21.12.26 2021年感謝 愛することの訓練



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「Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」

 2021年も残すところ、あと6日となりました。昨日は、国際センターホールにて、クリスマスコンサート&メッセージが行われました。救い主イエス・キリストが、お生まれくださったことを皆で一緒にお祝いすることが出来た恵みを主に感謝します。クリスマスは、主が私たちを罪から救い出すために、この地上にお生まれ下さったことをお祝いする時です。神は、ご自身の愛するひとり子をささげられるほどに、私たちを愛してくださいました。その神の愛は、今もなお、私たち一人ひとりに変わることなく注がれています。

愛することを訓練させられる場

 私たちは、イエス・キリストを信じて、神は愛であられて、そのお方が私のことを愛してくださっているということを知りました。そして、主が私を愛してくださったように、人を愛したいと願う者へと変えられました。ですが、日常生活での人との関わりの中で、愛したいと願いながら、そう出来ない問題に直面させられることがしばしばあります。第一コリントの13章には、愛について多くのことが記されています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。(Ⅰコリント13:4-6)」とあります。これらのことを行いたいと願う時、「よし、このようにして周りの人に愛を示して行こう」と思って決意をしますが、そのような人間的な努力は、長くは続きません。心にゆとりが持てずに苛立ちを覚えて、人に対して親切に出来なかったり、人のしていることを妬んでしまったり、人がした悪を心に留めてしまうことがあったりします。
 私たちにとって、特に愛することを訓練させられる機会が家族ではないかと思います。夫や妻、親や子どもとの関係は、職場の上司や同僚、学校の友達などの関係よりも深く、お互いの事情をよく知っていますし、言いたいことを何でも言える分、ケンカや言い争いになることも多いと思います。上手くいってる時はいいのですが、一度愛せなくなると、そのことをずっと引きずって頑なな態度をとってしまうことがあったりします。悔い改めて、向きを変えて愛そうとすることがみこころであると頭では理解できますが、いざ謝ろうとすると自分から切り出せなくなってしまいます。

砕かれる時、神の愛を知ることができる

 私たちが、神の愛を知ることができるのは、自分には愛がないこと、愛せないことを身を持って知る時ではないでしょうか。私たちは砕かれないと、なかなか自分自身の問題に面と向き合うことが出来ません。砕かれていないと、「自分は正しいことをしているんだ」と頑なな態度を取り続け、いつまでも人のした悪に心を留めて、その咎を責め続けてしまいます。
 私も、日常生活の中で、「人を愛したいと思ってはいるのに、まったく愛することが出来ていない者だ」と思わされる状況に置かれます。それは、主が私を試しておられることであります。疲れやストレスを感じてイライラしていて、言い争いになったりする時に、すぐにやる気をなくし、人と話すこともしたくなくなり、家族や周りの人のために仕えて行こうと思う愛の姿勢も、神様に求める思いもすべて、簡単に無くしてしまう者だといつも思わされます。それは、主が私の高ぶりを砕き、神の愛を知ることができるようにと備えてくださる訓練の時となります。その時はじめて私は、自分のことを冷静に見詰めるようになり、悔い改めへと導かれます。「相手の咎を責めないで愛しなさい」と語られて、悔い改めて心の向きを変えられます。その時私は、「自分は神様の助けがなければ、神の愛に導かれなければ、人を愛する事などまったくできない者だ」と教えられます。
 また、「この人は苦手なタイプの人だなあ」と感じる人と関わることがある時に、「自分から話しかけたり、近づいて行くことはしたくないなあ」という思いが心に湧いて来ますが、主は「今あなたが一緒にいるその人もわたしは愛している」と語ってくださいます。自分の中で、「嫌だなあ」と感じる思いを正直に認めて主に差し出す時に、「主はこの人のことも、私と同じように愛しておられるんだ」と、主の愛の大きさを教えられると同時に、自分の愛のなさに気付かされます。 私たちは、神の御前にへり下って、自分がいかに愛がない者であるかということを身をもって経験する時に、はじめて神の愛がいかに大きなものであるのかを教えられます。

神の愛によって守られた一年に感謝

 このように私たちは、日常生活の中で愛することを訓練させられる場面が多くありますが、そんな中でイエス・キリストを信じて、主の愛にとどまることができ、主の愛によって守られたこの一年に感謝したいと思います。
 私たちは、腹を立て、苛立ち、人を愛せなくなることがありますが、それでも、主のみことばによって、悔い改めへと導かれ、主の赦しを受け取り、また、人を赦して愛そうと思い、主と同じ方向を向くことができることは、すべて主のあわれみであり、主の私たちに対する愛の導きによることです。私たちは、神の愛がなければ、生きて行くことは出来ません。神の愛から離れてしまえば、人を憎み続け、心にいつも葛藤を抱いて、悶々としたまま生きてしまう以前の人生にすぐに逆戻りしてしまいます。ですから私たちは、いつもへり下って神のご支配の下で生きてまいりましょう。今年のテーマは「神の愛を知ろう」ですが、この一年、神の愛を知ることが出来た恵みを主に感謝します。(岩下 栄作)

21.12.19 よく考えよ



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「ハガイ1:5-6 今、万軍の主はこう言われる。『あなたがたの歩みをよく考えよ。多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。』」

メルケル首相

 今月はじめに、ドイツのメルケル首相が退任しました。これまでニュースなどで氏が語る姿を見る時、いつも冷静でまるで母親が子供にやさしく諭すように、落ち着いて理路整然と語る姿によく惹かれていました。先日報道番組で、氏の友人であり側近でもあった女性がインタビューを受けていました。彼女はメルケル氏について、「こうすれば人々の受けが良いからと急いで決めるのではなく、『最後まで考える必要がある』とよく言っていました。」と話していました。考え抜くことを大切にしていたということです。メルケル氏の重要な決断として、2015年のいわゆる「難民危機」の際に、「助けを求める人たちを保護するのは当然だ」として、中東などから100万人以上の難民を受け入れた政策がありました。結果的にはこの政策が求心力を失うきっかけとなりましたが、メルケル氏はこの決断が好意的に受け止められるだけではないことをもちろんわかっていて、それでも正しい決断なのだと確信していたということです。
 メルケル氏は牧師の家に生まれたクリスチャンで、「神に対する私の信仰は、さまざまな政治的決断を助けてくれる」と言っています。好きな聖書のみことばは、「ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(Ⅰテサロニケ5:21-22)」だそうです。政策についてよく吟味し、聖書に従って神様に喜ばれることを行おうとし、悪を注意深く避けて決断し、主にある信念を持って実行したからこそ、16年もの長い間、自国民からも諸外国からも信頼されて、その政治手腕を発揮することができたのでしょう。
 インタビューを聞き、メルケル氏の「最後まで考える必要がある」ということばが印象に残りました。私はよく考えないで動いてしまうことが多く、もっとよく考えなさい、と指摘されることがたびたびありますので、何かを成し遂げるには、よく考えることが本当に重要なのだと改めて痛感させられました。

よく考えなかった民

 イスラエルの民は神様から選ばれ、祝福が約束されていたにもかかわらず、自分勝手な道を歩んで神様に背き続けたため、外国に攻められて神殿は破壊され、民は70年という長い間外国で捕囚として過ごさなければなりませんでした。その後エルサレムに帰還して神殿の再建を始めたものの、イスラエルに好意的であったクロス王の死後、民はやる気を失い建設は中断していました。預言者ハガイは冒頭のみことばのように、「あなたがたの歩みをよく考えよ。」と預言し、モーセの祝福とのろいの契約を、当時の民に思い起こさせています。「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。(申命記 28:15)」と言われた通り、収穫が少ないことや食料が十分でないことは、神様の御声に聞き従わない結果であることを知れ、自分たちの生活のことよりも、まず神様に聞き従うことを優先しなさいと言っているのです。

よく考えることは愛すること

 こうして聖書のみことばを読んでいると、私たちが生活の中で困窮したり、何かの問題に煩っている原因は、イスラエルの民と同じように、よく考えていないからではないかと気づくことができます。それはつまり神様の御声をよく聞いていないということです。伝道者の書も、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。(7:14)」と教えています。
 私はよく考えないで行動して失敗することがよくあります。特に、ことばで失敗することが多いです。自分ではわかっているつもりであることを伝えようとしても、それを相手にわかることばで話さなければ伝わりません。また誤解のないようにことばを選ばなければなりません。思いもよらぬ誤解に気づくとき、自分が話すことばかりに気を取られていて、目の前にいる人のことを考えていないからだと痛感します。そしてそれは、「愛しなさい(マタイ19:19)」という神様の御声に聞き従っていないことだと思わされます。よく考えることは人を愛することです。いつも神様の御声に聞き従おうとしている姿勢が大切です。

よく考えよ

 パスカルは「人間は考える葦である」と言いました。葦は3m以上にも成長する植物ですが、大変折れやすくもろいのです。私たち人間はみな弱い者で、たとえばすぐに愛することを忘れてしまうような者です。しかし考えることができます。仕事や人間関係においても、失敗しないようによく考えて備えることができますし、たとえ失敗してしても、原因をよく考えて、神様に従っていなかったのだ、と悔い改めることができます。どんなに落ち込んでいても、神様のみこころをよく考えれば、神様がいつもともにいてくださることに気づくことができます。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」という主の御声にいつも従って参りましょう。(鈴木千史)

21.12.12 感情を豊かに表現できる



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「エレミヤ3:22 背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。】』『今、私たちはあなたのもとに参ります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」

マスクが外せない

 コロナ禍でマスク生活が当たり前の日常となりましたが、今、マスクが外せないと感じる若者が増えているそうです。「素顔を見られることに抵抗を感じる」「マスクをしていれば表情を読み取られないで済む」「容姿にコンプレックスがあるから外したくない」「顔を隠すことで安心できる」など、理由は人それぞれです。あるアンケート調査では7割の人が「コロナ後もマスク着用を続けたい」と回答したそうです。「ノーマスクだと下着なしで外出しているようで落ち着かない。もはや顔パンツだ」と言っている人もいます。ある医師は、若者のマスク依存を、「対面コミュニケーション不全の一つで、人との直接的なやりとりに苦手意識を持つSNS世代の新たな現代病になりつつある」と指摘しています。コロナをきっかけに、本来直接会って取るべきコミュニケーションも、パソコンの画面上でのやり取りや、SNSを介しての言語のコミュニケーションになり、どんどん閉鎖的な方向に行きつつあると感じます。

感情が出せなくなっている

 私たちの中でも、重要な話をする時、自分から話しかけなければならない場面で、面倒に感じたり、言葉数を極力減らして、出来ることならあまり話さないで済ませよう、と感じている人は多いのではないでしょうか。
 例えば、みんなと一緒にいて楽しくワイワイ話をしている時は、自分の言いたいことを言えたりしますが、学校でクラスのみんなの前で発言する時や、会社の会議の場で発言する時、また、仕事で自分がミスをしたりトラブルが起きた時にそのことを上司に報告する時には、萎縮して声が小さくなったり、言いたいことを言えなくなったりすることがあると思います。しかし、それは幼い頃からそういう性格だったのではないと思います。2,3才ぐらいまではもっと素直に感情を表していた時があったはずです。ですが、いつの日からか少しずつその感情を内に秘め、声や表情に表さないようにコントロールするようになって行きました。その原因の一つには、親から叱られたことや、友達から言われた言葉で傷つき、怒りを覚え、それがきっかけで、自分の素直な感情を隠して、「おとなしくいい子にしていれば、周りの人は自分を受け入れてくれる」と思って、良い子であろうとして来たことがあるかもしれません。私も幼い頃、「男は強くなければダメだ」と親や周りの人から教えられ、「弱さを決して見せてはいけない。強くあらねば。」と思って頑張っていました。そうやって少しずつ人前で感情を出さないように自分を抑えて行く中で、感情が出せなくなって行きました。

感情は神から与えられた良きものである

 人は、嬉しい時に喜んだり、面白いと感じた時に笑ったり、時には腹の立つことがあると怒ったり、悔しくて泣いたり、様々な感情があります。その感情は神様が人に与えられた賜物です。神様は人格を持っておられるので、喜ばれたり、悲しまれたり、時には怒られたりするお方です。
 ノアの時代、世の中に悪がはびこっているのをご覧になった主は、ご自分が人を造ったことをとても悔まれ、心を痛められました。そして、地上に神のさばきが下りました。また、イエス様はラザロが死んで墓に葬られた時、マリアや周りにいた人たちが泣き崩れているのをご覧になり、ご自身も心に憤りを覚えて涙を流されました。また、迫り来る十字架を前に、ゲッセマネの園で祈られた時には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。(マタイ26:38)」と、苦しい胸の内を弟子たちに明かされました。このように神様は、感情が豊かなお方であられます。私たちは、その神様のかたちに似せて造られた存在です。ですから、感情を素直に表現することは自然なことなのです。私たちは、もっと感情豊かになれますし、自分の感情を人前で表すことができます。また、それは主のみこころでもあります。

主のふところに飛び込む時、感情が解放される

 ですから私たちは、主のふところに飛び込んで行く時、自分の感情を素直に表すことができるようになります。私は、家族との関係において、自ら心を閉ざしていくことで、関係を壊し、また自分自身の心も壊してきました。「自分がこんな心配性な性格になったのは親のせいだ。」という怒りがありました。その怒りが、職場や友人関係の中でも同じように向けられていました。言いたいことがあるのに言わないで、心の中で相手をさばいたりして長年生きてきました。そして、信仰生活の中で、これまでずっと内に秘めてきた思いを主に差し出すことが出来ました。自分の愚かさによって関係を壊してきたことを認め、悔い改めて、主のふところに飛び込むことが出来ました。それから、みこころを行いたいと願うように変えられて、徐々に愛することを実践させられ、今日に至っています。罪の思いに責められることがなくなってから、少しずつではありますが、どんな人の前でも、自分が感じた思いを素直に伝えることができるように主が変えてくださいましたし、今も主の御用をさせていただく中で、自分の感情を表現することを訓練させられています。
 私たちは、これまで抱いて来た家族や周りの人に対する憎しみや怒りの思い、敵対する思い、身近な人の言われることに素直になれない思いなど、それらを捨てて、御前に悔い改めて、主のふところに飛び込んでまいりましょう。私たちは、もっと感情豊かになれますし、自分の感情を人前で表すことができます。人は神によって創造された存在です。神のもとに立ち返ってはじめて、本来の自分自身、ありのままの自分で生きることができます。(岩下 栄作)

21.12.05 気前よく与える



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「箴言11:24 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。」

