21.01.17 愛の出発点

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「Ⅰヨハネ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」

家族の日記

 この正月、実家へ行った時のことでした。いつものように食事をしながら話をしている中で、父が一冊のノートを持って来て私に見せてくれました。それは家族の日記でした。私の実家は、父、母、私、妹の四人家族で暮らしていましたが、その日記は、私が四歳で、妹が一歳の頃のものでした。父が、家族一人ひとりのその日の様子をノートに記していました。ある日の私の欄には、「最近の食欲は大変なもので、夕食は、ごはんを二杯ペロリと食べ、さらにお菓子とあんパンを食べ、ココアを一杯飲んでから寝たが、以前はこんな事はなかった。妹に刺激されて食欲が湧いてきたのだろうか」と書かれていました。他にも体調が悪くなった時に心配してくれている様子や、私が保育園で友達とケンカして泣いて帰ってきたことなどが記されていました。日記を読みながら、自分は、両親がこんなにも自分のことを愛してくれて気にかけてくれていたのだという親の愛を、本当には知らないで生きてきたのだということを教えられました。

忘れてしまいたい過去の記憶

 私たちは、生まれてから親のもとで少なくとも15年、20年、またそれ以上のとても長い時間を一緒に過ごします。ですから、良くも悪くも親の影響を受けています。私たちが普段、物事を考えたり、判断したり、行動したりすることは、幼少期の育った環境が大きく影響していたりします。当時、親や周りから言われた言葉や、目で見たことを覚えています。例えば、両親から厳しく叱られた時の言葉をずっと覚えていて、何か新しいことにチャレンジしようとしても、「お前にはできないよ」という声を聞いて身構えてしまい、なかなか思い切って行動ができないということがあったりします。そのような遠い過去の苦い記憶は、できることなら忘れてしまいたいと人は考えます。「そんな昔のことは忘れて、今、これから新しく良い人間関係を築いていけばいいのだ」と思ったりします。過去のことを忘れて、将来に望みを持とうとしたりします。

愛は家庭の中から始まる

 しかし私たちは、まず、自分が生まれ育った環境である家族のところへ戻って、家族との正しい関係を取り戻さなければなりません。家族を愛することから始めなければなりません。愛は家庭の中から始まります。
 昨年の暮れに鑑賞したある映画のワンシーンが、今でも鮮明に記憶に残っています。その映画の主人公は、歌手デビューを目指して活動している青年です。ある音楽プロデューサーとの出会いから、レコード会社の人たちの前で自分たちのバンドの曲を披露するという大きなチャンスがやってきます。彼は披露した曲に手応えを感じます。しかし、レコード会社の人たちから酷評を受けてしまい、彼は自信を失います。そんな彼のもとに、彼が頼りにしていたプロデューサーがやってきて声をかけます。「とてもいい曲だが何かが足りない。自分を偽っているような感じで、時々、本音の自分が出てくる。」と言われました。彼は、父親との関係に問題があったのです。家族に対して暴力をふるっていた父親をとても憎んでいました。彼の心の根底にある怒りや憎しみといったものが、彼の人生や生活に影響していたのです。しかし彼はその後、父親と和解し、彼の作曲した歌は大ヒットしました。
 私たちも両親や子供、兄弟など、家庭内で問題を抱えていますと、そのことが生活のあらゆる場面で影響を及ぼしてきます。冷静な判断ができなくなったり、集中して働くことができなくなったり、心から喜びを持って生活することができなくなってしまいます。ですから、まず家庭の中で愛し合うという関係が築かれていなければなりません。

愛のある家庭は祝福される

 家庭の中で愛が全うされる時に、その家庭は祝福されます。アダムとエバは、人類最初の夫婦であり、人類最初の家庭でした。この家庭は神によって祝福されました。夫は妻を愛し、家族のために喜んで土地を耕し働いていました。妻は夫を助け、喜んで仕えていました。神と親しく交わり、夫婦の間にも愛の交わりがありました。神の愛が全うされていました。
 聖書は、私たちが家族に対してどのように接していくのかについて教えています。夫に対しては、「妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。(コロサイ3:19)」と教えています。妻に対しては、「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。(同3:18)」と教え、子供に対しては、「すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。(同3:20)」と教え、親に対しては、「子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。(同3:21)」と教えています。家庭の中で愛が全うされるのは、主にあって可能なことです。愛は神から出ているからです。まず私たちが神の愛を知り、そしてその愛が家族の中で広がり、その愛が職場や学校などの社会へと広がっていきます。私たちはまず、一番身近な存在である両親、兄弟、夫や妻、子供に対して、愛を持って接することから始めてまいりましょう。

