16.12.25 クリスマスおめでとうございます



「ヨハネの福音書 3:3 イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」

コンサート&メッセージ感謝

 12月23日には、クリスマスコンサート&メッセージが行われました。定員を超える方々が参加をしてくださって、感謝でした。
 リバイバルクワイヤーの献身的なご奉仕に感謝をいたします。一年かけて、練習に励んでくださいました。再献身の決意をしていただいて、この一年が始まりました。主はこの決意に答えて下さり、用いて下さいました。歌声が毎年成長していることを感謝します。 皆さんのご家族や友人の方が参加してくださいました。毎年来てくださる方のおられることを、感謝します。祈ってくださった兄弟姉妹、ささげて下さった兄弟姉妹、ご奉仕してくださった兄弟姉妹、全ての方々に感謝します。
 毎年のことですが、感謝しても、感謝しても、感謝があふれてきます。この恵みを感謝します。本日も洗礼式が行われますが、私たちのこの一年の働きに、主が報いてくださっていることです。

新しく生まれる

 クリスマスコンサート&メッセージでは「あなたの内に住むことのできる方」と題して、メッセージを取りつがせていただきました。イエス・キリストは、私たちのうちに住むことがおできになる方です。
 イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。イエス・キリストの御霊が、人の内に住むためには、その人の霊が、新しく生まれる必要があります。
 生まれたままの人は、霊がまだ生まれていません。ですから、神様がわかりません。また、神様がその人の内に、お住まいくださることはありません。
 人が「神様のことがわからない」とか「信じられない」とか言うのは、特に不思議なことではないのです。生まれたままの人には、わからないのですから。当然の反応なのです。

不思議と思うな

 主はさらに「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(同7節)」と言われました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(同8節)」と説明されました。「風」はギリシャ語でプニューマ、ヘブル語ではルーアッハ、ということばが使われますが、「御霊」も同じことばが使われます。風は確かに存在します。しかし風自身は見えません。私たちが見ているのは、風が巻き起こす現象です。つまり風の結果なのです。
 そこで、「同じように、御霊の働きも見ることはできないですが、その現象、結果については見ることができます。人の霊は新しく生まれるのです」と言われたことでした。確かに新しく生まれたから、神様がわかるようになりました。神様を信じることができるようになりました。信じたら、神様の言われていることが理解できるようになりました。御霊の働きは確かに存在します。しかし、どのようなご意志を持って、どのように働かれているのか、理解をすることはできないのです。言えることは神様には人を新しくする力がある、ということです。

どのように住まわれるのか

 これもまた、私たちにはわからないことです。しかし、聖書の約束の通りに、新しく生まれた者、信じた者にはイエス・キリストの御霊がお住まいくださっています。どのようにそれがなされたのかはわかりません。今どのようにお住まいくださっているのかもわかりません。わかることは、御霊が住まわれて、私たちに影響を与え出したということです。「こんなことをしていてはいけない。こうしなければいけない。愛そう。赦そう」などなどのことです。
 私たちがその影響を拒否するとき、御霊は私たちの意志を押さえつけて、強制的に影響を与えることはされません。すぐに引っ込まれます。主からの影響は私たちには分かりにくくなります。しかし、悔い改め、主を求めるようになりますと、主の影響は、私たちにわかりやすくなります。「主よ。助けてください」と私たちが求め、「わかった。あなたに働こう」と主が答えてくださる関係です。
 どのように住まわれるのかはわからなくても、住まわれたことの結果は、わかるのです。確かに主はお住まいくださっている、と言えるのです。霊が新しく生まれたからです。

人生はやり直しがきく

 人は、いくつになっても、やり直しがきくのです。新しく生まれていないなら、今の人生の失敗は当然であると理解することです。新しく生まれることは、いくつになってもできることなのです。50歳でも60歳でも人生のやり直しはできます。30、40ならなおさらです。70でも80でもやり直しができるのです。誰でも新しく生まれることができるのですから。イエス・キリストを信じる人生は、やり直しの人生であることを感謝しましょう。あなたは、新しくなります。

16.12.18 中途半端に信じることに意味はない



「ヨハネの福音書 11:35-40 イエスは涙を流された。 そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』 しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。 イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』 イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」

もう臭くなっておりましょう

ラザロが死にました。姉妹のマルタは、悲しみに暮れて、主を迎えました。「もう少し早く来てくれれば、ラザロは死ななくて済んだのに」というのが、姉妹の思いでした。しかし、主はそこにいた人々に、墓の石を取り除けるように命じられました。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。「いくらなんでも、もう腐りかけているのですから、今更なんともなりませんでしょう」というのが彼女の思いであったのです。「癒してほしい。生き返らせてほしい」という思いはありました。しかし、そのような望みを持つことが、とても空しいことでした。それよりも、この空しさを分かち合うこと、慰めてくれること、が彼女の思いでした。そのような心の中から出て来るのが「もう臭くなっておりましょう」であるのです。

私たちを縛る常識

イエス様は、涙を流されました。しかし「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」という人々もいました。おそらく、そこにいた人々、マルタも含めて同じ思いであったに違いありません。目の前にいる方が、病を癒す力のある方であるとは、認めておりました。しかし、この方が救い主の神である、と信じる者はいなかったのです。奇跡が起これば、喜びます。そして、ある程度は、そのようなことが起きることがある、と認めます。そして、それが神を信じていることであると思っています。生活の中に、神様を一部割り込ませているようなことです。私たちも同じような信じ方をしているのではないでしょうか。神様は、私たちの存在とは別におられる方であるのに、まるで神様を私たちの考え方の一部であるように、思い込んでいます。つまり、自分がどう考えるか、どう思うか、思えるか、そのことが信仰であるように思っているのです。神様は存在される神様であり、私たちの存在以前のお方、私たちの存在の原因であられるお方です。そのお方を私たちの常識の中に入れてはならないことです。むしろ、私たちの常識が砕かれることです。私たち自身を、このお方の支配下に置かなければなりません。

信じるなら栄光を見る

イエス様のマルタに対する返答は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」でした。マルタは、イエス様を拒否したわけではありません。彼女にしてみれば、信じていなかったというわけでもありません。信じてはいたのです。しかし、イエス様の「もしあなたが信じるなら」のことばは、「マルタは信じていない」と叱って言っていることです。主のみこころは、栄光を現わしたい、と願われていることです。その栄光は、私たちの信仰を通して現れることなのです。主が勝手に、私たちから離れたところで、働いておられるということではありません。主の栄光を現すことは、私たちの働きである、と言われていることです。つまり、私たちに「私たちの救い主が、本当の救い主であること」を信じてほしいと願われていることです。救い主イエス・キリストとは、どのようなお方なのかを、今一度知らなければなりません。

中途半端に信じることに意味はない

私たちは、どうしても、中途半端に、私たちの常識に信仰を織り交ぜながら、私たちなりに信じようとする傾向があります。しかし、主は、私たちにそのような信じ方を望んではおられません。主の真実を現してはいないからです。どうしても、今までの常識が正しいと信じたがり、その上に居座りたがります。例えば、医学界においては、脳は失った自身の神経の働きや、機能を再生させることはできない、とされて来ました。が、最近、脳自身が再生、あるいは、自己治癒する機能を発揮する、と主張する医学者たちが出て来ています。そして、その症例を示しています。これらは、人間が常識を打ち破り、神様の言われていることに近づいた、ということではないでしょうか。イエス様の示してくださることは、比べるべくもなく、医学会の働き以上のことです。奇跡をもって働かれる神様を、中途半端に信じていることには、意味がありません。日常的な信じ方が、危急の場に現れます。マルタはそれを叱られました。毎日の生活の中に、徹底的に主の御臨在を信じることを貫いて、中途半端を打ち砕いてまいりましょう。

16.12.11 自己憐憫



「ヨハネの福音書 5:7-8 病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』 イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」

 イエス様は、38年も伏せっている病人に声をかけられました。彼の返答は自己憐憫に満ちたものでした。イエス様は間髪入れずに、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。自分をあわれむことをやめ、主のことばを聞くことが全ての解決です。
 今週は自己憐憫のことをもう少し考えてみましょう。その特徴をいくつかあげてみます。

自分のことしか考えていない

 「あなたは、自分のことしか考えていない」。こう言うと、怒る人がいます。「人のことを、自分と同じように考えて、人のことを思いやっているつもりだ」と反論するのです。確かに、人のことを全く考えないわけではないのですが、人のことを考えているその中で、自分のことを考えて、自分のことを辛いと思っています。
 結局自分中心で、自分のことで憂鬱になっており、その延長で、人のことを憂鬱に捉えてしまっています。もし、自分がとても楽しくて、人生は生きるに価値があると感じている人なら、かわいそうな人のことを見ても、希望を持って支えてあげられるはずなのです。
 このように、人のことを考えていると言っても、やはり自分のことを憂うことから離れられません。かえって、人への心配が、自分を憂う引き金になっているに過ぎないことです。
 元気な人を見れば、比較して気後れしますし、元気でない人を見ると、なぜ誰も助けないのだ、と怒ったりするのです。そして、そのような感情の中に沈んでいる自分のことを、かわいそうと考えていることです。とにかく、自分のことが辛い、という感情から抜け出すことができません。

孤独

 自己憐憫には、被害者意識があり、自分の苦しみばかりに目を向けさせます。ひがむ心がその人を捉えます。人をひがむことなんか、良くないことだ、とわかっていますから、そんな心を忌み嫌っています。しかし、自分にはそれがあると認めざるを得ません。そうすると、そんな自分がますます好きになれません。人を裁いているはかりで、自分もはかられている状態です。
 自分も人のことで心を痛めているように(と、いくらかは思っている)、人は自分のことをわかるべきだ、とも考えたりします。実際は、人の痛みに対して、とても鈍感になっているのですが、気がつきません。人に対しても、自分に対しても、結局間違った捉え方をしているので、孤独を感じています。周りの人からは、困ったものだ、と思われているのですが、本人はあまり気がついてはいません。
 自己憐憫のない人は、たとえ人との交流がなくても、孤独を感じることはないものです。むしろ一人静かに居られることを満喫しているのです。自分をあわれむことなく、他の人に心を向けるなら、周りの人もいろいろな事情や気持ちを抱えて生きていることに気づきます。そのような人は孤独を感じることがありません。

神様のご計画を認めない

 私たち人間には、私たちをお造りになった神様のご計画があります。自己憐憫に陥っている人の多くは「なんで私がこんな目に遭うの」と自分のことを嘆きます。すべての人には神様のご計画があるのですが、なかなかそれを認めることができません。
 ヨセフは、兄たちの策略に遭い、エジプトに奴隷として売られました。しかし、ヨセフは決して腐ることなく、いつも神様に感謝をして、神様をほめたたえました。奴隷の時も、牢獄にいる時も、彼はとても祝福された生活をすることができました。神様のご計画は、やがてやって来る大飢饉から、彼の父とその家族を救うためでした。神様の自分に対する計画はわからないものの、ヨセフは信仰によって、神様に信頼し、前向きに生きることができました。
 やがては、ヨセフはエジプトの総理大臣の地位にまで登りつめ、エジプトを救い、そして故郷の家族を救うことになるのです。もし、彼が自己憐憫に陥っていれば、神様に用いられることはありませんでした。
 元来、あわれみの心というものは、外に向けるために神様が与えてくださったものです。自分のことを哀れと思う心は、自分と自分に関わる人間関係のすべてを破壊して行くものです。そして、その怒りは神様に向けられ、神様のご計画を受け入れることを困難にして行きます。神様があわれみを注いで下さっており、あわれみのご計画で、私たちの人生を導かれていることを、知ることが必要です。

抜け出すために

 誰でも、神様のあわれみを受けたという経験があるものです。(落ち着いて思い起こせば、わかります。)その時は、喜んだことです。しかし、その自覚を持ち続けることができないでいるのです。私たちが救われたこと、癒されたこと、問題の解決をいただいたこと、それらはただの偶然ではないことを知らなければなりません。
 あわれみとは、根拠なく与えられる、助けのことを言います。私たちは根拠なく救われました。一方的に、神様が私たちのことをかわいそう、と思われたので救われたのです。私たちが熱心であったからでもなく、真面目であったからでもありません。
 あの時、滅んでいたことであろうに、主のあわれみによって救われたのだ、と知っている人は幸いです。あの病で、あの窮状で、倒れていたであろうに、主の憐れみによって、癒されたのだ、と知っている人は幸いです。神様があわれんでくださるとどうなるかを知っているからです。
 「神様は私をあわれんでくださる。私の人生は主のあわれみの中にある」と言い切ることができます。人やあるいは自分の心が「本当にそうか」と疑っても、主のあわれみとは、疑ってしまうような根拠のないところに注がれるもの、だと知っているからです。
 たまたま助かったわけではありません。たまたま治ったわけではありません。たまたま逃れたわけではありません。「ああ良かった」「うまく行った」と幸運を喜んではなりません。すべて主のあわれみであることを思い起こすことです。自分は誰よりもあわれみを受けている者だということを思い出しましょう。

