23.06.25 すべては神の恵みのゆえ



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「エペソ2:8-9 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

恵みのゆえに信仰によって救われた

 私たちはいつも、神の恵みによって救われた、神の恵みのゆえに生かされていることを忘れてはなりません。罪の中から救われた私たちですが、救いは、信仰によって神様からいただいた贈り物、プレゼントです。
 私たちは、家族や親しい人から福音を聞きましたが、福音を伝えてくれる人を遣わしてくださったのは神様です。福音を聞かなければ、当然知ることはできませんでした。そして神に背いて、自分一人で生きて来た結果、失敗してしまった、それは自分の罪が原因だったのだと知りました。罪を自覚することができたのも、神の恵みのゆえです。罪の自覚がなければ、神に救いを求めることはありませんでした。そして神は、ご自分の御子キリストを地上に遣わしてくださいました。イエス様は、この地上で、私たちが到底耐えることのできないすべての苦しみを受けてくださり、耐え抜いてくださいました。また、神の律法である「愛しなさい」という要求を完全に守り抜いてくださいました。そして、十字架にかかって死なれ、よみがえってくださいました。すべて、神様があらかじめ、あなた一人のために備えていてくださった一方的な恵みであることがわかります。このことを知るだけでも私たちは、主に対して感謝を表さずにはいられません。
 私たちがしたことは、と言いますと、神がしてくださったこれらのことを、「ただ信じて受け入れた」だけでした。この、信じて受け入れること自体も、「あなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」と聖書は教えています。

行いによっては救われない

 冒頭のみことばは、「救いは行いによるのではない」と言っていますが、救いは、私たちが良い行いをして来たその報酬として与えられたものではありません。私たちは時に、救われる以前の時のように、良い行いを積み重ねて行くことによって、成長できる、神が望まれる立派なクリスチャンになることができる、と考えていたりすることがあるかもしれません。しかし、良い行いによって、神の基準に到達することは決して出来ません。「これからは人を愛して生きるぞ」「明るく元気よく生きて行くぞ」と決意して良い行いに励みますが、表面的な行いだけを改めても、それはすぐに続かなくなります。心の内側にあるものがきよめられない限り、決して変わることはありません。
 私たちが誰でも経験することですが、仕事でプレッシャーがかかって追い込まれる時、勉強がはかどらず期限に迫られる時、家事や子育てに追われて精神的に追い詰められる時、そのような苦しい状況に追い詰められると、すぐにそこから逃げ出したくなったりします。「今の仕事をやめてしまおうか」「学校へ行くのをやめてしまおうか」と考え始めます。そして、人と関わることがわずらわしく感じて、「家族から離れたい、神様から、教会から離れたい」と思うようになります。とことん追い詰められると、「死んでしまいたい」と考え始めます。そのような状況に置かれれば、良い行いをすることなど簡単にあきらめてしまう、そんな弱さを抱えているのが本来の私たちではないでしょうか。

方向転換できることが何よりの恵み

 しかし、そんな中ではじめて、自分自身に絶望して、自分一人で生きていることに懲りて、主に飢え渇いて求めるようにされていきます。そこで悔い改めて方向転換をして、主の言われることに素直に従う信仰を持つとき、主にあって良い行いをすることができるように変えられて行きます。
 私は、以前に何度も、「こんなことやってられない」「仕事もやめてしまいたい」「家から出て一人になりたい」と、何もかも面倒に感じて、投げ出したくなってしまう衝動にかられることがありました。それはいつも、窮地に追い込まれ、行き詰まりを覚え、もう自分ではどうにもならないと感じる絶望的な状況に置かれる時でした。絶望している時に、ふと思い起こされるのが、「また以前のように、自分から離れて行って、生活を壊してしまうようなことをするのか」ということでした。「イエス様のあわれみによっていただいた多くの恵みを、また自らの手で壊していくのか、と思うとそれはできない」と思いました。そこで、悔い改めて方向転換するところに追いやられ、主から「自分から謝りなさい」「愛しなさい」「わたしにとどまっていなさい」と語られました。そして信仰を持って一歩踏み出して、また元の環境に戻ることをさせてくださいました。今思い返しても、何度も悔い改めて、信仰によって主の言われることに従って愛することを決意をさせられて、今の仕事、家庭、人間関係、生活があるのだとわからされます。それはすべて神様の恵み以外の何ものでもなく、ただただ恵みのゆえに生かしてくださっている神様に感謝しかありません。方向転換をして、また新たな心で、主の言われることに従っていくことができるのは、何ものにも代え難い恵みではないかと教えられます。すべては神の恵みのゆえであることを感謝します。(岩下 栄作)

23.06.18 信仰に応えてくださる主



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「Ⅱ列王記4:2-5 エリシャは彼女に言った。『何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。』彼女は答えた。『はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。』すると、彼は言った。『外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。』そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。」

尽きない油

 エリシャは北イスラエルの預言者でした。あるとき預言者の仲間の一人が死んで、その妻がエリシャのところに助けを求めに来ました。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。(Ⅱ列王記4:1)」エリシャは貧しい彼女の家に、一つの油の壺があることを聞き出すと、「空の器をたくさん借りてきて、家の戸を閉めて、すべての器に油を注ぎなさい。」と言いました。たった一つの壺にわずかしか入っていない油を、たくさんの空の器に注ぎなさいとは不可思議です。しかし彼女は家に帰ると、言われた通りにしました。そうして、彼女の油の壺からすべての器に油が注がれると、油は止まりました。その油を売って、彼女は借金を返し、またこれから先の生活費も得ることができました。神様は奇跡をもって彼女を助けてくださいました。

やもめの信仰

 このやもめは、危機的な状況において神に助けを求めました。彼女がエリシャに叫び求めたとき、「あなたのしもべは主を恐れていました。」と言っています。彼女は、「神の働きに忠実に仕える者を、神は必ず養ってくださるはずだ」、という信仰をもってやって来たのでした。彼女は、エリシャから「しなさい」と言われたことに対して、「なぜ空の器がほしいのですか」と質問したり、「あなたも一緒にうちに来てください」と頼むこともなく、ただ彼のことばだけを携えて家に帰り、言われた通りを忠実に行いました。すると必要のすべてが満たされました。神様は彼女の家にあった、たった一つの油の壺を用いて、そのわずかな油を何倍にも増やしてくださいました。
 神様は、私たちが「主よ、助けてください。私にはこんな問題があります。」と願い求めるとき、「何をしてあげようか。私に話しなさい。」と聞いてくださり、応えてくださるお方です。私たちは、まず神様に願い求めなければなりません。そして、神様が語ってくださるみことばに忠実に従わなければなりません。

信仰に応えてくださる主

 救われる前、私は生活が困窮していました。その原因は人を愛さない罪でした。人は愛することがなければ、生活にやる気を保つことはできません。救われて教会に来るようになったとき、これからはただ神様に従って生きようと決心しました。まず日曜礼拝が何よりも大切だと聞いて必死で礼拝を守りました。日曜日の仕事は断りました。お金がなかったのですが、毎週浜松から名古屋に、喜んで車で通いました。また、「収入の十分の一は神様にお返ししなさい」とみことばで教えられている通りに、きちんと十分の一献金をしました。神様は「愛しなさい」と言われますので、周りの人を愛する努力をし、教会の交わりには必ず参加しました。与えられた賜物を管理しなさい、神のために使いなさいと言われたので、自分の賜物を神様の働きのために磨くことに気を配って、すべてを自分のためではなくて、教会の働きに惜しみなく使って仕えました。そうしているうちに、仕事もやる気も与えられて、経済が豊かになってきました。生活に必要なものが普通に買えるようになって、家も与えられました。今振り返ってみても、救われる前にはわずかしか持っていませんでしたが、そのわずかなものを神様が言われたとおりに差し出して行ったときに、何倍にも増えて豊かにされていることに気づきます。主は私たちの信仰に豊かに応えてくださるお方です。

信仰をもって求めよう

 私たちはみな神様の奇跡を必要としています。日常生活の中では、「この借金を返して経済を立て直すことができるだろうか」、「この病は治るのだろうか」、「このこわれてしまった人間関係は回復するのだろうか」、「家族は本当に救われるだろうか」などと思い悩みますが、私たちは神を信じ、神を恐れる者ですから、「問題は必ず解決される」と信じて、神様に求めることができます。私たちの信じる神様は全知全能であられ、できないことは何一つありません。信仰をもって求める者に「何をしてあげようか。」と応えてくださり、豊かに祝福してくださいます。信仰をもって求めて参りましょう。(鈴木千史)

23.06.11 光の子どもとして歩みなさい



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「エペソ5:8-9 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。」

キリストの光が心を照らしてくださった

 パウロは私たちに、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」と教えています。「闇」は、罪の支配、罪の行いのことですが、私たちは、以前は闇の中に生きていましたが、今は主にあって光の子どもとされました。
 キリストは「光」であられ、「光」そのものであられるお方です。「光」であられるキリストには、暗い部分、闇の部分は一切ありません。それは神様が完全なきよいお方であられることを示しています。キリストの光は、この世を照らします。この世は、悪魔、サタンの支配の下にありますが、光であられるキリストがこの地上に来られたことによって、闇である悪魔、サタンは、完全に打ち砕かれました。それがイエス・キリストの十字架のあがないです。このキリストを信じる者は、闇の中から救い出されて、主にあって光となります。
 キリストの光が、いつも私たちの心を照らしてくださるので、私たちは何が正しいことなのか、そうでないのかを見分けることができます。罪がある時、それを罪とはっきり認識することができるので、悔い改めて祈ることができます。悔い改めて、赦しを受け取ったその瞬間に、闇は完全に消え去ります。

あなたがたは世の光です

 キリストの光に照らされた私たちは、今度は世の光となって、キリストの光を自分の周りの人たちに照らすように変えられます。イエス様は「あなたがたは世の光です。(マタイ5:14)」と弟子たちに言われました。そして、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。(同5:16)」と言われました。私たちが救われたのは、世の光となって、キリストの光を人々の前で輝かせるためです。
 私たちは、日々自分の身に起こるどんな出来事を見ても、それが主のなさる最善だと知っていますので、主を喜ぶことができます。その姿は世間の人から見ると、「あの人は、あんな大変なことが起きているのに、何でいつもあんなに嬉しそうにしているのか不思議で仕方がない。あの人が信じている神様が、あの人をあんなにも変えているんだ」と映ります。私たちが世の光となる時、その人たちの口を持って天の父がほめたたえられ、あがめられ、主の栄光が現されます。

主に従うとき光り輝く

 では、私たちはどうすれば、世の光として輝いて生きられるのでしょうか。イエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と言われましたが、私たちがイエス様に喜んで従う時、キリストの光を放ち、光り輝くことができます。
 例えば、体力的、精神的に疲れを感じる時、イライラしたり、人の言葉に腹を立ててしまったりすることがあると思います。そんな時私たちは、「今日は朝から何となく頭が痛いし、体調が優れないから、それが原因なのかもしれない。」と考えたり、「昨日はあまりよく眠れなかったから、それが原因かもしれない。」と考えて、あれこれと自分の行動を振り返り、調子の悪い原因を探っていたりするかもしれません。しかし、私たちが問われるべきことは、「今、私が輝きを失っているのは、主がなされていることを私が喜んでいないからではないか。」ということです。人の反応を嫌がっていたり、今日の予定のことを考えて思い煩ってはいないでしょうか。もし思い当たることが少なからずあるのであれば、それが主の光をさえぎっていて、輝きを失っている原因なのだと、主の前にへりくだって受け取るべきではないでしょうか。それを自覚し悔い改めて、主のなされることを喜ぶとき、闇は完全に取り去られ、主にある平安、喜びで満たされます。

きよさを求めなさい

 全き光であられるお方のきよさを求めてまいりましょう。主は、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない(Ⅰペテロ1:16 第三版)」と命じておられます。ですから私たちは、きよさを求めなければなりません。罪を憎んで、忌み嫌い、罪の行いから離れましょう。悪い思いが湧いてきたら、それを放っておかずに、感じたままを主に祈りましょう。
 心にある思い煩い、愛せない思い、人に対して素直になれないこと、主がしておられることを喜べないこと、そのような日陰の領域に光が当てられ、きよめられるとき、仕事や勉強は楽しくなります。新しいことにもチャレンジしてみようという意欲が湧いてきますし、何事にも興味が持てるようになります。自分から人と関わりを持ちたい、人を愛したい、寛大な心で受け入れてあげたいと願うようになります。人の反応に左右されず、相手のことを理解してあげられる心のゆとりが生まれてきます。このようにして、世の光として輝きを放ち、その実が結ばれていきます。私たちはいよいよ輝きを増し、信仰を通して主の栄光が現されると信じます。イエス・キリストだけが、心の闇に光を当ててくださり、解決を与えてくださるお方です。きよさを求めて、光の子どもとして歩んでまいりましょう。(岩下 栄作)

23.06.04 お心一つで



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「マルコ1:40-42 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」