手作りのお菓子

 子供の頃、幼稚園時代の友だちのお母さんが、時々手作りのプリンを家に届けてくださいました。当時手作りのお菓子はめずらしく、それはすてきにおいしく感じられて、学校から帰って来てそれが家の食卓に置いてあるとわくわくしました。型からお皿にそっと出して、少しずつ大事に食べました。その方は、毎年クリスマスにも、手作りのクリスマスケーキを届けてくださいました。それは生クリームできれいに飾られてサンタがのせてあり、まるでお店のケーキのようでした。そのおいしさは今でも忘れられません。「箱は返してね、また来年も持ってくるから。」と毎年笑いながら言われました。毎年クリスマスが近づくと楽しみに待ちました。そして子供心に、「この人はどうしてこんな気前良く親切にしてくれるんだろう。」と漠然と不思議に感じたりしていました。もちろん母は何かしらお礼をしていたのだと思いますが、普段何でもない時に、私たち家族のために作って持ってきてくれる、そんな心の大らかさに子供ながら憧れていたように思います。お菓子作りが好きになったのは、あの時のしあわせな気持ちを再現したいからかもしれません。気前よく惜しげなく与える心は人をしあわせにすることができます。

与えることはみこころ

 与えることは神様のみこころです。冒頭のみことばは、気前よく与えることによってかえって豊かになる、と教えています。人間的に考えると、与えればなくなってしまう、と思いますが、神様の法則はその反対なのです。与えれば与えるほど、もっと与えられるというのが神様の法則です。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。(ルカ6:38)」
 もともと私たちの持っているものはすべて神様からいただいたものです。物質的なものも、時間も、労力もそうです。それを私たちはまるで自分で得たかのように思い、自分で持とうとしてしまいます。しかし神様が与えてくださるのは、私たちがそれを他者のために惜しげなく与えるためです。与える者を神様は喜んでくださいます。「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」。もうすぐクリスマスですが、クリスマスの時に神様は私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。ご自分のひとり子のいのちを惜しげなく与えてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。そして、私たちにも愛を持って与えることを求めておられます。それは私たち自身が豊かになるため、しあわせになるためです。

与えると豊かになる

 教会に来始めた頃、浜松から名古屋へ通う交通費が必要になりました。まわりの家族は、毎週そんなに遠くまで行くなんて、と懐疑的でしたし、すぐに行かなくなるだろうと思ったようです。確かに初めの頃は、礼拝の帰りに子供にソフトクリームを買ってあげたくても買えないくらい困窮していました。それでも礼拝を捧げたい一心で、何があっても欠かさず教会へ通い続けました。それから20年以上経ちますが、振り返ってみれば、教会に行けば行くほど、乏しくなるどころか豊かにされていきました。救われてほどなく新しく仕事が与えられましたし、車が故障すればすぐにほかの車が与えられました。それは中古の軽自動車でしたが、高速道路を信じられないくらいの力強さで走ることができました。神様が特別に与えてくださったとしか思えません。また週に1回ですが祈祷会にも参加できるようになりました。家も与えられました。そして与えれば与えるほど、心の平安が与えられました。この心の平安こそ、私たちが最もほしいものではないでしょうか。与えれば与えるほどかえって豊かになるという、みことばの真実を神様に感謝します。

気前よく与える

 私たちは、神様が与えてくださった物やお金、時間、労力を人に与えることができます。たとえば両親や友達を訪問すること、家族と交わりをすること、教会のセルの働きのために、自分の時間や労力を与えることができます。また、神様から与えられた賜物を用いて、教会の働きのために時間や労力やお金を与えることができます。先週日曜日にはクリスマスコンサートの通し練習がありましたが、クワイヤーは歌声を捧げ、舞台係や進行係などの奉仕者も、それぞれに与えられた賜物を用いてご奉仕を捧げていました。気前よく惜しみなく与えている人の顔は皆生き生きとして輝いて見えます。
 与えることによって、神様は私たちを物欲から自由にしてくださり、人を愛し助ける喜びを与えてくださいます。そのようにして私たちの心を健やかに保ってくださいます。私たちは気前よく惜しみなく与える者となって参りましょう。気前よく与えて生きる者を神様は喜んでくださいます。(鈴木千史)

21.11.28 主の前に心を注ぎ出す



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「Ⅰサムエル1:15-18 ハンナは答えた。『いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。』エリは答えた。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』彼女は、『はしためが、あなたのご好意を受けられますように』と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

ハンナの募る憂いと苛立ち

 旧約聖書には、不妊で悩む女性の記述が多く出てきますが、そのうちの一人でハンナという女性がいます。彼女の夫エルカナにはもう一人、ぺニンナという妻がいました。彼女には子どもがいました。イスラエルの女性にとって不妊はとても恥ずべきことでした。ですので、子どもがいないハンナは、そのことのゆえに彼女から嫌がらせを受けていました。家族で年に一回、主の宮に行って礼拝をし、いけにえを献げていましたが、ハンナはとても肩身の狭い思いでした。そんな彼女の心を知りつつ、ぺニンナは彼女の怒りをかき立てるようなことをわざとしていました。このようなことが度々繰り返され、ハンナは精神的に追い詰められていきました。宮に行って礼拝した後、みなが食事をしている場でハンナは泣いて食事を取りませんでした。「こんなみじめな状況がいつまで続くのか」「なぜ私はこんなひどい仕打ちを受けなければならないのか」と、彼女の心の中は乱れていました。そんなハンナを夫が慰めますが、それでも苛立つ思いは収まりません。彼女はとても追い詰められていました。

感情をコントロールしようとしない

 私たちも日常生活の中で、憂いや苛立ちが募り、心が乱れてどうすれば良いのか分からなくなってしまう時があると思います。例えば、職場で上司から出来ていない仕事のことで責められたり、職場の同僚や、学校の友達から嫌なことを言われて、そのことがずっと頭から離れず、気持ちの整理がつかないままずっと苛立っていることがあったりします。私も、疲れたり頭が痛くなって、思うように考えたり行動できないと感じると、心がざわつきイライラしてきて、あれこれと余計なことを考え出してしまうことがあります。
 そのような時に私たちは、「この良い調子の状態が崩れないように、今よりも悪くならないように」と、心の平安を保とうとして、「落ち着け、落ち着け」と、心が乱れないようバランスを取ることに必死になるかもしれません。誰かをさばく思いになる時に、「さばいてはいけない、怒ってはいけない、冷静にならなければ」とその思いを抑えて、自分の気持ちを立て直そうとコントロールするかもしれませんが、私たちは自分の中であれこれ考えるのをやめなければなりません。

ハンナは感じたままを主に祈った

 精神的に追い詰められていたハンナは、主に心を注ぎ出して祈りました。自分の苛立つ感情を抑えて、明るく何事もなかったかのように振る舞ったり、自暴自棄になってどこかへ逃げてしまうようなこともしませんでした。ただ、自分の心に湧いてくる感情を隠すことなく洗いざらい主に申し上げて、心の中で祈りました。その様子を見ていた祭司エリは、彼女が酒に酔っているのだと思っていました。しかし、彼女が主に心を注ぎ出して祈っていたことを知ると、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と彼女を祝福して祈りました。祈りを終えた彼女の表情は、憂いや苛立ちの思いはすっかり消えて、家に帰って食事が出来るほどになりました。主は彼女の苦しみをご覧になり彼女の胎を開かれて、子を与えてくださいました。

心を注ぎ出すことで重荷を下ろすことができる

 私たちは、心乱れてどうしたら良いのか分からなくなる時に、その気持ちを立て直そうと自分を奮い立たせたり、解決策をあれこれと考えるのではなく、心が乱れたまま、心の中がクシャクシャになったまま、御前に出て祈らなければなりません。 私も、疲れたり、頭が痛くなる時、考えたいのに考えることが出来なかったり、どうしたら良いのか分からなくなる時に、「これではダメだ。元気を出さなくちゃ、明るく振る舞わなくては。」と、乱れた気持ちを立て直そうとしたり、「ちょっと休めば元気になれるだろう」と思うことがあります。しかしその時に、「主よ、今頭が痛くて、やる気が起きません。力が出ません。」とその時に感じている思いをそのまま主に注ぎ出して祈りました。すると主は、「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。(出エジプト15:26)」と語ってくださいました。そして自分の中にある主に対する不信仰、不信頼が示されました。「主よ、悔い改めます。あなたに信頼します。癒やしてください。」と祈りました。そして主の癒やしを受け取りました。すると、それまでまったくやる気が出ず心が騒いでいましたが、主によって回復させられて行きました。
 主は、あなたの苦しみを誰よりも知っていてくださり、抱えている重荷をすべて負ってくださる方です。主の十字架は、そのあなたの苦しみを負ってくださるためです。主に自分の心を注ぎ出す時、私たちの心や顔の表情は、台風や大雨が過ぎ去った時のあの澄んだ青空のように晴れやかになります。私たちは、日々心の中に湧いてくるどんな思いも隠すことなく主に注ぎ出して、主からの恵みを受け取ってまいりましょう。(岩下 栄作)

21.11.21 動じないために



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「詩篇18:2-3 主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると 私は敵から救われる。」

動じないチョウ

 リトリートハウスで草刈りのご奉仕をした時のことです。草刈り機を使って騒がしい音を立てて草を刈っていると、足元の少し先の方にある雑草の茎に、小さなモンシロチョウが止まっていました。草刈り機は騒音を立てながら左右に振れてがさがさと突き進んで行きますから、すぐに逃げて飛んでいくと思いきや、すぐ近くまで来てもまったく動じないで、羽を閉じたまま動かないのです。もしかして音が聞こえないのかなと思いましたが、それにしてもまわりの草が激しく揺れるので、普通は逃げて行きそうなものです。見ていても動かないので、しかたなくそこを避けて進んで行きました。そしてしばらくして振り返って見ると、チョウはいなくなっていました。
 普段草刈りをしていると、こおろぎやバッタなどの虫は一目さんに逃げて行きますから、この動じないチョウの姿は心に残りました。その時ふと、この小さなチョウのように何があっても動じないでいたいものだと思いました。

すぐに動じてしまう

 日常生活の中で思い通りにならないことがあると、私はすぐに動じてしまいます。仕事や家事など、やりたいこと、やらなくてはならないことがあるのに体が疲労していて、思うように取りかかることができないと焦って動じてしまいます。人に自分の思いを伝えようとしてもなかなか伝わらないときに、自分の不甲斐なさにどうしようもなくなり動じてしまいます。また人間関係の中で、受け入れられないと感じると動じてしまいます。そんなときは、心の中がああでもないこうでもないといろいろ考えて騒がしくなっています。
 何事もなくいつも通りに順調にできているときは平安でいられても、ひとたび困難に出会えばすぐに動じてしまうというのが人の弱さです。経済的な問題、人間関係の問題、健康の問題など何か困ったことが起こると、すぐに平安をなくしてしまいます。

主はわが岩

 冒頭のみことばはダビデの詩篇ですが、彼がすべての敵からのがれ、神様から約束されていたイスラエルの王位を確立した時に作ったものであると言われています。ダビデは長い間主人であるサウルから追われ、苦しい逃亡生活をしていました。しかし困難の中でも、彼の心はいつも神様に信頼していたので動じることがありませんでした。数々の戦いの中でいつも困難から救い出してくださった神様を、彼は「岩」にたとえてほめたたえました。「岩」は旧約聖書では「安全」「守護」の象徴です。ダビデの時代、岩場は敵から身を避けるための砦(とりで)となりました。第一サムエル記23章には、ダビデが「仕切りの岩」によってサウルの攻撃から守られたことが記されています。ダビデはその戦いを思い起こしていたのかもしれません。
 私たちは困難に出会うとすぐに動じてしまうような弱い者ですが、神様の守りは岩のように堅固です。ですから私たちは神様に全幅の信頼をおくことができます。ダビデが戦いの中でことごとく守られたように、神様は神様に信頼する者を必ず守ってくださいます。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。(ローマ10:11)」

動じないために

 ですから私たちは、日常生活で問題が起こる時に動じることなく、守ってくださる神様に信頼したいと思います。しかし、そうとわかっていてもすぐに動じてしまう私たちがいつも神様に信頼し続けるにはどうしたらよいでしょうか。それには、神様がどんなお方であるのか、普段から告白していることです。ダビデは成功した時だけでなく逆境の中にあっても、神様は必ず自分の叫びを聞いてくださり救い出してくださる方だ、といつも告白していました。「私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある。(詩篇34:1)」
 私は体の疲労でやるべきことが手につかないで動じている自分に気づいたときに、神様がともにおられるのに動じているのはおかしいと思い直しました。そして「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力 衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)」と、いつも口ずさんでいるみことばを思い起こしました。神様は疲れている者に新しい力を与えてくださる方、と思い巡らしていると心の中に平安がわき広がってきました。そして仕事にとりかかることができました。みことばがあって本当によかったと思いました。心の中にいつもみことばがあることが大切です。
 動じないために、私たちは普段から神様がどんなお方であるのかを告白していることが必要です。主はともにおられ決して離れられないお方です、主は必ず私を守ってくださるお方です、主は経済を満たされるお方です、主はあらゆる病を癒やしてくださるお方です、といつも口で、また心の中で告白して参りましょう。そして、みことばをたくわえて参りましょう。(鈴木千史)

21.11.14 でも、おことばですので



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「ルカ5:4-6 話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」

「でも、やってみよう」

 みなさんは、自分が幼いときに、近所の公園などで自転車に乗る練習をしたことを覚えていますでしょうか。あまり覚えていないという人も多いと思いますが、誰もが必ず経験することだと思います。何回も転んで、何日もかけて練習をして、やってもやっても乗れる感じがしないと、「もう無理、嫌だ」と途中であきらめてしまったりします。私の息子の場合もそうでした。初めはやる気満々でしたが、何度も転んで乗れる感じがしないとあきらめていました。「練習すれば乗れるようになるよ」と言っても、「そんなこと言われてもできないんだよ」という思いだったと思います。子どもが少しやる気になったかなと思うタイミングで、「練習しよっか」と声をかけ、何日も続けました。それでも乗れる気配を感じませんでした。そんな中で、「絶対乗れるようになるよ。もう少しだ。」と声をかけました。本人は乗れるようになると全く感じていなかったと思います。「パパが言うからじゃあやってみるか」ぐらいに思っていたと思います。それでも、ペダルに足をかけて自転車を走らせようとして行った時に、少し乗れるようになりました。彼の中で「あっ、乗れるかも」という希望が湧いて来ました。それからは、声をかけなくても付き添って見ているだけでどんどん乗れる距離が伸びていき、今では自由に乗ることができるようになりました。