16.12.04 あわれむということ



「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(ルカ6:36)。

あわれむとは

 あわれむとは、文字通り「かわいそう」あるいは「気の毒に」と思うことです。人の惨めな状況を見て、痛ましくて、かわいそうで、いてもたってもいられない、そんな思いになることを言います。
 イエス様は、私たちに対して「あわれみ深くしなさい」と命じられています。人に対して、あわれみの心を持て、と言われているのです。それは、神様が「あわれみ深い」方であるので、私たちもならって、同じようにするべきである、と言われていることです。

あわれみの神

 神様は、あわれみ深いお方です。「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)」
 主が私たちに注がれている感情のうち、その中心的なものは、あわれみです。私たちのことを「かわいそうに」と思って見てくださっているのです。主を十字架に付けて、さらにののしる人々に対して、主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈ってくださいました。罪を犯している私たちのことを見て、「かわいそうに」と心を痛めておられるのです。神様に敵対している私たちのことを、怒るというのではなく、あわれんでおられるということです。
 罪を犯している者は、神様から見れば、基本的に「かわいそう」な存在です。私たちは、神様のあわれみによって生きなければならないのです。救われたのは、神様のあわれみによってでした。ただ滅んでいく存在、そんな私たちのことを「かわいそう」と思われた神様は、ただあわれみによって、私たちをお救いくださいました。十字架のみわざは、主のあわれみが動機となって、なされたことです。もし神様にあわれみがなければ、私たちは、放って置かれて、ただ滅んでいく存在であったことを忘れてはなりません。そして、これからも、主にあわれんでいただいて生きる存在、であることを忘れてはなりません。

自己憐憫とはどう違うのか

 さて、人をあわれむことを命じられている私たち、そして、主のあわれみを受けよ、と勧められている私たちですが、自分をあわれむ「自己憐憫」とはどう違うのでしょうか。人をあわれむことが良い事なら、自分をあわれむことも良いことなのでしょうか。
 自分をあわれむことは、大きな罪です。それは、自己憐憫に陥っている人は、基本的に自分のことしか考えていないからです。自己中心であるのです。自分は誰からも、さらには神様からも、愛されていない存在である、という思いがあり、そんな自分を「かわいそう」と思っているわけです。神様が「あわれみの神」であることを全面否定していることです。
 結果的に、自己憐憫は大きな罪であり、必ず不幸になって行く、痛ましいものですから、どんなことをしても、これから離れなければなりません。自己憐憫が悪いと頭ではわかっていても止められず、かえってそんな自分をあわれみ「こんなに自分は辛いのだからこれくらいのことをしても仕方がない」と、自分の罪の行為を許したりしてしまいます。

主のあわれみを求める

 私たちは、神様からのあわれみをいただかなければ、生きられない存在であることを認めるべきです。神様のあわれみを知らない人の反応は二通りです。
 一つは「自分はあわれみを必要としない」です。あわれみを受けることを、情けないと思っており、あわれみを受けることを、忌み嫌っています。自分が罪人であることを、本当にはわかっていないということです。取税人は「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください(ルカ 18:13)」と祈り、この祈りが受け入れられました。誰でも、自分の本当の姿を認めなければなりません。本当の姿がわかれば「あわれんでいただくしか道はない」とわかるのです。
 そしてもう一つは、人からのあわれみを求める人です。聖書は人をあわれみなさいと命令していますが、人からあわれみを受けなさい、とはひとことも言っていません。人からのあわれみを求める人は、結局自分をあわれむことになります。
 人からのあわれみが自分を満たすことは決してありません。結局自分で自分を守るしかない、というような結論に至るのが人生の常です。人があわれんでくれない、そんな私は大変惨め、となっているのです。
 結局神様からのあわれみを受けていない人は、必要でないと頑張っているか、自己憐憫に陥っているか、そのどちらかになっていることです。
 神様はあわれみの神です。私たちのことをあわれんで、そのあわれみを注ぎたいと願っておられることです。主のあわれみを受ける者、つまり神様からのあわれみを求めている者を探しておられます。主はあわれみの神ですから。

16.11.27 キリストにとどまる



「ヨハネの福音書 15:4-7 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

わたしにとどまりなさい

 主のご命令は、「わたしにとどまりなさい」です。主イエス様がまことのぶどうの木で、私たちがその枝としてつながり続けること、これが祝福されるという約束です。これほどまでに何度も強く言われているのは、「とどまる」(つながり続ける)ことが重要であるばかりでなく、「とどまる」ことがおろそかにされがちであるからではないでしょうか。あなたは、いつも主にとどまっている人でしょうか。また「とどまる」ということは具体的にはどのようにしていることなのでしょうか。そのようなことをはっきりと理解していきたいと思います。

みことばにとどまる

 イエス様は、信じた者たちに「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。(ヨハネ 8:31)」と言われました。信じることが一過性の決断ではなく、主のみことばにとどまることなのだということです。
 みことばに「とどまる」とは、どういうことになるでしょうか。私たちの心の中に、常に主のみことばが、思い巡らされて来て、主のみことばに支配されている状態のことです。私たちの自分の思いではなく、主の思いに支配されていることです。そのためには「自分の考えは捨てる」という決断がなされていなければなりません。このような状態はどのようにして持つことができるのでしょうか。

とどまるという努力ではない

 とどまらなければならないなどと言われると、どうしても私たちの意識は、頑張ってとどまる努力をすることに向かいがちです。果たして、主はそのようなことを要求されているのでしょうか。
 十字架の恵みは、私たちが信じるだけで得られる、神様からの一方的な贈り物です。しかしながら、それを保つためには、努力してつながり続けることが要求されているのでしょうか。そうであれば、祝福は私たちの努力に対する、対価ということになってしまい、恵みとは言えなくなります。どう理解すれば良いのでしょうか。
 考えてみてください。もし私たちが自分の揺れ動きがちな考えを、揺れ動かないように止めようと努力するなら、それはもはや自分の考えにとどまろうとしていること、とは言えないでしょうか。「とどまる」とは、とどまるという努力のことではないのです。

主を前に置いて

 主は「わたしにとどまりなさい」と言われました。私たちの考えではなく、キリストに「とどまる」のです。私たちは主イエス・キリストについて、どのような理解を持っているでしょうか。
 私たちが理解しているのは「イエス・キリストは、神が人となられたお方。私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたお方。今も私たちとともに生きてくださるお方。天におられ、とりなしをされているお方。御霊によって、私たちのうちに生きてくださるお方。2000年前と同じように生きて働いてくださっているお方。今ここにおられて、今も同じようにみわざをなされるお方。」ということです。
 2000年前に地上を歩まれた主は、今ここにおられる、ということを見なければなりません。ダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩篇 16:8)」と告白しています。主に「とどまる」とは、ダビデのようにいつも主を前に置いて生活することではないでしょうか。
 いくら自分で、自分の心が揺れ動かないように頑張っていても、長続きはしません。この弱い心を持った者、汚れた者、情けない者が踏み「とどまる」ところは、イエス・キリストであると覚えましょう。私たちが主を見上げることが、主に「とどまる」ことです。いつも主を見上げて生活すれば、今ここにおられることを認めて、見上げるなら、主が私たちにとどまってくださいます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。(ヨハネ 15:4)」と約束されています。
 私たちが主を見上げ続けるとき、主のみことばが私たちに常に語られます。主のみことばが私たちにとどまるのです。果たして私は、キリストにとどまっている、のだろうか。これだけを問題にすることです。

16.11.20 踏みとどまる信仰



「ヤコブの手紙 1:6-8 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

信じるとは

 通常私たちが、何かを信じたいと思う時、その中心にあるものは私たちの「思い」です。ですから、私たちは、この「思い」が揺れ動くことなく、確信が持てることを、求めることになります。どんなことがあろうと、そう「思える」ということを求めているわけです。 伝えられたことを、それが本当だと「思える」なら、信じることができますし、本当だとは「思えない」なら信じることはできません。ところが、たとえそう「思う」ことができたとしても、これが揺れ動くことがあるので厄介です。そう「思える」と、そう「思えない」が、交互に変わるのです。信じたいのに信じることができない、というようなことです。そのようなとき、揺れ動く心をコントロールすることは、とても難しいと思うのです。 神様を、あるいは神様の約束を、信じようとするときにも同じようなことが起こります。

神様を信じる

 神様を信じるとは「神様の言われることを信じる」ことです。神様はどうやって、私たちに言われるのでしょうか。私たちは、それは聖書によってである、と信じています。しかし、ここでも本当に聖書が神様のことばなのか、という問題が出てきます。聖書が神様のことばだと「思える」か「思えない」か、ということです。 私たちは、聖書を調べて、全体を通して矛盾がない、ということを知って、あるいは先人がなした検証によって、正しいと知って、信じています。十分には知っていなくても、ある程度の知識をもって、聖書は神様のことばに違いないと思い、信じているわけです。しかしここでもまた、そう思えたり思えなかったりが、私たちを悩ませるのです。

信仰によって

 神様を信じる、あるいは神様の言われることを信じる、ためには「信仰」が欠かせません。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙 11:6)」 信仰とは、見ることもできなければ、確かめることもできないことを、受け入れる意志の決断のことを言います。見たり触ったりできる目の前の物については、私たちは十分に知ることができ、それを信じることはできます。それが道具、例えば掃除機であれば、それがそこにあること、そしてそれが思うように働くということを信じて、それを使うということになります。もはや信じているなどということばさえ使いません。掃除機を「知っている」のです。 神様ご自身のこと、神様のことばについては、直接は見えませんし、聞こえたわけでもありません。聖書の成り立ちや、自然や自分自身を見て、つまり神様の周辺の情報をもとに、それを知り信じて受け入れるわけです。信じて間違いがない、という確信をもって、受け入れる決意をすることになります。これを「信仰」と言うのです。 ただ勢いや感じで信じたわけではなく、そこには理性を十分に働かせた上での、決意があったのです。「信じない」ということを選択するには余りにも合理性に欠ける、だから「信じる」ということが理にかなっている、と判断した理性がそこにあるわけです。

信じるとはその知識に踏みとどまれること

 このように、本当の信仰とはただ感情的にそう思えていることではありません。一旦は自分の理性をもって与えられた知識を検証し、受け入れたことなのです。ですから、たとえどのような「大波」が襲って来ても、思えなくなりそうでも、理性という基盤がこれをしっかりと支えるのです。 神様のことを知りました。神様の約束を知りました。そしてこれが真実であることを知りました。すべてのことを知ったわけではありませんが、たとえ一部を知っただけでも、全部を信じるに値すると判断ができたわけです。信じるとは、ここに踏みとどまることです。 例えば、誰に否定されたとしても、明日は太陽が西から昇るかも知れないと思う人はいないでしょう。私たちは、天文学について一部しか知らなくても、見たことがなくても、揺れ動くことなく、知識に踏みとどまることができているわけです。神様のことについても、同じように信じることができるのです。 疑いや恐れが襲って来ることを防ぐことはできません。しかしたとえそのようなことが襲って来ようとも、私たちの信仰は理性によって、しっかりと踏みとどまることができるのです。 今までは、人に助けられて踏みとどまって来たかも知れません。助けてくれる信仰の友がいることは嬉しいことです。しかし今は、いくら揺れ動いても、理性によって、以前に検証した知識に自分で戻ることができるのです。理性によって、しっかりと判断したからです。

16.11.13 和魂



「創世記 1:26-28 そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」

終活セミナー

 先週、リトリートハウスにおいて、終活セミナーが行われました。終活とは、7年ほど前に、朝日新聞が当時の特集のために初めて使ったことばです。人生の終焉を迎えるための準備というような意味です。現在では「人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ、今をよりよく、自分らしく生きる活動」のことを指して、言うようになっています。
 終活セミナーは、私たちがクリスチャンとして、教会として、どのように考えるべきかという趣旨で行われました。その一部、日本人の心、宗教観、について紹介します。

日本的世界観

 私たちはクリスチャンとしての世界観を持っていますが、周りの方々と場面場面で衝突することがあると思います。その最たるものが、葬式の時でしょう。葬儀はどうするのか、位牌は、仏壇は、墓は、などの問題で理解をしてもらえない場合があったりします。
 日本的世界観とキリスト教的世界観の対立のまま、伝道活動が推移して行くのではなく、私たちが日本的文化を理解することが、まず必要なのではないか、ということを学びました。
 日本文化の背後にある日本的世界観とはどのようなものでしょうか。

和魂

 セミナーではビデオを見て学びましたが、その中で「和魂」ということばが出てきました。和魂とは日本人の心のことで、それは日本の宗教のことになります。
 ご存知のように、日本に仏教が伝わって来たのは、6世紀のことです。しかしそれまでにも日本にはお祭りを中心とする宗教、神道がありました。孔子などの教えである儒教も仏教と同じ頃に伝わって来ていますが、6、7世紀において、仏教、儒教が文化の中心を作って行くことになります。
 特に仏教は、鎌倉時代(12世紀)に発展を遂げ(鎌倉仏教)、武士や貴族の教養的な存在から一気に庶民の宗教として広まりました。大きく分けると、仏像などを持つ浄土宗などと人間の心の内側を見つめる禅宗などがあります。
 一方では、日本人の先祖が神々を祀ってきた日本の代表的宗教、神社神道があります。由来は古く仏教以前から日本にあったものです。様々な文化やライフスタイルを築いてきました。日本人の心に深く根を下ろしています。
 これらが日本人の心、宗教を構成しているわけで、和魂と言っています。

