21.04.18 主のいつくしみを味わう

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「詩篇34:8 味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ 主に身を避ける人は。」

音の響きを味わう

 一年ほど前から、ピアノの練習曲を少しずつ練習しています。指の訓練にと思い、今まで弾いたことのない新曲を気の向いた時にぽつりぽつりと弾いているうちに、習慣になってきました。多くの時間をかけられないので、練習するのはほんの短い時間で、最近では、朝出かける前の5~10分です。よく弾くのはバッハの簡単な練習曲です。右手を練習し、左手を練習したら、両手で弾くのですが、この初めて両手で合わせる瞬間が「どんな響きになるだろう」と一番わくわくします。それから右手と左手がうまく噛み合うまで繰り返し練習しますが、時間が短いので、今日はここだけと、1~2小節くらいのほんの短いフレーズを繰り返し弾 くことになります。そのおかげで、音の響きを味わうことができるようになりました。時間がたっぷりあれば、曲の始めから終わりまで通して練習できますから、ある一部分の音の響きを味わうことはできにくいのです。昔作曲の先生が、「ピアノがあまり達者でない人の方が、音楽を味わうことができるんだ」、と言われたのを思い出しました。立ち止まってこそ音の響きの美しさを味わうことができるということです。

風景を味わう

 味わうと言えば、出歩く時に周りの景色を味わうのも楽しいものです。いつも車で通っている道を歩いてみると、こんなところにこんなものがあったのかと発見して面白いものです。車ではあっという間に通り過ぎてしまいますが、徒歩であれば止まってゆっくりと見ることができます。今は春なので、家々の庭や玄関のプランターにはチューリップやアネモネやビオラなど、色とりどりの花が咲いていて、つい立ち止まって見入ってしまいます。庭木も、名前も知らない黄色や紫色や白い小さな花が、道路にはみ出すようにして、いっぱいに茂るように咲いているのを間近で見ると、その色と、花や葉の形の美しさに感動し、創造主であられる神を賛美せずにはいられません。
 ある作家が新聞のコラムに、乗り物の速度や構造で、見える景色は大きく違うのだという話を書いていました。彼は感性を磨くために、ゆっくり移動できて、座席が屋根や窓で閉ざされていないシニアカー(高齢者向け電動カート)に憧れているということでした。老後はこれに乗り、毎晩宿で充電しながら、かごに乗ったお殿様のような気分で旅をしたいのだそうです。思わず笑ってしまいましたが、ゆっくりと移動し、時に立ち止まることで、季節の移ろいをより深く味わうことができるということでしょう。

讃美歌「いつくしみ深き」

 冒頭のみことばは、ダビデの詩篇です。彼がサウル王から逃れて、敵国のペリシテのガテに逃れたときに歌った詩篇であると言われています。自分の国に居場所もなく、敵国に逃れて荒野をさまよう中でも彼は主を見つめ、主がいつくしみ深い方であることを味わい、ほめたたえていました。
 「いつくしみ深い」ということばを聞くと、「いつくしみ深き」という世界中によく知られた讃美歌を思い出します。この詩を書いたのは、ジョセフ・スクライヴェンというアイルランド人の男性です。彼は結婚式の前日、婚約者をボートの事故で亡くすという悲しみに遭います。その深い悲しみの体験からこの詩を書きました。「キリストこそこの上ない良き友、私たちのあらゆる罪と悲しみを担ってくださる。祈りによってすべてを神に告げることができるのは何という特権だろう」と歌っています。彼は、人の罪を赦し、耐えられないような悲しみの中で慰めてくださる主のいつくしみの深さを味わい、知っていたのです。その後、彼は生涯と全財産を神に捧げる決心をし、困っている人を無報酬で助けるために、人生を費やしたそうです。     

主のいつくしみを味わう

 イエス様は「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」と言われました。主は私たちを友と呼んでくださり、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださるほどに、私たちを愛してくださいました。主は喜びの時も悲しみの時も、私たちとともにいてくださる友です。
 ダビデは「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。」と呼びかけています。私たちは「いつくしみ深き」の作者のように、祈りによって思いのすべてを神様に告げることで、主のいつくしみを味わい、慰めを得ることができます。生活の中で行き詰まっている時、主に呼びかけて、助けと慰めをいただくことができるのです。主は「あなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」とみことばをもって答えてくださいます。そのようにして私たちは、祈りの中で主のいつくしみを味わうことができます。毎日忙しく暮らしている中で、私たちは目の前にある用事を片付けることに必死で、神様に祈ることをすっかり忘れているということはないでしょうか。そう気づいたら立ち止まり、主に思いを申し上げて祈り、主のいつくしみを味わい、慰めをいただく者となって参りましょう。

21.04.11 神に近づこう

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「ヘブル4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

憧れの人に近づきたい

 私は小さい頃から野球が好きで、よく父親や友達と球場へ観戦に行っていました。いつもはテレビで見ているプロの選手たちを間近で見ることができるので、とてもワクワクしていました。初めて父親に連れられて球場へ行った時の記憶は今でも鮮明に覚えています。スタンドに入った瞬間、いつもテレビで見ているあの光景が目に飛び込んできた時にとても感動しました。プレーする選手の声、ピッチャーが投げた球を打った時の「カーン!」という球場全体に響きわたる音、ホームランになった時のあのすさまじい歓声がとても衝撃的で、実際に間近でプレーする選手を見て、より野球への興味関心が沸いたことを覚えています。「自分もあの人のようになりたい」と憧れを抱きました。少しでも憧れの選手に近づくことができるようにと、バッティングフォームを真似してみたり、研究をしたりしました。
 誰でも、自分の尊敬する人や有名人などの生き方を見て、「あの人のようになりたい」と思って、その人に少しでも近づきたいと思った経験があるのではないかと思います。

自分にないものを持っている人

 イエス様が弟子たちを主の働きに召された時、初めにペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの4人を召し出されました。彼らは漁師でした。イエス様は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう(マルコ1:17)」と彼らに声をかけられます。彼らは、すぐに網を捨ててイエス様につき従っていきました。仕事も家族も今ある生活のすべてを捨ててイエス様について行きました。恐らく彼らは、イエス様に声をかけられた時、「この方は自分にはない何かを持っている」と感じたことだと思います。それが何なのかははっきりと分からなかったかもしれないけれども、何か感じるものがあって従ったのだと思います。
 同じように私たちも、神様を信じた時、また信じてから、神様がずっと変わらぬ愛を持って愛し続けていてくださったことを知ったときに、「私には人を愛し続けることができるような愛はない。しかし神様は愛そのものであられて、100%の与える愛で愛してくださっている。そんな神様に近づきたい」と思ったのではないかと思います。

神に近づくには

 主は私たちに、「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と語りかけてくださいます。私たちは本来、罪ゆえに神に近づくことができない者であります。しかしイエス・キリストを信じた私たちクリスチャンは、キリストの十字架のあがないによって神に近づくことができるようにされました。キリストが私たちと神様との橋渡しをしてくださったので、私たちは神様に近づくことができるのです。
 では、私たちはどうすれば神に近づくことができるのでしょうか。私たちが御声を聞くときに、神に近づくことができます。また、祈る時に、神に近づくことができます。神様のことを思い巡らすときに、神に近づくことができます。聖書を読んでみことばに触れる時に、神に近づくことができます。礼拝やセミナー、ご奉仕に参加することで神に近づくことができます。生活の中心に神様がいて、どこにいても神様を礼拝しているならば、神に近づいているのです。

恵みを受けるために神に近づく

 私たちは、神に近づくことによって恵みを受けることができます。モーセは神と顔と顔とを合わせて話をしました。山から下りてきて民と顔を合わせた時、モーセの顔は光り輝いていました。主の栄光がモーセの顔を照らし、人が直接モーセの顔を見ることができないほどのまぶしさでした。私たちも、祈りの中で神様と交わり、心の中が喜びや感謝で満たされるときに、祈り終えた時の顔は、祈る前とまったく変わっていることだと思います。礼拝で恵まれると、礼拝に参加する前とまったく別人のように表情が変わっているという経験があると思います。
 私たちが神様に近づくと、御声に敏感になり、小さな罪に気付かされて方向転換することができます。行き詰まりを覚えるときに、すぐに神様に助けを求めて祈ることができます。今日生きられている、働くことができている、生活ができていることに感謝することができます。
 イエス様は素晴らしいお方です。私たちが不可能だと感じることを可能にしてくださるお方です。病を癒やし回復させてくださるお方であられます。壊れた人間関係を回復させてくださるお方です。そして何よりも、いつもともにいてくださって守り導いてくださるお方です。こんな素晴らしいお方が一緒にいてくださることほどの恵みはありません。私たちは神様に近づいて恵みをいただかなくてはなりません。
 しかし、神様に大胆に近づくことができないと感じる人もおられるかもしれません。苦しみの中で問題が明らかになることを恐れることがあるかもしれません。しかし主は、私たちのうちにある問題を解決したいと願っておられます。そのためには、神に近づかなければなりません。今一歩踏み出して神様に近づいてまいりましょう。主は、「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と私たちに今語ってくださっておられます。今この瞬間が、神様に近づくべき時です。主の招きに進んで応答いたしましょう。神様は決して私たちを見捨てることのないお方です。「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために」、大胆に神様に近づいてまいりましょう。