理解できないと行動しない

 冒頭のみことばは、ペテロが一晩中漁に出たものの、一匹も魚が捕れずに落胆していた場面での出来事でした。イエス様から「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と命じられますが、彼の中には、「魚は夜に捕るものだ」という常識がありました。ですから、「なぜこんな明け方に魚を捕りに行けと言われるのか全く理解できない」という思いがありました。
 私たちも、例えば、職場や学校で何か嫌なことがあって、落ち込んで家に帰って来る時に家族から話しかけられると、無愛想な態度や返事をしてしまうことがあったりすると思います。そんな時に、「何でそんなに機嫌が悪いの?」と言われると、「こっちは仕事で疲れて帰ってきたのに、機嫌よくいられるわけないじゃないか。こんな時に機嫌よくするなんて理解できない」という思いになるかもしれません。主から「愛しなさい」「喜んでいなさい」と語られても、「こんな状況で喜ぶなんて、私には理解できません」と感じるかもしれません。私たちの中に、「出来るとは思えない」とか、「なぜそうするのかが理解できない」という思いがあると、なかなか行動に移すことが出来なくなってしまいます。

それでも、おことばに従って行動してみる

 しかし、私たちが理解できなくても、「主が言われるのならば」と言って一歩踏み出して行動してみるときに、主は私たちの思いを通して働いてくださいます。「これをしたからと言って何か変化があるとか、上手く行くとは思えない。でも、おことばですので、イエス様、あなたが言われるので、とりあえずやってみます」という姿勢が大切です。ペテロは、「なぜイエス様がこんな非常識なことを言われるのか理解できない。どうせ網を下ろしてみても変わらないと思いますよ。」という思いがありました。それでも彼は、「先生と呼ばれる方が言われることなので、やってみないわけにもいかないので、とりあえずやるだけやってみよう」と思いつつ網を下ろしてみました。その結果、主が働いてくださり、舟が沈みそうになるほど大量の魚を捕ることが出来ました。
 私たちも、例えば、「今日は体調が悪い」と感じる時に、「こんな調子が悪い時に礼拝に行くなんて、人前に出て行くなんて、とても考えられない。家でゆっくり休むのが常識だろう。誰でもそう思うだろう。」と思うことがあるかもしれません。しかし主は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。(マタイ11:28)」と、あなたに語られます。その時に、「『行ったところで何も変わらないんじゃないか』という思いはありますけど、主がおっしゃられるのでしたら、とりあえず行くだけ行きます。」と思って、一歩踏み出して礼拝に来る時、主はその従う思いに働いてくださいます。礼拝に来た結果、「来るまでは『行きたくないな』と思ってたけど、来たらとても恵まれた。癒やされた。」という主の働きを見ることになります。

行動の基準は「でも、おことばですので」

 主のおことばは真実なので、主から語られるときに、私たちの側で「なぜそうするのか」という理解は必要ありません。ですから、私たちの行動の基準は、「出来るような気がするからやろう」ではなく、いつも、「出来るとは思えません。でも、おことばですのでやってみます」でありたいと思います。そのように従って行くことを積み重ねていく中で、少しずつ良い人間関係が築かれて行きます。良い生活習慣を築いて行くことができます。仕事でやるべきことをコツコツと続けて行くことができます。主に従う者は必ず祝福されます。(岩下 栄作)

21.11.07 交わりの中で成長する



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「Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

人は交わりを必要としている

 先日新聞の記事で、「人の声が聞こえるだけでおいしく感じ、食べる量も増えると分かった」という、ある大学の認知科学の教授グループで行った実験結果が紹介されていました。コロナ禍で一人で食事をする「孤食」が増え、特に一人暮らしのお年寄りは食べる量が減り、栄養状態が悪くなりがちだという問題があります。しかし、食事の時にテレビやラジオをつけておくと、よりおいしく食べられることがわかったという朗報です。映像があるかないかは関係なく、人の声が聞こえるだけでよいそうです。因みに人工的に合成された声では効果がありませんでした。考えてみれば、確かに自分も家で一人で食事をするとき、特に見たくなくても無意識にテレビをつけていました。人の声が聞こえているとなんとなく落ち着くのだろうと思います。この実験結果について担当教授は、人は昔から家族や仲間と食事をするのが基本であって、洞窟などで暗くて顔が見えない状態でも人の声は聞こえていたので、その習性が残っているのだろう、と説明していました。
 神様が人を創造された時、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。(創世記2:18)」と言われました。初めから人は人と交わりをして生きるように造られているのです。

神様との交わりが手本

 ところで私たちは、神様を信じて罪赦され、神様と交わりを持つことができるようにされました。主は私たちを愛し、私たちのうちに住んでくださり、どんな時もともにいてくださいます。私たちが困難に出会う時にも決して見捨てず、みことばによって慰めと励ましを与えてくださいます。私たちはこの神様との深い交わりをずっと持ち続けて生きることができます。
 そして、救われた私たちに神様は「互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と命令されました。互いに愛し合うことは、神様が私たちと深く交わりを持ってくださるのと同じように、私たちが兄弟姉妹と深く交わることです。「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」。兄弟姉妹の誰かが困難の中にいる時、私たちはその人に寄り添って、全知全能であられる神様に解決を求めて祈ってあげることができます。また、神様のみことばによって互いに励まし、建て上げ合うことができます。兄弟姉妹との交わりのお手本は神様との交わりです。
 私たちの愛は不完全でありますが、神様がまず私たちを愛してくださり、いつも寄り添っていてくださるので、その愛を持って兄弟姉妹と交わりを持つことができます。一人一人がしっかりと神様に結びついているので、お互いもキリストを通してしっかりと結びつけられ、深い交わりをすることができるのです。

交わりの中で砕かれる

 教会へ来る以前、私はまったく自己中心な者で交わりがとても苦手でした。自分が人を愛せないので、人が自分を愛してくれるとは信じられず、いつも人を疑い心に壁を作って深く交わることを避けていました。だからどんな人とも表面的な付き合いしかできず、孤独の中で苦しんでいました。
 そのような中である時、神様が私を愛してくださると知って救われ、聖書だけを基準にして生きればよいと知りました。そして聖書に書かれていることは「愛しなさい」だけなのだと知りました。しかし教会の普段の交わりの中で、また行事などのご奉仕をさせていただく中で、自己中心が頭をもたげ、思い通りにならないことに心が揺さぶられました。以前であれば早速心を閉ざすところでした。しかし教会の交わりの中では、いつも愛する方を選ぶことができました。それは神様が私をありのままで愛してくださっておられると知っていたからです。教会の交わりは、たとえ問題が起こっても、皆が同じように神様を見上げているので、皆がみことばによっていつしか砕かれ、忍耐が養われ、必ず修復がなされていきます。そのような交わりの中で私は自己中心が砕かれ、また心が癒されて、交わりを楽しめるようになりました。

交わりの中で成長する

 救われて罪赦されても私たちは依然罪人であり、自己中心の罪の性質を残しています。教会生活の交わりの中で気に入らないことがあれば、交わりから逃げ出したくなるようなこともあるかもしれません。しかし、一人一人が日々神様との交わりを求め、祈り、聖書を読み、礼拝のメッセージを自分のこととしてしっかりと聞いているなら、神様は私たちを、必ず兄弟姉妹をありのままで愛する方向へ導いてくださいます。私たちがどんなに情けない者であっても決して見捨てられない神様の愛に倣(なら)いたいと、真剣に願う者へと変えられていくのです。
 このようにして私たちは交わりの中で成長することができます。救われている喜びを持って、神様から与えられた愛を惜しみなく与える者となって参りましょう。そのように私たちが愛し合う姿を見て、世の人々がキリストの愛を知って救われることを求めて参りましょう。(鈴木千史)

21.10.31 聞くことは人の思いを知ること



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「箴言18:13 よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。」

新幹線のニューステロップ

 新幹線に乗りますと、車内正面の電光掲示板に流れるニューステロップがあるのをご存知の方も多いと思います。昨年、東海道新幹線で30年余り続いたニューステロップのサービスが終了しました。車内にWi-Fiが完備され、スマホなどでの情報取得が可能となったからだそうです。スマートフォンのなかった時代は、今のようにいつでもどこでもニュースを見ることはできませんでしたので、乗客は流れてくるニュースに目を向けることも多かったと思います。
 ニューステロップは、横長の電光掲示板に、右から左に文字が流れて行きます。掲示板に収まる文字は約7文字で、その文字が次から次へと流れて行きますので、ずっと目を凝らして文字を見ていないと、情報を正確に把握することはできません。以前、新幹線に乗車してニュースを見ていた時に、「人の話を聞くのは、このテロップのように頭の中に文字が次から次へと流れてきては通り過ぎていくように聞いているんだな」と感じました。ですからよく聞いていないと、「あれ、今何て言ったんだっけ」と思い、聞き逃してしまいます。この週報のように紙に書かれているものであれば、分からないことがもしあれば戻って読むことができますが、話は巻き戻すことができません。ですから、よく聞いていないとまた聞き返さないといけなくなってしまいますし、よく分かっていないのに聞いたつもりになって終わってしまいます。

よく聞かないことによって関係が壊れていく

 ニュースの場合は、情報を逃しても困ることはありませんが、人の話を聞くことは、相手が自分に何かを伝えたいと思って話しているので、よく聞いていないと後でその人との間に問題が生じてきます。
 例えば、人から「この作業を手伝って欲しいんだけどいい?」と頼まれる時に、何をどこまでやれば良いのかをよく聞いて返事をすれば、頼まれた事をきちんと果たすことができ、信頼関係を築いて行くことができます。しかし、よく聞かないで「分かりました」と返事をしていると、後で「それはお願いしたことと違う」となって失敗を招き、やり直すことになり、余計に時間がかかってしまいます。そして何よりも、信頼関係を損なうことになって、自分が恥をかくという結果になってしまいます。
 よく聞かないで返事をしてしまうのは、私たちの心が騒いでいるからです。私たちが心穏やかにしている時はゆとりを持って相手の話に耳を傾けることができますが、そのゆとりがなくなると、私たちは自分のことだけで精一杯になってしまいます。すると、人の言葉を冷静になって聞くことが出来なくなり、あまりよく分かっていないのに、返事をして聞いたつもりになってしまいます。では、どうすれば人の話をちゃんと聞くことができるのでしょうか。

主の思いを知ることから始める

 私たちは、何よりもまず主の御思いに心を向けなければなりません。主は私たちに何を望んでおられるのでしょうか。主の一番の願いは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)」です。私たちが何よりもまず、心を尽くして主を愛することが主の思いです。愛することは神様の命令を守ることですので、私たちが「神のみこころを行いたい」と願うことが主の思いです。その御思いを知る時に、私たちはすすんでみこころを行いたいと願う思いが与えられます。ですから、「聞かなくちゃいけない」と思って力まなくても、神様を愛する思いさえあれば、自然と御声を聞くことができるようになります。
 そして、さらに主は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(マタイ22:39)」と語られ、私たちが周りの人を愛するようにと命じておられます。私たちが「あなたの隣人を愛しなさい」という主のみこころを行いたいと願うので、人のことにも関心を持って、愛の姿勢をもって聞くことができます。相手が私にどんな思いで話をしてくれているのかを、その人の立場に立って聞くことができます。 

相手の思いを知ることに関心を寄せる

 私は、以前は「人に受け入れられたい」という思いから、自分があまりよく分かっていないことでも「分かっていますよ」というような顔をして、相づちを打って人に合わせていたことがよくありました。人からよく見られたい、拒まれたくないという思いからしていましたが、かえって関係を壊していたことでした。本当には分かっていないのに、分かったふりをして聞いていると、話している相手は、「この人は、ただ私の話に合わせようとしている」と勘づいてしまいます。私は、いつも心を騒がせて何をしても焦ってばかりいたので、心が休まる時がありませんでした。ですから人の話を聞いても集中して聞くことができませんでした。しかし今、みこころを行いたいと願い、出来ないと感じながらも従っていく中で、主にある平安をいただいて少しずつですが、落ち着いて冷静になって人の話を聞くことができるように主が変えてくださっています。人の話を聞いていても、自分の関心事は、相手ではなくいつも自分にありました。そのことに気づかされてからは、自分のことよりも、まず相手の思いを知ることに関心を向けようと心がけています。
 仕事でも家庭でも学校でも人間関係を築いて行くためには、相手のことを知ることや思いやる愛の姿勢が必要です。私たちは人の思いを知るという愛の姿勢が主によって養われて、人の話を聞くことができるようになります。 (岩下 栄作)

21.10.24 口のことばを見張る



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「箴言18:21  死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」

ことばは心に影響を与える

 ことばは人の心に影響を与えます。日頃私たちは、多かれ少なかれ、人のことばによって傷つきますし、逆にたった一言によって癒され、励まされることがあります。私は「了解しました」というメールの返信をもらうだけで、癒しを感じることがあります。おおげさかもしれませんが、その一言でその人とのつながりを感じるからです。一方、最近ではSNS上での中傷によって思い悩み、自殺に追い込まれる悲惨な事件が多く起こっています。発言した人はそこまで深く考えないで言ったことばが、言われた人の心にダメージを与えて、死にまで追いやってしまうことがあります。パソコンやスマホの画面に打ち込まれた文字が、人の心にこれほど大きな影響を与えると思うと、書くことばはもちろん、話すことばも慎重に選ばなければと、身が引きしまる思いです。

否定的なことばと肯定的なことば

 聖書にはことばに関するみことばがたくさんあります。それだけ、ことばというものは私たちの人生に大きな影響を与えるのだということでしょう。
 冒頭のみことば「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」は、自分が言うことばが良い結果を生むこともできるし、悪い結果を生むこともできるということを教えています。たとえば、いつも肯定的なことばを口にしている人は、言った通りにものごとに前向きに取り組み目標を達成することができる、しかしいつも否定的なことばを口にしている人は、言った通りに進歩や成長が難しいということです。誰でも、こうなりたいという願いを持っていると思いますが、それを叶えるためには、否定的なことばを言わないことが、とても大切であるということです。
 自分の話すことばを意識していると、私はよく否定的なことばを言っていることに気づきます。一番多いのは「できない」ということばです。自分にとって難しいと感じると、「できそうにない」とすぐ言ってしまいます。たとえばご奉仕で草刈りをすることがありますが、草刈機には充電池で動かすものと、ガソリンで動かすものがあります。ガソリンで動かす方は重いので、いつも軽くて操作が簡単な充電池式の方を使っていました。しかしある時重い方を使うことになり、使い始めようとしながら「私にはできない」と考えていることに気づきました。エンジンのかけ方も、燃料の入れ方もわからないから難しいと考えていました。気づいてすぐに、「いや教わればできる」と思い直しました。教わってみると簡単でした。新しいことができるようになることは清々しく嬉しいことです。一時が万事で、人生は日常の小さな作業の積み重ねですから、日常のあらゆる分野に対して「できる」という肯定的なことばが必要だと思わされます。

