考えてしまう自分自身に問題があると気付きます。ですから、心配するのはやめて、明るく将来に向かって邁進することが一番の解決策だと強く思いはします。しかし、できないのです。
たとえば、結婚相手を見つけたいと悩むことで、そうなっています。そんなことをくよくよ考えている自分を人が好きになってくれるはずがないとわかるのですが、悩むことから抜け出られません。就職の問題で、悩んでいます。明るく前向きになれない自分に道が開かれて行くことは難しいとわかりながら、前向きになることができません。単調な毎日から抜け出たいと悩んでいます。自分に知識や力をつけ、新しいことに挑戦したいと考えています。そのためには悩んでいないで、勉強を続けるなどの日々の努力の積み重ねが大切だと、気付きはします。しかし、ただ悩むことには熱心であっても、日々の地道な努力は続けられません。

忘れるという解決

そのような状況の中で、ある人は逃げることを考えます。あきらめることを考えます。たとえば、今打ち込める何かに、没頭します。学生ならば、部活動に一生懸命になることで、問題を忘れようとします。後で考えれば良い、と思うのです。あるいは、ゲームや友だちと遊ぶことに夢中になります。くよくよ考えている自分なんかいやだからです。
社会人であれば、自分の趣味に没頭しようとします。とりあえず、将来のことはさておいて、今はこのことを楽しもうと考えます。麻雀などのゲームや、パチンコや競馬などのギャンブルに夢中になる人もいます。あるいはアルコールやせつな的な恋愛に、自分を忘れようとする人もいます。
これらに問題があるとすれば、その行動自体よりもその動機にあります。自分を忘れたい、と意識的にしろ、無意識的にしろ、自分から逃げていることです。結局問題を後まわしにしていることで、将来、必ず同じことで悩み、その問題は解決されることはありません。

神に聞くという解決

人がその人生で悩みから解放されて生きるためには、主から聞くということを学ばねばなりません。そもそも、神様を信じるということは、自分自身に頼ることの愚かさを知り、神様に従って生きることを決意したことでした。何となくであっても、「このままではいけない」「これからは神様に従って生きて行かなければならない」「人生を明け渡そう」とわかったのです。それは神様から教えられてのことでした。
「英知」ある神様に服従して生きることこそ、最高の幸せをつかむ方法であると悟ったことでした。ですから、その神様から離れて、自分なりに考え始めれば、当然思いわずらうことになることです。私たちが思いわずらうことで、神様とそのみことばが真実であることが、いよいよわかります。
神様に明け渡せないでいる以上、思いわずらい悩むことは当然のことであると知らなければなりません。聖書は「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」と言います。まさに、私たちはわかっていないのです。決して、神様から離れてはならないことです。イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない(ヨハネの福音書 15:5)」と言われました。このことを真実のことばとして捉えなければなりません。

刷新する人生

私たちの悩みは「自分ができていないこと」であってはならないでしょう。それは受け入れなければならないことです。できない者が、新しく勝利して生きることができるのは、神様につながってこそなのでした。わかりきったことです。
私たちは「自分が神様から離れていること」を問題にしなければなりません。つながり続ければ、すべての問題はことごとく解決するのです。私たちは主につながって、神様の中心にいて「たゆむことなく、疲れることなく」「英知」にあふれて生きることができます。
思いわずらう人は、人生の方向を変えて、生き方を刷新しなければなりません。
「ローマ人への手紙 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

14.05.25 私は悪くないという心理

 私は悪くないという心理


「Ⅰテサロニケ人への手紙1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」

親の愛し方

親は子どもを正しく育つようにしつけをしようとします。何とか、善悪を覚えさせ、正しいことをすすんでする人間になるようにと願って育てます。それで、言うことを聞かせようと頑張ります。たとえば、悪いことをした子どもに、いかに、親である自分が、悲しんでいるかをわからせようとして、「◯◯ちゃん。こんなことをしてはいけない。こんなことをする子は、お母さんは嫌いです。」「〇〇。こんなこともできないのか。情けないやつだ。」と叱るのです。このとき、叱って善悪を教えているのですが、それに加えて、罰として愛情を差し引いているのです。「嫌いだ」とか「情けない」ということばで発奮させようとしていることです。
このとき子どもは、大好きな親に対して「悪いことをすれば、自分は愛されないのだ」と思うようになります。そこでさらに、愛され続けるためには「絶対に悪いことをしたり、失敗をしてはいけない」と考えるようになります。叱られる自分や失敗する自分を赦せません。そんな者は愛されないと思っているからです。

防衛策

しかし、悪いことや失敗をしない人間は存在しません。「絶対に失敗しない」と強い決意をしても、すぐにも何らかの失敗をします。そのようなとき、子どもがとる自分を守る方法は、嘘をつくということです。「自分はそんなことはしていない」と、強く突っぱねます。正直になるという善よりも、自分が愛されることの方が重要です。「絶対していない」「自分じゃない」と言い張るのです。嘘とわかりきったことでも言い張ります。極端な例としては、見てわかるような、おしっこを漏らしたようなときでも、否定します。
そのような考えをもったまま、人は大人になります。さすがに、見てわかるような、あからさまな事実に対しては、しらを切ることは得策ではないとわかっていますので、嘘を言い張ることはありませんが、様々な言い訳をします。
その人にとっては、自分の意見が訂正されたり、自分のしたことに指摘を受けたりすることは、耐えられないことです。自分の価値がない。愛されない。ということになるからです。このような考えを持っていますと、あらゆる人間関係の中で、組織の中で、大きな障害となります。たとえば、会社などでは、最善を追求して、達成を目指すのですが、その人が無意識のうちに、自分にこだわるあまり、組織にとっては、とても使いにくい存在となってしまいます。本当は、次から次へと新しく訂正や変更を重ねてほしいところなのですが「いかに自分が間違っていないか」ということの説明に終始するからです。

キリストの解決

自分が愛される価値のない存在であると考えることは、心の闇となっています。人は、そのような自分を必死で守ろうとします。人々からの愛を勝ち取ろうとします。その人にとっては、人生の営みの全てが、愛されるため、であるのです。仕事も、自分の価値を高めるため、愛されるためにしていることですから、やりがいは、初期の、愛されていると感じるときだけしか感じることができなくなります。また次の仕事へと移って行きがちです。本当には、仕事でも、生き方でも、それが好きで人生をかけて携わりたいと願っていることでないので、強い熱意は生まれて来ません。
また、この闇は、神様との関係を築く上で、障害となります。神様に対しても、人に対してしているのと同じパフォーマンスをしてしまいます。神様に愛されるために、良いことをしていると見せようとします。悪いことはしていないと、説明したがります。
そして、この闇は悪魔悪霊の足掛かりとなります。この闇を舞台として、その人に働くのです。いろいろな神様に対する、言い訳や反抗の声が湧き上がって来ます。その人にとっては、人や周りが悪いのであって、自分が間違っていることに気が付きません。せっかくの神様の声に、混ぜ物をしてしまいます。
このようなことは、人間の努力では解決できないことです。イエス・キリストは、私たちの罪のために、十字架で死んでくださいました。私たちを完全に愛することができるのは、神様だけです。愛されることを人に求めてはなりません。いつまでたっても、それは満たされることはないからです。
もし私たちが、イエス・キリストを自分を罪から救い出してくださる救い主と信じるなら、私たちは赦され、神様の愛が私たちに完全に届くようになります。愛されようとして頑張っていたことが、そして自分自身を隠そうとして来たことが、罪であることを悔い改めるなら、心の闇は一瞬にして消え去ります。
どこの誰よりも、世界で一番、自分が愛される価値のある者だということがわかるようになります。もはや愛される必要はありません。これからは、達成や完成のために、何かを成し遂げるために、自分にこだわらないで打ち込めるのです。

14.05.18 妄想を捨てよ

 妄想を捨てよ


「ヘブル人への手紙 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

信仰の生き方

聖書は、この世には見えることがらだけではなく、見えない事実があることを説明しています。見えない神様の存在、その働き、お考え、約束、について私たちは感じたり、確かめたりすることはできません。ただ、一方的に神様から啓示されることを受け取ること以外に、知る方法はありません。神様が示してくださる事実、それが聖書なのですが、その聖書が示す見えない事実を受け取る方法が信仰であるのです。
もっとくだけた言い方をすれば、信仰とは神様の言われること、たとえば聖書に書かれていること、を鵜呑みにすることです。たとえば、神様は「ある」(出エジプト記3章)というお方であって、実際に存在されています。「神様は見えないかたちで存在されていますよ」という聖書のこの事実をそのまま受け入れる決意、それを信仰と言います。
そして、受け入れるならば、今まではわからなかった「神様がおられる」という事実が、確信をもって理解できるのです。つまり信仰とは、見えない事実を見るための方法であるのです。

聖書の事実

よくある考えで、信じない人にとっては事実ではなくても、信じる人にとっては事実である、というものがあります。これほど信仰を誤解したことばはありません。
信じても信じなくても、事実は事実です。「神様は存在される方」であるという事実を信じなくても、神様は実際に存在されています。人間の考え方によってその事実が左右されることはありません。ただ聖書のことばは、信じない人々には愚かと感じ、信じる人々には神の力となる、という違いは生じます(Ⅰコリント1章)。

見続けて生きる

ですから、人生を生きるのに、見えない世界を手探りで生きることは、本当に愚かなことです。あなたも、暗い部屋の中で手探りで行動したことが、少しならあるでしょう。停電の時やスイッチを見つけるまでの時のことです。一旦電気がつけば簡単に行動できることでも、暗闇では、本当に不自由なことです。おそらく、家具や壁などにあちこち体をぶつけたことでしょう。
電気が消えていても、ついていても、家具の存在、部屋の形、は全く変わりません。暗い部屋で賢く行動するためには、電気をつける必要があります。これと同じで、人生の見えない事実を見て生きるためには、信仰のスイッチを入れなければなりません。
聖書は見えない世界のことを説明しています。それは、死後のこと、神様の存在、お考え、神様に愛されていること、神様への道であるキリストについて、信じる者に神様が住まわれること、などなどですが、その事実を見続けて生きることが必要です。
もしあなたが、神様がどこにでもおられること、神様が自分を愛してくれていること、全知全能の神様が自分の内に住んでおられること、を意識して(信仰によって見続けて)生きるなら、電気を付けて行動するように、賢い生き方ができるのです。

