22.06.26 主に心を開く



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「黙示3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

人との距離感

 みなさんは、電車に乗る時、車両に誰も乗客がいなかったとしたら、向かい合わせになっている座席のどの位置に座るでしょうか。恐らくほとんどの人は、長いシートの一番端に座るのではないでしょうか。男性用のトイレでも一番奥の便器を選んだり、飲食店でも基本的に一番奥や一番端の席を好んで座ることが多いと思います。
 この心理は、私たちが日常、無意識に感じているパーソナルスペースと呼ばれるものです。誰でも「これ以上近づかれると不快に感じる」というテリトリーを持っています。夫婦や親子、恋人など親密な関係であればあるほど、その距離は近くなります。赤ちゃんは、ずっとお母さんに抱っこをされたりして身近にいるので、お母さんと子供の距離はまったくありません。反対に、ガラガラの電車の車内で、見知らぬ人が自分のすぐ隣の席に座ろうとしたら、誰でも不信感を抱きます。私たちは、普段から無意識のうちに人との距離感を感じながら生活をしています。

主に心を開くとは、主の助けを受け入れること

 では、私たちと神様との距離感はどうでしょうか。主は、信じる私たちの内に住んでおられるお方です。そして私たちのことを他の誰よりも、また私たち自身よりも私たちのことをよく知っておられます。そういう意味では、神様と私たちとの距離感はまったくありません。
 しかし主は、私たちの同意なしに心の中を勝手にこじ開けて入って来られるようなお方ではありません。私たちの側からすすんで主をお迎えする時に、私たちと親しく交わりを持ってくださいます。主は私たちを「助けたい」「自由になってほしい」と心から願われて、心の戸をノックしてくださいます。
 私たちが主に心を開くということは、自分の心を主に明け渡し、助け主として主を心のうちに迎え入れることです。心の隅々まで支配していただくことです。私たちは、何事をするにしても、主に助けられなければ正しく行うことができません。「今日やるべき仕事をどのように進めて行こうか」と考えたり、それを行動に移すことも、主に助けられなければ、焦ってしまったり失敗をしてしまったりします。例えば、人に何か用件を伝えることでも、どのように伝えたら伝わるだろうかということを主から言葉や知恵をいただかなければ、愛を持ってその人のために伝えてあげることはできません。私たちは主の助けを喜んで受け入れなければ、正しいことをおこなって行くことはできない者ではないでしょうか。

サマリアの女は主に心を開いた

 イエス様は、ある一人のサマリアの女に近づいて声をかけられました。彼女は、初めイエス様を警戒していました。それはサマリア人とユダヤ人が民族的に対立関係にあったからでした。しかし彼女は、イエス様が言われたことばの背後にある何かを感じて、少しずつ心を開いて行きます。彼女には、人には言えない問題がありました。イエス様は彼女を助け、自由にするために、旅のルートをわざわざ変更してまでやって来られました。イエス様は、彼女のその隠しておきたかった問題に切り込んでいかれました。言い当てられた彼女はドキッとしました。そして、キリストと呼ばれる救い主が、今まさに目の前で話しているこの人だと知った彼女は、自分の身に起きた出来事を周りの人たちに告げ知らせました。彼女の人生はイエス様に出会ったことによって、それまでの身を隠して生きるような生き方から、過去と決別をして責められることなく、人前に堂々と出て生きられる人生へと大きく変えられました。彼女は、主の助けを喜んで受け入れました。
 私たちも、主に心を開き、主の助けを喜んで受け入れるその先に、問題の解決が与えられることを信じます。

主に心を開く時、自由にされる

 私は、救われるまで、自分の感情や思い、抱えている問題を隠して生きてきました。問題を抱えつつもどうしたらよいのか分からず、その間はとても心が不自由でした。しかし、みことばに語られ示される中で、主が私の心の戸をノックしておられることがわかりました。そしてその御声に応答しました。それは、自分には問題があることを認めて、その問題を自分ではどうすることもできないと認めて、主の助けを受け入れることでした。また、カウンセリングやセルでの分かち合い、また人前で話す機会などを通して、自分の思いや感情を言葉で表したり、自分の問題について周りの人や神様に話をしてきました。自分の心を開示して主に解決を求めてきました。イエス・キリストに答えがあると知っただけで、将来に対する希望が与えられ、喜びにあふれました。そして主に求めて行ったその先に、多くの問題の解決をいただきました。
 ガラテヤ5:1には、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。」とありますが、主が私たちを救ってくださったのは、私たちを罪の縄目から解放して自由を得させるためでした。主は、私たちの苦しみを知っておられ、抱えている罪の問題や重荷を負ってくださるために十字架にかかられました。私たちは罪赦され自由の身とされました。主のみもとに本当の自由、安らぎがあります。私たちはそれを手にすることができる恵みにあずかっています。私たちは今、主に心を開いて主のふところに飛び込んでまいりましょう。その先に主にある解決が与えられることを信じます。(岩下 栄作)

22.06.19 いつも喜んでいなさい



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「エレミヤ29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

事故現場の女性

 先月のある休みの日の朝、家事をしていると「ドン!」という大きな音が聞こえました。二階で何かが落ちたのかと駆け上がってみましたが、何も変わったところはありません。おかしいな、と思いながらふと窓の外を見ると、なんと家の西側のブロック塀にピンク色の軽自動車がつっこんでいて、その少し後方には側面がへこんだ黒いワンボックスカーが道の真ん中に止まっていました。ブロック塀は端の方がくずれていました。急いで降りて行って外に出ると、家の前で、通勤途中だったと見える若い女性が青ざめた顔でスマホで何やら話していて、少し離れたところに30代くらいの女性が、迷惑そうな顔で立っていました。黒い車の後部座席には、幼稚園児が乗っているのが見えました。「どうしたんですか」と尋ねるとその人は、軽自動車がぶつかってきた様子を短く話した後で、不満げに「最悪!」と吐き出すように言いました。朝の忙しい時間に足止めされて、相当腹を立てていたのだと思いますが、「最悪!」と聞いて私は「ん?」と違和感を感じました。クリスチャン生活の中であまり聞くことのないことばだからです。不測の事故に出会えば、誰でも瞬間、「何でこんなことが?」と思わずつぶやいてしまうかもしれませんが、クリスチャンならば次の瞬間、「ああ神様、これは最善ですね!」と言い直して、起こったことを主に感謝し平安を得るのではないでしょうか。あらためて救われている恵みを感謝する時となりました。

すべては最善

 神様は全知全能であられ、主権を持ってこの世のすべてを支配しておられます。神様の知らないところで起こっていることは一つもありません。そして神様は人を愛し造ってくださり、人がしあわせになることを願っておられます。ですから、私たちに起こるできごとはすべてが最善です。
 今、ウクライナの紛争の真っ只中でありますが、連日の報道で武装していない多くの人々の命が理不尽に奪われる事態を見て、私たちは、なんと愚かなことか、と憤りが湧き上がったり、物の値上がりなど自分たちの生活にも影響が及んでいることに不安を抱いたりします。しかし確かなことは、私たちには理解できなくても、今必ず神様の最善が起こっているということです。2年半ほど前から世界中に広がったコロナ禍では、人の命をはじめとして失ったものも多くありましたが、苦難と思われたことが、かえって益になったということが少なからずあります。たとえば皆がマスク着用を厳守し、手洗いや消毒をこまめにするようになった結果、風邪をひかなくなったという話をあちこちで聞きましたし、「お家時間」が増え、家族との絆が深まったという人も多くいます。どれも、こんな事態にでもならなければ改善されなかったことでしょう。すべて神様がしてくださったみわざです。

苦しみが益となった

 私は救われる前は、まるで糸の切れた凧のようにさまよう生き方をしていました。何が正しいのかわからず、世の風潮に流されて多くの罪を犯しました。生き方について書かれた本を何冊も読みましたが、結局何も確信を持つことができませんでした。家庭においてもいつも心ここにあらずで、家事や子育てをしている中でも、いつも不安や不満でいっぱいでした。自分のことばかり考えていて、人を愛することが少しもできない自分を空恐ろしく感じていましたが、どうしたらよいのかわからず苦しむ中で、神様はクリスチャンの姉妹に出会わせてくださいました。こんな自分を受け入れ愛してくださる方がおられると知って驚き、救いへ導かれました。今はしっかりと教会に根付いて、聖書を基準にして確信を持って生きることができるようにされ、ただ神様の愛を伝えるために人生を捧げたいと願う者に変えられました。いつでも最善をなさっておられる主に感謝します。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」

いつも喜んでいなさい

 主は「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と言われます。神を信じる者は起こるすべてのことが最善と知っていますから、苦難の中でも希望を失わずに喜んでいることができます。しかし私は最近、自分が喜んでいないことに気づかされたことがありました。喜びを求めて祈っている中で、以前に気落ちするできごとがあり、それがきっかけで喜びがなくなっていることに気づかされました。私にとって最善であったのに、喜んでいなかったことに気づき悔い改めました。主がされることを喜ばないでいると、心の中の喜びが失われていくことを教えられました。そして喜びが感じられない中で喜ぶことがいかに重要であるか教えられています。主に信頼していつも喜んで生活したいと思います。
 日常にはさまざまな困難が起こりますが、今間違いなく一番良いことが起こっています。どんなときも主に信頼して主の主権を喜んで生活して参りましょう。主に賛成して生きる者を主は祝福してくださいます。(鈴木千史)