主はいやすお方

 出エジプト記において、神様は「わたしは主、あなたをいやす者である。(15:26)(新改訳第三版)」と言われました。神様は病をいやす権威をお持ちであられます。そして神の御子であられるイエス様は、この地上で神様のみわざをあらわしてくださいましたが、その多くは病のいやしでした。
 冒頭の聖書箇所では、ツァラアトに冒された人が、イエス様のみもとに来ました。ツァラアトというのは重い皮膚病です。モーセの律法では、ツァラアトに冒された人は隔離されていました。しかし彼はいやされたい一心で、イエス様のところにやってきました。そして、イエス様の御前でひざまずいて、「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と、病のいやしを懇願しました。「お心一つで」というのは、「あなたが望まれるならば」という意味です。彼は遠慮がちな言い方をしながらも、「主は私をいやすことができる。」と確信していました。イエス様は、そんな彼を深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわってくださり、「私の心だ。きよくなれ」と命じられました。すると、彼のツァラアトはいやされました。

主のお心はいやされること

 イエス様が、ツァラアトの人をいやしてくださったとき、「わたしの心だ。」と言われました。主はその主権によって、なさりたいことをなさるお方ですが、主の「お心」は彼をいやすことでした。イエス様は、彼を深くあわれんでくださいました。ギリシャ語で「あわれむ」ということばは、「内臓が動く」、という意味です。「断腸の思い」ということばは、「はらわたがちぎれるほどに悲しみを感じる」という意味ですが、イエス様はまさに断腸の思いだったのではないでしょうか。そして、手を伸ばして彼にさわってくださいました。ツァラアトはうつると信じられていましたから、この病にかかって以来、彼はおそらく人から触れてもらうことなどなかったでしょう。ですから彼は、イエス様に触れてもらったことで、病の症状だけでなく心の孤独もいやされたに違いないと思います。
 主の「お心」は、私たちを病の苦しみから解放することです。目に見える病も、目に見えない心の奥深くにある苦しみも、主は
すべての病をいやしてくださいます。

いやしが必要

 私たちも皆、いやしが必要な者です。私たちが「私はいやされる」と確信を持つことができるのは、イエス様の十字架の贖いによります。イザヤ書には、「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒やされた。(53:5)」とあります。私たちの願いは、イエス様の十字架を通して神様に届くようになりました。ですから、私たちが「いやしてください」と祈り求めれば聞かれるのだ、と確信することができます。
 いやしが必要なのは病気だけではありません。私たちは日常生活の中での体や心の疲れがいやされる必要があります。また、病を引き起こす悪い生活習慣がいやされる必要があります。いつまでも自分の好きなことをしていて夜更かしをしてしまう、食べ過ぎてしまう、などということがあれば、その悪い習慣はいやされなければなりません。また、私たちの心の中にある悪い思いがいやされる必要があります。ねたみや恨み、ゆるさない思い、また、「私なんか」という否定的な思いや、ふいに襲ってくる心配や閉塞感がいやされなければなりません。私は生活している中で、人をさばく思いやねたみがわいてきてしまいますので、神様に「主よ、悪い思いが少しもわいて来ないように、心をいやしてください。」と祈ります。すると神様は、「わいてくる思いはほうっておいて、愛することを始めなさい」と言われます。主に祈り求める中で、主に導かれて心の向きが変えられています。

いやしを求めなさい

 神様の「お心」は、私たちが健やかであることです。しかし私たちが求めなければ、主はいやすことがおできになりません。主は私たちの信仰を管としてくださいます。ですから、私たちは神様にいやしを求めましょう。祈り求める中で、神様は直接いやしてくださることもありますし、また、医者や薬を用いていやされることもあります。すぐにいやしてくださることもありますし、時間をかけていやしてくださることもあります。また、パウロの病がそうであったように、いやされないこともあります。神様は主権を持って働いておられますから、なさりたいことをなさいます。しかしそのすべてが、私たちにとって最善であることを私たちは知っています。ですから、神様に求めて起こる結果を、私たちは神様に信頼して喜んで受け入れることができます。
 主は私たちが主に願い求めることを喜んでくださいます。どんな状況であっても主に信頼し、いやしを求めて祈って参りましょう。(鈴木千史)

23.05.28 キリストが私のうちに生きておられる



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「ガラテヤ2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

自分が中心で生きていたので失敗した

 救われる前の私は、自分に対して良い反応をしてくれなかったり、不機嫌な態度を取る人の反応を見て、心の中では腹を立てたり、嫌がっているのに、表面的には、明るく振る舞い、喜んで受け入れているかのような顔をしていました。それは、自分が嫌われたり、拒絶されることが怖かったからです。自分の存在を認めて欲しくて、人の愛を求めていました。ですから、人に取り入ろうとして、できないと思われたくない一心で、できる自分を必死で周りにアピールしていました。心の根底には、いつも沸々とした憎しみの思いがありました。そんな思いを持ちつつ仕事をしたり、家庭生活を送ったとしても、本当には幸せにはなれませんし、平安にはなれません。箴言28:13には、「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」とありますが、私たちも、家庭の中で問題を抱えたまま、それを放っておいて仕事が成功することはありません。その心の内は必ずどこかで外に現れてきます。結局、私たちの問題は、「愛することが出来ない」という一言に尽きると思います。それがほんの一瞬できたとしても、続かなくなります。

キリストが中心で生きる新しい自分

 しかし私たちは、イエス・キリストを信じて、古い自分に死んで、「キリストが私のうちに生きておられる」という新しい自分へと変えられました。それは、私たちの内に聖霊が住んでくださって、ともに歩んでくださるという新しい自分です。そのお方は、「もう一人の助け主」であられるお方で、聖書のみことばを持って、信じる者の心に思いとして語りかけてくださいます。
 腹が立つことがあるとき、主の御声を聞こうとすると、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。(ローマ12:19)」「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」「あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。(ローマ12:20)」というみことばが思い起こされます。これが聖霊の働きです。その声に聞き従う時、主はともに働いて、私たちの心を守ってくださいます。つまり、怒りを鎮めることができ、また柔和な心を持って、返事をすることが出来ます。聖霊の助けによって、私たちがもとよりしたかった「人を愛したい」ということができるようにされて行きます。

行いによってではなく信仰によって生きる

 しかし、私たちのうちには、救われてもなお、自分の思い通りにしたいという肉の思い、つまり、生まれながらの罪の性質が残っています。ですので、その古い自分との戦い、葛藤の中に置かれる時があります。「古い自分」は、自分が良い行いをすることによって、神に受け入れられる、聖く正しい自分になれると考えます。古い自分との戦いは、キリストに自分の人生をゆだねたいと願っているのに、すぐにまた自分の努力によって正しく生きようとしてしまう心の状態のことです。このような時、私たちは、救われた時のことを思い起こす必要があります。
 私たちが救われたのは、良い行いをした結果、神様が「よし、あなたは、わたしの示す基準に到達できたので、これまでの罪を赦して救ってあげよう」と、良い行いに神が報いてくださったからではありません。むしろ、その反対で、神様から見れば、「あなたはこれまで何一つ良い行いをして来なかった」というさばかれて当然の者が、神のあわれみのゆえに、「価なしに義と認められる(ローマ3:24)」というのが神の恵みによる救いです。私たちはただ、そのことを信じ受け入れただけです。そして、これからもなお、私たちは、信仰によって「あなたは律法のすべてを守ることができている」とみなしてくださる神のあわれみのゆえに、この出来ない者が、神の御心を行いたいと願い、愛そうとする方向へと変えられて行きます。その信仰に聖霊なる神が働いて、事を行わせてくださいます。

神は信仰を通して栄光を現される

 「キリストが私のうちに生きておられる」という人の歩みには、必ずその結果としての実が結ばれて行きます。人を建て上げ、人をいやし、人を救いへ導きます。それは、方法であったり、自分が何かが出来るようになったとか、上手く話すことが出来るようになった、祈ることができるようになったから、ということではありません。むしろ、出来ないことだらけであったとしても、信仰さえ持ち続けるならば、神は必ず助けてくださいます。イエス様は、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。(ヨハネ11:40)」と言われました。私たちは今、信仰を持たなくてはなりません。信仰を持つとき、行動せずにはいられなくなります。人に手を置いて、イエスの御名によって祈るとき、神が働かれ、人がいやされます。家族に福音を宣べ伝えるとき、あなたの語ることばを通して、聖霊の働きによって、イエスを主と告白する救いのみわざを見ることになります。私たちに必要なのは、主のことばに素直に従おうとする素直さだけです。神の素晴らしい奇跡のみわざを見てまいりましょう。(岩下 栄作)

23.05.21 一日中主を待ち望む



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「詩篇25:5 あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。」

神様から与えられた一日

 私たちは毎日「一日」を区切りとして生活しています。朝、目覚ましのアラームが鳴り、「さあ、今日も一日が始まるぞ」と起きて一日がはじまり、夜は、「今日も一日が終わったな」と思いながらふとんに入ります。しかし聖書の世界では一日は夕方から始まります。神様は六日間で世界を創造されましたが、はじめは地は闇でした。一日目、神様は「光、あれ。(創世記1:3)」と仰られて光を造られ、闇(夜)と光(昼)を分けられました。そして「夕があり、朝があった。第一日(同1:5)」と、「夕」が先に記されています。一日が夕方から始まるのは神様を中心にした考え方であることがわかります。神様は夜の間も休みなく働いておられ、時が来れば太陽をのぼらせて、私たちに朝を訪れさせてくださいます。今日の日は神様が与えてくださいました。
 私たちは、与えられた一日を神様が喜ばれる生き方をしたいと願います。ですから一日が充実するように、今日の「やることリスト」を作ったり、「今日の一日が祝福されますように」と朝祈ります。朝祈ることは、心が整えられるためにどうしても必要なことです。そしてさらに一日中、私たちは神様の導きを必要とする者です。

ダビデは一日中祈った

 冒頭の詩篇は、ダビデがアブサロムに追われていたときに書いたと言われています。アブサロムはダビデの子ですが、父に代わって自分が王になろうと企み謀反を起こしました。彼は綿密に準備をしたため、多くのイスラエルの人々は彼の側につきました。そのためダビデはエルサレムを後にするしかありませんでした。逃亡している中でダビデは、「あなたの真理を私に導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神」と祈りました。「何が正しいことでしょうか。あなたのなさりたいことを私になさってください。」とみこころを求め、「しかしあなたこそが私を救い出してくださるお方です。」と、助けを願って祈っています。今までもダビデが困難の中にあるとき、神様はことごとく助け出してくださいました。彼が神様に信頼し切っていたからです。
 そして、ダビデは「私は あなたを一日中待ち望みます。」と祈りました。「たとえすぐに答えが与えられなくても、あなたの導きを、私は一日中待ち望んで祈ります。」ということです。神様はダビデの祈りを聞かれて、アブサロムの手から彼を助け出されました。

全力で心を見張れ

 私たちも、毎日の生活の中で、一日中神様の導きを求める必要があります。一日の中では、朝には想定していなかったことが起こって来ます。そんなときにダビデのように「神様、こんなときあなたは何と言われますか。あなたのみこころは何ですか。」と祈り、神様に聞くことが必要です。
 聖書は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)」と命じられています。私たちはもとより、ご自分のひとり子のいのちを犠牲にしてくださるほどに私たちを愛してくださった神様を愛したいと切に願っていますが、イエス様は、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)」と言われました。神様を愛することは神様の命令を守ることです。そして、神様の言われることを守るためには、一日中神様に心が向けられていなければなりません。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)」

一日中神を待ち望む

 先週、私は自分の心を一日中見張っている中で、心が神様の思いではないことを考え出す瞬間に気づくことができました。「神様、あなたはどう言われますか」と祈ると、神様は「明日のことまで心配しなくてよいのです。(マタイ6:34)」とみことばを示してくださいました。その御声に従って、あれこれと考え出す前に、心配をやめることができました。さらに「自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)」と示されました。するべきことは神様に聞くことをずっと積み重ねて行くことだけ、と教えられました。
 生まれながらの罪人である私たちは、みこころ行うことなどできない者ですが、できなくても神様の命令を守って生きようとする者を、神様は祝福してくださいます。神様の祝福は、私たちの心がいつも静かであること、揺れ動かないことです。今日も一日中、神様を待ち望んで参りましょう。(鈴木千史)

23.05.14 黙って神を待ち望め



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「詩篇62:5 私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。」

黙るとき、相手の思いを知ることができる

 私は昔、セールスの仕事をしていましたが、購入を検討しているお客さんから返事をもらう瞬間が、一番心が揺れ動きます。「断られたくない」と思って、拒絶を恐れる思いがあると、返事を聞く前に、自分から話す必要のないことを話してしまいます。しかし、その焦る心を治めて、黙る時に、相手の思いをちゃんとくみ取ってあげることができます。するとお客さんの方から、「実はね、昨日こんなことがあってね」と、躊躇している理由を話してくれたりします。そして、その問題が解消されたことによって契約に至る、ということになります。
 人と話をしていて、相手の話を聞いている時、自分の思いや考えがあると、相手の声に耳を傾けて聞くことに集中できなくなり、相手の思いを知ることはできません。当然のことですが、自分の考えを治めてはじめて、相手の考えていることや思いに耳を傾けることができます。

黙るとき、御声を聞くことができる

 私たちと神様との関係においても、自分の考えを治めるとき、つまり黙るとき、主の御声を聞くことができるようになります。
 モーセは、イスラエルをエジプトから救い出すために用いられましたが、主の働きに召された当初、彼は、「主よ、私はことばの人ではありません。自分にはそんな役割を担うことなどとてもできません。」と言い訳をして、そこから逃れようとしました。彼は、「自分にはできるのか、できないのか」ということにとらわれていました。しかし、それでも主の言われることに従って立ち上がり、自分のうちにある言い訳を治め、主の御声を聞いて行動するようになりました。そして主は、彼を通して、偉大な救いのみわざを成し遂げられました。
 私たちも、神を信じる者ですので、御声を聞くことができます。何が御心であるのか、そうでないのかをはっきりと区別することができます。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。(ヨハネ7:17)」

