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「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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< 23.07.02〜最新 >
「第二コリント人への手紙 2:14-17 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」
2015年の最後の聖日を迎えました。今年の一年も、多くの主の恵みをいただき感謝します。毎年あっという間に一年が過ぎていく気がします。振り返りますと、一つ一つの出来事がまるで昨日のように感じます。
主だった行事では、オイコス休暇、キャンプ、聖会、バザー、クリスマス集会、本当に今年も感謝の思い出がいっぱいです。
コンサート&メッセージ感謝
一番の行事となるクリスマスですが、今年も恵まれました。多少厳しい準備をさせられましたが、かえって、良き働きをすることができたと思います。私たちの働きで、実が実ることも実らないこともあります。しかし、それがどうであっても、主は私たちにキリストの香りを放ってくださることです。
感謝なことは、混ぜ物をしないで伝えるとき、それが死の香りであれ、いのちの香りであれ、キリストの香りであることです。愚直であっても、ストレートな働きを続けていきたいと思います。
十分に伝わっていないのかと思いきや、感動したこと、求める思いが起こされたこと、真剣に心が動かされたこと、などの反応をいくつか聞かされました。主に感謝します。
他にも、兄弟姉妹のいやしや解放につながる主の働きが見られたことは、大きな励ましでした。兄弟姉妹が、動かされていることを心から主に感謝します。
すべてが満たされました
会場の設備や飾り付け、機材について、費用がかかりました。それでも、歳末助け合いに、ささげることを計画させていただきました。もしこれが人間的な計画によることならば、満たされないとの覚悟もしておりました。
今まで以上にきれいな飾り付けができました。そして、ささげることもできました。結果、ちょうど満たされております。主に感謝します。その時点時点でするべきことを淡々とさせられて、与えられた結果です。「伝道者の書 11:6 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」との教えそのものでした。
仕えること自体が報酬
パウロにとって、主を宣べ伝え、人々が救われていくことが喜びであり、働きの報いを受けることでした。しかしながら、真実、彼には主に仕えること自体が喜びであり、実が実っても実らなくても、報いを受け取っていたのでした。
キリストの香りを放つこと、ただ主の働きをストレートになすこと、そのことが喜びでした。キリストの香りを放って、あるときは実が実らなくて、死の香りを放つという結果になります。あるときは、実が実って、いのちの香りを放つという結果になります。そのどちらも主がなされることです。パウロには、その働きの中にいることが喜びでした。結果によって喜んだり、喜べなかったりしているのではありませんでした。主に仕えること自体が報酬でした。
仕えること自体を喜びとしてくださっている、みなさんのゆえに主に感謝します。三つも四つも奉仕を掛け持ちして、仕えておられる姿には、仕えること自体が喜びであり、主からの報いを受け取っているのだなあ、と感謝させられます。頼まれもせず、知られもしないし、感謝もされないが、逆に自分の心には、主に対する感謝があふれているのでしょう。
2015年を主に感謝します。
「ルカの福音書 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
クリスマス感謝
クリスマスおめでとうございます
今年もクリスマスをお祝いすることができることを感謝します。クリスマスは楽しいとき、と世界中が感じています。しかし、その真の意味を理解して喜んでいるわけではなく、ただお祭り気分ということで、世界中が浮かれているというのが、本当のところであると思います。
それでも、イエス・キリストの誕生日であることを知らないでいる人は少ないと思います。多くの人々は、クリスマスはイエス・キリストの誕生から始まったことと知っており、そのお祭りが、とても雰囲気が良く、楽しいことなので、気に入っている、といったところでしょうか。
しかし、私たちにとっては、特別な、しかも個人的に特別な、救い主の御降誕です。クリスマスおめでとうございます、と誰よりも喜んで申し上げたいことです。
信じる恵み
イエス・キリストがお生まれくださったのは、私たちを救うためです。神が人となって、私たちの間に住まわれました(ヨハネ 1:14)。それなのに、この世は受け入れなかった、と聖書は説明しています(ヨハネ 1:11)。
しかし信じない人々の間にも、受け入れた人々がおりました。その人々は、神の子どもとされる特権にあずかりました(ヨハネ 1:12)。私たちもその一人であることを感謝します。
イエス・キリストが、私の(自分の)ためにお生まれくださった救い主であると、信じることができることは喜びです。聖書は、「あなたがたのために」救い主がお生まれになりました、と言います。主は全世界の救い主ではありますが、その恵みにあずかることができるのは、一人一人の信仰を通してなのです。もし、あなたがイエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、主はあなた個人の救い主となってくださっているのです。ですから、私たちは、こう言うことができます。「イエス・キリストは私のためにお生まれくださいました。」
熱心な愛
神様の御愛が、自分に個人的に注がれていることを、知らなければなりません。神様の目は、あなた個人に注がれています。
神様は、あなたの全てを知っておられます。主が十字架にかかられた目的は、あなたを救うためです。つまり、あなたは救われなければならない存在、であることを神様が十分に知っておられて、救おうとされたということです。このことは、あなたが良い者ではないことを意味します。あなたが恥じている、見たくないと思っている、自分自身、これに神様の目が注がれているのです。
神様はあなたのありのままの悪と恥を見、これを指摘されます。しかし、神様の熱心はあなたを裁く方向には向かいません。あなたを救う方向に向くのです。それが、十字架です。あなたは放って置かれていません。愛されているのです。
イエス・キリストは、あなたの罪を負って、十字架で死ぬために、お生まれくださいました。そのご計画の始まりが、クリスマスであるのです。あなたを救いたい一心で、死のうとしておられる主に感謝します。クリスマスに見られる主の愛の覚悟を見ることができます。
もう一度言いましょう。「クリスマスおめでとうございます。」「イエス・キリストは、私のためにお生まれくださいました。」
「ルカの福音書 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
人生の問題
私たちの人生の問題は、一言で言えば恐怖感です。恐怖感にさいなまれて、自由に生きることができないでいるのです。多くの人は、答えがわかれば、安心できると考えています。もし、心配しなくて良いのだ、と知ることができれば、どんなにか恐れのない生活を送ることができるでしょう。「この病は治る」「この事業は必ず成功する」「この家族の関係は必ずいやされる」「この不足は満たされる」「この希望は必ず叶えられる」と分かっていれば、今日たとえどんな惨めな状況の中にあっても、全く恐れは感じないでしょう。
ところが、先のことがわかる人は、一人もおりません。過去の経験から、あるいは先人の知恵を参考に、最善の生き方を選んでいるとしても、それでも将来はどうなるかわからないという現実に生きていますから、大丈夫だろうかという恐怖感は常につきまといます。
信仰によって
大丈夫だと知らされていれば、恐れは全く感じないで生きられます。しかし、知らされることのないこの現実の中でも、大丈夫だという前提で生きることは可能です。大丈夫だと信じて生きることです。
聖書が教えている私たちの生き方は、主に従って、主の言われることを聞いて生きるということです。私たちが、たとえ大丈夫であっても、大丈夫でなくても、するべきことは同じです。今日主の言われる、するべきことを淡々と行うことだけです。そのような日々を送る者にある、満足、喜びは、ただ淡々と主に忠実に生きることを果たせることです。
主の言われることを確実に果たすことができていることほど、私たちに、人生の喜びや充実感を与えるものはありません。実際多くの人が理解されていないことですが、主の言われる小さなことを確実に一つ一つ達成できていくことは、とても大きな生きがいを感じさせることです。そこには、恐怖感は全くありません。
「主に信頼すれば大丈夫だ」と信じて生きられます。大丈夫だと知らされて生きているのと同じです。しかも、そのように生きる人は、他の人のように将来に悪いことが起こらないようにと、経験や知恵を絞り出して最善を生きているのではないのに、それ以上の備えをしつつ生きているわけです。(主に従って生きているから、もっと必要なことができている)
もし自由であれば
恐怖感がないことが自由でありますが、自由であれば、私たちの生活はどのように変わるでしょうか。私たちが前向きに考えられれば、病のいやしを助けることになります。恐怖心が続きますと必ず健康が損なわれます。
多くの人は、事業や経済的な成功のために、ぜひとも前向きに生きるべきだと考えています。それができるのです。
人間関係や家族関係の修復のために、これからするべきことは必ず報われていく、とわかっている人は、何度拒絶されても、あきらめないで人を愛し続けることになります。
自由であることは、私たちを大きく変えるのです。自由それは、恐怖感に縛られていないことを指します。主に信頼する人は、今どのような状況の中にあっても、自分の将来は大丈夫だ、と信仰によって、わかって、生きられるのです。
自由であることは、妨げのないことです。妨げがないことは不可能なことがないことです。信じる者の人生に解決できない問題はありません。
「マルコの福音書 4:14-20 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
実を結ぶとは
さて今回は「実を結ぶ」ということについて考えてみたいと思います。実を結ばせる「種」とは「みことば」のことです。みことばが実を結ぶ、あるいは実を結ばない、ということが人生においてあるのだ、というお話です。
神様のことばは、人の心に働いて、芽を出し、必ず実を結ぶものだという前提でのお話です。神様のみことばの働きは、広く私たちを変えるものです。私たちの生き方や、信仰、死後のこと、性格、考え方、人間関係、健康、経済、などなどに影響を与えます。
それら全てに共通するものとして「自由にされる」ことがあげられると思います。つまり、実を結ぶとは自由になることだ、と言えます。
恐れから解き放たれて、患いから癒されて、壊れたものが回復させられて、失ったものが取り戻されて、「自由にされる」ことが人生の実、であるでしょう。誰もがこのような様子を見て「実が結ばれている人生ですね」と言うでしょう。
しかし、みことばが実を結ぶとしても、実を結ぶことも実を結ばないことも現実にはあります。その原因は「人」であると主は言われます。「良い地(人)」、「悪い地(人)」があるのです。
実を結ぶ良い地
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」から、良い人とは実を結ぶ人です。とは言っても、ほとんどの人が自分は実を結んでいると自信を持って言えるわけではないでしょう。
いきおい、「私は悪い人だ」となります。実は、イエス様が教えられているこのお話は「わかる人にはわかる」という趣旨で語られています。だから「たとえ話」を用いたのだ、と言われています。良い人は実を結ぶ人ですから、実を結んでいない自分は、悪い人だ、ということに気づけということです。
悪い人であることに気づくことが、良い人である、ということなのです。私たちが本当に自分が悪い人だと気付いているなら「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」のです。主のみことばは、そういう人にこそ、働くのです。
実を結ばない悪い地
では、悪い人とはどのような人のことなのでしょうか。自分はどれに当てはまるのでしょうか。
まず、みことばを聞いてもすぐ、そのみことばが忘れられてしまう人のことです。サタンが来て持ち去っていくのだ、と言われています。「みことばを聞くと」ということは、一旦は聞くということです。聞く気があって聞いている人ですから、教会に来ている人でしょう。あなたはいかがでしょうか。聞こえてはいても、聞いていない、ということはないでしょうか。
次に「すぐに喜んで受けるが、根を張らない」人のことです。続かないのです。「困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」。何かが起こると、自分のせいではなく、状況や人のせいだと考える人です。たとえまわりが悪くても「それでも愛します」とは言いません。恐れが起こると、敗北を受け入れ、恐れが去るのをひたすら待ちます。「恐れに飛び込みます」とは言いません。物事がうまくいかないと、途端に気落ちしてしまいます。「神にとって不可能なことは一つもありません」とは言いません。