22.06.11 小さなことに忠実な人



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「ルカ16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」

日本の鉄道運行の正確さ

 日本の鉄道やバスなどの公共交通機関は、運行時間がとても正確であることで有名です。それは、海外の人たちが目を見張るほどの正確さです。過去に、ある電車が定刻より20秒早く発車したとして、ネット上で謝罪をしたことが海外で話題となりました。東海道新幹線は、1日あたり300本以上もの列車が運行していますが、その平均遅延時間は年間でたったの30秒だそうです。そして開業して半世紀以上が経過していますが、いまだ死亡事故ゼロです。その安全を支えているのが車両整備士と呼ばれる人たちです。新幹線の車体のボルトのわずかな緩みも抜け目なくチェックします。金づちで叩いた時の音の違いでボルトの緩みを見分けます。わずかな緩みが大事故につながりかねません。車両の運行にかかわるすべての点検項目を、細かく一つ一つチェックしていきます。指差しで声に出して、もれなく確認をします。そのような小さな一つ一つの作業を確実に行なっていくことがあってこそ、安全が守られるのだと思います。

日常の小さなことに目を留める

 私たちの人間関係においても、良い関係を築いて行くことができるかどうかは、日々のささいなやり取りに目を留めることができるかどうかによって変わって来ると思います。毎日あいさつをすることも、ささいなやり取りですが、明るくさわやかにあいさつするのか、「あいさつしないといけない」と思って仕方なくするのとでは全く変わってきます。メールの返信をすぐにするとか、依頼されたことをその通りに果たそうとすることや、笑顔で機嫌よく対応することや、小さな変化に気がつくことなどをいとわないですることができるかどうかで、関係が良くもなれば悪くもなります。
 例えば、人と会話をしている時に、心の中で「あれ、今言ったことは何かおかしいぞ」と感じた時に、本来であれば聞き返して言ってあげるべきことを、「まあいっか」と思って言わないで見過ごしてしまうと、雑談であればまだいいですが、仕事のことや重要な伝達事項だったりすると、それが後々トラブルを引き起こす原因となってしまうことにもなりかねません。そこで、ふと疑問に感じたその思いを放っておかないで、「ごめん、今何て言ったっけ。もう一度教えてくれる?」とか「それはきちんと言うべきことだよ」と相手に聞き返したり、その人のために助言してあげたりすることによって、誤解やトラブルを未然に防ぐことができます。

主は、私たちの小さな思いも知っておられる

 主は、私たちの行いのすべてをご存じであられ、見ておられます。箴言には、「人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。(箴言16:2)」とありますが、私たちは時に、「自分のしていることは正しい、間違いない」と思ってしていることがあるかもしれませんが、私たちの行いが正しいかどうかは、私たちの判断によることではなく、主がされることであると知らなければなりません。ヘブル4:13には、「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。」とありますが、主は私たちの心に湧いて来るどんなささいな思いもご存じであられます。例えば、家族や身近な人とのやり取りで、「これは言わなくても分かってくれるだろう」と思って、言わなくてはいけないことを言わないで済ませてしまうことがあったりすると、その「これぐらいのことなら」というささいなことから、少しずつ関係が崩れて行くことになっていったりします。主はそのわずかな思いであっても、それを見過ごすことのないお方であられます。
 パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。(Ⅰコリント5:6)」と言っていますが、それは教会内で起きている問題に対して、適切な対処をせず放置して高ぶっている教会の体質を改めるようにとの勧告でした。問題を放っておくことによって、やがて教会全体を腐敗させてしまう危険があるからです。それは私たち一人ひとりの内にある小さな思いから始まります。

忠実な人は、自分の思いに正直な人である

 私たちが、小さなことに忠実になるためには、自分の心の内に湧いて来る小さな思いに対して正直になることが大切です。
 私は昔から、友達や学校の先生や親戚など、家から一歩出ると外面を良くしてニコニコしていても、家に帰ると家族に当たってしまう傾向がありました。イエス様を信じてから、それは偽りであり、「誠実でありなさい」と教えられてから、自分の思いに素直になれるように求めてきました。そして、両親や妻、子供たちとの関わりの中でまずあいさつをすることや、言うべきことをきちんと伝えることなどを、いとわないですることを主によって訓練させられてきました。自分の思いに正直になって、その思いに向き合うことによって問題が明らかにされ、人間関係が祝福へと導かれて行くのだと教えられました。私たちも、まず普段から関わりのある身近な人との中で、ささいなことに目を向けて生活をしていきたいと思います。ささいなことに目を留めるその先に、主が私たちの生活のあらゆる点において豊かな祝福をお与えくださると信じます。(岩下 栄作)

22.06.05 主の応援の声を聞け



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「マタイ14:28-32 するとペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください』と言った。イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。」

誰かを応援している

 今年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」です。「鎌倉殿」というのは源頼朝のこと、「13人」とは頼朝を支えた家臣13人のことです。ドラマでは平安時代末期の源平合戦から、頼朝が鎌倉に幕府を開き、彼の死後に北条家が実権を握っていく時代が描かれています。毎週楽しみに見ていますが、見始めたきっかけは、この時代や俳優に興味があったわけではなく、脚本が三谷幸喜(こうき)氏だと知ったからです。数年前に氏の手がけた映画やドラマを見てから、その独特なユーモアが気に入って、氏の関わる作品ならば見てみたいと思うようになりました。歴史に詳しくなくても、氏の脚本ならばきっと楽しく見られるだろうと思いましたが、期待通りです。私は氏の応援団の一人です。
 応援といえば、日頃私たちはいろいろな場面で応援したりされたりしています。野球やサッカーなどのスポーツ観戦をするときは、自分のひいきのチームを応援します。運動会のクラス対抗リレーなら、自分のクラスの走者を応援します。好きな歌手やブロガーを応援しますし、親は子どもの部活動や受験勉強などを応援します。たとえば親が部活の試合や発表を見に来てくれれば、子どもはうれしくて、はりきって応えようとするものです。

主はペテロを応援してくださった

 冒頭の聖書箇所は、弟子たちが舟の上で向かい風に悩まされていたときのことです。そのとき彼らはイエス様が湖の上を歩いておられるのを見ました。ペテロはそれがイエス様だとわかると、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。するとイエス様は「来なさい」と言われました。人間的に考えれば、無謀な挑戦です。しかし主は、あなたの信仰の通りにやってみなさい、とペテロを応援してくださったのです。ペテロは水の上を歩いてイエス様の方へ行きました。ところが強い風が吹くと恐くなり、主から目を離したとたんに信仰を失い、沈んでしまいました。するとイエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」とお叱りになりながらも、すぐに手を伸ばしてくださり、彼をつかんで助けてくださいました。おそらくイエス様は、こうしてすぐにつまずいてしまうペテロの弱さを十分にご承知で、「来なさい」と言われたのでしょう。それよりも、主に信頼して水の上に一歩を踏み出した彼の信仰を、主は喜んで応援してくださったのでした。

主が私を応援しておられる

 私は説教のご奉仕をさせていただいておりますが、話しているとき、聞いている人々の表情やしぐさが目に入ってくると、「つまらない話と思われているかもしれない」、「間違ったことを言ってしまったのかもしれない」、「次は何を話すのだったか」などという考えが頭によぎって、とたんに集中力をなくしてしまいます。神が「語れ」と言われることを話しているのだから、当然神は応援してくださっている、神の声こそに心を留めよ、と指摘を受けて、私は人の声ばかり聞いていて、神様の声を聞こうとしなかったことに気づきました。実際そのとき神様は、「わたしが語ろうとしていることだから、一生懸命話せば、必ず聞いている人の心に届く。」「もっとわかりやすく、楽しそうに話しなさい。」「もっと声を張ってはっきりと話しなさい」と声をかけてくださっていたのに、私はそれを無視して聞いていませんでした。人の声は聞こえるのですから、神様の声も必ず聞くことができます。その場で語っておられる神様の声こそを聞かなければ勝利はないのだ、と教えられ悔い改めました。ペテロは強風を恐れてイエス様から目を離したとたんに、水に沈んでしまいました。イエス様の声から目を離さないようにしたいと思います。

主の応援の声を聞け

 聖書には、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」とあります。神様は私たちの味方ですから、生活のあらゆる場面で、私たちをいつも応援しておられます。愛せない人がいて困っているとき、「大丈夫、わたしがあなたを愛しているからあなたもきっと愛することができる。助けるからやってごらん。」と声をかけてくださっています。経済に困窮しているとき、「心配しないで、わたしが満たすから。あなたはただその日にやるべきことを、コツコツと続けなさい。やる気もわたしが与えるから。」と声をかけてくださっています。病で苦しんでいるならば、「恐れないでいなさい。わたしがあなたを癒すから。なげやりにならないで忠実に節制に励みなさい。私がそばにいて励ますから。」と声をかけてくださっておられます。
 私たちは、困難のときも、そうでないときにも、そのときに語ってくださる神様の声を無視することなく、一生懸命に聞くことによって、勝利の人生を歩んで参りましょう。(鈴木千史)