妄想を捨てよ

神様のおられること、神様に愛されていること、神様が住んでくださっていること、を意識しないでいるということは、実際に存在する事実を見てはいないということです。少なくともその瞬間はそうです。それは実際に存在される神様を存在はしていないのだと勝手に妄想していることと何ら変わりません。事実、世の中の人々はみな、神様はいないと妄想しています。見えないので妄想するのでしょう。あなたも、一日の大半が世の人であり、時々神の国の人ということになってはいないでしょうか。
見えない事実を信仰によって見続けようとしないのは、事実を否定して、妄想の中に生きていることだと知りましょう。信仰によって生きるのは特別なことではありません。信仰によらないで生きることこそが、電気をつけないで生きている、特別なことなのです。
意識していない瞬間は、ありもしない妄想の中、ありもしない虚構の中、に生きていることです。神様がおられるのに気が付かないで生きているという、現実から目をそらせているという、妄想の生き方を捨てましょう。

14.05.11 なるほど最善がなされている

 なるほど最善がなされている


「第一コリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

神様がおられるという事実

誰でも、イエス・キリストを信じる人は、見えない神様の存在を信じています。神様は存在される方である、と知っているということです。そして、誰でもイエス・キリストを信じる人の内には、神様が住まわれています。クリスチャンはこの事実を信じています。自分の内に神様がおられることを知っています。
全宇宙を支配され、私たちの生活すべてに関わりを持ってくださっている神様がおられるのです。そして、不思議であり恐れ多いことですが、その全能の神様が、私たちの内に住まわれるようになりました。
クリスチャンは新しい人になった者ですが、それは罪赦された自分と神様とが、一緒に生きるということです。最強の二人というペアで、生きているのが、新しく生まれた自分ということです。

意識しない生活

ところが、多くの場合、このことを意識していません。神様がおられることと、その神様と自分が一つになっていることを、信じてはいます。しかし、意識しないで生活しているのです。
特に、真の神様が、自分の内に住んでくださっており、神様と自分というペアが新しい自分なのだ、ということを、一日中は意識してはいないという具合です。

意識しているなら

もし、私たちが、神様が内に住まわれていることを意識するなら、何が起きるのでしょうか。神様が内に住まわれると意識するなら、私たちの人生の見方が全く違って来るということをお話ししたいと思います。起きていることがすべて、自分にとっての最善であるとわかるのです。
神様が内に住まわれていることが事実なら、「なるほど今起きていることは当然のことだなあ。」と納得させられます。今までは残念に思っていたことでも、「そうではなくて一番良いことが起こっているのだな。」とわかるということです。
自分がそれほど神様を意識せず、十分には、神様とのペアであることを認めていない現状で、自分の望むことが次々と実現されて行くなら、それは、自分にとって最善と言えるだろうか、ということです。あくまでも、神様の内住が真実であるならば、神様はそのようにはさせないであろうということです。

神様の望まれること

聖書の言うとおり、神様は私たちを祝福してくださる方です。私たちは神様によって、いやされ、満たされ、豊かにされ、平安であり、望むことは叶えられる、のです。
そして、その祝福の神様が、実在され、しかも私たちの内に住まわれています。神様が、私たちを良いことで満たしてくださるのは言うまでもないことですが、私たちにとっての最善とは、その神様を認める生き方をする、ということではないでしょうか。
それが、一日の内のほんの数秒、数分、あるいは数十分、であるとすれば、そのような状況で神様の奇跡がなされ続けて行くなら、神様がおられるという認識はその程度のものということで止まってしまうでしょう。あるいは、ものごとがうまく行くことで、さらに神様の存在を信じてはいるが、意識しないで済ませる方向に行くのではないでしょうか。
ここで、わかってほしいことは、存在、内住を意識しなくても、信じてはいられるということです。神様を熱心に思うことはできますし、神様を論じることもできます。しかし、神様を意識しない生活に、信仰の実体はないのです。
時々思うこと、考えることが信仰なら、そのような信仰には意味がありません。神様の働きの中に意識して身を置いてこそ、信仰が生きるのです。
そういうことですから、神様の私たちに対する望みは、当然、私たちが内におられる神様を意識して生きることです。そのような意識を持てることが、私たちにとって最善であることが良くわかります。
神様の内住が事実なら、と言うものの、その意識が十分でないなら、今起こっていることは、当然のことだと良くわかります。いやされないのは当然(最善)ではないか。満たされないのは当然(最善)ではないか。問題があるのは当然(最善)ではないか。という具合です。
内住の神様を意識して、一緒に生きることが、人生の問題の答えだという、希望の光がここに見えるのです。神様の内住を意識し始めるなら、あなたのものの見方は全く違って来ます。
そして、あなたの願いも違って来ます。イエス様は父と全く一つでした。心も行動も何もかもです。私たちの場合は、一つにされていると言えども、そうではないでしょう。ふさわしくないのです。
しかし、神様の内住を意識し始めるなら、一日中意識するなら、私たちの心に湧き上がって来るのは、おそらく、「考えも、行動もふさわしいものになりたい。」ということではないでしょうか。
神様の臨在の事実が、私たちを新しくし、成長させるのです。「なるほど、最善だ。」とものごとを見ることのできる生き方が恵みです。

14.05.05 神様との会話

 神様との会話


「ローマ 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

神の子ども

イエス・キリストを信じて、人は、神の子どもとなります。神の子どもとはクリスチャンのことです。
さて、その神の子どもであるクリスチャンは、神様の御霊に導かれるのです。つまり、見えないけれども存在される神様の御霊、によって導かれている人のことを、クリスチャン(神の子ども)と言うのです。
聖書は「あなたは、今、クリスチャン(神の子ども)として歩んでいますか。」「神様の御霊に導かれているという自覚はありますか。」と問いかけているのです。

導かれるとは

では、御霊に導かれるとは、どういうことでしょうか。それにはまず、御霊に導かれていないとはどういうことなのか考えてみましょう。
人は何かに導かれています。たとえば「人に対する恐れ」や「周囲に対する恐れ」で動かされている人は多いことです。導かれるとは、「動かされる」ということです。
人の魅力や地位や名声を手に入れることに魅力を感じ、「引き寄せられる」人も多いことです。お金や物に「引き寄せられ」ています。愛されることに「引き寄せられ」ています。
「引き寄せられる」ことも「動かされる」ことです。
恐れは、反対に「追いやる」働きをします。ということで、「動かされる」とは「追われる」こと「引き寄せられる」こと、などだと分かります。
人は何かに追われたり、引き寄せられたりしています。何かに動かされている、つまり導かれているのです。そして、上記に述べたこれらの導きは、みな御霊以外の導きによるものです。

肉の働き

聖書は、これらの御霊以外の導きを好む、私たち人間の生まれながらにしてある性質のことを「肉」という言葉で説明しています。肉は、御霊以外の導きを好む(追う働きをする恐れなどについては好んではいない、とあなたはいうかも知れませんが)という性質があるのです。肉は御霊の導きには、あらゆる手段、考えを用いて、逆らいます。

御霊以外の導きの正体

聖書は、私たちは、生まれながらにして、闇の支配にあると教えています。それは、神に反抗する霊の支配下にある、ということです。悪魔とか悪霊とかいわれる悪い霊に支配され、導かれているということです。そして肉は、知らずして、この状態を好んでいるということです。
御霊に導かれることのない、生まれながらの私たちは、悪霊に導かれて、生きているのです。そして、神でないもの、いわゆる偶像(人の手で造った神、宗教)を拝んでいるのです。もしあなたが、御霊によって導かれているという自覚がないなら、必ず、悪霊に導かれているのだと自覚して良いでしょう。肉はそれを好んでいるのですから。御霊によって導かれようとはしないでしょうから。

御霊に導かれるために

そういうわけで、私たちは御霊によって導かれなければなりません。でなければ、思わしくない方向へ進んで行くことだと容易に想像できます。
御霊によって導かれるために、私たちがするべきことについては、別の機会に詳しく宣べたいと思います。が、今するべきひとつのことを述べたいと思います。それは、神様との会話を絶やさないということです。多くのクリスチャンは、このことを理解していません。思い出しては、神様のことを意識し、それ以外の時は全く忘れ、別の者に導かれているという状態です。
我々の心の中には、もう一人の自分との会話があります。これを断ち切らなければなりません。この心の中の会話を主に向けることです。「神様。これをどうしましょうか。」「主よ。感謝します。」などと主と会話をしながら、生活することです。景色を眺めるときにも「主よ。きれいですね。」「お父さん。あなたが造られたのですね。」ということばを心の中で、神様に投げかけます。
働いているときにも、仕事や人を前にして「主よ。」とか「感謝します。」ということばを湧き上がらせるのです。常に神様の目を意識して、過ごすことです。ここには、肉が、入り込めません。しかし、あなたが意識しないならば、必ず、違う者が、あなたを導き始めるのです。しかも、生まれつきのあなたの性質は、このことを好む(自然に神様から苦痛なく離れて行く)のです。
肉に逆らって、神様を意識し、会話を続けることです。その時に、あなたの心に、今までなかった「神様の望まれることを、させていただきたい」という、切なる願いが生じてきます。

14.04.20 キリストにかける人生 (2)できている満足

 キリストにかける人生 (2)できている満足


「ガラテヤ人への手紙 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

要求を満たして生きて来た

私たちは、親や周りの人々、社会や、あるいは自分の要求を満たして、または満たそうとして生きて来ました。
「そんなことではいけない」と言われないようにしてきたのです。自分でも「こんな自分じゃいやだ。もっと認められる人になりたい」と努力して生きて来ました。
多くの人は、すすんでする人生ではなくて、人や自分の要求に応えようとして、人生を生きていることです。たとえば、息をすることはすすんですることです。したいのです。止められれば苦しいのです。同じように、遊ぶこともすすんですることでしょう。(中には気分転換の必要があってという例外もありますが)遊ぶことを実践しようと意識する人はいないのではないかと思います。すすんですることには、努力は要りません。ここには自由があります。
多くの人が迫られてする勉強にも、努力が要らない自由な世界が存在します。勉強したいからする、止められれば苦しい、という状態のことです。その反対に、人や自分に要求されて勉強している人は、奴隷のように縛られているのです。自由ではありません。
もしあなたが「勉強しなくっちゃ」と言っているなら、あなたは奴隷の状態です。「息をしなくっちゃ」とか「遊ばなくっちゃ」と言わないように、「勉強しなくっちゃ」と言わなくなれば、人や自分からの要求とは無関係で、自由になっています。「息をしなくては生きて行かれない」という要求は存在するのですが、私たちは無関係に自由であれます。頼まれなくてもすすんでしていることだからです。
このことが、私たちの行動のすべてに言えることです。働くこと、あらゆる人間関係のこと、社会生活のこと、自分のこと、要求に縛られて生きていることです。