キリスト教伝来

 16世紀になって、日本にキリスト教が伝わりました。信長の時代に受け入れられ、秀吉も最初は受け入れましたが、後に迫害をするようになりました。家康の時代には、厳しい迫害がありましたが、これらのことは、私たちもよく知っているところです。
 キリスト教が初めて伝わってきたとき、日本人にとっては極めて新しい教えでした。そこで今までの日本人の世界観とキリスト教の世界観との間に確執があり、論争が生まれました。つまり、どちらが優れているか、という比較の論争です。講師は、このとき和魂という土台にキリスト教が取り入れられるべきところを、対立という関係に終始したために、いまだにそのような構図になっているのだ、と指摘していました。西洋科学技術は、キリスト教という土台のもとに発展をしてきました。しかし、日本はキリスト教を抜いた和魂を土台として、西洋科学技術を接ぎ木しようとして来たわけです。

創造のみわざ

 キリスト教からどのようにして日本の宗教をとらえるか、ということが私たちにとって必要なアプローチとなります。
 どの宗教でも、どの民族でも、人生における重大な問いかけは「なぜ私たちはここに生きているか、なぜ人間は他の動物と違って高度な文化を持っているのか」というようなことです。それらすべては神様の創造のみわざというところに関係づけられることです。このことを私たちがまず把握しなければ、話は始まらないというのです。
 「人間とは何か」この問いに対するキリスト教の答えは明瞭です。人間は神様によって、神様のかたちに似せて造られました。そして、神様から被造物を管理せよ、というミッションが与えられています。これを把握しない限り、和魂に入り込めないと講師は言っていました。
 神様に創造されながら、罪を犯し神様から離れ、キリストの十字架によって贖罪の道が開かれ、今は終末に向かって進んでいる、というのが私たちの理解するところです。
 キリストが罪の身代わりを成し遂げてくださったという、贖罪の恵みには和解という意味が含まれています。それは神様と人との和解でありますし、ユダヤ人と異邦人との和解のことです。キリストが来られるまでは、救いはユダヤ人のみと理解されていましたが、キリストによって異邦人も救われることとなり、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって一つとされる、という和解の道が開かれました。このことは、日本においては、私たちクリスチャンの目から見れば、クリスチャンと日本人の和解ということになるのだ、ということです。
 すべては神様の恵みであることを、私たちが知り、それを伝えることが、和魂に食い入る方法であると、教えられました。神様の恵みによって日本人は造られ、神様の恵みによって祖先が生かされ、そしてそれが贖罪、和解、回復につながることと理解することが大切であるということです。つまり、クリスチャンも日本人も神様からの共通の恵みをいただいているのであり、対立ではなく、共通恩恵として伝えることだということなのです。人間が知っていても知らなくても、私たちは、クリスチャンであれ、日本人であれ、その昔からまことの神様からの共通の恵みによって生かされていることを理解しなければなりません。

16.11.06 本当の積極性とは



「ガラテヤ人への手紙 6:7-9 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

リスクを考えることが消極的なのか

 先日、テレビ番組の中で「ポジティブ(積極的)一辺倒であったので、失敗しました。ネガティブな要素も必要だったと思います。」と言っているのを聞きました。この人たちは、何か勘違いしているのではないか、と感じた次第です。彼らが言っていることは「ポジティブとは、前むきに、心配などしないで、明るく行動することだ。問題について、これから起こるかもしれない、最悪の事態について、リスクについて、よぎる考えを振り切って、大丈夫だと考えることだ」ということなのです。しかし、そんなことでは、失敗するのも当然な話です。それで、ポジティブであることが危険だという意見になっているようです。
 私たちは、明るく振舞い、心配事を振り切ることが、積極的ということではない、と思うのです。今週は、積極的とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
 番組の中では、結論として、ポジティブの中にネガティブを取り入れる、というゴチャ混ぜ論に、「なるほど」と皆が納得していました。滑稽なことです。
 彼らは、おそらく世の中の一般的な考えを代表していると思います。「積極的でありたい。しかしそうなり切れない。自分には消極的な面が多い。こんなんじゃいけないと思う。しかしどうしたら良いのか。」そうしたとき、「積極性だけでは失敗してしまう。少しばかりの消極性が必要なのだ。」と聞かされ、「ああそうだよな。両方をうまく使いつつやっていくことが大事だよね。」と納得しているのです。

本当に積極的であることとは

 さあ、私たちは落ち着いて考えてみましょう。この世を生きるにあたって、私たちがどう考えるべきであるかというと、「必要なことを選択し、必要でないことを捨てる」ということに他なりません。正しい表現をするなら、ポジティブ(積極的)とは、これらのこと(必要なことを選択し、必要でないことを捨てること)に対して、前を向くということです。ネガティブ(消極的)とは、これらのことに背をむけるということです。
 人生を生きるために必要なことの中には、私たちがしたいことばかりではなく、したくないこともたくさんあります。例えば、自分の弱さを認めることとか、自分の罪を認めることとかです。また、このまま続ければ訪れるであろう失敗の現実であるとか、負債や欠点などのことです。これらを無視すれば、当然その結果を「刈り取る」ことになります。
 また、必要でないことの中には、私たちが捨てたくないものがたくさん含まれています。自分勝手に振る舞う、わがままを通したいこと、罪の愉しみを取っておく、などがたくさんあります。これらは、必要でないことであり、捨てなければならないことです。前を向くとは、これらの事柄から逃げないことです。向きたくない方向を向くというのも、積極的であることがわかります。これらを無視すれば、当然その結果を「刈り取る」ことになります。

暗闇を見る勇気

 一般の人々は、前を向くことを積極的と言い、後ろを向くことを消極的と言っています。しかし、大切なことは、本当に必要なことをする、ということです。本当に必要なことをすることが、積極的ということになります。前進するためには、前を向くことが必要ですから前を向きます。積極的なことです。しかし、その先に落とし穴が待ち受けているとしたら、そのことを考えて、それが起きる前にそのことを見なければなりません。それが積極的なことです。
 また前進するためには、自分がどういう人間であり、今どこに立っているかを無視してはなりません。後ろ(過去の自分)を見るということも積極的なことです。自分がどういう人間であるかを知っているので、未来に何が起きるかわかるのです。今日、自分が生きれば、家庭で職場で何が起きるか、わかります。嫌な思いになったり、口論になったりするのではないでしょうか。だから、それに備える必要があるのです。決して、無視して明るく振る舞うことで解決することではありません。
 見たくないことを見ることが本当の積極性です。暗闇が怖いから、明るいところばかりを見て、心を元気に保つ、というのは実際はネガティブ(消極的)です。勇気を出して暗闇を見据えることでしか、暗闇に勝つことはできません。積極的であろうとするならそうするべきなのです。
 多くの負債や問題で苦しんでいる例を考えてみましょう。多くの人は、そのことを具体的に捉えることに、臆病であったりします。つまり、正視しないのです。そして、漠然と恐れて悩んでいるのです。そして、積極的であろうとして、明るく元気に考えようとしています。しかし、現実を見ることに対して、実際は消極的なのです。
 例えば、負債があるとき、ただ自分を励まそうとするのではなく、実際の負債額がどれほど、どのようにあるのかを、詳細に紙に書き出すことがとても役に立ちます。多くの人は、それだけで平安になり、励まされるほどです。積極的とは、暗闇を見る勇気です。
 人々の間違いは、正視することが消極的であり、それを無視して都合の良いことだけを考えて、積極的だと思い込んでいることです。

神様に従うことが積極性

 何が必要であり、何が必要でないことか、はすべて神様の御手の中にあります。神様の言われることに、従うことが最高の積極性だということを知ってください。聖書が教えている、私たちにとって必要なことは、「自分を見つめろ」、「神を仰げ」です。自分が罪人であることを認めなければなりません。こんな自分を救ってくださる神様を仰ぎ、助けを求めなければならないのです。
 神様を信じている人が、一番ポジティブな人と言われるのは、当然のことなのです。

16.10.30 恥は我がもの



「第二サムエル記 6:16-23 主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。 こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。 ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。『イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。』」 ダビデはミカルに言った。『あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。 私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。』 サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。」

戻ってきた神の箱

 神の箱は、モーセの時代に、十戒が刻まれた石板、アロンの杖、マナの入った壺、が収められた契約の箱のことです。箱には神様の臨在がありました。神様がともにおられたのです。
 ペリシテ人に奪われた神の箱は、長い間エルサレムから離れたところにありました。ダビデと人々の願いは、神の箱がエルサレムに戻されることでした。一度は、運び入れようとしたのですが、やり方を間違え、死人が出る事態になってしまいました。しかし、今度はやっと完全に運び入れることができたのでした。
 ダビデは嬉しくて、先頭に立って、肌もあらわな姿で、踊って迎え入れたことでした。そして、主の御名によって群衆を祝福し、お祝いのお菓子などを配りました。とにかく何よりも嬉しいことでした。
 前回は運び入れる際、不敬の罪による神の怒りがくだるという悲劇がありましたから、運び入れを断念しました。それで、神の箱は、オベデ・エドムという人の家に預けられていました。ところがその三ヶ月の間にも、神の箱が置かれていたオベデ・エドムの家は大変祝福されたのです。それを伝え聞いて、しおれていたダビデの心は、再び喜びに燃えて、迎え入れたのでした。

さげすむミカル

 ミカルはダビデの妻でした。神の箱の隊列が行くのを、彼女は窓から見下ろしていました。ダビデはその先頭に立って、裸で踊っていましたから、彼女としては恥ずかしく感じました。一国の王とあろう者が、卑しい者がするような、下品とも思われる振る舞いに、我慢できないという思いだったのでしょう。サウル王の娘として生まれ育った彼女のプライドが許さない、といった様子でした。
 しかし、ダビデは「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」と言いました。「義父サウルやその家にどう思われようが、そんなことは問題ではない」という態度でした。「サウルやミカルの前よりも、主の前にいるのだ」ということです。「主は私を王として選んでくださった。その主の前だから、喜び踊るのだ」という思いなのです。

もっと卑しめられよう

 ダビデは「神様の御臨在を迎えることは、その民にとっては、何ものにも代えがたい嬉しいこと」、「そのためには、自分が卑しめられることなど、一向に構わない」、「たとえ王と言えども自分は、ただの卑しい民に過ぎないのだ」と、言うのです。喜んで、主のために卑しめられたい、というダビデの思いが伝わって来ます。
 自分のプライドを守るための戦いは、虚しいものです。誇りという栄誉を手に入れようとしているのに、実際には息苦しいほどの虚しさが自分を覆ってしまいます。私たちの人生の虚しさは、自分を守るという戦いに付きまとうものではないでしょうか。
 自分への栄光を拒否し、自分が卑しめられることを良しとするとき、一切の虚しさが吹き飛ぶのです。私たちクリスチャンは、栄光を受けるのは主だけだ、と知っています。栄光を主にお帰ししてはじめて、人は祝福されるのです。自分の家への栄光を求めたミカルには子どもが与えられなかった、と聖書は記しています。

恥は我がもの 栄光は主のもの

 私たちの人生は、一言で言えば「主に栄光を帰す」ためにあります。人生の目的は「主の栄光」なのです。主がほめたたえられること、このことのために、自分の人生が用いられるとき、私たちは祝福されるのです。
 ですから、そのためには、自分が恥をかくことは、大いに嬉しいことなのです。「主のためには、いくらでも恥をかこう」という方向を向く必要があります。
 今年のテーマは「福音を恥とはしない」です。クリスチャンとして生きるとき、あるいは福音を伝えるとき、拒絶や侮りの反応に尻込みすることはないでしょうか。そこには「拒絶されたら恥ずかしい」との思いが潜んでいるのです。祝福される秘訣は、「恥をかこう」と決意することです。
 聖書は、癒しや満たし、解放と解決について、明確な約束を与えています。私たちがその約束に信頼し続けることができないとしたら、その原因は「恥」にあるのではないでしょうか。「もしそうならなかったら、恥をかくから、平然と言い続けることはできない」と考え、一旦は信じはするものの、途中でトーンダウンしてしまうのです。
 私たちが恥をかくことがあっても、構わないのです。主が、ほめたたえられるなら、私たちは祝福されることになるのですから。

16.10.23 私は一体何をやっているのだろう



「ルカの福音書 15:17−19 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』」

我に帰った放蕩息子

 イエス様が放蕩息子のお話をされました。父親の許を離れて生活していた息子が、身を持ち崩して帰ってくるという物語です。「我に返った」息子は、父親の許に帰る決心をしますが、人が自分のしていることの間違いに気がつき、方向転換をするときに、幾つかの段階を踏むものであることを、学んでいきたいと思います。