不平が主の働きを妨げている

 しかし、もし私たちのうちに今、不平の思いがあるとしたら、私たちは、「不平を言うことによって、私は神の働きを妨げているのではないか」という事実に気がつかなければなりません。不平を言うことは、今置かれている状況を嫌がって逃げていることです。不平を捨てないことが、主があなたに用意しておられる豊かな祝福を受けることの妨げとなります。
 朝会社へ行くのに、いつもより遅く家を出てしまって、道中思いがけない渋滞に遭遇するとき、「何でこんな時に限って、こんな渋滞にあうのか。」という不平やつぶやきはないでしょうか。病気のことで、なかなか良い見通しが立たないと感じるとき、「なかなか治らないなあ。これはいつまで続くんだろうか。」と不平を言っていたりしないでしょうか。主は、いつでもあなたを通して働くための準備、ご計画があります。そして、必ず人を通して働かれ、みわざをなされます。そのためには、どうしても私たちの信仰の応答が必要になります。

「神にはできる」という信頼の姿勢が必要

 私は、メッセージの準備をする中で、時間が迫り、なかなか答えが与えられず、プレッシャーを感じていました。その時、ふと示されたことがありました。それは、「あなたは、『自分にできるかどうか』ということばかり考えているが、『わたしにできる』と信じているのか。」ということでした。私は、「できないかもしれない」と感じる中で、「できそうだ」と思えるように、必死に自分を保とうとしていて、まったく主に信頼していなかったことを教えられました。「自分ができるか、できないかはどうでもよくて、神にはできるのか、できないのか。それだけが重要なことだ。」と気づかされた時に、心にあった重荷を下ろすことが出来ました。私は、「主が助けてくださり、成し遂げてくださる」と主に信頼して、主とともに、やるべきことを進めて行きました。主は、私がどんな心の状態であろうとも、その私に起きている状況を用いて、また私の周りの人を使ってでも、ご自分のしたいことをすることのお出来になられるお方です。そのことを私が認めて、主に信頼する姿勢だけが問われていることでした。
 私たちが、心から主に信頼し、主の救い、助けを黙って待ち望むときに、主は私たちを通して働いてくださり、素晴らしいみわざを成してくださると信じます。(岩下 栄作)

23.05.07 神の家族



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「エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」

オイコス休暇感謝

 5月3日から3日間、オイコス休暇が行われました。4年ぶりのオイコス休暇でしたが、兄弟姉妹と過ごす中に本当の喜びと平安があることをあらためて教えられ、主に感謝しました。
 1日目は八百津町へ観光に出かけました。杉原千畝記念館では、政府の命令よりも人のいのちを救うことを優先し、6,000人ものユダヤ人を助けた杉原千畝さんの功績を詳しく学ぶことができました。2日目はプレヤーハウスで、早押しクイズ大会や映画観賞、ダーツやビンゴなどをして一日のんびりと過ごしました。3日目は、清須市にある体育館に出かけて、スポーツやゲームを楽しみました。それぞれの交わりの中に主がともにいてくださり、豊かに祝福してくださったことを感謝します。

神の家族に加えられた

 冒頭のみことばは、パウロがエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会の人々は、ユダヤ人から見れば他国人でありましたが、キリストを信じることによって、ユダヤ人との間にあった隔ての壁が打ち壊されて、一つの教会となりました。それは彼らが、「聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族」になったということです。「聖徒」というのはクリスチャンのことです。私たちもまた、キリストを信じて神の国の国民、神の家族に加えられました。造り主であられる神様が私たちのお父さんです。同じ神様をお父さんとしますから、私たちは互いに兄弟姉妹と呼び合います。教会は「神の家族」です。
 時々「信仰は私と神様との関係なのだから、私は教会には行かずにひとりで信仰を守っていきます。」と言う人がいますが、聖書はクリスチャンをそのような存在として書いてはいません。聖書には「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(Ⅰコリント12:27)」と書いてあります。教会はキリストのからだです。からだの中で、いらない部分は一つもありません。同じように教会はキリストが頭であり、教会員はそれぞれがキリストのからだの手や足、目や口や鼻や耳、爪や内臓などであって、全員がそろって一つの教会になります。誰一人いらない人はいません。みんな必ず居場所があります。もし誰かが欠けることがあれば家族全員が痛みを覚えます。

熱心に愛し合いなさい

 ところで家族とはいえ、教会にはさまざまな人がいます。職業も興味もさまざまですし、年齢もさまざまです。職場や学校や趣味の仲間とは違って、一致するところよりも違うところの方が多いのです。どうしたら一致することができるでしょうか。それは、一人一人が、造り主であられる神様としっかり結びつくことによってです。家族の中では、皆がお父さんに従うことによって一致することができますが、同じように、教会が一致するためには、皆が神様の言われること、つまり聖書に従おうとしていることが重要です。聖書には、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。(Ⅰペテロ4:8-10)」とあります。
 家族の中で、お父さんが皆を楽しませるために気を配るように、今回のオイコス休暇を企画してくださったのは父なる神様です。それは私たちが熱心に愛し仕え合うことによって一致し、喜びにあふれるための恵みです。今回も皆が自然に、思い思いに仕え合っていました。皆が過ごしやすいように場所を整える人、食事の世話をする人、ゲームやスポーツを企画する人やそれを楽しむ人、子どもと遊んでくれる人、ただのんびりと交わりをする人など、皆がみことばに従って熱心に愛し仕え合う中に一致があり、何にも替えがたい喜びを味わうことができました。

愛することは与え続けること

 熱心に愛することは、熱心に自分を与えることです。与えると、一見なくなるように思えますが、神の国の法則はこの世の法則とは異なります。与えている人は、与えれば与えるほど受けることを知っています。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。(ルカ6:38)」。ですからいつも与えている人は、決して無理をしているのではないと思います。そして大切なのは与え続けることです。
 私たちが神の家族の一員として熱心に愛し合うことは、私たち自身が祝福されることではありますが、さらにその祝福が、まだ神様を信じていない人々への証しとなります。熱心に与えることによって、家族の結束を強めて参りましょう。(鈴木千史)

23.04.30 一番の願い



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「詩篇27:4 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」

主との交わりが回復された

 ダビデは、一つのことを願っていました。それは、主の家に住むことでした。「主の家」は、神のおられる場所のことです。彼にとって、主がおられる場所で、主を礼拝することが一番の願いでした。彼は、自分を取り巻くところのあらゆる問題、心のうちに次から次へと襲ってくる恐怖の中で、自分のことについて願い求めることよりも、主を礼拝すること、主との交わりをまず一番願い、主の臨在を求めていました。
 イエス・キリストを信じた私たちも、ダビデと同様に、主の臨在を求めて、主を礼拝するならば、主は私たちと親しく交わりを持ってくださいます。それを可能にしたのが、イエス・キリストの十字架の血によるあがないです。イエス様が十字架にかかられ、死なれるまさにその時、神殿の幕が真っ二つに裂けました。それは、神と人との間にあった隔たりがなくなったこと、交わりの回復を示すものでした。この出来事によって、私たちは、いつでも、どこでも、神に近づくことができるようにされました。

主を礼拝することが一番の願い

 みなさんは、自分にとっての一番の願いは何でしょうか。仕事で成功して豊かになることでしょうか。心がいつも平安であることでしょうか。それとも、何の病気もなく健康で生きられることでしょうか。または、家族と一緒に楽しく暮らすことでしょうか。みなさんそれぞれ願いがあると思います。ですが私たちは、それらの願いよりも、まず主を礼拝することが一番の願いでありたいと思います。聖書は、「まず神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」と教えています。私たちは、自分のことに関心があり、自分の願いを祈ったりしますが、当然それらのことを願ってもいいわけですが、何よりも主との交わりを一番の願いとしたいと思います。日曜日に礼拝をするのは、一週間の最初の日である日曜日を、他の曜日と区別して取り分けて、自分の時間を主にささげたいと願うからです。日曜日は、神様を思う日、罪から救われたことを思い起こす日であり、そのことに感謝して過ごす日です。毎日、一日の始まりの時間を、自分のやるべきことがたくさんある中で、まず主を礼拝することを一番にしたいので、主に祈り、聖書を読んだりします。

主が一番でなくなると思い煩ってしまう

 しかし、主を礼拝することが一番の願い、一番初めでなくなると、心は思い煩いに支配されてしまいます。思い煩いは、ある問題のことについて、心の中で繰り返し考えていることを言います。例えば、経済的な恐れがあると、心の奥底では、ずっとお金のことを心配し続けています。体の不具合、病気を患っていると、そのことを繰り返し考えています。人間関係の中にあって、人の自分に対する評価を恐れていると、人から言われた言葉をずっと繰り返し考えては、できない自分を責めては落ち込んで、ということを繰り返しています。ですので、仕事に集中することができなくなってしまいます。
 その原因は、あなたが、「主は今ここにおられる」ということを本気で信じていないからではないでしょうか。「職場で仕事をしているその現場に主はおられる。職場や学校に行く道中も主はおられる。私がどこへ行っても、行くその場所に主はおられる。」と信じるならば、私たちの顔は自然と主に向けられますし、心にある憂いや心配、思い煩いは消え去り、主にある喜び、平安、満たしがそれに取って代わります。そのようにして主を礼拝することを、私たちの一番の願いとするとき、一日の活動のすべてが、主への礼拝となります。人に声をかけることも主のため、勉強するのも主のため、食べること、寝ることも主のためにすることになります。

今ここにおられる神を意識して過ごす

 ダビデは、主の臨在の中で、主の麗しさに目を注ぎ、思いを巡らしていました。私たちも、今ここにおられる主をほめたたえてまいりましょう。また、みことばを思い巡らして、みことばによって語られ、心に湧いてくる思いを何でも主に話してまいりましょう。そのようにして、私たちはいつも主と親しく交わりの時間を持つことができます。主との親しい交わりの時間が、一番の私たちの願いでありたいと思います。私たちが、主との交わりを一番の願いとし、そのように実際に生活の中で実践し、経験することによって、すべてが守られ、豊かに祝福されることを信じます。(岩下 栄作)

23.04.23 みことばをそのまま信じる



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「ルカ1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

主が語られたことは実現する

 冒頭のみことばは、イエス様がお生まれになったいきさつが記されている箇所です。御使いがマリアのところに突然やって来て、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。(中略)その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。(ルカ1:31-32)」と告げました。マリアはヨセフと婚約をしていましたが、まだ結婚はしていませんでした。戸惑うマリアに、御使いは「神にとって不可能なことは何もありません。(同1:37)」と言いました。マリアは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(同1:38)」と応答しました。
 マリアは、親戚のエリサベツにあいさつに行きました。エリサベツは年をとっていましたが、彼女もまた身ごもっていました。マリアがあいさつした時、エリサベツは聖霊に満たされて、大声で叫びました。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。(中略)主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(同1:42-45)」。人間的な考えではだれも信じることができないことをマリアは信じました。マリアの信仰の応答があったので、私たちの救い主であられる、イエス・キリストが誕生されました。主が御使いによって語られたことが実現しました。

主のことばには権威がある

 イエス様がカペナウムという町に入られた時、異邦人の百人隊長が来て、自分のしもべの病を癒していただくようにと願いました。イエス様は「行って彼を治そう(マタイ8:7)」と言われましたが、彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。(同8:8)」と言いました。彼は軍隊の経験から、真に権威ある者のことばであるなら、ことばだけで従わせることができると知っていました。ですからイエス様のおことばさえいただければ、しもべの病は癒やされると信じました。イエス様は彼の信仰に驚かれ、「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。(同8:13)」と言われました。イエス様がそう言われた、ちょうどそのときに、そのしもべはいやされました。主のことばには権威があります。

主は信仰を通して働かれる

 主は、私たちの信仰を通して私たちに働いてくださいます。信仰は管(パイプ)です。私たちの家の水道の蛇口をひねると水が出てくるのは、水道水が貯めてある場所から、飲み水がパイプを通って家にまで届くからです。水を通すパイプがなかったり、つまっていたりしたら、水は私たちのところに届きません。同じように、私たちの信仰のパイプを通して、神様の恵みが私たちに流れて届きます。ですから、私たちがどんなによくみことばを知っていても、そのみことばを信じる信仰の管がつまっていれば、その恵みは私たちのところには届きません。
 先月私は神学校を卒業しましたが、間際まで最後の一つの科目の課題が残っていました。計算ではあと10日間ほどでそれを終わらせなければなりませんでしたが、その内容は半年くらいかけて学ぶ分量でした。しかし神様が今年卒業させてくださると示してくださっていたので、必ず提出できると信じていました。毎夜、とても集中して取り組みました。途中で「本当に終わるのか」という思いがよぎりましたが、「神にとって不可能なことは何もありません。」とみことばを思い巡らし、ひたすら信じて課題に取り組みました。主が集中させてくださったので、教科書の内容が驚くほどすらすらと理解でき、計画よりも早く課題を提出することができました。神様に感謝しました。神様はみことばを信じる信仰を通して働いてくださいます。