そして「いばらの地」の人です。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐ」人のことです。「いろいろな欲望」が捨てきれません。自分の思い通りに生きたいのです。「目標を持つことがなぜ悪いのだ」「よくなりたいと思うことは必要だ」「豊かになることを求めて何が悪い」と思います。しかし、主の教えは「そうなりたければ、主のみことばに従うべきだ」というものです。「(ヨハネ 15:5) わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とさえ主は言われています。みことばがふさがれないためには、主に従いたいという欲望、以外は邪魔なのです。
幸いな人
主は、イエス様を信じて主のみことばに聞き入っている弟子たちに対して、「マタイ 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と言われました。他の人々のことは「マタイ 13:13 彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしない」と言われました。
自分が悪い地であることを知って、みことばが実らなければ立ち行かないことを認め、主の働きを見、主のみことばを聞く者であることが何よりも必要なことです。
「ルカの福音書 10:17-20 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』 イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」
主の御名
イエス様は、弟子たちを二人ずつ組にして、70人を伝道のために、各町々に遣わしました。その後弟子たちが帰ってきて、彼らは喜んで「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と言いました。
弟子たちは、イエスの名を使うことで、悪霊を追い出すことができたので、とても驚き喜びました。自分たちに、主と同じ働きができたことをとても喜んだのでした。「自分にもできた」と喜んだのです。
主は「ヨハネ 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われ、主の御名を使うことを命じられました。信じる者は、主の御名によってなんでも受けることができます。
そして「マルコ 16:17-18 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」との約束があります。主の御名に力があるのです。
真に喜ぶべきこと
しかしながら、イエス様は喜ぶ弟子たちに「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。霊的な力ある働きができることは、彼らにとって、今までにない劇的な勝利の出来事です。人にはできないこと、しかも人の敵である悪霊をやっつけて、人々を苦しみから救うことができたことは、飛び上がって喜ぶほどの出来事でした。しかし主は彼らが喜ぶ様を戒められたのです。
主の言われることは、こうです。「信じる者に、わたしと同じ霊的な神の力が現れるのは当然のことである。このことは、誰もが受けようとして、受けることができない、特別なことなのである。あなた方は特別な主の選びをいただいているのだ。むしろそのことを喜びなさい。救われるはずのない者が救われて、名が天に書き記されているのだから。」
私たち信じる者には、イエス様と同じ、またそれ以上の力ある働きが、現れます。「ヨハネ 14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」
イエス・キリストを信じる私たちが、主の御名によって、主と同じ働きをすることができるのは、主が「父のもとに行」かれた(十字架にかかられた)からです。私たちが真に喜ぶべきは、主の働きができていることではなく、自分の名が天に記されていることです。主の働きが現れるのは、自分が救われていることの証拠です。
主の働きの現れは、信じる者なら誰にでも、現れるしるしなのです。救われていることをいつも喜ぶ者となりましょう。
福音に生きる者とともに働く主
主は「マルコ 16:15 全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と言われ、ついで、信じる者にはしるしが伴う、と言われたのです。弟子たちがその命令に従って、いたるところで福音を宣べ伝えたとき、主もともに働いてくださいました。聖書にある奇跡をもって、彼らの伝えていることが真実であることを、主ご自身が証明してくださったのです。
伝道の命令に生きる者、つまり福音に生きる者に、主はともにいてくださり、お働きくださるのです。私たちが主の働きを目の当たりにすることは、主の勝利を見させられることであり、それは私たちにとって小気味良いことです。笑さえ込み上げて来ます。そのとき、私たちが喜ぶべきことは、自分が救われていることです。「こんな者が救われているのだ」と、いつも喜んでいたいと思います。
「詩篇 27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
恐れ
私たちの人生の問題は多くありますが、それらは大抵恐れを伴っていることです。言い換えれば、恐れがあるから問題なのであって、恐れが伴わなければ、特に問題に心を煩わせることはなくなるでしょう。 経済の問題は、生活の困窮を恐れさせることになりますし、身体の問題は死の恐れが伴うものです。家族の問題や人間関係の問題は、孤独や別離の悲しみを想像させる恐れが伴うものです。また、失敗や不合格には、将来の希望や計画が破壊される恐れが伴っています。 これらは、恐れがなければ、多少の煩いとはなっても、問題とはならなくなります。人生の問題とは、恐れであると言えるでしょう。
不安
そして、恐れと同じ類のものに不安があります。不安は恐れが長く続いている状態のことです。たとえ小さな恐れであっても、それが長く続くと、私たちを破壊してしまいます。ですから、不安もまた、私たちの人生にとっては大きな問題であるのです。 たとえば「人からどう見られているのだろう」というのは小さな恐れです。それが一時的であれば、それほど問題ではありません。しかし、これが毎日毎時間、連続して止むことがないものであれば、私たちは縛られてしまいます。自由でなくなってしまい、毎日が憂鬱で、やる気をなくしてしまうでしょう。 しかも、人は実際は自分のことなどあまり気にしていなくて、自分の心の中の問題であることが多いことです。自分を裁いたり、見下したりしているのは、自分自身の目だったということであれば、さらにその恐れは常に付きまとうものとなります。このような恐れが、当たり前のように長く続いて、漠然とした不安が存在しているものです。
平安をもたらす神
私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちに平安をもたらすために、十字架におかかりになりました。「イザヤ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」 私たちは、神様から離れているが故に、常に恐れに襲われています。私たちの人生の恐れに打ち勝つためには、神様とともに生きなければなりません。
主のことを思い巡らす
ダビデは、この詩篇27:1で「主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう」と告白しています。そして、ダビデの求めることは、ただ一つであるといいます。それは「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」ことなのです。神様のことを思い巡らす時、私たちの心に、恐れは同居することはできません。 私たちは、一秒の間隙もなく、神様との交わりの中に生きるべきですが、そのためにできることは、会話である祈りと、もう一つが主を思い巡らすことです。両方を同時にすることもできます。 私たちに平安をもたらすもの、それは主がともにおられることです。私たちが主を思い巡らすなら、私たちの心は主のご臨在にあふれ、恐れは消え去ります。
「マルコの福音書 11:22-24 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
信じなさい 山は動く
イエス様は「この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」と言われました。私たちの人生には、人間的にはどう考えても、絶対無理だと思われることはいくらでもあります。 経済的に破綻をし、再起は不可能だと、暗たんとした気持ちになることはあるでしょう。失恋をし、もう人生が終わったと感じることもあります。家族に問題があり、回復は不可能と感じてしまうこともあるでしょう。健康を害し、死の恐怖に襲われることもあるでしょう。これらはみな、普通は、動かない山と言われるものかも知れません。しかし、主は、山は動くと言われたのです。信じるなら、です。 また「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」とも言われました。祈ったなら、すでに受けたと信じなければなりません。そうすれば、叶えられるという約束です。
信じなさい 悪魔は逃げ去る
さらにまた、聖書は「ヤコブ 4:7 神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」とも言います。神に従う、それは神様を信じて従うこと、に他なりませんが、その姿勢をもって悪魔に立ち向かえば、悪魔は逃げ去る、と教えているのです。 悪魔は、私たちの心を、誘惑のことばをもって縛ります。悪魔の武器は「嘘」ですが、嘘のことばをもって私たちを縛るのです。その代表的なものは、「あなたは、愛されていない」「もうダメだ」「信じても無駄である」「あなたは幸せにはなれない」「求めても得られるはずがない」「あなたには価値がない」「誰もあなたを愛さないだろう」・・・などのことばですが、それらはすべて「嘘」なのです。神様の言われることが真実ですが、神様はこのようなことを言われることは絶対にありません。 私たちの心にこのような類のことばがよぎるとき「と、神様が言われたのか」と、自分の心に確かめれば、すぐに、そうでないことがわかります。「ああ、悪魔が言っていることばだ」と理解できるのです。私たちは、悪魔に立ち向かうことができるのです。
神を信じなさい
山は動くことも、悪魔に立ち向かえることも、それには大前提があります。それは「神を信じなさい」ということです。ここで、神を信じるとは、どういうことなのかを、今一度確認してみましょう。 神を信じるとは、一体、神様の何を信じること、と理解しておられるでしょうか。聖書は「ヨハネの福音書 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と説明しています。信じるとは、イエスの名を信じることであり、イエスを救い主として受け入れる、ことです。 神様が存在されるお方であることを認め、神様がご自身を現すために、人となって下さったお方、それがイエスであることを信じることです。そして、神様を信じるとは、神様が造り主であり、支配者であることを認め、そのお方の支配にへりくだることを意味します。受け入れること、すなわち、明け渡すこと、を意味するわけです。 信じるとは、神様の支配に生きること、つまり、神様と親子の関係、主従の関係に入ることです。そうであるなら、山は動くし、悪魔は逃げ去るのです。
信じなければ始まらない
「信じます」と口では言っていても、御支配の下に生きることを受け入れていなければ、つまり明け渡していないなら、信じることにはなっていません。救いは信じて事実となります。悩んだり、苦しんだり、心が乱れたり、あるいは確信がなかったり、やる気が全く起きなかったりしたとしても、あなたが主の御支配を受け入れていないなら、人生を明け渡していないなら、あなたの生活に勝利がなくても、当然のことなのかもしれません。 とにかく、信じることなしには何事も始まらないことなのです。本当に神様の御支配に生きている、神様に従うことを決意している、神様の主導権を受け入れ、降参し自分の意見を捨てて明け渡している、ことを始めなければ、スタートラインには着いていないのです。 今からは信じることが必要です。
「ヨハネの福音書 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
なぜ心が揺れるのだろう
あなたは神様に不可能はないことを信じますか。イエス様は「マルコ 9:23 できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。イエス様にできるのか、あるいはできないのか、疑いを持つような、中途半端な信仰をお許しにはなりませんでした。「信じる者にはどんなことでもできる」のです。 それなのにです。信じたいと思っています。疑いたいとは思っていないのに、心が揺れ動くのです。ある瞬間は「大丈夫だ。信じる者には不可能はない」と強く思うのです。しかし、すぐさま「もしできなかったらどうしよう」とまた思うのです。 「心配ない」と思います。しかしまた心配になるのです。強い信仰を持ちたいと誰よりも思うのに、思い通りに自分の心をコントロールすることができないのです。「こんな自分が嫌だ」とさえ思います。一体どうすれば良いのでしょう。
この方を誰と信じるのか