沈黙を守ったイスラエルの民

 ところで、神様が、ヨシュアが率いるイスラエルの民にエリコの町を渡されるとき、神様は祭司や戦士たちに、六日間、毎日町のまわりを一周するように、そして七日目には七周まわり、角笛の音を聞いたらときの声をあげるように命じられました。そうすれば町の城壁は崩れ落ちると言われたのです。この時ヨシュアは民に、ときの声をあげよという声を聞くまで「口からことばを出してはならない。(ヨシュア6:10)」と命じました。彼らは命じられた通りに、六日間一言も口からことばを出すことなく町の周りを歩きました。ただ祭司たちが吹き鳴らす角笛の音だけが鳴り響いていました。人の目には奇妙な光景に映ったことでしょう。
 この時なぜ民が沈黙して歩いたのかということについて、ある説教者は、彼らが「否定的なことばを言わないためだった」、と言っています。戦士たちは武装していつでも戦える体勢で歩いていましたから、「なぜこんなことをしなければならないのだろう。」「早く戦いたいのに」などと心の中でつぶやいたことでしょう。しかしそれは、神様の方法を否定することばですから、そんなことばを誰かが言い出せば、信仰によって一致していた民の心が乱れて戦いに敗北し、神様のご計画が妨げられかねないことでした。否定的なことばを言ってしまいそうな時には、黙らなければならないのだということを教えられます。

口にすることばを見張る

 ですから私たちはまず、自分の心に否定的なことばがないか、いつも見張っていなければなりません。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)」。そして、もしあってもそれを口から出してはいけません。そして、代わりに肯定的なことばを言うことです。肯定的なことばは聖書のみことばです。もし「できない」ということばが湧いてきたら「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」と言い直します。肯定的なことばは私たちを前向きにし、やる気を与えて、目標を達成させます。いつもみことばを告白する者になりましょう。 (鈴木千史)

21.10.17 信仰によって実が結ばれている



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「ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

崩落した水管橋

 先日和歌山県で、川にかかっている水道用の橋の一部が崩落し、約6万世帯が断水しました。崩落した水管橋は、川の南側にある浄水場から北側のエリアの住宅に水を送るための唯一の橋で、その一部が崩落したため、大きな影響を与える事態を招いてしまいました。崩落から6日経って、仮設の水道管が設置され、断水が解消されました。断水していたある家庭では、庭の蛇口をひねって水が出た瞬間、子供たちが出てきた水に手を伸ばして喜んでいました。その家庭の主人は、毎日給水所に長時間並んで水を持ち帰っていたそうです。「節水のために紙皿を使い、トイレのタイミングを家族でできるだけ合わせて一緒に流すなど、不便だった。水のありがたさを改めて感じた。」と話していました。
 私たちも毎日、当たり前のようにして水を使っています。トイレや洗濯、手洗い、風呂、調理などで使っていますが、使えなくなると途端に生活ができなくなり不安になります。使えることが当たり前のように感じていますが、その恵みは、普段はほとんど意識することはありません。使えなくなってはじめて、使えることがどれほど恵みであるのかが分かります。

信仰があるので人を愛することができる

 水が安定して供給されるのは、水道管が浄水場から各家庭まできちんとつながっているからです。同じように、私たちが人を愛そうとする与える愛も、私たちが「みこころを行いたい」と願う信仰によって神様としっかりつながっているので、その行動を起こすことができるのです。
 主が「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」と言われるので、私たちは、自分に対して悪く言って来る人に対して、悪を持って返すことをせず、その人を愛し、その人の祝福を祈ることができます。世の価値観で生きている人には、決してできないことです。
 「さあ、今日も喜んで一日仕事をしよう、勉強しよう、家事をしよう」と思って、機嫌よく働いたり勉強したり家事や育児に励むことができるのも、「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と主から語られて、「みこころを行いたい」と思うので、できることです。教会でのご奉仕も、「みこころを行いたい」と願うので、主の働きのために喜んで時間を使い、ご奉仕をさせていただくことができます。「みこころを行いたい」という信仰があるので、自分の機嫌や感情に左右されることなく、自分からあいさつをしたり、自分から声をかけたり、自分から笑顔で接することができます。

神から離れると人を愛せなくなる

 しかし私たちは、信仰がなくなれば、つまり神様から離れてしまうと何もできなくなってしまうということをいつも自覚していなければなりません。信仰がなくなると、私たちは罪人なので、すぐに信じる前の「私」に戻ってしまいます。自分中心の生き方、考え方に戻ります。「人のためにやっている」と言っても、自分にゆとりがなくなれば、「私は今、人のことなんかにかまっていられる状況ではない。自分のことで精一杯なんだ。」となり、相手のことを考えてあげたりするゆとりはなくなってしまいます。ちょっとでも嫌なことがあれば、「こんなことやってられるか!」と投げ出したくなる気持ちが湧いてきます。「自分さえ良ければいい」「人のことなんかどうでもいい」と考えるようになっていきます。

イエス様から目を離さない

 ですから私たちは、イエス様から目を離してはいけません。ヘブル人への手紙には、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)」とあります。イエス様は、十字架に至る道で、周囲にいた大勢の民衆の視線がある中で、あざけられ、ののしられ、辱めを受けられました。彼らの行いに対してイエス様は、ののしり返したりすることをせず、ただ真っ直ぐに、父のみこころの実現に向けて十字架に向かわれました。そのみこころの実現とは、イエス様をののしる民衆たちの救いのためであり、また私たちの救いのためでありました。イエス様の心は、ただそのことだけに向けられていました。そこにはみこころが成し遂げられる喜びがありました。
 私たちも、苦しみや困難が訪れる中で、十字架を耐え忍ばれたイエス様のことを思い起こし、「父のみこころは何なのか」ということだけに心を向けて、みこころを行うことを喜びとして歩んでまいりましょう。私たちは、「信仰」という太いパイプで神様とつながっているがゆえに、多くの実を結ぶことができていることを覚えて、神様に感謝します。 (岩下 栄作)

21.10.10 勤勉は祝福



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「箴言10:4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。」

後回しにしてしまう

 するべきことを後回しにしてしまう、ということは多くの人の悩みではないでしょうか。私もその通りで、早くやればいいのに後回しにしていることがよくあります。
 先日は故障したまま長年放置していた食器洗い機をやっと修理してもらいました。直ってみるととても便利なので、もっと早く直せばよかったと思いました。どうして後回しにしてしまったかと言えば面倒だったからです。修理するには、まず販売店やメーカーに電話をしなければなりませんが、電話するためには取り扱い説明書を探し出して、連絡先や品番を調べなければなりません。修理することになれば、家に来てもらうことになりますが、毎日忙しくしていると、修理に来てもらう日を空けるのも億劫になり、後回しにしていて何年も経ってしまったのです。食器洗い機の修理のことなど、どうでもいい小さなことのように思っていましたが、考えてみれば、早く修理していればそれだけ家事を時短できたのに、使えるはずだった多くの時間を失ったことになります。聖書には「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。(ルカ16:10)」とありますが、小さなことに忠実でなかったな、と悔い改めました。

勤勉は主のみこころ

 聖書は勤勉を勧めています。冒頭のみことばは「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。」と教えていますが、「無精者」というのは怠け者のことで、まさにするべきことを後回しにしてしまう人のことだと思います。やらなくてはと思いながら、「忙しくて今は時間がない」「疲れていてとてもやる気になれない」「それより先にもっと楽しいことをしたい」と言って後回しにしてしまいます。すると平安がありません。
 たとえば、宿題を後回しにして遊びに出かけてしまうと、せっかく遊んでいても、宿題が気になって心の底から楽しめません。仕事が忙しいからと、家の片付けを後回しにしていると、家が散らかってくつろぐことができません。書かなければならない書類を書かないでいると、心によぎるたび気になって落ち着きません。一時が万事で、日常生活の小さなことを後回しにしていては平安がないばかりか、ほかの仕事でも勉強でも人間関係でも健康面でもコツコツと積み重ねて、何か良いものを成し遂げることはできません。一方で、「勤勉な者の手は人を富ませる。」と教えられているように、どんなに小さいことでも私たちがコツコツと積み重ねていくなら、多くの良いことを成し遂げることができるということです。勤勉になるために何をすればよいでしょうか。

勤勉は主に聞き従うこと

 神様を信じる者のうちには聖霊が住んでおられます。ですから私たちが祈る時、聖霊は私たちの思いに働いて、神様のみこころを知らせてくださいます。今するべきことを教えてくださるのです。昔、あるクリスチャン向けの小冊子に、「まず祈れ」というタイトルの神学生の文章が載っていました。彼は多忙な学校生活の中で、テスト勉強をする前にまず祈りました。すると神様が何を勉強すればよいかポイントを教えてくださり、最小限の勉強で良い点をとることができるのだ、ということでした。成功のために、まず祈ることがいかに大切かということです。
 私たちは毎日たくさんやるべきことがあって、頭の中はあれもこれもやらなくてはと混乱しています。自分の気分に任せておくと、やるべきことよりもやりたいことを優先してしまい、大切なことを後回しにしてしまいがちです。だから、いつも神様に祈って、心を整えていただく必要があります。
 まず朝祈ることが大切です。祈りの中で、今日の一日を思い巡らして、するべきことについて神様に申し上げて祈ります。「神様、今日は昼休みに修理の依頼の電話をかけます、実行できるように助けください。」と申し上げることです。すると後回しにする誘惑から守られます。日中生活する中でも、まず祈って今何をするべきなのか神様に聞きます。神様は、「先に宿題をしなさい。」「今その書類を書きなさい。」などと言ってくださいます。語られたら、「面倒だ」などという自分の思いではなく、神様の声に聞き従うと、必ず平安が与えられます。勤勉になるためには、主に聞き従うことをコツコツと積み重ねていくことです。

勤勉は祝福

 聖書は、勤勉な者は「豊かになる」「財産を得る」「人の上に立つ」と、祝福を約束しています。実際成功している人は勤勉な人だと実証するデータもあります。私たちにはそれぞれ願いがありますが、それを叶えるには、日常の小さなことから神様に聞き従う習慣をいつも目指していることです。聞き従おうとする者を神様は必ず助け祝福してくださいます。勤勉な人のことを「まめな人」とも言いますが「まめ」の漢字は「忠実」と書くそうです。神様に聞き従うことにまめな人を目指して参りましょう。 (鈴木千史)

21.10.03 主を喜ぶ



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「ローマ8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

過去の失敗を引きずってしまう

 「ピンポーン」「はーい。どちら様ですか。」「わたくし、電話会社の者ですが、今回お客様の電話料金をお安くできる…」「あっ。うちはそういうのは結構です。」「・・・」
私は、以前セールスの仕事で、飛び込みで個人宅や企業に訪問をしていたことがありましたが、アポイントもなく突然訪問しますので、このようにして断られることがほとんどでした。セールスは契約を取るのが仕事なので、契約に至らなければ「失敗した」ということになります。断られることがほとんどで、話が出来ても即契約ということにはなりませんので、朝からずっと回って夕方近くになってもまだ契約が取れていないと、「今日はもうダメかな」という思いがよぎってきます。「これだけたくさん回ってダメだったから今日はもう終わりだ」と自分の中であきらめてしまいます。そして、その失敗した残念な思いを次の日に持ち越して、また訪問に出かけますので、「よし、今日こそは!」と思って臨んでも、結局また失敗することになってしまいます。私は調子の浮き沈みが激しかったので、その心がそのまま数字に表れていました。失敗した時の残念な思いをずっと引きずったままでいたので、当然うまく行きません。

失敗を恐れるようになる

 私たちも、過去に失敗して落ち込んだり、恥ずかしい思いをしたりという出来事がたくさんあったかと思いますが、それらの記憶はいつまでも心の片隅に残っています。例えば、学校の授業で、クラスの中で自分一人だけ持ち物を忘れて恥をかいたことや、遅刻して周りの人に迷惑をかけてしまったことなど、思い起こすとたくさん出てくるのではないでしょうか。そんな失敗をして恥をかいてしまうと、「今度からは絶対に忘れないように気をつけよう」「二度とあんな思いはしたくない」と心に誓い、きちんと完璧に準備をしようとします。「失敗は恥ずかしい」と思うので、「どうすれば失敗せずに上手にやることができるだろうか」と失敗を恐れて、失敗しないための対策ばかりに心が向いてしまいます。もしくは、「もうこんな自分はいや!」と落ち込んだり、後悔したりして、その気持ちをずっと抱えたまま無駄に時間を過ごしてしまうということになります。

失敗は神の許しがあって起きていると知る

 私たちは、自分の身に起こるすべての出来事には意味があり、それは神様の私たちに対する目的、ご計画であることを知らなければなりません。あなたのために必要があって、その出来事が起きています。意味がなく起きていることは一つもありません。身の回りに起こる一つ一つの出来事に神は働いておられます。失敗してあなたが落ち込んでいることも、神の許しがあって起きており、神の目的、意図があります。神は、その失敗の出来事をも用いてくださって、私たちを最終的に良き結果へと導きたいと願っておられます。問題を解決したいと願っておられます。主は、「試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」。ですから私たちは、神様のなされることを歓迎して受け取らなくてはなりません。

主のなされることを喜ぶ

 私たちがすることは、失敗に直面した時に、神様に感謝することです。神の目的、意図があってなされているがゆえに感謝するのです。失敗したことは事実であり、起きた出来事を変えることはできません。しかし、失敗したことに対する自分の態度、姿勢は変えることができます。失敗して落胆したり、投げやりになって自分を責めるのか、それとも、神様に感謝し神様のなさることを歓迎して喜ぶのか、どちらかを選択することができるのです。失敗に直面した時に、私たちがどういう態度を取るのかということが問われています。私たちが日々起こる失敗した出来事に対して主に感謝し続けるならば、主は私たちの信仰を通して働くことができるようになります。そして私たちは主の働きを見ることができるのです。
 私は、「自分の言いたいことを人に思うように伝えられない」という問題を抱えている中で、「うまく伝えられなかった、失敗した」と感じるたびに「神様、感謝します。感謝します。」と感謝し、主を賛美し続けました。そうしていますと、不思議と心に平安が与えられます。目に見える周りの状況は何も変わっていなくても、私の心の中では確かな変化が起きていました。残念な思いや責められる思いはすべて取り去られました。そして過去の失敗にとらわれることなく、喜びを持って今やるべきことに集中することができました。
 パウロは、ピリピの教会に書き送った手紙の中で、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)」と記していますが、彼は、自分がどんな境遇に置かれたとしても、その状況を許されている神様を見上げて、いつも主を賛美し、主を喜んでいました。神のなさることはいつも最善であることを知っていました。彼は主に用いられて、福音宣教の働きを全うすることが出来ました。このような生き方こそが、キリストによって新しくされた私たちクリスチャンの生き方であります。 (岩下 栄作)