22.05.29 神のわざが現れるため



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「ヨハネ9:1-3 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」

苦手だったからこそ変わることができた

 スマートフォンは、今の私たちの生活になくてはならないものとなりましたが、そのきっかけとなったのがiPhoneの発売でした。iPhoneを開発し世に送り出したのが、Appleの創業者スティーブ・ジョブズです。彼がiPhoneの発表をした時のスピーチは、多くの人の心を動かしました。話し方のお手本として取り上げられたりもしています。そんな彼ですが、テレビに初めて出演した時の、本番前の映像が残っています。そこには、緊張した彼の姿がありました。「これ、本番じゃないんだよね?」「トイレがどこにあるか教えておいてくれる?緊張して吐きそうになってきた。冗談じゃないんだ。」と、おどおどした雰囲気が伝わってくる映像でした。私たちが良く知っている著名人でも、「初めはまったく人前に出ることすらままならないほど緊張した」という人は多いですし、「私は誰よりも人と話すのが大の苦手で、内向的で引っ込み思案だったんです。だからこそ、変わることができたんだと思います。」と言う人も多くいます。

現状に甘んじていないだろうか

 私たちは一人ひとり個性があり、見た目や性格も人それぞれです。神様が造られた、世界でただ一つの素晴らしい作品です。しかし多くの人が、自分自身のことを肯定的に見ることができないでいたりします。「私はもともと引っ込み思案な性格で、おとなしい人間なんです。」「私のこの性格は、両親から受け継いでいるんです。うちは、元々そういう家系なんです。」というようなセルフイメージを持っていたりします。まるでそれが本来の自分の姿であるかのように思い込んでいたりします。
 私自身もそうでした。「私が心配性で人を恐れるようになったのは、生まれつきの性格だし、親から受け継いでいるものだ。」と思っている部分がありました。苦しくて行き詰まる時には、「何で私は生まれて来たのか。」と私を産んでくれた親を憎んだこともありました。そんな私は、勉強するにも社会に出て仕事をするにしても、「私は何をやっても続かないし、所詮こんなもんだ」と思っていました。そんな自分を変えたいと思いながら、変わらない現状に甘んじていました。
 私たちの中でも、自分自身にある問題を解決したいと願いながら、いつまで経っても変化を感じないと、その変わらない状況に甘んじていたりすることはないでしょうか。「これ以上はもう無理だ」「所詮こんなもんだ」「信じても何も起こらないじゃないか」と思って、「今起きている状況がすべてだ」と思っていることがあるかもしれません。

すべては神のわざが現れるため

 しかし私たちは、「神のなされることには、すべて意味がある。意味や目的もなく起きていることはひとつもないのだ。」ということを知らなければなりません。
 冒頭のみことばは、生まれつきの盲人が癒やされたことについて記されていますが、彼が盲目でこの世に生まれて来たのは、本人の罪のためでも、親や先祖の罪のためでもなく、神のわざが彼に現れるためでありました。今私たちの身に起きている問題は、私たちに神のわざが現れるためであると知らなければなりません。
 私の場合は、誰よりも人の目を恐れて萎縮していました。そして人のことなど全く考えておらず自分のことしか考えていない者でした。私がそのような問題を抱えていたのは、私がキリストに出会って問題が解決され、愛する者へと変えられるためであり、それはつまり、私に神のわざが現れるためでありました。私は、「人を愛すること、与える生き方こそが私が一番したかったことだったのだ」と知りました。私に問題があったのは、主が私にそのことを教えてくださるためでした。大きな声で話すことや、機嫌良く生きること、自分の思いを伝えること、分かりやすく話そうと努力することや、自分から心を開くことなど、すべてのことが、自分のためではなく相手のためであると教えられました。もし私にこのような問題がなかったら、私は今、救われて神とともに歩んでいなかったかもしれません。

信じるなら神のわざが現れる

 私たちは主によって新しく造られた者です。そして主が私たちのうちに生きておられます。主はあなたに働きたいと願っておられます。主に解決できない問題は一つもありません。ですから私たちが今するべきことは、主に飢え渇いて求めることです。求め始める時に「解決されたい」という飢え渇きの思いが起こされます。生まれつきの盲人は、イエス様が「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい(ヨハネ9:7)」と言われたことばに素直に従って、目が見えるようになりました。今あなたに問題が起きているのは、あなたが主に求める状況に主が追いやってくださっているからではないでしょうか。「主が私の問題を解決してくださる」と信じて求めるその先に、主が私たちに素晴らしいみわざを現してくださると信じます。(岩下 栄作)

22.05.22 食事の恵み



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「伝道者の書 2:24 人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」

食事は楽しい

 私は料理のレシピを検索して、おかずやお菓子の気に入ったレシピを見つけるのが好きなのですが、ある時あるブログの著者のプロフィールに「料理を通じて皆が健康で幸せになればいいなと思っている。」というコメントを見つけました。彼は料理好きな二児のお父さんで、野外料理や野草料理が得意のようです。そのコメントを読んだだけで、「この人の家族は幸せだろうな」と容易に想像できました。おいしいものを食べるとき、人は自然に笑顔になりますし、話もはずんで場が明るくなるものです。確かに料理は幸せにつながっていくものであると思います。
 毎日の生活の中で多くの人は、意識的にも無意識にも、食事の時間を楽しみにして過ごしているのではないでしょうか。たとえば、午前中に仕事がうまくいかなくて苦しい思いをしていたとしても、昼食の時間になるととりあえずそこから解放されて、お弁当を食べたり、食事に出かけたりします。食べると気分もリフレッシュし、やる気を取り戻して、午後から「さあやるぞ」と、また仕事や勉強に取り組むことができます。そして夕方になって仕事や学校が終われば、多くの人は「今日のご飯はなんだろう」などと、楽しみに考えながら帰宅するのではないでしょうか。

食事は主が与えてくださる

 神様は人が食事をして生きるように造られ、食物もあらかじめ用意してくださいました。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。(創世記1:29)」。日頃私たちは「主の祈り」で、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、食物はいのちに直結する重要なものであり、すべて神様から与えられます。今日私たちのまわりには、素朴なものから高価なものまで多くの食材があり、世界にはさまざまな料理がありますが、それらの穀物も野菜も肉も魚も、また調味料、香辛料なども、すべて神様が与えてくださったものです。人は神様が与えてくださった食材を用いて、無限とも言えるほどの種類の料理を作ることができますし、必要な知恵もすべて神様が与えてくださいます。
 また食事は、たとえば車を走らせるためにガソリンを入れるように、ただ私たちが体を動かすため、いのちを維持するためだけのものではありません。私たちが誰かに「一緒に食事をしよう」と誘う時、それはただ食べることだけではなく、その人と親しく過ごす時間を期待しています。誰でも感じることだと思いますが、食事をするとき人はリラックスして心を開きます。神様は私たちが互いに愛し合うことを喜ばれます。食事は神様が与えてくださった愛の交わりの時間です。

イエス様との食事

 ところで、聖書を読むと、イエス様も食事を大切にされていたことがわかります。その一つに、イエス様が収税所に座っていたマタイ(レビ)に声をかけてくださり、弟子にした時のできごとが記されています。イエス様はマタイの家で、ほかの大勢の取税人や罪人たちとともに食卓に着かれていました。それを見たパリサイ人や律法学者たちは、「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。(マルコ2:16)」と批判しました。当時、罪人と食事をすることは、律法に反することとして忌み嫌われていたからです。するとイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(同2:17)」と答えられました。人々から嫌われ、社会から排除されていた人々を救うために、イエス様は来てくださいました。マタイは自分に声をかけてくださったイエス様を盛大にもてなしましたが、実はイエス様の方こそが、マタイを招いてくださっていたのです。ともに招かれた罪人たちも、イエス様と親しく食事をする中で心が開かれ、悔い改めに導かれ、神様との関係が回復されていったことでしょう。私たちが救われたのも、イエス様が声をかけてくださり、食事に招いてくださったことなのだと教えられます。

食事の恵み

 冒頭のみことばは、イスラエルの偉大な王、ソロモンによるものですが、彼が多くの富を用いて、この世のあらゆる快楽を体験して悟ったのは、「食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。」ということでした。そして、食事こそが神様からのすばらしい贈り物なのだと気づいたのでした。日々の何気ない生活の中に幸せがあるということでしょう。私たちは毎日あたりまえのように食事をしていますが、それは神様が私たちに与えてくださったすばらしい恵みです。ですから、毎日の食事を神様に感謝し大切にしましょう。料理の味を楽しみ、家族や兄弟姉妹とのくったくない会話を楽しみましょう。そして時には、主がしてくださったように私たちの大切な家族や知人を食事に招きましょう。そこに必ずイエス様がともにいてくださいます。(鈴木千史)

22.05.15 取り戻したい



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「ルカ19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