21.04.04 大切な人

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「ヨハネ10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」

日本でいちばん大切にしたい会社

 先日新聞で、「『日本でいちばんたいせつにしたい会社』大賞」という賞があることを知りました。これは「人を大切にする経営学会」などが主催する顕彰制度で、社員をいかに大切にしているかを、正社員比率や残業時間、障害者雇用率などの基準で選考し、過去5年間に渡ってリストラをしていないなどの厳しい応募資格があるそうです。最高賞はサントリーなどでしたが、特別賞に、浜松市内にある自動車学校が選ばれていました。一般的な自動車学校では教習車のコマ数や生徒の募集活動が給与に大きく響くそうですが、ここは一切給与に反映しません。従業員を賞罰で縛らない方針の根底には、社長の過去の苦い経験があるそうで、ノルマを設け、達成度で待遇に差をつけた結果、職場内がぎすぎすしたということです。働き方を自主性に任せると、ノルマを課さなくても生徒を集めてくれようになりました。定年もなく、現在最高齢は受付業務を担当している方で85歳だそうです。人を大切にする姿勢は人員に余裕をもたせる体制につながり、残業も激減しました。そのほかにも養護施設を巣立つ子どもの運転免許の取得費用を免除するなどの地域貢献もしているとのことで、人件費がかさんでも売上高は大きく伸びているようです。

北風と太陽

 イソップ物語に、「北風と太陽」という寓話があります。あるとき、北風と太陽が力くらべをしようとしました。そこで、旅人の上着を脱がせることができるかという勝負をしました。まず北風が力いっぱい吹いて、旅人の上着を脱がそうとしますが、寒いので、旅人はかえって上着をしっかりつかんでしまい、脱がせることはできませんでした。次に太陽が、ぽかぽかと照りつけると暑くなった旅人は、自ら上着を脱ぎ、太陽の勝ちとなりました。手っ取り早く乱暴に片付けてしまおうとするよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな効果を得ることができる、また、厳しい態度で人を動かそうとすると、かえって人は頑なになるが、寛容に扱ってあげてはじめて自分から行動してくれるようになる、という教訓です。人は大切に扱われたときにはじめて自分から動き出すのだ、ということを教えられます。また人に動いてもらいたいことがあったら、まず大切に扱ってあげることだと教えられます。

エリシャとアラム人

 第二列王記に、エリシャというイスラエルの預言者が出てきます。敵であるアラム人が、エリシャに向かって下って来たとき、彼が主に「どうか、この民を打って目をくらませてください。(Ⅱ列王記6:18)」と祈ると、彼らは目をくらまされました。エリシャは目の見えなくなった彼らを捕虜として、サマリアに連れて行きました。そこで、エリシャが祈って彼らの目を開くと、彼らは、なんと敵国の町の真ん中にいることを知りました。イスラエルの王はエリシャに「私が打ち殺しましょうか。(同21節)」と言いましたが、エリシャは、「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。(同22節)」と言いました。そこでイスラエルの王は、彼らを盛大にもてなしてから国に返しました。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。
 人は、大切に扱ってくれた人を攻撃しようとは思いません。攻撃することではなく、かえって大切に扱うことで、本当の勝利が得られることが教えられます。

大切な人

 イエス様は、「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。」と言われました。神様は人を愛し造ってくださいました。そして私たちすべての人の罪の身代わりとして、イエス様を十字架につけてくださいました。神様にとってはすべての人が、大切なかけがえのない存在です。ですから同じように、私たちが周りのすべての人を大切にすることは、神様が喜ばれることであり、みこころです。北風は強く吹いて上着を脱がそうとしましたが、太陽はぽかぽかと温めました。すると人は自ら上着を脱ぎました。私たちも、人に何かを伝えたいと思うとき、その人の心がぽかぽかと温まるようなやさしいことばをかけてあげることです。またその人が何か困っていたら助けてあげることです。そのようにしてその人の心を開くことができます。
 私たちは、毎日たくさんの人と関わって生活していますが、職場の人など、外で接する人には気を使っても、すぐ近くにいる親しい人を大切にすることを忘れていることはないでしょうか。たとえば、自分の子ども、夫や妻、両親に対してつい乱暴なことば使いになっていたり、話を聞いてあげることや、一緒に過ごすことをなおざりにしていることはないでしょうか。また兄弟姉妹との交わりや建て上げにおいても、親しいからといって不用意に話して、傷つけてしまうことはないでしょうか。私たちの周りの人は皆、神様が「すべてにまさって大切」と言ってくださるほどの人です。周りの人を大切にする者になって参りましょう。

21.03.28 わたしにとどまりなさい

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「ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

サクラの成長

 今月17日、名古屋でサクラの開花が発表されました。毎年少しずつサクラが咲く時期が早まっているようにも感じます。4月に入り入学式が行われる頃には、満開を過ぎて散り始めている所も多いのではないかと思います。一年のうちたった2〜3週間ほどしか咲くことがないサクラですが、春の風物詩として見る人を楽しませてくれます。花が散った後は、緑の葉が顔を出します。夏には葉が生い茂り、秋には葉が色づき、その後、葉は散ってしまいます。そして寒い冬を越して芽が少しずつ大きくなり、春になってまた花を咲かせます。私たちは、花が咲く春以外の時期にサクラを眺めたりすることはほとんどないかもしれませんが、サクラも毎日少しずつ変化しつづけています。花が散り、サクラの木全体が緑の葉で覆われる頃、もうすでに小さな芽が顔を出しています。夏から秋、秋から冬へと少しずつ成長し、春に花を咲かせます。しかし、その花も、木から送られてくる水分や太陽の光を吸収することがなければ自ら成長することはありませんし、枝が折れてしまえば、花を咲かせることはありません。いつも木にとどまっていなければなりません。私たちもまた同じように、神様にとどまっていなければ実を結ぶことはできません。

神から離れると苦しくなる

 イスラエルの民は、水のない乾ききった荒野を旅していた時、神様に対して不平不満を言いました。「食べる物がないじゃいか。飢え死にしそうだ。どうしてくれるんだ。エジプトでの生活は良かったなあ。」とつぶやき、その不信仰のゆえにわずか3週間から1ヶ月もあれば到着できる道のりを40年もかけて歩むことになってしまいました。自らの不信仰のゆえに、その心は神様から遠く離れてしまい、実を結ぶどころかどんどん苦しい生活を強いられることになってしまいました。
 私たちも、神様のご支配から離れて自分の思いや考えによって生活する時に、感謝することを忘れて、不平不満ばかりを言って、神様に対して反抗的な態度を取ることになっていきます。「何で神様はこんなみじめな状況に私を置かれるのか。神様は私を祝福してくださらないのか。」と怒りを持って神様に敵対し自らの生活を滅ぼしていくことになります。

わたしにとどまりなさい

 主は、「わたしにとどまりなさい」と語っておられます。神にとどまるとは、私たちが何をすることなのでしょうか。それは、みことばとともに生活することです。みことばに語られて生きることによって正しい方向を向いて歩むことができるのです。たとえ罪を犯してしまっても、神にとどまっているなら、みことばに語られて、悔い改めて御心を行う方向へと心の向きが変えられていきます。
 イスラエルの民は、不信仰が取り除かれて神様を信じて歩み始めた時から、神の祝福が彼らに臨みました。彼らは、約束の地カナンに入ることができました。そこは、神様が備えておられたとても良い地でした。泉が湧き、水が流れ、麦や果実など豊かな収穫があり、何不自由のない場所でした。彼らは、あらゆる良い物で満ちた家、豊富な水が湧き出る井戸、豊かな作物が収穫できる畑が与えられ、食べて満ち足りました。神の恵みを享受できたのです。
 私たちも様々な試練の中を通らされますが、その試練の中にあっても神は私たちを、その先にある祝福を与えるために今日も働いておられ導いてくださっているのです。ですから私たちはいつも神にとどまっていなければなりません。

多くの実を結ぶ

 神にとどまって生きるなら、私たちは多くの実を結ぶこととなります。神にとどまるならあなたの仕事は成功します。仕事の成功は、信頼できる良い人間関係が築かれた先にあり、自分の利益のことばかり考えていては成功しません。職場の同僚や上司、部下に対して自分の時間を犠牲にして仕えることや、愛することを積み重ねていく必要があります。それは神にとどまっていて可能なことです。そして、神にとどまるならば、あなたの家庭は祝福されます。夫婦、親子の関係がいつも愛にあふれ、お互いのことを思い、助け合うことができます。家族がいつもお互いのことを気にかけ、困っていれば声をかけてあげることができます。親は、子どもが暗い顔をして家に帰ってきたら、その子どもの心に寄り添ってあげることができます。そのような愛にあふれた家庭は、家族が神にとどまっていて可能なことです。
 もし私たちが今祝福されていないと感じるならば、それは神にとどまっていないからではないでしょうか。神から離れるなら、家庭に争いが起こります。しかし神にとどまるなら、良い関係を築いていくことができます。私たちが神様から離れるならいつも余計な心配がつきまといます。しかし神にとどまるなら、いつも平安でいることができます。
 箴言には、「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。(箴言10:22)」とありますが、私たちが豊かにされ富まされるのは、神が与えてくださる祝福によるものです。良い人間関係、仕事の成功、病の癒やし、心の平安などの神の祝福は、人間の努力では手に入らない真の祝福であります。それを覚えていないと、自分がこの富を築いたと勘違いをして、破滅の道へと進んで行ってしまいます。私たちが努力して築いた富、豊かさではなく、私たちが神の子どもとされて、神にとどまっているがゆえにあずかることができる神の祝福です。私たちが祝福されるためには、まず私たちが神様にとどまっていなければなりません。私たちがとどまっているならば、神様も私たちのうちにとどまってくださいます。この関係が築かれる時に、主は私たちに多くの実を結ばせてくださいます。ですから私たちは、神様にとどまりましょう。