律法の要求

神様は、私たちに要求されます。「わたしと同じように聖であれ」「正しくあれ」「罪を犯すな」「わたしに信頼せよ」「恐れるな」「真面目であれ」「熱心であれ」「与えよ」「愛せよ」「赦せ」・・・と言われています。聖書は、この要求を満たそうと生きて、人は奴隷状態であると言っています。神様ご自身はこれらのことを、すすんで行なわれています。要求されてではありません。自由です。
私たちの罪の問題は「要求に縛られないで、すすんでしたいのに、できない」という根本的なことです。できないながらも、しなくてはならないことなので、いつも要求に追われています。いつまでたっても「しなくっちゃ」と言っているのであり、縛られているのです。
できないからと言って、神様の要求を無視することはできません。そうすれば私たちが不幸になることは、自分で十分に分かっているからです。怒りや心配で満ち、罪を犯し放題、そんなことでは人生を捨てることになりますし、孤立してしまうことになります。だから、したいから「しなくっちゃ」と言うのですが、それは奴隷状態を生み出しているのです。

律法の要求を満たすキリスト

ここからのことは、私たちがまず「聖くありたい」「熱心でありたい」と願っていることが前提の話です。願っていないと言うなら論外です。神様は、そういう人には「悔い改めなさい」と言われています。正しく生きたいという方向へ、方向転換です。
そしてそこにある、良き知らせは「イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます。」です。律法の要求を守りたいという願いは、イエス・キリストを信じて完全に満たされます。「できている」という事実になるのです。
罪はこのことを受け入れません。あくまでも努力して、認められたいと思っています。できないことを認めたくありません。それで、神様の要求を低く見ようとします。「できている」と言われたいのです。ところが、満たそうとして生きるなら、いつまでも奴隷です。いつまでたっても「しなくっちゃ」と言って生きているからです。
受け入れられるために、愛されるために、人の要求(実は自分の要求)に応えようとしているのです。これは奴隷です。救われる前なら当然ですが、救われてもなお、このように奴隷となっていることがある、と聖書は警告しているのです。

私はできている

イエス・キリストは「私に対する神様の要求を完全に満たしてくださった」「私はできている」のです。イエス・キリストを信じたなら、そうなのです。
そしてそれでもなお、「したい」となるのです。しかし今度は「認められたい」ためではありません。すでに認められて満足しています。「愛されるため」ではありません。すでに愛されていて満足しています。
イエス・キリストを信じて、イエス・キリストにかける道には「しなくてはいけない」「しなくっちゃ」は含まれていません。すでに「できている」のです。
そして「すでにできている」ことをさらに「すすんでしたい」のです。愛しているからです。私たちは自由です。「しなくっちゃ」と言わないからです。すでにできていることを知っているのです。

14.04.13 イエス・キリストにかける人生 (1)この道にすべてがある

 イエス・キリストにかける人生 (1)この道にすべてがある


「ヨハネの福音書 14:6 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

イエス・キリストがすべてとは

イエス様は、ご自分が「道であり、真理であり、いのち」であると言われました。イエス・キリストこそが、人生を生きる上での方法であり、答えであり、力であるということです。つまり、イエス・キリストに私たちの人生の全てがあるということです。また、イエス・キリストを知らなければ、何も知っていないということでもあります。
イエス様がすべてということは、イエス様の他には何も必要がないということになりますが、本当にそのような信頼を持って、「神様だけ」という生き方をして本当に大丈夫なのでしょうか。それとも多くの人が考えるように、あらゆるするべきことをした上で、神様にゆだねることなのでしょうか。いかがでしょうか。あなたは、どのように考えておられますか。

信じることだけで済むのか

まず罪の赦しを考えてみましょう。すでに知っていることですが、罪の赦しは、イエス・キリストを信じて与えられます。赦されることでしか、罪を取り除くことはできません。善行を重ねても、良くなることができない、のが人間の真の姿です。罪とはそういう人間の本質を指します。
だとしても、信じて赦された私たちが、今度は罪を犯さないように、善行を重ねて生きる必要はないのでしょうか。ただ信じるだけで、良いのでしょうか。
確かにイエス様は「ヨハネ5:14 もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と言われました。このことはどう解釈すれば良いのでしょうか。今度からは、罪を犯さない努力によって、自分を聖く保てと言われていることなのでしょうか。聖くなれない私たちが、今度は自力で聖くなれるというのでしょうか。

聖くなる方法

答えは、ただ「イエス・キリストを信じることだけで良い」です。救われるためにするべきことは「イエス・キリストを信じることだけ」でした。信じた後も、罪を犯さない方法は「イエス・キリストを信じることだけ」なのです。
ここで、「何の努力もしないで、ただ信じているだけでうまくいくはずがない」という疑問がわいて来るのではないでしょうか。ところが、これが罪に対抗する最善の方法なのです。
イエス様を信じて、私たちの罪は赦されます。もちろん赦されたいと求めて信じるということです。イエス・キリストの十字架は、私たちに代わって主が罰を受けてくださるためでした。つまりイエス・キリストを通して、私たちは神様に受け入れられたのです。そういう意味でイエス・キリストが道なのです。
ですから信じた後、聖くなりたいと願ってもなれない私たちが、罪を犯していないとみなされるためには、同じように、ただ「イエス・キリストを信じ続けることだけ」であって、努力することではありません。

この道にすべてがある

そういうことで、罪から離れて聖くなるためには、イエス・キリストを信じ続けることが唯一の方法なのです。
信じて聖いとされる私たちと神様との間には、完全なつながりがあります。私たちには、いつも神様の助けと力が流れています。それで、他のこと、問題の解決、いやし、豊かさ、目標の達成、なども同じように「イエス・キリストを信じる」ことだけが必要なことなのです。
問題の原因の多くは、私たちの「やる気」に関することです。経済の満たしも、くじけないでやり続けることなしに、解決されることはありません。家族やその他の人間関係も、くじけないで愛し続けることをしないでは、望むべくもないことです。目標の実現も、当然私たちの「やる気」が最重要なことになるのです。
これらの「やる気」は神様との絶えざる愛の関係にあってこそ、持ち続けられることです。努力によってはできないことです。
また、私たちには、私たちの「やる気」だけでは解決ができないことがあります。神様の奇跡が必要なことです。いやしや人間的な力を超えたビジョンの実現などがそうでしょう。これらの奇跡の働きも、神様と私たちの愛の関係が続いてこそ、その中に現われることだと理解できるのです。
ですから「イエス・キリストを信じることだけ」がすべてなのです。
次回は「イエス・キリストを信じることだけ」に「含まれることと含まれないこと」について述べます。

14.04.06 神と愛の関係に生きる

 神と愛の関係に生きる


「Ⅰヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

なぜ人生は苦しいのか

聖書は、私たちの人生の苦しみの原因について、それは神様から離れているからである、と教えています。一般的には、このことが信じられていません。人はそれを受け入れないのです。あなたもそうでしょうか。
あるいはあなたは、聖書の言っている通り、人生の苦しみの原因は、本当に神様から離れているからだと、すでに知ったかも知れません。しかし、そうであっても、このことを人にわからせるのはとても難しいと感じているのではないでしょうか。
この問題を理解するためには、まず人と神様との関係を理解しなければなりません。人が神様のことが分からないのはなぜでしょう。さらには、神様から離れていることが人生の苦しみの原因だと分からないのはなぜなのでしょうか。本当に真実ならば、人に理解できて当然だと思うのが普通ではないでしょうか。
自然現象について、なぜ雨が降るのか、その気になって勉強すれば、それほど難しくなくわかることです。人体の仕組みについて、宇宙の仕組みについて、分子や原子の構造について、あるいは人の心理について、勉強すればわかることです。しかし、神様ご自身について、また神様と私たちの関係については、その気になっても分からないのです。なぜ分からないのでしょう。

原因は罪

聖書は、その原因は私たち人間の罪にあると明快に教えています。罪とは神様に反抗する心であり、神様に受け入れられない、私たちの思いや行いを生み出している原因です。神様が聖さを持たれているのに対して、私たちの持っているものは、ひとことで言えば汚れです。
神様の聖さは、罪という汚れを完全に分離します。弾き飛ばすのです。これが神様の在り方です。それゆえに、人には神様が分かりません。当然、神様から離れていることが、苦しみの原因だなどということも分かりません。それで自分なりの努力を人は続けるのです。
神様の愛は、この罪の問題に完全な解決を与えるために、御子イエス・キリストを十字架に付けました。つまり、あなたの罪の罰を、あなたに代えて、イエス・キリストを罰するということで満たしてくださったのです。
あなたは、イエス・キリストを信じるだけで、分からなかった神様を知ることができますし、神様との関係を持つことができます。人は、神のふところに帰らない限り、人生の苦しみから逃れることはできません。
あなたは、本当はもっと幸せになれるはずだと思うのに、そうならないことに苦しんで来たのではないでしょうか。生きて来て良かったと思う人生にしたいと願いながら、いつの間にかあきらめて生きているのではないでしょうか。何か人生で価値あることを成し遂げたいと思いながら、もはやその熱意を失いつつあるということはないでしょうか。本当は、一人の人を愛し、最高の分かり合える関係で満たされたいと願いながら、うまく行かないと感じているのではないでしょうか。
これらのことはみな、神様のふところに生きて、完全に解決することなのです。まさにここに、人類が求めている人生の答えがあるのです。人はそれを知らないのです。知ることができないのです。罪を認めて、神様に降参しなければなりません。

