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「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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「創世記2:21-22 神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、その人のところに連れて来られた。」
iPS細胞とは
2007年に山中教授の研究グループが、人間の皮膚細胞からiPS細胞を開発することに成功し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。iPS細胞は、日本語に訳すと、「人工多能性幹細胞」です。「多能性」は、「いろいろな細胞になれる」という意味、「幹細胞」は、「いくらでも増えることができて、ほかの細胞になることもできる」という意味だそうです。つまり、iPS細胞は、「人の力で作ることができる、いろんな細胞になれて、いくらでも増やせる細胞」ということです。
ところで、動物界には、再生能力をもつ生き物がたくさんいます。有名なのはイモリです。イモリは手足を切断しても、数ヶ月で再生するそうです。これは、一度筋肉などになった細胞が、ほとんどすべての細胞になれる「幹細胞」になって、なくなった手足をもう一度作るためです。このような、生物の再生能力は、iPS細胞とたいへんよく似ているそうです。そこで、「イモリみたいな、もっと多様性をもつ「幹細胞」を人間にも作ってやろう」と考えて生み出されたのが、iPS細胞です。つまり、一度手や足になってしまった細胞を、幹細胞にもどして、もう一度いろいろな細胞を作り直そう、ということです。
医療への応用
たとえば、人間の皮膚や血液の細胞はほとんど増えず、ほかの細胞になることもありません。しかし、人間の皮膚や血液の細胞に、4つの特定された遺伝子を外から送り込むと、性質が変わってiPS細胞になります。すると、どんどん増えて、理論的にはほぼ無限に増やすことができるそうです。そして、増やした後でいろいろな処理をすると、脳の神経の細胞や、心臓の筋肉の細胞、肝臓の細胞、膵(すい)臓の細胞、骨の細胞など、全身ありとあらゆる細胞を大量に作り出すことができます。それを移植することにより、病で衰えた細胞の機能を再生するのが「再生医療」です。日本はこの研究が世界で一番進んでいて、すでに臨床研究もされているそうです。また、まだ薬が発見されていない難病の薬の開発研究にも、iPS細胞は大変有益だそうです。
ただ、科学技術の発展には、必ず光と影の部分があります。例えば、iPS細胞から精子と卵子が作り出されれば、細胞を提供した人の知らないところで子供が作られているという可能性が出て来ます。また、老化した臓器を交換して不老不死が実現すれば、たとえば金銭的な余裕の差で寿命が左右されるという問題が起こるかもしれません。このiPS細胞の技術が正しく利用されていくために、研究所では、再生医療のチームが臨床研究を進めるのと同時進行で、生命倫理の研究チームとの議論を、同じ建物の中で行っているそうです。
アダムのあばら骨
冒頭のみことばは、神様が最初の人、アダムの助け手としてエバを造ったときの経緯です。「神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、その人のところに連れて来られた。(創世記2:21-22)」と記されています。初めて聖書のこの箇所を読むと、まるでおとぎ話のように聞こえるのではないでしょうか。事実クリスチャンの中にも、この2章を含む創世記の11章までの部分を、事実とは信じないで、ここだけはファンタジー(空想)である、と解釈している人も大勢いるそうです。
神様は、アダムのあばら骨の一つを取られるとき、彼を深く眠らせました。そしてアダムが眠っている間にあばら骨を取り、そのところを肉でふさがれました。クリスチャンではない、ある医師が、聖書のこの箇所をはじめて読んだとき、聖書に全身麻酔下の手術が記述されていることに驚いたそうです。この記述を今日のことばにすると、「全身麻酔を施し、肋骨を切除し、その後に縫合した」となるそうです。最初の全身麻酔は人間ではなく、神によってなされたのです。人間が全身麻酔を発見したのはそれよりもずっと後になってからです。
そして、神様はアダムから「取ったあばら骨を一人の女に造り上げ」ました。iPS細胞をもとにして、人間の体を構成するどんな細胞も作れる可能性があるのですから、あばら骨の細胞からiPS細胞を作製し、それをもとに人間の体を造り上げることも、まったくのおとぎ話ではないことがわかります。人間が今日発見した科学技術は、神様がこの世を造られたとき、すでに成し遂げられていたということなのです。
全知全能であられる神
この世界のすべてのものを創造され、支配しておられる神様は、全知全能のお方であられます、人が新しい発見をしたと思っても、それはすでに神様が定められていたことにすぎません。「昔からあったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。伝道者1:9」。
神様は「人の齢(よわい)は百二十年にしよう。(創世記6:3)」と言って、人の寿命を定められました。人は病気をしなければ、120歳までは生きられるのです。神様は私たちを愛してくださり、人間にとってちょうど良い寿命を与えてくださいました。神が定められたものは、人がどんなに努力しても変えることはできません。再生医療を用いて、100歳までしか生きられなかった人が120歳まで生きられるようになることは、実現するかもしれません。しかし、不老不死を求めることは、結局は神を求めることだ、と人は悟ることになるのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)」
「箴言 26:22 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のよう。腹の奥に下って行く。」
バイトテロとは
今年2月、大手回転寿司チェーンで、アルバイト従業員が、ゴミ箱に捨てた魚の切り身をまな板に置くという動画がSNS上に投稿され、それが拡散し、ニュースで報道されました。「バイトテロ」と呼ばれている行為です。テロリズム(テロ)は、隠れたところから、突然、不意打ちで相手を攻撃する時に使われる言葉ですが、このバイトテロは、当事者である本人たちは、仲間内でふざけあって、「こんな動画をアップしたら、みんなにウケるよな」と言いながら、その様子をSNS上に投稿して仲間内で楽しんでいます。しかし、動画が拡散され、ニュースになり、企業側も大きな損害を被ることになり、社会問題へと発展していきます。そのようにして、企業に対して攻撃をしていることから「バイトテロ」とメディアで盛んに呼ばれるようになりました。
今、このバイトテロが相次いで起きています。コンビニでは、おでんを口に入れて「ぺッ!」と吐き出す様子が投稿されたり、食洗機に靴下を入れていたずらをする動画が投稿されたりして問題となりました。最近では、アパートの受水槽を清掃する作業員が、飲み水として供給されるタンクの中に入り、「受水槽で泳いでいま~す。気持ちいい!」と言いながら遊んでいる動画が、SNS上で拡散され問題となりました。彼らは、「こんなことでもしないと気が済まない、ざまぁみろ!」と言いながら、この許されない行為を隠れたところですることで、会社に対しての不満、うっぷんを晴らして攻撃をしているのです。
社会に及ぼす影響
問題が起こることで、企業側としても大変な損害を受けることになります。飲食チェーン店では、全国にある店舗を一斉休業しなければならない事態になりました。億単位の損失となり、企業イメージを損ない、信用を失うことにもなります。
また、メディアで取り上げられることで、さらに人の関心、注目が集まるので、「俺らも何かやってやろうか」というように、いたずらをして投稿する人も出てきます。そして、ツイッターやインスタグラムなどで、評価や評判を集めるために、人が「これは面白いぞ!」と感じる動画を次から次へとあげていく人が、さらに出て来るといった事態を招いています。
この問題の対策として、アルバイトへの賃金などの待遇を改善すること、教育の徹底を図ることなどが言われておりますが、まず、店の経営者や責任者といわれる立場の人が、自ら率先して、その職場において働く楽しさ、喜びを感じて仕事をすることが必要ではないかと思います。そのような職場の雰囲気の中に、新しい人が入って来るならば、その人たちも「ここで働きたい」と感じて、喜んで働くのではないでしょうか。
人の心は悪に傾く
動画を投稿している当事者たちは、自分たちのしていることが、本当はいけないことだとわかってはいます。しかし、「バレなければいいんだ」と思ってやっています。そして、一人ではできないことでも、みんなと一緒であれば、悪いとわかっていながらもしてしまうのです。「いじめ」にもよく似ていると思います。「先生や親にバレなければいい」「一人では言えないけど、周りの人と一緒であれば、言える、何か起きても自分一人だけ責任を負うことはないし。」と言う思いがあります。ネット上でも、匿名という名のもとに簡単に身を隠して、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)をして書き込みをする人がたくさんいるのです。人が集まると、良いことが起こることはあまりなく、むしろ争いや妬み、悪い考えなど、悪いことばかりが起きやすくなるのではないでしょうか。
ノアの洪水の後、人が再び増え始めた頃までは、世界には一つの言語しかありませんでした。人は集まって言いました。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。(創世記11:4)」。神は、人間が神に近づき、神を追い越そうとする高慢な心を見られて、「話し言葉が一つなのでこんなことになってしまう。」と言われ、人々の言葉を混乱させ、各民族ごとの言葉を生じさせました。そして、人々に町や塔を建てるのをやめさせたのです。
へりくだる者
私たち人間の心にあるものは、生まれながらの罪の性質です。争う心、敵対心、悪い考え、人を裁く思い、人を非難し攻撃する思いで満ちています。人との関わりの中で、その場を盛り上げようと軽はずみで言った言葉が人を傷つけていたり、面白がってちょっかいをかけているつもりが、人をバカにしていたりします。高ぶる心は、私たち自身を傷つけ、そして人生を破滅へと導いていきます。私たちは、主の御声を聞かなければ、正しいことを行うことができない者です。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。(マタイ7:12)」と、主は私たちに語られます。自分がして欲しいことを人にすることは、自分がして欲しくないことは人にもしないことでもあります。へりくだって主の御声を聞くならば、陰口やうわさ、人を裁くことをやめて、「人に与えていきたい」と願う者になりましょう。そうすれば、私たちの人間関係は主にあって祝福されるのです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。(ヤコブ4:6)」
「マタイ12:19- 20 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。」
川崎事件
先月末、川崎市で19人の殺傷事件が起きました。突如刺されていのちを失った保護者の男性や、小学6年生の女の子のご家族の悲しみを思うと心が痛みます。現場には連日多くの人が花を手向ける姿がテレビに映し出されていました。事件を起こした男性に、誰もが怒りを覚えながら関心を示すことでしょう。男性はわずか10数秒の間に、そこにいた小学生や保護者に、無差別に斬り付けた直後、自分の首を刺して自殺したと報道されています。そして、その報道に対してさまざまな反応があります。容疑者の男性に対する怒りから、「死ぬなら一人で死んでくれ」という多数の声や、「自殺を助長するようなことは言わないでくれ」、という専門家の声があります。またある芸人は、「(人間は)不良品が何万個に1個生まれてくるのはしょうがない。」と発言して、批判を受けています。また別の芸人は、容疑者の男性が長年家に引きこもっていたことに心を寄せ、自身の体験から、きっかけさえあれば人はすぐに変わることができるのだと語り、共感を呼んだとのことです。