イエス・キリストを信じることは「その名を信じ」ることだと説明されています。これはどういう意味なのでしょうか。イエスという名は人間の名前です。キリストとは「救い主」「神の御子」を表す称号です。 イエスという名前を信じることが、命じられているのですが、イエスという名前を信じることは、次のようなことを意味しています。 全知全能の不可能のない神様が、人となって私たちに現れてくださいました。つまり「イエスという名前の、このお方を見よ。このお方が、神様が人となってくださって、お生まれ下さったお方である。この方こそ、あなた方を苦しみから救う、あなた方の救い主である。このお方を受け入れよ。そして、導かれて生きよ」と命じられているわけです。イエスの名を信じるということは「この方を受け入れ」るということに他なりません。
信じることは明け渡すこと
イエス・キリストを受け入れることが、イエス・キリストを信じることです。このお方を、私たちを支配する神様、主として受け入れることです。それは、私たちの主導権を、この方に明け渡すことを意味します。 具体的に言うならば「神様。私は今まで、自分勝手に(自分が主導権を取って)生きてきました。このことが間違いでした。赦してください。悔い改めます。これからは、神様、あなたに主導権を明け渡し、あなたのしたいように、導かれて生きていきます。私を助けてください。」という告白が、イエス・キリストを信じたことでした。 イエス・キリストを信じますと言いながら、自分がクリスチャンであると言いながら、実際には神様に人生を明け渡していない人がいます。おそらく明け渡すことの必要は知ってはいるものの、それは信じた後の将来に目指すこと、のように思っているのでしょう。 しかし、信じることは、明け渡す決意を告白することでした。しかも、確かにそのように、信じるときに、誰もが明け渡すことを告白して、祈っているのです。信じる者の人生は、もはや自分のものではなく、神様のものです。
信じるなら自由になる
心が揺れ動くことの原因はただ一つ。心の中に反対の思いがあるからです。「信じた」が、「明け渡したくない」と思っていれば、「信じたい」のに「信じたくない」と言っていることに他なりません。あなたは、それがただことばの上だけのことだと思っているかもしれませんが、霊の世界では事実として、そのまま通用しているのです。 イエス・キリストは存在されるお方です。信じる者の心に、お住まいくださり、支配してくださるお方です。「信じます」と告白して、あなたの心の中に具体的に住んでくださっています。 しかし「明け渡したくない=信じたくない」という思いによって、あなたを支配することを、中断して、あなたが「明け渡したい=信じたい」と決意するのを待ってくださっておられるのです。神様のご支配がなければ、私たちの心は、揺れます。荒れ放題になります。私たちは得体の知れないものに、縛られて、心の自由を失うのです。「信じたい」のに「信じられない」という鎖に縛られることになります。 イエス・キリストを信じる者にある特徴は「自由」です。「ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
「Ⅰコリント人への手紙 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
神の宮
私たちがイエス・キリストを信じるとき、イエス・キリストの御霊が私たちの内に住まわれる、と聖書は教えています。「ガラテヤ 2:20 キリストが私のうちに生きておられるのです。」 まことの神様は、父・子・聖霊の三位一体で存在される方です。聖霊の神様は、父なる神様の御霊として、またイエス・キリストの御霊として、私たちに直接お働きくださいます。 あなたがイエス・キリストを救い主と信じたとき、もうひとりの助け主である聖霊様は、あなたの内に、救い主イエス・キリストの御霊として、住んでくださいました。このことはあなたの内に、父なる神様がお住まいになっていてくださるのと同じことです。また、助け主イエス・キリストがお住まいくださっているのと同じことです。私たちは神様を内に宿しているのです。神様のお住まいを神殿とも、宮とも言います。「Ⅰコリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」私たちはこのことを自覚しなければなりません。
内住される神様のあり方
そう言われても、神様が心の内にお住まいくださっていることを、実感として感じることができない、と思う方もおられるかもしれません。しかし、神様の言われることは真実であり、その真実は私たちの信仰を通して事実となります。「エペソ 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」つまり、私たちが主のなされたことを信じて、受け入れてはじめて、神様が働かれるということです。 神様は、私たちの内で強権的に働かれることはしません。あくまでも私たちの信仰を通して働かれます。私たちを打ちたたいて、奴隷に対するようには働かれるお方ではない、ということです。 聖霊様は紳士的にお働きくださいます。私たちが逆らうとき、疑うとき、私たちの心の内に住まわれながら、隅の方に引っ込まれると考えれば良いと思います。私たちが、主を信じ、主の働かれることに賛成し歓迎するときに、主は働かれるのです。 私たちが「神様。どうか私の内に、ご自由になさりたいことをなさってください」と歓迎をして、明け渡すとき、主は「そうか。わかった」と言って、私たちの差し出した信仰を通して働かれるのです。私たちの実感が重要なことではなく、信仰だけが重要なことです。「ガラテヤ 5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」
示される神
内に住まわれる聖霊の神様のお働きのひとつが、私たちに語られるということです。それは聖書のことばや、心に感じる印象、などによって私たちの内に示されるという働きです。「マタイ 10:19 話すべきことは、そのとき示されるからです。」 私たちは主に申し上げることができますが、主からも直接、お話していただくことができるのです。「マタイ 10:20 あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」 イエス様ご自身が、地上を歩まれたとき、私たちの生き方のサンプルとして、神様に従う姿勢を示されました。イエス様はご自分から語られたのではなく、父なる神様が示されたことを、そのままお話をされました。「ヨハネ 12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」 そして私たちもイエス様と同じことをすることができるようになると、宣言されておられます。「ヨハネ 14:12 わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」
この事実によって
御霊の神様が、私たちの内に住んでおられるという事実によって、私たちは、救われて、永遠のいのちをいただいているのです。言わば、聖霊様がお住まいくださっている、という事実が、私たちが裁かれないで、神様に受け入れられるという、しるしでもあるのです。「Ⅱコリント 1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」 そして、私たちはこの地上において、全く新しく生まれ、今までとは違う生き方を与えられました。それは、神様との真実な会話です。今までは、神様以外の得体の知れない、自分自身を装った、あるいは自分自身の思いの背後に働く何者かとの会話をしていたものです。それが今はその話し相手が、神様となりました。 わかりやすく言うなれば、弟子たちは、この地上を歩まれたイエス様との直接の交わりによって、助けられて生きましたが、私たちも同じように、それ以上に、イエス様とともに行動し、イエス様との会話の中に生きられるようになったということです。 私たちの話し相手は、イエス・キリストであることを知らなければなりません。私たちは罪人であり、弱い者であり、常につまづくものです。しかしもはや敗北者ではないのです。 こんな者ではありますが、弟子たち以上に、助け主であるイエス様に助けられて生きられるということが具体的な事実なのです。私たちの内に、もう一人の助け主、聖霊様がお住まいなのです。「ヨハネ 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
「第1ヨハネの手紙 4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
神は愛です
神様は「愛です」。神様はあなたを愛しています。この世界が造られる前から、神様はあなたの存在を計画され、あなたを愛してくださっている、と聖書は言います。(エペソ 1:4) 神様に愛されているということがわかることが、人生のすべての問題の解決となります。私たちの人生の問題は、その原因が、自分が愛されていないと感じることにあり、また愛されていることがわからないので、人生の目的もわかりません。 クリスチャンは誰でも「あなたは神様に愛されていますよ」と教えられます。そう聞かされていますから、神様に愛されていることを知らない人は、クリスチャンの中にはいないと言えるでしょう。 ところが実際には「私は神様に愛されている」と喜んで生活している人ばかりではない、と思うのです。もちろんそのような人でも、愛されていることを否定はしないのですが、愛されているという実感を抱くことができないでいるのです。神様が愛してくださっているというのに、その愛が具体的な働きとして、その人には届いていません。
なだめの供え物
実際に私たちがイエス・キリストを信じたとき、何が起ったのでしょう。イエス様が十字架に死なれたのは「なだめの供え物」となってくださるためでした。「Ⅰヨハネ 2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」 私たちにある罪とは、神様に対する「敵意」です。あなたは、神様に対して怒りを持つようなことが今までになかったでしょうか。「自分の思い通りにいかないので、神様を恨む」ということや「神様に服従を要求されて腹を立てる」というような経験はなかったでしょうか。これらはみな罪の反応です。この「敵意」が壁となって、神様の恵みが私たちに届くことがありませんでした。神様は愛してくださっているのに、私たちの罪が壁となって、神様の愛は私たちに届かなかったのです。罪の壁のあるがゆえに、神様の怒りが、私たちの上にありました。(ヨハネ 3:36) イエス様は神様の怒りをなだめるための「供え物」となって十字架で死なれたのです。神様の私たちに対する怒りは、容赦なくイエス・キリストに注がれたのです。
愛が届くようになった
私たちがイエス・キリストを信じたとき、罪の壁が壊されて、神様の愛が届くようになりました。このことは、私たちが神様が愛してくださっていることを、単に知ったということだけでなく、実際に愛の扱いが具体的に私たちに働き始めたということです。それまでも、神様に愛されていたということには変わりません。しかし今は、直接抱きしめられるという関係が始まったということなのです。今、主に抱きしめられている実感があります。 愛が実際に届くようになりますと、起こる現象として、「怒り」が解かされていくということがあります。問題の多くが、愛されてこなかったという「負(マイナス)」の経験によることですから、「正(プラス)」の経験が私たちを癒します。 「怒り」は私たちが生まれたときから持っていた「良い人間でありたい」というやる気を壊してきました。それが今は、以前にも増してすなおな気持ちが生れ、今まで以上の、良き人生を送りたいというやる気が湧き上がっているのです。これが恵みです。 今、あなたに神様の愛が届いているでしょうか。人生の問題は、自分以外の人にあるのではありません。あの人が変われば、問題がなくなると考えていますか。状況が好転すれば、あなたの人生は変わると考えますか。そうではなく、神様の愛が実感としてあなたに届けば、あなたの人生は変わります。
「ルカの福音書 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
神にとって不可能なし
主は処女マリヤからお生まれになりました。このことをあらかじめ知らされたマリヤは、み使いに対して「どうしてそのようなことがありましょうか」と戸惑いつつ聞きますが、み使いガブリエルは「神にとって不可能なことは一つもありません」と答えます。その答えどおりに、主は処女マリヤからお生まれになりました。 また、アブラハムが99歳、サラが89歳の時、まだ子どものなかった彼らに、主は「創世記 18:14 主に不可能なことがあろうか」と仰せられ、そのみことばのとおりに、1年後に、彼らにイサクが生まれました。神にとって不可能なことはない、というのが私たちの信仰です。
主にあるという幸い
そしてその不可能のない神様とともにあるということが、私たちの受ける恵みです。主イエスを信じて私たちは、神の子どもとされました。そのことは、神様とともにあって、神様に導かれて生きる者とされるということです。「ローマ 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」 たとえ私たちが無力な者であっても、また有限であっても、取るに足りない者であっても、私たちとともにいてくださる神様は、不可能のないお方です。 誰でも、主とともにあるなら、不可能のない人生を歩むことができるのです。そして、このことはイエスを信じた者の特権です。(ヨハネ 1:12)主にあることがいかに幸いなことかを、覚えなければなりません。