愛の関係の中に生まれるもの

神様は、天地宇宙が造られる前から、私たちがこの世に生まれて来ることを計画され、私たちを愛し続けておられます。しかし、私たちの神様を認めないという罪によって、その御愛が私たちに届いていません。しかし、私たちがイエス・キリストを信じることによって、私たちは赦され、神様と私たちとの間に壁となっている罪を取り除き、私たちに神様の愛が届きます。私たちに神様が分かるのです。
そして、私たちは神様を愛することができていません。実在する神様を認めていないことですし、神様によって造られた者であることを認めて来なかったことです。それで、汚れた弱い者となっているわけです。何度も言いますが、私たちの罪は、このことを受け入れられないのです。しかし、神様に降参し、イエス・キリストを信じる者は、それだけで神様のみこころにかなう者とされるのです。これは信じた後に分かる理屈を超えた真実です。神様を愛せなかった私たちが神様を愛することができるようになります。実際は、イエス・キリストを信じているということによって、私たちが完全に神様を愛しているとみなしていただけるということです。私たちの愛が神様に届くのです。
このようにして、私たちは神様と相思相愛の完全な関係になるのです。真実の愛で愛し合っているところに生まれるものは、犠牲を払ってでも与えたいという切なる思いに他なりません。この思いが私たちの人生を変えることになります。

すべてが満たされる場所

不可能を可能にするのが神様の奇跡の力です。私たちはその奇跡にあずかることができます。また、私たちの持て余していた問題は、私たちの心のことであったわけですが、神様に愛され、神様を愛することは、私たちにつきることのないやる気を生み出して行きます。できなくても、止められても、私たちは喜んで生きたいのです。神様が愛してくださっているように、私たちもまた犠牲を払って人を愛したいのです。
家族のために、顧客のために、社会のために、犠牲を払って働きたいと思う思いが、困難を退け、結果的に私たちを豊かにします。ただただ神様を愛し、神様に夢中になるときに、心の雑草が取り除かれ、心の中のかき乱す者が退けられ、完全な平安と力を生み出します。すこやかな心と体を保つことができるのです。揺るぎのない心が、人生の目標を実現させます。私たちは、神様の奇跡がなければ達成できないような、大きなビジョンを実現する神の器となるのです。
神様と愛の関係に生きることが人生の答えなのです。

14.03.30 それでも律法の下に生きたいのか

 それでも律法の下に生きたいのか


「ガラテヤ 4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

幼稚な教えの下から救われて

私たちは、元来、「良いことをすれば良い人間になれる」という教えの下に生きている者です。すべての宗教は、「良いことをしなさい。そうすればあなたは良い人間になれます」と教えています。このような教えのことを聖書は「幼稚な教え」と言っています。
聖書は「良いことをしなさい」と教えつつ「やって見なさい。あなたにはできません」と切り捨てます。聖書の役割は、私たちが、いかに罪人であるかを教えることにあります。そしてそれゆえに、救い主イエス・キリストを信じることが必要なのだと教えます。私たちは、イエス・キリストを信じて、律法の全てを守りきった者とみなされ、恵みによって、救われたのです。

なお幼稚な教えの下に生きるのか

ところが、クリスチャンになってもなお、幼稚な教えの下に生きている(律法=聖書の戒めを守って成長すると思う)ことがありがちです。それは、一生懸命に戒めを守ることをして、その努力が報われることを期待する生き方のことです。「昔はできていなかったけれども、だんだん良くなって来た」とか「いくら月日を重ねても、一向に自分はできないダメな者だ」という反応がその典型です。このようなことが「幼稚な教えの下に生きている」ことだと聖書は実際に教えているのです。律法を誤用していることなのです。
私たちは、恵みによって救われたのですから、さらに恵みによって生きて行けるのだということを理解しなければなりません。それはどういうことなのでしょうか。

父との愛の関係に生きる

イエス様が十字架で死んでくださったのは、私たちを「律法の下」から救い出し神様の「子」とするためでした。「律法の下」から救い出される必要があるのが私たちです。
聖書に書かれている神様の戒めをひとつも守れない者だ、と私たちは実際に認めざるを得ません。真面目に聖書に向かえばそうなります。神様は私たちを「子」にしたいのに、そうはなれないということです。戒めを守って、神様に愛されよう、神様を愛そうとしても、全くかなわないことだと知らなければなりません。
神様は永遠の昔から私たちを愛し続けています。その愛は変わることがありません。しかし私たちは全く神様を愛することができません。神様を愛するとは、律法を完全に守ることだからです。
誰でも、イエス・キリストを信じて、神様に愛が届きます。律法を守っているとみなされるからです。神様が私たちを愛し、私たちが神様を愛するという愛の関係に生きるのが、クリスチャンであり神の子どもです。

愛の関係に生きるとき

私たちが愛し合う関係に生きるときに、その中で湧き上がって来るのは、相手を喜ばせたいという思いです。私は牧師をしていて、たとえ誤解されても、兄弟姉妹を守るため、真実を天国まで持って行くことを決意しています。そのようなときに、愛の関係にいることで、何も言わなくても理解し信じて、私を支えてくださる皆さんに感謝します。愛の関係の中には、特別な力ある神様の思いが働くことです。愛が同労者を生むのです。
それと同じように、私たちは、神様の戒めを全く満たせない者であったのに、神様との愛の関係に生きるとき、神様の望むことをしたいという、切なる思いが湧き上がります。戒めを守りたいのです。守れない者、守りたくないものであったのにです。だから、イエス・キリストを信じ続けて、神様を愛し続けて行くことだけが私たちに要求されることなのです。
そして、たとえ守れなくても、イエス・キリストを信じていることのゆえに、神様を愛する思いは、神様に届きます。相思相愛の関係が続くのです。
「私はだんだん良くなって来た」と思うとき、「そうではない、私はイエス・キリストを信じて、最初から良いのだ」と言うことです。「できていないからダメだ」と思う時、「そうではない、イエス・キリストを信じてすべてできているのだ」と言うことです。
そのように愛の関係に生き続けるときに、湧き上がって来る愛の思いに感謝します。この神様からの思いが、人生の問題をすべて解決するのです。

14.03.23 幼稚な教え

 幼稚な教え


「コロサイ 2:20-23 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」

考える以上に罪人

誰でも自分は良い者であると思いたいものです。それで、自分のことをより良く見ようとしてしまいます。「私は認められていますよね」と確認しつつ生きている人は多いのではないかと思います。少しでも評価されないところがありますと、とても残念に思います。そして落ち込むのです。
聖書は、私たちのありのままを明らかにします。神様の御前に出て、自分の醜さに気がつかない人はいないでしょう。ペテロはイエス様の言われるようにして、考えられないような大漁を経験しました。その時、主の御顔を拝して、あとずさりしました。そしてひれ伏して叫びました。「ルカ 5:8 主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と。
イエス様に出会うと、誰でも本当の自分を隠すことはできません。人生の問題の解決は、まず本当の自分をみることから始まるのです。

幼稚な教え

人生の問題に対する解決は、自分が良くなること、成長すること、にあるのではありません。良くなろうとして、良くなれないのが人間だからです。誰であってもそうですが、そういう問題を抱えているのが自分だと知ることは、最も必要なことです。
ところが、世の中の教えは、「すがるな。味わうな。さわるな」というようなもので、自分の努力や力によって良くなると教えています。これがなぜ幼稚な教えというのでしょうか。
人がまじめに何かを信心していれば立派なことのように見えます。特別努力をして頑張っていれば、尊敬されることになるでしょう。謙遜に生きていれば、喜ばれます。しかしです。問題は解決していません。なぜなら、私たちの問題は「肉のほしいままな欲望」(罪)であるからです。罪には、幼稚な教えは「何のききめもないのです」

律法の誤用

聖書は神様のことばであり、神様の要求が書かれているものです。これを守ることが神様の私たちに対する願いです。しかし、これを守ることに熱心になると、二つの誤った態度に陥ります。一つは、自分はできていると勘違いして、高慢になってしまうことです。しかも、出来ていない人を裁かないではいられません。もう一つは、自分ができてないことを知り、落ち込むことです。卑屈になり、人を恐れます。
神様の戒めを守ることに熱心であることは、良いことだと誰もが思うことです。しかし、神様の律法つまり聖書は、私たちがいかにそれを守れない者、罪人であるかを、知るためのものです。つまり私たちの本当の姿をうかがい知るためのものです。私たちは、聖書によって、神様の前にペテロのようにひれ伏すことになるのです。
幼稚な教えによって、熱心になっているなら、神様を知らないことと同様に、全く神様の御心から遠く離れていることだと知る必要があります。神様の霊ではないものの支配にあることだと聖書は教えます。

考える以上に神に愛されている

神様はあなたのことを愛しています。そんなこと、あなたは知っていると言うかもしれません。しかし、あなたの思っている以上にあなたは神様に愛されています。
神様はあなたと愛し合う関係になるために、御子イエス・キリストを十字架に付けられました。神様があなたに望むことは、あなたがイエス・キリストをあなたの救い主と信じることです。イエス・キリストを信じることでしか律法を守ることはできません。そして、律法を守ることが、神様を愛することです。守ることのできない問題を抱えている私たちが、イエス・キリストを信じて、律法を守った、つまり神様を愛していると見ていただけるのです。
そのようにして、神様と愛の関係にいるなら、神様の戒めを守りたい(愛したい)という感情が湧き上がってきます。これは理屈ではありません。
あなたは、自分のやりたいことがある時、これは良いことであるか、悪いことであるか、と考えたことがあると思います。しかしそれは、自分のやりたいことをしたいがために、神様の喜ばれることであるようにと、善悪を論じたことではなかったでしょうか。愛の関係の中にはこのような善悪を論じることは存在しません。愛する人に、これくらいのことは許されるだろうと思って、あることをしようとするなら、許される範囲で、自分の要求を通そうとする取引となっていることです。もはや愛ではありません。
私たちが熱心になるべきは、主を愛することだけです。それが私たちの人生の問題の唯一の解決法なのです。