容疑者の男性は51歳でありましたが、報道に使われている写真が中学生の頃のものであることが、彼がどんな人生を生きていたかを伺わせています。彼はスマホもパソコンも持っていなかったそうですが、おそらく運転免許証もなかったのでしょう。人との交わりをすることもなく、孤独の中で、人や社会に対する怒りや憎しみをふつふつと心に抱きながら、30年以上も生活していたのだろうかと思うと、これにもまた心が痛みます。
差別する心
この事件に対するさまざまな反応は、私たち人間の心の中を映し出しているようです。連日手向けられるたくさんの花束。これは、前途洋々たる若いいのちが失われたことに対する、深い同情のあらわれであり、偽りのない思いでありましょう。しかしふと、もし亡くなった人が高齢のお年寄りだったら、こんなにたくさんの花束が寄せられただろうかと考えてしまうのです。「死ぬなら一人で」や「不良品」の発言は、容疑者の男性のいのちをあまりにも軽く見ていることばであり、同時に、自分は良い人間だという思い上がりを感じさせることばではないでしょうか。人のいのちの価値は、人によって差があるのでしょうか。
このように考えていくと、無意識であれ故意であれ、人の心の中には、人を差別する思いが潜んでいることがわかります。先の長い若者のいのちの方が、先の短いお年寄りのいのちよりも価値があるとか、毎日普通に仕事をしている人のいのちの方が、家にひきこもって仕事をしない人のいのちよりも価値があるとかいう考え方が、当たり前のように私たちの心の中に潜んでいると思えるのです。
神は人を差別されない
神様は人を差別されません。「神にはえこひいきがないからです。(ローマ2:11)」。神様の目には、私たち人間は、全員が罪人です。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて罪赦されましたが、それは罪を犯さなくなったということではありません。依然、罪人の性質を残しているのです。ですから、イエス・キリストを信じない者は、罪赦されていない罪人でありますが、信じたクリスチャンは、罪赦された罪人であります。どちらも罪人なのです。「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」。ですから、神様の目には、殺人犯も、殺人を犯していない人も、同じ罪人であるのです。先程の芸人のことばを借りれば、神様の目には、人は全員が「不良品」です。しかし、その「不良品」である私たち一人一人を、神様は深くあわれみ、いつくしみ、愛してくださっておられるのです。
ですから私たち人間には、人を差別する資格は誰一人ありません。イエス様は、姦淫の罪を犯した女を訴える者たちに、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。(ヨハネ8:7)」と言われました。しかし、誰も投げることができませんでした。イエス様もこの女に、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11)」と言われました。神様は、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。」方であられます。 神様の愛とあわれみを感謝します。
人は救われなければならない
人は誰でもそれぞれに問題を抱えています。この事件の容疑者の問題は、長年癒やされることのなかった、憎しみや怒りでありましょう。しかしこのような感情は、大きさに違いはあれ、私たちの誰もが持つものであります。特別なことではありません。このような、私たちの心の中に潜む問題を解決し、癒やしてくださる方は、主イエス・キリストのほかにはありません。主は私たちの身代わりとなって死んでくださるほどに、私たちを愛してくださったお方です。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」。人は愛されたときにはじめて、「こんなことをしていてはいけない。」と悔い改めることができるのです。人間の愛は不完全であり、一時的な慰めを与えることはできても、本当には人を癒やすことなどできません。しかし、神の愛は完全です。人は誰でも救われなければならないのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」
「詩篇27:4 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。」
ゲーム障害
先日、世界保健機構(WHO)が、スマートフォンやパソコンなどのオンラインゲームのやり過ぎによって、日常生活が困難になる「ゲーム障害」を、国際疾病(しっぺい)として認定をしました。ギャンブルの依存症と同じ分類の疾病ということで、2022年から施行され、世界の医療機関が診断や調査で使用するそうです。オンラインゲームは、スマートフォンやパソコンを使って、いつでもどこにいても手軽にでき、無料で入手できるアプリもたくさんあります。しかし、無料で遊べる範囲は限られているので、さらにその先を楽しむためには、アイテムなどを入手するために「課金」をしなければならないのです。その課金をして次のステージへ進み、ステージをクリアして、また次のステージへといった形で進んでいき、オンライン上の他のプレイヤーとの対戦をしたりしていくと、ますますやめられなくなり、気がつくと、もうそこから抜け出せない状態になっているのです。
ゲームが生活の中心
ゲームの世界にのめり込んでいくことで、生活の様々なところに支障をきたすようになってきます。スマートフォンなどの画面を長時間ずっと見続けていることで、眼が悪くなります。同じ姿勢を保ち続けることによって、エコノミークラス症候群のような症状にもなりかねません。海外では、若者が下半身がうっ血し、死亡した例もあります。そして、食事よりも睡眠よりもゲームが優先となり、 食事もせず、夜更かしをし、朝起きることができません。学校や会社に遅刻したり、休んだりすることにもなります。家族や職場や友人との会話もなくなり、どんどん引きこもりがちになっていきます。そして、課金がやめられなくなり、ゲームのためなら、借金をしてでも課金をするようになっていくのです。ゲーム中心の生活が、失業や家庭の崩壊、経済の破綻などの原因となってしまうのです。
自分の居場所を求めて
これは極端な例かもしれません。しかし、私たちも日々の生活で、仕事や勉強、家事育児などのストレスや重圧で押しつぶされそうになり、「ああ、もうこんなことやってられない」と感じる時に、そんな苛立つ思いから解放されるために、この現実から少しでも逃れるために、自分が心休まる場所を求めて、快楽に走るようになります。パチンコなどのギャンブル、酒やタバコ、最近ではネット上でSNSやショッピングを楽しんだり、ポルノやゲームなどで欲求を満たそうとします。また、人によっては、「この人は、私の言うことを何でも聞いてくれるし、わかってくれる」という心許せる人に拠り所を求めることもあります。そして、現実から離れ、居心地の良い空間に一度身を置くと、そこから離れられなくなるのです。やがてそれが習慣となり、ついには「やめたくてもやめられない」状態になり、自分でもコントロールが効かなくなっていきます。
神に近づく
私たちの本当の居場所は、神様であることを知らなければなりません。人間は、創造主なる神によって造られた者です。神によって人は命が与えられ、生きる者とされました。最初の人アダムは、神と親しく交わりを持って暮らしていました。働くことも喜びでありました。しかし、アダムが犯した罪によって、人は苦しんで糧を得るようになりました。人は神から離れ、神との関係が断たれてしまったゆえに、居場所を失ってしまったのです。ですから、働くことも純粋な喜びではなくなってしまったのです。私たちは、人間と神とが親しく交わりをしていたその場所に立ち返る必要があるのです。愛であり平安であられるまことの神様が、私たちの居場所でなければならないのです。
私たちイエス・キリストを信じて救われた者は、罪赦され、神様と和解したことにより、神の御前に進み出ることができるようにされました。神は、私たちの側から神に近づいていく者にだけ近づいてくださいます。神は、両手を広げて、「さあ、今わたしのもとに来なさい」と声をかけ、待っていてくださいます。「私のいるべき場所はあなたです。あなたがおられるところが、私の居場所です。」と告白をし、主に心を開き、近づいてまいりましょう。私たちの側から心を開いていくならば、主は私たちと親しく交わってくださいます。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録 3:20)」
「Ⅱコリント12:9 しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
わたしの恵みはあなたに十分である
パウロには、おそらく慢性的な病がありました。それは聖書のほかの箇所から推測すると、目の病であっただろうと言われています。それはパウロにはつらい病だったのでしょう、彼はこれを癒してくださるように、神に三度も祈りました。しかし癒しを受けませんでした。主はパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と語ってくださったのです。パウロはもとはパリサイ人で、いわゆるユダヤ人のエリートでした。イエス様に出会う前は、弱さなどとは縁のない人でした。しかし、この病が与えられることによって、苦難の中にある人々に共感する能力や謙虚さを、神様からの恵みとして、受けることになったのです。
イエス様もまた、人としてこの地上を歩まれていたとき、人の苦しみのすべてを経験してくださいました。イザヤ書には「彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)」とあります。イエス様は人が体験する苦しみを、体験してくださったのです。またヘブル人への手紙には「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな(ヘブル5:8)」ったとあります。主が十字架で苦しみぬいてくださったゆえに、私たちは救われ、永遠の命が与えられました。
パウロの場合もイエス様と同じように、主が、主の働き人としてパウロを用いるために、彼から弱さをあえて取り除くことをせず、彼がへりくだることができるようにしてくださったことです。パウロは、「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)」と言いました。異邦人に福音を伝える、という使命を果たすために、神様はパウロがありとあらゆる境遇に対処できるように、整えてくださったのです。ですからパウロの弱さは、神様からの大きな恵みであったのです。
本当に弱いだろうか
私たちもまた弱い者ですから、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」というみことばを聞いたとき、なんとなく希望が与えられます。「このままでいいんだ」と思います。こんなに拙(つたな)いもの、汚いもの、能力のない者、人から受け入れられない者、愛することのできない者に、その弱さゆえに神様が働いてくださると聞けば安心します。しかし、私たちはほんとうに弱いでしょうか。私たちは、そのような弱い自分を嘆いていないでしょうか。もしそうだとしたら、それは弱さをいやがっていることであり、自分で、何とかしなくては、とがんばっていることにほかなりません。しかし、自分の力ではどうにもならないので嘆いている、ということではないでしょうか。