21.03.21 私の居場所

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「詩篇23:6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。」

名古屋の喫茶店

 毎朝歩いて通る道に小さな喫茶店があります。昔ながらのちょっとレトロな店構えで、店の前にはいつも2、3台の自転車が停まっています。窓から中を覗くと、窓際で新聞を広げている人が見えたりします。おそらく店の中では、常連さんがモーニングのひと時を楽しんでいるのでしょう。夕方の閉店間際にもう一度覗くと、お客がいることは稀ですが、よく店の人が奥のテーブル席に座っているのが見えます。朝から夕方まで一日中、ぽつりぽつりとやって来る常連さんを迎えていたのでしょう。
 時々別の道を通ることもありますが、その途中にも喫茶店があります。こちらはカフェと呼ぶ方がふさわしい、狭いですが全面ガラス張りの、ちょっとおしゃれな喫茶店です。ここも大抵、人が入っています。一人でパソコンを開いている若者やビジネスマン、老夫婦、ベビーカーを引いた若いお母さん、一人でくつろぐ年配の女性などさまざまです。両方の喫茶店に感じるのは、みんなコーヒーを飲むために来ているというよりも、家のリビングのような安らげる場所を求めて来るのだろうということです。

長居できる場所

 名古屋市は喫茶店が多い街として有名です。市内にある飲食店の41%が喫茶店として営業しており、4000軒もの店舗があるそうです。ものづくりの街、名古屋には昔から多くの工場がありました。会社で打ち合わせをするのに、機械の音がうるさいため喫茶店を利用したところから、喫茶店文化が発展したそうです。全国にあるカフェチェーンなどは、できるだけお客の回転をよくするための工夫をしますが、名古屋の喫茶店は、自由に読める新聞や雑誌を充実させ、座り心地のよい椅子を置き、コーヒーにお菓子などのおまけをつけて、できるだけ長居してもらう工夫をしているのだそうです。モーニングのトーストや茹で卵などもおまけなのです。そして、コーヒーはゆっくり飲めるように、苦味が濃厚なのが正統派なのだということです。店としては、気に入ってもらえれば何度も足を運んでもらえるので、売り上げも上がるそうです。地元の人にとって喫茶店は、安心して長居できる、居場所なのでしょう。

主の家に住む

 冒頭の詩篇の作者はダビデです。彼は、「私はいつまでも 主の家に住まいます。」と言いました。これは、「私が休息する場所は主の宮です」ということです。彼の人生は長い間、戦いの中にありましたから、心身を休めるところは神様の神殿でした。そこで彼は神様に賛美と祈りをささげ、神様と交わりを持つことを喜びとしていました。多くの苦難の中で、時に孤独を感じるときも、彼はいつも神様に信頼し、祝福された人生を歩みました。
 イエス・キリストを信じる私たちも神様との交わりを喜びとします。しかしダビデのように神殿に行かなくてもよいのです。キリストが私たちの罪の身代わりとなってくださったので、私たちは罪赦され、私たちのうちに神様が住まわれるようになりました。神様が住まわれているので、私たちの体は主の宮です。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。(Ⅰコリント3:16)」。私たちは私たちのうちにおられる主と、いつでも自由に交わることができます。朝「主よ、今日の日を感謝します。」と祈り始め、一日中主と会話しながら生活することができます。

私の居場所

 人は居場所を求めます。そこにいれば安心な場所、受け入れてもらえる場所です。多くの人は自分の家が居場所でしょう。家族は自分のありのままを知っていて受け入れてくれます。しかしそれが叶っても叶わなくても多くの人は、他に居場所を見つけようとします。自分が受け入れられる場所、認められる場所です。仕事が居場所だと思う人もいるでしょう。あるいは友人や恋人など人が居場所となっていることもあります。スポーツや楽器などの趣味が居場所となっている人もいます。あるいは行きつけの喫茶店が居場所になっている人もいるでしょう。しかしそれがどこであったとしても、一生受け入れてもらえる場所はありませんし、褒め続けてくれる人もいません。家族でさえいつかは別れの時がきます。変わらない方は、唯一真の神様だけです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル13:8)」。主は私たちを愛してくださっておられ、決して見捨てることはありません。私たちは何よりもまず、このお方を居場所としなければなりません。神様との交わりは、安心していつまでも長居できる「私の居場所」です。

21.03.14 叱責を嫌うな

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「箴言3:11-12 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」

間違いを素直に認める

 私の息子は最近、折り紙や工作、ブロックのおもちゃなどにとても興味を持っています。その中でも特にブロックに興味があり、最近のブロックは、1ピースが4ミリ四方しかないとても小さなものがあります。それらの小さなピースを組み合わせて動物や乗り物、建物などを立体的かつリアルに作ることができます。そのような細かいブロックなので、作成の工程が複雑なものもあり、説明書を読んでも分からない時が出てきます。すると息子が「パパ、できないからやって」と言ってきます。一度やって見せて、そのあと自分でやり始めるのですが、作り方を間違えている時に、「やり方が違うよ」と言うと以前は、「分かるからいい」と言って自分の間違いを指摘されるのが嫌なようで、聞いてくれませんでした。しかし最近は、「そうじゃなくて、こうやってやるんだよ」と言うと、すぐに自分の間違いを認めて素直に聞いてくれるようになりました。
 私たちも、普段の生活の中で人から言われて気がつくことや、人から指摘されても素直に自分の間違いを認めることができなかったりすることがあるかもしれません。

痛い目にあわないと気がつかない

 また、薄々自分でも「このままではいけないな」と感じながらもそれを放っておいて、自分で痛い目にあって気がつくと言ったこともあるかもしれません。
 ダビデは、ウリヤの妻バテシェバと関係を持ち、姦淫の罪を犯しました。そのことを隠蔽するためにあらゆる策を講じますが、うまく行きません。切羽詰まった彼は、ウリヤを戦死に見せかけて殺してしまいました。その後、預言者が遣わされ、ダビデに対してあるたとえ話をします。「ある町に、富んでいる人と貧しい人がいました。富んでいる人は、多くの家畜を所有し、貧しい人は、たった一匹の小さな雌羊だけを所有していました。ある時、富んでいる人の家に旅人がやってきた時、彼は旅人をもてなすために、自分の所有する家畜から取って調理するのを惜しんで、貧しい人の家の羊を奪い取って調理しました。」その話を聞いたダビデは、「そんなあわれみのない男は死刑だ。」と激しく怒りました。預言者はダビデに対して、「あなたがその男です。どうしてあなたは主のことばを蔑み、悪を行ったのか。」と告げました。ダビデは、ハッと我に返りました。それまで自分のしたことを心の中で責められてはいたものの、主からハッキリと責められ、裁きを告げられた時に、彼は砕かれました。
 私たちも、例えば医者から、「あなたはこのまま今の生活習慣を続けていたら病気になりますよ」と言われても、「確かに好きなものばかり食べ過ぎているかもしれない。運動も全くしていない。」と薄々感じていても、明らかな痛みや症状が全く無ければ、そこまで気にすることはないかもしれません。しかし、「今の生活を続けていたら近いうちに死にますよ」と言われたら、今すぐ態度を改めてできることを何でもすると思います。私たちは、人の指摘や忠告、警告に対して素直に認めることができなかったり、痛い目にあってはじめて気がつくということもあったりします。

間違いに気づかされることは恵みである

 しかし、人から間違いを指摘されることや、神様から罪の指摘があることは、私たちにとって恵みであります。指摘されたその時は「嫌だな」と感じるかもしれません。しかし、その指摘が正しいのであれば、頑な態度を改めてすぐに「そうしよう」と決めて行動することが大切です。
 もし神様の叱責がなかったら、私たちは今どうなっているでしょうか。今よりももっと自分勝手でわがままな生活をして、自己中心に無頓着でいて、むしろ「自分は家族をちゃんと養っているし、夫としての役割をきちんと果たしている」「母親としてちゃんと子どもを育てている」と自分に言い聞かせて、「私は正しく生きているんだ」と言いながら生きていたかもしれません。私は以前はそうでした。しかし今は、神様から直接語られたり、家族や兄弟姉妹を通して、神様から教えられたり指摘されたりすることが恵みだと感じています。むしろ、問題が問題であると気が付かないでいることの方がよっぽど恐ろしいことだと思います。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(Ⅱテモテ3:16)」とありますように、聖書に書かれている神様のことばは、私たちが間違った道から正しい道へ向きを変えて歩むために、また、良い行いをしていくための訓練であり、私たちが祝福されるために神様が与えてくださった今も生きて働く力あることばです。