21.09.26 救いの喜び



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「Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」

喜びがほしい

 秋も少しずつ深まり、お店にもりんごや栗が並ぶようになりました。先日、私の栗好きを知ってくださる方から、栗蒸し羊羹や栗きんとんをいただくことがあり、秋の味覚の美味しさもさることながら、そのお気持ちをとてもうれしく感じました。
 私たちはうれしいことがあると喜びます。プレゼントをもらったとき、試験に合格したとき、大好きな家族や友達と過ごす時、おこづかいをもらった時、ほめられた時、部活の試合に勝った時、仕事が成功した時、子どもの成長を見る時など、良いことがあると喜びます。人の生活はそれぞれですが、どんな人も喜びを求めて生きています。苦しみやつまらないことを求めたりはしません。できるだけ良い収入を得て、必要なものを買ったり、趣味や旅行を楽しんだりするために、一生懸命働いています。できるだけ楽しく喜んで生活したいと思います。しかし日常生活はうれしいことばかりではありません。平穏に生活していても、急に収入が減るとか、健康を害するとか、職場や家庭の人間関係がうまくいかなくなるとか、何かアクシデントや心配事が起きると、喜びはとたんに失せてしまいます。ずっと平安で喜んで生活できたらいいのにと、多くの人は願うのではないでしょうか。

救いの喜び

 私たちはイエス・キリストを信じて救われました。救われた時、これからは一人ではなく神様と一緒に生きていくことができるのだ、と喜びに満たされました。救われて心が健やかでいられるようになりました。たとえば職場や学校で嫌なことを言ってくる人がいたら、普通はその人を敬遠したり憎んだりするでしょう。しかし救われている人は、なんとかして愛そうとします。それは、信じる人のうちに住んでくださっている聖霊が、心の奥底に「自分の敵を愛しなさい(ルカ6:35)」とみこころを語られるからです。しかし「敵を愛する」ということは、救われていなければ思いもよらないことです。なぜこれが喜びなのでしょうか。
 人を憎むということは、人を傷つける以上に自分を苦しめることになります。私は救われる前、長い間周りの人を憎んで生きていました。人を憎むと、人も自分を嫌がっているのではと疑うようになり、人に対して心を開かなくなり孤独になっていきます。人と交わりをすることがあっても、心から楽しむことができません。自分のことばかり考えているので、家族も崩壊しそうになり、その苦しみの中で救われました。救われて憎しみから解放されたことが大きな喜びです。神様の「自分の敵を愛しなさい」という命令は、私たちを人を憎むことから守ることになるのです。私は教会に来るようになって、くったくなく楽しく交わりができるようになりました。人を憎む暗闇の生活から、愛して生きようとする光の生活に変えられたことが救いの喜びです。

救いの喜びを知らない

 ところで、一度救われたら、その救いはずっと続きます。私たちがはっきりと神様を拒まない限り、その救いが取り消されることはありません。ですから救いの喜びは決して失くなることはありません。もし救われているのにもかかわらず、喜びがないと言うならば、それは救われた時に、救いのすばらしさを理解していなかったからです。神様からすばらしいプレゼントをもらったのに、それがどんなに価値あるものかということをわかっていなかったということです。たとえば、お札には価値がありますが、小さな子どもに札束を持たせても喜びません。それはその価値を知らないからです。救いがどんなにすばらしく、価値があるものかを知らなければ、せっかくもらった札束を、それを使って楽しんだり、役立てたりすることをしないで、引き出しの奥底にしまって、忘れてしまっているようなものです。

救いのすばらしさ

 神様がくださった救いは、私たちの理解をはるかに超えてすばらしい価値あるものです。「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった』(Ⅰコリント2:9)」。まず、このような罪に汚れた者のために、主が身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、その罪が一つ残らず赦されたということが驚くべき恵みです。それだけではなく、信じる者一人一人のうちに聖霊が住んでおられること、そして信じる者に永遠のいのちが約束されていることは驚くべき恵みです。
 聖霊は、私たちを罪の誘惑から守り、正しい道へ導いてくださいます。また永遠のいのちは死の問題を完全に解決します。世の人々は、死に対する閉塞感の中で生きています。しかし救われた者にとっての死は、天国に入れられ神様とともに永遠に生きることを意味します。ですから、たとえ歳を重ねても、病にかかるときも、恐れることがありません。永遠のいのちはどんなに大きな富ともくらべものにならないほどのすばらしい救いの恵みです。
 人生にはさまざまなできごとが起こりますが。救われた者はどんなときにも、神様がくださった救いの喜びの中で、希望を失うことなく勝利して生きることができるのです。 (鈴木千史)

21.09.19 人を偏り見てはならない



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「箴言28:21 人を偏り見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。」

芸能人のイメージ

 テレビには、俳優やタレント、お笑い芸人、ニュースキャスターなど様々な人が出ています。芸能人にとって一番重要なのは好感度です。私たちは、芸能人たちを見るときに「真面目そうな人だ」とか「親しみが持てる」など、様々なイメージを持って見ています。昔、ある俳優がテレビドラマで悪役を演じているのを見たことがありました。また別の機会で、その人がバラエティ番組に出ていた時に、とても気さくに笑顔で話しているのを見て、「この人、こんな一面があるんだ」と感じました。ドラマでの役のイメージが強すぎると、それが定着してしまうことがあると思います。反対に、とても好感度の高い俳優が、スキャンダルを起こしてニュースに取り上げられると、「えっ!まさかあの人が事件を起こすとは…そんな人には見えないのに。」と思ってしまうことがあります。私たち視聴者は、その人のことについてすべて知っているわけではないのに、勝手なイメージを持って見ていたりします。

偏り見ていないだろうか

 私は、救われて間もない頃、当時の職場の上司に「クリスチャンってとても清楚なイメージだよね」と言われたことがありました。クリスチャンは、いつも真面目に善行に励んでいて、おしとやかで汚れたイメージが全くないという見方があるのだと思います。それを聞いたときに、私自身も、昔は職場の上司が見ていたのと同じように見ていたことを思い出しました。
 私たちも、人に対して何らかのイメージを持っていますが、それが時に、人を偏った目で見て、決めつけてしまうことがあったりします。以前働いていた職場で、上司が部下のことを、「あいつは本当に出来ない。言っても分からないし。ほんとダメなやつだ。」と言っているのをよく聞ましたが、世の中には「仕事ができる人や能力のある人は価値がある。できない人は価値がない。」という価値観があります。仕事で結果を出していると、周囲からほめられたり認められたりしますが、そうすると、仕事の成果のことだけではなく、その人の人格や発言まで、すべてが肯定的なイメージとなって、「あの人の言うことはすべて正しい」「何でもできる完璧な人」というイメージを持ってしまうことがあります。反対に、仕事で成果が出ていなかったり、周囲からの悪い評判があったりすると、その人の存在そのものまで否定して「私はあの人を受け入れられない」と、その人の存在を退けてしまいます。私たちにも、無意識のうちに人を偏り見ていることはないでしょうか。

神はすべての人を同じ目で見ておられる

 では、神様は私たちのことをどのように見ておられるのでしょうか。聖書は、「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」と言っています。この世にいる人で神の正しさの基準を満たしている人は誰もいない、すべての人はみな罪の下にあると言っています。人を愛したい、正しく生きたい、と思っても出来ないのが私たち人間です。神様から見れば、慈善活動に熱心になっている人であっても、社会的な犯罪を犯している人であっても、同じ罪人です。どれだけ豊富な知識があって、ずば抜けた才能や能力があってもそうでない人でも、神様の目から見れば同じ罪人です。「あなたは前向きに努力して、社会のために人のために尽くしていますね。だからあなたは価値がある」とは言われません。人はみな神の前に罪人です。しかし、だからと言って神は、「あなたは出来ていないからダメだ。あなたのことは知らない」と言って見捨てることはなさいません。正しく生きることが出来ない罪の問題を抱えた私たちですが、そのありのままを愛しておられます。神はすべての人を同じ目で見ておられます。

自分を正しく見ることから始めよう

 ですから、私たちはまず、自分自身のことを正しく見ることから始めなければなりません。結局、人を偏り見ているのは、自分に対しても同じように見ているからです。人に対して「出来ていないからダメだ」と見ている目で、自分に対して「出来ていない私は価値がない。役に立たない。」と見ています。その自分の中にあるセルフイメージを他の人にも投影しているのです。
 私たちが、自分のことを正しく見ること、つまり「私は出来ない者、間違ってしまう者、しかし神はこの私のありのままを愛しておられる」という真実を知り、それを受け取るとき、私たちは、出来ていない人を見ても「あの人は出来ていない。だからダメだ」といった見方ではなく、「間違っている、出来ていない、だから教えてあげよう」という愛の姿勢で接することができるようになります。人を自分の中のイメージだけで偏り見ることはありません。言うべきことがあれば、きちんと相手のために言ってあげることができます。そして人を正しい目で見ることができるのです。

21.09.12 従うことの祝福



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「箴言1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」

アサギマダラ

 秋の七草の一つにフジバカマ(藤袴)という花がありますが、この花を好んで寄ってくるアサギマダラという蝶がいます。羽があさぎ色(青緑色)で、体がまだら模様なのでこの名前がついたそうですが、長距離の旅をする蝶として知られています。秋になると、日本各地のフジバカマが咲く公園や庭には、どこからともなく、ひらひらとたくさんのアサギマダラが飛んできて、人々の目を楽しませます。アサギマダラの詳しい生態はまだよくわかっていないようですが、国内だけでなく、海を越えて台湾などへも飛んでいき、2500kmを旅したという記録もあるそうです。春になると北の方へ、秋になると南の方へと、旅を繰り返します。渡り鳥は丈夫な翼を広げて力強く飛びますが、蝶のあんなに小さくて軽い体のどこにそんな力があるのかと不思議です。風に吹かれたら、紙切れのようにどこかへ飛ばされてしまいそうですが、正確に、行くべき方向へ飛んでいくことができるのです。
 神様はこの小さな生き物に、長い距離を飛ぶことができる力と知恵を与えられました。同様にすべての生き物は、神様が定められた通りに忠実に生きています。植物も天体も全ての被造物は、神様のご支配の下で神様の定められた生き方や法則に従っているのです。そのように神様はこの世界の調和を保っておられます。

従って生きるために造られた

 神様は人を、他の被造物とは違い神様と交わりができるように特別に造られました。神様は人を愛され、人も神様を愛することを望まれたのです。神様が最初の人アダムとエバをエデンの園に置かれた時、彼らはまるで小さな子どもが母親の手の中に安心して抱かれているように、神様に信頼し切って、神様に従って暮らしていました。神様に守られ、心配など一つもありませんでした。これが神様が最初に人に定められた生き方です。
 少し意識すると、日頃私たちは神様に従って生きていることがわかります。たとえば、人は朝が来ると起き、夜になると眠ります。当たり前のようですが、朝が来たり夜が来たりするのは、神様が規則正しく天体を動かしておられるからです。また、人は季節に従って様々な種類の種をまいて収穫しますが、季節を支配し、作物の成長に必要な雨を降らせたり、太陽の光を注ぐのも神様のわざです。人が季節やお天気を変えることはできません。さまざまな法則もそうです。ものが落ちたり、お湯が沸いたり氷ができるのも、神様が定められた法則です。人が生まれるしくみも、人が必ず死ぬことも、すべて神様が定められました。
 神様は人を愛してくださり、安心して生きられるように必要のすべてを与えてくださっておられます。人は神様のご支配の中で、神様に従って生きるように造られているのです。

従わないと平安がない

 ところで、神様が私たちに与えてくださる教え(みことば)は、私たちを守り、私たちに平安を与えるためのものです。「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」。ですから、もし私たちが神様のみことばに聞き従わないならば、たちまち平安がなくなってしまいます。
 たとえば、神様は私たちが健やかであるように願っておられます。「あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ1:2)」。なのに夜更かしばかりしていて十分に睡眠を取らないならば、心身の健康を害してしまいます。
 また神様のみこころは私たちが勤勉であることです。「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。(箴言10:4)」。学校から帰ってきて、宿題を後回しにして遊びに出かけたら、遊んでいても気になってしまって平安がありません。また家の中の整頓を怠っていると、物が散らかってくつろげません。
 また神様は「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と言われます。ですから従うならば、いつも笑顔でいなければなりません。仕事が失敗した時も、けんかしたときも、叱られた時も、経済が満たされない時もです。従うことをしないで心が落ち込んだまま放っておくと、平安を失っていきます。従うことは私たちの心が守られることです。

従うことの祝福

 神様に従うことは楽しいことです。イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。私は高校の合唱部の指導をしていたとき、コンクールの課題曲の講習会が日曜日にありましたが、礼拝を優先したところ、本番で思いがけず金賞をいただいたことがありました。また今までどんなに時間やお金を捧げても乏しくなったことがありません。返って豊かにされています。何より、いつもなんとも言えない平安と希望が与えられています。どんなに落ち込む時も、走り戻る場所があることは本当に幸いなことです。神様に従うことによって大いに祝福を受ける者となって参りましょう。

21.09.05 わたしの霊によって



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「ゼカリヤ4:6 彼は私にこう答えた。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。【権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって】と万軍の主は言われる。」

可能性のある限り

 先月東京オリンピックが終わり、現在行われているパラリンピックも今日で終わります。卓球男子の腕や足に障害のあるクラスに、幼い時に事故で両腕を失ったエジプトの選手がいます。
 彼は現在48歳ですが13歳で卓球を始めました。当初、ラケットを脇の下に挟んでプレーをしていましたが上手くいかず、口にくわえるスタイルに変えて練習をしていました。しかし最初は、10分練習をすると歯の痛みに耐えられなくなる状態で、痛みに慣れるためにひたすら練習を重ねたそうです。さらに彼はサーブを打つとき、毎回足の指でボールを挟んでトスを上げています。これもまた相当の練習が必要となります。卓球は、とてもスピード感のあるスポーツですが、彼はサーブの度ごとに足を上げ、ラケットを落ちないように歯でしっかりとくわえ、頭を思いっきり振って打ち、誰よりも全身をフルに使ってプレーをしています。試合での結果は予選リーグ敗退となりましたが、インタビューで、「不可能はないということを証明したい。できないことはないと世界中の人に知ってほしい」と話していました。普通ならあきらめてしまうようなことに、ひたむきにチャレンジしている姿勢を見て私も心を動かされました。