14.03.16 祝福とのろい

 祝福とのろい


「創世記 12: 1-3 あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

祝福の神

神様はアブラハムに「あなたを祝福」すると言われました。神様は祝福の神です。私たちを祝福したいと願っておられるのです。人の救い(罪からはなれて神様との関係に生きること)の計画はアブラハムから始まりました。神様を信じたアブラハムを、神様は受け入れてくださいました。それで、アブラハムは祝福された人生を送ることになります。
イエス・キリストはアブラハムの家系に、聖霊の働きにより、生まれてくださったお方です。それは、御子を信じる者が救われるためになされた神様のご計画でした。イエス様は、罪のない正しいお方でしたが、私たちの身代わりとなって十字架に付けられました。そのことが自分のためであったと信じる者は、罪の赦しを受け、神様に受け入れられます。アブラハムがただ信じて受け入れられたように、私たちもまた信仰によって救われるのです。それは、神様の祝福を受けるためであるのです。

祝福とは

祝福とは一言でいうと、わずらいのないことです。アブラハムにもわずらいがありました。神様に従って来ましたが、飢饉(ききん)で生きて行かれなくなる恐怖がありました。それで、自分の判断でエジプトに逃れました。そこでは命の危険を感じました。それで、妻を妹と偽り、王に差し出しました。しかし、神様はこれに介入され、飢饉や死のわずらいからも救い出されました。
その後もわずらいが続きました。年老いたアブラハムには、子どもがありませんでした。神様の祝福により、経済や健康に恵まれましたが、跡を継がせる子どもがないのが、心残りであり、唯一のわずらいでした。しかし、神様は約束通り、アブラハムが100歳になったときに、子どもを与えられました。
アブラハムは、長寿で健康であり、経済的に社会的に恵まれた人生を送りました。さらには、アブラハムの子孫が空の星のように増え広がり、今日まで続いている(イスラエル民族)わけです。
私たちイエス・キリストを信じる者は、イスラエルの民のように直接の血のつながりはなくても、アブラハムの子孫であると認められています。ですから、アブラハムの受ける祝福を私たちは受けるのです。私たちの人生は祝福されるのです。

のろわれているとは

のろわれると言うと、何かおどろおどろしたことを想像します。新興宗教が言うおどし文句のように聞こえることです。しかし、のろいとは祝福の反対であることを理解する必要があります。わずらいがあることがのろいの中にいることです。
人類のつまり私たちの生活にわずらいがあるのは、神様から離れた結果なのだと知らなければなりません。
釈迦は、「生老病死(しょうろうびょうし)」の四v苦が人生にあると言いました。生きること、老いること、病気になること、死ぬこと、これらが人生をわずらわすものであることは、言うまでもありません。さらに加えて八苦あるとも言われます。愛する人と別れること、憎い人と出会うこと、得られないこと、執着すること、などを加えるわけです。そこからの解放は、とにかく欲望、執着心を捨てることだとされるのですが、人生の苦しみをよく表していることです。
しかし、苦しみの本当の原因は、祝福の神様から私たちが離れていること、にあります。のろわれているとは、特別な悪い状況にあることだけでなく、祝福の神様から離れて生きている普通の生活そのものでもあるのです。

祝福されるために

私たちは本来祝福されるために生まれて来たものであることを信じることです。それが、イエス・キリストを信じて実現することを信じなければなりません。
もしわずらいがあるなら、すすんで神様に立ち返ることです。心に悩みがあるでしょうか。生活に追われていることはないでしょうか。悪いことが起こるのではないかといつも心配してはいないでしょうか。そして、これらのことが無くなり安心できる人生を求めてはいないでしょうか。ひとつの問題が無くなっても、また次の問題が生じて来るだけです。祝福の神様のご支配の下で生きることを決意しなければなりません。人生を明け渡すことです。
人をのろう気持ちがないでしょうか。人の不幸を願うなら、私たちはのろわれます。
神様は「あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われました。私たちをのろうものがあれば、神様がのろってくださるという意味です。しかし、逆に私たち自身が人をのろう者となれば、神様は私たちをのろわれると言われていることでもあります。
今のこの、人を悪く思ってしまう状況が、のろわれた状況であると知らなければなりません。あなたが、わずらいの中にあるなら、罪を捨てて、神様に立ち返ることです。祝福の神様に祝福されて、人を祝福して生きて行きましょう。
「ガラテヤ 6:7 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」

14.03.09 すでにさばかれている

 すでにさばかれている


「ヨハネの福音書 3:18-20 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」

なぜキリスト

聖書は、御子イエス・キリストを信じる者はさばかれない、しかし、信じない者はさばかれる、と警告しています。
私たちが、救い主イエス・キリストを伝えるときに出会う反応で、良くあることは「神様を信じなさいと言うのはわかるけど、なんでキリストなの?」というものです。これに対して、あなたは、どのように説明するでしょうか。
簡単に言いますと、私たちは罪人であり、生まれた時から神様を信じないで、神様から遠く離れているものであること、そして、誰も真の神様を直接には知ることができないこと、それゆえに、神が人となられたイエス・キリストを信じて、神様に立ち返らなければ、滅んでしまうのだ、ということです。
さらに、では罪とは何か、十字架の意味、裁きについて説明しなければなりません。

信じる者と信じない者

また「信じる者を救い、信じない者を救わない、というのはとても無慈悲な勝手な言い分なのでは?」という質問も良くある反応です。
このことにはどう答えるでしょうか。このことも簡単に言いますと、神様は、ご自分を気に入ってくれる人に、えこひいきをするような方ではありません。信じるから良くしてくれる、信じないから懲らしめる、という図式ではないことをまず理解してください。
私たち人類は生まれた時から、全く神様から離れているので、滅びに向かっている存在です。その私たちに対して、神様は、イエス・キリストを差し出して、救われるようにと、救いの手を延べてくださっているのです。
信じない者は、その手を払いのけて、自分の意志で滅んで行くに過ぎません。この変えようのない現実の中で、私たちは自分で、信じないか信じるかによって、滅びか救いを選んでいるのです。実際、今そのどちらかなのです。

さばき

そのさばきについて、聖書は、その人の魂が死後、永遠の炎の中で苦しむことであると言います。しかし、加えて、さばきはすでに行なわれているのだとも説明します。「すでにさばかれている」のです。
すでに人類が経験的に知っていることですが、人生というものは常にわずらいに満ちています。人は生きるために苦労しなければなりません。病や死の恐れが常に付きまといます。加えて飢えや貧しさが人を襲います。人間関係に苦しみがあります。家庭では親子、夫婦の間で争いがあります。社会や国家間での争いがあります。そればかりではなく、心に希望や平安を持ち、それを保つことはとても難しいと、誰もが感じています。
これらはすべて、神様の与えてくださる祝福とは正反対の、のろいに属するものです。神様から離れているがゆえに、人類が味わっているものです。つまり、人はみな生まれながらにして、さばきの中にあるということです。
さばきは、後に来るというだけのものではなく、信じないでいるこの状態が、「すでにさばかれている」のだと知らなければなりません。
「ヨハネの福音書 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ここに希望がある

今がさばかれているとき、と知るなら、ここに希望が生まれます。信じることによって、神様の祝福の中に生きられる、とわかるからです。
人類は「すでにさばかれている」のです。あなたは「すでにさばかれている」のです。このわずらいに手だてがあることは、希望です。
わずらいのない人生を与えるために、主は十字架で、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。

14.03.02 神を知る知識

 神を知る知識


「コロサイ人への手紙 1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」

罪人が救われた

私たちは、イエス・キリストを信じて救われました。このことを、聖書は、行いによるのではないと説明します。
ある人々は、教会にはとても真面目な人々が集っていると思っています。教会の教えが、とても厳しくて、高尚なものだと感じているからです。神様を信じている宗教的な人は、その行いが正しくて、立派なものであらねばならないと、思っているのです。
確かに、神様の要求は、人の心に思うことさえ、きよいものであるべきであるというものです。しかし、この要求を満たすことのできる人は一人もいません。すべての人は罪人です。ですから、実際に教会には、良い人も、できる人もいません。みな欠点のある人ばかりです。そのような人が神様に、喜ばれ、受け入れられて、祝福を受けています。

イエス・キリストを信じて救われた

神様に受け入れていただいたのは、ただ、ひとつのことをしたからです。イエス・キリストを救い主と信じたのです。
具体的には、神様が唯一の方であること、人を、天地を、造られた創造主であること、私たちを救うために、イエス・キリストを遣わし、十字架に死なせ、私たちの罪の身代わりを果たさせたこと、を信じて、救い主として、受け入れたことです。
このことを指して、行いによるのではなく、信仰によって救われたのである、と説明しています。
神様に喜ばれるようなことは何ひとつできない者であるのに、ただイエス・キリストを信じる信仰だけで、救われたのです。このことは、私たちが十分に説明できない霊的な出来事です。しかし、私たちは信じたのです。

信じなければならないということだけはわかった

私たちがイエス様を自分の救い主と信じることは、私たち自身の、信仰の決意によることです。しかしそこには、十分に納得できるような理解があったわけではありません。それでも、神様はおられること、ただお一人の方であること、イエス・キリストは神が人となられた方であること、イエス・キリストの十字架は私たちの罪の身代わりであったこと、を信じなければならないということは、何となくわかったので信じたのです。

知識が与えられたのだ

生まれながらに、神様から全く離れている私たちは、神様の世界のこと、霊的なことがらにおいては、まったく無知でしかありません。神様の方から教えていただかなければ、何ひとつわからない者であるわけです。
そのような私たちが、何となくであっても、信じなければならないということはわかったのです。わかるということは、知識が備わったということに他なりません。このことは、神様が私たちに天の御国の知識を与えてくださったことなのです。
何も知らないはずのものが、信じなければならないとわかったのです。この世にはない知識が、自分の内に存在するようになりました。現に、神様を信じない人には、全く存在しない知識なのです。

救いは御霊の働き

人が救われるという背景には、必ず御霊の働きが存在します。私たちは行いではなく、信仰によって救われるのですが、その信仰さえ、神様が与えてくださったことなのです。
神様が、霊的な知識を与えてくださいました。だから、信じないままでいるのではなく、信じるべきだと、わかったのです。罪があるとわかりました。悔い改めなければならないとわかりました。頭での理解ではありません。心に何となくそうしなければならないという、霊的な衝動を覚えたのでした。
さらに聖書は、私たちが救われたのと同じように、その後も御霊によって、教えられて生きるのがクリスチャンであると、教えています。
何となく、悔い改めなければならない、信頼しなければならない、明け渡し献身しなければならない、とわかってはいるのです。それは私たちがそう思うというレベルの話ではなく、神様がその知識を与えてくださっていることなのです。だからわかるのです。
救われた時と同じように、神様の与えてくださる知識によって生きるなら、敗北はありません。