21.01.10 福音を恥としない

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「マタイ10:32-33 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」

映画「神は死んだのか」

 「神は死んだのか」という映画があります。現代のアメリカ社会で実際に起きた、信仰に関するいくつかの訴訟を題材にした映画です。主人公は、ある大学の新入生です。彼は、哲学の最初の授業で、無神論者の教授から、配られた白紙に「God is dead」」(「神は死んだ」)と書け、と言われます。彼が「僕はクリスチャンです。」と言って拒否すると、教授は「それならば、神がいることを証明しろ」と要求します。彼は悩み、牧師に相談すると、「そうすることは有意義な時間になる」と励まされ、挑戦することになります。彼女から反対され別れることになっても、彼は信仰を選び、苦戦の末、見事に神がおられることを証明します。クリスチャンであれば、観ていてワクワクし、スカッとさせてくれて、信仰が励まされる映画です。
 しかし、それほど驚くことではありませんが、クリスチャン人口が1%未満と言われている日本では、この映画はあまり歓迎されなかったようです。キリスト教を押し付けられているようで不快だ、という感想をネット上でたくさん見ました。

恥の文化

 日本と欧米では文化の違いがあります。ルース・ベネディクトというアメリカの文化人類学者が戦時中に書いた「菊と刀」という著書では、欧米は「罪の文化」であり、日本は「恥の文化」であるとされています。何を恐れるかの違いです。欧米では、キリスト教の戒律(聖書の律法)があり、これに反すると強い罪の意識を持ちます。心の中に神がおられるのです。しかし、日本は多神教ゆえに、強く意識するのは神よりも世間の目です。他人に笑われたくない、恥をかきたくないという思いが強いのです。つまり、何が正しいかではなく、世間がどう思うかで、自分の行動を決めるというのが「恥の文化」です。そう聞くと、私たちの生活にも思い当たることが多くあると思います。たとえばコロナ禍で「マスク警察」ということばが生まれましたが、みんなが同じでないと気が済まない、という考えの極端なあらわれでした。

福音を恥としていないか

 ところで、クリスチャンである私たちが、福音を恥としていることはないでしょうか。救われてから何年も経っているのに、まだ家族にクリスチャンであることを言えないでいるとか、いつも一緒におしゃべりする親しい職場の同僚や学校の友達に、クリスチャンであることを言ったことがない、ということが実際にあります。それぞれ事情があるとしても、クリスチャンであることを明かさないのは、人からどう思われるかを恐れてのことでしょう。日本のクリスチャンは少数派ですから、言ったら家族に反対されるかもしれない、友達に変わっていると思われるかもしれない、仲間外れにされるかもしれない、と心配するのです。
 しかしイエス様は、「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」と言われました。神様が私たちを救ってくださったのは、私たちが福音を宣べ伝えるためです。人を恐れて福音を隠すようなことがあってはなりません。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」

福音は救いをもたらす神の力

 聖書には、「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)」とあります。神様の願いは、すべての人々がイエス・キリストを信じて罪赦され、永遠のいのちを得て、天国へ行くことができることです。これが福音、「良い知らせ」です。福音を聞く人には、神様の力が働きます。つまりその人の心に飢え渇きが起こり、悔い改める思いが与えられ、イエス・キリストを受け入れたいという思いが与えられるということです。ですから、すべての人が福音を聞かなければなりません。
 冒頭の映画の主人公が、神がおられることを見事に証明したとき、クラス全員が起立し、神がおられることを信じました。そして彼の中国人のクラスメートが信仰告白をしました。二人はロックバンドの賛美集会に出かけ、大勢の人々とともに「God’s not dead!」(「神は死んでなんかいない」)と叫び歌います。神様を証しして生きる者の人生を、神様は豊かに祝福してくださいます。喜びを持って福音を伝える者となって参りましょう。

21.01.03 神の愛を知ろう

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「Ⅰヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年のテーマは「神の愛を知ろう」です。2021年も主とともに歩み、主からの恵みによって前進してまいりましょう。