神の叱責を喜んで受け入れる

 ですから私たちは、人からの指摘や、神様からの叱責を喜んで受け入れましょう。神様は、反抗的な態度を取ったり、敵対して怒っている人に対して、無理矢理言って聞かせて、その態度を改めさせるということはなさいません。その人が自分で気がつくまで、なすがままにされます。自ら御前に出て悔い改めて、立ち返るのを待っていてくださいます。素直な姿勢で聞くことが、私たちが祝福される一番の近道です。
 主は、私たちを時に戒めてくださいます。「裁いてはいけません」「憤ったままでいてはいけません」「赦しなさい」「貪ってはいけません」「金銭を愛する生活をしてはいけません」と、私たちに叱責してくださいます。また、身近な人から、「そのやり方間違ってるよ。こうするべきだよ。」「もっと大きな声で話した方がいいよ。」「面倒臭がらないでやった方がいいよ。」と、その人を通して神様が私たちに語ってくださることもあります。神様の戒めは、私たちが祝福されるため、幸せになるための教えであります。主は、私たちを「愛する我が息子」「愛する我が娘」として見てくださっています。そして祝福したいと願っておられます。私たちは神の叱責を喜んで受け入れましょう。

21.03.07 本当の終活

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「ローマ10:9-10 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

明日死んでもいいために

 新聞の広告欄に「明日死んでもいいための44のレッスン」という本を見つけました。著者は年配の元女性アナウンサーで、突然やってくる死に備えてご自分が実践されている44のことを紹介した本でした。同欄にその44項目が全部書いてあったので、好奇心でチェックしてみると、「自分を証明するものを持ち歩く」、「自分の死を知らせる連絡リストを作る」、などという実用的なものから、「うまいものを食う」、「『もう年だから』といわない」、「完璧主義をやめる」、「若い友達を持つ」などの生活の知恵まで、著者なりの人生観をあらわした44項目でした。読みながら、もしクリスチャンが同じようなリストを作るなら「イエス・キリストを信じる」が一番はじめに挙がるだろうな、と思いました。

瀕死の中で

 「神は死んだのか」という映画の終盤で、無神論者の教授が、雨の中横断歩道で車にはねられるシーンがあります。ちょうどその信号で止まっていた牧師が車から出て来て、血を流し瀕死で倒れている彼に駆け寄り、「イエス・キリストを信じているか。」と問い、迫ります。教授は「私は無神論者だ。」と言いますが、牧師は「私がここに居合わせたのは、神のあわれみだ。イエス・キリストを信じるのか」と迫るのです。教授は若い時に母親と死別していて、どんなに祈っても母親を助けてくれなかった神様を恨んでいました。牧師は「神には神の理由があるんだ」と諭します。すると彼は「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く・・」とイザヤ書(55:9)のみことばを口走り始めます。母親が亡くなるまでは、きっと熱心なクリスチャンだったのでしょう。彼は牧師のさらなる迫りに応答し、「神を信じるよ」と告白します。死を恐れる彼に牧師は、「大丈夫だ。あなたはここにいる誰よりも早く神に会える。」と励まし、教授は息を引き取ります。(クリスチャンであれば)ほっと胸をなでおろす瞬間です。たとえ死の間際であっても、イエス・キリストを信じれば、誰でも天国へ行くことができるのです。

死を恐れる

 人は死を恐れます。それは死んだらどうなるかわからないからです。もし死というものがなかったら、人の悩みの多くは解決するのではないでしょうか。ある年配の人に福音を伝えている時、「死んだらどうなると思いますか」と尋ねると、「そんなことは考えたこともない。」と答えられました。死は誰にでも必ず訪れるものなのに、多くの人は死について考えようとはしません。死をなんとなく恐ろしいものと感じていて、はっきり知るのが怖いということなのかもしれません。
 死について考えることを避けるのではなく、積極的に向かい合おうということで、十年ほど前から「終活」ということばが流行し、実践をする人が増えてきました。自分が生きているうちに、死の準備をするということです。資産、医療や介護のこと、お墓の準備などのほかに、葬儀を自分の希望通りにしてもらうよう葬儀屋に予約しておくこともできるようです。また、残りの人生を自分らしく、よりよく生きよう、と考える人が増えて、その類の本も多く読まれています。冒頭の本もその一つです。しかし、どんなに残された家族のためを思って一生懸命準備をしても、自分らしく充実した老後を送ったとしても、死への恐れが解消されるわけではありません。天国に行くことができなければ空しいことです。

本当の終活

 本当に必要な終活は、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただくことです。それは、ただ「イエス・キリストを主と告白する」ことです。人は生まれながらの罪人であり、滅びることが決まっています。聖書には「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」とあります。人が死を恐れるのはこのことを何となく察しているからです。人は神に造られた者だからです。造り主であられる真の神様は聖いお方ですから、罪ある者を受け入れることができません。天国へ行くことができないのです。しかし神様は人を愛し、滅びることのないように、イエス・キリストを人の罪の身代わりとして十字架につけてくださいました。そして信じる者の罪を一つ残らず赦してくださって、天国へ行くことができるようにしてくださいました。これが良き知らせ、福音です。すべての人が福音を聞かなければなりません。私たちの周りの愛する人々に、イエス・キリストを伝えて参りましょう。

21.02.28 自分の本音と向き合う

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「創世記3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」

日記本

 新型コロナウイルスの感染者が日本でも出始めて、雲行きが怪しくなり、少しずつ深刻さを増していったのが、ちょうど一年前の今ごろでした。この一年で私たちの生活も大きく変わりましたが、その中で今、日記をつける人や日記を本にして出版する人が増えているそうです。「この先、世の中や私たちの生活はどうなっていくのだろうかと考えると、とても不安になる」と感じている人がその思いを日記に綴っています。日記本を出版した人は、「私は、日記に『自分はどういうことで不安になってこんなに恐れているんだろう』と書くことで心が落ち着いていた」と言っています。
 日記を書くことは、自分の心に感じる思いが整理できたり、自分は何を感じているのかを客観的に見て、自分の本音と向き合うことができるという面があるのではないかと思います。普段、何も問題がないと感じる時には、なかなか立ち止まって自分自身のことについて考えたりすることはないかもしれませんが、問題が起こって「自分ではどうすることもできない」と感じて初めて、自分のことについて真剣に考えさせられるといった経験が、みなさんの中にもあるのではないかと思います。

向き合いたくない思い

 しかし私たちは問題に出会うと、苦しいことは避けたい、面倒臭いと感じて、なかなか問題と向き合うことができなかったりします。人と関わる中で、「この人はちょっと苦手だな」と感じる時に、「人は誰でも好き嫌いがあって当然だから、あまりこの人とは関わらないようにしよう」と言って、極力関わりを持たないで済ませようとしたりします。しかし現実はなかなかそうは行きません。自分と気が合う人とだけ関わるということはできません。また、人から指摘されたり注意されることを嫌がって、言われないように、指摘されないように振る舞ったりして、人から言われることに素直になれないという問題があっても、それに向き合うことができない人もいるかもしれません。自分にとって都合の悪いことは極力避けたいし、「そんな苦しい大変な思いなんかしたくない」と感じるのが私たち人間ではないでしょうか。
 アダムとエバは、神様から「食べてはならない」と言われていた木の実を取って食べてしまった後、園で主が歩き回られている音を聞いた時、御顔を避けて木の陰に隠れました。彼らは、自分の問題に目を向けたくなかったのでした。そして問題の責任を人や神様になすりつけましたが、私たちの中にも、目を向けたくない問題や、できることなら人に言わないでそっとしておきたい問題があるかもしれまん。

問題に向き合わなければ解決はない

 しかし私たちは、その問題に向き合うことがなければ解決はありません。その問題を真正面から見なければなりません。
 私は、これまで恐れと向き合い続けてきました。「自分は人と話すことが好きなタイプだ」と思って生きてきましたが、それは思い込みであって実際はそうではありませんでした。本当は、人に近づいていくのが怖いのに、人からどう思われているのかをいつも気にしているのに、その本当の自分の姿を見たくないので、「自分は人と話すのが好きなんだ」と言い聞かせていました。ですから表面的な付き合いだけで、心を開いて自分のことを話すこともなく生きていました。人前ではニコニコして明るく振る舞い、一人になると落ち込むということを繰り返していましたのでとても疲れていました。本当は怖いのに怖くないふりをしていました。そして、神様に触れていただく中で、少しずつ自分の問題に向き合うことができるようになっていきました。
 私たちは、自分の心の中で感じている思いに対して素直になることが大切です。「私はあの人を恐れている」「私はあの人から言われることを嫌がっている」という思いに対して素直になる必要があります。恐れがやってくるときに、「いや、私は恐れてなんかいない」と言って自分を守ろうとしているうちは、自分の問題に向き合うことはできません。正直に「私には恐れがある」ということを認めることから始めなければなりません。悪魔は、あなたが今の場所に留まって問題を見ないようにと働きかけてきます。問題から目をそらし、楽しいことを考えさせて、問題が解決しない方向へ導こうとしています。