取り戻すのには労力がいる

 私はたまに家族でショッピングセンターに買い物へ出かけることがありますが、現地に到着して中に入るなり子どもたちは、すぐに好き勝手に走り回り始めてしまいます。三人もいると、片時も目が離せません。一人が勝手にどこかへ行ってしまい戻って来たと思って安心していると、また次にもう一人が気が付いたらいなくなっているということがよくあります。
 先日も、エスカレーターで一つ下の階に降りた時に、気が付いたら一人見失ってしまいました。その瞬間から、私たちは子どもを見つけるまで、買い物を楽しむどころではなくなってしまいます。「どこではぐれてしまったのだろう。ここまでは一緒にいたよなあ。」と、頭の中であらゆる記憶を総動員して少し前の行動を思い返します。みんなで「どこに行ったか知らない?」と尋ね合います。すると、遠くから子どもの声が聞こえてきます。見つかった瞬間、肩の荷が降りてほっとします。近所のよく知っている場所なので、まだ見つかるだろうと思いますが、初めて行く屋外の人混みの中であったりすると、それは大変なことになってしまいます。落とし物を捜す時もそうですが、失ったものを取り戻すということは、とても労力のかかることだと思わされます。

みこころは「あなたを取り戻したい」

 神様は、私たちが家族を見失う時に必死に捜すこと以上に、私たちがみもとから離れて生きること、信仰を失くして生きていることをとても心配しておられ、心を痛めておられます。失われたたましいを取り戻すために、失われた信仰を取り戻すために、見つかるまでずっと捜し続け、忍耐を持って待っていてくださいます。
 「捜す」という言葉は、「落とし物を捜す」とか「家族を捜す」というように、それまでにあったもの、見えていたものを見失ってしまった時に使われます。主が私たちのことを捜しておられるということは、私たちの存在は、もともと神とともにあって、神と親しく交わりを持つ者であったことを意味しています。交わりがあるその場所は、喜びと愛で満ちていました。しかし、人の罪ゆえに神との交わりが失われました。人は神の支配から離れて、造り主を認めないで、自分勝手に生きるようになりました。神は、その失われた存在のあなたを何としても「取り戻したい」と強く願われ、私たちのためにいのちを捨ててくださるという大きな犠牲を払ってくださいました。それにより、失われたたましいが取り戻される道が開かれました。私たちは主によって取り戻していただいた者ですが、主は今も私たちを日々養ってくださいます。主の道から外れてしまいそうになる私たちに、「行き先はそっちじゃないよ」と声をかけてくださいます。信仰を失っている私たちを「取り戻したい」と切に願っておられ、見つかるまで捜してくださいます。見つかるまでというのは、私たちが悔い改めて主に立ち返るまでということです。

信仰を失い、迷い出ていないだろうか

 預言者イザヤが活躍していた時代、イスラエルは、アッシリヤの勢力、脅威に怯え、目に見える権力を恐れていました。主は、そんな民に対して、「あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。(イザヤ51:12)」と、「あなたがたは、あなたがたを造ったわたしのことを忘れているのではないか。」と語られました。
 私たちも、例えば、会社の組織の中で上に立つ人や権威に対して、また学校の友達のグループの中で、力関係で人を見比べたり、恐れたり、へつらったりすることはないでしょうか。恐れが生じると、その人に対して萎縮してしまったり、敵対心が湧いて来たりします。また、普段冷静に判断して行動できることが出来なくなってしまい、やる気や愛する思いも失われて行きます。それはもはや、信仰を失って神の支配から迷い出てしまっている状態ではないでしょうか。私たちは、目の前に起きている状況の上に立たれておられる主だけを恐れなければなりません。主だけを恐れるとき、私たちの心には、その人を愛する思いがやって来ますし、恐れに代わって、主にある喜びと平安で満たされます。主は、私たちの信仰を取り戻したいと願っておられます。ですから私たちは、主によって信仰を取り戻していただかなくてはなりません。

主に立ち返る時、大きな喜びが天にある

 私たちがすることは、恐れや疑いの思いがあるその不信仰を認めて、悔い改めることです。悔い改めて、今主の言われることに従って生きる決意をしなければなりません。私たちの心の向きが主と同じ方向を向くときに、心の内には、自然と主にある喜びがあふれてきます。第一ペテロ1:8には、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」とありますが、私たちの心に信仰の火が灯される時に、私たちの心は喜びと希望、愛にあふれて生きられるようにされます。主は、失った私たちの信仰を取り戻すまで、ずっと心配して捜してくださいます。私たちが立ち返る時、誰よりも喜んでくださるのは神様です。主が、私たちを見つかるまで捜してくださり、取り戻してくださる恵みを感謝します。(岩下 栄作)

22.05.08 いつくしみでおおわれている



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「詩篇5:12 主よ まことにあなたは 正しい者を祝福し 大盾のように いつくしみでおおってくださいます。」

テルマエ・ロマエ

 「テルマエ・ロマエ」という映画があります。タイトルはラテン語で「ローマの浴場」という意味です。古代ローマの浴場設計技師が、現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化にカルチャーショックを受けます。日本で見るものに大真面目にリアクションを返し、見たものをことごとくローマで再現し、受け売りなのに皇帝から称賛される様子がおもしろおかしく描かれています。印象に残るのは、ローマでも日本でも、お風呂や温泉に入っている人々の表情がとてもリラックスしていることです。ローマでのある一場面では、戦場から帰ってきた荒々しい兵士たちが、職を失って強盗に成り下がり、主人公に襲いかかろうとしたところ、彼は兵士たちに温泉を掘る職を与えます。兵士たちが自分たちで掘った温泉につかっていると、怒りでこわばっていた表情がおだやかな表情になって、機嫌がよくなっていくのです。湯につかって癒されるのは、古今東西共通であるようです。見ていて、「わかるなあ」とうなずいてしまいました。
 お風呂や温泉が好きという人は多いと思いますが、私も毎日入浴の時間が楽しみです。浴槽につかると、湯がじわじわと体に染み込んでくるような感じがして、すぐに体全体が心地のよい湯の温かさでおおわれます。すると一日の心身の疲れがすーっと消えて行き、なんとも言えないリラックスした気分になります。

神様のいつくしみ

 冒頭の詩篇でダビデは、神様は正しい者を「いつくしみでおおって」くださると言いました。正しい者とは神を信じ、神に信頼する人のことです。「いつくしみ」とは、神様のあわれみと愛のことです。「いつくしみ」ということばは、旧約聖書の中で230回も使われているそうですが、神様が選ばれたイスラエルの民に対する、決して変わらない愛を表すことばです。その預言の通りに、神様はいつくしみをあますところなく注ぎ出してくださり、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださいました。
 今日、イエス・キリストを信じて救われた私たちも、神様のいつくしみでおおわれています。ダビデは、神様は「大盾(たて)のようにいつくしみでおおって」くださる、とたとえましたが、「大盾」は普通の盾の倍の大きさで、全身をおおうことができるので、神様の完全な守りを意味します。神様のいつくしみにおおわれている私たちは、この世の悪しきものから完全に守られています。イエス・キリストの十字架の血潮によって罪赦された私たちに、悪魔は指一本触れることはできません。

倒れることがない

 ところで神を信じる私たちであっても、私たちをとりまく環境は相変わらず神の支配にはありませんから、日常生活のすべてが順調なわけではありません。仕事や学校や家庭の人間関係がうまくいかない、経済が思うように満たされない、忙しくて全然ゆとりがない、仕事が見つからないなどという問題はいくらでも起こります。しかし、神様のいつくしみでおおわれている私たちは、そのような困難の中にあっても必ず守られるのです。
 私はご奉仕の中でよく指摘を受けます。直そうとしても思うように改善できず、何回も同じことを言われます。そうしていると、全くどうしようもない思いに捕らわれて、おまえは価値がない、などという悪魔のことばに同意してしまう心境に陥ることがあります。救われる前の私だったら、きっとここであきらめていたと思います。ところが、不思議に必ず持ち直すことができるのです。それは、祈りの中で「主よ助けてください。どうしてよいかわかりません。」と何度も口に出していると、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)」などと、いつも蓄えているみことばが思い起こされてくるからです。そして、状況は何も変わらない中で「もう一度やってみよう」という前向きな気持ちが与えられます。みことばは生きて働くことばです。つくづく、神様に守られているなあ、と思います。神様のいつくしみでおおわれている私たちは、倒れそうでも倒れることがないのです。「その人は転んでも 倒れ伏すことはない。主が その人の腕を支えておられるからだ。(詩篇37:24)」

いつくしみにおおわれている

 入浴で心身が健康になることは研究で実証されています。湯におおわれて温まると血流が良くなり、こりがほぐれて疲れがとれ、また浮力によって体が軽くなり、筋肉や関節への負担が減って心が解放されリラックスできるのだそうです。同じように、救われて神様のいつくしみにおおわれている私たちは、どのような状況の中でも、その愛によって悪しきものから心が守られ、心身ともに健全に生活することができます。ですから私たちは、困難のある中で神様に助けを求めて祈りましょう。神様はみことばを送ってくださり、「決して見捨てない」の約束通り、必ず助け出してくださいます。(鈴木千史)

22.05.01 キリストの愛に動かされて



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「Ⅱコリント5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。」