私は主にあってなんでもできる
聖書は「ピリピ 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と教えています。私たちは「主にあってどんなことでもできる」と言わなければなりません。このことは「私はできる」という自信によることではありません。私たちはできない者であっても、何のことはないのです。私たちとともにある主に不可能はないのですから。 「主にあってどんなことでもできる」というのは、自信ではなく私たちの信じる神様に対する「信頼」なのです。「私はできる」という自信はもろいものです。悪魔に「本当にできるのか」と言われれば、その自信は揺らぎ始めます。 さらに私たちは自信があったり、無くしたり、と浮き沈みのある者です。しかし「神様にはどんなことでもできる」ということに対しては、たとえ悪魔が「本当にそうか」と言っても、全くのたわごとと片付けることができます。悪魔でも神様の力を否定することはできません。さらに言うなれば、私たちよりも悪魔の方が神様の力をよく知っているのです。ですから、悪魔は逃げ去ります。それで「主にあってどんなことでもできる」というのは、私たちの強固な確信となるのです。
信頼だけが重要なこと
ここで、問われることは、私たちの主に対する「信頼」だけです。つまり、あなたがどれほど主に信頼をしているか、ということです。主が自分になされることに対して、全面的に喜んで受け入れることができるでしょうか。神様は良い神様です。神様のなさることは、みな良いことです。神様が愛している私たちに対して、神様のなさっておられることは、みな最善であると信じているでしょうか。 今「主よ。あなたが私になさりたいことをなんでもしてください」と告白できるでしょうか。神様の望まれることだけがなる、と言われて嬉しいでしょうか。「箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」 結局、私たちの能力ではなく、私たちの思い込みではなく、主に対する信頼が、無限の、不可能のない、測り知れない力を生み出すということがわかります。
「箴言 14:16知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。」
自信
聖書は、自信が強い者は、愚か者であると言います。自信を持つことは悪いことなのでしょうか。聖書の言う真実を学んでまいりましょう。 私たちの多くは、自信を持つように育てられました。「自分を信じろ」「自信を取り戻せ」「自信を身につけることが大切」などということばは誰もが聞いたことがあると思います。 そこで、自分の内に自信を育てようとして「私はできる」「必ずうまくいく」と考えて、前向きに生きようとしてきました。ところが、残念なことに、歳をとって大人になっても、自信を喪失している人の方が明らかに多いのです。「うまくいかないのが人生だ」「自信がありません」などのことばが、当たり前のように聞かれます。自信を持ちたいと思っているにもかかわらず、自信が持てないでいる、ということなのです。 しかし、ひるがえって考えてみると、自信によって人生の舵取りをしようとすることに意味があるのでしょうか。私たちはどう生きればよいのでしょう。
自信の正体
自信って一体何?それは一言で言ってしまえば「根拠のない推測」ということに他なりません。高校生講座で、人の考えは「事実と推測と意見」がごちゃまぜになっているので、それらを明確に区別して議論する必要があると教えていました。それに照らすと、自信は「きっとできるに違いない」という「推測」であることがわかります。しかも、その推測にはなんら確実な根拠はありません。自分が強くそう思うから、そう思いたいから、に他なりません。結局、思えなくなったら、自信は無くなるのです。皆そうやって生きて来ました。 そういう中でも、自分の予想を超えて何かができたとき、物事がうまく進むとき、があるのです。それで、そのときの味を求めて、さらに自信に頼ろうとして、自信を身につけようと頑張るのです。多くの人が「根拠のない推測」を頼りにして、自信に振り回されて生きているのではないでしょうか。しがみつきながら生きているのではないでしょうか。でもその正体は「根拠のない推測」なのです。
私たちのよりどころ
聖書は「ピリピ 4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と教えています。「私を強くしてくださる方」は神様です。その神様によって、私たちは「どんなことでもできるのです」。この場合の「できる」は、神様によってですから、私たちの「自信」ではありません。そのよりどころは私たちではなく、神様ということになります。神様には不可能なことは一つもありません(ルカ 1:37)。 神様に信頼しているから、このことは成就する、実現してくださるのは神様である、と固く信じているのです。この場合、自信は全く必要なく、神様と自分の関係だけが重要なことです。むしろ、自信があると、神様に信頼することが妨げられることにもなります。私たちは、ふたりの主人に同時に仕えることはできないからです(マタイ 6:24)。
弱いときにこそ強い
神様の力が私たちに働くのは、私たちの強さにではなく、私たちの弱さにです。神様は、パウロに対して「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである(Ⅱコリント 12:9)」と言われました。それで彼は「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(同)」と言います。さらに「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(Ⅱコリント 12:10)」と言うのです。私たちの人生を変え、奇跡をもって働かれる偉大な神様の力を経験した者は、一様に自分に頼ることの愚かを悟ります。不安定な「根拠のない推測」を手に入れようとして、なお落ち込みの中にいることに魅力はありません。自信なんか捨てて「私は、私を強くしてくださるキリストによって、どんなことでもできる」と言いましょう。
「詩篇 33:4 まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。」
考え
高校生講座の中で、人の考えについての授業が放送されておりました。人の話していることには、「事実」とその人の「考え」とが入り混じっているのだ、ということです。当たり前のことですが、とても参考になりました。 そして「考え」はさらに「推測」と「意見」とからなっているということです。論理的に話し合うには「事実」と「推測」と「意見」とが明確に区別されなければ危険です。そうでないと、まだ明確になっていない「推測」や個人的な「意見」がごちゃまぜになって、まるで「事実」であるかのように伝えたり、伝えられたりするからです。全てが「事実」であるかのように伝えて、人に考えを押し付けるということが普通に行われています。ですから、しっかりと理解する必要があります。
区別する
授業では、次のような例を示しておりました。
母「あなたの成績が悪いのは、演劇なんていう非常識なものに夢中だからよ!」
娘「そんなこと…ないよ。」
母「そんなことないことないでしょ!あなたの成績が悪いのは事実じゃない!」
それぞれのことばを『事実、推測、意見』で区別しますと、次のようになります。
事実……「成績が悪い」「演劇に夢中」
推測……「だからよ!」
「成績が悪い」と「演劇に夢中」は事実ですが、その2つのあいだに因果関係があるというのは推測です。
意見……「演劇が非常識」
事実は客観的で確かなことです。一方、“考え”はまだ不確かな推測だったり、人によって意見が違ったりします。
ですから、事実と考えを区別し、さらに何を考えて話し合っていくべきか、ハッキリさせることが必要です。
いかがでしょうか。よく理解できますよね。
事実 神のことば
『事実 推測 意見』がごちゃ混ぜであることは、私たちの信仰にも起こりがちなことではないでしょうか。これらが明確でないばかりに、迷ったり、疑ったり、悩んだりしていることはありませんでしょうか。 まず「事実」とは何かについて考えてみましょう。私たちは、神のことばが真実であると信じています。そして、聖書は神のことばであることを信じています。私たちには、聖書のみことばが「事実」であるとはっきりとわかります。ただ、信じない人には、事実ではありませんから、この点で議論しても噛み合わないことです。「事実」と信じて生きて、そこに現れる結果を証しすることが必要です。証は事実ですから、疑いようなく人に伝えられることになります。 そのような明確な証に生きるためには、私たち自身の心の中に、明確に『事実 推測 意見』が区別されていなければならないのです。
推測や意見の出どこは?
神のみことばの「事実」だけでなく、もし、自分の「推測」や「意見」をまるで事実であるかのように、私たち自身が扱うなら、私たちは敗北してしまいます。
「試験に落ちたので、人に笑われた」・・「事実」
「私は人にバカにされるだろう」・・「推測」
「私はダメなやつだ」・・「意見」
試験に落ちたことや人に笑われたことは実際に起きたことで「事実」であり、ショックなことですが「推測」や「意見」までもが事実であるかのように感じて落ち込んでいることです。このことを信仰の側面から見たときの「事実」とはどのようなことでしょうか。 「試験に落ちたので、人に笑われた」事実に対して、見えない神様の世界における「事実」は「ローマ 8:28 神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のであり、最善がなされているということです。「落ちた」ということと「最善がなされている」ということを併せて「事実」と見なければなりません。そして、自分から出た「推測」や「意見」は皆間違いであることを私たちは知っています。神様から出たみことばによって「推測」や「意見」を持たなければなりません。 「私はバカにされるだろう」の「推測」は「詩篇 23:5 私の敵の前で、あなた(神様)は私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」に取って変えられるべきです。 「私はダメなやつだ」の「意見」は「イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い」に取って変えられるべきなのです。 神様からいただいた「推測」を自分の「推測」とし、神様からいただいた「意見」を自分の「意見」とするべきです。これが、新しく生まれた私たちの、神様とともに考える考え方なのです。
「第一テサロニケ人への手紙 5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」
キリスト野郎
私たちは、イエス・キリストを信じて、クリスチャンになりました。クリスチャン(キリスト者)とは「キリスト野郎」という意味です。イエス・キリストを信じる人々が、あまりにも夢中で、イエス様のことを宣べ伝えているので、それを見た周りの人々が、彼らを揶揄(やゆ)して「キリスト野郎」と言ったのでした。「使徒の働き 11:26 弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」バカにされた呼び方であったわけですが、弟子たちは、そう呼ばれることを誇りとして、彼ら自らも使うようになりました。
クリスチャンとは、イエス・キリストが自らの救い主であることを信じて、その人生を明け渡した者のことです。そして、イエス・キリストを誇りとしている者です。言わば、どこを切っても、キリストが現れる「キリスト野郎」です。
主とともに歩む
さらに、私たちがイエス・キリストを信じたとき、主の御霊が私たちのうちに住んでくださったという事実を私たちは信じています。「ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
そこでさらに、クリスチャンとは、主イエスとともに生きている者のことでもあります。私たちは主の御霊を心のうちに受け入れて、その主に従って生きる者となりました。私たちは、主イエスとともに歩んでいる者です。
主とともに歩むとは、どういうことかを考えてみましょう。もはや一人では生きない、生きていない、ということです。まさに「目ざめていても、眠っていても、主とともに生きる」ということですし、そうでなければならないでしょう。もし「私はイエスを信じるが、イエスとは一緒にではなく、一人で生きています」と言うなら、その人はクリスチャンとは言えないことです。
目覚めても、眠っていても
キリストともに生きるとは、いつでもどこでも、イエス・キリストと一緒に行動していることですし、一緒に感じ考えている、ということです。聖書は、私たちが「目覚めて」いるときのみならず、「眠って」いるときも主と一緒だ、と言っています。このことは、常に私たちの心の中にはイエス・キリストが生きていなければならないということです。
「主が一緒にいてくださるのだ」と考えている人はたくさんいると思います。しかし、ともに歩むとは、一緒に生きるということですから、単にそばにいると感じているという以上のものであるのです。一緒に寝起きをしていなければなりませんし、一緒に勉強したり、働いたりしているということです。それだけではありません。一緒に感じたり、一緒に考えたり、一緒に思い巡らしたりしていることです。眠るときも一緒に眠る(主は眠ることがないので、そばにいていただいて眠る)ことになります。では、このようなことが現実的に可能なのでしょうか。
主従の関係に生きる