14.02.23 罪責感の正体

 罪責感の正体


詩篇 73篇 アサフの賛歌
1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。 2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。 3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。 4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。 5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。 6 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。 7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。 8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。 9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。 10 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。 11 こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」 12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。 13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。 14 私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。
15 もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。
16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。 17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。 18 まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。 19 まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。 20 目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。 21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、 22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。 24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。 25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 26 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
27 それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。 28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

今週取り上げたみことばは、詩篇の73篇の全節です。少し長いですが、主からのメッセージをいただいてまいりましょう。

主は慈しみ深いお方なのに

詩篇の作者アサフは、自分の苦悩を訴えます。自分が弱り果てて苦しんでいるからでした。何が苦しいのかというと、誇り高ぶっている者、悪者が人生を楽しんでいるのを目の当たりに見せられて、腹が立っているのです。神様を信じない者、神様に従わない者が苦しむことなく、満たされて生きているのが、許せないと思うのでした。この自分は、神様を信じ、神様に従って生きているのに、なぜ自分が彼ら以上に幸せでないのか、豊かにならないのか、と妬み羨んでいるのです。
正しくない生き方をしているのに、彼らは苦しんでいないし、精力的にあぶらぎって調子良くやっているのです。神様を信じる人、自分のように真面目な人が、彼らのように不信仰に生きれば、たちどころに苦しむのに、彼らは全く責められていないのは、どういうことなのか、見れば見るほど、考えれば考えるほど、なぜ神様は一生懸命にやっている私を、いつくしんでくださらないのだろうかと思い、不信仰な者どもが平安であり、いつまでも豊かであるのを、憤っているのでした。

でも自分の考えは間違っているのだろう

アサフは「一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた」と言います。悪者が栄えて、自分が苦しむのは、納得がいかないと考えながら、自分が責められている原因は、「自分に別の原因があるからでは」とどこかで考えています。おそらく「彼らがどうであれ、自分は自分だ。もっと神様に信頼する思いを強くしよう」と考えたかも知れません。あるいは「自分は余計なことを考えすぎている。考えるのはやめよう」と思ったかも知れません。
しかしそのような中でも、「心に責められるのは、自分の内に何かあるからだ」という思いが少しはあるのです。「このままを述べよう。」と言ったなら、罪を犯すことになると言っています。つまり「なんで不信仰者が、平気なんだ。なんで私が苦しいのだ」と神様の前には言えないと、少し何かが引っかかるのでした。「自分が間違っている」と薄々感じていたことでした。

原因は罪

彼の苦しみの原因は、悪者が繁栄しているからでもなく、自分が恵まれていないからでもなく、彼の心の奥底に潜む罪でありました。神様の前に祈り始めて「22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」と彼は悟りました。人は神様を信じなければいけないこと、神様に信頼して、すべてを明け渡して生きなければならないこと、それらのことはすでに教えられていることであり、彼はそれを知っていました。しかし「自分は一応神様を信じており、神様はいつくしみ深い方だから、当然、自分は平安であり、不信仰者は苦しむことだ」と考えていました。自分の心に罪があるから、苦しんでいるのだ、責められているのだ、とは思いもしませんでした。
心に責められる時、何か自分に足りないと感じます。「捉え方が悪い、考えを変えなければ」、「もっと平気でいられるように、信仰を強くしよう」、「余計なことを考えるから苦しむのだ。考えないようにしよう。忘れよう」、と努力したり、逃げたりして解決をはかろうとします。しかし、逃げても努力しても、解決はしないのです。何かが足りないというよりは、心に罪があるから、責められ苦しんでいるのだと知らなければなりません。

解決は神様にある

アサフは神様の前に出て祈りました。そこにしかこの苦しみから逃れる方法はないと信じたからです。彼の悟ったことは「28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」でした。
私たちは、すべての罪を神様に差し出さなければなりません。私たちの心の領域に、神様の光の当たらない所があってはなりません。私たちが罪責感に追われ、いつも何か足りないと責められ続けることになるからです。
人間にとって、人生の苦しみの原因は罪であることを知らなければなりません。神様に信頼しないで生きて、平安を感じたり、恵まれているように見えても、その行き先は滅びであることを知らなければなりません。
人間にとっての幸せとは、神様とともにいることなのです。罪は神様と私たちを隔ててしまいます。ですから、どのような小さな罪も、明らかにされ、取り除かれなければなりません。
イエス・キリストの十字架の目的は、私たちを罪から解放し、自由にするためでした。私たちは主を信じて、すべての罪をキリストの十字架に付けてしまわなければなりません。「足りないものは何もない」というのが、神の与えてくださる本当の自由であり、幸せなのです。罪をすすんで認めてはじめて、そのようになるのです。

14.02.16 敗北の準備はしない

 敗北の準備はしない


「第二列王記 13:15-18 エリシャが王に、『弓と矢を取りなさい。』と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。 彼はイスラエルの王に、『弓に手をかけなさい。』と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、『東側の窓をあけなさい。』と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。『矢を射なさい。』彼が矢を射ると、エリシャは言った。『主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。』 ついでエリシャは、『矢を取りなさい。』と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、『それで地面を打ちなさい。』と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。 
神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」

預言者エリシャ

北イスラエル王国はその存続中、神様に反抗し続けました。神様を信じる気持ちがありながら、神様に従うことをしませんでした。それは、罪を犯しながらも、神様を求める思いがあるという、私たちの周りにも、ありがちな信仰の姿勢ということができます。
そのような北イスラエルに対して、神様はエリヤやエリシャという預言者を遣わして、正しく導こうとしました。掲題のみことばは、当時王であったヨアシュに対し、エリシャが矢を打つことを命じたというものです。
神様には従いたくないと思っているヨアシュですから、神様から遣わされたエリシャに対しては距離を置きたいところです。しかし、全面的には明け渡すことができなくても、彼には預言者の存在がどこかで支えになっていることでした。
また裏切られることが分かっていながらも、エリシャもこれに応じます。神様も同じように、私たちに接してくださることに感謝します。

矢を打ちなさい

ヨアシュに対して、エリシャは矢を射ることを教えます。このことは、ヨアシュがアラムに対して勝利することを教えるものでした。エリシャが弓を引くヨアシュの手に自分の手を重ねます。このことは神様のみわざによるものであることを示すためでした。
ヨアシュが東の窓から矢を放ちますと、エリシャは「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」と宣言します。ヨアシュが信仰を持って、アラムに立ち向かう時、主が必ず勝利させてくださると、主ご自身がお教えくださっていることでした。
私たちにも、信仰という「主の勝利の矢」が与えられていることを信じます。私たちは主とともにあって、この「主の勝利の矢」を放たなければなりません。私たちは勝利するのです。

勝利を求める気持ちがあるなら

次にはエリシャは「それで地面を打ちなさい。」と命じます。ヨアシュは、地面を三回打って、それでやめました。このことについて、エリシャは怒って、勝利を求める気持ちがあるなら、何度でも打つべきであったと言います。
最初の矢を射ることを命じたことは、ヨアシュの心に主を求め、主の勝利を求める思いを起こさせるためでした。しかし、彼はこれを良く理解できなかったようです。
誰でも、主にあって勝利できる、と信じるなら、何度でも勝利の矢を放とうとするでしょう。もし、勝利の矢を射続けることをやめてしまうなら、勝利を求める思いがないということです。
エリシャの怒りは、ヨアシュが当然知っていなければならないことを、知らないでいることに対するものです。彼は、地面を打つという状況に出くわして、意味のないことと、勝手に思い込んでいるのです。
人生には、手応えのない地面に矢を打つような状況が、あることです。たとえ行き詰まりを感じる状況に追い込まれても、私たちは、神様によって勝利し続けるものであることを知らなければなりません。

敗北の準備はしない

「もう今からでは遅い」と感じることがあるかも知れません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に於いては、遅すぎることは一切ありません。「今からでも大丈夫」と気が付く時が、私たちの勝利のスタートなのです。
「もう遅い」と思うことは、イエス・キリストを信じる信仰に於いては、敗北の準備をすすんでしていることに他ならないのです。
私たちは、「主のいやし」を期待しなければなりません。「主の解決」を期待しなければなりません。決して敗北の準備をしてはいけないのです。「ダメかもしれない」ということを前提に、ものを考えるべきではありません。最後まで、主の勝利がなされることを見届けてまいりましょう。
もし、あなたの考えているような結果にならないときには、主は別のご計画をお持ちなのだ、ということを知ることになるのです。そのときは、また確信を持って新たな主の勝利を信じることができます。
私たちは、何が勝利かは全く分かっていない愚かな者です。しかし、主が勝利者であることは知らなければなりません。すべてを働かせて益としてくださる神様に全面的に信頼しなければなりません。

14.02.09 忠実なしもべ

 忠実なしもべ


「マタイの福音書 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」


かき乱す者に勝利する主のしもべ

聖書は、主を信じる者は主のしもべであると教えています。イエス様は天の御国を教えるとき、私たちが神様のしもべであり、神様は主人であるとのたとえを用いられました。
新約聖書にはパウロという伝道者が出て来ます。彼は、自分こそ主のしもべである、との自覚を誰よりも強く持っていたものでした。彼は、イエス様が昇天した後、イエス様の霊に出会って、使徒とされました。その後、神様からの啓示を受けて、その教えを詳しく説き明かしました。
そのパウロに反対する人々がおりましたが、それは彼の述べているメッセージに反論する働きでした。そのときパウロは、自分は神様のしもべであるとして、「かき乱す」働きに立ち向かったことでした。(ガラテヤ人への手紙1章)
神様の語ることばに反対する、「かき乱す」者がいます。私たちが主のしもべであるとの自覚を持って生きるなら、「かき乱す」者に勝利して生きることができるのです。実際、イエス様は、信仰とは「しもべの精神である」と教えられました。(ルカの福音書17章)私たちができるできないに関わらず、神様の命令に対して、「はい」と言って従おうとすることが必要なのです。そのしもべの精神に、神様が働いてくださるのです。