みことばをそのまま信じなさい

 聖書には、「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル 11:1)」とあります。私は父母と義父母が救われることをいつも祈り求めています。ですから食事の交わりをするときは、たとえ目の前にいる両親に、イエス様を信じる気配が全く感じられなくても、「主よ、両親は必ず救われます。」と心の中で思いながら交わりをしています。主のみことばは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」であるからです。信仰は、みことばをそのまま信じることです。
 神様は私たちを愛しておられ、ご自分の豊かさで満たすために、信仰の管を捜しておられます。神様のみことばをそのまま信じる者となりましょう。(鈴木千史)

23.04.16 主に心を明け渡す



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「ローマ12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

私は神のものとされた

 私たちは、主のあわれみによって、罪の支配から救われました。それまでの私たちは、神様を知りませんでしたので、「私のからだは、生活は、自分のものだから、自分の好きなようにしていい」と思っていました。良い生活習慣を持ちたいと願いながら、欲のおもむくままに、テレビやゲーム、遊びなどで夜ふかしをして体調を悪くしてしまったり、食べ過ぎてしまって病気になってしまったり、お金を自分の使いたいように使ってコントロールが効かなくなってしまったという人もおられると思います。仕事や人間関係で上手くいかないことで思い悩む時に、「こんなみじめな私はかわいそう。誰も私のこの大変さはわかってはくれない、もう自分なんかどうなったっていいや。」と生きることに気力が持てなかったという方もおられると思います。
 しかし、そんなところから私たちは救われました。主がご自分の御子を差し出して、十字架につけて血を流してくださるほどの犠牲を払ってくださいました。その十字架の血が代価であって、神がその代価を払ってくださったがゆえに、私たちは救われました。つまり、「私は神のものとされた」ということです。

明け渡したいと願うようになる

 そのことを知った私たちは、「もはや自分のからだは、生活は、自分のものではない、だから主にささげたい、心を明け渡したい」と願うようになりました。「これまでは、自分中心で生きてきましたが、これからは、神様のために仕えて行きたいと思います。」と願うように変えられました。「主に心を明け渡す」ということは、自分のものであったものを手放して、神様の手にすべてを渡して服従する姿勢のことです。「私の持っているもの、生活は、あなたのものですから、全部あなたにささげます。あなたの使いたいように、したいようにしてくださって一向にかまいません。」という信仰の告白です。
 主に心を明け渡すと、「神様のために時間を使いたい」と願うようになります。自分のために使うと、自分の欲に負けてしまい、テレビやゲーム、スマホなどに夢中になってしまい、時間を浪費してしまうだけで終わってしまいますが、「仕事よりも神様を第一にしよう」と思うので、「日曜日は、神様を礼拝する日なので、この日を主にささげて、仕事の予定は一切入れないようにしよう」と思って、家族や兄弟姉妹と過ごす時間にあてたりします。また、お金も、神のために、家族のために、人のために使いたいと願うようになります。十分の一献金も、ささげないといけないからするのではなくて、「私の収入はすべて神様が与えてくださるもの、主が満たしてくださるものなので、喜んでささげます。あなたのために自由にお使いください。」と、自然にささげたいと願うように変えられて行きます。

手放せないものはないだろうか

 しかし、私たちが主に心を開け渡そうとする時、心のうちに手放せないものがあると、それが出来なくなります。例えばその一つとして「恐れ」があります。「主に心を明け渡したら、何か大変なことになるのではないか」といった恐れです。
 私は、献身の道に導かれた時、「この先、自分の生活はどうなるのだろうか。このまま進んで行っていいのだろうか。」という恐れがありました。心の葛藤を覚えつつ、自分が置かれている環境を嫌がっては、不平不満を持ちつつ過ごしていました。しかしその中で、「こんなことを続けていてはいけない」と示された時、主に降参して明け渡すところへ導かれました。「神様、私は今まであなたのされることに反抗していました。降参して悔い改めます。これからは、あなたの言われることに従います。あなたのなさりたいようになさってください。どこに向かって行こうとも、あなたの言われることに従います。私はこの場所であなたに喜んで仕えて行きます。」と決意をして心の向きが変えられてから、心に平安が訪れました。そして、「私のうちにある恐れの問題の解決も、あなたがなされることですので、もし恐れの問題が一生続いたとしても、それで一向にかまいません。あなたがなされることですので、私はそれを喜んで受け取ります。」と主に明け渡すことができました。

明け渡す人は百倍を受ける

 私たちは、主に自分自身を明け渡して従って行く道を選ぶのか、それとも、家族や友達、仕事や勉強、お金、この世の楽しみを選ぶのか、どちらかを選び、どちらかを捨てなくてはなりません。イエス様は、「わたしのために、自分の持っているものを捨てる人は、今この世で百倍を受ける」と約束されました。主のみことばに信頼します。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。(ローマ10:11)」と信じます。すべてを捨てて主に従うその先に、捨てたものがいく倍にもなって返ってくるという主の豊かな祝福にあずかることができると信じます。まず、心を主に明け渡しましょう。明け渡してはじめて、みこころが分かりますし、何が神に喜ばれることなのかを知って、主の働きのために用いられる器として整えられ、主の御用、働きを成して行くことができると信じます。(岩下 栄作)

23.04.09 キリストにある自由



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「ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」

イースター感謝

 イースターおめでとうございます。イースター(復活祭)は主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。福音の中心は主の十字架の死と復活でありますから、イースターは教会にとって一番重要な記念日です。2000年前、主は私たちの罪の身代わりとなられ、十字架で死んでくださいました。そして墓に葬られ、三日目によみがえってくださいました。主の復活は、神を信じる私たちが罪赦されて、「あなたは正しい」と認められたことを意味します。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(ローマ4:25)」。また、主の復活は、私たちクリスチャンもやがてよみがえることの保証を意味します。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:20)」。主イエス・キリストが死を打ち破ってよみがえってくださったので、信じる者には永遠のいのちが約束されています。人生の最大の問題は死ですが、クリスチャンは死の恐れから完全に解放されました。主の御愛を心より感謝いたします。

キリストにある自由

 冒頭のみことばでパウロは、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」と教えました。人は生まれながらの罪人であり、神様に背を向けて、自己中心的な考えに従って生きています。多くの人が、ねたみや怒り、憎しみや情欲、むさぼり、自己憐憫などの罪に支配されて生活しています。人はみな罪の奴隷であり自由がありません。神様はそんなみじめな人をあわれんでくださり、人を罪から解放する方法を考えてくださいました。それが福音であり、主の十字架と復活です。
 主イエス・キリストを信じて罪から自由になったということは、神様との関係に生きることができるようになったことです。今まで愛することを知らなかった者が、神様との愛の関係の中で、愛するやる気を与えられて生きる者となりました。神様は罪深いありのままの私たちを愛してくださっておられます。神様が私たちをありのままで愛してくださったので、私たちも人をありのままで愛することができます。罪に縛られていたときは少しも愛することのできなかった者が、自由に愛することができる者に変えられたことは、神様からの大きな恵みです。

神様のふところで生きられる

 ところで、冒頭のみことばでパウロは、主を信じた人々に対して「あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」と教えています。イエス・キリストを信じて罪赦されて自由にされたにもかかわらず、もし再び、何かを一生懸命することによって、神様に認められようとしているならば、また元の罪の奴隷の生活にもどってしまったことです。
 たとえば、私たちは罪赦されたことがうれしくて、神様を礼拝したくて仕方がないので教会に来ます。神様に感謝をあらわしたくて仕方がないので奉仕をします。ありのままで愛してくださる神様と会話がしたいので祈ります。すべて生活に必要なものを与えてくださっておられる神様に感謝をあらわしたいので、十分の一を神様にお返しし、また感謝の献金をします。ですからもし、クリスチャンだからあれもしなければならない、これもしなければならない、とがんばって努力しているならば、それは律法に縛られていることで自由ではありません。神様は信じる者に、ご自分を「アバ、父」(お父ちゃん)と呼ぶことのできる御霊を与えてくださいました。私たちはありのままが愛されているので、もはや認められるために努力する必要はありません。父なる神様のふところで自由にリラックスして生きられます。

愛することができる自由

 少し前のこと、私は緊張するという問題があって困っておりました。たとえばメッセージをする時間が近づいてくると、だんだんと緊張が募ってきます。「自由じゃないな」と思いました。祈りの中で、「愛には恐れがありません。(Ⅰヨハネ4:18)」と示されました。兄弟姉妹を愛することよりも、自分が役割を果たして認められることばかりを考えていたために緊張していたのだと気づかされて、悔い改めました。そして神様は、この情けないありのままの私を愛してくださっておられることを思い起こさせてくださいました。とても励まされました。
 主が復活してくださったので、私たちは罪から解放されて、愛することができる自由を与えられました。日々主の復活を感謝して参りましょう。(鈴木千史)

23.04.02 宝を見つけた人



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「マタイの福音書13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」

かけがえのないものを手にした

 5年前、平昌冬季オリンピックで金メダルを獲得した羽生結弦さんは、オリンピックの3か月前に靭帯を損傷する大けがをしました。直前の大会を治療やリハビリのために欠場していてブランクがあり、さらには痛み止めを打たないとジャンプも跳べない状態だったにもかかわらず、男子シングルで66年ぶりとなるオリンピック2連覇を果たしました。優勝した直後、「どんなオリンピックでしたか」と尋ねられると彼は、「とにかく捨てて、捨てて、捨てる作業をしたオリンピックでした」と答えました。「自分の欲を捨てた」ということでした。彼はゲームが好きだそうで、けがをしてからは一切やめたそうです。そして最後に、「このオリンピックで何を得たのか」と尋ねられると、「幸せを得ました」と答えたそうです。自分の生活のあらゆるものを犠牲にしてでも、「金メダル」というかけがえのない目標を手にしたいと願う彼の思いが全面に現れている言葉だと感じました。

人に愛を求めていた

 私たちは、「イエス・キリスト」という宝を見つけた者ですが、救われる前は、真の神様を知らないで生きて来ましたので、真の愛を知りませんでした。ですから、人に愛を求めていました。「愛してくれるなら私も愛する、愛してくれないなら私も愛しません。」と、自分を愛してくれる人に対しては愛を示して、そうでない人は自分の中から排除してしまう、というような生き方をしてきました。相手のことを思いやり親切にして、良いことをしているように思えても、その愛は長くは続きません。仕事や勉強も、自分が人から愛されるために、振り向いてもらうために必死に頑張ります。人と関わるときに、相手の反応がちょっとでも悪かったりすると、「私嫌われているのかな」「受け入れられていないのかな」と考え始めてしまいます。「自分から愛を持って伝えよう」と思っても、もし自分の思い通りの反応でなかった時に傷つくのが怖いので、「こんなこと言ってどう思われるだろうか」と感じて、言いたいことが言えなくなります。
 人はだれでも心の中に満たされない空虚感のようなものがあって、それを満たすために人に愛を求め、愛に飢え渇いています。人はだれでも、愛の源であられる神様に出会わなければ、本当の愛を知ることはできませんし、人を心から愛して生きることは決してできません。

私は宝を見つけた

 私たちは、福音を聞いてイエス・キリストに出会い、神の愛を知り、「神様は、こんな罪ある私のことを愛し受け入れてくださったのだ」と知りました。宝を見つけた瞬間でした。本来であれば、さばかれて当然、赦されるはずのないほどの罪を犯している者であるにもかかわらず、神は、ご自分のその愛のご性質ゆえに、私たちを罰しないで御子イエス・キリストを遣わして、罪から救われる道を示してくださいました。聖書は、「ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と言います。私たちは罪の赦しを受け取り、一切の罪がきよめられ、心のうちにあった怒りなどの思いは完全に消え去りました。そして、神との間にあった隔ての壁が取り除かれ、その心に神の愛が届くようになり、神の愛が満ちあふれました。「ここに答えがあったのだ。私は神に愛されている。だからもう人に愛を求めなくてもいいのだ」と知りました。神の愛を知った人は、人と接する時、自分の思い通りの反応がなかったとしても、たとえ拒絶されたとしても、「私はあなたのそのありのままを愛していますよ。嫌がってはいませんよ。」と自ら犠牲を払い、愛を示すことができます。また、日曜日に、教会にやって来て礼拝をすること、献金すること、ご奉仕することなど、すべてのことが、「主のためにささげたい」という愛が動機で行うように変えられて行きます。

神と人を愛することに夢中になろう

 私たちは、神が望んでおられる、「あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(同22:39)」というみことばを喜んで行いたいと思います。神を愛し、人を愛することに夢中になるとき、私たちは、人を恐れることや、人をさばくこと、怒ることから解放されます。かえって、「自分から愛を現して行きたい」と、さらに「与えたい」「愛したい」と願うようになります。私たちの本音は「愛したい」です。罪の赦しを受け取り、神の愛が届くようになった私たちの心には、「神を愛すること、人を愛することは、私がもとから望んでいたことだったのだ」という素直な思いが与えられ、心から愛することができるようなります。
 私たちは、一度手にしたこの素晴らしい宝を決して手放したくはありませんし、「自分の持てるすべてのものと引き換えにしてでも、手にしたいと思えるかけがえのないものを持っているのだ」という自覚を持って歩んでまいりましょう。神の愛は、この世の価値観で生きていては決して経験することのできないかけがえのないものです。(岩下 栄作)

23.03.26 必要を満たしてくださる神



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「ピリピ4:19 また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