自分に制限をかけていないだろうか

 私たちも、生活の中で起こる様々な失敗や、人間関係などの問題で苦しむ時に、「やっぱり上手く行かないな」と思って、チャレンジすることをあきらめていることはないでしょうか。仕事でミスをして、しばらく経ってまた同じ状況が訪れる時に、「また失敗してしまうかもしれない」と思うと、「失敗をして恥をかくのも嫌だから、やらないで済ませる方法はないだろうか」とチャレンジすることを恐れてしまうことがあるかもしれません。「私はパソコンとか機械のことは全然知識がないから分からない。この分野のことは苦手だから無理だ」と自分の中で決めつけてしまい、行動することを避けようとしてしまうこともあるかもしれません。また、人と自分を比較して、「あの人には出来るかもしれないけど、私はそんな能力や才能はないからできない」と決めつけて済ませようとしていることもあるかもしれません。それは、私たちの心の中で「自分は、しょせんこんなもんだ」と、自分の能力を小さい枠の中で閉じ込めて制限をかけているからです。

神に限界はない

 主は私たちに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と語っておられます。私たちは、自分の経験してきたことや、この世の常識にとらわれているかもしれませんが、主を見上げなければなりません。主は、「あなたがまだ経験したことのない、知らない世界がある」と語ってくださいます。不可能のない主に信頼するならば、主が、まだ私たちが見たことのないことを経験させてくださると信じます。
 主は無限のお方です。空を見上げれば数え切れないほどの星が存在しますし、地球上にはたくさんの動物や植物が存在しますが、発見されている生物は地球全体の数から見ればごくわずかなものです。まだ見たことのない生物は無数に存在します。それらすべてが神の手によって造られ、神によって生かされています。私たちの能力も神が与えてくださった賜物ですので、まだ発揮されていない能力が必ずあります。神に限界はありません。

私たちは神の力を知ることができる

 私たちは、「自分は、しょせんこんなもんだ」と思っている見えない鎖(くさり)を、神様によって断ち切っていただかなければなりません。主は、「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)」と語ってくださいます。主を見上げて、「主が私のこの仕事を、勉強を、完成させてくださる」と信じて進んでいくときに、普段であれば気がつかずに見過ごしていたことに気がついたり、自分が考えてもいなかった方法に気づかせてくださいます。その時私たちは、「神には不可能がないのだ」と知ることができるのです。
 私たちは今、目を開いて信仰によって起きている出来事を見なければなりません。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった(Ⅰコリント2:9)」とありますように、主は私たちがまだ見たことも聞いたことも考えたこともないことを、私たちに経験させてくださろうとしています。
 私たちは今、神のあわれみによって罪から救われて生かされていますが、人は自分の罪をどうすることもできません。救いは神の力によることです。救われる前の私たちは、イエス様を信じて歩むという現在の状況を、まったく想像していなかったと思います。神の不思議な方法によって導かれて、今の私たちがあることを感謝します。主は、さらに私たちを用いて、ご自身の栄光を現したいと願っておられます。ですから私たちは、神の栄光を現すために、喜んで自分自身のすべてをささげてまいりましょう。「信じるなら神の栄光を見る(ヨハネ11:40)」と主は語っておられます。

21.08.29 ともに喜び泣きなさい



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「ローマ12:15-16 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」

優越感

 先日、駅の近くの階段を降りようとすると、少し前に目の不自由な若い女性が、左手で手すりを伝いながら、右手で杖をついて階段の左寄りを降りて行きました。ふと気づくと、長い階段の途中の何段かが工事中で、左手の手すり側が柵で囲まれています。そのまま手すりを伝って行くと柵にぶつかってしまうと思ったので、「そこから下は工事中です。」と声をかけて、手をとって階段の中央へ寄るように誘導しました。その人は「ありがとうございます」と言って、再び階段を降りて行かれました。「柵にぶつからなくてよかったな」、と思いましたが、同時に「よいことをした」という思いがわいてきました。これは「自己満足だ」と思いました。自分の心に優越感が潜んでいるので、そんな気持ちがわいてくるのだと思いました。エレミヤ書には「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(17:9)」とありますが、まったくその通りだと思います。

差別発言

 ある芸能人が、「ホームレスの命はどうでもいい」「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい。」などと発言して炎上している、という記事を最近の新聞で読みました。彼はYou-tubeで、自分は生活保護の人を助けるために納税しているのではない、ホームレスの人は邪魔だし、プラスにならないからいない方がいい、などと数回に渡り発言したのです。当然、差別発言として問題になり、生活困窮者を支援する複数の団体が、「優生思想」(人種、病者、障害者などを差別する思想)につながることを懸念するとして、緊急声明を出しました。本人は謝罪をしたようですが、それも本物の謝罪とは受け取り難いと批判されています。彼の心の中に、自分は能力もお金もあるという優越感が満ちていて、弱者を見下す気持ちが自然に外にあらわれたのだろうと想像できます。「人の命をなんだと思っているのだ、まったく痛ましいことだ。」と思いながらも、はたして自分の心に潜んでいる優越感と、この人の優越感とはどこが違うだろうか、と思わされました。神様の目にはどちらも同じ罪であり、自分には人をさばく資格などないのだと悔い改めました。

本当に寄り添うことができない自分

 今日のみことばは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」と教えています。人を愛し、人の心に寄り添いなさい、という勧めですが、家族や友人など親しい人の心に寄り添うことは難しくはありません。一緒に喜んだり、悲しんでいる時に共感して話を聞いてあげたり、慰めのことばをかけてあげたりすることは自然にできます。しかし、そうではない人に対して、私は本当には寄り添うことができていないことに気づきます。たとえば、毎年のように起こる大雨による災害で、家や家族を失った方々の様子をテレビの映像などで見聞きすることがよくあります。「大変だなあ、気の毒だなあ」と心が痛みますが、しかし心のどこかで「自分の住んでいるところは無事でよかった」、と思っていることに気づきます。ホームレスの方が暑さや寒さの中で道の片隅にずっと座っておられるのを見ると、「雨が降ったらどうするんだろう」と気になりますが、心のどこかで「自分は家があってよかった」と思っていることに気づきます。一見人に寄り添おうとする心の中に「自分は痛みがなくてよかった」という優越感が潜んでいるのを痛感させられます。ともに喜ぶことにしても、私の心の中に妬む思いがあり、心の底から人を祝福することが難しいことがあります。自分は本当に人に寄り添うことなど少しもできない者、聖くない者だと、いつも思わされるのです。
 そんな中、東京オリンピックのスケートボードの試合で、日本の選手がメダルを狙って挑んだ大技(おおわざ)に失敗し、泣き出してしまったとき、他の国の選手たちが一斉に駆け寄り、彼女を抱きしめ、肩車をして彼女を持ち上げ、彼女の挑戦を賞賛した場面がありました。彼女たちに信仰があるのかわかりませんが、敵味方問わず、泣く者に真心で寄り添う若い選手たちを見て、人には真に愛する力が与えられているのだと励まされました。

寄り添ってくださる主

 自分は真に人に寄り添うことができないと失望する時、ふと神様を見上げると、神様はそんな聖くないどうしようもない自分に、真に寄り添ってくださっておられることがわかります。主は罪深い私をありのままで愛してくださり、十字架の上で私の罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして今、私のうちに住んでおられます。落胆している時、疲れている時、主に心を向ければ、寄り添ってくださるお方がおられることを思い起こし、喜びと希望がわいてくるのを感じます。「愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(Ⅰヨハネ4:16)」。その御愛を思う時、自分も人に真に寄り添い、ともに喜び泣く者になりたいと願います。主の御愛に倣う者となっていきたいと思います。

21.08.22 ゆとりは神から来る



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「ヨハネ14:1 『あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

トランプピラミッドに挑戦

 先日テレビで、29段のトランプピラミッド世界記録に挑戦するという番組を観ました。トランプを使って三角形を作り、それを上へ上へと積み重ねていくのですが、一見誰でも出来そうな気がしますが、それを崩さないで正確に一番上まで積み上げるのは、そう簡単には出来ません。さらには、3時間の番組放送中に完成させるという時間の制限もありました。彼は一段一段、集中してピラミッドを積み上げていきます。周囲の視線も当然感じていることでしょう。「みんなが自分のことを期待をして見ている。ここで失敗するわけにはいかない。いや、そんなことを考えてはいけない。ただ目の前のことに集中しよう。」という思いもやって来ることでしょう。あと一段という場面では緊張感が最高潮に達します。観ているこちらも、「ここまで来てもし崩れたら…」と、手に汗握りその行方に釘づけになって見ていました。そして彼は、ついに番組放送中に29段のトランプピラミッドを完成させました。彼は日頃から何度もやっていますので、多少の余裕があるのかもしれませんが、それでも人の注目が集まる場面で緊張しないはずはありません。

焦ってはいけない

 私たちも生活の中で、「完璧にやらないといけない。失敗してはいけない。」と感じると、途端に不安に襲われて構えてしまったり、しなくても良い心配ばかりして冷静さを失ってしまうことがあると思います。
 出かける準備をするときに、「あれがない、これがない」と探し物をしている時に焦ります。「早く行かなければならない」と時間に迫られるので焦ってしまいます。普段からゆとりを持って行動していればいいのですが、そうしていても、思わぬ事態やアクシデントは私たちの生活の中でいくらでも起こります。「明日までの締め切りに間に合わせないといけない。ああ、時間がない。」「夏休みの宿題を早くやらないと大変なことになる」と思うと焦ります。そんな時、「やらないといけない」という気持ちばかりが先行してしまい、したいことがまったく進んでいなかったりします。できなかった時のことを考えてしまい、余計に焦る思いが増幅されていきます。「焦ってはいけない。落ち着け。落ち着くんだ。」と自分に言い聞かせて心を落ち着かせようとしますが、そうすればするほど、余計に焦る思いがつのっていき、頭の中がパニックになってしまいます。焦って行動したり、話をしても良い結果は生まれません。しかし、それが分かっていても焦ってしまうのが私たちではないでしょうか。

不信仰はないだろうか

 そんな焦る気持ちがやって来る時に、私たちはどうすればいいのでしょうか。主は私たちに、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と命じておられます。私たちのうちに不信仰はないでしょうか。
 イエス様が弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちがイエス様を舟にお乗せして向こう岸へ向かおうとしていた時、激しい突風が起こりました。湖は大荒れで、舟の中は水でいっぱいになりました。弟子たちは慌てて船尾で眠っておられたイエス様を起こして助けを求めました。弟子たちは、「先生、こんな舟が沈むかもしれないという時になぜ寝ておられるのですか。早く何とかしてください」と、イエス様に食ってかかりました。すると、イエス様は風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ(マルコ4:39)」と言われ、嵐はやみました。イエス様は、嵐に動揺する弟子たちの不信仰を叱責されました。主は、私たちの心にある不信仰を取り除いて、信仰を引き出そうとしておられます。

神を信じる信仰に立つ

 私たちは、「自分にはできるだろうか」と考えていること自体が不信仰であって、神への信頼の態度ではないということを知らなければなりません。ですから、主の視点に立って物事を見なければなりません。主は「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)」と私たちに語られます。私たちは「主にあってできます。」と告白しなければなりません。主を信じて疑わないならば、主は私たちのうちに働いてくださって、やる気を与えてくださり、事を行わせてくださいます。そして冷静になって起きている状況を見ることができるので、「私は今何を一番優先しなければいけないのか」ということに気が付かされて、行動していくことが出来ます。私たちは主にあって、ゆとりを持って前進することができるのです。

21.08.15 みことばを熱心に聞く



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「ローマ10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

せみの声

 暑さが得意なわけではないのですが、毎年せみの声を聞くと「夏が来た!」とわくわくします。なぜかと考えると、せみの声が、子どもの頃の楽しかった夏休みを思い起こさせるからなのだろうと思います。朝早く起きて外に出ると、夏の朝の明るい日差しの中で、にぎやかに鳴くせみの声を聞きながら、玄関のプランターに植えてある朝顔の花が、今日はいくつ咲いているかな、と楽しく数えた情景などを思い起こすのです。
 江戸時代の俳人である松尾芭蕉の句に、「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」というのがあります。「なんて静かなのだろう。岩にしみ入るようにせみが鳴いている」という意味ですが、この句を詠んだ時に芭蕉がたたずんでいた山奥の静けさが、岩にしみいるほど騒がしいせみの声を聞いていると、一層静かに感じられる、という意味なのだそうです。私たちは一斉に鳴くせみの声を、「うるさいなあ、静かにしてほしいなあ」と、どちらかというと邪魔に感じることがあるかもしれません。しかし、日本では昔から、せみが一斉に鳴いている様子を「せみしぐれ」という美しいことばで表現するように、せみの鳴き声は夏の季節や風景を味わうのに欠かせない夏の風物詩となっています。もしせみがいなくなったら、夏の季節感が大幅にそがれてしまうのではないでしょうか。

雑音に聞こえる

 ところがせみの鳴き声について調べていたら、あるネットの記事に「アメリカ人にはセミの声がきこえない」という記述を見つけました。あんなに騒がしいせみの声が聞こえないわけはありません。それはつまり、アメリカ人にはせみの鳴き声が、雑音に聞こえるということなのです。つまり虫の声であるとは認識されていないということです。せみの声に限らず、日本人は秋の虫のコオロギや鈴虫などの声にも情緒を感じますが、多くの外国人には虫の声は雑音に聞こえるそうです。世界の中でも虫の声に情緒を感じる民族は少数なのだそうです。その理由は、虫の声など自然の音を、日本人は左脳(言語脳)で聞き、多くの外国人は右脳(音楽脳)で聞いているということで、文化の違いなのだそうです。同じものを聞いているのに、ある人は風情を感じ、ある人には雑音にしか聞こえないというのは不思議な感じがします。