主はあなたを助ける方

 ですから私たちは、自分の力ではどうすることもできないことを認めて、自分で自分を守るような生き方をやめて神様に求めなければなりません。「神様、どうか問題に向き合うことが出来ますように助けてください。」と祈らなければなりません。神様はあなたをその苦しみから救い出したいと願っておられます。
 そして、その問題に向き合おうとするときに、恐れがやってきます。その中で私たちは主に助けを求めなければなりません。主は、「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。(イザヤ41:13)」と、私たちに語ってくださっておられます。心によぎるどのような思いも放っておかないで、自分に正直になってその問題に向き合うことを選択し続けて行かなければなりません。主は真実なお方ですから、必ずあなたを助けてくださいます。問題を解決してくださいます。イエス・キリストだけが、私たちの問題に光をあててくださり、解決をお与えくださる方であることを信じます。

21.02.21 みことばを行う

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「ヤコブ2:15-17 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」

親切な冷蔵庫

 アメリカのニューヨーク市には、昨年から街の路上のあちらこちらにカラフルな冷蔵庫が置かれています。冷蔵庫の中には、地域の店や住民が持ち寄った食べ物が入っていて、24時間誰でも無料で持って行くことができます。カラフルな絵は活動に賛同するアーティストが描いたものです。この冷蔵庫は「親切な冷蔵庫」(フレンドリー・フリッジ)と呼ばれています。コロナ禍で職を失った人を助けるために始まった活動で、多くの人々が喜んで利用しているそうです。冷蔵庫を設置したい人は、自分で冷蔵庫を用意して、町の店に電源をつなぐ許可を取ります。ボランティアの人が1日に何回か冷蔵庫の掃除をし、食料を補充します。まれに冷蔵庫ごと盗まれたり、壊されたりするそうですが、聞き知った人々から被害額以上の寄付が集まるということです。自分が経営しているレストランの料理をわざわざ多めに作って入れる人もいますし、お店の廃棄食品を減らすことにも役立っているということです。ある利用者は、「困っていても、なかなか『助けて』とは言えない。だから誰にも何も聞かれないで利用できることが重要なんです。」と言っていました。複雑な手続きもなく、人を簡単に助け、また助けてもらうことのできる良いアイデアだと思いました。コロナ禍で世界全体がなんとなく疲弊していると感じる中で、人の心の温かさを感じて明るい気持ちになりました。

困っている人を助ける

 困っている人を助けるために路上に冷蔵庫を置く活動は、世界のどこから始まったのかは明確にはわからないそうですが、調べてみると、サウジアラビアのある人が、貧しい人が物乞いしなくてもいいようにと、路上に冷蔵庫を置いた、という2014年ごろと思われる記事を見つけました。読んだ人が、トルコでも見かけたとか、アラブ社会では普通のことだとかコメントしていましたので、コロナ禍以前から世界の国々で行われていたようです。
 聖書には、「収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19:9-10)」とあります。イスラエルの社会では、昔から貧しい人を助ける実際的な習慣がありました。困っている人を助けることは神様のみこころです。

行いのない信仰

 ヤコブの手紙を書いたヤコブは、自分に信仰があると思っている人たちに対して、本当の信仰は行いが伴うものだ、と教えました。「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブ2:14)」。例えば、貧しくて毎日の食べ物にさえ困っている人に、「大変ですね。温かくしてたくさん食べてくださいね。」と声をかけたとしても、実際に食べ物を与えないなら、何の役にも立たないのだということです。実際、ヤコブの手紙の受け取り人である教会は、貧しい人々を、何の助けもしないで礼拝から送り出していたようです。神を信じると言うならば、必ず困っている人を助ける行動をするようになるはずだ、とヤコブは指摘したのです。路上に冷蔵庫を置いた人々は、必ずしも真の神様を信じる信仰によって行ったのではないかもしれません。しかし、人を助けるとはこういう実際の行いのことなのだ、と思わされました。

みことばを行う

 私たちは神を信じる者ですから、神様のみこころを行いたいと思います。神様のみこころは聖書の「みことば」です。ヤコブは「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22)」と教えています。私たちはたくさんのみことばを知っていますが、それを実際に行なっているか、と吟味する必要はないでしょうか。たとえば「あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:12)」というみことばを知っていますが、実際には両親に会いに行くことをいつも後回しにしていると気づいたら、会いに行ってみましょう。「赦しなさい。(ルカ6:37)」というみことばを知っていますが、実際にはいつまでも憎しみを手放さないでいると気づいたら、まず主の御前で憎んでいたことを悔い改めて、「赦します」と祈りましょう。私たちがみことばを行おうとする時、神様は私たちの行動を助けてくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。みことばを行う人になりましょう。

21.02.14 神は私の味方

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「ローマ8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

すぐやる課

 千葉県の松戸市役所には、「すぐやる課」という課があります。1969年に創設されて以来、50年以上が経過しています。この課の発案者は当時の松戸市長で、ドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者でもある松本清さんです。当時の松戸市は人口が急激に増加し、道路や上下水道の整備が追いつかない状況でした。「役所は働かない」「市民の要望をたらい回しにしている」というイメージがある中で、市民の声にすばやく応え、行政を市民にとって身近でわかりやすいものにしようと設置されたのが「すぐやる課」でした。「すぐやらなければならないもので、すぐやり得るものは、すぐにやります」という理念のもとスタートしました。ハチの巣駆除、動物の死体の処理、道路の陥没箇所の修復など要望があればすぐに駆け付けて行うそうです。自分ではすぐに対応できないことをすばやく対応してくれる人がいるということは、市民にとってとても安心ができますし、何よりも心強い味方であると思います。

心強い先輩

 私は、以前セールスの仕事をしておりましたが、初めてアポイントを取って訪問へ行った時、とても緊張して不安でいっぱいだったことを覚えています。上司が同行してくれて、私は横で上司とお客さんのやり取りを聞いていましたが、わからないことを質問された時でも、落ち着いて丁寧にわかりやすく答えていく様子を見る時に、自分は何もできないけれども、安心してその場にいる事ができました。また、自分が行き詰まって困り果てている時に、声をかけてくれたり、一歩踏み出すきっかけを作ってくれて背中を押してくれる時に、「この人はいつも私の味方であって、とても心強い存在だ」と感じます。

神は私の味方である

 しかし私たちの信じている神様は、どんな人よりも頼れる存在であり、いつも私たちのことを守ってくださる心強い味方です。
 南ユダ王国の王ヨシャファテは、敵国から大軍が攻めてきた時とても恐れていました。その恐れを感じる中で、彼は主に祈りました。「攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。(Ⅱ歴代誌20:12)」。すると、主は「この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。(同20:15 )」とヨシャファテに言われました。そして、「戦うのはあなたがたではない。あなたがたは今いるその場所に堅く立って動かずにいなさい。」と言われました。「そこから逃げないでとどまっていなさい」と言われたのです。彼らは、敵が襲って来る恐怖のただ中で、主を見上げて賛美しました。すると、敵の大軍は互いに同士討ちを始め滅ぼし合ったのです。主が戦いに勝利してくださいました。
 私たちも、弱さを覚える時、恐怖で震えおののくような中で、主を見上げて主を賛美しなければなりません。主は私たちの味方です。私たちの行く所どこにでも一緒にいてくださいます。

弱さのあるまま主に信頼する

 私たちがするべきことは、味方であられる神様に信頼することです。起きている事態を全て主に委ねることです。
 「怖い」と感じる時、「こんな私は愛されない」と孤独感が襲って来る時、「私にはできない。ダメだ。」という敗北感がやって来る時、将来のことで不安を感じる時、人から言われた言葉で傷つく時に、私たちは自分で心配をしてしまいます。しかし、心配しても何も変わりません。受験を目の前にして緊張する時、大勢の人の前で話す機会がある時に、「ここで緊張してはいけない」「失敗したらダメだ」「負けてはならない」と思います。自分で何とかしないといけないと思います。すると、また敵の声がやってきます。「失敗したら恥をかくぞ」「それでもクリスチャンなのか」「お前は愛されていない」。その声に対抗しようとしますが勝つことはできません。私たちは、弱さを何とかして振り払おうとするのではなく、その弱さを抱えたままで主に信頼しなければなりません。「今、私は緊張してどうすればよいのか分かりません。ただあなたに委ねます。あなたがなされることはみな善きことです。ですから私は今、自分の身に起きていることをただ感謝します。主が起こされていることは、すべて善きことなので私はあなたのなされることを喜びます。」と言って主を賛美し続けていかなければなりません。
 そのようにして主を賛美して行く中で主は働いてくださって、私たちを助けてくださいます。一歩踏み出そうという勇気が与えられます。主が必ず成し遂げさせてくださるという希望が与えられます。また、私たちが想像もしなかった何かが起こる事があります。パウロは、「キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)」と言いました。私たちが主を見上げている中で主は働いてくださいます。「主われを愛す」という有名な賛美歌があります。「主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ」と続いて行く曲です。主が強ければ、私は弱くても恐れは全くないと言っています。それは、弱い私たちが主に信頼しているからです。
 神が私たちの味方であられるので、神を信じて歩む者に対して敵対し得るものは何もありません。私たちは、神様の完璧なガードに守られているので、どんな敵も手を出すことができなくなるのです。私たちはどんなに弱かろうと、情けない思いや敗北感がやってこようとも、主に信頼するならば、主が守ってくださるので、私たちはこのありのままで生きられるのです。