人と会う機会が減っている

 昨年は、新型コロナウイルスの感染症によって、世界中が大きな影響を受けました。私たちの生活も大きく変化しました。自宅でのリモートワークが増え、会社に出勤することが少なくなったという人もいると思います。外出時のマスク着用やアルコール消毒も習慣化され、人との会話や食事をする時も一定の距離を置いたり、学校の講義やイベントの開催などもライブ配信で行われ、会議は会社に集まることなくリモートで行われたり、感染拡大を防止するためのあらゆる対策が講じられています。それによって、以前と比べて人と会う機会が減って来ているのではないかと思います。
 昨年4月に緊急事態宣言が発出され、ゴールデンウィークには多くの人が外出を自粛しました。その後、感染者の数が減少し感染が収まってきたかと思うと人々の外出が増え、またお盆の時期に感染が拡大し、再び外出自粛が呼びかけられました。そしてまた、この年末年始にかけて感染が拡大し、外出を控えることになり、普段なかなか会えない家族や友人と会う機会も少しずつ減っているのではないかと思います。「久しぶりに会おうかな」と思っても、相手のことを思うと「やっぱりやめておこうかな」となってしまいます。会う機会が減ってくると、人と人との距離は徐々に離れていきます。会わない期間が長くなればなるほど疎遠になっていきます。学生の頃の友人などでも、10年以上も連絡をとっていないと、何か会うきっかけがなければ、なかなか声をかけることはないと思います。コロナをきっかけに、少しずつ人と人との距離が遠ざけられているように感じます。

愛に飢え渇いている

 聖書には、世の終わりの前兆として、人々が「互いに裏切り、憎み合い(マタイ24:10)」「多くの人の愛が冷えます。(同24:12)」と預言されています。近年のSNSの普及によって、ネット上での書き込みの中には、互いに批判し攻撃し合っている投稿が多くあります。また、コロナによって生活が大きく変化し、あらゆる心配で心が塞いでいたりします。心にゆとりがないと、つい攻撃的なものの言い方をして相手を非難してしまいます。職場で、同僚に対して敵対心や妬みの思いを持ったり、人に愛を求めて自分に対して好意的な人とだけ関わりを持ち、そうでない人を排除したりするようなことがあったりします。家庭でも、互いのことを思いやったり、相手の話に関心を持ったりすることがなく、お互いが相手の行動を見て腹の探り合いをしたり、腹を立てて憤ったりして家の中はいつも緊張感が漂っているということもあったりします。人との会話の中でも、ちょっと相手の反応が悪かったりすると、「私嫌われているのかな。」とか「受け入れられていないのかな」と考えたりします。
 結局、人は誰でも心の中に満たされない空虚感のようなものがあってそれを満たすために人に愛を求め、飢え渇いています。

愛を示すために遣わされた御子

 人はだれでも、愛の根源であられる神様を知ることがなければ、本当には愛を知ることはできませんし、自由に生きることはできません。
 私たちは生まれながらに罪を抱えている者なので、人を愛したいと思っても、それと反対の行動をとってしまいます。相手のことを思いやり親切にして、良いことをしているように思えても、それは一時的なものでしかなく、やはり自分が愛されたい、人に振り向いて欲しいという思いが根底にあり、人を愛し続けることができません。愛するどころか、人を非難したり攻撃したりしています。
 このような罪ある私たち人間は、本来であれば、その裁きとしての神の怒りが下されるのですが、神は私たちを罰しないで、その怒りをなだめるために、ご自分のひとり子イエス・キリストをなだめの供え物として遣わして、十字架につけて罰してくださいました。神様が、愛するひとり子を犠牲にしてまでも、人々を滅びの穴から救い出したいという愛を私たちに示してくださったので、私たちは救われました。
 預言者ホセアは、神様から「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。(ホセア1:2)」と命じられ、彼は姦淫の女ゴメルを妻として迎えます。しかしある時、妻のゴメルはホセアのもとを出ていきます。神様はホセアに対して、「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。(ホセア3:1)」と命じます。このホセアに対する神様のことばは、神に愛されていながら他の国の偶像を拝んでいるイスラエルの民に対して、神はそれでもこのイスラエルを愛し、悔い改めて立ち返る者には神は喜んで迎え赦しを与えるという神様の愛が示されているのです。

神の愛だけが人の心を満たす

 私たちは神の愛を知らなければなりません。人間同士の関係であれば、争いが起きて離れてしまうと、そこで関係は終わってしまいますが、神様は、神のご支配から遠く離れ、神に背いて生きている私たちに対して、それでも愛を持って私たちのことをずっと見ておられ、悔い改めて立ち返るのをずっと忍耐をもって待っていてくださいます。そして向きを変えて立ち返るときには、両手を広げて喜んで迎えてくださるのです。そして心にあった空虚感、罪責感、心配や恐れは消え去り、神様の愛が私たちの心の中を支配し、私たちの心は満たされます。神に愛されて生きることで、人を愛したいと思う思いが自然と湧き上がってきますし、生きる希望、喜びが湧き上がってきます。
 神の愛だけが、人の心の中を満たすことができます。神の愛を知りましょう。神の愛によって今日も生かされている恵みに感謝いたします。

2021年 テーマ
「神の愛を知ろう」

Ⅰヨハネ 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。