第一段階 聞く耳を持たない

 息子は、自分の力で生きていきたい、と財産の分け前を要求しました。通常は、親の生前には求めないことですし、何よりも父親の願いとしては、息子が家にいてくれることでした。そんな親心を知ろうともしないで、息子は将来を夢見て、分け前のお金を手にすると、家を出て行ったのです。
 人間は、生まれながらにして、わがままであり、自己中心的です。このことは赤ちゃんの時からそうであるのです。そのまま大人になり、自分のしたいことが最優先になり、人の意見や願いなどには目もくれなくなります。
 おそらく父親は、息子に対して、一人でやっていくということの危険性を悟らせようとしたでしょう。また、両親の願いとしては、息子にこの家で幸せに生活して欲しい、との思いを伝えたでしょう。しかし、息子に押し切られる形で、家を出て行かせることになりました。
 私たちにも聞く耳を持たないという「わがまま」が潜んでいるのです。

第二段階 行けるところまで行ってみよう

 息子は、目的の街に着いて、一人暮らしを始めました。お金がありますから、住まいも食べ物にも、友達にも不自由はしませんでした。「湯水のように」財産を使ってしまったのです。お金がなくなることで、人は離れて行きます。彼は、ききんで食べ物にも困ることになりました。徐々に、不自由な生活になって行ったのでした。
 努力をしてみました。とにかく、一生懸命に稼ぐことをしようとしました。しかし、それはとても難しいことだったのです。まだ余力がありましたので、あれこれと、将来のことを希望をもって計画してみました。ともかく「やれるところまでやってみよう」「行けるところまで行ってみよう」「何とかなるかもしれない」と考えたのです。家に帰ること、父の心を思いやること、などは全く考えもしませんでした。
 私たちが、自分の失敗を認め、方向転換することは、容易なことではありません。自分のやっていることが、何となく間違っているのかな、と感じるようなことがあっても、立ち止まって考えることをしません。
 自分を励まし、行ける所まで行こうとするのです。最初の選択が間違いがなく、自分の気力の問題だけというならば、それでも良いことです。しかし、選択が違うとなれば、元に戻って選択をし直さなければなりません。素直な気持ちになれず、負けてはならないと、頑張ろうとするのです。「行ける所まで行ってみよう」「良いことが待ち構えているかもしれない」と。

第三段階 我に帰る

 息子は、人の好意で、畑で豚の世話をすることになりました。お腹が減ってどうしようもありません。誰も彼に食べ物を与えようとはしません。「いなご豆」は豚しか食べない飼料ですが、彼はそれを食べたいと思ったのです。食べようとしたのかもしれません。そのとき彼は「我に返った」のです。「父の家では、雇い人でも、豊かな幸せを満喫しているのに、私は一体何をしているのだろう」と思ったのでした。
 私たちは頑張ります。日々の生活が大変であっても、家庭に問題があっても、とにかく頑張るしかないのだ、と自分を励まし生きようとします。忙しくしているときは、考えなくても済むかもしれません。動いていることで、何か役に立つことができている、と満足できているかもしれません。しかし、立ち止まり、考えさせられて、思うのです。「私は一体何をやっているのだろう」と。「自分のやっていることは意味があるのだろうか」「こんなことに一生懸命になったところで、何の役に立つのだ」という思いがよぎるのです。立ち返ることができた瞬間です。
 「家族の幸せのために、と考えて一生懸命努力してきた」「しかし、このやり方で、本当に家族のためになっているのだろうか」と、今まで避けてきたことを真剣に考え始めるのです。
 「自分の力を試したい、と努力してきた」「しかし、そもそも、自分の力を試すことなど、必要なことなのだろうか」と、考えられるようになるのです。
 「負けちゃいけない、と勝とう勝とうとしてきた」「しかし、人を愛するとは、勝とうとすることではなく、負けを認めてあげるということが必要なのではないか」と強がりをやめようと考え始めるのです。
 我に帰ってはじめて、常に勝利に向かうことになります。

第四段階 出発点に戻る

 息子は、父親に謝り、家に入れてもらうことを決意しました。本来なら、成功して、立派な身なりで、家に帰る予定でした。父親をはじめみんなを見返してやるつもりでした。負けを認めて、謝ることなど、できることではありませんでした。我に帰ることができたからこそ、できた決心でした。
 「勝つことに意味はない」と分かったのでした。「父の心を思いやることが父を喜ばせることである」と分かったのでした。「決して自分の力を見せつけて、わからせてやることなんかではない」と人生の本当の意味を知ることができたことでした。
 出発点に戻ることは、普通はできることではありません。勝とうとするからです。多く失ったお金や時間を取り戻そうとするからです。それでも、出発点に戻れるのは、我に帰ることができたからに他なりません。「私は一体何をやっているのだろう」と気づくことは、幸せなことです。

16.10.16 いやすという約束



「ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

聖書 直接語られている神のことば

 聖書は、神様が私たちに語られたことばです。私たちが聖書を読むとき、聖書のことばは、直接私たちに語りかけています。
 それは、神様を離れてではなく、神様と不可分のことばとして、存在しています。つまり、聖書のことばは、単なることばではなく、ことば自身に力があります。「神のことばは生きていて、力があ」るのです。
 「わたしは主。あなたをいやす者である。(出エジプト 15:26)」と語りかけられているとき、「あなた」は、文字通りあなた自身であり、あなたに直接語りかけられているものです。そして、このみことばに力があり「あなたをいやす」と約束しているのです。

すべての人に約束されたみことば

 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ 2:24)」ここで言われている「あなたがた」は、あなたのことです。
 「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(詩篇 103:3−5)」このみことばにおける「あなた」はあなたのことです。「あなたのすべての病」はいやされるのです。
 「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ 5:14-15)」「あなたがた」には、あなたも含まれているのです。
 「いやし」は病人の誰に対しても例外なく与えられた、キリストの御約束です。聖書に書かれている「いやし」の約束は、あなたに対して個人的に結ばれたものであるということを知らなければなりません。

いやしてくださる方

 新約聖書の福音書にある記述の大部分が、イエス・キリストがいやしをなされた、というものです。私たちの救い主イエス・キリストは、現在も同じ働きをしてくださっています。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル 13:8)」
 私たちが、神様のいやしを願うなら、いやしてくださる方を、私たちの生活の中に、迎えることが必要です。医者を家の中に迎え入れるように、いやしてくださる方を、私たちの生活の中に迎え入れて、はじめて体のいやしを受け取ることができるのです。
 もし、私たちがこのお方に人生を明け渡すことを拒んでいるなら、いやしてくださる方を、家の中に入れるのを拒んでいることと同じだ、と知らなければなりません。
 神様は、私たちが病で苦しむことを望んでおられません。望んでいるのは、悪魔です。私たちが主に明け渡すことを、妨害しています。そんな悪魔の言うことに同意をしてはなりません。主を迎え入れて、私たちの内側をご自由に支配していただきましょう。イエス・キリストは私たちの救い主であり、いやしてくださる方なのです。今でも同じように、信じるものに働いてくださっています。私たちは、何でも求めて良いのです。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ 14:13)」
 いやす方を迎え入れることは、いやす方のみことばをも迎え入れることです。みことばは、あなたのうちに約束の通りに働いて、あなたをいやすのです。

16.10.09 教えよりも重要なこと



「ヨハネの福音書 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

キリスト教とはどんな宗教

 一般的には、キリスト教とは「イエス・キリストの教えを忠実に守ろうとしている人の集まりである」と理解されていると思います。キリストの教えが書いてある聖書を教会員は読んだり、あるいは教会で教えられたりして、その教えに従って生きようとしているのだろう、と考えられているのではないでしょうか。
 はたして一般の人々の理解は正しいかというと、実はそうでもないのです。私たちクリスチャンは、キリスト教という宗教を信じているのではなくて、「イエス・キリスト」というお方を信じています。ですから、他の宗教との教えの違いだけを議論しても、本当の違いというものはわかりません。
 もちろん、聖書の教えは、神様が何を望んでおられるか、神様はどういうお方か、を知るためには重要なことです。ですから、私たちは聖書の教えを大切にします。しかしそれよりももっと大切なことがあるのです。

教えよりも重要なこと

 聖書の教えというと、「わたしのほかに神があってはならない。・・・」など神様に対して行うものと、「父母を敬え。殺してはならない。姦淫をしてはならない。・・・」など、人に対して行うものが思い浮かぶと思います。つまり、教えとは「あれをしてはいけない」「これをしなくてはならない」という命令のことです。
 先ほども申しましたように、これらの命令は大切なことです。実はこれらの命令のすべては、「愛しなさい」という命令一つに集約されます。また、二つに分ければ「神を愛しなさい」「人を愛しなさい」になります。これらのことは、人が安全かつ幸せに生きるためには、どうしても必要なことです。しかし、人がこれらのことを行うためには、神様の助けなしには、不可能なことでもあるのです。
 そこで、助けてくださる神様と、助けられる私たちとの「関係」が何よりも重要なこととなってきます。イエス・キリストというお方は、私たちと神様との関係を取り持ってくださる、救い主なのです。
 私たちは生まれながらに、神様との関係をまったく持てずにいました。私たちの罪が、神様との間を隔てる壁となっているからです。そこで、イエス・キリストは、私たち罪人の身代わりとなって、十字架で死んでくださることによって、私たちの罪の壁を打ち壊してくださったのです。
 こうして、救い主イエス・キリストを信じて、私たちと私たちを助けてくださる神様との「関係」が生まれるのです。

キリストという人格をお迎えする

 そういうわけで、誰でも神様との関係に生きたいと願うなら、イエス・キリストを信じなければなりません。信じるとは、信じて受け入れることを意味します。宗教を受け入れるのではありません。イエス・キリストというお方を受け入れるのです。
 まことの神様は、私たちのうちにお入りになり、住むことのできるお方です。イエス・キリストを受け入れるとは、イエス・キリストというもう一人の人格を受け入れることです。このお方を私たちの心のうちにお招きすることです。誰でも、イエス・キリストを信じる者は、新しくされ、キリストによって新しく神様との関係に生きることになるのです。

父子の関係は主従の関係 最強の二人

 神様は、私たちをご自身の子どもとして受け入れてくださいます。神様は、私たちにとって、天のお父様であり、私たちは神の子ども、となるのです。この関係こそが、最も重要なことなのです。
 そして、私たちは子どもでありながら、主である神様のしもべでもあります。父子の関係であり、主従の関係であるということです。私たちはイエス・キリストというもう一人の人格を受け入れ、このお方と二人で生きていけるのです。これ以上の恵みはありません。
 私たちが通常、悩み、落ち込み、迷っているのは、心の中に得体の知れない、何者かとの会話があってのことです。「ああでもない。こうでもない」と結論が出ないまま考え続けているのです。
 たとえ、私たちが罪の中にあっても、あるいは恐れの中や、怒りの中にあっても、私たちの心の中の会話の相手が、神様でありさえすれば、間違った方向に向かってしまうことはありません。必ず、勝利の方向に導かれるのです。
 たとえば極端な例として、あなたが「あいつが憎い。殺してやりたい」と思っていたとします。穏やかではないですが、例として聞いてください。今までは、得体の知れない何者かとの会話が、延々と続いていました。しかし、同じことでも、神様に心の内を包み隠さず申し上げて行くことによって、神様からの慰めを受け、励ましを受け、本当はしたかった、赦すことや愛することを考えるようになって行くのです。これは、命令されてではなく、進んで自主的にそう思うようになるのです。
 あるいは、自信が持てなくて、くよくよと否定的なことを考え続けている人が、これからは、そのすべてを神様に申し上げ、その会話の中で、自分ではなく、神様に目を向けさせられて行きます。「自分は何もできない。これが自分のありのままだ」。一方、「神様には不可能はない」そして「神様と自分とは父子、主従の関係だ。それで良いのだ」と、敗北の考えから抜け出して行くのです。「私ではなくて、キリスト」これが私たちの得る答えなのです。
 このように、私たちは最強の二人という新しい関係をいただいて、生きられるのです。

16.10.02 主よ あなたが必要です



「ヨハネの福音書 13:8-10 ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』 シモン・ペテロは言った。『主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』 イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』」

弟子たちの足を洗うイエス

 イエス様は、最後の晩餐の時、一通りお話をされてから、弟子たちの足を洗い始めました。足を洗うという仕事は、当時、奴隷のすることでした。ペテロは、そんなことを主にさせてはいけないと思い、「私の足を洗わないでください」と言いました。そこでイエス様が答えられたことは、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」ということでした。この箇所で、たくさんのことを学ぶことができますが、今回は神様との関係ということについて、考えてまいりましょう。
 弟子たちは足を洗われて、主と関係ある者とされ、洗われなければ関係なし、と言われたことでした。洗っていただかなければ、関係を失うということです。それはなぜでしょうか。

洗われる関係である

 主が洗う方であり、主を信じる者は洗われる者である、ということなのです。洗う方と洗われる者という関係、これが神様と私たちの関係です。この関係で、私たち信じる者に必要なことは、主がなさってくださることを、そのまま受け取るということです。神様にしていただくことを拒むなら、神様と私たちは何の関係もなくなるのです。
 神様がしてくださることの中で、最大のことが、洗ってくださるということです。私たちは日々洗っていただいてこそ、神様と関係を持ち続けることができます。洗われなければ、洗われることを拒むなら、関係は失われるのだと知りましょう。
 罪赦されて、救われたと言えども、私たちは毎日、罪を犯す者です。日々悔い改めて、赦しをいただかなければなりません。日々新しくされて生きなければならない者です。誰でも罪を犯します。罪赦されて、全く新しくされたものの、罪の性質を宿し、罪の誘惑の溢れるこの世に生きています。その都度洗ってくださる方がいなくては、生きていけない汚れた存在であることを知りましょう。ゆめゆめ「洗わないでください」とは言えないのです。