21.02.07 隣人を愛する

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「マルコ12:29-31 イエスは答えられた。『第一の戒めはこれです。【聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。】第二の戒めはこれです。【あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。】これらよりも重要な命令は、ほかにありません。』」

赤毛のアン

 ふとしたことから中高生時代に愛読した「赤毛のアン」を思い出し、手元に本がなかったので、何気なく検索してみると、「赤毛のアン」はキリスト教小説だと知りました。思い起こすと、アンが祈りを学ぶ場面や、牧師夫妻を食事に招待する場面などがありました。アンも牧師夫妻をとても尊敬し、その信仰に憧れていました。当時はわかりませんでしたが、みことばも引用されていたようです。その頃は、ただアンのくったくのないおしゃべりや、彼女が巻き起こす数々の事件、友情や恋愛、昔ながらの手作りの生活、季節ごとに移り変わる美しい自然の風景・・そんなものに惹かれて、全10巻を読破し、気に入ったところを何回も読み直しては楽しんでいました。物語の舞台となっているカナダのプリンス・エドワード島は、今でも行ってみたい場所の一つです。

隣人愛の実践

 「赤毛のアン」の物語は、孤児である11歳のアンが、マシューとマリラという老兄妹に引き取られるところから始まります。二人は本当は畑仕事を手伝ってくれる男の子がほしかったのですが、手違いで女の子が来てしまったのです。マリラははじめアンを引き取ることに反対で、女の子は役に立たない、と言いますが、マシューは「でもなあ、わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」と言います。子育てをしたことのないマリラも、結局自分たちの願いよりも、予期せずここにやって来たこの女の子をあわれんで、育てる決心をすることになります。
 翻訳者の一人は、この小説のテーマは、キリスト教の「隣人愛の実践」であると言っています。二人がアンを引き取ったのは、無邪気なアンの魅力に惹かれてということもありますが、根底にはキリストの慈悲の愛があることがわかります。聖書は社会的弱者を守ることをはっきりと教えています。「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。ヤコブ1:27」。そして物語が進むにつれ、アンを引き取ったことは二人にとっても、もちろんアンにとても幸福なことだったことが明確になって行きます。

コロナ差別

 新型コロナウイルスの感染拡大がはじまって、一年が経とうとしていますが、変わらないのは感染者に対する差別です。つい最近も、感染した人が勤め先から「あなたの不注意のせいでみんなが迷惑している」と非難され、回復して医者から許可が出ているにもかかわらず、出社を拒否されたという事例が報道されていました。人々がコロナ禍に慣れて来たとも言われますが、コロナ差別は相変わらずなのだな、と思いました。ある自治体のコロナ差別関連のホームページを見ると、「戦うべき敵は『新型コロナウイルス』であり『隣人』ではないことを再認識してください。」と書かれていました。冷静に考えれば、感染を完全に防ぐのは誰にでも難しいことですから、感染した人を責めるのはおかしなことです。明日は我が身かもしれません。
 そんな中で少し安心する記事を目にしました。昨夏、与論島(よろんとう)でクラスターが発生したことがありましたが、県本土の病院から回復して帰島した人たちを、島の人々は「おかえり」「大丈夫だったか」と温かく出迎えたそうです。与論島は歴史的にも疫病や飢饉の苦難を経験しているため、非難する考えには至らなかったのではないかと言う人もいますが、そんな経験がなくても、皆がこのようであったらよいのにと思いました。

隣人を愛する

 聖書は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」と教えています。イエス様は「良きサマリア人のたとえ」で、強盗に襲われた人をかわいそうに思って、手厚く介抱したサマリア人こそが、この襲われた人の隣人であると教えられました。困った人を見たとき、かわいそうに思うこと、つまりあわれみの心を持つことが、神様が私たちに望んでおられることです。
 このみことばの「隣人」とは、家族知人だけでなく、私たちの周りにいるすべての人です。私たちはみんなが孤児を引き取ることはできませんし、ホームレスの人を直接的に助けることも通常はできません。しかし、私たちの周りにいる苦境に立たされた人、困っている人を思いやる心を持つことは誰にでもできることです。神様がまず私たち罪人をあわれんでくださり、見捨てず、愛し救ってくださったことを、私たちは忘れてはなりません。

21.01.31 私たちの願い

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「ルカ1:38 マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」

建築家の壮大な計画

 スペインのバルセロナで、130年以上経過してもまだ完成していない建物があります。サグラダ・ファミリア教会です。1882年に着工したのち、一度白紙になった計画は、建築家ガウディの手によって再び進められてきました。しかしいまだ完成には至っていません。まだ200年から300年ぐらいかかるだろうと言われていましたが、最近になって、「もうまもなく完成するだろう」と言われ、完成が現実味を帯びてきています。それは、観光地としてにぎわうことで収益が上がり、模型作りに3Dプリンターを使うことによって、石膏(せっこう)での手作りに比べて作業が劇的に早くなり、作業効率が上がっていることが要因だそうです。ガウディが描いた設計模型、図面はほとんど残されていません。それでも、彼の思いや意志を何とかして実現させたいと願い、受け継いだ者が立ち上がって、この壮大な計画は着々と進められています。

日本人彫刻家の願い

 サグラダ・ファミリアの建築に携わる人たちの中で最も長く古くから携わっている日本人がいます。彫刻家の外尾(そとお)悦郎さんです。ガウディの意志を最も深く受け継いでいると言われている人物です。スペインに移住して40年以上、この建築のために彫刻家のリーダーとして働いています。教会の正面入口には、イエス様のご降誕を表した彫刻の数々があります。楽器を奏でる天使や祝福する羊飼いなどが、喜びの表情で見守っています。冒頭の写真はその一つで、彼の作品です。
 彼は、彫刻を作成するにあたって、ガウディの考えを知りたいと思い、彼について調べ研究しました。しかし、ガウディ自身のことを知ることではなく、彼がどんな未来を作りたかったのか、彼が見ている先に何があるのかを想像することにしたのです。すると、彼が表現したかったものが見えてきた、と外尾さんは言います。「自然は神からのメッセージである」「芸術における回答はすべて自然の中にある」というガウディの言葉から、神から与えられた自然をいかにしてこの建築や彫刻の中に取り入れていくかということを考えたのです。彼は、ガウディの見ていたものを追いかけていく中で、カトリック教会で洗礼を受けました。「ガウディが生んだ巨大な赤ん坊を成長させていくことが私の仕事である」と言っています。彼の願いは、ガウディが思い描いていた教会の完成であり、夢の実現のためにその一翼を担うことなのです。

みこころがなされることが嬉しい

 では、イエス・キリストを信じる私たちにとって、一番の願いは何でしょうか。それは、神様のみこころが実現することではないでしょうか。また、神様の素晴らしいみわざを見ることではないでしょうか。
 マリアは、ヨセフとの結婚を目前にしていました。その時、マリアは御使いのことばを聞きます。「おめでとう、恵まれた方。(ルカ1:28)」「あなたは身ごもって、男の子を産みます。(ルカ1:31)」と告げられます。マリアは、そのことばに戸惑いを覚えます。ヨセフとまだ結婚していないのに「身ごもった」と告げられるのですから、恐れるのも当然のことだと思います。しかしこのことは、世の人々のために救い主がお生まれになるという、とても喜ばしい出来事のためだったのです。
 マリアは、これから起こる素晴らしい出来事についてはわかっていなかったかもしれませんが、自分が神のしもべであることをよくわきまえた上で、神様の言われることに喜んで従いました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と言いました。神は、マリアの胎内を通して救い主を誕生させるというご計画を実現されました。マリアはそのために用いられたのです。
 神のみこころがなされることは、私たちにとっての喜びとなります。そのみこころとは、人々が救われることです。神は人を世の誘惑、罪の中から救い出すというご計画のために今も働いておられます。そして、そのために私たちを通して働きたいと願っておられます。愛する家族が救われることがみこころであり、私たちの願いです。先日、洗礼式がありましたが、人が救われることは、私たち教会員一同の喜びであります。「また一人、新たなたましいが救われた。主の働きがまた一歩前進した。」という主のみわざを見る時に、私たちの心に喜びが湧き上がってきます。

主の働きのために喜んで仕える

 私たちは、主のみこころがなされるために、その通り良き管として、主の働きのために使われ、用いられてまいりたいと思います。教会の様々な働きはすべて、人々に福音を届けるためであり、人々が救われるためです。プレヤーハウスの建築というご計画も、主が前進させてくださっています。主のみこころがなされていくことが私たちにとっての喜びであります。
 私たちがこの地上に生まれてきたのは、イエス・キリストと出会うためです。私たちはイエス様と出会いました。主によって新しくされ神の子どもとされました。主とともに歩む新しい生活をする私たちの使命は、人々の救いのために喜んで主に仕えていくことです。
 私たちの生活のすべては、主の働きのため、主の栄光のために用いられなければなりません。勉強をするのも主のためにすることです。働くことも主のためです。結婚するのも、子育てをするのも、人と話をするのも、食べるのも飲むのも、すべての主のためであり、みこころが成し遂げられるためであります。主の願いは、私たちの願いです。今日も主のために、喜んで仕えて前進してまいりましょう。