パウロは、「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)」と言いました。私たちが「弱い」ということは、自分の弱さを嘆くことではなく、それを喜んでいることであります。この「喜んでいる」は新改訳第3版の聖書では「甘んじている」と訳されています。つまり「受け入れている」ということです。私たちが自分の弱さを受け入れることがなければ、神様は私たちに働くことができません。私たちが自分の弱さを喜んで受け入れてこそ、キリストの力が私たちをおおうことができるのだと教えられていることなのです。
それは癒やしがたい
私たちは、日常生活の中で、ふと気づくといつの間にか悶々としていることがあります。それに気づき、さっきまで元気だったのに、どこからこうなったのかと考えます。すると、悶々としているときはいつも、あれができていない、これができていない、と考えて自分の無能さに耐えられなくなり、それを何とか取り繕うことを考えて、思い悩んでいるときであることに気づかされます。そんなときに、このみことば「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」が思い起こされて来るのです。そして、自分には能力などはじめからないのだ、と認めていれば、思い悩むことなどないのだ、と気づかされることです。そしてさらに主は、「それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」と語ってくださいます。このみことばは、新改訳第3版の聖書では「それは直らない」と訳されています。私たち罪ある人間は、どこまでも弱い者であり、それは直らないのだ、それを認めなさいと言われていることです。認めてこそ、私たちをキリストの力がおおうことができるのです。
自分を捨て主に従う
イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカ9:23)」と言われました。救われた私たちは、パウロと同じように、皆、主の働きをするために、神様から特別に選ばれ、召された者です。ですから、キリストの弟子として生きなければなりません。そして、キリストの弟子となるためには、「自分を捨て」なさいと教えられていることです。自分を捨てることは、自分の弱さを受け入れて、キリストに生きていただくことであります。そのようにして、キリストの力におおわれてこそ、私たちは主から平安をいただくことができるのです。そして、その平安の中で、主の働きのために整えられ、用いられて行くのです。
「イザヤ66:2 これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。ー主のことばー わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」
貧しい者である
私たちが、普段「貧しい」という言葉を耳にするとき、 経済的に貧しく、弱く、みじめで、恥ずかしい、そんなイメージを持つのではないかと思います。イエス様は、山上の説教の中で、弟子たちに「心の貧しい者は幸いです。(マタイ5:3)」と言われました。一見、「幸いなのは豊かな者ではないのか」と感じるようなことばですが、イエス様は、物質的な貧しさの事ではなく、心の貧しさのことについて言われたのです。
あなたの心は豊かでしょうか、それとも貧しいでしょうか。人はみな、心の中にいつも不足を感じていて、何か満たされないものを感じて過ごしています。「あの人は、仕事も出来るし、家庭もうまくいっている。人からも慕われていて、頼りにされている。」と感じられるような人であっても、心の奥底では、どこか満たされない部分があって日々過ごしています。そして、その不足の部分を、仕事や恋愛、趣味に夢中になり、時には人と楽しく会話をすることなどによって満たそうとします。しかし、それらのことをしている瞬間は楽しく過ごせても、それが終われば、また空しさを感じるのです。空しさを感じる姿を人前では見せられないので、楽しく充実しているかのように振舞っていますが、心の中にある空しさは一向に消えることはありません。すべてを造られた創造主なる神、イエス・キリストによらなければ、人の心は満たされることはないのです。
ですから、私たちはまず、主の御前にへりくだって、「私こそ、心の貧しい者です。あなたからいただくことがなければ、生きて行かれません。何も持っていません。主よ、与えてください。」と祈って求めなければなりません。「主よ、今、私に愛をください。人を赦す心を与えてください。信仰を与えてください。やる気を与えてください。」と言って祈る人に、神は目を留めてくださいます。
弱さを認める
私たちは、物事がうまく運んでいる時には、何をやってもうまくいくような気がして、自分で何かができたかのように誇ったりします。反対に、自分の思い通りに事が運んでいないと、「大丈夫だろうか、これでいいのだろうか」と急に不安になり、心が落ち着かなくなり、居ても立っても居られなくなり、どうしたら良いのかわからなくなり、身動きが取れなくなります。出来ることに満足感を覚え、出来ないと感じる時に劣等感を覚え、自分の心の動きに左右され、心がいつも揺れ動いている者です。
そして、自分の力ではもうどうにも出来ない、限界だと感じてはじめて、神様に真剣に求めて祈ります。私たちは、自分の力に頼って生きる事で、神様の働きを妨げ、また自分自身を苦しめ、不幸にしているのだということを、いつも心に留めておく必要があります。私たちは、どこまで行っても罪人であることに変わりはないので、自分の事を一番に考え、自分の思い通りにしたいという肉の思いがある者です。偉大なる創造主の前にあって、私たちはただの罪人に過ぎない者です。ただ主の前に、自分の無力さ、弱さ、罪深さを認め、悔い改めて、心を完全に主に明け渡すことです。その自分自身の弱さを差し出す人に、神は目を留めてくださいます。
みことばにおののく
神のことばは、私たちの病をいやし、私たちに生きる気力を与え、死人をも生き返らせるほどに力があり、また権威あることばです。聖書を読むとき、祈るとき、主の語られるみことばに震えおののいているでしょうか。主が、「わたしは主であってあなたをいやす者である」という主の語りかけを聞くときに、「主はこの病を今いやしてくださるのだ」と信じて、受け取っているでしょうか。
力ある主のみことばの前に、私たちはただへりくだって、今語られている御声に素直に応答する者となりましょう。こんな者に目を留めてくださる主のあわれみに感謝します。
「Ⅰ列王記22:7-8 ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。イスラエルの王はヨシャファテに答えた。『ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。』ヨシャファテは言った。『王よ、そういうふうには言わないでください。』」
主が私に告げられることをそのまま述べよう
イスラエルの王アハブは、ラモテ・ギルアデという町をアラムから奪い返そうとしました。そして、ユダの王ヨシャファテに、アラムとの戦いに一緒に行ってほしいと願いました。しかしヨシャファテは、「まず、主のことばを伺ってください。(Ⅰ列王記22:5)」と言いました。そこで、アハブは自分のお気に入りの預言者400人を集めて、ラモテ・ギルアデに戦いに行くべきかどうかを尋ねました。すると、彼らは口をそろえて、「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。(同22:6)」と答えました。しかしヨシャファテは、このような異教の預言者と主の預言者の違いを知っていたので、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と尋ねたのでした。すると、アハブは「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」と答えました。アハブは、自分の好むことを言ってくれる預言者のことばだけを聞いて、自分に都合の悪いことを言う預言者を憎んでいたのです。ミカヤが呼ばれましたが、彼は、「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。(同22:14)」と言いました。そして、もしかしたら自分が殺されるかもしれないような状況の中で、この戦いは必ず敗北することを預言したのでした。予想通りミカヤはすぐに捕らえられ、牢屋に入れられました。しかしミカヤの預言の通りに、結局アハブは戦死してしまったのです。私たちもまた、自分の好みを捨てて、主のみこころを伺わなければなりません。
みこころはどのようにしてわかるのか
私たちはイエス・キリストを信じ救われました。信じる前の私たちは、神様と遠く離れた存在でした。イザヤ書には、「むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)」と書かれています。しかし、私たちはイエス・キリストを信じて、まったく罪のない者とされました。ゆえに、神様と私たちとの間に立ちはだかっていた仕切りは打ち破られ、神様が私たちのうちに住んでくださることができるようになったのです。このようにして、私たちはいつも神様と交わりを持ち、神様のみこころがわかるようにされているのです。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。(マルコ1:40)」と言って、いやしを求めた、ツァラアトに冒された人に、イエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ(同1:41)」と言われました。神様のみこころは、私たちがいやされることであり、満たされることであり、解決されることであり、平安であることです。 神様は私たちに祝福を約束しておられるのです。
本当にみこころを求めているか
しかし、私たちは本当にみこころを求めているでしょうか。ミカヤのように、主に伺って生活しているでしょうか。神様のみこころは、私たちが平安であることです。ですから、私たちがいつも、何がみこころなのかを伺い、従おうとしているなら、私たちは平安であるはずです。ゆえに、もし平安がないと感じたら、それは主のみこころを伺っていないのだ、と認めなければなりません。聖書には、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:19、20)」とあります。神様を信じるということは、私たちが今までの自分勝手な生き方を捨てて、「神様に従う」という新しい生き方を選ぶことです。ですから、これはみこころではない、とわかっているとき、私たちは真剣に従って、手放すことをしなければなりません。アハブのように、みこころを無視して、それを押し通すようなことをしてはならないのです。どうしてもほしい、という彼のむさぼりの罪が、彼の落とし穴となりました。彼はミカヤの預言を無視して戦いに出て行き、戦死してしまったのです。私たちはアハブのようであってはなりません。自分のしようとしていることがみこころであるのか、いつも主に伺わなければなりません。
主に伺う者とならなければならない
イエス様は神であられるのに、この地上を人として歩まれ、私たちと同じ苦しみを味わってくださいました。そして神様のみこころに従順に従い、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。十字架に向かわれるとき、イエス様は、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)」と祈られました。人としてのイエス様は、十字架に架けられることへの恐怖を感じておられましたから、血のような汗を流して、父なる神様に必死に祈られました。しかしイエス様は、ご自分の望むようにではなく、主のみこころがなされるようにと願い、主のみこころに従って、私たちの罪のために十字架で死んでくださったのです。