水浴した者

 「何の関係もない」と言われて、ペテロは「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。それに対してイエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と言われました。
 「水浴」とは、頭も含めてからだ全体を洗うことです。イエス・キリストを信じる者は、全身を洗われた者です。そこで「足以外は洗う必要がありません」と言われたのでした。
 全身を洗われていることを感謝しましょう。しかし、日々の洗いを拒否するならば、全身を洗われたという関係まで、失ってしまうのです。「何の関係もありません」と言われているのですから。
 私たちは、毎日、主に洗っていただくことを求める者でなければなりません。毎日洗い続けていただいてこそ、主との関係が続いて行くのだということを感謝します。

あなたが必要です

 日々主に洗われることを求めることによって、主がしてくださることをただ素直に受け取って行くだけの関係なのだ、ということを教えられます。ともすれば、主に主導権を取っていただくことを忘れて、私たちが主導権を取ろうとしてしまいがちです。
 しかし、へりくだって、していただかなければ生きていけない者であることを知ることが必要です。知らず知らずのうちに、自分が必要とされることを求めて一生懸命になっていますが、主を必要とするのは私たちだと知りましょう。私たちには、考えるにも、話すにも、働くのにも、学ぶのにも、何をするにも、主が必要なのです。

16.09.25 こんな私



[ルカの福音書 18:9-14 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」]

二人の祈り

 イエス様が、たとえ話をされました。二人の人が宮で祈りました。一人は、正しい人の代表とされるパリサイ人であり、もう一人は自他ともに罪人と認める、取税人でした。
 パリサイ人は、どちらかと言うと自分は正しい方だと思っている人でした。神様のみ前に、一生懸命、自分の良いところを挙げて祈りました。罪を犯してはいないこと、を喜んで訴えました。隣に、誰からも罪人だと言われている取税人がいます。「あんな人」でないことを感謝しました。
 罪を犯していないだけでなく、さらに褒められる良いこと、断食や献金をしていることを、胸を張って報告しました。
 一方、取税人は、罪の自覚からか、中央に出ることもできず、遠く離れて立って祈りました。神様のおられる天に目を向けることもできません。下を向いて祈りました。彼の祈りは、神様の憐れみを乞う祈りでした。赦されるはずもなく、受け入れられるはずもない自分、「こんな自分」を、「あわれんでください」と祈ったのです。
 自分の内側には、汚れが渦巻いている。自分の胸をたたいて「こんな私」と言いました。自分の胸の内を知る彼は、たたく手に力が入ったことでしょう。

義と認められた人

 この二人のうち、神様に受け入れていただいた人、祈りが聞かれた人は誰かというと、取税人の方でした。正しい人ではなかったのです。
 聖書は、すべての人は罪人であることを教えています。「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ 3:10)」すべての人が罪人であり、神様に受け入れられる人はひとりもいない、ということです。神様に受け入れていただくとすれば、神様の憐れみにすがるほかありません。
 自分も、人からも、罪人であることがはっきりしている取税人は、ただ自分を低くして、神様の憐れみを求めるしかありませんでした。彼の祈りが受け入れられたのです。
 自分はそんなに悪くはない、おそらく正しい方に入るだろうと思っていたパリサイ人は、受け入れていただけませんでした。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」からでした。パリサイ人は、自分を低くすることはできませんでした。
 このたとえで、イエス様は、「自分を低くするものでなければ、受け入れませんよ」と言われているのです。

こんな私

 パリサイ人が受け入れられるためには、「こんな私」と思う必要がありました。自分を低くするとは、「こんな私」と自分のことを認めることです。もちろん、ただ「こんな私」ということばを使えば良いというのではなく、「こんな私」であることを理解していることが、自分を低くできていることです。取税人は、自分のことを理解していました。罪人と呼ばれることに、反論はありませんでした。人が言うのも当然である、と認めていたことです。
 パリサイ人は、おそらく、人から言われたら、猛反論をしたことでしょう。「自分で言うのは、まだしも、人から言われるのは我慢できない。私はちゃんとやっている。それほど悪くない」と言うのではないでしょうか。多くの人にとって「こんな私」を認めるのは、難しいところがあるのかもしれません。
 しかし、「福音」とは、「こんな私」に注がれる主の恵みのことに他なりません。私たちが歓喜するのは、「『こんな私』が救われた」「『こんな私』に主が働かれる」という、ありえないことが起こっていることに対してです。
 人が救われるというのは、神様が「こんな私」を憐れんでくださったので、起きた主の奇跡なのです。
 誰でも、自分を低くしなければ、憐れみを求めることはできません。「自分を評価してください」という態度では決して憐れみを求めることはできないでしょう。評価できるところは一つもない、ただ憐れんでいただくしかない、と本気で思えることです。それは「こんな私」という認識以外では持てないことです。

責める声がある

 ある人は、「なぜそうまでして『こんな』にこだわるのですか」と言います。「そうは思いたくない、とても受け入れられない」ということです。
 認めたくないなら認めなくて良い、のです。自分の信じる道を行くことができるからです。しかし、そういう人は落ち着いて考えてください。あなたは、自分なりの道には自信がありません。失敗の道だと知っているからではないでしょうか。つまり、聖書の言うとおりに、素直に受け取りたいのですが、「こんな私」を責める声が自分のうちに激しくあります。「こんなんではいけない」という声です。だから、今日まで、その声に負けないように、頑張って生きてきました。常に追われてきたわけです。
 あなたを主のもとにやりたくない、その声は、さらにあなたを責め「こんなんじゃいけない」と迫ります。「こんな私」が受け入れられる、という主のメッセージを妨害するのです。しかし、もう大丈夫なのです。あなたは、ありのままで、受け入れられるのです。憐れみを受けて、救われるのです。敵の声に同意するのは、やめることができるのです。
 「こんな私」にこそ、安らぎを見いだせるわけです。それが本当の救いです。あなたは「こんな私」にとても素晴らしいことが起こっていることを知るのです。

16.09.18 簡単に悪魔を退ける



「ヨハネの福音書 8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

悪魔に同意をしないと決意するものの

 悪魔との戦いについて、学んできました。「悪魔のことばに決して同意をしないこと」によって、勝利することができるのだと、教えられました。イエス様の十字架によって、悪魔は滅ぼされることが決定的になりました。イエス・キリストを信じる者に、悪魔は指一本触れることができません。もし、私たち信じる者に、悪魔が影響を与えることができるとしたら「私たちが悪魔の言うことに同意」する場合だけに限ることを理解しなければなりません。
 悪魔との戦いは、私たちが全面的に勝利する戦いであって、悪魔の言うことを「拒否」するだけで、私たちは悪魔を退散させることができます。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ 4:7)」
 ところがです。この完全な勝利が決まっている戦いに、苦戦している人がいます。一生懸命に、悪魔のことばに対して、振り払おうとして、取っ組み合いの戦いを繰り広げているのです。考えたくないことばが湧き上がるので、一生懸命にそれを追い出そうとしています。「そうじゃない。そうじゃない。悪魔の言うことは間違いだ」と言って、無視しようと頑張っているのです。
 つまり、やっていることはこうです。聞きたくないことばが、やって来ます。それで、それが嫌なので、違う思いを持ちたいので、無理やり良い思いになるように、心の中を変えようと、頑張るわけです。しかし、悪魔の方が上手であるので、次から次へと「いかに悪魔の言うことの方が、もっともであるか」の考えが攻め込んで来るのです。
 例えば、あなたが「神には不可能はない」と、みことばに基づいた信仰を貫こうとするときに、悪魔に「神にはできる。しかし、お前には不可能だらけだ。お前は何もできない」と言われ、落ち込んでいるという具合です。
 何がいけないのでしょうか。私たちは「悪魔に同意をしないという戦い」をするとき、イエス・キリストが勝ち取って下さった事実を、明確に理解していなければならないのです。何が真実であるかを知っているということです。

私たちの実際の姿

 悪魔の武器は「嘘」であることをまず知りましょう。人類に罪が侵入したのも、悪魔の「嘘」に巧みにそそのかされてのことでした。
 何が真実であり、何が嘘なのか、明確な理解がなければ「悪魔に同意をしない」という戦いに勝てるわけがないことです。
 悪魔は「告発する者」です。合法的に私たちの真実を、神様に告発します。私たちの実際の姿は「罪人」です。そして、私たちがイエス・キリストを信じたとき、私たちは「キリストとともに死んだ(ローマ 6:8)」のです。そして「死んでしまった者は、罪から解放されているのです(同 6:7)」。もはや罪に責められることはありません。これが、キリストが勝ち取って下さった勝利です。悪魔が、私たちの罪を、決して責めることができないことを知りましょう。死んだ者には、律法が適用されないのです。
 たとえ、自分の心に、あるいは人の口を通して、「お前は価値のない者だ」と言われたとしても、私たちが感謝すべきことは、「こんな者が愛されている。こんな者が救われた」ということです。
 もし、古い自分が生きていて、死んでいなければ、私たちを否定することばに対して「反論して」、そんなことはない、と打ち勝とうとするかもしれません。
 しかし、事実は、実際に悪魔が言う、情けないものなのです。さらに事実は「こんな者が赦された」ということなのです。「生きているあなた」を砕くために、神様は悪魔のことばを利用するかもしれません。自分を擁護しようとするのではなく、「感謝」して生きることです。私たちは、罪の自分を知っています。「十字架にともに死んだ」自分を、なんとかしようとはしません。死んだ自分は放っておけるのです。これがキリストが勝ち取って下さった勝利です。
 私たちは「生身」の「罪人」です。こんな者が、イエス・キリストに包まれて生きているのです。包まれている自分は、死んだ自分です。包まれているイエス・キリストを、はぎとってしまえば、生身の自分がそこにあります。しかし、今は完全に贖われて、イエス・キリストに包まれて生きているのです。悪魔は、私たちを責めることは、全くできないのです。責められて、弱り果てているとしたら、生きている自分自身が、自分を責めているからです。悪魔に同意をしてはならないのです。

私を通して主は働かれる

 イエス・キリストを信じる者は、誰でもイエス様と同じ働きをする、と聖書は教えています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ 14:12)」
 これは、イエス様に働かれた、御霊の神様が、私たちに同じように住まわれるからです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント 6:19 )」
 この神様のみわざに関して、「私のうちにキリストが住んでおられる」が、真実の告白です。そして「私を通して、イエス・キリストは働かれる。神様は私を使ってみわざをなされる」というのが真実です。
 私たちは、生身の自分がキリストに包まれて、完全な神の器として機能しているのです。これがキリストが勝ち取って下さった勝利です。
 「自分なんかに神様は働かない」と悪魔は言うかもしれません。しかし、悪魔に「同意」してはならないのです。
 私たちの言うべきことは、
「神様は私を通して奇跡をなされる」です。
「神様は私を通して人を癒される」です。
「神様は私を使って人を幸せにする」です。
「神様は私を使って悪魔悪霊を追い出される」です。
「神様は私を使って不可能を可能にされる」です。
 ・・・これらが真実です。
 悪魔はこれと反対のことを言うでしょう。しかし、決して悪魔に「同意」をしてはいけないのです。

さらに誘惑する悪魔

 このような告白をするとき、多くの人が感じるのは、何か嘘っぽいという感じではないでしょうか。確かに信じたい、しかし、自分にその感じがしない、という具合です。
 ここで、私たちが知っておかなければならない真実があります。働かれるのは、神様です。私たちではありません。主導権は神様にあります。私たちは神様に人生を明け渡しました。神様が働かれても、働かれなくても、それは神様のなさることであり、神様はしたいようにされるお方です。たとえ、「神様は私を使って、不可能を可能にされる」と宣言して、何も起こらなかったとしても、それは私たちの責任ではありません。神様のしたいことがなされただけです。私たちは嘘を言っているわけではないのです。悪魔に同意をしないで、「神様は私を使って、不可能を可能にされる」と言い続けることが、真実です。
 私たちは、生きようとします。つまり、自分にこだわってしまうのです。自分が認められるものでありたい、自分ができると言われたい、ということです。しかし、私たちは死んだ者です。それが、救われているということです。私たちが、こだわるのは神様に対してです。神様は、私たちを通して働かれるお方であり、その神様には不可能はありません。
 もし私たちが、あくまで自分にこだわるなら、神様にこだわれなくなるのだ、ということを覚えておきましょう。

16.09.11 とどまりなさい



「ヨハネの福音書 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

わたしにとどまりなさい

 主はまことのぶどうの木であり、私たちはその枝である、と言われました。そこで、私たちがしなければならないことは「主にとどまる」ということです。私たちは、主という木につながっていなければ、実を結ぶことができないのです。「あれをしなさい」「これをしてはいけない」などの戒めに思いが行きがちですが、我々が、まずすべきことは、「主にとどまることである」と覚えたいのです。
 それは逃げ出してはいけない、顔を背けてはいけない、と言われていることなのです。
 さらに主は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(同 15:12)」と言われましたが、主にとどまることが、主を愛することであり「私たちが互いに愛し合う」ことであるのです。私たちは、愛したいならば、とどまらなければなりませんし、そこにいなければなりません。