まず私たちが自覚しなければならないことは、イエス・キリストは、私たちが必要なときに思い起こすだけの方ではなく、心のうちに迎え入れた「主である方」だということです。つまりはこの方に服従して生きることが、私たちの新しい生き方となったのです。このようなことをお話しすると、人によっては、これが窮屈と感じると言います。しかし、そうでなければ、私たちはイエス・キリストと何の関係もない者だと知らなければなりません。
窮屈と感じる人のほとんどは、「主イエスを信じます。しかし、悪魔の言うことも捨て切れません」と言っている人です。そのような場合でも、一旦決意をして、ちゅうちょなく、すべてを献げることを心に決めるとき、難なく解放されて、その人は自由になります。窮屈ではなくなるのです。「キリスト野郎」は自由です。
主イエスに従って、目覚めます。主イエスに従って、勉強したり働いたりするのです。そして、主イエスに従って、考えます。主イエスに従って、感じます。主イエスに従って、将来を思い巡らします。このように不可能のない神とともに生きるのがクリスチャンなのです。
「そうできるのだからそうしよう」というのではありません。「そうしなければならない」のです。描けるまで、煮詰めるのでもありません。今、そうするのです。今、心のうちにキリストがおられる映像がなければなりません。それがクリスチャンなのです。
今まで、そうしてこなかったという人は、悔い改めてください。それは主従の関係を無視した、主に対する反逆の罪なのです。あなたに罪の自覚があれば、これからのあなたの生き方は変わります。主とともに歩むということは「すれば良い可能なこと」なのではなく、「しなければならないこと」と理解しているからです。
服従してください。あなたの人生に奇跡が起こります。
「箴言 16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」
ことばとイメージ
心の中に、想像によって映像(イメージ)を描くことをビジュアリゼーションと言います。将来のなりたい姿、達成したいことなどを思い描くことが、行動を促す大きな力となります。 人間の心の仕組みとして、心に思い描いた通りに、将来が実現されて行く、という傾向があります。そこで、目標を具体的に映像にして、あらかじめ、心の中に実現した様子を描くことが、人々の間で試みられています。 運動会で100メートル走で優勝している映像を描こうとする時には「私は、今度の運動会で、100メートル走で優勝している」というつぶやきが心の中に同時にあります。このようなことばの説明は、普段何かを想像する時にも、必ず存在しています。「この仕事をどのようにして、片付けようか」と考えている時には、必ずそのイメージとことばの両方が、心の中にあります。 人はことばではなく、映像で考えていると言われていますが、ことばはその映像を説明するために、あるいは誘導するために、必ず必要とされます。 体験や印象が心の中に記憶として残るためには、そのインデックス(名札)としてことばが必要です。ですから、まだことばを話せない乳幼児期の記憶は、私たちの中に確かに存在していても、ほとんど思い出すことは困難です。つまりインデックスがないので、探し出せないのです。たとえば、赤ちゃんは、お腹が空いたり、オムツを汚したりした時、泣いて知らせます。ところが、その時、極端に長時間放って置かれると、捨てられたという感情を抱くことがある、と言われています。そのような記憶は、ことばを知らない時のことなので、思い出す事は困難です。そのような経験があると、物心がついてからの孤独の経験はなくても、極端に孤独を恐れる大人となってしまう人もいます。 このように、イメージはことばによってコントロールされますから、何かを思い巡らす時には、ことばによる説明が伴います。
強力な力
ところで、自分の考えでは本当は正しく生きたいのに、どうしてもしたくないことをしてしまう、と感じる事はありませんでしょうか。「今度からは、勉強をしよう」と考えています。自分の口でも心でも強く言い聞かせました。でも、あまりその決意が続きません。なぜなのでしょうか。「勉強するぞ」とことばで言い聞かせても、その後、心の中に続く映像が、テレビを見る楽しさや、ゲームをする楽しさであるなら、必ずそのイメージしている事柄が、行動に移されていきます。いくら強く言ったとしても、一時的なことばの力よりも、無意識ながらも、連続的に想像している映像の方が幾倍も強いのです。「イメージは意志をほとんど破壊する」と言えるほど強力です。 ですから、このような場合、心の中のイメージが、連続的に勉強している事を描けるようになるまで、ことばで支え続けなければならないのです。テレビを離れて、勉強している姿、ゲームをしまって勉強している姿を心の中で楽しんで見続けるまで、「勉強するぞ」は実現しません。
確かでないこと
さて、このように心に「思い巡らす」事が、私たちの人生において、目標実現のために必要な事なのですが、聖書は「確かなものにするのは主である」と言います。つまりは、いくら心に思い巡らしてもダメだ、と否定されているのです。なぜなのでしょう。 世の中の人々が考えているほど、人間の仕組みは単純ではありません。それは人間は罪人であるという事です。罪というものは、私たちの行いや、考え、思いの中に染み込んで存在しています。ですから、純粋に良い事をしたいと考えていても、必ずそこには罪の思いが染み込んでいます。罪の思いは、自分や人を傷つけ、破壊するものです。そして、私たちの意志とは別に、イメージの中にうごめいているのです。 わかりやすく言うと、私たちが純粋だと思う動機の中に、よこしまな考えが侵入して来るのです。「これを達成することで、人から称賛を浴びて、自分を見下してきた人たちに思い知らせてやりたい」などという思いです。人をさばき、人に仕返しをしたい、という思いが潜んでいたりするのです。あるいは、社会に貢献したいと願いながら、実際は無意識にも、人が自分を崇めることを望み見ていたりします。このようなことですから、何かを成し遂げても、それが自分や家族や周りの人々の幸せにはつながらないことが多いのです。
神の国のビジュアリゼーション
ということで、人が「心に自分の道を思い巡ら」しても、その通りにはならないと、神様は言われます。私たちの人生を「確かなものにするのは主である」ことを知らなければなりません。では、どうすればよいのでしょう。私たちの心に、ビジョンを思い描くことは、許されないのでしょうか。私たちが心に願いを持つことは、神様が私たちに許された私たち人間の仕組みでもあるのです。「ピリピ 4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とも言われています。 私たちが、救われたのは、私たちが主イエスを信じて、受け入れたからです。自分自身を主の支配にささげました。ですから、私たちの人生の歩みは、常に主とともにあることを知ることです。 私たちが、将来を描くとき、ビジョンをそして日常の願いを描くとき、そこには常に主とともに歩んでいることを描かなければなりません。主ととも達成している姿を描くことです。主とともに勉強をしている姿のことです。主とともに達成している姿のことです。主とともに社会貢献を果たしている姿です。 その達成の誉れは自分ではなく、主であるべきです。そこには罪が入り込む余地はまったくありません。必ず、主によってコントロールされている姿が描かれ続けることになるでしょう。困難な道のりも、恥に向かう必要のある道も、罪によって妨害される道であっても、主によって「確かなもの」にされて行く様を描き続けることをするからこそ、実現可能な人生が待ち受けているのです。 いつも、主とともに何かをなしている自分を、想像し続けて参りましょう。
「黙示録 3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
主の負ってくださったこと
主イエス・キリストの人生の歩みと十字架の死は、まことに悲惨なものでありました。イエス様には「イザヤ書 53:2 私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえも」なかったのです。神でありながら、私たちと同じように(罪は別にして)地上を歩んでくださいました。私たち罪人の味わう苦しみを身を以て経験してくださったことです。そして「同 :3 さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知って」くださって、辱めを受ける人生を歩んでくださったのです。十字架の上では「人が顔をそむけるほどさげすまれ」てくださいました。 すべては、私たちのための身代わりであり、本来、私たちが受けるべき恥を受けてくださったことです。私たちが十字架を見上げるとき、そこには、私たちの代わりに辱めを受ける主の姿が見えるのです。十字架は私たちの恥のそそぎがなされている場所なのです。
罪と恥
私たちは罪人であり、罪とは、人間としてしてはならないという違反を犯したことです。ですから、罪人とは、してはならないことをしてしまった恥ずかしい者ということです。つまり、主イエスは、私たちの罪を負って十字架に死んでくださることによって、罪の恥を受けてくださったことです。 想像してください。罪がないのに、罪人とされていることを。皆が十字架を見て、あざけっているのです。その(我々の)恥を一身に受けてくださっているわけです。 また、罪として裁かれることではなくても、恥ずかしいことは、いくらでもあります。失敗をすることは、私たちにとって、恥です。破産や離婚は、人々からの辱めの視線を受けることになります。主は、私たちのすべての恥を一身に負ってくださっていることを知らなければなりません。 私たちが罪や恥の思いを感じるなら、そのときに、その所から、主の十字架を見上げなければなりません。「自分のこの罪のために、主は十字架の辱めを受けている、自分のこの恥のために、主は十字架の上て、辱めを受けている」ということを受け取らなければなりません。もし受け取らないならば、もう一度主を十字架につけることになります。「ヘブル 6:4-6 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
恥の中心で勝利を叫ぶ
恥に勝利するために、私たちがするべきことは、ただ恥に対して面と向かうことです。逃げないで、自分の恥を認めること、自分の恥を見つめることです。 よくある誤解は「クリスチャンは、恥に勝利しているのだから、恥があっても、その恥に面と向かって、ものともしないで前進をしていくのだ」というものです。恥に打ち勝つことは、恥に耐えることではありません。 恥に打ち勝つのは、私たちではなく、イエス・キリストです。私たちはそれを信じて、受け入れるだけです。そのためには、自分には恥があることを、逃げないで認めなければなりません。一旦恥ずかしい思いの中に、立つことです。この恥を感じる中で、主イエスの十字架を見上げることです。 この恥を一身に受けて、十字架の上で、さげすまれながら、苦しんで死につつある主の姿を見なければなりません。それはみな、私(私たち)の受けるべき身代わりなのです。主の十字架を見上げて、私たちがわかることは「私の恥は、いま、そそぎを受けている」ということです。つまり「私の恥は終わった」のです。 私たちは、全面的に感じるこの大きな恥の中、さげすみの中で「私の恥は注がれた」と勝利を叫ばなければなりません。
「エゼキエル書 39:26 彼らは、自分たちの地に安心して住み、彼らを脅かす者がいなくなるとき、わたしに逆らった自分たちの恥とすべての不信の罪との責めを負おう。」
思い出したくないこと
人間は、誰でも、悲しい出来事、苦しかったこと、などについて思い出したくないと思うものです。しかし時が経過して、その辛い思い出が懐かしいことや笑い話になるということもあります。時が解決するということです。 しかしながら、同じ思い出したくないことでも、自分の犯した過ちや恥ずかしいと思う出来事に関しては、いつまでたっても、逃げ出したくなる感情が消えることがない、ということもあります。 私の場合、悪いことをしてしまったということで、責められることはそれほどありませんでしたが、「恥ずかしいことをしてしまった」ということについては、その記憶がふとよぎる時、強烈ないたたまれなさに襲われました。 新入社員であった19歳のころ、会社の課で一泊の社員旅行がありました。バスで、それぞれの集合場所から順次乗って行くのですが、私は本来集合するべき場所に集合しないで、勝手に別の場所で待っていて乗り込んだのでした。そのときは、特に厳しく怒られもしませんでした。しかし、あとで聞かされたことですが、現場では、心配する声や怒る声が上司や先輩たち(おじさんおばさん)の間で、飛び交っていたということです。「こんなちっぽけな自分のことを誰も気にしないだろう」という思いで、いつもとは違うことをしたかったので、気楽な思いでしたことなのです。しかし、後から、非常識なことをしてしまったと、強烈ないたたまれない思いが湧き上がってきました。結局、忘れるということで、その「恥」に封をしました。しかし、今でも、思い出せば、強烈ないたたまれない思いが、襲い掛かることです。
恥が行動を決定づける