しもべは忠実であること

イエス様のたとえで、主人はしもべをほめましたが、それは彼が忠実であったからでした。5タラント任されたしもべは、それを使って、儲けました。それがほめられました。2タラント任せられたしもべも同じことばでほめられました。そのほめことばは「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」ということです。
しかし、1タラント任せられたしもべは、それを使わず、地中に埋めておいたのです。そのしもべは、叱られました。彼が忠実でなかったからです。しかも、その持っているものは取り上げられて、たくさん持っているしもべに与えられてしまいました。
忠実なしもべは「わずかな物に忠実であったから、たくさんの物を任せよう」と言われています。私たちは、神様に与えられている物を忠実に用いなければなりません。

わずかな物

私たちが神様からあずかっている物とは何でしょうか。私たちの持っている物は、みな神様からいただいた物です。肉体も、精神も、みな神様からいただきました。神様からいただいていない物は、何ひとつありません。神様を信じる人であろうが、信じない人であろうが、この世に生まれて来たのは、神様からいのちをいただいたことです。ですから、これを使って神様を喜ばせなければなりません。
ともすれば特別に神様からいただいていることを意識しないでしまうもの、これこそ私たちが、わずかな物と片付けてしまうことではないでしょうか。
「いつも喜んでいなさい」と神様は命令されています。私たちがその気になっていようといまいと、しもべとして「ハイ」と素直に従って、いただいているわずかな物、つまり顔の筋肉を使い、心を使って、喜びを表すことをしなければなりません。「愛し合いなさい」と言われています。私たちは、手足を使って、顔の表情を使って、心を使って、人を愛する行動をしようとすることです。そうすれば、神様はそのしもべの精神を通して、働かれます。私たちにはできないことであっても、神様にはおできになるのです。主のしもべとして生きるなら、不可能のない生き方をすることができるのです。

多くのものを任せよう

クリスチャンとして新しく生きるとき、今までにない神様の働きを経験するようになります。信じる者は、御霊の賜物(神様が任せてくださる多くのもの)によって生きると約束されています。また、主の大宣教命令に従って生きる者には、「神様の奇跡の働きがある」とイエス様は言われました。(マルコ16章、ヨハネ14章)
それらはみな私たちの力ではなく、私たちを通して働く主の力なのです。しもべの精神、つまり信仰は管として働きます。神様の力を流す管となるのです。そのためには、私たちはまず「わずかな物に忠実」でなければならないのです。

14.02.02 神様とひとつにされている

 神様とひとつにされている


「第一コリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

私たちは神とひとつにされた

イエス・キリストを信じる者は誰でも、内に神様が住んでくださっています。このことは、私たちが意識してもしなくても、霊的な事実であるのです。信じて、罪赦され、きよめられて、内に神様が住んでくださっています。
もはや、私たちは以前のように一人ではなく、「私と主との二人」で生きているのです。クリスチャンは誰でも、新しく生まれた者です。「ヨハネ 3:5 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
新しく生まれた私たちは、主とともに歩むものとされました。以前にお話ししましたように、最強の二人として生かされているのです。

ひとつであることを知るなら

おそらくクリスチャンは、「自分の内に神が住まわれている」ことを知っているでしょう。そこで、この霊的な事実を、本当に知って意識して生きているなら、私たちの生き方は、以前と全く違うものになることを理解しなければなりません。
「讃美の力」の著者であるマーリン・キャロザース師は著書の中で次のように述べています。
「このようにイエスは祈られました。そしてこの祈りは確かに答えられたのです。パウロは、私たちがすでにキリストと共なる座についているのだと教えています。キリストが私たちのうちに住んでおられるのです。私たちはキリストにあって父なる神と一つなのです。
これらのすでに成就された事実の意味がほんとうに分かり始めますと、人生の他のいろんな事がみな正しい角度から見え始めます。かつては私たちのキリストに対する関係にはそぐわないように見えて、ひどく心を悩ませていた外側の状況が、今では神が私たちの生涯のために遂行しつつあるご計画の中に完全にピッタリ適合していることが分かってきます。まだ、そのご計画が見えるわけではありません。しかし私たちの主であり師であるイエス・キリストが見えるのです。そして神にはご計画があって、そのご計画は良いものであることが私たちには分かるのです。」(讃美の力 P252-3)

正しい角度から見ることができる

彼が言うのは、今まで私たちが苦しんだり、悩んだりしたような、起こってほしくないことがらであっても、神様が私たちのために、必要があって起こしておられることだということが分かるようになる、ということなのです。
何事も、私たち自身に対する良い計画のために、神が起こされ、あるいは許されていることだと、ますます良くわかって来るということです。そして何事にも感謝を感じないでいられなくなる、というのです。
それはただ、「神様とひとつにされている」という事実を本当に知ったからこそ見えるようになった、正しい見方なのだということです。イエス・キリストを信じない者には、持とうとしても持てない視角であるということができます。つまり信じない人、あるいは信じていても、ひとつであることを、本当には理解していない人には、事実なのに見えないことなのです。

なるほどひとつであると言うならば

私たちが日頃悩むような出来事とは何でしょうか。経済の満たされないことでしょうか。家族に問題が生じていることでしょうか。それとも、自分が満たされないで、悶々としていることでしょうか。人生が思うようには行かず、焦ったり、苦しんだりしていることでしょうか。病の苦しみや不安でしょうか。愛されないことであったり、人間関係でつまずくことでしょうか。
それとも、失敗をしたり、人を傷つけたり、罪を犯したり、と自分が情けないと思うようなことになっていることでしょうか。
これらすべての出来事において、今までは、苦しみ悩んで来たのです。しかしです。神様と私はひとつにされている、と本当に信じきっているなら、なぜ神様はこのようなことを起こされているのか、納得できるのです。
霊的には、神様とひとつにされている、ということが事実です。このことは疑いません。しかし、私たちの行いや、思いにおいては、全くそのようにはなっていないということが現実ではありませんか。つまり霊的な事実に対して、外側はそれにそぐわないのです。
神様の御心は、私たちの外側も、変えられて行くことだと信じます。
「第2コリント 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
そこで、「なるほどひとつならば」と得心が行くのです。イエス様は、父とひとつであられました。そして、その内外は、行動においても、ことばにおいても、全く父と一致しておられました。私たちはそうではないでしょう。霊的にひとつであるように、行動や思いにおいても、ことばにおいても、働きにおいても、イエス様と同じように生きて行きたい、と思います。
「私は神様とひとつにされている」と本当に理解している人ならば、起きている出来事や自分自身の有様を見て、「ふさわしくありたい」と願い求めるためには、このような出来事が起きることが、「本当に必要であった」とわかるのです。
私たちの人生に、必要な良い出来事が、起き続けています。それで、ますます私たちは、真に神様とひとつであることが、確かなものとされて行くのです。

14.01.26 人生 一本の道

 人生 一本の道


「エペソ 1:4-5 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」

人生という道

誰でも、この世に生まれて来て、一生という長い時間を生き、そして死んで行きます。このことは、よく、一本の道を歩むこととして、たとえられます。誕生がスタートであり、死がゴールです。この一本の道を歩むことを、聖書はどのように教えているのか、学びましょう。

罪人として生まれて来る

聖書によれば、すべての人は罪人として生まれて来ます。「エペソ 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
そして、罪の人生を歩み、罪のあるまま死んで行きます。さらには、死後、裁きを受け、永遠の滅び(地獄で苦しむ)に至るのです。このような人生に、意味があるとはとても言えないことです。神様はなぜ、人が罪人として生まれて来る人生を、許されているのでしょうか。
もし、聖書のストーリーを初めからやり直せば、今度は、新たな最初の人は罪を犯さないでしょうか。アダムとあなたを入れ代えてみましょう。あなたは、アダムと同じように、神様の命令に従わないで、やはり園の中央の木の実を食べてしまうのです。あなた以降の人類も、あなたの罪によって、生まれながらに、神様を信じない人として生まれて来ます。アダムはあなたであり、あなたはアダムなのです。これが人の性質です。神様に服従できないのです。

天地創造の前からの予定

では、神様が、このようにして、繰り返し罪人が生まれて来るのをやめさせないのは、どうしてでしょうか。人類の生まれて来る仕組みを、やめてしまうことはできないのでしょうか。もちろん神様には、できます。しかしそうすれば、あなたという存在は無くなります。
神様は、あなたを愛しておられ、あなたの救いにこだわるのです。罪によって、神様から遠く離れているあなたを、イエス・キリストによって、救おうとされたのです。
冒頭のみことばを見て見ましょう。
神様は、すべての人を、これから生まれて来る人をも含めて、愛しておられます。神様は、その人が生まれて来る前から、それも天地創造の前から、この世に生まれさせるご計画をお持ちでした。そして、その人は罪人として生まれて来ますから、イエス・キリストによって救おうとご計画されているのです。
あなたの生まれて来ることは、天地創造の前から決められています。そして、天地創造の前から、あなたは神様に愛されているのです。

イエス・キリストに出会うため

そこで、私たちの人生が与えられている理由は、ただひとつです。
残念ながら罪人として生まれて来る私たちが、途上で、救い主イエス・キリストに出会うために、人生があるのです。あなたを愛して、生まれさせるご計画をお持ちでした。しかし、罪人として生まれて来るので、救いのご計画を持ってくださり、その上であなたに人生を歩ませておられるのです。神様の御心を知らねばなりません。
すべての人は、同じ一生という道を、歩ませていただいています。その途上で、イエス・キリストに出会い、ともに歩んで、天国に迎えられるためにです。
救い主との出会いを果たす前に、人生を終える人もいます。それは言わば、道途上で人生を終えたのだ、ということになります。
あなたは、救われて、人々よりも、少し先を歩ませていただいているのかも知れません。でも、歩んでいる道は他の人々と同じ一本の道なのです。誰もが、この道の途上でイエス・キリストに出会えるのです。
停滞している人々がいます。まだ救われていない人々や、完全に主に明け渡していない人々です。
あなたが、完全な献身生活の喜びを知っているなら、停滞している人々、つまり後ろを歩いている人々に対して、振り向いて、手招きをしなければなりません。彼らは、遠くであっても、同じ道を歩んでいるのですから。人生を途中で終わらせてはならないのです。

14.01.19 神に対する自信

 神に対する自信


「箴言 3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」






自分を信じろ?