悪魔に食い尽くされるな

 聖書は「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(1ペテロ 5:8)」と教えています。すでに敗北が決まった悪魔は、クリスチャンを食い尽くそうと、捜し求めながら、歩き回っているのです。
 そして聖書は「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ 4:7)」とも命じています。私たちは、悪魔に「同意」をしなければ、決して打ち負かされることはないのですから、逃げ出してはいけません。私たちのすることは、悪魔に立ち向かうことです。「そうすれば、悪魔はあなたがた(私たち)から逃げ去ります」

逃げ出したいという問題

 私たちには、嫌いなことや、苦手なことがあります。悪魔はそれを利用して、私たちを踏みとどまらないようにさせるのです。「わたしにとどまりなさい」というみことばを一番恐れているのは、悪魔であることを知らなければなりません。
 あの手この手を使って、私たちが「いたたまれなくなるように」「逃げ出したくなるように」働きます。もちろん、離れなければならない、主からのメッセージもあります。例えば「悪い仲間から離れなさい」とか「罪から離れなさい」とか「用心しなさい」とかのことです。私たちは高ぶらないで、素直にこれらのメッセージに耳を傾けなればなりません。しかし、問題なのは、実際の危険があるわけではないのに、妄想によって「怖い」とか「嫌だ」とか感じることが真実だと思い込んでいることです。「とどまりなさい」が主の命令であることを知っているなら、私たちはこの「恐怖」が主からのものなのか、悪魔からのものなのか、明確に判断をつけることができます。要は、悪魔に立ち向かおうとするのか、それとも悪魔から逃げようとするのか、ということです。
 「この暗い道を歩くのは危険である」というのは、主からのメッセージであって、賢い選択です。しかし、理由もないのに「ただ暗いから怖い」というのは、逃げ出させようとしている、悪魔の声であることを知らなければなりません。明かりをつけて、平気でいられる、チャレンジが必要です。「怖い」と妄想する人は、この逃げ出したいという思いが、人生のあらゆる分野に働いているということを知るべきです。
 問題は「いたたまれない」「逃げ出したい」と感じさせられていることなのです。

悪魔に立ち向かう

 すでに主は、悪魔に打ち勝ってくださっていることを信じましょう。決して、悪魔に同意をして「悪魔に機会を与えないように(エペソ 4:27)」したいものです。
 逃げることでは、かえって身を守れません。聖書のみことばを信じましょう。一生の間、逃げ回って、食い尽くされるなどはまっぴらです。勇気を持って、みことばを信じましょう。主はともにおられます。
 聖徒たちは、迫害されて、そこから逃げませんでした。かえって「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。(使徒 4:29-30)」と祈ったのです。すると、彼らは聖霊に満たされ、大胆にみことばを語り出しました。
 戦い方は、実に簡単なことです。よぎる思いや感じは、放っておくのです。それが、悪魔が一番こたえることだと知りましょう。悪魔はあなたのうちにおられる主を見て、逃げ出します。

16.09.04 主の激しい怒り



「ヨハネの福音書 2:13-17 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、 また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』 弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。』と書いてあるのを思い起こした。」

祈りの家

 イエス様は弟子たちとともに、神殿を訪れました。しかし、そこに見られたものは、大勢の参拝者たちと、牛や羊や鳩を売っている人々、両替人たちでした。礼拝のためのささげ物としての動物として、傷のないものが必要でした。そして、献金するには、当時の流通しているローマの貨幣ではなく、イスラエルの貨幣が必要でした。指導者たちは、それを利用して、商売をさせ、利益を得ていました。
 その光景を見て、イエス様が怒りの対応をされたのです。他の福音書にも同じような宮での出来事が出てきますが、そこではイエス様は「『祈りの家』を『強盗の巣にした』」と言われました(マタイ21、マルコ11、ルカ19)。
 商売が行われていた場所は、異邦人の庭と呼ばれるところで、ユダヤ人以外の人々は、ここまで入ることが許されていました。求める異邦人は、ここで礼拝をすることができたのでした。しかし、そこは礼拝の場所ではなく、商売の場所と化していたという状況でした。

激しい怒り

 イエス様の表された怒りは、大変激しいものでした。弟子たちでさえ驚くほどであったようです。「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し」たのです。そして「両替人の金を散らし、その台を倒し」ました。鳩を売るものには「それをここから持って行け」と言われました。
 この光景のあまりに弟子たちは「『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす(詩篇69:9)』と書いてあるのを思い起こした」のです。
 一方、イエス様を殺そうとねらっていた祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、どうしてよいかわかりませんでした。民衆がみな「熱心にイエスの話に耳を傾けていたから(ルカ19:47、48)」です。
 イエス様の怒りは、どこから来たものでしょうか。ルカの福音書によりますと、エルサレムに近づかれたイエス様は、泣かれて、エルサレムの崩壊を預言されました(ルカ19)。それは、彼らの信仰が真のものではなく、神様が遣わされた救い主を知ろうとしなかったからです。彼らは、イエス様を受け入れようとしませんでした。そんな彼らの信仰は、宮の中の光景に完全に現れていました。神殿を「強盗の巣」にしていたのです。

神の宮

 私たちはイエス・キリストを信じて、神の宮とされました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(Ⅰコリント 3:16)」私たちは「神の神殿」です。
 さてあなたの内、神の神殿、ここにはどんなことが繰り広げられていますでしょうか。「祈りの家」となっているでしょうか。それとも「強盗の巣」でしょうか。
 イエス様が神殿でなされたこの箇所を指して、一般的に「宮きよめ」と呼ばれています。イエス様は宮をきよめられました。それは激しい怒りを伴ってでした。あなたはイエス様の激しい怒りを歓迎しますか。それとも、敬遠しますか。指導者たちは、敵意を持って敬遠しました。
 もしこの家(自分自身)が「強盗の巣」であるなら、「祈りの家」でないなら、是非ともきよめられなければなりません。イエス様の怒りある「宮きよめ」が必要なことです。しかし、それを歓迎しているでしょうか。

イエス様と同じ怒りを持つ

 私たちの心は、私たちが敵に同意をして、初めて敗北をします。悪魔に、私たちが決して同意をしなければ、負けることはありません。同意をしていることが問題なのです。
 イエス様がエルサレムをご覧になった時に、涙を流されたように、私たちもまた、自分の心を見て、涙を流すということが、必要なのではないでしょうか。その気になれば、敵を打ち負かすことができるのに、敵の声がわかっていながら、簡単に同意(賛成)して、自分から敗北に向かっている、そんな光景を見たら、怒りが湧いてこないでしょうか。
 私たちの神殿にも、異邦人の庭があります。救われたからといって、「神の神殿」だからといって、この世と交わりを断ったわけではありません。クリスチャンでない家族や友人と交わりを持つ心を持っています。そこが「祈りの家」となっていなければ、どうして、求める彼らが神様を知ることができるでしょうか。
 イエス様が私たちの心を眺めるように、私たちも同じようにして自分の心を眺めるとき、イエス様と同じ怒りを感じることになるでしょう。敵に同意をするなどという敗北は、する必要のないことです。主の激しい怒りは、好ましいものであり、敵を打ち負かし、私たちを解放するものです。主に感謝します。

16.08.28 この声はどこから来たのか



「ヨハネの福音書 7:16-17 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」

判別できる神の声

 ユダヤ人たちはイエス様の教えに、驚嘆しました。学んだことのないイエス様が、学問がある人のように話したからです。それに対してイエス様は「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」と言われました。つまり、人間イエスご自身の考えではなく、父なる神の言われていることを、そのまま話しておられるのだ、と言われたのでした。
 そして「この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」と言われました。今ご自身が話されていることが、神様からのものだということが、だれにでもわかるのだ、と言われたことです。その「だれでも」とは、「神のみこころを行なおうと願う」人には、ということです。
 神様のみこころを行いたい、と願っている人は、神様のみ声に賛成している人です。神様のみこころに賛成している人は、誰でも神様のみ声が簡単に判別できるのです。
 神様のみこころに賛成しないで、神様のみ声を聞こうと思う人には、神様が今語られていることは、全くわからないのです。よく「神様のお考えがわからない」と言っている人がいますが、その人は神様のみこころに賛成をしていません。まず、自分のやりたい事柄があり、それに神様の賛成を求めて、祈っています。ところが、自分の思い通りには、神様はお語りくださいません。そこで、本当はへりくだって、示されている神様のみ声を受け取ればよいのですが、賛成する心ではないので、聞く耳を持ちません。それで、さらに探し求めるのですが、賛成する姿勢で聞いていないので、聞きたくないみことばについては、受け入れられないのです。そこでついには「神様のみこころがわからない」と言うのです。しかし、神様のみこころは、賛成する誰にでもわかるのです。

見えない敵がいる

 考えというものは大別して、二種類に分けられます。神様の考えと悪魔の考えです。神様の考えでなければ、悪魔の考えなのです。
 悪魔やその手下の悪霊は、人格ある存在で、見えませんが確かに存在しています。人格がある存在ですから、話をしますし、聞いてもいます。そして、そのずる賢しこい性格によって、策略をもって語ります。
 私たちは、私たちの心の中によぎる声が、神様からのものか悪魔からのものか、判別しなければなりません。「神のみこころを行なおうと願う」人には、この判別ができるのです。
 悪魔は、常に私たちを告発するものです。私たちがいかに罪を犯しているかを、訴えます。そして、悪魔は破壊し、殺す者です。私たちを傷つけ、滅ぼそうとしているのです。
 そして、悪魔の武器は「嘘」です。神様のみこころでないことを、真実であるかのように、私たちに語ります。例えば私たちは神様に愛されているのですが、悪魔は「お前なんか愛されていない」と語ってきます。

悪魔の敗北

 イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったことにより、悪魔の敗北が決定づけられました。人は悪魔にそそのかされて、罪を犯してしまいました。そのことにより全人類は、罪人となってしまいました。悪魔は、神様が人を愛していることを知っています。それで、人を裁くことはないので、そそのかした自分たちも、裁かれることはないと、高をくくっていました。ところが、十字架により、救いの道が開かれ、裁きの時が来ることが決定づけられました。当然、悪魔、悪霊が裁かれることが決まったということです。
 今、イエス・キリストを信じる者に、悪魔は指一本も触れることができません。唯一、私たちに影響を与えることができるとしたら、私たちが悪魔の声に同意するときだけです。

立ち向かえ

 聖書は「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ 4:7)」と命令しています。私たちは悪魔の声に対して立ち向かわなければなりません。
 私たちがなすべき、その戦いの方法とは、悪魔の声に対して決して同意をしないということです。拒否しなければなりません。「愛されていない」「赦されていない」「不可能である」「怖い」「孤独である」「癒されない」、みな嘘です。私たちが、この声に同意しない限り、私たちが打ち負かされることはありません。
 心理学的にもそうですが、私たちが人の中傷を受け入れて初めて、傷つくのです。受け入れなければ決して傷つきません。同じように霊の世界で働く悪魔の声にも、同意をしなければ、決して傷つきません。しかも、この声は嘘であって、真実ではありません。神様の声だけが真実です。
 十字架によって勝利を勝ち取って下さった神様は、私たちに、自由意志による信仰によって、悪魔に立ち向かうことを、ゆだねられました。私たちは、悪魔に賛成せず、神様に賛成しなければなりません。

16.08.21 神のみ声の受信機



[マタイの福音書 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」]

創造主と被造物

 神様は創造主であられます。すべてのものは何もないところから、根源的に神様によって造り出されています。私たちは被造物にすぎず、神様と人間とは根本的に違うものです。世の宗教では、神様と人間の違いを単に大きさや力の点でしか見ておりませんが、造ったお方と造られたものというのは根本的に違うのだということを理解しなければなりません。
 私たちもこの世も神によって存在させられているのです。私たちはもちろんですが、この世も自分の力で存在しているのではありません。ですから、存在の意味と理由については、私たちの側に答えがあるのではなく、神様の側にあるわけです。神様が私たちの存在の意味と理由を与えておられます。神様から離れては、意味も理由もありません。どんなに私たちが探しても答えはないということです。

人生の問題の原因

 人生における問題の原因は、私たちの罪にあると聖書は教えています。罪は、神様が創造主であることを認めず、また恐れずに生きていることから生じています。つまりこの傲慢な態度が、私たちの人生のすべての問題を引き起こしているのです。
 例えば自分の人生がわからないという人は、神様が創造主であり、自分が被造物にすぎないという態度、を取らないがゆえに自分に問題があるのだということがわかりません。
 神様が創造主であり、自分は被造物にすぎず、人生の意味も理由も神様にあるのだ、と神様と自分との関係がわかると、問題は解消するのです。