神様は豊かさそのもの

 神様は豊かさそのものであられるお方です。神様は創造主であられますから、世にあるものはすべて神様のものです。クリスチャンが「私のお父さんは大金持ちなんです」と言うのを聞くことがありますが、「私のお父さん」とは地上の父ではなく神様のことです。神様はその豊かさで私たちを養ってくださいます。
 エジプトを出発して荒野を旅していたイスラエルの民に、神様は天からのパンであるマナを降らせて養ってくださいました。律法では安息日にはマナを拾い集めることができませんでしたので、安息日の前の日には、二倍のマナを与えられました。また福音書には、イエス様が五つのパンと二匹の魚を五千人に与えられた奇跡の記事があります。「人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。(マタイ14:20)」とありますように、神様はあり余るほど豊かに、私たちの必要を満たしてくださるお方です。

必要を満たしてくださる神

 冒頭のみことばで、パウロは神様を「私の神」と言っていますが、神様は私たちと個人的な関係を築いてくださり、一人ひとりの必要をよくご存知です。私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、主は私たちに働くやる気を起こさせてくださることによって収入を与えてくださり、生活に必要なものを与えてくださいます。また、物質的なものだけではなく、私たちが仕事や勉強に集中できる力を与えてくださり、職場や家庭の人間関係が心地よいものであるように、人を愛することを助けてくださったり、体調がよく健康であるように、食事の仕方や運動に関心を持つ心を与えてくださいます。そして実際に病をいやしてくださいます。また私たちは何をするにも心が平安であることが必要ですが、神様はイエス様の十字架の贖いによって私たちの罪を赦してくださり、真実の愛で愛してくださることによって、私たちに全き平安を与えてくださいます。「主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)」

神学校の卒業式

 私事ですが、先週の月曜日に神学校の卒業式がありました。私は2014年に東京神学校のインターネット科に入学させていただきました。すべて配信などの映像を見ながらの学びで、それぞれの教科の課題の提出期限もありませんでしたので、自分自身で進めて行くことが必要でした。そのような中で、神様がとぎれることなく少しずつでも学びを進めさせてくださったので、それが積み重なっていき、神学科を卒業するために必要な単位が満たされました。すべてお守りくださった神様に感謝します。
 神学校の卒業式で、校長の尾山令仁先生がメッセージをしてくださいました。聖書箇所は冒頭のみことばのピリピ4章19節でした。尾山先生は昨年の夏に、熱中症で11日間入院されたそうです。絶対安静の重体であったそうですが、その中で神様が先生を用いてくださり、病室にお世話に来ていた一人の看護師の方が救われたそうです。神様は彼女が抱えている問題を先生に示してくださり、それを「彼女にはっきりと告げなさい」と言われたそうです。先生は、よく知らない人にそんなにストレートに言ってよいものかと思ったそうですが、神様から言われたことなので、その通りに告げました。するとその看護師の方は受け入れて、ほどなくしてイエス様を信じ、またその方のまわりの看護師の方々が救われたそうです。「神様は、この人が救われるために私をこの病院に遣わされたのでした」と、先生は涙ながらにお話しくださいました。「神様はどんなときにも必要を満たしてくださいますから、卒業生のみなさんも神様に信頼してよい働きをしてください。」と励ましてくださいました。

どんなときも神に信頼しなさい

 日常生活の中では、想定外のことが起こることもありますし、成し遂げようとしていることが思うように進まないこともあります。しかし神様は私たちの必要をすべて満たしてくださると約束されていますから、その中で、私たちは神様に信頼しなければなりません。もし、私たちのしていることが間違っていれば、神様は、祈りを変える必要をも示してくださいます。神様は私たちの思いを超えて豊かに満たしてくださることのできるお方です。
 神様に信頼する姿勢はいつも喜んでいることです。どんなときにも神様に信頼し、喜んで止まらずに歩んで参りましょう。「いつも主にあって喜びなさい。(ピリピ4:4)」(鈴木千史)

23.03.19 心に楽しみのある人



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「箴言15:15 悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。心に楽しみのある人には毎日が祝宴。」

楽しい時間

 祝宴やパーティーは、大勢の人が集まって一緒に食事の時間をともにする楽しいひとときです。掲題のみことばは、心に楽しみがある人は、毎日の生活が、祝宴のように喜びに満ちた状態となると言っています。 私たちは、何か自分にとって良い出来事が起こるときに、「楽しい」「嬉しい」と感じることがあると思います。例えば、子どもであれば、「来週は遠足だ」という時には、毎日遠足に行った時のことをずっと考えていて、心がワクワクしてきます。他にも、「受験に合格した」「給料が上がった」「仕事が忙しい時に、『何か手伝おうか』と声をかけてくれたことが嬉しかった」という時には、心の中は楽しみであふれます。

世の楽しみで心は満たされない

 しかし、どんな楽しみであっても、この世にある楽しみは、長くは続きません。みことばには、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。(Ⅰヨハネ2:16-17)」とあります。私たちが、自分の望みを叶えたいと思って欲しいものを手にしたり、したいことを自由にできることは嬉しいことですし、それを求めることや手にすることは何も問題はありません。しかし、どれだけ贅沢をしてみたとしても、やはりそれらのものは、その瞬間、または最初は、嬉しかったり、楽しいと感じるかもしれませんが、その楽しい思いはやがて薄れて行き、消え失せてしまいます。満たされない心を満たそうとして、楽しいことだけを追い求めて、心を喜ばせようとしても、いつも心が満たされるということにはなりません。

主がなされることを喜んで受け取る人

 では、「楽しみのある人」のその心は、どこから来るのでしょうか。私たちの心に楽しみがやって来るのは、主がなされることを喜んで受け取る人のところにやって来ます。
 例えば、私たちが今持っているもの、仕事も、経済も、住まいも、車など、生活に必要なあらゆるものすべてのものは、神様が私たちに与えてくださった賜物、プレゼントです。「心に楽しみのある人」とは、これらすべてのものを、主が私に受ける分として与えてくださっているのだと、信仰によって喜んで受け取る人のことです。神様は、今の自分の生活に満足出来ていて、すべて神様からのいただきものであることを感謝して喜んで受け取る人の心を、喜びで満たしてくださいます。仕事でコツコツと働いて得た収入で、家族や仲間と一緒に食事を楽しんだり、生活に必要な身の回りの物を買ったりします。また、趣味を楽しんだり、時にはどこかへ出かけて行って、その時間を楽しみます。また、働くことも、「主が置いてくださった仕事なので感謝して働こう。」と感謝して受け取り、勉強することも、「主が私に勉強する楽しみを与えてくださる」と受け取って、興味を持って勉強をすることができます。子育ても、「神様が私に子供を与えてくださって、子どもの教育を託されているのだ」と、感謝を持って仕えて行くことができます。
 また、人と関わりを持つ時に、自分が好意を持って接しても、それに対して良い反応をしてくれない人、不機嫌な態度をとってくる人に対しても、「この人が私に対して、このような反応を示すのは、主がそれを許されていて起きているからだ。」と信仰によって見ることができます。そして、人がどんな反応を示そうとも、主がなされることを感謝して受け取ることができ、嫌がることなく、かえってその人を歓迎してあげることができます。私たちは日常、心に湧いてくるささいな感情に対して、放っておかないで面と向き合って行くことによって、心にはいつも喜びが訪れ、勝利して歩むことができるようになります。

すすんで主のみもとへ行こう

 私は、救われた頃は、仕事が平日休みということもあって教会にあまり来る機会がなく、神様を真剣に求めるということはありませんでした。しかし、いつも心には満たされないものを抱え、自分や人を愛せないでいて、人と自分を比べては、できない自分を責めてばかりいました。そんな所から、少しずつ神様の御心を教えられて来ました。仕事が変わり、教会に来るようになり、礼拝や学び、イベントに参加するようになり、兄弟姉妹や先生との関わりの中で、みことばによって信仰が養われてきました。今、主の働きのために仕えて行くことに喜びを感じています。自分から積極的に関わりを持とうとすることや、自分からリーダーシップを取って働きかけることなどは、以前はしたくないと思っていましたが、今は、主に心を明け渡してみこころを行いたいと願う時に、「これは、もともと自分がしたかったことなんだ」と思わされることがあります。心を主に明け渡して、主のみもとに進み出て行きましょう。主のみもとに進み出る時、みこころがわかるようになります。主がなされることを喜んで受け取る人の毎日は、心の中が祝宴の時のような楽しみが、いつまでも続いて行くことを主に感謝します。(岩下 栄作)

23.03.12 神のわざが現れるため



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「ヨハネ9:1-3 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」

レーナ・マリアさん

 ゴスペルシンガーとして世界中で活躍されているレーナ・マリアさんは、生まれつき両腕がなく、左足が右足の半分の長さしかないという障害を持って生まれました。子どもの頃から水泳で活躍し、高校から大学にかけては音楽を学んでゴスペル・シンガーとして本格的に活動を始めました。日本にも何度も訪れています。二度ほどコンサートで彼女の美しい歌声を聴いたことがありますが、彼女の明るい笑顔は障害を全く感じさせません。彼女は、「(両親が)神様はわたしを愛してくださっていることや、わたしには神様の特別のご計画がおありになるから、他の人と違う形に造られたのだ、ということをいつも話してくれました。ですから、わたしは、この特別の体を神様のために使っていただきたいと思っています。」と話しています。彼女の明るく前向きな生き方は、世界中の人に生きる勇気と希望を与えています。

生まれつき盲目の人

 イエス様は、弟子たちとともに歩いておられるときに、生まれたときから目の見えない人に目を留められました。彼は道で物乞いをしていました。弟子たちは「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」とイエス様に質問しました。当時は、病の原因は罪だと考えられていました。そのため弟子たちはこのように尋ねたのでした。彼は生まれた時から人々から罪ある者と見られて蔑まれ、大人になっても物乞いをするしか生きる手段もなく、辛い人生を生きてきたことでしょう。しかしイエス様は彼に目を留められました。彼のためにわざわざ立ち止まってくださったのです。神様は、私たち一人一人の事情を知っておられ、あわれみをもって立ち止まってくださる方です。

神のわざが現れるため

 弟子たちの質問に対してイエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」と言われました。弟子たちは、彼の病の「原因」が知りたいと思ったのですが、イエス様は、彼の病の「目的」を言われました。「神のわざ」は言うまでもなく、生まれつき目の見えない彼が見えるようになることです。
 イエス様は、地面につばをして、そのつばで泥を作られて、その泥を彼の目に塗られました。そして、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい。(ヨハネ9:7)」と言われました。イエス様はたくさんの病人をいやされましたが、一つとして同じ方法を用いられませんでした。このときはこの不思議な方法を彼に指示されました。彼は言われた通りに、すぐにシロアムの池に行き、イエス様が目に塗られた泥を洗いました。すると彼は見えるようになり、帰っていきました。人々は彼を見て、「これは座って物乞いをしていた人ではないか。(同9:8)」と驚きました。彼の目は完全にいやされました。

神に目を留める

 私たちは何か困難がやってくると、「なぜこんなことが私に起こるのか」と苦しみの原因を探ろうとします。そうした中で、「自分はなんて不幸なんだ」と自己憐憫に陥ったり、「親が自分をこんなふうに育てたからだ」などと周りの人や環境のせいにしたりして、立ち止まってしまうことがあります。旧約聖書に出てくるヨブは、神様の試みにあって財産も子どもたちもすべてを失くし、自らも病に陥ったとき「私はこんな目にあうような罪は一つも犯していない。」と言い張りました。そんなヨブを神様は、「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。(ヨブ38:2)」と諭しました。神様は主権をもって、なさりたいことを成し遂げられるお方です。私たちの人間的な知識や理解力では、神様の計り知れないご計画を知ることは到底できません。
 イエス様が言われた「この人に神のわざが現れるため」というみことばは、私たちにとって大きな励ましです。私たちに起こるさまざまな困難は、神様のわざが現れるためだとわかれば、困難の中でも希望を失うことはありません。神のわざは、私たちに神様の祝福のご計画が実現することです。ですから病はいやされるために、経済の困窮は満たされるために、人間関係の問題はその相手を愛するようになるために起こります。私たちが救われたのも、多くは困難がきっかけでした。ですから困難にあうとき、私たちはその原因にではなく、その中でわざを現してくださる神様に目を留め、信頼して歩んで参りましょう。(鈴木千史)

23.03.05 みことばによって一歩踏み出す



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「申命記30:14 まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

行動したいのにできない

 「『しなくちゃいけない』『いつかは言わなくちゃいけない』『言ってあげたほうがいい』と思ってはいるけども、なかなか行動に移すことができない」ということが、みなさんの生活の中でそれぞれあったりすると思います。例えば、職場の会議の中で発言する機会がある時に、「言ってあげた方がいい」とわかってはいても、「もしこんなこと言って、誰も受け入れてくれなかったらどうしよう」と思うと、「余計なことは言わないでおこう」と発言を控えてしまったりすることがあるかもしれません。仕事で失敗した時、そのことを上司に報告しようとする時、「言わないといけないけど、怒られるのがわかっているので、できれば何事もなく済ませられないだろうか」と思って、言わないで済ませていることもあるかもしれません。また、教会の中で、自分から交わりの輪の中に入っていくことや、自分から兄弟姉妹に話しかけたりして関わりを持とうとすることについて、それがみこころであることは十分わかってはいるけども、それができないと言うことがあるかもしれません。