本当に聞いているか

 私たちは生活の中で、いろいろな音を聞きます。職場や学校にいるときも、道を歩く時も人の声やいろいろな物音が聞こえてきます。テレビや動画やラジオからも、音楽や人の話し声が聞こえて来ます。それらは耳に入って来ますが、必ずしも聞いているとはかぎりません。自分が聞きたいこと、興味のある声や音だけが耳に入って来て、ほかの音は聞こえて来ないということがあります。たとえばレストランでBGMに好きな曲が流れていて、あとで一緒に食事した人に「あの曲が流れていたね」と言っても、「そうだった?」と全く聞こえていなかったということがあります。確かに耳には聞こえていたはずなのに、興味がなければ聞こえていないのです。耳から入って来ていても、心がそこに向いていなかったということなのでしょう。
 ところで、私たちがみことばを聞くことに関してはどうでしょうか。冒頭のみことばは、「信仰は聞くことから始まります。」と教えています。神を信じる者にとって、みことばを聞くことが最も大切ということです。私たちは礼拝のメッセージでみことばを聞きます。また、聖書を読むときも、たとえ声に出さないとしても、心の中でみことばを読む自分の声を聞いています。確かに耳に入っています。しかし、そのみことばを本当に聞いているでしょうか。
 たとえば、礼拝のメッセージで「あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と語られる時、確かにみことばが耳に入って来ます。そのとき、自分が愛していない人、愛したくない人の顔が思い浮かぶでしょう。職場のあの人の顔、家族のあの人の顔、あの兄弟の顔、あの姉妹の顔・・・と。そのとき「わかっているけど、今は無理」、と後回しになっていることはないでしょうか。そうだとしたら、それはみことばが聞こえていないことと同じことではないでしょうか。つまりみことばに心が向いていないということではないでしょうか。聖書には「自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22)」とあります。みことばを聞くということは、聞いたらすぐに、愛そうとすることを始めることです。

みことばを熱心に聞く

 私たちは自分の好きな音楽には耳を傾けますし、尊敬する人の言うことばを熱心に聞きます。その音や声は自然に耳に入って来て心にまで届きます。ですから、なおさら私たちは、私たちが愛する主のみことばに熱心に耳を傾けることができます。 主はそのひとり子を私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。私たちはこの福音のみことばに熱心に耳を傾けたので、イエス・キリストを信じて救われました。救いのみことばを聞いた時、「わかったけど、またいつか信じます」と後回しにしていたら、救われませんでした。
 私たちは私たちを愛してくださった神様を愛しています。愛しているので、みことばを熱心に聞きたいと思います。そして聞いたら従いたいと思います。大好きな方の言われることなので、自然に耳に入ってきますし、言われたことを後回しにはしたくないのです。「愛しなさい」と聞いたら、主が愛してくださったように、人を愛したいと思います。主はみことばに従う者の願いを何でもかなえてくださいます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15:7)」。みことばを熱心に聞く者となりましょう。

21.08.08 神を熱心に捜し求める



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「箴言8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」

ただ一つの目標のために

 コロナ禍で、延期や中止を求める声がありつつ開催されたオリンピックですが、連日、白熱した戦いが繰り広げられ、いよいよ今日が最終日となりました。どの選手も、この大会のために何年も練習を積み重ね、また小さい頃からオリンピックを目指してきた選手にとっては、人生の集大成とも言えるほど大事な瞬間であります。その中でも、卓球女子の伊藤美誠選手は、混合ダブルスで金メダルを獲りました。また、シングルスでも銅メダルを獲得しました。現在、世界ランキングで2位に入るほどの実力があり、卓球王国の中国にとっても脅威の存在となっているようです。
 伊藤選手は、2歳の頃から卓球選手だった母親の影響で卓球を始めました。「中国を倒せるのはあなたしかいない」とお母さんからいつも言い聞かされていたそうです。彼女は小学校の卒業アルバムに、「2020年のオリンピックで金メダルをとりたい」と書いており、まさに今回、その夢が実現しました。彼女は中学から地元を離れて、より卓球に打ち込める環境に身を置きました。海外の試合にはお母さんも同行し、遠征先に炊飯器を持ち込んでおにぎりを握ったり、何枚もあるユニフォームを洗濯したり、冬は体が冷えないようにお茶の温かさをキープしたりと、彼女が練習に集中することができるように、最高のパフォーマンスを発揮することができるように、全力でサポートをしてきたそうです。まさに、母親と二人三脚で歩んできた道のりでした。伊藤選手の活躍の裏には、母親の献身的なサポートがありました。そして何よりも、伊藤選手本人が「オリンピックで優勝する」という熱い思いを持ち続けてきたからこそ成し遂げることが出来たのだと思います。

熱心に神を求める

 私たちも、今までに学校の部活動や受験勉強、仕事などで大きな目標に向かって熱心に取り組む時に、自分でも想像しなかった大きな成果を得ることがあったかもしれません。熱心に取り組むことはとても大きな力を生み出します。
 しかし、私たちの熱心は何よりも神様に向けたいと思います。私たちはまず神様を第一に求めなければなりません。仕事に熱心になって成功を求めることよりも、家族や友達との関係を築くことに熱心になるよりも、神を求めることが第一優先でなければなりません。それが、私たちが祝福されるために一番必要なことである、と聖書は教えています。そのために、まず心のうちに、「私は神様との正しい関係を築いていきたいです」と願い求める思いが必要となります。では、そのような思いはどこから来るのでしょうか。

主は私を熱心に捜してくださった  

 それは、主の私たちに対する熱心な思いを知ることからやって来ます。主は、私たちを罪の滅びの中から救い出すために、ずっとご計画を持って導いておられました。それは「世界の基が据えられる前から(エペソ1:4)」選んでくださっていたのです。神は「あなたを救い出す」というただ一つの目的のために、長い間熱心に心を向けておられました。
 取税人のザアカイは、町の中を通っておられたイエス様を一目見ようとしてやって来ました。背が低かったザアカイは人垣に遮(さえぎ)られて前に出ていくことができず、それでもあきらめることのなかった彼は、木に登ってイエス様を見ることにしました。するとイエス様は、多くの群衆がいる中で、木に登っているザアカイに目を留められ、声をかけられました。ザアカイは、教えた覚えのない自分の名前を呼んで声をかけてくださり、さらには「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(ルカ19:5)」と言われました。イエス様が、ザアカイを救い出すというご計画を持って声をかけられたことが分かります。彼は、「この人は、こんな罪ある私のことを受け入れてくださった」と心の底から喜びが湧き上がり、すぐさま木から降りてイエス様のもとに駆け寄り、イエス様を歓迎しました。主の熱心によって彼は救われました。主は、たった一人の失われたたましいを救い出すために、いつも熱心に心を砕いておられます。私たちは、主の測り知ることのできない愛が自分に向けられているということを知るときに、その愛に応えたいという思いにならざるを得ません。

熱心に求めるときに神を見出す

 今あなたの心は熱いでしょうか。それとも冷たいでしょうか。主は、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示3:15-16)」と語ってくださいます。主は生ぬるい状態を嫌われます。もし「自分は生ぬるいなあ」と感じる思いがあるならば、その状態を良しとしないで、嫌がらなければなりません。熱くなるというのは、自分のテンションをあげて熱くなろうとすることではなく、神様に対して熱心になることです。それは、私たちが神様の前にへりくだって、「私はあなたの言われることを何でも行いたいです」と、喜んで主のご支配を心の中に受け入れる姿勢であります。そのようにして私たちが、神を求めるというただ一つの目的のためだけに熱心になるその先に、私たちは望んでいる結果を手にすることができます。神様を熱心に求めていった結果、集中力が与えられ、やる気が与えられ、愛する思いが与えられて、仕事や勉強に打ち込むことができ、気がついたら多くのことが成し遂げられたという結果に導かれていきます。そして、余計な心配をしたり、考え過ぎてしまったり、不安に襲われたり、焦ってゆとりをなくしてしまうことなど、あらゆる妨害から守られて前進することができるのです。主は、熱心に求める人に必ず報いてくださいます。

21.08.01 すべてが益となる



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「ローマ8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ある交通死亡事故 

 先日、交通事故で中学一年生の男の子を失くしたご両親が、取材のインタビューに答えていました。コロナ禍で、昨年の5月にやっと中学校に行き始めた矢先のできごとでした。家を出て自転車が通行できる歩道を走行していたところ、道沿いのガソリンスタンドに入ろうと左折して歩道に入ってきた大型トラックに巻き込まれてしまいました。大型トラックは一時停止を怠っていました。父親は、「大人が交通ルールを守らないことが問題だ」と悲しみの中にも怒りをあらわにしていました。
 母親も悲しみにくれていました。事故の朝、男の子は早く学校に行きたくてそわそわしていました。お母さんは、「『まだ早すぎるからもう少し待ってから出発したら』と私が言ったんです。」と話しながら泣き崩れてしまいました。おそらく、子どもが事故にあったのは自分が声をかけたせいだ、と自分を責めているのだろうと思われました。確かに彼がもう少し早く家を出ていれば、事故に遭うことはなかったかもしれません。画面からご両親の無念の思いが痛いほど伝わってきました。事故で突然子供を失くした親の悲しみは計り知れません。しかもこのご両親は、これからずっと怒りを握りしめ、悔やみながら生きていかれるのだろうかと思うと、なんとも苦しい思いになりました。

すべてが益となる

 私たちは過去のできごとを悔やんで、「あの時こうすればよかった。」と考えたりします。あの時あの会社を、あの学校を、あの結婚相手を選んでいれば、もっと良い人生になっていたかもしれない、あの時もっと冷静であったら、あの人を傷つけることはなかったかもしれないと、何かの折に思い起こしては、後悔の念にかられたり、自分を責めたりするのです。確かに、振り返って自分のよくなかった点を改めることは大切です。しかし聖書は何と言っているでしょうか。
 冒頭のみことばは、すべてのできごとは創造主であられる真の神様の主権の下にあることを教えています。「神を愛する人たち」「神のご計画にしたがって召された人たち」というのは、クリスチャンのことです。神様は私たちが生まれる前から、私たちを愛してくださり、私たちがこの世に生まれ、神を信じて救われるご計画をお持ちでした。そして信じる者のためには、「すべてのことがともに働いて益となる」と言われます。私たちの人生には、人の目には悪いと思えるできごと、たとえば失業するとか、健康を害するとか、愛する家族と死別することなどが起こります。しかし、どんなできごとも神様の主権の下にあり、神様の許可がなければ起こり得ないのです。しかし神様は、そのすべてのできごとが私たちの益になるように働いてくださいます。

ナオミ

 旧約聖書のルツ記に、ナオミという女性が出て来ます。彼女はユダのベツレヘムに住んでいましたが、飢饉(ききん)が起こったため、夫のエリメレクと二人の息子とともに、外国であるモアブの野へ行き滞在しました。しかし不幸なことに夫はこの地で亡くなりました。残された二人の息子は、モアブの女を妻に迎えましたが、その二人の息子も亡くなってしまいました。ナオミは失意のうちに、ユダの地に戻ることにしますが、二人の嫁のうちルツは、義母と一緒に住むことを強く願い、二人はベツレヘムに帰郷します。出迎えた人々にナオミは、自分に起こった不幸を嘆いて「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでください。(ルツ1:20)」と言いました。
 貧しさの中で、ナオミはルツの願いを聞き入れ、畑に落穂を拾いに行かせます。するとその畑は、はからずも夫のエリメレクの親戚であるボアズの畑でした。ボアズはルツを愛するようになり、エリメレクの土地を買い入れ、二人は結婚し、ナオミは再び家族を得て、穏やかで幸福な老後を過ごしました。
 ボアズとルツの子、すなわちナオミの孫にあたるオベデはダビデの祖父であり、このダビデの家系に救い主イエス・キリストがお生まれになりました。主はナオミの苦しみを喜びに変えてくださり、神様の救いのご計画のために用いてくださいました。すべてのできごとを用いて益としてくださる主に感謝します。

主に信頼して歩む

 私たちの日常生活の中では良いことも起こりますが、とても歓迎できないできごとや、いつまでも悔やまれるようなできごとも起こります。しかし主のご計画は、すべての人がことごとく祝福されることです。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」。私たちを祝福するために、主はすべてのできごとが益となるように働いてくださいます。この恵みを知っている私たちは、どんなに人の目には悪いと思われることが起きたとしても励まされ、慰められ、希望を持つことができます。
 どんな時にも主に信頼する信仰を持って歩んで参りましょう。そして、まだこの恵みを知らない周りの人々に、福音を告げ知らせて参りましょう。

21.07.25 主が道をまっすぐにされる



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「箴言3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

後回しにしてしまう問題

 先週から学校は夏休みに入りましたが、子どもたちにとっては、「夏休みの宿題をどうやってやり終えるか」ということが一つのテーマではないかと思います。「毎日決めた量をコツコツこなして行こう」と考えている人もいれば、「まだ始まったばかりだから、少しずつやって行けばいいや」と考えている人もいるかもしれません。仕事でも勉強でも期限があります。初めは、「計画的に進めていこう」と考えてやる気にあふれてスタートしますが、そのやる気が続かず、後回しにしてしまい、結果的に、締め切り直前になって慌ててやることになってしまったという経験をしたことがある人は多いのではないかと思います。そして、「いつも物事を後回しにしてしまう習慣とはもうおさらばしたい」と考えている人も多いと思います。
 私たちが、やるべきことに取り掛かろうとする時に、期限までまだ日数があると「やらなくてはいけないな」と思ってはいても、そこまで精神的にプレッシャーを感じることはありません。「できるならやった方がいいけど、まだ今はそこまで真剣にならなくても大丈夫だ」と思っています。しかし、期限がだんだん近づいて来ると、少しずつ焦りを感じ始めるようになってきます。すると、「まだあと三日あるから、今日はここまでやって、明日はここまでやれば、何とか期限に間に合うだろう」と自分の中で計画を立てて、「見通しが立ったかな」と思うと少し安心した気分になります。しかし、すぐにまた焦る気持ちがやって来ます。「焦ってはいけない。大丈夫だ。まだ時間はある。」と自分に言い聞かせて平静を装います。そして気持ちだけが先走って、なかなか行動に移せないということになっていきます。後回しにした結果、前日、当日に切羽詰まって急いでやる羽目になってしまいます。

出来なかったことで悔やんでいる

 そして、「ああ、またギリギリになってしまった。計画していたけど全然出来なかったなあ。本当に自分はダメだなあ」と出来なかったことを悔やみ、落胆して自分を責めたりします。そして、「今回は期限に間に合わなかったけど、次こそは絶対にやってやるぞ!」と決意して立ち上がろうとします。「今週は色々と忙しかったからしょうがないよね。」と自分の都合の良いように考えて自分を正当化したりもします。しかし後回しにしてしまうという問題はまた繰り返しやってきます。そのようにして毎回「今度こそは!」と立ち上がり、「またできなかった」と落ち込み、負のサイクルから抜け出せなくなっていきます。