私たちもまた、自分の望むことではなく、主のみこころを伺って、主のみこころに従順に従う者となりましょう。もとより私たちは従うことのできない者ではありますが、私たちが従おうとするときに、主は私たちのうちに生きて働いてくださり、従うことを助けてくださるのです。
「Ⅰペテロ5:6 ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」
へりくだるとは
「へりくだる」というと、控えめな態度をとることや、遠慮して自分をあまり前に出さないで、おとなしくするというイメージがあったりします。また、人と比べて自分を低く見せようと振る舞うことだと考えたりもします。「へりくだる」というのは、従順であるということです。従順であるというのは、素直に相手の言うことに従うこと、逆らわないということです。そして、その相手は神様なので、私たちは「神様、私は、あなたがおっしゃることでしたら何でも致します。お従いします。」という態度をとることになるのです。自分が神様のご支配の下に、すすんで身を置くことなのです。
イエス様は、漁師であったペテロに、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。(ルカ5:4)」と言われました。するとペテロは答えました。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。(同5:5)」。そして、そのことばのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになり、舟が沈みそうになるほど大漁だったのです。ペテロは、ただ主の言われることばに素直に従ったのです。主のことばには権威があって力があります。私たちの想像もつかないようなその御業をなされるお方の下に、私たちは身を置いて生活をしていかなければなりません。
イエス様は、私たちにへりくだることの模範を示してくださいました。神そのものであるお方にも関わらず、ご自分のその神という立場を主張されないで、仕える者の姿をとられ、人としてこの地上にお生まれくださいました。それは、罪人である私たちをこの世の罪から救い出すためでありました。私たちが死んで滅びることがないようにと、私たちを愛してくださるがゆえに、すべての人の罪を負ってくださいました。そして、ご自分を卑しくされ、十字架の死にまで従われたのです。イエス様は徹底して、神様に対して従順であられたのです。
イエス様は、ゲッセマネの園で、十字架にかかられるその前に苦しみもだえて祈られました。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(マルコ14:36)」と、すべてを父なる神にゆだねられたのです。
私たちは、素直になって神様の権威、主権を認めて服従していく必要があります。しかし、私たちは生まれながらに罪人ですから、素直に服従するということができない者であります。自分が中心であって、自分のことばかりに目が行きがちであります。私たちのこの自己中心を忌み嫌い、悔い改めて、今主の御声を聞く選択をしなければなりません。
神の力強い御手
イスラエルの民が、エジプトで奴隷状態にあった時、モーセはエジプトの王ファラオに民を出て行かせるように度々交渉しましたが、ファラオはそれを聞き入れませんでした。主は、モーセを通して、エジプトに幾つもの災いを起こしましたが、それでもファラオは民を出て行かせませんでした。最後にはエジプトの長子を全員殺すという災いをもたらし、とうとうファラオは民を出て行かせることになったのです。主は、紅海を真っ二つに分け、海の真ん中を歩いて渡るという奇跡を起こされました。このようにして、神の力強い御手によって、民はエジプトから逃れることができたのです。
神は力強い御手をもって、この世のすべてを支配しておられます。ですから、私たちは神の主権の中に自分自身をゆだねる必要があるのです。自分に不利になるようなことが起きた時に、「なぜ私がこんな目に合わなければいけないのか」と神に不平不満をもってつぶやくのではなく、主の主権を認めて、偉大な神の御手の下にへりくだって自分の身を置くことです。
へりくだる者に与えられる恵み
「わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。( イザヤ66:2)」
私たちが、主の御前にあって、自分がいかにつまらない者であるか、いやというほど思い知らされ、内側にあるものが剥ぎ取られ、ただ主を恐れていく時、主は苦しみの淵から救い出してくださり、助けてくださるのです。
私たちが、これから先どうなっていくのか、全く予測もつかない、前が見えない、もがき苦しむ中、それでも、神の御手の下にへりくだって、従順に主に仕えていくことで、神様は、ちょうど良いタイミングで、私たちを高く上げてくださり、驚くほどの素晴らしい恵みをお与えくださり、奇跡の御業をなしてくださるのです。
「Ⅱサムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。』」
主に目を向けていたダビデ
ダビデは、アブシャロムの謀反によって、エルサレムを出て逃げる途上で、サウルの家の者シムイが自分をのろうことばを聞きました。ダビデの家来はいきり立ち、「行って、あの首をはねさせてください。(Ⅱサムエル16:9)」と申し出ましたが、ダビデはそれを制して、「彼が呪うのは、主が彼に、『ダビデを呪え』と言われたからだ。(同16:10)」「放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。(同16:11)」と言いました。この聖書箇所を読むとき、ダビデの信仰に教えられます。だれでも、自分に不利なことを言われたら、まず怒るでしょう。私たちは人から悪く言われると心穏やかでなくなりますし、それが本当のことであっても受け取れなかったり、言い返さないと気が済まなかったりと、まったく冷静でなくなってしまう者です。しかし、ダビデは冷静でした。ダビデのように権威ある者であれば、シムイを処罰することもできたはずです。しかしダビデはそうしなかったのです。それはダビデの目が、シムイではなく、主に向いていたからです。彼は、神が、シムイが彼をのろうことを許可された、と言いました。神にすべての主権があることを認めていたのです。
いつも主を思い巡らす
しかし彼が、このとっさの出来事にすぐに怒らず、冷静でいられたのは何故でしょうか。それは、ダビデの心がいつも神様のことを思っていたからです。詩篇25篇でダビデは、「私の目はいつも主に向かう。主が私の足を罠から引き出してくださるから。(詩篇25:15)」と告白しています。たとえ敵に追われている時でも、悩みの中にあっても、ダビデの心はいつも神様に信頼する思いでいっぱいだったのです。
そして、子供の時から神様に信頼して生きて来たダビデは、神様がどのようなお方であるのかをよく知っていました。神様は聖いお方ですから、人の血を流すことは喜ばれません。そして、神様は人をあわれみ、愛してくださり、人が神様に呼ばわる時、答えてくださるお方です。ダビデがサウルに追われ、命をねらわれているときも、神様は幾度となくダビデを救い出してくださいました。ナバルがダビデの申し出を聞き入れず、かえって中傷した時も、神はナバルの妻のアビガイルを用いて、ダビデが無駄な血を流すことを止めてくださり、正しく裁き、報いてくださったのです。ダビデはそのような神に信頼し、愛し、慕っていました。
詩篇27篇で、ダビデは彼の求めることはただ一つであると言っています。それは「主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らす(詩篇27:4)」ことなのです。彼は神様が自分にしてくださったことをいつも感謝し、思い巡らしていたのです。それが彼の楽しみであり、心の拠り所であったことでしょう。だから彼は、とっさの事態にも「おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。(Ⅱサムエル16:12)」と神様に信頼することができたのです。
冷静に対応することができる
日常生活の中で私たちもまた、とっさに出会う、人のちょっとしたことばや態度に、冷静さを失ってしまいがちです。その時、どのように対応するべきかということを、このみことばが教えています。ダビデは自分がのろわれても「放っておきなさい」と言いました。私たちもまた、とっさに起こる自分にとって不利な事態を神が許可されていると信じるなら、「放っておきなさい」と、冷静に対応できるのです。そのためには、ダビデのように、いつも主のしてくださったことを思い巡らしていなくてはなりません。その中で最も大切なのは、「イエス・キリストの十字架の恵み」であります。主は、私たちの罪のために十字架の上で私たちの身代わりとなって死んでくださいました。そのようにして、私たちを罪から完全に解放してくださったのです。それは、私たちが罪から完全に解放され、いやされて完全な平安の中に入れられるためでした。だからどんな状況が起こっても、私たちは主に信頼することができるのです。
聖書は、「人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブ1:20)」と教えています。いつも主のしてくださったことを思い巡らし、主の御業をほめたたえましょう。
「Ⅰペテロ 5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
この先どうなるのだろうか
私たちは、日々様々なことを心配しています。ある人は、毎月の支払いのことで、どうやり繰りしたらよいか、そのことばかりで頭を悩ましていたり、ある人は、自分の今抱えている病のことで、一向に症状が変わるような様子がない中、「祈ってはいるけど、聞かれていないのかな」と感じていたりします。どんな心配であれ、これから先どうなるのだろうかという不安が心の中から消え去ることはなく、将来に対する心配が、常に私たちの心を支配しています。一つ心配がなくなったと思えば、次の心配が出てきて、心配事が尽きることはありません。
主は、「明日のことまで心配しなくてよいのです。(マタイ6:34)」と言われました。「これから先のことを今心配するな」と言っておられます。「明日のことは明日が心配します。(同)」。明日の心配は明日すればいいのであって、「今日やるべきこと、今やらなければならないことについて心配し、そのことだけを考えなさい」と言っておられるのです。「試験が来週に控えていて、これが最後のチャンスで合格しないともう後がない。ただ全く勉強が進んでいない。このままでは合格しないかもしれない。どうしよう。」と言って、合格するかしないかという先の心配をするのではなく、そのために今やるべきことは何だろうか、何をどこまでやれば良いのかという心配をする必要があり、やるべきことがわかれば、あとは今それを実行に移すだけなのです。
心配は主がしてくださる
主は、休むことなく働いておられ、私たちの生活のすべての時間において、その行動の一つ一つ、話す言葉の一つ一つを見ておられ知っておられるお方です。「主よ あなたは私を探り 私を知っておられます。(詩篇 139:1)」
そのお方が、私たちのことをいつも気にかけていてくれて、私たちのために心配をしていてくださるのです。大変な状況の中、主に求める時に答えて下さり、実際に事を動かして働いてくださいます。行き詰まりを覚える時に、「わたしがともにいるではないか」と、そっと声をかけてくださいます。私は、神様に頼らなくても自分でやっていきますと言い、主に信頼しないで歩もうとする時に、神はそっと身を退けられ、あなたの様子をじっとご覧になっておられます。それでも滅びに至ることのないようにと、ずっととりなして祈っていて下さり、悔い改めて立ち返るその日が来るまで、何年かかろうとも忍耐強く待っていてくださるのです。そこにはすべて、主の私たちに対する素晴らしいご計画、お考えがあって、あなたのことをどうやって祝福しようか、どのように導いていこうかと、いつもあなたのために心を配っておられるのです。