人からしてもらって嬉しいこと

 私たちが、人からしてもらって嬉しいと感じることの一つに、家族や身近な人たちが、自分の誕生日を祝ってくれることがあると思います。私も、家族が誕生日の時にはお祝いをしますが、他の用事を忘れることはあっても、誕生日のお祝いだけは忘れることはありません。ケーキを用意して、パッピーバースデーの歌を歌ってお祝いをします。自分の誕生日を祝ってくれることは、何か特別なサプライズやプレゼントがなかったとしても、ただ「おめでとう」と一言言ってくれるだけでも嬉しく感じるものです。誕生日は、誰にとっても特別な日であり、その記念日を祝ってくれることはとても嬉しいことです。「私のことを大切に思ってくれている」と感じる瞬間ではないかと思います。

神に愛されていることが一番の喜び 

 そして、自分の誕生日を祝ってくれることよりも、もっと私たちにとって嬉しいことは、「私は神に愛されている」ということではないでしょうか。
 私たちは、生まれながらにして神に背き、神から離れて生きて来ました。神はあなたが救われるまで、一日たりとも忘れることなく、守り導いてくださいました。そんな神の愛を知ることもなくこの世で生きていました。主の私たちに対する愛は、「世界の基が据えられる前から(エペソ1:4)」であり、この世が造られる前から、もうすでにあなたを選んでくださっておられました。「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:5)」とありますように、主は私たちを、ずっとご自分の子とするためのご計画をもって導いておられます。「わたしは、あなたを失いたくない。」というただその一心で、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
 神が私たちを愛してくださったので、私たちは母親の胎の中で形造られてこの世に生まれて来ましたし、神が私を愛してくださったので、罪から解放されて神のご支配で生きるように導かれています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と言ってくださる神の愛を知ることが出来た事が、私たちにとっての一番の喜びであります。

キリストの愛が私たちを動かす

 この神の愛が、私たちを動かします。私たちは、神の愛を知ることによって、神を愛し、人を愛する生き方へと変えられます。パウロは、救われるまでクリスチャンを迫害していましたが、イエス・キリストに出会い、「この方こそ、真の救い主であられる」と知った時に、「自分は何て愚かなことをしていたのか。十字架は、この私の罪のためだったのだ。」と悟り、ずっと自分のために熱心になっていてくださった神の愛を知りました。その愛が、その後の、すべての宣教活動の大きな原動力となりました。次から次へとやって来る苦難の中にあっても、それを耐え忍ぶことが出来たのは、神の愛によることでした。
 イザヤ書には、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6)」とありますが、これは、主が預言者イザヤを通して、救い主イエス・キリストがお生まれになるという預言のことばです。その預言のことばが実現するのは、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:7)」と記されているように、失われたたましいに対する主の熱心な思いによることです。主は、私たちが悔い改めて立ち返り、救われるまで決してあきらめることなく、その愛を貫かれ、耐え忍んでくださいました。私たちは、「万軍の主の熱心」によって救われたことを感謝します。そして救われた私たちは、その良き知らせを宣べ伝えるために遣わされていますが、その愛する人が救われるのもまた、「万軍の主の熱心」によることです。
 私たちは時に、人を自分の思い通りに動かそうとする思いに駆られる事があったりするかもしれませんが、人は正論で、「こうするべきだ」と言われても動きません。それは、自分が逆の立場に立って考えてみれば分かります。そうではなく、「この人は自分のことを理解してくれている、分かってくれている、気にかけてくれている」と知る時、つまり、愛されていると知る時に、私たちの心は変えられ、進んで愛したいと願うように変えられます。私の場合もそうでした。神の愛を知ってはじめて、進んで神を愛したい、人を愛したい、家族のために、兄弟姉妹のために仕えていきたいという思いに駆り立てられました。神の愛だけが、人の心を変えることができると信じます。

神の愛によって建て上げられる

 主が私たちに対して熱心にその愛を貫いてくださっているように、私たちも神様に対して、また人に対して、その愛を示してまいりましょう。自分から声をかけたり、自分から元気よく笑顔で接して行こうとしたり、自分から場を和ませようとすることも、人間的な努力では決して続きません。神の愛に動かされてできることです。「今日も一日、主とともに仕事をしよう、勉強をしよう、家事育児をしよう。」というやる気も、神の愛に動かされてできることです。人のためにとりなして祈ることも、神の愛に動かされてできることです。
 私たちの行動のすべてが、神の愛に動かされて、愛が動機ですることでありたいと思います。そのようにして、神の愛によって、私たちの人生が、少しずつ建て上げられて行くことを感謝します。(岩下 栄作)

22.04.24 良いことに心を留める



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「ピリピ4:8-9 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

主は心を見る

 聖書の第一サムエル記には、預言者サムエルが、まだ少年であったダビデに王の油注ぎをする場面が記されています。サムエルが主の仰せに従って、ダビデの父であるエッサイのところに来た時、サムエルは彼の長男であるエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ(Ⅰサムエル16:6)」と思いました。彼の容姿が立派だったからです。しかし主は、「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(同16:7)」と言われました。主に選ばれたダビデの信仰は厚く、多少失敗はありましたが、生涯を通じて神のみこころにかなう王として主に仕えることになります。
 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」というみことばに触れる時、自分の心の中が、いつも神様のみこころにかなう良いものでいっぱいになっていたいと思います。ダビデのように神に対しても人に対しても誠実で、いかなる時にも神に信頼してゆるがない、まっすぐな心に憧れます。

心の中に良いものがない

 しかし日常生活の中で、私は自分の心の中には悪いものしかないことを発見して愕然(がくぜん)とします。たとえば人が自分のことをよく思っていないと感じると、無意識にその人を心の中で裁いています。つまり心の中でやり返しているのです。冷静に考えればすべては自分に原因があり、自分が改めるべきことだとわかるのですが、そのような悪い思いをほうっておくと、悪い思いは次々とわき出てきて自動的には止まりません。
 心の中の悪い思いに気づくのは、神様に目を向けた時です。聖書を読んでいる時、祈っている時に、心の中にあるものが照らし出されてきて、「神様、また人のことを悪く思っています。これを止めます。愛します。どうか助けてください。」とあわてて悔い改めています。聖書には「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ17:9)」とありますが、その通りだなと思います。ねじ曲がった悪い思いが心の中にあると、何よりも自分自身が蝕(むしば)まれて苦しくなっていきます。「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。(マタイ7:2)」。聖書ではどう教えているでしょうか。

パウロの教え

 冒頭のみことばでパウロは、良いことに心を留めなさい、と命じています。良いこととは「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値すること」です。このようなものが神様のみこころであるということです。「真実なこと」は偽りのないこと、誠実さのこと、「尊ぶべきこと」は気品のあることです。「正しいこと」は言うまでもなく正義、「清いこと」はこの世的なものから切り離された聖さです。「愛すべきこと」は快活で愛想がよいこと、「評判のよいこと」はほかの人から好評を得るということです。「徳とされること」は良い性格のことで、たとえばガラテヤ書の9つの実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(5:22-23)」を結んでいるということです。そして「称賛に値すること」はその徳のゆえに人々からほめられることです。
 パウロは、これらの良いものに「心を留めなさい」と言いました。つまり、自分の心の中にある悪い思いにではなく、これらの良いものに心を集中しなさい、求めなさいと教えています。

良いことに心を留める

 私はこのみことばを知って、自分の心の中に良いものは何もないけれど、良いものに心を留めることはできるのだ、と教えられました。「心を留める」ということは集中するということです。心の中に悪い思いが巡っていることに気づいたら、良いことに集中すればよいのだとわかりました。良いこととは、みことばにあるように、人に対して誠実であろうとすること、柔和であろうとすること、正しく理解しようとすることなどですが、このみことばの中で、「すべて評判の良いこと」に心を留めるという部分は、「他人の長所に目を向けなさい」とも訳されています。そう言われて、人のことを悪く思うのを止めて、良いところを思い起こしていると、自分が感情的であったために、相手のことを正しく理解していなかったと気づかされました。そしてとても平安になりました。
 日常生活の中で、わき起こってくる悪い思いに打ち勝つために、良いことに心を留めることが大切であると教えられました。いつも心の中が良いものでいっぱいであるように、神様のみことばに導かれて生活したいと思います。(鈴木千史)

22.04.17 イースター 感謝



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「Ⅰコリント15:3-5 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

イースターおめでとうございます

 イースターは、主が私たちのために復活してくださったことを覚えて感謝する時です。パウロは、私たちの信仰において最も大切なこととして、キリストが「私たちの罪のために死なれたこと」、そして墓に「葬られたこと」、そして「三日目によみがえられたこと」を伝えています。
 イエス・キリストが、死からよみがえられたことにより、主はこの世にある死に対して完全な勝利を取ってくださいました。それは、キリストを自分の救い主として信じる者に、永遠のいのちを与えるというものです。人はみな、自分が死んだ後どこへ行くのかという問題についての解決を得ていません。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」と言います。罪人である私たちはみな、神の前にさばきを受けなければなりません。罪あるものは裁かれ、滅びなければなりません。しかし、イエス・キリストを信じた私たちは、主の復活のゆえに罪の赦しをいただき、この地上での人生を終えた後も主とともに永遠の時を過ごすことができます。私たちはこの復活の事実を、信仰の一番の土台として固く信じなければなりません。