「自分を信じろ」と一般的には言います。何かに挑戦しようとするとき、強烈なプレッシャーが人を襲います。そのとき、人や自分に対して励ますために、良く言われることです。
たとえば、スポーツ選手が、オリンピックなどに出場する時、本番でのつぶされそうなプレッシャーをはね除けて、演技をする必要があります。そのとき、選手は自分に「自分を信じろ」と言い聞かせて、演技に臨みます。あるいは、コーチが本人に言い聞かせます。「今までの練習を振り返って、自分に十分な準備のあることを知れ。だから自分を信じろ」という具合です。同じようなことを、テレビドラマの中で聞いたこともあります。

自分を信頼するな

しかし、聖書は「自分の悟りにたよるな」と言います。このことは、自分を信頼してはならない、という意味に他なりません。
ですが、自分を信じて、揺るぎのない心の状態を持ってこそ、ものごとは、確実に行なうことができると思うのです。そこで、このみことばの意味は、神様に信頼すれば、心が揺るがなくなるから、自分を信じることができるようになる、とされがちです。
聖書は、はっきりと自分を信じてはいけないと言っていると思いますが、いかがでしょうか。

陥りやすい罠

アメリカ人のある信仰ある婦人が「人を信じ、自分を信じ、神を信じることが大切だ」と言っていたのを思い出します。普通は、このような考えは、とても良いことのように響きます。人でも自分でも、信じないよりは信じた方が良いというのが、世間一般の考えだからです。
しかし聖書は、「信じることが大切だ」とは実際教えていません。「何を信じるかが大切なことだ」と教えています。私たちが信じなければならないのは、「イエス・キリストというお方だけ」なのです。
特に日本においてはそうですが、「信じることが尊い」という考え方があります。このことを端的に表すことわざが「鰯の頭も信心から」です。何事でも心から信じれば、それはとてもありがたいものとなる、という意味で、信じるという心がとても尊いことなのだ、ということです。信じることが大切だと考えると、間違えた方向に行ってしまいます。

神に対する自信

自信がなくても良いのかと言うと、そうでもありません。私たちの心が揺るがないことが、必要です。しかし、私たちの自信は、自分に向けてではなく、神様に対してでなくてはなりません。もし、自分に自信を持てたとしても、世の中的な勝利の生き方をするだけに過ぎません。
自信がないよりは、ある方が成功できる、という仕組みは神様が人に与えられた仕組みです。私たちは、自信がある方が良い結果を得るように造られています。しかしそれでも、神様抜きで生きてはならないのです。
人間的な、世の中的な、幾分か良い結果を手にすることはできても、私たちの心の闇に対しては、何の効き目もないことを知らなければなりません。「コロサイ 2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」
ですから、r私たちの自信は、自分に対してではなく、神様に対しての自信でなければなりません。
「神様は」、
「私を愛しておられる」と言いましょう。
「私を祝福しておられる」と言いましょう。
「私をいやしておられる」と言いましょう。
「私を満たしておられる」と言いましょう。
「私の問題を解決してくださる」と言いましょう。
「私を成功させてくださる」と言いましょう。
「私を闇から開放してくださる」と言いましょう。
ダビデは、この信仰によって生きたので、彼は揺るぐことがありませんでした。
「詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」

14.01.12 愛が動機 罪を忌み嫌う

 愛が動機 罪を忌み嫌う


「Ⅰヨハネ 5:3-5 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

愛が動機

今年のテーマとして「愛が動機」をいただきました。「愛が動機」とは、愛するが故にことを行なうということです。私たちの言動の動機(原因)が「愛しているので」ということです。
神様の命令に従うのは、神様を愛しているからということです。
愛の思いから出る行動とは、頼まれもしないのに、それをしたいということに他なりません。とにかくそうしたいのです。「喜ばせてあげたい」「守ってあげたい」「助けてあげたい」「与えたい」「ささげたい」などの思いです。私たちが神様にとる愛の行動とは「明け渡したい」「服従したい」「神様のしたいように使われたい」などではないでしょうか。なぜなら、これらのことを神様が喜ばれるからです。すすんで神様の喜ばれる生き方をしたい、というわけです。

神を愛するとは

神様を愛することは、私たちがすすんで、神様の御心に添おうとすることです。神様の御心は、私たちが自分自身を神様にささげること、すなわち完全な献身です。
「ローマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
ですから、神様の命令を守ることが、私たちがしたい、積極的な神様に対する愛の行動です。言われるからするのではありません。もちろん教えられて、はじめてわかる神様の御心ですが、今は、言われなくても、もとより、自分がしたいことなのです。このような思いが「愛の動機」によってということなのです。

我慢や努力でなく

「クリスチャンになれば、罪を犯してはいけない」と思うことがあるかも知れません。このことほど神様の御心から離れていることはありません。もし私たちが、我慢や努力によって、罪を犯さないようにしているなら、実際には「愛(愛すること)が動機」で行動しているのではないことです。私たちのしていることや言っていることが、たとえ正しいことであっても、逆に「愛されることが動機」となってしていることなのです。「神様に認められるために」「神様に愛されるために」、取っている言動であることになります。
神様は私たちをすでに愛してくださっています。このことを受け入れなければなりません。そして、更には私たちが神様を愛することを望んでおられます。それが、私たちが勝利し(この世のあらゆるわずらいから解放され、悪魔の試みを退けることができていること)、この世において幸せになる方法だからです。
だから、私たちは、頼まれなくても、罪を犯したくないのです。罪を忌み嫌います。クリスチャンだからしなければならないことは、何ひとつありません。すべての命令は、人間に対するものです。神様を愛するようになった者は、その命令をすすんで守りたいのです。罪を忌み嫌っておりますし、罪を悲しんでおります。

重荷とはならない

我慢や努力によっての言動ならば、重荷となるでしょう。満たされない人生の中で、「私はこんなに努力しているのに」「私はこんなに頑張っているのに」という重荷を感じていることはないでしょうか。
聖書は「命令は重荷とはなりません」と言います。その理由が、「世に勝つから」と言うのです。もし、私たちが、すすんで、したくて、神様の命令を守る人になるなら、これが本当の自由であり、幸せになる方法だということが分かります。
私たちは、ますます「神の命令を守る」生き方をしたいと願うようになるのです。言い代えれば、罪を忌み嫌う人となるということです。罪が、私たちの、人類のすべての、不幸の原因であることを経験的に学んだからです。

14.01.05 愛が動機

 愛が動機


「コロサイ 3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」





愛が動機

主にある新年、あけましておめでとうございます。
皆さんには、どのような思いを持って2014年をお迎えになられましたでしょうか。
今年も、主のみことばをもって、建て上げられて行きたいと思います。
さて今年は、「愛が動機」というテーマを与えられました。そして、上掲のみことばがテーマの聖句として与えられました。ともにこの一年恵まれてまいりたいと思います。

愛とは与えること

聖書の教える愛は、神様の愛です。それは、ひとことで言えば、「与える愛」ということです。その反対語は、「奪う愛」ということになります。実は日頃、私たちが「愛」だと思っているものは「奪う愛」なのです。
それは「条件付きの愛」であり、相手に犠牲を強いるものです。「あなたは素敵な人です」から、「いつまでも私の期待を裏切らないで、私に良い態度を取り続けてください」と、相手に自分の思いを押し付けて、相手からの努力を引き出しています。ひとたび、それが感じられなくなりますと、途端に愛することができなくなります。聖書は、このような愛は、本当の愛ではないと教えています。
神様の愛は、私たちを無条件で愛してくださる愛です。何ひとつ奪うことなく、私たちに犠牲を強いることもありません。ただ私たちのありのままを受け入れてくださる「与える愛」なのです。神様は、私たちを赦し、その罪から解放するために、御子イエス・キリストをお与えくださいました。御子の死という犠牲を払われて、私たちを受け入れようとしてくださっているのです。あなたが、それを受け取るだけでよい、無条件の愛です。
そして、この愛で、互いに愛し合いなさいとすすめてくださっています。

結びの帯としての愛

今年の一年を、それぞれが、抱負をもって迎えたことと思います。家庭や家族のために「幸せでありますように」「健康でありますように」と願われていると思います。住まいの新改築、子どもの教育、楽しい旅行や行事の計画、「とにかく楽しい一年でありますように」ということでしょうか。
それらの考えや行動のひとつひとつが、家庭家族の幸せのために、役に立つ働きとなることが願いです。しかし、一生懸命に家庭のために家族のために頑張ることが、実を結ばないことは実際に多いことです。「なんでこんなことになるの」という具合です。
そこで、ただうまく行きますようにと、ただ神頼みするしかない、というのが多くの方の新年の心境ではないでしょうか。他のどの分野でも同じ様ではないでしょうか。縁起をかつぎ、うまく行くことだけを願っています。
まことにけなげな様子ではあるのですが、聖書は「これらすべての上に、愛を着けなさい」と言い、「結びの帯として」の愛をもって、すべてのことを結束せよとすすめるのです。
良かれと思ってする努力や行い、あるいは考え、それらが本来の目的である「幸せになりたい」という願いに向かわないで、バラバラに働いてしまうことを防ぐためには、結束されていなければなりません。そのための「結びの帯として」神様の愛が完全であるのです。

愛が動機

今年も、幸せや成功を願って、家庭家族の分野で、経済職業の分野で、身体健康の分野で、精神倫理の分野で、教育教養の分野で、社会生活の分野で、私たちは考え、行動するでしょう。それらの考えや行動を、愛の帯で結ぶということが、具体的にはどういうことをすることなのでしょうか。
私たちのするすべての行動、すべての考え、それらの動機がすべて愛(神の愛)であるならば、完全であることを信じることです。ひとつひとつの考えから行動まで、いつも、「愛が動機か」と問い続けなければなりません。犠牲を払いたくないというもの、つまり「愛の動機」でないものは、取り除かれて行くことです。あるいは正されて行くことです。
ただうまく行くことだけを、闇雲に願い、自分に愛の動機がないことを棚上げにしてはなりません。この一年、ただただ、これは「愛が動機か」と問い続けることに思いを注いで行きたいと願います。「犠牲を払いたい」「与えたい」と願う一年でありますように。