21.01.24 主とともに安らぐ

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「マタイ11:28-29 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」

たき火

 キャンプファイヤーやキャンドルの、ゆらゆらとゆれる炎を見つめていると、不思議に安らぐのを、多くの人は体験しているのではないでしょうか。昨年ごろから、たき火の動画がブームになっているそうです。画面には、ただたき火をしている様子や、薪がはぜる音が流れているだけの動画ですが、見ているとよく眠れるという人もいて、注目を集めているそうです。試しに動画を見てみると、確かに心が落ち着き、いつまでも見ていたいと思います。
 エアコンやファンヒーターなど炎の出ない暖房器具が主流な中、今でも昔ながらの石油ストーブを好む人がいるのもうなずけます。子供の頃、ストーブの前でゆらゆらするオレンジ色の炎を、不思議な思いで見つめていたことを思い出しました。いつもやかんが置いてあって、白い蒸気がのぼって、温かい雰囲気をかもし出していました。部屋の中に炎があるとほっとした気持ちになるのでしょう。

1/f(エフぶんのいち)のゆらぎ

 たき火の炎を見つめていると安らぐのには、実は科学的な根拠があることがわかってきています。それは、「1/fのゆらぎ」という概念です。これは、炎の色や光の強さ、また音など周波数で表すことのできる事象の中で、人間が心地よく感じるリズムパターンのことです。人間が持っている生体リズムと同じもので、本能的に落ち着きます。1/fのゆらぎに触れると、脳波は、リラックス時にあらわれるアルファー波が増えるそうです。小川のせせらぎや、木の葉が風にゆれる様子や、不規則な木の年輪などにも含まれています。楽器では、パイプオルガンやヴァイオリンの音に多く含まれているそうです。メトロノームのように規則的ではなく、かと言って完全にランダムでもないゆらゆら感が、人間の心を癒すようです。ある大学の実験では、暖炉の前にしばらくいた被験者が、人生への肯定感が上昇したことが確かめられています。

人は安らぎを求めている

 今、世界ではさまざまな問題が起こっています。最大の問題は新型コロナウイルスの感染拡大でしょう。日本でもいくつかの都市が再び緊急体制に入っています。最近では、感染経路の不明な変異種の感染も確認され、いつどこで感染するかわからず、人々には平安がありません。いくつかの国でワクチンの接種が始まっていますが、日本ではまだ準備段階で、一般への接種はまだまだ先のようです。ワクチンの安全性への不安もあります。また、医療体制も、都市部では緊迫している地域もあるようです。
 一方、経済への影響も深刻です。飲食業者などは再び営業の自粛を迫られて、多くの業者が苦境に立たされています。失業者は増え続け、家を失った人も大勢います。学生もアルバイトを失い、退学せざるを得ない人も増えています。しかし、それらに対する政府の経済的な援助は十分ではありません。多くの人が、「このような状態がいつまで続くのか。早くあの普通の生活に戻りたい。」と願っていることでしょう。しかし先の見通しも確かではなく、収束にはまだまだ何年もかかると言われています。このような状況の中、人々はほとほと疲れています。みんな安らぎを求めています。

主とともに安らぐ

 イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われました。人々が好んで自然の中へ出かけたり、たき火を楽しんだり、音楽を聴いたりするのは、疲れた体や心を休めるためです。そして、そんな安らぎのしくみを造ってくださったのは神様です。しかし、一番揺るぎない安らぎは、神様を信じて、神様とともに生きることです。
 私たちは毎日いろいろなことを心配します。仕事のこと、家族のこと、経済のこと、健康のことなど、心配は尽きません。そんな私たちの思い煩いのすべてを、イエス様は十字架で負ってくださいました。だから信じる者は、重荷をおろすことができるのです。また「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」と言われました。「くびき」は二頭の牛をつなぐ道具です。イエス様とくびきをともにし、歩調を合わせる時、私たちのたましいは安らぎを得ます。イエス様の歩かれた道は、人々が癒され解放される道だからです。それは、どこかに出かけて行かなくても手にすることのできる、いつまでも続く、揺るぎない安らぎです。すべての人にイエス・キリストの救いが必要です。

21.01.17 愛の出発点

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「Ⅰヨハネ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」

家族の日記

 この正月、実家へ行った時のことでした。いつものように食事をしながら話をしている中で、父が一冊のノートを持って来て私に見せてくれました。それは家族の日記でした。私の実家は、父、母、私、妹の四人家族で暮らしていましたが、その日記は、私が四歳で、妹が一歳の頃のものでした。父が、家族一人ひとりのその日の様子をノートに記していました。ある日の私の欄には、「最近の食欲は大変なもので、夕食は、ごはんを二杯ペロリと食べ、さらにお菓子とあんパンを食べ、ココアを一杯飲んでから寝たが、以前はこんな事はなかった。妹に刺激されて食欲が湧いてきたのだろうか」と書かれていました。他にも体調が悪くなった時に心配してくれている様子や、私が保育園で友達とケンカして泣いて帰ってきたことなどが記されていました。日記を読みながら、自分は、両親がこんなにも自分のことを愛してくれて気にかけてくれていたのだという親の愛を、本当には知らないで生きてきたのだということを教えられました。

忘れてしまいたい過去の記憶

 私たちは、生まれてから親のもとで少なくとも15年、20年、またそれ以上のとても長い時間を一緒に過ごします。ですから、良くも悪くも親の影響を受けています。私たちが普段、物事を考えたり、判断したり、行動したりすることは、幼少期の育った環境が大きく影響していたりします。当時、親や周りから言われた言葉や、目で見たことを覚えています。例えば、両親から厳しく叱られた時の言葉をずっと覚えていて、何か新しいことにチャレンジしようとしても、「お前にはできないよ」という声を聞いて身構えてしまい、なかなか思い切って行動ができないということがあったりします。そのような遠い過去の苦い記憶は、できることなら忘れてしまいたいと人は考えます。「そんな昔のことは忘れて、今、これから新しく良い人間関係を築いていけばいいのだ」と思ったりします。過去のことを忘れて、将来に望みを持とうとしたりします。

愛は家庭の中から始まる

 しかし私たちは、まず、自分が生まれ育った環境である家族のところへ戻って、家族との正しい関係を取り戻さなければなりません。家族を愛することから始めなければなりません。愛は家庭の中から始まります。
 昨年の暮れに鑑賞したある映画のワンシーンが、今でも鮮明に記憶に残っています。その映画の主人公は、歌手デビューを目指して活動している青年です。ある音楽プロデューサーとの出会いから、レコード会社の人たちの前で自分たちのバンドの曲を披露するという大きなチャンスがやってきます。彼は披露した曲に手応えを感じます。しかし、レコード会社の人たちから酷評を受けてしまい、彼は自信を失います。そんな彼のもとに、彼が頼りにしていたプロデューサーがやってきて声をかけます。「とてもいい曲だが何かが足りない。自分を偽っているような感じで、時々、本音の自分が出てくる。」と言われました。彼は、父親との関係に問題があったのです。家族に対して暴力をふるっていた父親をとても憎んでいました。彼の心の根底にある怒りや憎しみといったものが、彼の人生や生活に影響していたのです。しかし彼はその後、父親と和解し、彼の作曲した歌は大ヒットしました。
 私たちも両親や子供、兄弟など、家庭内で問題を抱えていますと、そのことが生活のあらゆる場面で影響を及ぼしてきます。冷静な判断ができなくなったり、集中して働くことができなくなったり、心から喜びを持って生活することができなくなってしまいます。ですから、まず家庭の中で愛し合うという関係が築かれていなければなりません。

愛のある家庭は祝福される

 家庭の中で愛が全うされる時に、その家庭は祝福されます。アダムとエバは、人類最初の夫婦であり、人類最初の家庭でした。この家庭は神によって祝福されました。夫は妻を愛し、家族のために喜んで土地を耕し働いていました。妻は夫を助け、喜んで仕えていました。神と親しく交わり、夫婦の間にも愛の交わりがありました。神の愛が全うされていました。
 聖書は、私たちが家族に対してどのように接していくのかについて教えています。夫に対しては、「妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。(コロサイ3:19)」と教えています。妻に対しては、「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。(同3:18)」と教え、子供に対しては、「すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。(同3:20)」と教え、親に対しては、「子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。(同3:21)」と教えています。家庭の中で愛が全うされるのは、主にあって可能なことです。愛は神から出ているからです。まず私たちが神の愛を知り、そしてその愛が家族の中で広がり、その愛が職場や学校などの社会へと広がっていきます。私たちはまず、一番身近な存在である両親、兄弟、夫や妻、子供に対して、愛を持って接することから始めてまいりましょう。