一方的な啓示

 このように神様と私たちの関係はあるのですが、この関係は一方通行です。創造主から被造物へという一方通行の関係なのです。ですから、神様を知るためには、神様からの啓示がなければ、全く私たちは神様を知ることができません。人がどんなに探求したところで、神様を見出すことはできないのです。
 神様からの働きによって、神様と私たちの関係は成り立ちます。例えば放送局に対するラジオのように、一方的に送られてくる電波を受信している関係と似ています。これが神様と人間の関係なのです。であるのに「神様なんていない」とか「いるなら見せてみろ」という無知な態度を取る人がいるのは、全く神様と私たちの関係がわかっていないからです。

神の口から出る一つ一つのことば

 イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と言われましたが、人は神様からの一方的なことばを受信しなければ、生きていけません。全ては創造主である神様を中心に成り立っているのですから。
 宇宙や自然、私たちを保っているのは、創造主である神様です。全てのものは神様から離れれば、崩壊してしまうのです。私たちも神様から離れては、投げやりになりますし、崩壊してしまう存在です。人は神様からのことばを聞いて、そのことばを自分の考えとして生きなければなりません。
 神様からの語りかけの方法はいくつもありますが、最も身近なものは、聖書のことば、みことばによるものです。私たちの心に蓄えられているみことばを思い起こさせることによって、神様は一方的にお語りくださっています。
 イエス様は、聖霊の神の働きの一つとして、イエス様のお語りくださったことを思い起こさせることについて、教えてくださいました。あなたの心にみことばがめぐるとき、神様はあなたに対して、そのみことばを持って語ってくださっているのです。被造物にすぎない私たちは、この創造主のみことばをいただいて生きる者です。

16.08.14 みことばによる救い



「ヤコブの手紙1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 先週は聖会がありまして、たくさんの兄弟姉妹が参加をしてくださいました。永井信義先生のメッセージで大変恵まれたことです。また、別の機会に報告やお証を紹介したいと思います。今週は、みことばの勝利について考えていきましょう。

心の中にある声

 私たちが「どのような人間であるか」あるいは「どのような行動をするか」は、すべて私たちの心の中にある考えによって決まります。本当は口に出さないでおこうと思っていることでも、心に考えていれば、つい口を滑らしてしまうものです。あるいは、失敗や恐れを考えるとその行動に大きな影響が出てきます。今やっているオリンピックは、心の中によぎる考えをいかに克服するかが、勝利のカギとなる例です。
 私たちの心の中では、本当は考えたくないこと、感じたくないことが渦巻いています。多くの人の心には、聞きたくない声が聞こえているのです。そこで、それに打ち勝とうとして、自分の考えを変えるために、非常な努力が支払われています。しかし、それでも、多くは自分を変えることができません。つまり、自分の心の中にある声に打ち負かされてしまっているのです。
 「心配が拭えない」「なかなか前向きになれない」「いつも心が沈んでいる」「やる気が長続きしない、などの症状です。信仰生活の中でよく見られる症状は、「神様に信頼したいのに、しきれない」「ゆだねることができない」「明け渡すことができない」などというものです。するべきことはわかっていながら、そうすることができないのです。

みことばはあなたを救う

 本日のみことばは「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」と言っています。この場合の救いとは、心(たましい)の中の考えが救われる、つまり敵の声に打ち勝てるということだと理解してください。
 悪魔は、破壊者であって、あなたを破壊する者です。それは、あなたの考えを破壊、つまり考えにおいて敗北させる、ということによってなされます。考えさえ敗北させれば、行動は敗北に向かいます。私たちは、自分の考えにおいて、勝利しなければなりません。
 神様のことば、聖書のことばが、私たちの考えとなっているなら、私たちは敗北することはありません。単にみことばを知っている、というのではなく、考えとなっている、ということが大切なことです。
 考えとなっているというのは、いちいち思い起こさなくても、心の中を巡っているということ、心の中に湧き上がる、ということです。例えば、消極的な考えというものは、私たちがいちいち思い起こして、取り入れているものではなくて、自動的に湧き上がるものです。だとするなら、みことばも、いちいち思い起こして取り入れるのではなく、自動的に湧き上がるものでなければなりません。
 そうなるためには、圧倒的多数回の繰り返しが必要となるのです。はじめは、思い起こすことの繰り返しが必要でしょう。しかし、それを、私たちの今までの消極的な習慣の繰り返しを上回る回数、繰り返していくならば、みことばを私たちの考えとすることができます。
 ここで必要なことは、努力でも、力でもありません。みことばに賛成する素直な心だけです。私たちは、反対しているものになることはできません。全てのみことばが大好きです。無条件で主を賛美します。それが、悪魔が一番嫌がることです。

16.08.07 イエス様ありがとう

 今週は、聖会に向けて作成していただきました、壁新聞から、お証をご紹介します。この一年もとても恵まれたことを主に感謝します。

イエス様ありがとう

 リトリートハウスで電気関係のご奉仕をさせて頂いています。私は人と関わることが苦手で、職場でも二人より一人で作業することを好んでいましたが、このご奉仕で、面倒がらずに人に教えることで、すんなりと作業ができることを教えられました。助けてもらって分かち合えることの喜びを教えられて感謝です。
 また、道具や材料が足りないとできないと思っていたことも、なんでもない端材を使って解決したことがあり、できないという思いが払拭されました。一日でエアコン二台を取り付けられたこともありました。主に祈りながらご奉仕をしていく中で、諦めるな、面倒くさがるなと語ってくださり、いつも解決が与えられることを感謝します。
 リトリートハウスのご奉仕は、時を忘れて没頭することができ、疲れることがありません。奉仕の合間のご飯がとても美味しいです。主がともにおられるご奉仕の恵みを感謝します。

 今年の二月頃から帯状疱疹や高血圧でずっと体調が悪く、仕事もやっとしているような状態でした。五月のオイコス休暇の後に「奉仕者を募集します」と呼びかけがあり「奉仕をしなさい」と語られ、すぐに申し込みました。草刈りなど外仕事をさせていただきましたが、とても楽しく嬉しくて仕方がありません。リトリートハウスは山あり川ありで、幼い時の育った環境に似ていて、心が癒されていくのがわかりました。食事の交わりや冗談も、とても楽しく、ついつい笑ってしまいます。朝まで仕事をして睡眠不足の中、参加させて頂けて、体も癒され、とにかく楽しい。汗水流しての作業環境は、私にとって感謝なことと思います。また家族の協力があるので参加できている事も主に感謝しています。本当に奉仕が癒しだとわかりました。

 私は三月末位からリトリートハウスでの草取り、ペンキ塗り、木の伐採、ドブさらい、温泉ボイラー管理など色々な奉仕に携わりました。土曜の休みにはゆっくりしないと疲れが取れないと思い込んでいましたが、この奉仕を土曜にして夜中に帰っても、疲れてないんです。神の御用をしている時、平安で作業ができます。草のにおい、自然の香や川のせせらぎを感じ。ミミズや虫が出てきても、うれしくて本当に爽やかな気持ちになります。また手を掛けた厨房が本当にピカピカで使いやすくなりました。その変わり様に驚いております。神様に出来ない事はないんだなとわからされて感謝です。

 救われて教会へ通い始めた頃、牧師先生がフルタイムで献身されていることに感銘を受け、福音宣教の働きが一生を費やすほどのものと悟りました。すぐに、この働きを助けたいという思いが与えられました。自分のような者が用いられるとは思えませんでしたが、間もなく教会の聖歌隊に入れていただき、指導者を任されるようになりました。その働きの中で、自分にできる精一杯のことをさせていただき、機会あるたびに献身の表明をしてきました。
 三年ほど前にある集会で献身を強く示され、その時に牧師先生から神学校の通信制で学ぶことを勧められ学び始めました。リバイバルクワイヤーは、歌声で人々の心を開いてみことばをとどける、そのためにプロになる、というビジョンが与えられています。特にその働き人として整えられるために、現在学んでいます。また昨年、長年務めていた仕事を退職し、週に数日教会に仕えさせていただくことができるようになりました。
 覆いがたい罪を赦し愛してくださった神様に、自分の持っている物全部を捧げたいという切なる願いを、神様が聞いてくださったことを感謝します。栄光を主にお返しします。

16.07.31 のんびりキャンプ 2016 感謝



 7月25日〜26日に、あたしかリトリートハウスにおいて、「のんびり」をテーマに、キャンプが行われました。
 初日は、近くのあたしか海水浴場で、海の家を貸し切りにしていただいて、自由に過ごすことができました。
 リトリートハウスのすぐ前にあるきれいな川で、洗礼式があり、繁松佳奈姉妹が洗礼を受けました。リトリートハウスでの初めての洗礼式でしたが、本人はもちろん、私たちにとって、とても嬉しい記念すべき洗礼式となりました。
 その夜と次の日に分けて、映画「レ・ミゼラブル」を見て、その背後に流れている律法主義の非情さと、文字通り惨めな私たちには、神様の福音が必要であること、を確認させていただき、神様に感謝して祈りました。
 本当ののんびりは、時間があっても、ものがあっても、お金があっても、家族や友達がいても実現するものではなく、主とともにいるということがなければ、実現するものではないことを改めて確認させていただいたキャンプとなりました。
 焼きたてのピザは大人気でした。すべての時間が、とても恵まれた二日間でした。充実していて、しかものんびりできました。二日目は小雨が時々降ることもありましたが、館内でも楽しむことができました。居場所があることを主に感謝します。

16.07.24 絶対者



「申命記 6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」

絶対

 私たちは絶対ということばをよく使います。「絶対約束を守る」とか「絶対来てね」とかというようにです。この場合「必ず」という強い意味が込められています。
 「絶対」ということばの意味を辞書で調べてみますと、「他者との対立や比較を絶している」と説明されています。他に対立するものや比較するものがないこと、を表す時に用いるわけです。たとえば「絶対君主」とか「絶対の真理」という使われ方をします。
 そこで、「決して」「断じて」「どうあっても」という意味を込めて「絶対」を使うわけです。「他との比較なんてありえない」ということです。「絶対成功する」というのは、「失敗なんか考えられない」という強い意志を表します。このように、他のものと比較なんかできないという「絶対」は、とても特別な唯一つのことと言えます。

絶対者

 他に比べるべきものを持たないお方であるとして「神は絶対者である」、と聖書は教えています。神には、他に対立するもの、比較するものがありません。神は絶対的な存在であるのです。ということで、今回は「絶対的な存在」について学んでいきたいと思います。
 絶対ということを考えようとする時、実際には、いくら「絶対」を考えようとしても、考えたものは、すべて比べることができるもの、つまり相対であることがわかります。人間の考えそのものは、すべて比べてしまうことができるからです。つまり絶対を考えても絶対ではなく相対なのです。「これが絶対的な真理だ」と主張しても、すぐに、それに代わる主張によって比較されてしまいます。考え、つまり観念の中に存在するものではありません。
 「絶対」は、神のみにあるものであって、神を離れては存在しないものであることがわかります。それで、神は絶対的なお方、「絶対者」と呼ばれるのです。もし、神が絶対的な存在でないなら、そんなものは神とは呼べません。
 ところが、神は絶対者であるのに、相対的なものを神としている宗教や思想が数多く存在します。「絶対者である」ということを考えれば、その矛盾にすぐ気がつくことができるのにです。神は絶対者であることを理解しなければなりません。

絶対であるからおひとりである

 絶対的な存在が複数、ましてや多数存在することはありえません。神は絶対者であり、おひとりの方です。多くの宗教があり、多くの神が信じられています。しかし、真の神は、その中でただおひとりであり、その他のものは全く神という存在ではないわけです。
 日本では特に、「イワシの頭も信心から」というように「信じる心が大切であるので何を信じても尊いことだ」と考える人が多いのです。しかし、私たちが問われているのは、信じる心を持てということではなく、何を信じるのか、ということなのです。それで聖書は「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」と教えています。私たちが信じるのは、絶対者であり、おひとりの方である、真の神、主です。

絶対者であるから完全である

 神は、絶対的な存在であるので、完全でもあります。ですから、やはり当然ながら、おひとりのお方です。複数存在するとしたら、それだけで不完全であるということになってしまいます。
 私たち人間は、落ち度もあれば、欠点もあります。しかし「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない (1ヨハネ 1:5)」のです。
 神は完全であるがゆえに、変わりません。神は私たちを愛してくださっていますが、それは私たちが生まれる前、さらにその前、天地創造の前から始まり、今もこれからも、変わることのない完全な愛で、愛し続けて下さっているのです。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ 1:4-5)」
 私たちは安心してこのお方に身を委ねることができるのです。

16.07.17 信仰は賜物



[ルカの福音書 17:3-10 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」]

信仰とは何か

 改めて、信仰ってなんだろうと、考えてみます。明確に定義が出来ない自分に気がつきます。「信じることを言うのだ」ということはわかります。しかし、信じるってなんでしょう。
 例えば神様の存在は、五感では確かめることができないことだと、聖書は教えています。これらのこと(聖書の言うこと)を受け入れることを「信仰」と一般的には言っています。つまり「納得のこと」を言うのです。ある人は、直感的に、ある人はとことん理性的に、納得して受け入れるわけです。
 ところが「納得できないこと」がある場合は、信じられないわけですが、どうして納得できない人が出てくるのでしょう。理性によって、追求し続ければ解決するのでしょうか。