主は、私たちの身にこれから起こることのすべてを知っておられるお方です。主は、エジプトの奴隷として生活をしていたイスラエルのために、民をエジプトから救い出すための計画を持っておられました。モーセを通して、そのご計画が民全体に語られました。エジプトの王ファラオに、民をエジプトから出て行かせるように命じるが、ファラオはかたくなにこれを拒むことを神は知っておられたのです。そして、主はこの状況を用いて、紅海を真っ二つに分けるという奇跡を行われ、イスラエルの民は、海の真ん中を歩いて進み、エジプトから逃れることに成功しました。すべて主のご計画によることであり、あらゆる出来事、人、状況を用いて、私たちを祝福へと導いてくださるお方であります。
いっさいをゆだねることができるお方
主が私たちのことを心配していて下さり、最善の道を備えてくださっているということを知るならば、私たちの心に、これから先のことについてあれこれと考え心配する思いは一切なくなることです。何が起こっても主の最善がなされる、主の御心だけがなるのだ、と信仰によってわかるので、今、心に湧き上がってくる思い煩い、心配のすべてを主にゆだねることができるのです。
私たちは、今まで自分なりの考えで生きてきて、それが間違っていたことを認めて、主に従う決意をした者です。自分の考えに頼って生きることが、どれほど愚かなことであるかを知ることができることは幸いなことです。私たちの人生のすべてを安心してゆだねることのできるお方に、身をゆだねていくならば、私たちは、今やるべきことに全力を注いで取り組むことのできる力が主によって与えられて、多くのことを成し遂げていくことができるのです。主の恵みに感謝します。「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。(詩篇138:8)」
詩篇16:8「私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。」
心の中で何を考えているか
私たちは、いつも心の中で何かを考えています。あなたは今何を考えていますか。今朝の礼拝では神様が何を語られるだろう、と期待しているでしょうか。また何か心配事があって、そのことで頭がいっぱいでしょうか。いずれにしても私たちは、自分が今何を考えているか、などと思い巡らすことは、普段はあまりしないものです。しかし、少し意識すればわかることですが、心の中は絶えず忙しく、次々と何かを思い巡らしているのです。
聖書には「悩み苦しむ者の毎日は悪いことのみ。心に楽しみのある人には毎日が祝宴。(箴言15:15)」とあります。心の中に、思い悩んでいる人は毎日が不安であるが、心の中に楽しみがある人は、毎日が平安で、喜びに満ちあふれて生活できるのだ、ということです。心の中に何があるかによって、勝利の生活を送るのか、敗北の生活を送るのかが決まるということです。
ダビデの信仰
今日のみことばは、ダビデが書いた詩篇です。ダビデは自分の主人であるサウルに命を狙われ、長い間追われる生活をしていました。何も悪いことをしていないのにです。そのような中でも、ダビデは決して神様から離れることなく、神様に信頼し、いつも神様と会話をしていました。冒頭のみことばの「私はいつも 主を前にしています。」というのは、ダビデが主との交わりを絶やさなかったということです。私たちは、目の前にいる人と会話をすることができます。主が目の前におられれば神様と会話をすることができます。神様は目に見えないお方ですが、信仰によってダビデはいつも自分の目の前に主を見ていたのです。
そして、「それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。(詩篇16:9)」と告白しているように、神様との絶えない交わりの中で、彼が得たのは喜びと楽しみでした。常識では、命をねらわれ、追われる生活の中に、喜びや楽しみがあるとは想像しにくいことです。しかし、神様と会話していれば、心の中には恐れの代わりに喜びが満ちあふれるので、勝利の生活を得ることができるのだと、このみことばからわかります。 ほかの詩篇からも、彼が本当にいつも心を注ぎ出して、神様に何でも申し上げていたことがわかります。「主よ 私をあわれんでください。絶えず 私はあなたを呼んでいます。(詩篇86:3)」と懇願していることもありますし、彼の敵に対しては、「神よ どうか悪者を殺してください。(詩篇139:19)」とストレートに訴えています。激しいことばで訴えることができたのは、ダビデが本当に神に信頼し、神は自分の味方であると信じ切っていたからです。
神様との会話の中に生きる
イエス・キリストを信じる私たちの内には、聖霊が住まわれています。イエス様が言われたように、聖霊は私たちの助け主であり、私たちの話し相手となってくださいます。ですから、私たちはいつも神様と会話をして生きることができます。これは信じる前にはなかった特権です。聖霊が語られるのは常にみことばでありますから、私たちは必ず励まされ、助けられ、希望を持って生きることができるのです。ですから、私たちは常に神様と会話をしていなければなりません。私たちが祈るとき、それは神様との会話になります。祈りの中で私たちは、心にわき起こるどんなことも、神様にお話をしなければなりません。
神様との会話を妨げる者
しかし、私たちが祈っているときに経験することですが、神との会話を妨げるものがあります。悪魔は、私たちが神と会話をして、みことばによって建て上げられることを邪魔しようとします。たとえば、祈っているときに、ほかのことに注意を向けさせようとしてきます。私たちは、それに気づかなくてはなりません。聖書は、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23)」と教えています。私たちは、生活の中で、今自分が何を考えているのか、心の中に何があるのか、見張っていなければなりません。そして、神様と会話をしていないと気づいたならば、すぐに神様との会話を始めなければなりません。
主を前にする生活
いつも主を前にしている生活は、何者によっても決して揺るがされることのない、勝利の生活であります。私たちもダビデのように、「いつも 主を前にして」歩みましょう。いつも主と会話して生きることのできる特権が与えられていることを、主に感謝します。
「ピリピ4:6-7 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
特権が与えられている恵み
イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れた私たちは、神様との交わりを持つことができる特権にあずかっています。信仰生活を歩む中で、何よりもまず必要なものは祈りです。朝起きて、主が与えてくださった新しい一日に感謝し、その日の祝福を覚えて祈ることができます。食事をする時にも、糧をいただくことのできる恵みに感謝して祈ることができます。学校で勉強している時、会社へ行き仕事をしている時に、今自分がやるべきことを、祈って主に聞くことができます。問題が起こる時、祈って主に判断を仰ぐことができます。自分の内に抱えている問題や感じていることをそのまま祈ることができます。また、周りの人のために祈ってあげることができます。すべては、私たちが祈る特権にあずかっているからこそ、受けることのできる恵みなのです。
まことの平安がやってくる
私たちが主に祈るとき、心に平安がやってきます。どんな状況に置かれていたとしても、主への感謝を持って祈り求めていくならば、人からの励ましの言葉による平安ではなく、人間の理解をはるかに超えた神から来るところの平安が私たちの心を満たすのです。この平安は、イエス・キリストを知らない世の人たちには決して味わうことのできないものであり、信じる私たちにだけ与えられる恵み、特権であることを、主に感謝します。
パウロは、福音を宣べ伝えていく中で、あらゆる困難や迫害に遭遇しました。ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中で、ピリピにいる信者たちに宛てて書いた手紙であります。この手紙では、繰り返し「喜び」という言葉が使われています。その喜びは、周囲で起きている出来事によってではなく、パウロ自身の内側から出てくるものであり、キリストにある喜びであります。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4 : 4)」。それは、「どんな状況であろうとも、主がこの私を救ってくださる、助けてくださる」という主への絶対的な信頼があってのことであります。私たちが主に信頼すればするほど、この喜びはより一層大きなものとなり、途切れることなく続くものとなっていくのです。それは、すべて私たちの祈りを通して、主が与えてくださるものであります。
恵みを知らないのではないか
神様が私たちへのギフトとして、祈りという特権を与えてくださっているのに、その特権を活かすことがなければ、私たちは神様からいただくことのできる多くの恵みを無にしてしまうことになります。もし私たちの生活が、教会に来ている時だけは祈って、それ以外の時間は、ほとんど祈らないで日常を過ごしているとしたら、主からの恵みを受けることなく、喜びや感謝が湧き上がってこないのも当然のことかもしれません。祈りはクリスチャンに与えられた特権であって、しなくてはいけない義務ではありません。信じる者にだけ許された、祈るという特別な権利が与えられているのです。
私たちは、主の喜びに満たされ、感謝にあふれた生活を送ることができるのです。それは、私たちが主に祈るとき、その心は神様に向けられていくので、祈りを途切れることなく続けていくならば、心には必ず平安がやってきます。喜びが湧き上がってきます。主への賛美が口から自然と出てくるようになります。
主の恵みを体験する
神の子どもである私たちが、主に求めて祈る生活を続けていって祝福されないはずがありません。神様が祝福の源であり、すべてのものは、神様から出ているので、経済の必要が満たされるのも、家庭が祝福されるのも、良い人間関係を築いていくことができるのも、仕事や事業が祝福されるのも、私たちが主に求めて祈った祈りに、主が答えてくださったからであります。
私も今までに、主からたくさんの恵みをいただいてきました。結婚も、子どもが与えられたことも、病のいやしも、生活習慣が変えられたことも、経済の必要が満たされたことも、すべて主に求めて祈っていった結果でありました。
私たちは毎日、この祈る特権が与えられていることに感謝して、どんなことでもお話しすることのできる主に祈り求めて、主からのあふれんばかりの恵みを体験してまいりましょう。
「ヤコブ1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
ずっと平安でいられない
私たちが一番欲しいものは、心の平安であります。しかしこの平安は、なかなか長くは続きません。私たちは、 何か一つでも、 どんなに小さなことでも、自分の願いがかなえば、しばらくは晴れ晴れとして快活な気持ちでいられますが、一方で、ちょっとした人の顔色やちょっとした一言で心が揺らされて、ありもしないことを想像し始め、気づくと一日中考え続けていて、やるべきことに集中できていなかったりします。
サウル王はダビデを疑って、根も葉もない妄想に捕らえられ、ねたみと憎しみで心が蝕まれ、ついには自分の身を滅ぼしました。悪い考えが心に満ちていると、どんなに油注がれた王でも敗北してしまうことです。ですから、私たちは心の中にわきあがってくる悪い考えに打ち勝たなくてはなりません。しかし、私たちは自己中心な者でありますから、一度自分勝手な考えに捕らえられると、サウルのように、そこからなかなか抜け出すことができません。
みことばを植えつける