きっかけを求めている

 行動したいのにできないまま先延ばしにしてしまうと、何かのきっかけがないと行動ができなくなってしまいます。
 例えば、家族の間で言い争いになったりする時に、家の中にそれまであった穏やかな雰囲気は、一瞬のうちにどこかへ消え去ってしまい、ギクシャクした気まずい雰囲気になってしまいます。一度その場がギクシャクしてしまうと、今度はそれを打ち破って、また以前のように明るく振る舞うことが自然にはできなくなり、とても勇気のいる行動となってしまいます。緊張した雰囲気が長引けば長引くほど、その状況を打ち破るのには大きなエネルギーが必要になります。「急に明るく振る舞い始めたら、周りから『何があったの?』と思われてしまうだろう」と感じると、ますます自分から態度を改めることに大きな抵抗を感じて、一歩踏み出せなくなってしまいます。そうやって悶々として思い悩んでいると、「相手から切り出してくれないだろうか」とか「何かきっかけがあれば言えるのに」と思って、周りの人や状況が変わることを期待したりします。みことばによって語られても、するべきことはわかっていても、「こんなギクシャクした状況の中で、そんな急に態度を変えることなんかできるわけないじゃないか。」と思ってしまいます。しかし、一方では、「これからもずっと、こんな態度を続けていてもいけないよなあ。」といった思いも湧いてきます。それで、「いつかは言おう」「自分から切り出してみよう」と心の中で決意します。しかし、いざ相手を目の前にすると、その切り出す最初の一言が言えなくなってしまいます。自分が傷つきたくない、嫌われなくないと思うので、一歩踏み出せなくなってしまいます。

信仰によって一歩踏み出す時、主は助けてくださる

 私たちは、自分の感情に左右されないで、主のことばに素直に服従する信仰を持たなくてはなりません。「『あなたの敵を愛しなさい』と主が言われるので、私はあなたの言われることに従います」と、信仰によって立ち上がる時、「主が私にしてくださったのと同じようにして、私もすすんでこの人のために傷ついてあげよう、犠牲を払ってあげよう」という思いが与えられ、一歩踏み出すことができるようになります。その時、主は私たちとともに働いて、その信仰を通して相手にその愛が届くようになります。みことばに信頼して一歩踏み出す時、私たちの心に変化が訪れます。心は喜びへと変えられます。
 旧約聖書に出てくるハンナは、子どもが与えられない状況の中で、夫のもう一人の妻から嫌がらせを受けて、思い悩んでいました。それは彼女にとって、食事がしたくなくなるほどの苦しみでありました。その心に募る憂いと苛立ちを、主の前に注ぎ出して祈っていました。その様子を見ていた祭司エリが、「安心して行きなさい。あなたの願いをかなえてくださるように。」と彼女に告げます。すると彼女は、祈りが聞かれたことを信仰によって受け取り、立ち上がりました。その時を境に、彼女の表情はもはや以前のようではなくなり、喜びの表情へと変えられました。彼女の心はいやされ、食事ができるまでに回復しました。現実にはまだ子どもが与えられてはいない状況でしたが、彼女はもう祈りが聞かれたと確信を持って喜んでいました。

みことばを素直に受け入れる信仰を持つ

 ヤコブの手紙には、「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばはあなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1:21)」とありますが、私たちは、聖書に書かれているすべてのみことばを、自分自身に語られていることばとして素直に受け入れましょう。その信仰を持って立ち上がる時、主のみこころがはっきりとわかるようになり、私たちは主の助けによってみことばを行うことができるようになります。(岩下 栄作)

23.02.26 静まって考えよ



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「マルコ4:37-40 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』」

タイタニック号

 「タイタニック」という映画があります。1912年、イギリスの豪華客船タイタニック号が、アメリカのニューヨークに向かう途中、北大西洋で氷山に衝突し沈没するまでのいきさつを描いた実話です。映画では、徐々に船体が沈み始めたことから、やがてタイタニックが沈没することを悟った乗客たちが混乱するシーンが印象に残っています。逃げ惑う者、乗客を避難させようとする船員たち、乗客を落ち着かせようとして演奏し続ける音楽家たち、何が起こっているのか知らない小さな子どもたちに、お話を聞かせながら寝かしつけるお母さん・・。さまざまな人々が入り乱れて船全体がパニックに陥っていきます。結局この事故は、1513人
が犠牲になる大惨事となりました。
 タイタニック号は当時としては、高度な安全対策がされていて、船底は二重になっており、船体も水面上までの高さがある防水のための壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっていました。タイタニックが沈むことはあり得ないと言われていました。しかし沈没を免れることはできませんでした。

主が乗っておられる舟

 イエス様が弟子たちと一緒にガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされたとき、激しい突風が起こって、波が舟の中にまで入って、舟の中が水でいっぱいになってしまいました。ところがイエス様は、まったく動じられることもなく、舟のうしろの方で眠っておられました。ペテロやヨハネは漁師であり、いつもこのガリラヤ湖で漁をしていましたから、彼らにとっては慣れた場所でした。その彼らがいらだって「先生。私たちが死んでもかまわないのですか」と苦情を言ってしまうほど、緊迫した状況であったことがわかります。すると、イエス様は起き上がられて、荒れ狂う湖に大声で「黙れ、静まれ」と命じられました。途端に風はやんで、すっかり静かになりました。
 神様は、すべての被造物を支配する権威を持っておられます。神であられるお方を舟にお乗せしながら、嵐に動揺している弟
子たちの不信仰を、主は「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と叱責されました。イエス様が一緒に乗ってくださっている舟は決して沈みません。

心を騒がせていた

 私は先日、やるべきことが間に合わなくて、とても焦っていたことがありました。自分がなんとかしなければ迷惑をかけると考えていましたが、それは前もって敗北を受け取ることだと指摘されて、その通りだなと思いました。それで最後まであきらめないで集中して取り組もうとしました。しかし時間が過ぎるにつれてまた心配がわきあがってきてしまい、集中できなくなりました。それでも自分でなんとかしなければと思っていたので、とても緊張してしまいました。しかし、その心配は自分勝手な考えであって、そんな心配はまったく必要なかったことが、すぐ後にわかりました。主が助けてくださいました。
 そのときにやっと、自分は自分勝手に心配をして心を騒がせており、まったく神様に信頼していなかったことが示されました。イエス様が、騒いでいる私の心に対して、「黙れ、静まれ」と命じておられる、と思いました。静まって、神様に信頼していなかったことを悔い改めて祈りました。困難の中で心騒がせる私たちに、主は「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と言われています。

静まって考えよ

 私たちの人生には、良い時もあれば、思い通りにはいかないこともたくさんあります。主は「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。(伝道者の書7:14)」と言われます。順調なときは主に感謝して、その喜びを味わえばよいですが、困難に出会った時は、へりくだって静かに考えなさい、と言われています。神様は主権をもって働いておられます。そして私たちを愛し造ってくださいました。ですから、私たちに起こるできごとはすべて、私たちにとって良いことです。今、神様が何を私に語っておられるのか、このできごとを通して何を教えようとされているのか、静かに考えることが私たちのするべきことです。静まった時に私が教えられたことは、感情によらないで、信仰によって神様のみことばを受け入れて生きよ、ということでした。
 主は、神を信じる私たちの人生の船にいつも乗っていてくださいます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」。主がともにおられるので私たちの船は決して沈みません。ですから嵐のときも心を騒がせないで、信仰によって船を漕ぎ続けたいと思います。もうだめだというときには主が助けてくださいます。(鈴木千史)

23.02.19 思い上がってはならない



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「ローマ人への手紙12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」

いつでも準備を怠らない姿勢

 昔メジャーリーグの選手だったイチローさんは、現役最後の5年間は、スターティングメンバーから外れ、控え選手としてベンチにいる日が多くありました。しかし、試合当日に準備をする内容に変わりはありませんでした。試合前、他の選手たちがおしゃべりしている時も、彼はひたすらいつもと同じトレーニングを行います。試合中も、「今日は自分の出番はないかもしれない」と思って、ベンチでただ試合を眺めているのではなく、いつ自分の出番が来てもいいように素振りやストレッチなどの準備を決して怠りませんでした。当時の監督は、「彼はいつでもしっかりと準備をしてくれている。どんな時でも彼を起用することにためらいを感じたことはない」と彼を評価し、その言葉通り、途中出場であっても、その少ないチャンスの中で結果を残していました。それを可能にしたのは、抜かりのない準備があったからだと思います。彼は、「準備をするというのは、一日終わった時に『あー、今日はあれをやらなかったな』とか『これをやっておけば良かった』とか、そういうことを思いたくないので、後悔しない、言い訳の材料を作らないためのものであると言えると思います。」と話しています。いつでも準備を怠らないその姿勢は、見習うべき姿勢であると教えられます。

面と向かわないで逃げていた

 私は、説教の準備をする中で、「詳しく掘り下げて話をしないといけない。そこから逃げてはいけない。」と教えられた時、自分では理解しているつもりでした。しかし、実際はと言うと、そうしたいと願いつつもそう出来なくて、一つのことを掘り下げることについてそれをしないで済ませていました。また、それに面と向かうことがとても苦しいことなので、無意識のうちにそこを避けて通ろうとしていたのだと気づかされました。自分のするべきことをしないで、「何とかなるだろう」と思って事を済ませていたことが、思い上がりであると示されました。そして、まず自分のするべきことから逃げないで面と向き合おうと決意しました。すると今度はまた、「出来ない」「大変だ」という思いがやってきました。「出来ない」「私にそんな難しいこと出来るのか」という声がやって来る中で、時間も刻々と過ぎて行きます。主に祈り求めていましたが、一向に答えが与えられませんでした。

思い上がりが砕かれる時、御声を聞くことができる

 そんな中でふと、あるみことばが示されました。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。(ヨハネ7:17)」というみことばでした。その時、「私は御心を行いたいと願っていないのではないか。だから祈りが聞かれないのだ。主が答えて下さらないのだ」と示されました。箴言にも、「耳を背けておしえを聞かない者は、その祈りさえ忌み嫌われる。(箴言28:9)」とあります。私は、「出来ない」「わからない」「何でこんな状況になっているのか」と不平不満を言っているそのかたくなな心を認め、悔い改めました。私はこのようなことでもなければ、神様にすがって求めることはないので、主は私をこの状況においてくださったのだと思います。そして素直になってただひたすら神様に助けを求めて祈りました。それからしばらくして主からの答えがありました。「求めなさい。そうすれば与えられます。(マタイ7:7)」というみことばでした。「神は、『あなたがわたしに求めるならば、与えよう』と言われている。それなのに、『自分には出来ない。無理だ。めんどくさい』とつぶやいて、一度は求めても、それをどこかであきらめてしまっていた」と語られました。そして、最後の最後まで決してあきらめてはいけない、と示されて、敗北を受け取らないことを決意して、日曜日の朝まで信じて求め続けました。

神から離れれば、必ず失敗するという自覚を持つ

 私たちは、神様の御声を聞いて生きていかなければ、必ず間違えて失敗してしまう者です。神のことばに従って生きるのが正しい道であるのに、そこから離れるならば、必ず自分の都合の良いように考え始めてしまう者です。そのことをいつも心に刻みつつ生活することが、「思い上がらない」ということです。そのようにして、神の前に身を低くして歩む人の歩みを主は豊かに祝福してくださいます。私たちのうちにある隠れた、染み込んでいる問題や罪を明らかにしてくださり、主に服従するところに追いやってくださる神様に心から感謝します。(岩下 栄作)

23.02.12 多く赦された者



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「ルカ7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は愛することも少ないのです。」

シモンの家でのできごと

 冒頭のみことばは、イエス様がパリサイ人シモンの家に招かれたときのできごとです。彼らが食卓についているところに、一人の罪深い女が入ってきて、イエス様の足元に座り込みました。彼女は激しく泣いていましたが、その涙でイエス様の御足をぬらし始め、髪でそれをぬぐいました。そして、主の足に何度も口づけをし、持ってきた香油を塗りました。シモンは「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。(ルカ7:39)」と心の中で思いました。すると、イエス様は彼に一つのたとえ話を話されました。それは、ある金貸しから、500デナリの借金をしている人と、50デナリの借金をしている人の話です。二人とも返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてあげました。話された後、イエス様はシモンに、「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。(同42節)」と言われました。シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います(同43節)」と答えると、イエス様は「あなたの判断は正しい(同43節)」と言われました。そして、罪深い女がご自分にしたことをほめられて、「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多くを愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。(同47節)」と言われました。シモンはイエス様を招いておきながら、主の御足を洗うことも、口づけすることも、頭に油をぬることもしていませんでした。

罪深い女とシモン

 罪深い女は苦しみの中で生きてきました。彼女は娼婦でありましたが、おそらく貧しさゆえのやむを得ない生き方であったことでしょう。心の片隅にはいつも「こんなことをしていてはいけない」という罪責感がありました。人々からも冷たい目で見られ、だれからも相手にされず、みじめで孤独な生活をしていました。そんな中で、彼女はシモンの家に来る以前にイエス様に出会い、罪の赦しをいただいたのでした。そして罪赦されたうれしさのあまり、どうしても感謝の気持ちを伝えたくて、人目もはばからずにシモンの家に入ってきました。そして、彼女ができる精一杯の感謝と愛をイエス様にささげたのでした。
 一方、シモンはパリサイ人であり神の律法を厳守していました。罪の悔い改めもしていたでしょう。しかし彼は、自分がそれほど罪深いと思っていませんでした。むしろ自分は正しく、落ち度はないと思っていました。ですから彼はイエス様を歓迎することもありませんでした。彼は「赦されることの少ない者」であったゆえに「愛することの少ない者」でありました。