へりくだりの姿勢があるだろうか

 主は私たちに、「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。」と語っておられます。私たちがしようとしているすべての計画の上に、主の導きがあるのだということを忘れてはなりません。私たちは、自分の考えや計画、自分の見通しに拠り頼んではいないでしょうか。自分の中で「こうやっていけば多分できるだろう。計画通りに終わらせることができるだろう。」と思って安心して事を進めているかもしれません。それは「自分の力でやりきることができる」と思っていることではないでしょうか。私たちは、主の御前にへりくだらなければなりません。「私はすぐに怠けてしまう者だ。私は主に助けていただかないと必ず失敗する。上手くいかない。毎日コツコツやらなければ前進することはできない。そのためには主の助けがなければならないのだ」というへりくだる姿勢を持つならば、私たちは自然と主に祈り求めることになります。そのようにしていくときに、主は「明日のことを誇るな。」「今日やるべきことがあるではないか。そのことだけに集中しなさい」と語ってくださり、私たちは「主が、私のしようとしている計画を導いてくださっておられるんだ」と知って、主とともに事を行っていくことができるのです。

あなたの進む道をまっすぐにされる

 私たちがへりくだりの姿勢を持って、主に信頼していくときに、主は私たちのしようとしている計画を祝福してくださって、事を進めてくださいます。私たちは、やる気を出そうとしたり、「出来そうな気がする」というような自分の調子や感覚に頼らないで、事を始める最初から、主に導いていただかなければなりません。そのためには、主の御前にへりくだることが必要です。主は、私たちの歩む道を確かなものとしてくださいます。

21.07.18 賢い人になろう



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「マタイ7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」

虔十(けんじゅう)公園林

 「虔十公園林」は宮沢賢治の短編童話です。知恵遅れでいつもみんなからばかにされている虔十は、ある日お父さんに初めてねだって杉の苗七百本を買ってもらい、一生懸命植えて守り育てました。それが杉林に成長し、いつしか近くの小学校の子供たちがやって来ては、喜んで遊ぶようになったのです。虔十は見てうれしそうに笑っていましたが、ほどなく疫病で死んでしまいます。 年月は流れ、ある時この杉林でかつて遊んでいた子どもの一人が、立派な博士となって外国から帰国し故郷を訪れました。彼は、開発によって村の風景がすっかり様変わりしてしまった中で、あの虔十の杉林だけが残っているのを見つけ、感動して言います。「あゝ全くたれ(誰)がかしこく、たれ(誰)が賢くないかはわかりません。」。鉄道が敷かれ、工場や家が立ち並ぶ中で、濃い緑の樹木が立ち並ぶその場所だけは残され、人々の憩いの場所となっていました。博士の提案で、この杉林は「虔十公園林」と名付けられ、いつまでも保護されることになりました。
 「賢い人」とは、必ずしも知識のある立派な人のことなのでなく、虔十のように、ぼくとつでも人々の幸せのために何が本当に必要か知っている人なのだ、とこの物語の著者は伝えます。樹木は新しい空気を吐き出し、暑い夏には木陰を作り、美しい緑色は人々の目を癒やします。人にはかけがえのないものです。

岩の上に家を建てた人

 ところで聖書は、「賢い人」をどう教えているでしょうか。イエス様は山上の説教で、群衆に幸せとはどんなことなのかを教えられ、続いて天の父なる神様に信頼する生き方について、たくさんのことを教えられましたが、その最後に「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」と言われました。主のみことばを聞いて行う人が「賢い人」だと言われたのです。そしてその人を、「岩の上に自分の家を建てた」人にたとえられました。岩は固くて丈夫です。岩の上に土台を据えて家を建てれば、簡単に倒れることはないでしょう。この岩とは、主のみことばを聞いて行う信仰のことです。これに対して、主のみことばを聞いてもそれを行わない人を「砂の上に自分の家を建てた愚かな人(マタイ7:26)」にたとえられました。砂の上の家は、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、(同7:27)」ひどい倒れ方で倒れてしまいます。ここで言われた洪水や風は人生に起こる困難のことです。主のみことばを聞いて行う人は、困難がやって来ても簡単に倒れてしまうことはないのだと教えられたのです。

主の教えを行う

 私たちの信仰の土台は岩の上に据えられているでしょうか、それとも砂の上でしょうか。私たちが普段順調に生活している時には、それがどちらなのか見えません。しかしふいに困難がやってきた時、その土台がどちらに建てられているのかがわかります。
 普段の生活の中で、私たちは、毎日小さなことから大きなことまでいろいろな困難に出会います。職場の上司に、同僚に、あるいは部下に、一言悪く言われただけで、落胆や怒りの思いに支配され、一日中悶々として仕事に集中できません。また経済においても、収入が減ったり思わぬ出費がかさんでしまい、今月はやっていけるだろうかと心配で平安がありません。一生懸命勉強したのに、学校のテストで目標の点数が取れなくて、自分はなんてだめなんだと落ち込んでしまいます。また大きなことでは、予期しない災害があります。先日熱海市で起きた大雨による土石流災害では、一瞬のうちに多くの家の建物が倒壊してしまいました。「まさか明日から家に住めなくなるとは思わなかった。」と被害者の方は言われました。私たちはふいにやって来る困難に弱いのです。それは砂の上に据えられた信仰でしょう。
 しかし主が教えられたように、もし岩の上に信仰の土台が据えられていれば、つまり普段から神様のみことばを行おうとしていれば、困難の時すぐに主のみことばを思い起こし、主に信頼することができます。人間関係で悩む時、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」と主は言われます。経済を心配する時、「明日のことまで心配しなくてよいのです。(同6:34)」と言われます。自分はできないと落ち込む時、「求めなさい。そうすれば与えられます。(同7:7)」と言われます。主のみことばを聞いて行おうとする人は、困難の中にあっても、倒れそうでも倒れないのです。

賢い人になろう

 冒頭の童話の博士は、「あゝ全くたれがかしこく、たれが賢くないかはわかりません。」と言いましたが、本当に賢い人は、神様に信頼し、みことばを聞いて行おうとする人です。それがすべての人の幸せのために、本当に必要なことです。父なる神様は私たちを愛してくださり、私たちに必要なものを知っておられ、心と健康を守り、何でも与えてくださるお方です。このお方に信頼し、賢い人になって参りましょう。

21.07.11 神のことばが全身の癒やしとなる



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「箴言4:20-22 わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」

世界最高齢の総務部員

 昨年の暮れに、大阪のねじの商社に勤務する女性社員が「世界最高齢 総務部員」としてギネス世界記録に認定されました。玉置泰子さんという方で、入社して65年目の大ベテランです。現在91歳で、平日朝9時から夕方5時までフルタイムで働いています。パソコンの使い方を若い社員から教わり、表計算のソフトを使いこなせるようになったそうです。「難しくないですか?」との質問に、「いろんな機能がありますから、そんなのを使ってやれば意外と誰でもできる簡単な仕事だと思いますよ」と答えていました。27歳の同僚の女性は、「高齢になってもいろんなことに挑戦している姿を見たら、私ももっと頑張らないといけないと勇気づけられますね。」と話していました。玉置さんは、「会社での生活は楽しいから、朝会社に来るのは足が進む」と言います。新入社員の研修も担当していますが、背筋もきちんと伸びていて、ハッキリと言葉を口にして話していました。91歳という年齢をまったく感じさせない雰囲気です。高齢になって、健康でいられるだけでも感謝なことですが、他の人たちと同じように働くことができるというのは、やはり仕事が好きで楽しんでいることが一番の原動力ではないかと思います。

何となく疲れている

 私たちも、仕事や趣味、スポーツなどに夢中になっている時には、多少からだに痛みがあったとしても、そのことをすっかり忘れて目の前のことに没頭していたということがあると思います。反対に、特に大きな病気にかかっているというわけではなく、普通に働いて生活しているだけなのに、何となく疲れていてやる気が出なかったり、何をしてもつまらないと感じてしまうということもあったりします。そのような状況が続くと、頭が痛い、めまいがして気持ち悪い、食欲がなくなるという症状として表れてきます。「病は気から」とよく言われますが、私たちの心と体は密接につながっているということを表している言葉だと思います。
 修道女として貧困や病に苦しむ人々に関わり続けてきたマザー・テレサさんは、30年以上前に来日した時の日本人の印象についてこう述べています。「日本では路上で行き倒れて死んでいく人、膿(うみ)にまみれてハエにたかられている人はいません。しかし、日本を歩きながら大変なショックを受けました。街はきれいだし、とても賑わっているのに、その街を歩く人たちの顔に笑顔がないのです。皆さんの悲しそうな表情が心に焼きつけられました。」と話しています。食べることができている、住まいもある、働くこともできている、何不自由なく満たされている暮らしであるはずなのに、何となく心に喜びがなく、それが表情に表れているということだと思います。私たちの心は、放っておくと少しずつ悪い考えに支配されて行きます。それは、ある日突然落ちていくということではなく、毎日少しずつ変化して行きます。

神のことばを見失っていないだろうか

 もし今、私たちの心に喜びがない、体が疲れてしまって何となくやる気がないと感じるというようなことがあるとしたら、その原因は周りの環境にあるのではなく、私たちの心が神様から離れてしまって、神のことばを見失っているからではないでしょうか。神のことばを知ってはいても、聞こうとしていないからではないでしょうか。私たちは、神のことばを聞かなければ、自分の考えに支配されてしまいます。人間関係のことで悩んだり、恐れたりして、あれこれと考えて疲れ果ててしまいます。すると、仕事も勉強も家事もやる気が起きなくなりますし、立ち上がることすら出来なくなって行きます。

いやし主を求める時 健やかにされる

 あなたが、「私は神様を信じています」と言うならば、まず、いやし主であられる神様ご自身を求めるべきです。体調が悪い、頭が痛い、何となく疲れている、やる気が出ないと感じる時だからこそ、主を求めて礼拝に来るべきであります。「こんなみじめな状態で、人が集まる場所にはいけない。みんなが私のことを見てどう思うだろうか。」などと考えたりするかもしれません。ですが、「主はいやしてくださる」という信仰を持って礼拝に、教会に来るならば、あなたは必ずいやされます。信仰を持って、ご奉仕に参加し、学びに参加し、セルに参加するならば、あなたはいやされます。今、主のみもとに行くことを選択するべきです。
 12年もの間、長血をわずらった女性は、イエス様のうわさを聞きつけて、イエス様のもとに近づいて行きました。彼女には信仰がありました。「あのお方の衣のすそにでも触ることができればきっといやされる」という信仰がありました。イエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。(マルコ5:34)」と言われました。私たちは、信仰を持って御前に進み出る時に、いやされ健やかにされて生きられる恵みに感謝したいと思います。神のことばが心の中にとどまるならば、仕事にもやる気が持てますし、人を愛そうという思いも湧き上がってきます。良い生活習慣を築いて行こうという思いも湧いてきます。私たちは、神のことばによって全身が健やかにされることを信じます。何よりもまず、神のことばを聞く者となりましょう。

21.07.04 神を思う日



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「出エジプト20:8-10 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。」

安息日

 神様は七日ごとに休みを取るという「安息日」を制定されました。現代では一週間に一回の休日は当たり前となっていますが、これは聖書に由来します。
 神様は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民をモーセを用いて救い出されました。民は約束の地へ向かって荒野を旅しましたが、その途上で神様は彼らに、代々に渡って守るべき掟として「十戒」を与えられました。それはモーセの律法と呼ばれる十の戒めで、その四番目の戒めが冒頭のみことばです。
 神様が安息日をイスラエルの民に与えられたのは、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったこと、そして神様が大いなるみわざをもって、そこから救い出し、自由にしてくださったことを覚える日とするためでした。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。(申命記5:15)」。そして神様は、民が安息日に食物の心配をすることのないように、その前日に安息日の分の食物(マナ)を与えてくださいました。それほど安息日を重要な日とされたのです。安息日は民が日常の仕事を中断して休み、静かに落ち着いて、神様がしてくださった大いなるみわざを思う日です。

日曜礼拝

 モーセの律法では「七日目」が安息日ですから、もともと安息日は土曜日でした。しかし、イエス・キリストを信じる私たちクリスチャンの安息日は、週のはじめの日、すなわち日曜日です。それは、イエス様が復活された日、復活後に弟子たちにあらわれてくださった日、そしてイエス様が昇天された後、集まって祈っている人々に聖霊が降った日(ペンテコステ)というように、クリスチャンにとって重要な日がすべて日曜日であったからです。ですから、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝をします。日曜日には特別に教会に集まって、皆で一緒に神様に賛美と感謝を捧げるのです。

聖なる日

 ところで、神様は安息日を「聖なるものとせよ。」と言われました。「聖なる」というのは「取り分けられた」という意味です。神様は、この日をほかの日から取り分けて、特別に神を思う日としなさいと言われました。私たちは、月曜日から土曜日までは、それぞれに仕事に出かけたり、学校で勉強したり、あるいは多くの人は平日にもう一日はお休みがありますから、買い物や遊びに出かけたりして楽しみます。週のうち六日間は自分の生活や自分の楽しみのために、思い思いに過ごしてよいのです。しかし日曜日だけは、自分のためではなく、神様を礼拝するために特別に取り分けておきなさい、ということです。日曜日にわざわざ仕事や遊びの予定を入れないということです。
 イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。何をおいても神様を礼拝したい、教会で賛美と感謝を捧げたいと願う人々に、神様は生活に必要なすべてのものを与えてくださると約束してくださいました。
 人によっては日曜日が仕事の職業もあります。たとえば警察官、消防士、交通機関で働く人などです。その場合は自分の意志ではどうにもならないことですが、それでも神様のことを思う日にしたいと思います。また自分の意志でどうにかなる場合は、なるべく日曜日が休めるように希望することが望ましいことです。また自分の休みが日曜日でない場合は、週日の休みの時を、一日神を思う日として取り分けたいと思います。神様は私たちが日曜日に礼拝を守ることを喜んでくださいます。

神を思う日

 私たちは日頃それぞれに問題を抱えて生活していますが、日常の忙しさに紛れて、つい神様の御声を聞くことを忘れて思い煩っているような者です。ですから日曜日に集まって礼拝を捧げることは、クリスチャンにとって大きな恵みです。
 礼拝の中で、神様に思いを向けることによって私たちは神様の大いなる愛を思い起こし、心身が癒され、問題の解決が与えられます。
 主を信じる兄弟姉妹と心を一つにして神様を賛美し、聖書を読み、祈り、語られるメッセージを聞くことによって、心の向きが、煩いから神様の方向へ変えられます。
 そうして私たちは、ともに歩んでくださる神様との関係を取り戻し、みことばによる導きをいただいて新しい一週間を始めることができます。
 日曜日は神様を思う特別な日です。私たちは日曜日を待ち望み、心からの喜びを持って礼拝を捧げて参りましょう。