今日のみことばは、「みことばはあなたがたのたましいを救うことができます。」と教えています。みことばが、悪い考えから私たちの心を守ってくれるということです。そして、そのために私たちがするべきことは、「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れ」ることだ、と教えられています。
主は私たちの心の中にすでにみことばを「植えて」くださっておられます。「植える」ということばは、植物に関する言葉です。種や苗を土の中に埋めて、育つようにすることです。植えるのは、植物が育つためです。植えた種や苗に水をあげて大切に育てれば、青々と葉が茂り、花が咲いて私たちの目を楽しませるようになります。しかし、植えただけで、世話をせずにほうっておけば、それはすぐに枯れてしまうでしょう。主が私たちの心に植えてくださったみことばも、もし私たちが気にも留めないでほうっておいたら、まるで植物が枯れてしまうように、私たちの心に何も働かない、無用なものになってしまわないでしょうか。
みことばを育てる
ではみことばを「育てる」とはどうすることでしょうか。主は、みことばを「素直に受け入れなさい」と命令されています。それは私たちが、そのみことばをいつも気に留めていて、毎日口ずさみ、どんな状況のときにも忘れないことであります。そのようにして、私たちの心の中が、まるで植物が生い茂るように、みことばでいっぱいになっていると、それが自分の考えとなって、どんなに悪い考えがわき起こってきても、打ち勝つことができるのです。ですから、私たちはいつも、主が植えてくださったみことばに気を留め、育てていなくてはなりません。
神を愛し、ほめたたえる生活
私たちは神様を愛しています。神様がまず私たちを愛してくださったからです。主は、私たちのためにご自分のいのちさえ惜しまずに、死に渡されました。まったく罪のない方が、私たちの代わりに死んでくださったのです。そのようにして、主は私たちの思い煩いや病を全部取り去ってくださり、ご自分が代わりに苦しんでくださって、私たちを罪ののろいから完全に解放してくださったのです。 そのような方を、私たちは愛さずにはいられませんし、主の救いを思い起こすとき、感謝だけがわきあがってくるのです。だれでも、大好きな人のそばにいつもいたい、と願いますし、その人が話すことばには一生懸命耳を傾けるでしょう。私たちは神様を愛しているので、みことばを愛します。毎日これに心を傾けて、これを口ずさみます。
しかし私たちのするべきことは、がんばってみことばを覚えようとすることではありません。ただ神様をほめたたえることであります。そのようにして私たちの心が神様を愛する思いでいっぱいになるとき、私たちはもっともっと、主が植えてくだったみことばを覚えたい、忘れないでいたい、と願うようになるのです。そのようにして、いつもみことばを思い巡らしている人の心には、ずっと続く平安があるのです。私たちはいつも主に感謝し、ほめたたえる生活をして参りましょう。
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩103:2)」
「マタイ23:25-28 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」
取り繕う心
イエス様は、パリサイ人、律法学者たちの偽善を指摘されました。「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。(マタイ23:5)」。彼らは、人からよく見られたいという心の動機から、自分を立派に見せようとしていたのです。
私たちも普段、周囲の人たちとの関わりの中で、「人からよく見られたい、評価してほしい、自分のことをわかってもらいたい、認めてほしい」という思いから、外見、外側のことに目が向きがちになってしまう者です。「自分自身がもっと価値ある人間にならなければ」と、できる自分、人から認められる自分を目指し、外見、外側をきれいに磨くために、ファッションや持ち物にこだわりを持ったり、美容や健康を求めたり、様々な資格やスキルを身につけ、それらに時間やお金を使っていたりします。私たちは、外側のものにではなく、内側、つまり自分の心にあるものに目を向けなければなりません。
神のみこころ
イエス様は、「まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。(マタイ23:26)」と言われました。主が私たちに願っておられることは、私たちが聖くなることです。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(Ⅰテサロニケ4:3)」。私たちの人生のすべてを神様に捧げて、主に用いていただくために献身し、罪から離れて生活をすることを主は願っておられるのです。
そのためにも、私たちはまず、自分の内側にあるものをしっかりと見て、認識する必要があるのです。主は、私たちの心のすべてを知っておられるお方で、人には知られないで済んでいるかもしれませんが、主はその行いの一つ一つを詳細に見ておられ、心にある動機を見ておられるお方です。
ありのままを愛してくださる
私たちの心の内側にあるものとは何でしょうか。それは、「あらゆる汚れ」であって、心の中はその汚れで満ちているのです。私たちの生まれながらに抱えている罪の性質、肉の思いであり、自己中心の思いです。神様に反抗していて素直にみことばを聞くことができないことや、人を愛することができないこと、神様に信頼しないで、自分で心配し、思い煩い、恐れていること、すぐにあきらめ、面倒くさくなってしまい投げ出してしまうことなどがあると思います。この目を背けたくなるようなものが、私たち自身の本当の姿であって、ありのままの自分なのです。これが「私」なのです。
しかし、「このありのままではダメだ」「これでは人に受け入れてもらえない、認めてもらえない、愛されない」という恐れがあって、本当の自分に蓋をして、できる自分を演じようとします。自分を偽って、自分をよく見せようと努力します。本当は、心の中が恐れや不安でいっぱいであるのに、幸せであるかのような振舞いをして過ごしています。しかし、主はこれを受け入れられません。「偽りの唇は主に忌み嫌われ(箴言12:22)」るのです。偽りの心を主は忌み嫌われ退けられます。
主は、ありのままの「私」を愛してくださっておられます。ありのままの「私」を受け入れてくださるのです。ですから、まずこのありのままの「私」を認めて生きることです。
内側をきよめよ
そして、このありのままの「私」は、罪だらけの「私」ですから、自分の力では、この内側をきよめることはできません。主の助けが必要です。「私は、はじめからできない者です。罪だらけの者です。こんな罪人の私をあわれんで下さい。」と、主のあわれみにすがらなければなりません。
主は、心の直ぐな人と親しくされるお方です。ですから、主の御前に、心の内を正直に告白するなら、主はどんな罪であっても、「その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」。そのようにして、私たちは、あらゆる罪、悪から解放されて、神様の聖さにあずかることができ、自由に生きられるようになるのです。そして、主が与えてくださるところの本当の喜び、本当の平安をいただいて前進することができるのです。
「ルカ5:5-6 するとシモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」
おことばに従ったペテロ
イエス様の弟子の一人、ペテロは漁師でした。あるとき仲間と一緒に、いつものように夜に舟を漕ぎ出し、漁をしていました。当時のガリラヤ湖では、夜に漁をするのがふつうでした。魚は昼間は湖の底に潜んでいて、夜になると浅い所に登って来たからです。ペテロたちは夜通し働きましたが、その日はどういうわけか一匹もとれませんでした。そうこうするうちに夜が明けてしまい、彼らはあきらめて岸辺で網を洗っていました。「今日は稼ぎがないけど、どうしたものかなあ」などと話しながら、力なく網を洗っていたことでしょう。
そこに、イエス様が、多くの群衆とともに来られました。そこには二艘の舟がありましたが、イエス様はペテロの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにペテロにお頼みになりました。そして、舟の中に座って、岸辺の群衆に向かっていろいろと教えられました。ペテロはイエス様と同じ舟に乗っていましたから、群衆と一緒に、イエス様の話をじっと聞いていたことでしょう。
話が終わると、イエス様はペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。もう夜はあけて明るくなっていましたから、魚は湖の底に戻って行ったはずでした。こんなに明るい時に漁をするのは、漁師にとっては非常識なことでした。しかし、ペテロは、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(同5:5)と、イエス様のおことばに従ったのです。
おびただしい数の魚
ペテロは以前に、イエス様が悪霊を追い出し、たくさんの病人を癒されたことを聞いていましたから、イエス様が権威あるお方であることを悟っていました。だから、自分の常識を捨てて、イエス様のおことばに従ってみようと思ったのでしょう。そして、イエス様に言われた通りに網を下ろすと、二艘の舟が両方とも沈みそうになるくらい、おびただしい数の魚がとれたのです。彼らはきっと、口がきけないくらいに驚いたに違いありません。これを見たペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(同5:8)と言いました。イエス様が神であられることを悟り、恐れる思いがわいてきたのです。
イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」(同5:10)と言われました。そこでペテロは陸に舟をつけると、イエス様のおことばに従い、漁師の仕事も、家族も、何もかも捨てて、イエス様について行ったのです。一緒にいたヨハネもヤコブも同じように、イエス様のおことばに従って、ついて行ったのでした。神様は、神様のおことばに従う者に、豊かな恵みを与えて下さる方です。主に感謝します。
おことばをかけてくださる主
神様は私たちを愛してくださり、私たちを罪から救うために、イエス・キリストを身代わりとして十字架につけてくださいました。私たちは罪深い者でしたが、イエス・キリストを信じて罪赦され、きよくされたので、神様がうちに住んでくださることができるようになりました。神様がうちに住んでくださっているので、私たちはいつも神様に、自分の思いや願いをお話しして、生活することができるようになりました。
そのようして私たちがいつも神様に心を向けているとき、神様は私たちに必要なおことばを与えてくださいます。ペテロは、舟の中でイエス様の話にじっと耳を傾けていました。そのペテロに、イエス様は「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」 (ルカ5:4) と声をかけてくださったのです。この時ペテロは魚が一匹も捕れず、その日は収入がありませんから困っていたことでしょう。そのペテロに、イエス様は必要なおことばをかけてくださったのです。そして、ペテロが自分の常識を捨てて、イエス様のおことばに素直に従った時、イエス様はあふれるばかりの祝福をあたえてくださったのでした。
おことばに応答する
主のおことばには権威があります。私たちも同じように、神様の語ってくださるおことばに耳を傾け、自分の常識を捨てて、従わなくてはなりません。そうするときに、神様はあふれるばかりの祝福を与えてくださるのです。そして、主のおことばをいただくためには、私たちは一日中神様に心を向け、会話をしていなければなりません。「おことばですので、愛します」「おことばですので、赦します」「おことばですので、いつも喜んでいます」といつも神様に応答する者となりましょう。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすればそれはかなえられます。」(ヨハネ15:7)