弟子たちの目はさえぎられていた

 ルカの福音書に、イエス様が復活され弟子たちの前に現れてくださったことが記されています。イエス様の弟子のうちの二人が、エマオに向かう途上で議論を交わしていました。それは、イエス様が死なれた後、墓に葬られ、その墓が空になっていたことについてでした。そこへ、よみがえられたイエス様が彼らの前に現れてくださり、一緒に歩き始められました。しかし彼らの目はさえぎられていて、それがイエス様であることが分かりませんでした。イエス様は彼らに声をかけられますが、二人は暗い顔をして、「イエスというお方が十字架にかかって死なれたのです。私たちは『この方こそイスラエルを解放する方だ』と望みをかけていました。また、仲間の女たちが『自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた』と言うのです。」と答えました。彼らは信仰を完全に失っていました。そんな彼らをご覧になったイエス様は、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(ルカ24:25)」と、嘆かれました。そして、彼らがイエス様と一緒に食事をするその時でした。イエス様が、神をほめたたえてパンを裂いて彼らに渡された時、彼らの目は開かれ、イエス様がよみがえられたことを悟りました。

信じた時に目が開かれた

 私たちは、イエス・キリストを信じる前は、「私は罪人であって、救いはキリストにある」ということを知らないで、この世にあるものがすべてだと思って生きていました。自分自身の様々な問題を抱える中で、「人生に答えはあるのか」と疑問を持ちつつもその解決がないまま、「まあ、長い人生だからこんな時もあるさ。仕方がない。」と言って、その現状に甘んじていたことではなかったでしょうか。人生の問題に解決を得ることができないで苦しんでいたのではなかったでしょうか。弟子たちのように、目に見える状況だけに囚われ、目がさえぎられていました。
 しかし、そんな中で私たちは、身近な親しい人から福音を聞き、教会に導かれました。メッセージを聞き、みことばに触れる中で、「もしかしたら、ここに私の求めている答えがあるかもしれない」と思って、心の内に神様に対する飢え渇きの思いが起こされました。そして、イエス・キリストを信じたその時に、「イエス様の十字架と死、復活は、すべて私のため、私の罪のためだったのだ」と、神の愛を知りました。「私が求めていた答えはここにあった」と知りました。それは、弟子たちに主が働いて下さって、彼らがイエス様だと悟ったように、私たちにも、復活の主が心のうちに働いて下さって、「イエス・キリストは私の救い主です。」と、私たちの口を持って告白することをさせて下さいました。聖書には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」と書かれてありますが、聖霊の働きによって私たちは信仰告白に導かれ、「イエス様は私の救い主である」と知って目が開かれました。

すべては主の恵みであることに感謝

 パウロは、自分自身のことについて、「神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。(Ⅰコリント15:9-10)」と告白しています。私たちにとって、罪赦されて救われたこと、信仰を持つことができること、神様との愛の関係に生きるようにされたこと、そして人を愛することができるようにされていることのすべてが神様からの恵みです。その恵みは、何物にも代えることができないものです。私たちは主の恵みによって生かされていることを決して忘れてはなりません。このイースターの時に、主が良くして下さった恵みを思い起こして感謝してまいりましょう。(岩下 栄作)

22.04.10 唇を制する



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「箴言10:19 ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人。」

静かな小学生

 少し前の平日の朝のことですが、名古屋駅から地下道に降りて行くと、地下鉄の改札口に小学生が列になって並んでいました。珍しい光景なので目に止まったのですが、何か違和感を感じました。すぐにそれが、子どもたちが一言も話さずに静かにしているからだと気づきました。おそらく遠足とか社会見学とか楽しい行事で出かけるのでしょうから、普通ならうれしくてはしゃぎそうなものです。たぶんコロナ禍のために、人が集まっているところでおしゃべりをしないように訓練されているのでしょう。個人的には子どもの元気な声が聞きたい思いもありますが、公共の場で他の人の迷惑にならないように静かにしているのはよいことです。昔、アマチュアオーケストラにいた時バレエ団と共演したことがありましたが、バレエの人たちは子どもも大人も、練習の合間に余計なおしゃべりをしないことに気づいて感心したことがありました。バレエは音楽と違って音を発することなく、すべて身振り手振りで表現するからなのかもしれません。場をわきまえて沈黙するのは、見ていて気持ちのよいものです。

余計なことを言ってしまう

 ところで、私たちの日常生活を振り返ってみると、おそらく人と話さない日はほとんどないと思います。家族はもちろん、仕事や学校の休み時間に、同僚や友だちとおしゃべりするのは楽しいものですし、打ち解けて親しく話すことは、人間関係がうまくいくためにも必要です。しかしそのような時についしゃべりすぎて失敗してしまったという体験を、多くの人がしているのではないでしょうか。はじめは昨日見たテレビの話とか、家族の話とか、たわいもない話をしているのですが、おしゃべりが長く続くと、いつの間にか人のうわさ話がはじまってしまい、余計なことを言ってしまった、と後で反省することになっているのは、おそらく私だけではないと思います。
 最近のことですが、「こうしたらどうですか」と言われて、「はい、そうします」と答えるべきものを、「そういえばこの前もこのように言われました。」と、その時ふと思い出したことをそのまま言ってしまったところ、「やりたくないんだ」と誤解されてあわてたことがありました。相手の気持ちをよく考えずに、余計なことを言ってしまうと、思わぬ失敗をしてしまいます。「覆水(ふくすい)盆に返らず」ということわざがありますが、一度口から出てしまったことばは、元に戻せません。冒頭のみことばは「自分の唇を制する者は賢い人。」と教えています。「唇を制する」とは、ことばをコントロールすることです。唇を制することのできる賢い人になるにはどうしたらよいでしょうか。

心が変えられなければならない

 イエス様は、「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。(マタイ15:18-19)」と教えられました。人が発することばの源は、その人の心です。ですから唇を制するには、心が変えられなければならないと教えられます。いくら表面的にことばだけを変えようとしても、解決にはならないということです。
 イエス様は「互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と何度も言われました。私たちの心の中が他者への愛で満ちていることが神様の願いです。心が愛で満ちているならば、人のうわさ話がはじまりそうになれば、自分も加わりたいとは思わないでしょう。心が愛で満ちているならば、自分の考えを言いたい思いを抑えて、相手のことばをよく聞いて応答しようとするでしょう。
 もちろんそれは簡単なことではありません。聖書には、「しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。(ヤコブ3:8)」とあります。はっきりと、舌(唇)を制することはだれにもできない、と言っています。人はみな罪人であり、自己中心であります。今度こそ愛そうと思っても、ちょっと何か言われるとすぐに自己中心が頭をもたげてきて、また余計なことを言ってしまうのです。しかし失敗してもあきらめずに、いつも「さあこの人を愛そう」という思いで人と交わることが神様のみこころです。神様のみこころに従おうとする者を、神様は助けてくださいます。

唇を制することを願う

 神様は私たちを愛しあわれんでくださり、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。それほど大きな愛で愛してくださった神様を喜ばせたいというのが私たちの願いです。神様を喜ばせたいので、人を愛したいと願います。人をことばで傷つけたくないので、唇を制することができるようにと真剣に願うのです。ダビデは、「私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:14)」と祈り求めました。唇を制するために、私たちも、「主よ、どうぞ人を愛することを助けてください。私の心とことばがあなたに喜ばれるものでありますように。」と一日中祈り求めながら生活して参りましょう。(鈴木千史)

22.04.03 完全でありなさい



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「マタイ5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」

完璧なハーモニー

 先日テレビで、大学生のアカペラ日本一を決める大会の番組を観ました。5,6名ほどで結成されたチームが、全国から集ってきて、持ち歌を披露し得点を競います。その中で、私はあるチームの歌声にとても心惹かれました。とてもリラックスしていて安定感があり、また一体感があり、その独特な世界観に引き込まれました。聞き終わった時に、「もう終わったの?もっと聞きたい」と思いました。完璧と言える文句なしの歌声でした。最終的にその大学が優勝を手にしました。
 アカペラは楽器を使わず声だけでハーモニーを奏でますが、私は「神から与えられた声がこんなにも素晴らしいハーモニーを奏でることができるのだ」と感動しました。歌を完成させるためには、自分一人だけが上手に歌えたらそれでいいということではないですし、常に他の人と歩調を合わせる必要があります。ですので、他のメンバーのことを気にかけつつ常に相手のことを思う愛の姿勢がなければ決して成し遂げられないことだと感じました。