21.01.10 福音を恥としない

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「マタイ10:32-33 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」

映画「神は死んだのか」

 「神は死んだのか」という映画があります。現代のアメリカ社会で実際に起きた、信仰に関するいくつかの訴訟を題材にした映画です。主人公は、ある大学の新入生です。彼は、哲学の最初の授業で、無神論者の教授から、配られた白紙に「God is dead」」(「神は死んだ」)と書け、と言われます。彼が「僕はクリスチャンです。」と言って拒否すると、教授は「それならば、神がいることを証明しろ」と要求します。彼は悩み、牧師に相談すると、「そうすることは有意義な時間になる」と励まされ、挑戦することになります。彼女から反対され別れることになっても、彼は信仰を選び、苦戦の末、見事に神がおられることを証明します。クリスチャンであれば、観ていてワクワクし、スカッとさせてくれて、信仰が励まされる映画です。
 しかし、それほど驚くことではありませんが、クリスチャン人口が1%未満と言われている日本では、この映画はあまり歓迎されなかったようです。キリスト教を押し付けられているようで不快だ、という感想をネット上でたくさん見ました。

恥の文化

 日本と欧米では文化の違いがあります。ルース・ベネディクトというアメリカの文化人類学者が戦時中に書いた「菊と刀」という著書では、欧米は「罪の文化」であり、日本は「恥の文化」であるとされています。何を恐れるかの違いです。欧米では、キリスト教の戒律(聖書の律法)があり、これに反すると強い罪の意識を持ちます。心の中に神がおられるのです。しかし、日本は多神教ゆえに、強く意識するのは神よりも世間の目です。他人に笑われたくない、恥をかきたくないという思いが強いのです。つまり、何が正しいかではなく、世間がどう思うかで、自分の行動を決めるというのが「恥の文化」です。そう聞くと、私たちの生活にも思い当たることが多くあると思います。たとえばコロナ禍で「マスク警察」ということばが生まれましたが、みんなが同じでないと気が済まない、という考えの極端なあらわれでした。

福音を恥としていないか

 ところで、クリスチャンである私たちが、福音を恥としていることはないでしょうか。救われてから何年も経っているのに、まだ家族にクリスチャンであることを言えないでいるとか、いつも一緒におしゃべりする親しい職場の同僚や学校の友達に、クリスチャンであることを言ったことがない、ということが実際にあります。それぞれ事情があるとしても、クリスチャンであることを明かさないのは、人からどう思われるかを恐れてのことでしょう。日本のクリスチャンは少数派ですから、言ったら家族に反対されるかもしれない、友達に変わっていると思われるかもしれない、仲間外れにされるかもしれない、と心配するのです。
 しかしイエス様は、「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」と言われました。神様が私たちを救ってくださったのは、私たちが福音を宣べ伝えるためです。人を恐れて福音を隠すようなことがあってはなりません。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」

福音は救いをもたらす神の力

 聖書には、「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)」とあります。神様の願いは、すべての人々がイエス・キリストを信じて罪赦され、永遠のいのちを得て、天国へ行くことができることです。これが福音、「良い知らせ」です。福音を聞く人には、神様の力が働きます。つまりその人の心に飢え渇きが起こり、悔い改める思いが与えられ、イエス・キリストを受け入れたいという思いが与えられるということです。ですから、すべての人が福音を聞かなければなりません。
 冒頭の映画の主人公が、神がおられることを見事に証明したとき、クラス全員が起立し、神がおられることを信じました。そして彼の中国人のクラスメートが信仰告白をしました。二人はロックバンドの賛美集会に出かけ、大勢の人々とともに「God’s not dead!」(「神は死んでなんかいない」)と叫び歌います。神様を証しして生きる者の人生を、神様は豊かに祝福してくださいます。喜びを持って福音を伝える者となって参りましょう。

21.01.03 神の愛を知ろう

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「Ⅰヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年のテーマは「神の愛を知ろう」です。2021年も主とともに歩み、主からの恵みによって前進してまいりましょう。

人と会う機会が減っている

 昨年は、新型コロナウイルスの感染症によって、世界中が大きな影響を受けました。私たちの生活も大きく変化しました。自宅でのリモートワークが増え、会社に出勤することが少なくなったという人もいると思います。外出時のマスク着用やアルコール消毒も習慣化され、人との会話や食事をする時も一定の距離を置いたり、学校の講義やイベントの開催などもライブ配信で行われ、会議は会社に集まることなくリモートで行われたり、感染拡大を防止するためのあらゆる対策が講じられています。それによって、以前と比べて人と会う機会が減って来ているのではないかと思います。
 昨年4月に緊急事態宣言が発出され、ゴールデンウィークには多くの人が外出を自粛しました。その後、感染者の数が減少し感染が収まってきたかと思うと人々の外出が増え、またお盆の時期に感染が拡大し、再び外出自粛が呼びかけられました。そしてまた、この年末年始にかけて感染が拡大し、外出を控えることになり、普段なかなか会えない家族や友人と会う機会も少しずつ減っているのではないかと思います。「久しぶりに会おうかな」と思っても、相手のことを思うと「やっぱりやめておこうかな」となってしまいます。会う機会が減ってくると、人と人との距離は徐々に離れていきます。会わない期間が長くなればなるほど疎遠になっていきます。学生の頃の友人などでも、10年以上も連絡をとっていないと、何か会うきっかけがなければ、なかなか声をかけることはないと思います。コロナをきっかけに、少しずつ人と人との距離が遠ざけられているように感じます。

愛に飢え渇いている

 聖書には、世の終わりの前兆として、人々が「互いに裏切り、憎み合い(マタイ24:10)」「多くの人の愛が冷えます。(同24:12)」と預言されています。近年のSNSの普及によって、ネット上での書き込みの中には、互いに批判し攻撃し合っている投稿が多くあります。また、コロナによって生活が大きく変化し、あらゆる心配で心が塞いでいたりします。心にゆとりがないと、つい攻撃的なものの言い方をして相手を非難してしまいます。職場で、同僚に対して敵対心や妬みの思いを持ったり、人に愛を求めて自分に対して好意的な人とだけ関わりを持ち、そうでない人を排除したりするようなことがあったりします。家庭でも、互いのことを思いやったり、相手の話に関心を持ったりすることがなく、お互いが相手の行動を見て腹の探り合いをしたり、腹を立てて憤ったりして家の中はいつも緊張感が漂っているということもあったりします。人との会話の中でも、ちょっと相手の反応が悪かったりすると、「私嫌われているのかな。」とか「受け入れられていないのかな」と考えたりします。
 結局、人は誰でも心の中に満たされない空虚感のようなものがあってそれを満たすために人に愛を求め、飢え渇いています。

愛を示すために遣わされた御子

 人はだれでも、愛の根源であられる神様を知ることがなければ、本当には愛を知ることはできませんし、自由に生きることはできません。
 私たちは生まれながらに罪を抱えている者なので、人を愛したいと思っても、それと反対の行動をとってしまいます。相手のことを思いやり親切にして、良いことをしているように思えても、それは一時的なものでしかなく、やはり自分が愛されたい、人に振り向いて欲しいという思いが根底にあり、人を愛し続けることができません。愛するどころか、人を非難したり攻撃したりしています。
 このような罪ある私たち人間は、本来であれば、その裁きとしての神の怒りが下されるのですが、神は私たちを罰しないで、その怒りをなだめるために、ご自分のひとり子イエス・キリストをなだめの供え物として遣わして、十字架につけて罰してくださいました。神様が、愛するひとり子を犠牲にしてまでも、人々を滅びの穴から救い出したいという愛を私たちに示してくださったので、私たちは救われました。
 預言者ホセアは、神様から「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。(ホセア1:2)」と命じられ、彼は姦淫の女ゴメルを妻として迎えます。しかしある時、妻のゴメルはホセアのもとを出ていきます。神様はホセアに対して、「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。(ホセア3:1)」と命じます。このホセアに対する神様のことばは、神に愛されていながら他の国の偶像を拝んでいるイスラエルの民に対して、神はそれでもこのイスラエルを愛し、悔い改めて立ち返る者には神は喜んで迎え赦しを与えるという神様の愛が示されているのです。

神の愛だけが人の心を満たす

 私たちは神の愛を知らなければなりません。人間同士の関係であれば、争いが起きて離れてしまうと、そこで関係は終わってしまいますが、神様は、神のご支配から遠く離れ、神に背いて生きている私たちに対して、それでも愛を持って私たちのことをずっと見ておられ、悔い改めて立ち返るのをずっと忍耐をもって待っていてくださいます。そして向きを変えて立ち返るときには、両手を広げて喜んで迎えてくださるのです。そして心にあった空虚感、罪責感、心配や恐れは消え去り、神様の愛が私たちの心の中を支配し、私たちの心は満たされます。神に愛されて生きることで、人を愛したいと思う思いが自然と湧き上がってきますし、生きる希望、喜びが湧き上がってきます。
 神の愛だけが、人の心の中を満たすことができます。神の愛を知りましょう。神の愛によって今日も生かされている恵みに感謝いたします。

2021年 テーマ
「神の愛を知ろう」

Ⅰヨハネ 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。