「罪」や「恥」ということばが聖書にたびたび登場します。いずれも、思い出したくない事柄ということになるでしょう。 今週は「恥」について考えてみたいと思います。「罪」に責められる場合、悔い改めて赦しを受け取ることが必要だと、多くの方は理解されていると思います。しかし恥についてはどうでしょう。実際の問題として、「恥」から人は逃げているのではないでしょうか。「恥」が人間の行動を決定していますし、性格を形作っています。 たとえば、不合格になったとか、うまくやれなかった、成績を残せなかったとかは、罪でないでしょう。しかしそのような場合にも、「恥」は付きまとうのです。「恥」とは、神、人、自分からの視線に耐えきれないという思いです。 「人が悪く思っているのではないか」という思いは、私たちのやる気を簡単に壊していくことになります。私も、時々休んでしまう定期の会合がありますが、そこに出かけるときには、結構勇気がいるものです。恥じているわけです。会社や学校で、失敗をすれば、そこに行きたくなくなるでしょう。ある人は逃げ出します。他の道を探すかもしれません。このように「恥」は、私たちの行動を形作っています。
人生を生きるとは恥に向かうこと
ここで、私たちの本音について考えてみたいと思います。私たちは自分の本音は「行きたくない」だ、だから行かないのだ、と考えているかもしれません。「他の道が好き」なのだ、だから他の道を探すのだ、と考えるかもしれません。しかし本当のところは、目の前にある「恥」に打ち勝って、それを乗り越えて前進したいのだ、という思いなのです。つまり、この敗北感を打ち砕いて、勝利して生きていきたいのだ、ということです。 「ダメなやつだ」「何しに来たのだ」という視線をものともせず、そのような人々を愛しつつ、自分のやるべきことを、淡々とやってのけること、それが自分の願いなのです。ところが、それに敗北をしてしまっているので、逃げ出したいわけです。「勝てるものなら、勝ちたい」というのが本音ではありませんでしょうか。 人生を成功裏に生きるとは「恥」に向かう連続であると言えます。恋愛や結婚を成就させることも「恥」に向かい続けることが必要です。勉強して成績を上げるにも、合格するにも、人の視線に影響されないで、淡々と勉強に集中することが必要でしょう。仕事で成功するためには、失敗やクレームに対して、コツコツと挽回することが必要です。「恥」から逃げないということです。 「恥」に向かわなければ、学校にも、会社にも行けないのです。また、家庭や家族の回復のためには、拒絶されたらどうしようという「恥」に向かわないと、何事もできません。 このように、生きるとは、結局「恥」の方向に向かうことです。それ以外は逃げることなのです。
恥とは何か
結論から言いますと「罪」とは、許可されないことをしたという「行為」に関するものです。一方「恥」とは、期待したことを満たせなかったという「失敗」に関するものです。「罪」は「行為」が責められるのに対して、「恥」は「存在」が責められているということです。ですから、いたたまれなくなります。「できない存在、情けない存在、悪い存在」ということです。 また「罪」からも「恥」が生まれます。「あんなことをしてしまった、恥ずかしい存在」という視線によってです。「恥」の感情は、私たちの存在を否定するものですから、いたたまれなくなりますし、逃げ出したくなるのです。 「恥」の問題に解決を与えてくださるのは、イエス・キリストであることを知らなければなりません。いたたまれなくなる感情、逃げ出したくなる感情、がよぎるとき、イエス・キリストの十字架を見上げることです。イエス様が、苦しんで、死んでくださったのは「私の恥のため」であるのです。 イエス様が、身代わりで「恥」を受けてくださいました。「罪」を犯してはいないのに「罪人」と呼ばれてくださいました。「ダメなヤツ、出来ないヤツ、悪いヤツ」とののしられ、あざけられてくださいました。「皆、私が受けるべきことば」であるわけです。 私たちが「恥」を抱えて十字架を見上げるとき、自分の「恥のそそぎ」は済んだのだ、とわかるのです。私たちは「恥」に打ち勝って生きられるのです。「いくらでも恥よ来い」です。「恥」に向かって生きていきます。 「恥」は我がもの、「栄光」は主のものです。
「ルカの福音書 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
何をしているかわからないでいる
イエス様は、私たち人類のために、身代わりの死を十字架上で遂げてくださいました。人は、生まれながらの罪人であって、裁かれて滅んで行く運命にあります。正しい人は一人もいません。「ローマ 3:10 義人はいない。ひとりもいない。」
冒頭の聖句の場面だけに限って言いますと、イエス様は、まさに、十字架を眺めている人々すべての罪を負って、死の苦しみを味わってくださっているわけです。(実際には全人類のためですが)
兵士はイエス様の手首とかかとに釘を打ち付け、十字架につけました。十字架の刑はローマ政府によって実施されたとても重い刑であり、残酷な刑です。重大な犯罪者であっても、ローマ市民権のある者には、適用しなかったほどですが、イエス様の場合には特別に適用されました。人々の憎しみが、それほど大きかったということです。
群衆は、興味津々で見ています。人々の中には、イエス様をあざける者やののしる者が大勢いました。兵士たちは脱がせたイエス様の着物をくじで分け合っていました。かわいそう、気の毒、と思って見ていた人もおりました。イエス様に罪がないことを知っている人々は、泣いておりました。
しかし、誰一人、自分の罪のために、イエス様が身代わりで死んでくださっていることを知りませんでした。それどころか、自分が罪人であることさえ知ってはおりませんでした。そのような人々の上に揚げられたイエス様は、十字架の上で苦しみながら「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。人は自分が何をしているのか、わからないでいる存在であるのです。
自分がわかれば死にたくなる
主の言われた「彼らは・・わからないのです」ということばは、神様には「わかっておられる」ということにほかなりません。神様は私たちの本当の姿を知っています。しかし、私たちは自分の真実の姿を知りません。
十字架を取り巻いている人々が、自分こそが十字架で死刑にならなければならないほどの罪人であることを察すれば、どうでしょうか。おそらく、そんな自分から目を背けるでしょう。忘れようとするに違いありません。
それでも、周囲から本当の姿を突きつけられたら、どうでしょう。とても落胆することです。死にたくなるのではありませんでしょうか。そんな自分自身の真の姿のために、人がしている解決方法は、自分を見ないでいるということです。「大丈夫だ」と見ようとします。それよりも、自分がもっと本来は良い者であることを確認しようとします。こんな自分が辛いからです。目の前にある主の十字架が解決であると知らないのです。
それで主は、自分の真実を見ようとしない私たちに対して「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られるのです。
主の熱心の向かうところ
私たちは、死にたくなるほどの、裁かれて当然の自分を抱えています。この真実の姿をわかっておられる主の思いは、私たちを裁く方向には向かいません。捨てる方向には向かわないのです。むしろ、私たちの真の姿を見つめながら「これをどうやって救おうか」という方向に向かっているのです。
放っておいては、滅んでいきます。その罪はひどく、正しい人は一人もいません。神様の熱意は、ご自分が罪のない人となり、十字架上で死ぬという行為に現われました。
十字架の周りの人々が、自分こそ死刑だという自分の本当の姿を、否応なしに突きつけられたとしたら、いたたまれなくなる、死にたくなるでしょうということでした。しかし、そのことを突きつけられた人々が、目の前の主の十字架が、自分のための身代わりであることを知るなら、どうでしょうか。そこに生まれるのは、死にたくなる思いなどではありません。真逆の、安堵と感謝の思い、生きる希望であるのです。
どうか知ってください。人間とは、死にたくなるような自分を抱えて生きているものなのです。そのような私たちに真の解決を与えるものが、イエス・キリストの十字架なのです。
私たちが、死にたくなるほどの真実の自分を知って、十字架を見上げるとき、そこに湧き上がるのは「私のこの罪が処罰された(済んだ)」という思いです。自分の罪のための十字架と信じて受け入れると同時に「赦し」を受け取ります。あなたはもはや裁かれることはありません。責められることもありません。逃げ出す必要は全くないのです。
自分の真実の姿は、変わらずに、そこにあります。以前はそれを見ると死にたくなるのでした。今は全く違います。感謝と生きる喜びが湧き上がっているのです。逃げないで自分を見られるようになったことを感謝するでしょう。
人間には二種類あります。罪赦された罪人と、まだ赦されていない罪人です。私たちは赦されました。こんな自由はありません。だから人にも知らせたいのです。
「エレミヤ 6:13-16 『なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、<平安だ、平安だ>と言っている。 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる』と主は仰せられる。 主はこう仰せられる。『四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは<そこを歩まない>と言った。』」
平安がないのに平安だ
主は民に対して「みな偽りを行っている」と指摘します。「忌みきらうべきことをして・・少しも恥じず、恥じることも知らない」のが民の現状でした。「身分の低い者から高い者まで・・預言者から祭司に至るまで」すべての人々が偽りを行っていました。
彼らは、不真面目に生きていたわけではありません。皆一様に宗教的には真剣に生きていた人たちでした。礼拝もしておりましたし、献金もしておりました。律法も規則を決めて、厳しく守って生きていました。
彼らの問題は「平安がないのに、『平安だ』」と言っていたことです。彼らは本当の自分を見つめることなく、自分を恥じていなかったのでした。イエス様は「マタイ 23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」と言われました。
私たちはどうでしょうか。自分を恥じているでしょうか。一般的には「自分を恥じることなどない」と教えられることが多いと思います。もしかしたら、あなたもそう思うかもしれません。恥を感じる自分に対して、「大丈夫だ。大丈夫だ」と言い聞かせているのではないでしょうか。それは「平安がないのに、『平安だ』」ということではないでしょうか。
手軽にいやす
預言者、祭司自身に偽りがありましたが、それでも、偽りの行いや心のある民に対して、彼らは「大丈夫だ」と手軽にいやしを与えていました。それは、人々の心の本質に迫ろうとはしなかった、ということです。自分自身の心についても、表面だけの取り繕いで生きているわけですから、当然、民一般に対しても、鋭く本質に迫ることはしようともしませんでした。本当の自分を、素直に、真面目に見つめることからは目をそらせました。悔い改めて、主に従うところに立ち返ろうとせず、形式的に祈り、希望を語り、「大丈夫だ」と励ましていました。そして「平安だ、平安だ」と確認し合っていたのです。
私たちはどうでしょうか。手軽ないやしを求めてはいませんでしょうか。自分の本質、本当の姿に迫ることなく、ただ、励まされようとしてはいないでしょうか。そして「平安だ、平安だ」と言ってはいないでしょうか。「平安がないのに」です。
私たちに完全な平安をもたらすものは、根本的な解決です。それは、私たちの本当の姿、本質に迫るものです。私たちが「恥」を感じる方向に向かわねばなりません。イエス・キリストは、私たちの罪に対して完全な解決を与えてくださいました。
四つ辻に立て
主は「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」と言われました。「四つ辻」とは、道の重なるところであって、どの道に進むか判断をする分岐点でもあります。主が言われているのは、どの道が正しい道であって「幸いの道」であるのかを知れ、ということです。しかもそれは「昔からの通り道」であって、人々が知っている、変わらない道であるのです。彼らは、自分自身の本質を知って、へりくだり、神様に服従する道を歩まねばなりませんでした。偽りを捨てて、主を恐れる道を選ばねばならないことでした。
「四つ辻」に立つとは、本当の自分を認めるところに立つことです。逃げないで、自分の愚かさ、汚れ、無能、愛のなさ、醜さ、を見なければなりません。そうすれば「手軽にいや」される道ではなくて、根本的にいやされ、解放される道を歩む必要のあることがわかるのです。しかもそれは、忘れてはいても、本当は知っている「昔からの通り道」であるのです。クリスチャンなら誰でも、以前には、イエス・キリストを信じるという、この道に一歩踏み出す決意をしたことがあったのですから。
ここに立って見える景色
本当の自分に迫る、本当の自分を認める、ことが「四つ辻」に立つことです。ここに立って、はじめて、「幸いの道」「昔からの通り道」が見えるのです。今までは、自分を良く見ようとしてきました。それは「手軽にいや」すことでした。しかし本当の自分を見るとき、恥だらけのものであることに直面させられます。
考える以上に汚れています。罪は深刻です。偉そうに言ってはいても、本当は簡単なことでさえ、続けることができない無能者です。自分を犠牲にして人に与えることなど、できた試しがありません。見れば見るほど、恥ずかしくなります。落ち込むのです。
しかし、ここに立ってはじめて、進むべき道が見えました。この道の先に、イエス・キリストの十字架が、見えるのです。本当の自分の姿の先に、本当の自分の姿を透かして、イエスさまの十字架が見えるのです。「ああ、こんな者のために、主は、身代わりの罰を受けてくださっている」、「ああ、私の偽りが、罰せられているのだ」とわかるのです。「ああこの道は、主の私に対する熱心が、注ぎ続けられている道なのだ」とわかるのです。「ああ、私は愛されている」。