神は全き愛で人を愛される

 愛は、私たち人間を造られた神様がその源です。神の造られたこの世界の初めは、すべてが完璧でした。そこには、神と人とが愛し合う完全な愛の交わりがありました。人と人は愛し合い、助け合いながら生きていました。争いや怒りなどは全くない世界でした。しかし、人が罪を犯した結果、愛の交わりが絶たれてしまいました。そして人は、生まれながらに罪の性質を持って生きる者となりました。
 親は、自分の子供を愛したいと願いながらも、言うことを聞かない子供に対して愛情を注ぎ続けることが出来ません。私たちの人間関係においても、自分に好意を示してくれる人には優しく出来ても、自分に冷たい態度を取る人に対しては同じような態度を取ってしまうことがあったりします。また、自分が苦手だと感じる人に対して距離を置いたりします。私たちの愛は、自分の好みや人の取る態度によって変わる条件付きの愛です。しかし神の愛はすべての人を同じように愛してくださいます。「あなたは良い子だから好き。悪い子だから嫌い。」というような、えこひいきは全くありません。また、私たちの取る態度によって変わることも決してありません。私たちが神に背いている時も、神は常にあなたのことを気にかけてくれています。欠けのある、弱さを抱えた、そのありのままのあなたを愛してくださる無条件の愛です。その愛を私たちにわかる形で示してくださったのが、イエス・キリストです。私たち罪人のために十字架にかかられ、罪の身代わりとなってくださいました。あなたのためにご自分のいのちを捨ててくださるというこの上ない愛を示してくださいました。

主に従う時、完全な者とされる

 私たちは自分の努力によって愛を全うすることはできません。全き愛であられる神様に従う時に、完全な者とされます。
 人間関係が一旦ギクシャクしてしまうと、なかなか簡単には関係が回復できないことがあったりします。「相手がまだ気にしているだろうな」という雰囲気が伺えると腹が立ってきて、こちらから声をかけたり、素直に謝ろうとすることができなかったりします。しかし、私たちの本音は「愛したい」ではないでしょうか。そのモヤモヤした状況を打開するきっかけは、みことばです。全き愛であられる神様のことばに語られて、従うこと以外に問題の解決はありません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:39)」と語られて従って行く時に、私たちは神の全き愛を持って人を愛することができる、つまり、完全な者となることができるのです。

愛を追い求めなさい

 私たち人はみな、交わりを必要とする存在です。私たちはまず神様との愛の交わりを求めてまいりましょう。当然のことですが、それは私たちの側から求めなければ与えられることはありません。
 以前の私は、自分の機嫌の良し悪しにとても左右されていました。機嫌が良い時には話をしても、機嫌が悪いと一切口を聞かないということが習慣となっていました。そんな所から主の取り扱いを受け、従い続けて行く中で、自分の感情に左右されたり、相手の態度によって自分の態度を変えることや、自分の好みで人の好き嫌いを判断しないことなどを日々教えられています。また、愛を追い求め続けてきたことで、みこころを知り、愛することがやる気の源で、仕事でも家庭でも子育てでも愛が一番必要なことだと教えられています。家族のために、また兄弟姉妹のために仕えようと思う時に、神の愛にとどまっていなければ決してその愛を全うすることは出来ないことだと教えられています。
 私たちは、完全な愛を持つ人間になることは出来ませんが、イエス様のように完全でありたいと願うこと、目指すこと、愛を追い求めて行くことはできることです。私たちの模範はイエス様です。神に背いて生きてきた私たちのことを見捨てることなく、ずっとご覧になっていて私たちの応答をずっと待っていてくださったその愛を知りました。私たちは、天の父が完全であるように、私たちも主を模範として、「私もイエス様のようになりたい」と完全であることを求めてまいりましょう。(岩下 栄作)

22.03.27 自分を愛する



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「マルコ12:31 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

神様の味つけ

 料理研究家の土井善晴さんは、著書「一汁一菜のすすめ」の中で、日本人が昔から食べて来た、ごはんとみそ汁と漬物だけの食事を提唱しています。一汁一菜が食べ飽きない理由について氏は、「ごはんもみそ汁も漬物も、どれも人間が意図してつけた味やないからです。」と言われています。ごはんは米をといで水加減して炊いただけ、みそも漬物も微生物が作り出したものです。人が自然の風景を見て飽きることがないように、自然が作り出したものは飽きないのだと氏は言います。考えてみれば確かにそうです。たとえば私は卵かけご飯を食べる時、「いつ食べてもおいしいな」と思いますが、それはごはんの味も、卵の味も、しょうゆの味も、それらが自然の味そのものだからなのでしょう。氏は、これらの食物の味を「人間わざではない」と言われていますが、私たちは「自然」が創造主であられる「神様のわざ」であることを知っています。りんごの味も、ピーマンの味も、肉の味も、魚の味も、みんな神様の味つけのわざであって、その味を人間は造り出すことができません。

オンリー・ワン

 人間味(にんげんみ)という言葉があります。人間らしい温かさのことですが、人の性質をあらわすのに「味」の字を使っています。神様は野菜や魚などの食物に、それぞれ個性的な味をつけてくださいましたが、私たち人間一人ひとりにも、それぞれ個性的な味つけをしてくださいました。つまり、一人ひとりに特別に性格や容姿や環境などを与えてくださったということです。穏やかな人もいれば、激しい気性の人もいます。背の高さなども皆それぞれですし、顔もみんな違います。好みもそれぞれです。さらには生まれた場所などの環境も様々です
 聖書には、「 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ2:10 ) 」とあります。神様は私たち一人一人を特別に、唯一無二のものとして造ってくださいました。「世界に一つだけの花」という歌がありますが、花が一つとして同じ花がないように、一人ひとりが「特別なオンリー・ワン」と歌っています。私たち一人ひとりは神様が特別に味つけをして造られた、神様の最高傑作であり、オンリー・ワンの存在です。

自分を好きになれない

 ところで私たちは、日常生活が順調で、仕事も家庭もすべてがうまくいっているとき、あるいは自分が役に立っている、などとと感じられるときには自分を受け入れることができます。そんなときは、自分を好きでいることが簡単にできます。しかし、失敗したり、指摘されたり、人から嫌われてしまったと感じるようなできごとがあると、とたんにこんな自分はだめだと感じて落ち込んでしまいます。自分よりもできている人、認められている人と自分を比べて、できない自分をふがいなく思い、自分には価値がないと思ってしまいます。神様が最高傑作として造ってくださったのに、自分を好きになれないのです。
 少し前のことですが、ご奉仕をしている中で行き詰まってしまうことがありました。やるべきことが少しも進まなくてもがいている中で、「こんなこともできないなんておまえは役に立たない」「お前には価値がない」という思いが次々とわいてきて困り果てました。そのすぐ後にリーダーズセルがあり、そのような、神様からのものでない声に同意してはいけない、その声を憎みなさい、と教えられました。敵の声に翻弄されているのは、その声に自分が同意しているからで、同意してしまうのは、自分が自分を受け入れていないからだ、と気づかされて建て上げられ感謝でした。

自分を愛する

 聖書は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」と命じています。あなたの周りの人を愛しなさいと教えられているのですが、どのように愛するのかというと、「自分自身を愛するように」と言われています。隣人を愛するためには、まず自分自身を愛さなければならないということが教えられています。自分を愛すると聞くと、そんなのは簡単でみんな自然にやっていることだと思います。しかし、自分を愛するというのは、人のことよりも自分のことを優先するというような、自己中心のことではありません。自分のありのままを受け入れるということです。うまくいっている自分、役に立っている自分だけでなく、自分のいやな性格も、失敗ばかりしてしまう自分も、自分の思い通りにできない自分も、ありのままで好きになりなさいと言われています。
 ではどうしたら自分を好きになれるでしょうか。それは神様が自分のことをどう思われているのか、いつも神様の目線で自分を見ることです。神様にとって私たち一人ひとりは、オンリー・ワンのかけがえのない存在です。うまくいかないとき、「こんなに情けない自分を、神様は最高傑作だと言ってくださる」とすぐに思い起こしましょう。主にあって自分を愛する者となって参りましょう。(鈴木千史)

22.03.20 私の避け所



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「詩篇91:1-2 いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と。」

心穏やかでありたい

 私は昔、仕事の関係で浜名湖のホテルへよく泊まりがけで行っていました。ホテルは湖畔にあって、朝起きて部屋のカーテンを開けますと、湖の向こうに見える山の頂上から、とってもまぶしい朝日が昇ってくるのをよく見ていました。そして、湖の方を見ると、水面には朝日が反射して映り込み、風のない穏やかな朝は、湖がまるで一枚の大きな鏡のように見えるのです。水面が波一つ立たずにピタッと静かな状態になって、まるで時が止まっているかのように感じるほどの静けさがありました。
 私はその光景を時々目にすることがありましたが、その瞬間はとても心が穏やかになり、落ち着きました。当時の私は、心が落ち着かないほど仕事に追われ、周囲からのプレッシャーに押しつぶされそうになっていて、何をしていてもいつも心の中には焦りがありました。周囲に悟られまいと必死に隠して来ました。そんな中で私は、ほっと一息つくことの出来る静かな場所を求めて、「私の心も、この湖のようにいつも穏やかであったらいいよな」と感じていました。