「Ⅱコリント1 : 4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」
慰めとは
私たちが、慰めを必要とする時は、そのほとんどが、何か辛い出来事、失意、落胆する出来事や苦しみに直面した時ではないでしょうか。そんな時に周囲の人たちから、優しく声をかけられることで、安心したり、乱れていた心が落ち着き、また前を向いて生きていこうという気になったりします。人から受ける慰めであります。
また、慰めを必要とするときに、その出来事を忘れ、気を紛らわすために、趣味や恋愛に夢中になったり、食べること、遊びに出かけることによって自分自身を慰めたり、酒やタバコ、ギャンブルやポルノなどに慰めを求めていったりします。いずれにせよ、これらは一時的なものであり、その時は辛いことを忘れられても、また、同じ状況が訪れると、同じように慰めを人やその他のものに求めることになります。
真の慰め主
私たちは、真の慰め主であられるイエス・キリストによって慰めを受けなければなりません。心が苦しくなる、絶望感が孤独感が自分を襲う、その時に、主は私たちのそばにいてくださるお方なのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇 23:4)」
慰め主であられ、私たちの苦しみのすべてを知ってくださっておられるそのお方が、いつも自分のそばにいてくださり、声をかけてくださるのです。
「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め (イザヤ 66:13)」とありますように、子どもが、人から傷つけられるようなとても辛い出来事があって、家に帰ってきた時に、その様子を見て、声をかけない親はいないと思います。子どもに寄り添い、抱きしめてあげるはずです。
主もまた、神の子どもである私たちのそばに寄り添い、抱きしめてくださるのです。
主を忘れてはいないだろうか
私たちの人生は、あらゆる出来事が次から次へと起こります。人間関係の中で、争いや揉め事などのトラブルがあったり、誹謗中傷を受けるようなことがあったりします。また、普段の日常生活においても、仕事や勉強、子育て、あらゆる人間関係の中で問題が起き、その生活に疲れ果てているかもしれません。そんな状況の中で、すっかり神様に求めることを忘れてしまっているのであれば、慰め主であられる神様以外のものに慰めを求めてしまうのも当然のことであります。
神は、あなたのことを片時も忘れることはありません。今起きている状況、また過去に起きた出来事、これから起こること、全て知っておられるお方です。そのお方があなたのことを忘れるはずがありません。むしろ、問題は私たちの側にあり、神様に従いますと言いながら、次の瞬間には、もう神様のことを忘れて生きてしまっている愚かな者であります。
神様のことを忘れて生きていること、これが神に対して背いている罪であることをまずはっきりと認めて、これを悔いる心がなければ、神の慰めを受けることはできません。神は、へりくだる者、自分の犯した罪を悔いて悲しみ嘆く者を慰めてくださるお方です。
ダビデは、ウリヤの妻バテ・シェバと関係を持って、姦淫の罪を犯しました。預言者ナタンがその罪を指摘した時に、ダビデはハッと我に返り、自分の犯した罪の重大さに気がつき、悔い改めて主に祈り求めました。そのダビデを主は慰められたのです。
今慰めを受けよ
私たちは、今、主の慰めを受けることができるので、心にある苦しみ、辛いこと、悶々としている思いのすべてを、ありのまま主に祈って、慰めを求めていく必要があります。そうすれば、主はあなたのそばに寄り添ってくださり慰めてくださいます。そのようにして生きられる道をお与えくださる主に感謝します。
「Ⅱ列王記6:16-17 すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」
火の馬と戦車
アラムの王は、エリシャが彼の作戦をことごとく見破って、イスラエルの王に告げていることに怒りを燃やし、エリシャを捕らえるために、夜のうちに軍隊を送りました。馬や戦車で構成された軍隊が、エリシャのいる町を包囲していました。エリシャのしもべである若い者が、朝早く気づき、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。」(Ⅱ列王記6:15)、とエリシャに告げました。冒頭のみことばは、この時のエリシャの答えです。エリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(同6:16)と言ったのです。もちろん、若い者にはエリシャが言っていることの意味がわからなかったでしょう。エリシャが言った「私たちとともにいる者」とは神の軍隊のことだったのです。もし若い者にこれが見えていたら、恐れたりあわてたりすることはなかったでしょう。彼は、敵であるアラムのおびただしい軍隊を見て恐れていたので、神の軍隊が町を取り囲んでいるのを、見ることができなかったのです。そこで、エリシャが「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(同6:17)と祈りますと、彼は見えるようになりました。すると、なんと神の軍勢である「火の馬と戦車がエリシャたちのまわりを取り巻いて山に満ちていた。」(同6:17)のでした。
私たちもまた、何か問題が起こったとき、神を信じる信仰によって、私たちのまわりを神の軍隊が取り囲み、私たちを守っていてくださることを、目を開いて見なければなりません。
恐れに動かされている
聖書の中には、恐れに関するみことばがたくさん出て来ます。それは、神様が、私たちが恐れを抱きやすいことをよく知っていて、私たちを励ますために、みことばを送ってくださったからであるに違いありません。主のあわれみに感謝します。
たとえばイザヤ書で神様は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから」(イザヤ41:10)と私たちに命令されています。またヨシュア記では、イスラエルの民が約束の地に攻め入ろうとしたとき、民がその土地にすでに住んでいる外国人を恐れる状況の中で、神様はヨシュアに、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)と語られました。神様が「恐れるな」と命じられる時はいつも、「あなたとともにあるからである。」と励ましてくださるのです。
神を信じなさい
聖書は「ですから、神を信じなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)と教えています。私たちが恐れに勝利するには、私たちを恐れさせようとする悪魔に立ち向かわなくてはなりませんが、その前にまず「神を信じなさい」、と言われていることです。全知全能であられる神が、私たちの味方であり、私たちを愛してくださり、守ってくださるお方であることを信じることです。そのようなお方がともにおられるので、私たちの経済は必ず満たされます。私たちの人間関係は祝福されます。私たちの病は癒されます。どんなこともあきらめないで、やる気を失わないで、最後まで成し遂げることができるのです。「神様がどのようなお方であるのか」ということを知っているので、私たちを恐れさせようとする悪魔に立ち向かうことができるのです。主に感謝します。
わたしはあなたとともにいる
ですから、私たちは神様がどんなお方であるのか、ということに、いつも心を向けていなければなりません。それを忘れて恐れているならば、それは神様に対する不従順であり、罪であります。悔い改めなければなりません。主は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」(イザヤ41:10) と言われます。私たちは悪魔の偽りのことばではなく、私たちを愛してくださり、守ってくださる神様のみことばに聞き従わなければなりません。どんなときにも神の軍勢が私たちを取り囲んでいるのを見て、勝利の生活を歩んで参りましょう。
「マタイの福音書 8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」
預言の成就
聖書は、イエス・キリストが旧約聖書に預言された救い主であることを伝えています。その誕生はもちろんのこと、主の存在やなされたことの多くが、その昔、神様が預言者を通して、あらかじめ民に対して預言というかたちで伝えられていたことでした。預言が成就したというのは、イエス・キリストこそまことの神が遣わされた救い主であるということの、宣言であり、証言です。私たちは、この方を自分の救い主であると、確信を持って信じなければなりません。
わずらいを身に引き受けた
イエス・キリストの生涯における、苦しみは私たちの身代わりでした。地上の歩みの中では、苦しみやあつれきの中を歩まれました。わずらいや病を負ってくださいました。十字架の死は、私たちがさばきを受け、苦しまなければならないことの、身代わりとして罰を受けたことでした。
「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というのは、私たちから、わずらいや病を取り上げて、持って行き、自分で負ってくださっているということです。主は、信じる者の救い主として、信じる私たちのわずらいを取り上げ、病を取り上げ、ご自身の身に引き受けてくださるのです。死までも取り上げて、ご自分の身に私たちの死を負われました。十字架の悩み苦しみ、死は私たちの罪のためです。
聖書は「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。(申命記 28:15)」とはっきりと宣言しています。すべての人は、その罪のゆえに、のろわれている存在です。そののろいは、申命記によりますと、人生の苦しみであり、病であり、死なのです。人は理由があって苦しんでいるのです。
しかし、私たちののろいのすべてを、主は「身に引き受け」てくださるのです。主はのろわれた者となってくださるということです。十字架は罪ののろいを受けられた場所です。聖書は「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。(ガラテヤ 3:13)」と説明しています。
うずくまるキリスト
私たちは、ともすれば強靭な主をイメージします。私たちの病苦しみを、その身に負いながら、ものともしないではねのけているイメージです。私たちが受けるべきのろいを、取り上げてそれを主ご自身は。打ち砕いてくださっているようなイメージです。それで、私たちの罪に勝利してくださった、と私たちは理解しているかのようです。
しかし、実際には「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」わけです。主は私たちに代わって、わずらってくださっており、病んでくださっているのです。死んでくださっているということです。そこには、悩み苦しみの中で、私たちの代わりにうずくまっている姿があります。主は代わりにうずくまってくださったのです。ですから、私たちはうずくまらなくて良くなりました。主の身代わりに心から感謝します。
いやされて仕える
イザヤの預言が成就したと伝えるこの聖書の箇所は、マタイの福音書が伝えることですが、ここではペテロのしゅうとめが熱病であったのがいやされたことも、記されています。彼女はいやされてすぐ、起きてイエスをもてなしたとあります。(マタイ 8:14、15)
主は私たちののろいを身に受けてくださいます。その結果、うずくまるのは私たちではなく主であってくださいます。もはや、私たちはいやされて、うずくまらないで済むようにしていただき、主に仕える者としていただけることを感謝します。ペテロのしゅうとめが、いやされてすぐ、起き上がってイエス様をもてなしたように、私たちがいやされるのも、仕えるためであることです。これが人生の喜びです。