「Ⅰコリント人への手紙 13: 7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
聖会感謝
聖会の恵みを感謝します。先週、8月13日、14日の両日に聖会がありました。今回は今治で行われ、たくさんの兄弟姉妹の参加がありましたこと、心から神様に感謝します。
大変な渋滞の中、予想をはるかに超えた長い時間のバスの旅となってしまいました。が、皆さんは大変な思いをしつつも、恵まれてくださったことでした。
また、バス代は無料での計画をさせていただき、神様が全てを満たしてくださると、ささげつつ、祈ってきました。そして、バスの中で献金を募ることを計画していましたが、神様に、思いとどまらせていただきました。皆さんにご理解いただき、聖会のために、ささげることに集中させてくださった主に感謝します。今後、バス代については、募ることはありませんが、神様が満たしてくださいます。感謝します。
次の日(土)には、仕事に出かけなければならない方もおられました。神様の守りとさらなる恵みがありますように、お祈りさせていただきました。
愛はあきらめない
聖会のタイトルは「愛はあきらめない」でした。講師の大川先生が、3回にわたって語ってくださいました。先生の長年の経験から、お話をしてくださいましたが、伝道の姿勢を強く学ばされたことです。
掲題のみことばは、リビングバイブルでは「Ⅰコリント 13:7 だれかを愛する人は、どんな犠牲をはらっても、誠実であろうとするでしょう。 また、いつもその人を信じ、その人に最善を期待し、いのちがけで、その人を守り抜くでしょう。」と訳されています。「どんな犠牲を払っても」「いのちがけで」、「人を信じ」「守り抜く」のが愛であるのです。
「犠牲を払」うということが、キーポイントになります。さらに「どんなことがあっても」ということがキーポイントです。多くの方は「愛したい」と決意されたことがあると思います。しかしながら「どんなことがあっても」というときに、その思いは続かないという経験もされているのではないでしょうか。本当の「愛」は「あきらめない」のならば、どのようにしてそれを見出せるのでしょうか。
愛がわかる
聖書は、私たちには愛がわからないのだと説明しています。そして、神様が私たちに、私たちを愛していることを示してくださって、それで私たちに愛がわかるようになったのだ、と言います。「Ⅰヨハネ 3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
イエス・キリストが、私たちのために、十字架でいのちをお捨てになったことを知って、初めて、愛がわかるのだということです。神様がなさってくださったことを、私たちは明確に知らなければなりません。
罪人である私たちは、もともと、裁かれて滅んで行くしかない者です。「ローマ 6:23 罪から来る報酬は死です。」しかし、イエス・キリストは、私たちの身代わりとなり、その罪を負って十字架に死んでくださいました。ここにある神様の熱心を知らなければなりません。この神の熱意が、自分に注がれていることを知るとき、私たちは、自分が愛されていることを肌で知るのです。愛されていることを知った者は、その知った愛によって、人を愛することができます。それが、あきらめない愛なのです。
透けて見える十字架
私たちが、本当の自分を知るとき、その思いは常に、「こんな自分」ということです。知れば知るほど、誇るものは何一つない、と本当にわかります。と同時に、神様が自分を知っているのは、この「こんな自分」なのだということがわかります。そして、「こんな自分」を裁こうとしているのではなく、かえって救おうとして、ここに熱意を注いで下さっているということが、わかるのです。
ある人は、自分の愚かさをほとほと認識させられるでしょう。ある人は、自分の汚れを思い知らされるでしょう。ある人は、自分の恐ろしさを見させられるでしょう。今までは、このような事実は、他の例えば、自分を励ます思い「大丈夫だ」「愛されている」「こんなのでもいいのだ」という思いで、自分を守ってきたことではありませんか。ときには聖書のみことばで、励ますことによって、本来の自分を見ないで、すませてきたのかも知れません。
しかし、この絶望するしかないという自分の姿を、認めるところに立つことでしか、見えない景色があります。「こんな自分」を「どのように救おうか」「どのように祝福しようか」と心を砕いておられる主の姿を、本当の自分を見るところに立って、初めて見ることができるのです。
自分の惨めな姿の先に、イエス・キリストの十字架が見えます。その光景は、主が「どのように救おうか」「どのように祝福しようか」と私に対して注がれている主の熱意なのです。それを見るとき「私は愛されている」とわかるのです。
「マルコの福音書 10:43-45 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
仕えるために来られた主
イエス様は、ご自身が来られた目的は「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであ」ると言っておられます。神であられる方が、来られたのですから、人々がこのお方に仕えようとしても、なんら不思議ではありません。イエス様がろばの子に乗って、エルサレムに入城されるときに、人々が「ホサナ」と言って神様をほめたたえました。これは人々が止むに止まれぬ行為として、自然にしたことであって、イエス様に対しては、当然の行為でした。イエス様は本来仕えられるべきお方でありました。
しかし、イエス様の目的は、「仕えるためであ」ったのです。私たち人間に仕えてくださり、私たちを助けてくださるお方、助け主として、主は来られました。
私たちは主に仕えていただけるという不思議な立場に置かれました。そして、仕えていただかなければならない存在であるということを理解しなければなりません。
助けられなければならない
人は自分で自分を救うことはできません。イエス様は弟子たちに「マルコ 10:27 それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」と言われました。私たちは神様に全面的に助けをいただかなければ、立ち行かない存在です。
人の問題は、神様から離れていることです。だからと言って、人が神様に近づけば解決するのかというとそうではありません。私たちの罪という、神様との間にはだかる壁は、私たちが解決できる問題ではないのです。ですから「ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ません。
イエス様が弟子たちに言われたのは、人が救われるのは、神様の助けによってでしか、できないことなのだということです。
仕えるというリーダーシップ
私たちは主に導かれて、正しく力ある道を歩まなければなりません。主が私たちを導くそのやりかたは「仕える」という方法なのです。人を導くということを考えるとき、私たちが普通思い描くのは、上に立つ人があれこれ指図している様子です。しかし、そのように主に指図されても、私たちには主の言われることがひとつもできない、という現実があることを認めなければなりません。「それは人にはできないこと」なのです。
自分の力で、正しい行いをすることができませんし、愛することができませんし、きよくなることもできません。救われないのです。かえって、主に仕えていただいて、私たちは自分の罪を自覚することができますし、自分の限界を知ることができます。私たちの高ぶりは元々そのようなことは認めないからです。主に仕えていただいてはじめて、悔い改めたいという思いが生じます。
また、主の御霊は、私たちの内に住まわれて、私たちに仕えてくださいます。救われるために助けが必要であったように、クリスチャンとして主に従って歩むためにも、助けが必要です。今もなお、主に仕えていただかなければ、何ひとつできないものであることを自覚し続けることが必要なのです。
主が私たちを通して働かれるためには、私たちにへりくだりが必要なのですが、そのへりくだりでさえ、主に仕えていただかなければ持てないことです。
仕えさせて欲しいという主の願い
私たちは、この人生の中で、悩んだり、わずらったりします。必死で、この苦しみの中から、抜け出ようとします。そのために、信じようとしたり、努力したり、学んだりするわけです。それが、神様を信じる者の生き方であると思ってです。しかし、主は私たちに「仕えるため」に来てくださっているのです。
思い悩むことを、ひとまず止めて、想像してみてください。主はあなたに仕えたいと望んでおられるのです。もがくあなたの前で、あなたに仕えようと、膝を折ってくださっている姿を。
「どうして、わたしに仕えさせないのです。」「どうして、自分で主導権を握ろうとするのですか。わたしはあなたに仕えるために来たのです。」「わたしに任せることはできませんか。」と、言われています。主に明け渡す必要はありませんか。
「使徒の働き 4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 」
自由であること
聖書は「Ⅰヨハネ 3:21 もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ」ると教えています。大胆でありたいならば「心に責められ」ることがないことだということでもあります。つまり、心が自由であることが求められているのです。心が自由であれば、神様の前でも大胆でいられます。
心の中にある責める声とは「私はダメだ。求める資格がない」「祈っても無駄だ。聞かれるはずがない」などの声のことです。「叶えられたい」「信じたい」とは思っているのですが、すぐに別の声が、自分を縛り、信仰の思いを壊すのです。したいことができていません。自由ではないのです。何者かに囚われているのです。しかし、心の中に「反対の声」「虐げる声」がなければ自由に信じることができます。
大胆であること
人々は、ペテロとヨハネの大胆さを見て、それは彼らの特別な知識から来るものだと思いました。今まで聞いたこともない、イエス・キリストの救いについての説明を彼らが大胆に語っていたからです。
ところが、ペテロとヨハネが、特別な学問もない「無学な、普通の人」であることが分かって来るに従って、驚きが強くなりました。「無学なのになぜ大胆なのだ」ということです。ペテロとヨハネが、自分たちの話していることに熱意をもって、燃えて話していたからです。ようく学んで、ようく知っているかのごとくであったのですが、実は「無学な、普通の人」であるということが驚きでした。それほど彼らが大胆であったということでしょう。
イエスとともにいた
驚いた人々が、知ったことは、彼ら「ふたりがイエスとともにいた」ことでした。彼らは、イエス様が捕らえられ、十字架につけられた時には、逃げ出しました。しかし、今、復活のイエス様とともにいて、大胆に語っていたのです。
彼らが、美しの門の前にいた足の悪い人を癒したことで、騒動となって人々が集まってきているのです。しかし、その奇跡は、彼らとともにいたイエスのみわざであると、彼ら自身が知っていました。イエス様がいない時には、大胆にはなれませんでしたが、イエス様がともにおられる時には、大胆になれたということです。
彼らが、復活のイエス様とともに歩みだして、祈りのために会堂に向かう時に、足の悪い人を見て、大胆でした。「使徒の働き 3:6-7 ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、彼の右手を取って立たせた」のです。それから、今、群衆に向かって大胆に、イエス・キリストについて話しているのです。彼らとともにイエス様がおられることを、彼らは知っていました。
愛することが責められないこと
Ⅰヨハネの3章においては、心に責められる原因について、人を愛していないことがあるからだ、と教えています。人々を愛するなら、私たちは心に責められることがありません。私たちは自由です。周りの人に何はばかることなく、自由に振る舞えるのです。そして、神様の前に大胆に出ることができ、求めるものはなんでも神からいただくことができる(Ⅰヨハネ 3:22)のです。
ペテロとヨハネの大胆さは、イエス様の愛から発せられています。あわれみによって、人々を癒したい、人々を滅びから救いたい、そのような眼差しで、人々を見ているのです。敵対し、構える姿勢からは、大胆さは生まれません。愛している、責められることのない、自由な心から大胆さは生まれます。
「ヨハネの福音書 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
自由とは
一般的に、自由とは、自分がしたいようにできる状態のこと、だと理解されています。自由に言いたいことを言い、行きたいところへ行けます。好きな仕事を選び、生きたいように生きることができます。もちろん時間的に経済的に、あるいは能力的に制約はあります。それでもそれを満たして、なお、したいことを実現することができること、これが自由です。
人生が思い通りになる、というのとは少し違います。人の権利を守りつつ、自分の権利も守られて、そのルールの中で、自分のしたいことができる、これが自由です。「まあ、その気になればできるけれど、そこまでの努力はしたくないので、しない」と思って生きているなら、これも本音なら自由であると言えるでしょう。