信仰はしもべの精神

 つまずきが避けられないと教えるイエス様は、そこで弟子たちに「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われました。すると弟子たちは、とても自分たちの信仰では太刀打ちができない、と考えたのでしょう。「私たちの信仰を増してください。」と願い出ます。そこでイエス様は「からし種ほどの信仰」があれば、桑の木でも海に移すことができる、と言われました。さらに続けてしもべについてのたとえ話をされたのです。
 言われたことの要点は、このようです。
 「しもべは、主人の言われたことを、ただ淡々とこなすものである。どんなに疲れて帰ってきても、それから主人の食事の世話をしてしまうまでは、自分の食事はしないものだ。しかもそうしたからといって、主人から感謝もされないものだ。言いつけられたことをするのは、しもべにとって、当たり前のことだから。」
 「あなた方はしもべである。言いつけられたことをしなさい。あれこれと考えることではなく、服従することだ。主人は、しもべができないことを命令したりはしない。主人である神様は、あなた方しもべができるようにと、必要なことを管理しているのです。」
 「そのように従うしもべの精神が『信仰』である。すると、本来できなかったあなた方にも、神様の助けによって、できるという現実が訪れる。そのときには、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
 私たちがしもべである自覚を持つことが、信仰なのです。「神様はおられる。信じなさい。」「はい。受け入れます。」自分の心を神様に服従させる、この応答が信仰です。そうするなら、この信仰という方法を通して、神様のおられることが、わかるのです。つまり、理性の理解もなされていくのです。

信仰によって救われる

 誰でも、イエス・キリストを信じる信仰によって救われます。行いによってではありません。救われるためには、私たちの側では何もすることはありません。いえ、できないのです。このことを聖書は次のように教えています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ 2:8)」
 「恵み」とは神様から一方的にいただくことを言います。私たちの側に何か良い行いや態度があったからということではないのです。いただける理由はありません。
 救いのためにできることは何もありません。何もしないのですが、全く何もしないわけではありません。いただくこと、すなわち受け身になることはしなければならないのです。「いらない」と言えば救われません。
 信じるとは、主であるキリストに、私たちの人生を明け渡すことです。していただく、という応答がなければ、信じること、すなわち信仰を持つことができません。信仰は、しもべとして受け身になることだ、ということがわかります。受け身になれば神様が働かれるのです。「神様のしたいことを、私の人生にしてください」と告白することです。

信仰は賜物

 このような信仰を誰もが持つことができるものでもありません。なぜなら、信仰自体が「神からの賜物」だからです。神様が与えてくださって、はじめて、「信じます」と言えるのです。言わせてくださるのは神様であるのです。
 はたしてどのようにして、神様は私たちに信仰の告白を与えてくださるのでしょうか。私たちの心には、生まれながらにして、神様に対する反抗心(罪)があります。これを取り除くのは、当然のことながら、私たちではありません。神様がなさることです。
 この反抗心が取り除かれるためには、神様による解放が必要です。神様は、私たちを解放して、私たちが信仰の告白が出来るようにされます。素直に、「信じます」と言える「信仰」は私たちがどんなに強い決意をしても持つことができないのは、そのためです。救われる前の私たちは、死んでいるのです(エペソ 2:1)から何かできるわけがありません。していただかなくてはならないのです。「信仰」は賜物であり、神様に与えていただいて、はじめて、持つことができます。そこで、人には「信仰が与えられるように」という謙虚な姿勢が必要になってきます。これが祈りなのです。
 受け入れたくないという頑迷な態度に解放を与えてくださる主に感謝します。是非とも、受け身に生きることを決意しなければなりません。

16.07.10 リトリートハウス感謝



「マタイの福音書11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 今年の2月にリトリートハウスが与えられることが現実のこととなりました。休館中の温泉ホテルを貸していただけるという話がまとまったのです。前から、そうなれば良いという思いはありましたが、強く願っていたわけではありません。

出会い

 私たちは毎年、オイコス休暇やキャンプを行ってきました。そして、新しくより良い場所を見つけることが、毎年の課題であり楽しみでもありました。おかげさまで、いろいろな地域や施設を巡らせていただきました。記憶に残る行事は、その場所や施設とともに、よみがえってきます。
 二年前のキャンプの場所を探し求めて、奉仕責任者たちに、新鹿を尋ねていただきました。新鹿は日本で一番と言われたこともあるきれいな海水浴場です。場所が遠いこともあって、観光客が少ないことも、我々には嬉しいことでした。キャンプ場で一番苦労するのが、お風呂の確保です。大人数が、効率良く入浴を済ませるためには、スーパー銭湯のような施設が近くにあると便利です。
 あたしか海水浴場にキャンプサイトはあるにはあるのですが、水のシャワー以外の設備がありません。そこで、近くに銭湯がないか調べてもらいました。すると近くに日帰り入浴も可能という温泉ホテルがあり、なんと、宿泊も特別な値段で構わないという反応でした。交渉して、結局正規の宿泊値段の3分の1にも満たない値段で、食事付きの宿泊ができることになりました。その時から、こんなところを自分たちの運営によって、使わせていただけるなら、どんなに良いかと思うようになりました。

次の年

 その翌年のオイコス休暇の季節になりました。好意的な、あたしか温泉ホテルが気に入り、再び、下見に伺いました。しかし、ホテルが経営難のため、閉館しているという事実を、そのとき知らされました。
 バブル期にオーナーが、惜しげもなく私財をつぎ込んで建てた、ご本人にとっては大変思い入れのある施設です。何とか買ってほしい、あるいは、借りてほしいとかの思いが伝わっては来ました。
 オーナーは、少林寺拳法の御宗家という、日本の組織を束ねる頂点に立つ人でした。今まで、拳法の組織上のトラブルや経済活動の苦難の中、とても豪快な経験をされてきた人でもありました。
 そんな彼の心の奥底には、誠実に向き合う人間関係を欲する心があることが感じられました。彼に対して、軽口をたたいたり、馴れ馴れしくしたりする人は、いないようでした。彼もまたそれを自ら好まないと言っていました。あくまでも御宗家としての立場を尊敬してほしい、という要求があるようでした。
 私たちは、何のしがらみもありませんし、別に気にいられなくて不利益を被ったところで、どうでも良いと思っていましたから、馴れ馴れしい結構失礼な態度をとることに平気でした。むしろ彼のことが好きでしたから、それが愛情表現のつもりでした。
 その年(昨年)は、閉館の事実を知ったところまでで、その後の進展もなければ、連絡もお互い取りませんでした。結局、昨年のオイコス休暇は教会を中心会場にし、キャンプは古里海岸において行いました。

今年のオイコス休暇

 今年になってから、やはりオイコス休暇の場所が気がかりでした。調べるうちに、知多の方で、一泊二食で6000円という破格の場所を見つけ、これなら二泊しても安い参加料金で計画できるので、下見もし、予約も入れました。
 しかしながら、あたしか温泉がなんとなく気がかりで、祈るつど考えさせられました。今年は選択肢には入れない方が良い、と心を制し、将来のためにできる準備をして行こうと思い、訪問をしてみました。
 彼には、経営の気力はないものの、なんとかこの思い入れある物件を生かしたい、という思いが切実でした。結局、トントン拍子に、貸していただける、話がまとまってしまいました。将来は買い取れるようになってほしいとの、お願い付きでした。この時初めて知ったことでしたが、彼には教会に対する特別な思い入れがあったのでした。

ホテルのデザイン

 彼は、拳法を教えて来たわけですが、対象の人々に警察関係者が多くいたようです。海外で、スペインやフランスで、そしてアジアでも永年にわたって滞在して、護身術を教えたということです。その生活の中で、教会の建物を見、その形状に好意を抱いたのでした。教会を訪問することもあったらしく、特に韓国では、日本人の来会者として歓迎されたこともあったようです。聖書の物語についてや、礼拝や献金の様子あるいは牧師について、よく知っていました。
 そんな彼が、28年前に、ホテルを建てる際、彼が自ら好んだデザインがとんがり屋根のまるで教会のような形状だったのです。ですから、ぜひ教会の物件として使ってほしいという思いが彼にありました。最初から、十字架を屋根の上につけたら良い、ということをしきりに言っていたほどです。

神様が与えてくださったと言える理由

 この話は、神様が用意してくださったことである、と確信させられるいくつかの事柄があります。
 1 一つには、彼の教会に対する特別な思い入れです。彼自身は少林寺という仏教の指導者であり、たぶんに宗教的な思想を教える立場にあります。しかし、彼自身は、少林寺拳法自身は健康のためには評価していても、仏教の教えそのものには懐疑的です。その反面、教会に対しては好意的であり、教えについても彼の口から批判を聞いたことがありません。
 2 さらに、道場にあった祭壇や、宗教画、用具、などはあっさりと取り外しを許可してくれました。さらに、源泉の湧き出る井戸のところには、社が建設してあって、神棚が設置してありましたが、それも壊すことを快諾してくれました。
 3 彼が経済的に一番苦しかった時代には、債務の関係で売り渡しができない状態でした。しかし、今は売れるのですが、教会に使ってほしいと思ってくれているのです。
 4 温泉が出るにもかかわらず、高温でないことが幸いしています。もし、高温の温泉が出ていれば、おそらく、温泉街になっていても不思議ではありません。そうなっていれば、私たちが使うことは、あり得ないことだったでしょう。しかも、資源保護法に守られ、近くには掘削が許されない状態です。まさに、私たち専用ということなのです。
 5 私たちが使いたいように、教会として使えるように、自由な変更が許されています。最近、十字架を取り付けました。そして、ピザ窯を作りました。いずれも、オーナーが進んで賛成してくれていることです。
 以上のような理由により、神様が与えてくださった物件であることに確信が持てるのです。清掃や修理の奉仕によって、多くの兄弟姉妹が癒されています。ここを使っての礼拝やセミナー、交わりによってリトリートされていることを感謝します。
 今後神様がどのように方向を示されるか、正直なところわかりません。進むにしても、立ち止まるにしても、どんなことを示されても、ただ主の言われることに従って行きたいと思います。一番願うことは、人が救われる道具として用いられることです。

16.07.03 みこころで生かされている



「ヤコブの手紙 4:13−17 聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」

主のみこころは生かすこと

主の私たちに対するみこころは、私たちを生かすことにあります。「お心一つで、私はきよくしていただけます。(マルコ 1:40)」と、イエス様のみこころを求めたらい病人に対して、イエス様は「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって・・『わたしの心だ。きよくなれ。』(同41)」と言われました。主のお心は、私たちをいやし健やかにすることにあります。
救いとは、私たちが「いのち」を得ることです。「いのち」とは、「永遠のいのち」ですが、滅びることのない死後の「いのち」だけでなく、地上の人生でも、私たちが健やかであることが、神様の望みです。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ 10:10)」「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。(第三ヨハネ 2)」
主のみこころは、私たちを生かすことにあり、私たちをいやすことにあります。主は喜んで、私たちをいやしてくださるのです。

生かされていることが恵み

私たちは、人生で、いろいろな悩みを抱えます。人生に苦しみがあるのは、人が罪を犯し、神様から離れたからだと聖書は教えています。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記 3:17-19)」
死そのものが、人が罪を犯した結果、生じたことであるのです。もし、死がなければ、私たちが人生で味わう苦痛はそれほど深刻ではなくなります。例えば、病気になっても、不自由はありますが、死ぬことはないので、それほど恐れることはないでしょう。何百年も経てば、新しい治療法が、開発されることになるかもしれません。
人間関係で、苦しんだとしても、無限の将来の時間がありますから、いずれは解決されるだろうと、楽観視することも可能です。
経済の破綻があっても、いつか必ず次のチャンスがやってくる、と希望を持つことができます。
しかしながら、人生には死があり、人生は有限であるから、ことは深刻にならざるを得ません。このような中で、何はともあれ、健康で生きているということは、とても大きな恵みであるのです。しかも、それが主のみこころであって、主が望んでおられることだと知るとき、生かされていることは、とてつもない大きな恵みである、とわかるのです。健やかさを損なえば、すべてのことは制限されますし、死によってすべてが絶たれるからです。
そう考えると、色々と悩みはありますが、生きてはいるということは、大きな祝福です。「生かされている」という現実の前には、すべての悩みは小さなことと言えるのではないでしょうか。

高ぶっている

それを知らないで、自分中心に生きている人に対して、聖書は「あなたがたには、あすのことはわからないのです」と教えています。人は「むなしい誇りをもって高ぶっています」というのです。「しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧」にすぎないのに、みこころによって生かされているとも知らないで「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言っているというのです。みこころによって生かされているなら、行うこともまた、みこころによってしなければならないということです。

みこころなら生きていて、これをしよう

聖書は「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言 19:21)」と教えています。「主のはかりごとだけが成る」のですから、主のみこころを知って、それを行うことが必要です。いかに多くの人が、理想に燃えて、自分勝手な道を歩み、行き詰まっていることでしょうか。
人生の決断、とくに新しい人生を踏み出す決断においては、それが主のみこころであるかどうかを確かめなければなりません。どこの学校に進むか、どの企業に就職するか、結婚の相手を選ぶこと、事業においての決断、住む場所、大きな買物、などなどそれらを決めるときには「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」ということなのです。このような決断と生き方は、なんと私たちを幸せにすることか、と強く思わされます。