「マタイの福音書 7:24-29 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
倒れない家
主は「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです(マタイ 7:21)」と言われました。そこで、私たちはどうすれば良いのかということを、次に具体的に教えられました。それは、主のみことばを聞いて「それを行う」こと、ということです。それは、生活の土台、人生の基盤は、みことばが基準であって、みことばに従って人生を生きるということなのだということです。
そのことを「家を建てる」ということにたとえて、教えられました。主のみことばを聞いて、「それを行う人は」、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と説明されています。その家を洪水が襲いましたが、それでも倒れなかったのです。「岩」という、たとえ洪水でも揺るがない土台の上に建てられた家だったからです。
一方、主のみことばを聞いても、「それを行わない人」は、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」と説明されています。同じように洪水が襲いました。その家はもろくも倒れてしまいました。「砂」という、洪水には大変弱い土台、の上に建てられていたからです。ここでは、人生を「家」とたとえ、人生を生きる基礎を自分なりの「確信」とするのか、あるいは「みことば」とするのかについて、教えているのです。
人生を生きる基準
私たちが人生を生きる基準は何なのか、ということが教えられています。あなたは、何を基準に自分の生き方を決定していますでしょうか。多くの人が、自分の確固たる基準を「確信」というものにおいていることと思います。「これで大丈夫だ」と思える考えや方法というものを見つけようとします。それで、色々なことを学んだり、身に付けたりしようとするわけです。それが社会的な地位であったり、安定した収入であったりするわけです。
人が認めてくれる職業に就いたり、指導者の立場になったりすることです。あるいは、十分なお金があることで、人々を驚かせうらやませるようなことをすることができます。そんなことをして見せることによって、人の賛成を得たり、一目置かれる存在となれるからです。世界的な事業の展開を図ることによって、全世界の人々の注目を浴びていますし、憧れの的ともなっています。有名女優と付き合うとか、宇宙旅行を目指すとか、お金で人々の射幸心をあおり、動かそうとすることなど、お金という土台が「確信」を生み出しているわけです。
あるいはまた、社会的な地位もお金もまだなくとも、前もって、それら地位やお金を手に入れるための「考え方」を身に付ければ、「確信」の土台を築くことができます。それで、「考え方」「思想」あるいは「宗教」というものを追求する人もいますでしょう。まず形あるものを手に入れようとするのか、それともそれを手に入れる手法を身につけようとするのか、ということです。いずれにしても、自分が納得する「確信」を手に入れたいからなのです。自分の生きる基準は、自分のうちに「確信」が持てること、となっています。
みな、自分の人生を生きる基準は、「こうやれば幸せになれる」「これで大丈夫だ」との「確信」を土台としようとしているわけです。それを与えてくれるのが、「地位」「お金」「考え方」「思想」「宗教」などであるわけです。
みことばという土台
みことばは、私たちに対し、「確信」を与えるものですが、その「確信」だけでは不十分です。みことばによって、「確信」を得たからといって、土台が「岩」とはなっていないからです。「砂」の土台の一部に、石が混じっている状態です。多少は強くなるでしょうが、それでもあいかわらず土台はもろく、洪水にはひとたまりもありません。
私たちは自分の「確信」に頼ることを捨てなければなりません。「確信」があっても、なくても、私たちは「みことば」に頼らなければなりません。
私たちの自己中心的な「罪」の性質は、自分の「確信」を手放すことをとても嫌がります。「服従」などではなく、自分の「納得」で生きたいからです。それが罪の性質です。「全面服従」には、猛反対します。主導権を手放したくないのです。自分が主導権をもって、納得できたことだけを行動したいのです。
しかし、主の教えは「主のみことばを聞いて、それを行うこと」なのです。これは、主の命令によって生きる、ということに他なりません。「みことば」は私たちに対する主の「命令」です。理解や納得を求められているのではなく、従うことが求められています。
考えることから、行うこと、その他私たちが人生を生きる営みの全てが、主の「命令」によって生きなければならないのです。土台は全部が「岩」でなければなりません。主の「命令」によらずにしていることは、何一つないということです。たとえ、思いを巡らすこと、息一つすることであってもです。全部主が「せよ」と言われたからしているのです。
必要なのは権威
人々は、イエス様の教えに驚きました。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから」です。律法学者は、聖書を詳しく調べ学んで、人々の疑問に答えます。人々が自分ではどうしたらよいかわからないことに遭遇した時など、「それは聖書でこう教えている。このように理解するべきである」などと促すわけです。しかし主はそのようではありませんでした。主の「みことば」は「権威」のある命令であったわけです。つまり「した方が良い」などではなく「せよ」でした。
私たちの戦いの相手は、人間や出来事などではありません。(エペソ 6:12)私たちの内外に働く霊的な存在です。私たちは「良くなろう」「変わろう」と、決意をしますが、それらは結局、自分の内に起こる疑いや否定的な考えによって、壊されていくのが常です。長続きしません。罪は私たちを助けることはありません。私たちを壊すのです。
主は、悪霊につかれている人に対して「黙れ(マルコ 1:25)」と言われ、悪霊がしゃべることをお許しになりませんでした。波を鎮められるときも「黙れ。静まれ(マルコ 4:39)」と言われました。悪霊も嵐も主の権威に従ったのです。
私たちの心が根本から鎮められ、敵の声が止むことが必要です。それらを鎮めることができるのは主の「権威」だけです。生きることのすべてが、主の「権威」ある「みことば」によって、なされていることが必要なのです。それが、主の命令を聞いて「それを行う人」であり「賢い人」なのです。
「マルコの福音書 9:7-8 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。 彼らが急いであたを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」
主にある新年、あけましておめでとうございます。
今年のテーマとして「イエスだけ」という思いをいただきました。私たちの視点が常にイエス様にだけ、注がれ続けられますように、との願いです。
何かを見ている目
私たちには目がついていますが、その目は、起きて開いている間は、常に何かを見ています。意識するかしないかは別にして、映像の情報は脳に送り続けられています。そして、その情報をもとに、脳は判断をしたり、考えたり、想像したりします。つまり、私たちは脳の中(心の中)でも情報を組み立てて、見たいものを見るということをしています。見たいものを見る、と言ったのは、心の中の映像はある程度コントロールして、見たい映像だけを選ぶことができるからです。
肉体の目は、カメラのレンズのようなものですから、見えて来る情報を変えることはできません。この視覚情報を心に取り入れる段階で、他の経験や好みによる判断を加え、見たいものだけをクローズアップし見たくないものを無視する、などのことをしているのです。人は何かを見ているという点に、注目したいと思います。
心の目
このように私たちの心の内部で起こっていることを考えますと、まるで心の中に目があるような働きであることがわかります。心の中の目も常に何かを見ているわけです。しかし、心の中の映像は、その人自身にかなりの影響を受けますから、同じような生活をしていても、人が心の中で見ている映像は、かなり違うものであることと考えられます。長時間その人が見続けているもの、それがその人の人となりを作り上げています。
心配をする人、恐れる人は、心の中に色々な心配する事柄を見続けています。失敗したくなくて、怒られるのを避けたくて「失敗したらどうしよう」「怒られたらどうしよう」と、見続けている事柄が起きないようにと強く考えます。その見ている心配の事柄が、その人の性格を作り上げているのです。そのような特徴が、他の人の目には「あの人は自信のなさそうな人」「怖がりな人」などと映るわけです。そのような特徴が、その人が見ている心の絵によって作り上げられているわけです。
失敗や恐怖に限らず、私たちには「怒り」もありますし、「失意」といった感情があります。いつも何かに不満を感じイライラしている、あるいはいつも心にやる気がなく、人生そのものが面白くないと感じている。人生に喜びをもって目指すものがない、という場合もあるでしょう。これらも全て、私たちの心の目が見ているものが、作り上げているものです。私たちは見るものを変えなければなりません。
イエスだけ
今年のみことばは「自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」です。冒頭に、心の中でイエス様だけを見続けたい、と申し上げました。聖書は「彼(イエス)の言うことを聞きなさい」と言っています。人生の答えは、イエス・キリストであることを信じます。
私たちの人生における苦しみ、問題、は私たちがイエスの言うことを聞かないで生きた結果だと、考えさせられます。心の中の映像が、イエス様だけ、あるいはイエス様のみことばによって作り上げられたものというわけではなかったりするからです。なんと自分勝手に色々なものを見続けていることでしょうか。改めて考えさせられます。
そこで「イエスだけ」を掲げて、この一年イエス様を見続けて、イエス様の言われることを聞き続けて、みことばの確かなことを味わって行きたいと思うのです。
レビ記26章には、神様の並々ならぬ、私たちを祝福するとの決意が、あふれています。「わたしに従うなら、あなたは祝福される」との主のみ思いです。これは決して誇張ではありません。事実なのです。また何かの間接的なたとえでもありません。直接的な主の約束です。神様は約束を違えるようなお方ではありません。間違っているのは私たち自身です。
心の中でイエス以外のものを見続けている、イエスの言うことだけを聞こうとしていない、ということが自分を苦しめているのだと、気づかなければなりません。
立ち返る
心の中に見ているものが「イエスだけ」で他のものは何も見えない、ということでありたいと願うのです。実はレビ記26章のみことばに、昨年暮れ、突然迫られました。このみことばがすべての人生の答えであるとわからされたという思いです。
旧約聖書には、イスラエルが主のみことばの存在に気付き、驚きをもって改めて、主に立ち返ったことが幾度か記されています。おそらくその時の彼らの驚きが「聖書にこんなことが書いてある」と目が開かれる思いで、みことばを見出したことでしょう。その時の彼らの驚きは、今の私のようでなかったかと思うほどです。
見るべきものを見ていると思いつつ、実は見ていないことに気がつきました。人生の答えは複雑ではありません。罪の性質は複雑な答えを見つけたがります。自分がわかるとか、悟るとか、したいと思いたいわけです。そうではありません。簡単なのです。自己中心の想いを捨てて、主に従うということだけなのです。ですから、ただ「イエスだけ」です。
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)