多くの罪が赦された

 イエス様のたとえ話に出てくる500デナリというお金は、今に換算すれば500万円くらいのお金です。普通の給料では返済できない金額です。そんな多額の借金を帳消しにしてもらった人の喜びはどんなに大きなものであったでしょうか。もう毎日取り立てに追われることもありません。不安や心配からも解放されて、夜もぐっすり眠れるようになったことでしょう。そして彼をあわれんでくれた金貸しに、一生感謝し続けたことでしょう。一方、50デナリの借金も、もちろん帳消しにされればうれしいに違いありません。しかし500デナリの借金にくらべれば、人生が変わるほどの喜びではありません。イエス様は「二人のうちどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」と言われましたが、答えは明白です。
 イエス様のたとえ話で、借金は罪のこと、金貸しは神様です。ここでイエス様が「500デナリ」と言われたのは、だれも返すことのできない借金の額を意味しています。罪赦されて救われた私たちは、自分では決して返済できない借金を帳消しにしてもらった人です。罪という多大な借金の返済ができなくて苦しんでいたところを、神様がイエス・キリストという尊い犠牲を払ってくださることによって、帳消しにしてくださいました。ですから私たちは、あわれんでくださった神様に、どれだけ感謝しても足りないくらいの感謝をあらわしたいのです。ですからもし今、「愛することの少ない者」であるならば、それは、自分がどれほど多大な罪を帳消しにしてもらったかということを認識していないということではないでしょうか。人は自分がどれだけ大きな罪の借金を抱えている者であるのかを知らなければなりません。

多く赦されているので、多く愛したい

 私は救われる前、かたくなに人を愛さないで生きていました。しかし福音を聞き、神様がこの情けないありのままの自分を愛しておられると知ったとき、自分の罪がいか重大なものであるのかを悟りました。そして悔い改めてイエス・キリストを信じました。救われてからは、赦されたことがうれしくて、自分の持てるものをできるだけ神様に捧げて生きたいと思いました。そして「人を愛したい」と願う者に変えられました。そうして今に至っています。自分がどれだけ多大な罪を赦していただいたのかを知っているので、多く愛したいと願うのです。(鈴木千史)

23.02.05 自分に死ぬ



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「ガラテヤ人への手紙2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

アメイジング·グレイス

 「アメイジング・グレイス」は、今から200年以上も前に、ジョン・ニュートンという人物によって作詞された賛美歌です。今でも世界中で歌い継がれ、知らない人はいないと言われるほど有名な曲です。作詞をした彼は、母が熱心なクリスチャンでした。彼が7歳になる前に病気で亡くなりました。彼はその後、地中海貿易をしていた父の船の乗組員になります。そして後に彼は、奴隷売買に手を染め、奴隷として買われた黒人たちを船底に押し込んで暴行したりしていました。その扱いは、家畜同様、むしろそれ以下でした。
 そんな彼が22歳の時に転機が訪れます。乗っていた船が嵐に見舞われ、転覆しそうになる出来事が起きました。彼はその中で、必死に神に祈り求めました。船は奇跡的に助かり、その出来事をきっかけにして、彼は奴隷船の仕事をやめ、神学を学び始めます。その後牧師となります。そして自分の体験をもとに書かれたのが「アメイジング・グレイス」でした。「私のようなこんな愚かでみじめな者を、神は救ってくださった。何という驚くべき恵みであろうか。」と記しています。私たちも聖歌で、「驚くばかりの恵みなりき この身のけがれを知れる我に」と歌います。彼の人生を通して、「自分の行いがいかに深刻な結果を招いてしまうのかを知ることがなければ、神の恵みの素晴らしさを知ることはできないのだ」と教えられます。

私が生きているので失敗してしまう 

 私たちの生まれながらの性質は、罪を抱えた存在です。自分自身の罪ゆえに苦しんでいます。内側にあるものは、人をねたむ心、憎しみや怒りといった感情であり、それが自分自身の心を蝕んでいきます。事件のニュースを見ていますと、近所の人がインタービュを受けるときに、「まさか、あの子があんなひどいことをする人だとは思わなかった。普段は、きちんとあいさつするいい子でしたよ」と言うのを聞いたりします。誰でもそうですが、人は状況が許せば簡単に罪を犯してしまいます。普段日常ではまったくそう見えなくても、心の奥底には、そのような罪の思いを抱えているのが私たち罪ある人間であることをいつも自覚していなければなりません。人がうわさ話や陰口をたたいているところにいとも簡単に乗っかってしまい、人を言葉で攻撃し、そのうちに、そんなことをしている自覚すら失っていたりします。人から言われた言葉でカチンと来る時に、「怒ってはいけない、冷静にならなくちゃ」と、理性を持って抑えようとしますが、怒りの思いは決して消えることはありません。だんだんとその思いが心の中で育って行き、やがては必ず言葉や行動、態度に現れて来ます。主の前にくず折れて、赦しを乞うて悔い改めることがなければ、解決はありません。私たちは自分に頼って生きようとすることに懲りないといけません。エレミヤ書には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。(エレミヤ17:9 第三版)」とあります。人の心には、表向きはよく見せていて、内側ではこっそり悪を企んでいる、そんな陰険な心がいつもあるということです。「自分が生きているから失敗してしまうのだ」と自覚する人は幸いであると思います。

キリストが私のうちに生きておられる

 そのようにして自分の愚かさを自覚するとき、「こんな自分は嫌だ。私が生きていてはダメだ。私のうちには希望を見出せない」と自分自身に絶望します。行き詰まって自分自身に落胆する時にはじめて、「こんな汚れた、弱く情けない私の、このありのままを愛してくださる方がおられる」と知って、主のあわれみにすがることができるようにされます。
 私は、以前の仕事で、初めは自分自身の力に頼ってやる気を保っていましたが、それがだんだんと砕かれて、「頼るものがない」と不安と恐怖に襲われた時、自分自身に絶望しました。自分がいかに無力であるのかを悟らされました。そこではじめて、「主はこんな私のありのままを愛してくださっているのだ」と神様の愛を知りました。「この情けないものを抱えたのがありのままの私であって、これからは、それをおおい隠してがんばらなくていいのだ、神様に従っていけばいいのだ」と教えられました。そして、みもとに重荷を下ろして、「これからは、主が私のことを支え導いてくださる、主の言われることに従っていけばいいのだ」という信仰と希望が与えられました。

イエス様について行く

 私たちの中で今、「私の仕事はこの先うまくいくだろうか」と焦る思いが襲って来たり、イライラして心にゆとりがなく過ごしている人もいるかもしれません。そんな思いに支配されそうになる時、その思いを自分で何とかしようとしたりせず、主のみこころを求めてまいりましょう。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイ16:24)」と言われました。私たちはイエス・キリストを信じて、キリストと一緒に十字架につけられました。古い自分に死んで、イエス・キリストというお方を心のうちにお迎えして新しくされました。今自分の身に起きているすべてのことを主にゆだねて、主に従ってまいりましょう。(岩下 栄作)

23.01.30 みことばを宣言する



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2023.01.29 週報.pdf

「箴言18:21 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」

ことばには力がある

 ことばには力があります。神様はことばによって世界を造られました。「神様は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。(創世記1:3)」。そしてすべてを造り終えられた時、それらを良いと見られました。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。(創世記1:31)」。また、人は神様に似せて造られましたので、ことばを話します。最初の人アダムはエデンの園で神様と語りましたし、神様のご命令によって、家畜や鳥や野の獣に名前をつけました。人ははじめからことばを使うことができるように造られました。ですから、私たちも毎日あたりまえのようにことばを話します。朝起きてから夜寝るまで、家族と話したり、職場や学校で同僚や友だちと話したり、店員さんと話したりします。独り言を言うこともありますし、心の中で絶えずことばで考えています。
 冒頭のみことば「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」は、その私たちが話すことば(舌)によって、生活や人生が喜びと希望に満ちたものとなるのか、不安と心配に満ちたものになるのか、どちらかになるのだと教えています。私たちが話すことばにはそれほどの力があります。

見たまま感じたままを話している

 普段、私たちは自分の話すことばをそれほど意識していないかもしれませんが、振り返ってみると、多くは見たまま感じたままを話していることに気づきます。出かける日に雨が降っていれば、「あーあ、雨か。がっかりだな」と言いますし、仕事がうまくいかなければ、「やっぱり私ってだめだなあ」と言ったりします。けんかをすれば、心の中で相手のことを「いやなやつだ」と言いますし、体の調子が悪ければ、「こんなのはいやだなあ」と言ったりします。不平不満が多いのです。すると、知らないうちに心が不安で満ちてきて悶々としてしまいます。悪魔はクリスチャンが恵まれないように働きます。できごとを用いて私たちの心に不平不満や恐れを起こさせて、それを私たちがことばで言うことによって気落ちさせるように仕向けます。ですから、いつも自分のことばを見張っていなければなりません。「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」

みことばで悪魔を退けたイエス様

 イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を授けられた後、御霊に導かれて荒野に行かれ、悪魔の試みを受けられました。四十日四十夜断食をされて空腹を覚えられたとき、悪魔が近づいてきて、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。(マタイ4:3)」と言いました。悪魔はイエス様が神であられることを否定せず、イエス様がご自分の力でパンを得るように、巧妙に誘惑したのです。しかしイエス様は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。(同4:4)」と、聖書のみことばを引用されました。昔、イスラエルの民が荒野で、食べ物がないと不平を言った時、神様が与えられたパン(マナ)によって養われたことをあらわしたみことばです。イエス様は、パンは神ご自身が与えてくださるのだ、と言われて悪魔を退けたのです。みことばを宣言することによって、悪魔の誘惑を退けられました。

みことばを宣言する

 少し前のことですが、ふいに、「あなたが大切だ」と心に響きました。神様が声をかけてくださったと思いました。無意識でしたが、そのとき私の心の中は「自分はだめだ」という思いで満ちていて、不安でいっぱいであったからです。みことばが示されました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:38-39)」。みことばを宣言しなさいと示されて、はっきりと声に出して何度も宣言すると、心の中にあった否定的なことばが消えて静かになり、喜びが戻ってきました。自分が見たまま感じたままを言うのではなく、神様のみことばを宣言することがとても重要だと教えられました。
 ことばには力があります。私たちの話すことばが喜びや希望を生み出すように、どんなときにもみことばを宣言して、私たちの心を良いもので満たして参りましょう。(鈴木千史)

23.01.22 祈って備えることが勝利



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2023.01.22 週報.pdf

「マルコ14:37-38 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。『シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。』」

準備することの大切さ

 以前、ご奉仕で草刈りをしていた時のことでした。鎌を使って草を刈っていた時に、「なかなか切れないなあ」と感じていました。刃を研ぐように勧められて、刃を研いでから再び草を刈り始めますと、先ほどとは全く違う切れ味で、そこまで力を入れなくても、手首をスナップさせるだけでサクサク切れるようになりました。すると、結果的に短時間でたくさんの量の草を刈ることが出来ました。もし面倒くさがってそのまま刃を研がないで作業を進めていたとしたら、切れない刃でずっと刈り続けることになり、無駄に体力を消費し、もっと時間がかかって効率が悪くなっていたと思います。その出来事を通して、忙しい時ほど作業している手を止めて、まず刃を研いで、きちんと作業ができるように準備をすることが大切であると教えられました。

祈りが初めでなければならない

 イエス様は、いつも父なる神に祈って備えておられました。日中は、弟子たちや、イエス様のもとに詰めかけてくる大勢の群衆たちに天の御国について教えられ、病のいやしを求めてくる人には、いやしのみわざをなされました。そのような偉大な働きをなされた背後には、神の御心を求める祈りがありました。重要な働きをなされる前には、特別に祈る時間を取られて、人のいない静かな場所に退かれて祈られました。「イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)」 
 ダビデも詩篇の中で、「主よ 朝明けに 私の声を聞いてください。朝明けに 私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます。(詩篇5:3)」と告白しています。主に祈って一日の活動に備えていることがわかります。
 私たちも忙しい日々の生活を送る中で、何よりもまず神様に祈る時間を確保して、心を静めて御心を求めて祈りたいと思います。イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。私たちは、まず神様を第一に求めて祈ることから始めてまいりましょう。朝起きて祈る時間を取り、今日起こるであろう出来事について祈ります。主の助けを求めて祈っていく中で、その出来事を主にゆだねて、主の言われることに聞き従って行くことが出来るようにだんだんと整えられて行きます。仕事や勉強、家事育児をすることよりも、祈って神様に求めることが、まず初めになければなりません。

祈って備えていないと失敗してしまう

 私たちは、祈っていないと御心が分からなくなり、誘惑に陥って必ず失敗してしまいます。冒頭のみことばで、ペテロは、イエス様の忠告を何度も受けていながらも、体力的に疲れてしまい、目を覚まして祈ることができませんでした。それまでは固い決意をし、熱心な献身の姿勢を見せていましたが、イエス様を逮捕しようと群衆がやって来た時には、剣を持って人を傷つけてしまい、またその後、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。
 私たちも祈ることを怠るならば、言葉や行動が衝動的になってしまいますし、罪に対して鈍感になってしまいます。 私も、ペテロのように調子に乗って失敗してしまうことがあります。祈って恵まれて喜んで過ごしていると、主に祈り求めることを忘れてしまい、だんだんと自分の感情に左右されて考えるようになって高ぶり失敗してしまいます。言わなくてもいいことを言ってしまい、後で「ああしまった、あんなこと言わなきゃよかった」となったり、作業を進めている時でも、「とにかく早くこの仕事を終わらせなくては」と焦るばかりになってしまい、ミスやトラブルを招いてしまいます。
 毎日祈って備えなくては、決して主の前にへりくだって聞き従って行くことはできません。祈って備えることによって、一日の中で起こる出来事に対しても、主からの御声を聞き、また知恵をいただいて正しい判断や、愛のある言葉を持って人に伝えることが出来ます。