とにかくしようと思えば、時間がかかっても、困難があっても、実現できること、これが自由の条件です。このような条件の中に生かされている私たちですが、本日は心中の自由について考えてみましょう。
心の自由
人々は、心の中は自由だと考えます。お金がなくても、どこにも行くことができなくても、人から相手にされなくても、想像力を働かせて、心の中では自由に世界を飛び回ることができる、という具合です。確かに自分の考えたいように考え、自分の感じたいように感じる、想像の世界ではそれができます。しかし、それができるのは、邪魔する別の考えがない、ということが条件となります。あるいは、あっても、その邪魔する考えを退けて、想像し抜くことができるなら、ということになります。
いわゆる、想像の翼を広げて、人がなんと言おうと、自分がなんと思おうとも、それをやめることなく、想像を楽しむことができることが、自由です。そういう人は、やがて、その体験を本に書いたり、あるいはその想像に励まされて、やがては、それを現実の世界で実現する、というような実を結ぶかも知れません。自由であるということは、何か幸せな結果を生み出すのです。
心が自由でない
しかしながら、心は自由であることを誰もが認めながら、実際、心の中が一番自由ではないのです。想像の世界でさえも、馬鹿らしく思えたり、人から馬鹿にされたりすると、続けることが困難です。邪魔が入るのです。「もうこんなバカげた考えを持つのはやめよう」となります。また、特にこどもの頃は、自由に想像力を駆使して、その中で楽しむのですが、成長するにつれて、それをやめてしまうのが普通です。「もう大人なんだから、こどもじみたことを考えていてはいけない」と想像をやめることが大人の自覚となります。
しかし、心の中は自由だ、と言うならば、邪魔するものに打ち勝てなければなりません。イエス様は「ヨハネ 8:34 罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言われました。人が自由でないのは、人の罪の結果であるということです。
実際に私たちは、心の中に生じる邪魔に縛られています。「信じたい」と本気で思うのに、他の考えに邪魔されて、信じ続けることができないでいたりします。「主は必ず私をいやしてくださる」と本気で信じたいのです。しかし、現状を見ると、その思いが簡単に崩れ去ってしまいます。「愛したい」と思うのに、心の中に「拒否されたらどうしよう」という思いが来るだけで、愛する思いに陰りが生じます。結果が出る前に、敗北を受け取るのです。
心が自由であるならば「主が、私の前に立たれ、手を延ばしてくださり、触ってくださり、私はいやされる」と考えます。そして「いやされなかったら、どうしよう」と邪魔が入りますが、それでも「いや必ず治る」と邪魔をかき分け、主に触れようとしている自分を想像し続けます。それができることが、自由であることです。
「愛したい」と思いました。「嫌がられたらどうしよう」と邪魔が入ります。それでも「私は、純粋に、この人に愛を与えよう。犠牲を払って、この人に仕えるのだ」と考え続けます。実際に迷惑そうな、態度を取られました。かえって、意地悪で返されました。「もう愛してなんかやらない。やっぱり無理だ」と心の中にも邪魔が入ります。それでも「どのように愛そうか」とストーリーを考え続けることが、自由であるならできるのです。
答えはキリスト
「ヨハネ 8:36 もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」と主は言われました。奴隷であることは罪の結果ですから、私たちは自分で自分を自由にすることはできません。自由になる方法はなく、自由を与えてくださる主に人生を明け渡して生きなければなりません。
信じるとは、明け渡すことです。信じたときにそのように告白しました。もし完全に明け渡していないなら、信じたくないという思いがあなたの中にあることを認めなければなりません。「信じたい」という思いに対して、それを邪魔する敵は「信じたくない」です。
「完全には明け渡したくない」という衣を着た「信じたくない」が潜んでいることを知ることです。
「テサロニケ人への手紙 4:16-17 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
レフトビハインド
「レフトビハインド」という映画を見ました。「掲挙」を題材にした内容のストーリーです。掲挙とは、世の終わりにイエス・キリストが再臨される際に、前もって、信者が天に引き上げられることです。信仰ある者は、天に引き上げられるので、その後の患難を味合わなくてすむと聖書は教えています。
映画や小説では、突然、人々が衣服や持ち物を残して、まるですり抜けて消えてしまうように、いなくなってしまいます。当然、世の中はパニック状態になります。その時、どんな事故が起こり、どんな事件が起こるのか、が映画のストーリーです。クリスチャンが見るには、楽しい映画です。
レフトビハインドとは(掲挙されないで)残される、という意味です。残された不信仰者たちの、それからの行動が小説の内容ですが、映画は、そのほんの最初の部分、初日の出来事を、扱っておりました。
掲挙されなかった不信仰者の中には、牧師もおりましたから、身につまされる内容です。正しく信じる信仰をもって、生きたいものだと思わされます。
映画への反応
聖書からの題材で、作られる映画は、おうおうにして聖書から逸脱するものが多いのですが、この映画は、聖書に忠実に作ろうとしている感じが伝わってくるものでした。
掲挙の時は、突然やってきます。そして、多くの人々には理解されません。しかもそれは、世の終わりに向けての、始まりの時なのです。掲挙の時には果たして、映画のような場面になるのかどうかは、わかりませんが、それは確実に起こることだと、知っていなければなりません。
映画に対する反応で、興味深いのは、見た多くの人が怒っていることです。「宗教の映画だ。」とか「だまされた。」とかの評価が多いのです。主演のニコラス・ケイジに惹かれて見に来た人の中には、宗教を押し付けられたと感じる人もいるようです。聖書に忠実に作れば、このような反応が出るのは、当然かもしれません。が、聖書の内容を曲げないでほしいと望む我々にとっては嬉しいことです。
この映画は直接の福音伝道を目的としてはいないと思います。しかし、娯楽映画を見る人に、福音を知らせたいとの願いは込められていると思います。どんな形にせよ、少しでも福音が届けばと思います。
二種類のクリスチャン
映画を見て改めて思うことは、掲挙されるクリスチャンと、残されるクリスチャンの二種類の人々が存在するのだ、ということです。聖書の通りだから、当たり前のことですが、自分はどちらなのかと考えさせられます。教会の中の人々はどうなのか、と考えさせられます。願わくは全員(私も含めて)、掲挙される信仰を持っていてほしいと願います。
聖書には「ローマ人への手紙 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」と書かれていますから、「イエスを主と信じるなら」という基準です。それでも、なぜ私たちの心は「自分の信仰は大丈夫か」と迷うのでしょうか。確信を持つためには、どのようにするべきなのでしょうか。
忘れて生きている瞬間はないか
聖書のみことばは真実ですし、神様は見えないけれども私たちとともにおられます。生活の中で、このことをすっかり忘れていることはありませんでしょうか。あるいは、あえて考えないで、罪の生活をしていることはありませんでしょうか。私たちの心に生じる迷いは、この罪悪感から発するものであることを知らなければなりません。責められているのです。
答えは簡単です。たとえ自分に弱さがあっても、罪があっても、汚れを感じているとしても、神様とともに歩んでいることを忘れないことです。私たちには神様は見えません。しかし、神様から私たちのことは、ようく見えています。たとえ弱さを克服することができなくても、神様の御臨在と、御目の注がれていることを決して忘れないことです。イエス・キリストは私たちの助け主なのですから。必ず私たちを助けて御心に導いてくださいます。
「主の日」は私たちが忘れている時に突然やってくると言われています。それはいつなのかは、知らなくても、私たちがするべきことは、忘れないで生きることだけなのです。
「ピリピ人への手紙 3:8 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
恵みによって生きる
「こんな者が愛されている」という喜びで生きられることが、恵みです。人は、生まれたときから、愛されるために、一生懸命です。多くの人は、このことが人生の目的となっています。つまり、愛されること、認められること、が目的で生きているということです。
一方、勉強することや働くことは、愛される人生を達成するための手段となってしまっています。本当は、一生打ち込める仕事を見つけて、やりがいのある、充実した人生を送りたいところですが、それも、愛されるために頑張る手段なのです。
本当はしたくないことを、頑張ってしているのですから、辛いことですし、疲れてやる気をなくしてしまうことになります。こんな生活の中から救われました。「こんな者が愛されている」ことがわかりました。「愛されている喜び」が、私たちの中にある怒りを完全に消し去って行きました。元から心の中にありました「やる気」は失われていました。「正しくいきたい」「人の役に立ちたい」「人を助けたい」「人に良くしてあげたい」と思っていましたが、今は「やってられるか」「してあげたくない」「私を認めよ」などという思いが取って代わっているのです。
十字架によって、「こんな者」に愛が届くようになりました。十字架によって「こんな者」が、愛されているという喜びで、生きることができています。愛されて、怒りが取り除かれ、本来のやる気が湧き上がりました。「犠牲を払って、人を愛して生きていきたい」のです。これが恵みによって与えられたことです。
クリスチャンとして生きることは難しいことだ
この恵みがわからなければ、どういうことになるでしょう。確かに、イエス・キリストを信じて、救われました。悔い改めて、信仰の告白をした時には、とても嬉しかったのです。「こんな者が愛されている」とも思いました。
しかし、今、愛されているということは頭では分かるものの、実感が伴いません。いきおい、人に求めることになります。今度は、クリスチャンとして、愛されるために頑張るのです。神様にも愛されようとして頑張るわけです。
何かおかしいと感じるのですが、救われてクリスチャンになったのだから、ふさわしい生き方をしよう、と励みます。本音を言えば、したくないことなのですが、人を愛し、犠牲を払って、神様の働きにいそしもうとします。礼拝だって、奉仕だって、献金だって、交わりだって、一生懸命に励むのです。しかし、大変です。
ですから、そこそこ出来ていれば良い、などと心の中では取引がありまして、「できる限り、自分なりに、頑張ることだ」と妥協するのもうなずけます。
「クリスチャンとして生きることは、難しいことだ」「その難しいことをやっている自分に満足」という思いが本音です。
答えは分かっている 問題はその気になれないこと
「信仰が必要なのはわかっている」「愛さなければならないのはわかっている」「神様に従うことが必要なのはわかっている」のです。しかし、問題はその気になれないことです。
「みんな、こんな大変なことを熱心にやっているのか。何が楽しいのか」とさえ思うこともあります。でも、できるようになれば、とても恵まれる、とも思うのです。ですから、反対しているわけでもありません。クリスチャンなのですから。信仰から離れて、世の中に染まって行きたいとは思いません。
「ああ。どうしたら、喜びあふれる人生を送ることができるのか」と悩んでいます。「どこに答えがあるのか。いや、答えは分かっている」と煩悶します。「祈ることか。訓練か。もっと、成長するために、学ぶことはなんなのか」と探し求めているのです。必死です。
考えすぎなのでしょうか。本当に答えはあるのでしょうか。「クリスチャン生活は、こんなものだ」と割り切ることが必要なのでしょうか。
本当は、恵みを知らないのだ
パウロは、イエス・キリストを知ったすばらしさのゆえに「いっさいのことを損」「ちりあくた」と思う、と言っています。あまりに神様の恵みがすばらしいので、この世のすべてのものに魅力を全く感じなくなった、と言っているのです。
イエス・キリストを信じて得られる答えがここにあります。私たちは、「あれをしてはいけない。これをしてはいけない」という戒めを知ったので、それを守り出したのではありません。神様の恵み(一方的な愛)を知ったので、自分が大切にされていることを知ったので、本来したかった良きことをして生きたいと、進んで願い出したのです。
自分からできていることは、一つもありません。こんな素直な思いに神様がしてくださったのです。
信じてから永い時間が経ち、今さら恵みのことなど、聞けないと思うかもしれません。しかし、今、嬉しくないのであれば、心に怒りがあるのであれば「実際には、神様の恵みをまだ知ってはいないのだ」とへりくだってもいいのではないでしょうか。
繰り返し、お話ししていますが、神様の恵みを受け取るためには、本当の自分を知らなければなりません。神様の恵みは、本当の自分に注がれているからです。恵みは「こんな自分」を知ること、認めることがなくては、分かるわけがないのです。
「こんな自分」に熱心になっておられる主の情熱を知るとき、「ああ。自分は愛されている。自分は大切にされている」ということがわかるのです。恵みがわかるのは、それからです
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)