弱さを自覚して祈る時、誘惑に勝利することができる 

 私たちが祈っていく中で教えられることは、自分の弱さや過ちに気づかされることです。イエス様は、十字架の苦しみを前にして祈られました。十字架の上で私たちの身代わりとなって罰を受けられることによって、父なる神との関係が断ち切られてしまうのではないかという恐れがありました。その中で、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。(同14:36)」とご自分の率直な思いを言葉にされました。しかし、「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(同14:36)」と、これから起こる出来事のすべてを神にゆだねられ、御心に従われました。私たちも、自分が失敗し間違えてしまう弱さがあることに向き合わされる中で、そこから目をそらすのではなく、そのことを素直に祈り、起こる出来事を神の支配にゆだねて、神のなさることに従おうとする時に、誘惑に打ち勝って御心を行なっていくことができると信じます。毎日祈って備えて主にある勝利をいただいてまいりましょう。(岩下 栄作)

23.01.16 傷んだ葦を折らない主



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2023.01.15 週報.pdf

「マタイ12:18-21 『見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。』」

傷んだ葦、くすぶる灯芯

 冒頭のみことばは、旧約聖書に記されたキリストについての預言です。「傷んだ葦」とありますが、葦は沼地や河岸などの水辺に自生する植物で、茎はまっすぐに伸び、高さは1.5mから3mにもなります。茎は軽くて丈夫で、日本のすだれは葦で作られています。また屋根素材として、今でも茅葺の民家の葺き替えに使われているそうです。葦は聖書にもたびたび出てきます。モーセは生後三ヶ月のときにかごに入れられ、葦の茂みの中に置かれました。また、エジプトから脱出したイスラエルの民が、神様の奇跡によって渡った海は、「葦の海」と呼ばれています。葦はかごの材料などにも使われますが、茎が長くて折れやすいので、傷んでいれば捨てられます。
 また「くすぶる灯心」とありますが、聖書の時代のともしび皿は水差しに似た小さな土器でした。リング型の取っ手が付いていて、中にオリーブ油を満たし、亜麻でできた灯芯によって火を燃やしました。油がなくなってくれば、灯芯がくすぶって消えそうになります。「傷んだ葦」「くすぶる灯芯」は、弱く傷つきやすい、人の姿をたとえています。

主のみこころはあわれみ

 詩篇には「主は情け深く あわれみ深い。(111:4)」とあります。神様は人を愛しあわれんでくださり、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」お方です。傷ついた者、貧しい者、役に立たない者、人々から蔑まれている者、そんな弱い者を、神様は決して見捨てられません。
 イエス様が安息日にパリサイ人たちの会堂に入られた時、そこに片手の萎えた人がいました。彼らはイエス様に「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか(マタイ12:10)」と質問しました。イエス様を訴えるためでした。イエス様は「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。(同12:11)」と言われました。主は、律法を守るよりも、目の前で苦しんでいる人を助けようとするあわれみの心の方が大切だ、とはっきり言われ、その人の萎えた手を癒やしてくださいました。

神様のあわれみが必要

 日常生活の中で、私たちもまた弱さを覚える者ではないでしょうか。年が明けて約二週間が経ちましたが、年始に決意したことが早くもできていない、と落ち込んでいる方がおられるかもしれません。また職場や学校や家庭では、誰かに言われたちょっとしたひと言に傷ついたり、失敗してしまう自分、役に立たない自分を情けなく感じたりしているかもしれません。
 警察庁によると昨年の日本の自殺者の数は約2万人でした。理由は健康の問題、仕事や経済の問題、人間関係の問題などですが、そこまで思いつめてしまう原因の一つに「孤独」があります。「だれにもわかってもらえない」と感じてしまうことです。実際に一人で生活している人ばかりでなく、家族や友人がいても孤独を感じている人がいます。私は以前勤めていた高校で、登校拒否の生徒のケアをしたことがよくありました。そこで痛感したのは、人が人の心を本当にわかってあげることはできないということでした。周りがどんなに親身になって接してあげても、完全に回復することはほとんどなかったからです。
 神様だけが人の心をすべて知っておられ、癒やしてくださることのできるお方です。「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。(エゼキエル34:16)」。人は神様のあわれみが必要です。

あわれみにすがって生きる

 神を信じる者は、神様のあわれみにすがって生きることができます。ときに、だれにもわかってもらえない、と感じたり、人から見捨てられてしまった、と感じることがあるかもしれませんが、神様だけはどんなときも私たちの居場所です。
 ですから弱さを感じるときには、「主よ、仕事を失敗してしまいました。」、「主よ、また人を怒らせてしまいました。」などと、神様に自分のありのままを打ち明けて、助けを求めて参りましょう。主はどんなときも、「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(ヨシュア1:5)」、とみことばによって励ましてくださいます。いつも主に話しかけ、みことばを聞いて生きる人は、倒れそうでも倒れることがないのです。主のあわれみにすがって参りましょう。(鈴木千史)

23.01.08 いやしを求める



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「出エジプト記15:26 そして言われた。『もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。』」

自然治癒力

 私たちのからだには、ばい菌が入り込むとそれを取り除いたり、けがをすると傷をもと通りに治す力が備わっています。自然治癒力です。けがをして出血すると、血小板が傷口に集まって来て血を固めて傷口をふさぎます。そして血が固まるとかさぶたになります。そのかさぶたの下では、毛細血管が修復され、新しい表皮が形成されて行きます。やがて、かさぶたが取れて元の皮膚の状態に戻ります。私たちは、このような現象を普段当たり前のように見ているかもしれませんが、傷口がひとりでに治るかのように見える、この素晴らしいからだの仕組みを備えてくださったのは、私たちの造り主であられる神様です。

主はいやすお方であると知った

 私たちは、イエス・キリストを信じて、「主はいやすお方である」と知りました。ローマ10:17には、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」とあります。私たちは福音を聞き、神は、すべての病の上に立たれておられるお方で、「もう治らないだろう」と思われる病気であっても、いやすことのお出来になるお方であることを、みことばによって知りました。「私はイエス・キリストを信じている」というならば、この事実を信じて受け取らなくてはなりません。
 主は、ご自分のひとり子イエス・キリストを地上に遣わして、人のすべての罪、病を負って、十字架で死んでくださり、三日目に死から復活をしてくださいました。「死は勝利に呑み込まれた。(Ⅰコリント15:54)」とありますように、キリストの十字架の死、また復活によって、罪や病、死は、完全に打ち砕かれました。そして、そのイエス・キリストを信じる者には、一切の罪が赦され、一切の病がいやされ、死の恐れから解放されて永遠に主とともに生きる道が開かれました。主の素晴らしいみわざに心から感謝します。
 私は、イエス・キリストを信じてから、幾度となく「わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)」と聞いてはいましたが、本当には信じていませんでした。ですので、いやしを受け取ることができませんでした。しかし、帯状疱疹になり、入院をして、もがき苦しみ、「痛い、苦しい、助けてほしい」と感じるその中で、「私には、主がいやしてくださるという信仰がなかった」ということに気づかされ、その病気をきっかけに、「主は私をいやしてくださる」という信仰が与えられ、いやしを求め始めるようになりました。

いやしを求めることを恥じる思いはないだろうか

 主がいやすお方であると知った私たちは、どんな小さなけがであろうと、頭痛や体の痛みであっても、「このぐらいの痛みは何とかなるさ」と侮ることなく、へりくだって主にいやしを求めて祈らなくてはなりません。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。(マタイ9:12)」と言われました。主は、「私は大丈夫です。自分の病気は自分で何とかしますから。」という人をいやされるのではなく、「私こそ病人で、いやされる必要があるのだ」と、自分の弱さを認めて主のあわれみにすがる人をいやしてくださいます。
 イエス様は、道端に座っていた二人の盲人の叫ぶ声を聞いて、立ち止まられました。彼らは、イエス様が近くを通られると聞き、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください(マタイ20:30)」と、人目をはばかることなく、大声で主に叫び求めました。周囲にいた大勢の人たちが彼らをたしなめようとしましたが、彼らはそんなことをものともせず、その視線は、ただイエス様にだけ向けられていました。とにかく、いやしてほしかったのです。イエス様は彼らを呼んで言われました。「わたしに何をしてほしいのですか。(同20:32)」彼らは言いました。「主よ、目を開けていただきたいのです。(同20:33)」するとイエス様は、彼らを深くあわれまれて彼らの目に触れられました。その瞬間、彼らの目は見えるようになりました。私たちも、主のあわれみにすがり求めなくてはなりませんが、いやしを求めようとする時に、そのことを恥じる思いはないでしょうか。病気で弱っている時、その姿を「人に見られたくない」「知られたくない」と思ったりすることはないでしょうか。そんな思いを振り切って、今こそ御前に出ていやしを求めるべきではないでしょうか。

信仰によっていやしを受け取る

 十二弟子のひとりであるトマスは、初めはイエス様がよみがえられたことを信じませんでした。イエス様は彼に対して、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と言われました。
 私たちは、「この病気は治るんだろうか」と感じるその中で、「主よ。あなたは私の病のすべてをご存知であられ、今この病を完全にいやすことがお出来になります。」と信じて、主のいやしを受け取りましょう。そのいやしを受け取るのが信仰です。「本当にいやされるのだろうか」という感情に流されてはいけません。いやしてくださるのは主であって、私たちに求められるのは、受け取る信仰だけです。主のいやしを求めてまいりましょう。(岩下 栄作)

23.01.01 いやし



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「出エジプト15:26 そして言われた。『もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。』」

わたしは主、あなたを癒やす者

 主にあって、新年あけましておめでとうございます。今年は新しいプレヤーハウスで新年が迎えられますことを、神様に感謝いたします。主は私たちの願いをかなえてくださるお方です。今年も、私たち一人ひとりを気にかけてくださり、いつも良いものを与えてくださる神様に信頼して歩んで参りましょう。
 今年のテーマは「いやし」です。冒頭のみことばで神様は、ご自分のことを「わたしは主、あなたを癒やす者」と言われました。主は病をいやしてくださるお方です。機械を作る人は、その機械が故障すれば、どこをどう直せば良いか知っています。同じように、創造主であられる神様は私たちを造ってくださいましたから、私たちの心身の不具合を治すことがおできになります。

御名の権威によっていやされた

 イエス様がこの地上を歩まれた時、病のいやしを求め、みもとに来た人々を、みないやしてくださいました。「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。』(マタイ8:16-17)」
 イエス様が人となって来られたのは、人の罪の身代わりとして十字架で死んでくださるためでした。しかし、主は人を深く愛しあわれんでくださったゆえに、十字架へ向かう途上で多くの人々を悪霊から解放し、病をいやしてくださいました。イザヤ書の53章には、イエス様が十字架で死んでくだったとき、主はすべての病や思い煩いに打ち勝ってくださったと記されています。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)」
 イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの御名の権威によって、すべての病や思い煩いから解放されています。イエス・キリストの御名にまさる病の名は一つもありません。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(ピリピ2:9)」

いやされる信仰

 ところで、イエス様は人々をいやされる中で、いやされる信仰について教えられました。「そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。(中略)彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思っていたからである。(マルコ5:25-28)」。長血というのは出血が止まらない病です。血の病は律法では汚れたものとされ、差別されていました。しかも彼女は長年の治療のために、財産を使い果たしてしまっていました。いくつも重なる苦しみの中で、彼女は病をいやしてくださるというイエス様のうわさを聞きました。そして、勇気を振り絞ってイエス様を取り囲む群衆の中へ入っていき、必死に手をのばしてイエス様の衣に触れました。「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じ(同5:29)」ました。イエス様は周囲を見回して、ご自分にさわった人を知ろうとされたので、彼女は恐れながら主の前にひれ伏しました。するとイエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。(同5:34)」とやさしく声をかけて、彼女の信仰をほめられたのです。
 聖書には、「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(ヤコブ1:6-7)」とあります。いやされるために、神様のいやしの約束をかたく信じる信仰が必要であることを教えられます。

いやされて生きる

 神様は求める者に答えてくださるお方です。日常生活の中で、私たちはときに病にかかることがありますし、仕事や家族や学校などそれぞれの環境の中で問題が起こると、思い煩うことがあります。しかし神様のみこころは、「苦しむことなく、健やかでいなさい。」です。そのためにイエス様はすでに十字架で、すべての病や思い煩いに勝利してくださいました。私たちのすべきことは、信仰によっていやしを受け取ることだけです。
 さらに、私たちがいやしを受け取って生きるならば、病で苦しんでいる人のために祈ることができます。「病人に手を置けば癒やされます。(マルコ16:18)」主はイエス・キリストのいやしを信じる者の信仰を用いてくださり、その人を主のいやしの管として使ってくださいます。
 新しい年が始まりました。今年もいやしてくださる神様との関係の中に生きられる恵みを感謝します。この一年も主にいやされて健やかに生活して参りましょう。(鈴木千史)