何に拠り所を求めているのか

 私たちの中でも、日々生活の中で様々な困難や試練がやって来る時に、その心に襲ってくる不安や恐怖の思いに対して、どうすることも出来ず、自分の気心知れた仲間や家族などにその拠り所を求めたりする人がいるかもしれません。
 例えば、人から自分のことを悪く言われることがある時に、「何で私がそんなこと言われないといけないの」と腹を立て、その苛立ちが収まらないと、身近な人に自分の思いを理解してもらおうとして求めることがあったりします。「ねえねえ、あの人私にこんなこと言って来たんだけど、どう思う?あなたもおかしいと思わない?」と言い、それを聞いた人が「そうだよね。それはあの人が悪いよ」と言ってくれることを期待します。それは、「この私のイライラした気持ちをあなたなら分かってくれるよね。」と、聞いた人が理解してくれて自分の味方になってくれることに拠り所を求めることになります。しかし、そのように人に話をしても解決にはなりません。むしろ、その問題のある人との関係をよりいっそう悪くし、敵対する方向に向かって行きます。

主は私の避け所

 私たちは、主に拠り所を求めなければなりません。私たちの避け所は神様です。ですから、人に話すのではなく、神様に話さなければなりません。主に祈って求めるならば、主は、問題の解決の方向へと向かわせてくださいます。もし自分に非があることであれば、それを示してくださいます。「自分から謝りなさい」とか、「愛しなさい」とするべきことを示してくださいます。そのことばに素直に応答して行く時に、主がその信仰に働いてくださり、良き結果へと導いてくださいます。どんな悪い思いを抱えていたとしても、その思いを主の所に持っていくならば、私たちの心は守られます。
 子どもは親が近くにいれば安心してはしゃいで走り回っていますが、親の姿が見えなくなると途端に不安になり泣き出します。そして親の姿が見えたら、親のところに一目散に走って行きます。親が自分を守ってくれると分かって信頼しているからです。
 ダビデはサウルに追われていた時、死ぬかもしれないという恐怖の中にいました。しかし、その置かれた状況の中にあって、「主が必ず私をこの窮地から救い出して守ってくださる」と主に全面的な信頼を寄せていました。彼は、「若かったころも年老いた今も 私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。(詩篇37:25)」と告白しています。主は私たちの避け所です。

主は信頼する者を守ってくださる

 私たちは不安で心が乱れたり、焦ることがある時に、「落ち着け、大丈夫だ、何とかなる。」と言い聞かせるのではなく、状況が良くなると感じないその中で、「主は『わたしはあなたを守る』と、私に約束してくださっているので私は守られます。」と信仰を持って、主に信頼してまいりましょう。経済的な不安や恐れを感じるその中で、「私の生活は主が守ってくださる」と告白して信頼してまいりましょう。病の症状が良くなるとはまったく思えないその中で、「主が必ず私を癒やし、守ってくださる」と告白してまいりましょう。
 主は私たちに、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」と語ってくださいます。今、先行きの見通せない、出口の見えないトンネルの中に置かれているように感じていたとしても、それでも信仰によって、主を避け所として、主に信頼する人を、主は必ず良き結果へと導いてくださいます。私たちは主にあって守られます。(岩下 栄作)

22.03.13 隣人になる



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「ルカ10:36-37 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。』彼は言った。『その人にあわれみ深い行いをした人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい。』」

避難するウクライナの人々

 ロシアによるウクライナ侵攻で、大勢の人々がウクライナ国内からヨーロッパなどに避難しています。その数は、先週日曜日の推計では150万人を超えているそうです。テレビの画面で破壊されていく町の様子を垣間見て、一般の人々がどれほど恐怖の状況下に置かれているか察し胸が痛みます。非難する人々の多くは隣国のポーランドやドイツを目指すそうですが、ポーランドに避難してきたある女性は、支援者に暖かく迎えられたことに、「地獄から天国に来たみたい。ここは平和が保証されていると思うと涙が止まらなかった。ポーランドから受けた恩は一生忘れない。」と話していたそうです。またドイツの支援所でも、大勢のボランティアの人々が食事を提供したり、衣服などを配ったりしているそうです。ドイツでは避難民に自宅の一室を提供する市民も多く
て、すでに12,000人以上を支援しているそうです。
 聖書の教えでは、寄留者や孤児、やもめといった弱い者を助けることが大変重視されています。そのため聖書には、旅人を手厚くもてなす場面がよく出てきます。難民を暖かく迎え入れる姿勢は聖書のみことばに従っていることです。

自分のことで精一杯

 新聞の記事でウクライナ避難民の受け入れの現状を知ったとき、ふと自分はどうなのかと考えさせられました。たとえば避難民に自宅の一室を提供することができるだろうかと考えると、気の毒だなあと同情することはあっても、おそらく自分の生活で精一杯で、受け入れるゆとりはないだろうなと思いました。
 そう考えていると、日頃から、自分のことで精一杯で人に時間を与えることを惜しんでいることがあると気づかされました。家族が話しかけてきても、自分の用事で頭がいっぱいになっていると、落ち着いてゆっくり話を聞いてあげられないことがあります。両親に会いに行こうと計画していても、その日に先に自分の用事をしているうちに、結局行く時間がなくなってしまったということがあります。皆が楽しく話していても、やるべきことに精一杯になっていると、交わりに入っていけないことがあります。それとは反対に、奉仕などに関して自分が指摘やアドバイスをいただくときに、忙しい中で何十分も時間をとっていただいていることが思い出されました。与えることとは自分が今していることの手を止めて、人に時間を与えることなのだと教えられます。

立ち止まったサマリア人

 ルカの福音書10章で、イエス様は律法の専門家に「私の隣人とはだれですか。」と尋ねられて、「よきサマリア人のたとえ」を話されました。ある人が強盗に襲われ、半殺しにされて道に横たわっていましたが、そこを通りかかった祭司もレビ人も、立ち止まることなく、見ないふりをして道の反対側を通り過ぎて行きました。彼らは神に仕える人々であり、神様の戒めを完全に守っていると自負している人たちでした。神様の戒めは「愛しなさい」です。しかし、当時罪人とされ、ユダヤ人から嫌われていたサマリア人は、半殺しにされて横たわっている人を見てかわいそうに思い、立ち止まって手厚く介抱しました。イエス様は、このサマリア人こそが、強盗に襲われた人の隣人であると言われました。そしてその律法学者に「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言われました。このたとえ話は民族を越える愛を教えている箇所ではありますが、私はここを読むといつも、イエス様が、「あなたも行って、同じようにしなさい。」と私に語られていると感じます。あなたも立ち止まって、必要としている人のために時間を与えなさいと言われ、「ああそうだった。」と立ち返らされています。

隣人になる

 イエス様は、聖書の一番重要な戒めは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)」であり、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(同22:39)」という戒めもそれと同じように重要である、と言われました。よきサマリヤ人のたとえからも、隣人を愛するということは、助けを必要としている人のために立ち止まって、自分の時間を与えることだと教えられます。
 私たちも、助けを必要としている人々の隣人になりたいと思います。避難民を迎えたドイツの人々のように、自宅の部屋を提供するようなことは誰にでもできることではありませんが、私たちは祈ることができます。私は、この戦争が最速で終結するように、現地で戦っている人々の命が守られるように、外国に避難した方々の生活と心が守られるように、また救いが起こされるようにと、毎朝祈っています。私たちは、身近にいる家族、職場の同僚、学校の友だち、教会の兄弟姉妹が助けを必要としているときには、立ち止まってゆっくり話を聞いてあげたり、祈ってあげたりすることができます。また交わりを必要とする人のために、自分の時間を差し出すことができます。私たちの周りにいる人々の隣人となって参りましょう。(鈴木千史)

22.03.06 侮ってはならない



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「箴言1:29-31 それは、彼らが知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企んだことで腹を満たす。」

人を侮ってしまう

 みなさんは、「よく聞かないで返事をして、後で痛い目にあってしまった」ということはありますでしょうか。私はたまに「ちょっと帰りに、鶏肉と白菜を買ってきてくれる?」と、食材などの買い物を頼まれることがあります。その時、私の心にゆとりがある時であれば、「何個いるの?何玉いるの?」と、分からないことをもう一度聞き返して確認をしますが、移動中や忙しくしている時に頼まれると、聞き返すことなく「わかった」と、わかったつもりになって返事をしていることがあったりします。そうしますと、買い物をして家に帰ると、「えっ!それじゃない」と言われてしまいます。すると私は「だったら最初からきちんと数や形などちゃんと教えてくれたらいいのに」という言い訳をして、自分の責任ではないような態度を取って、ちょっとした言い争いになったりします。よくわかっていないのに返事をした自分にも責任はあります。その時、「人と話をする時には、聞く側にも責任があるのできちんと聞かないといけないな」と思いました。箴言には、「よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。(箴言18:13)」とありますが、人を侮ることによって、自分が後で恥をかく羽目になってしまいます。「相手の思いを理解してあげよう」と思いつつ耳を傾けるならば、きちんと相手の話を聞くことができますし、わからなければ聞き返すこともできます。相手を尊重する愛の姿勢が、いつでも必要だと教えられます。

主を侮るとは

 そして、私たちが主を侮るとき、それは主のことばを無視したり、語られることを自分に対してのメッセージであると受け取らない態度となったりします。
 例えば、主は、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。(Ⅰコリント6:19)」と私たちに語ってくださいます。このみことばを聞いて、「私は神のあわれみによって、罪の支配から神の支配に移された。だから私の体、生活、仕事、お金、子ども、すべては主のものであって、すべて神の栄光を現すために私は用いられたい。」という自覚があって、聖くありたいと願っているとしたら、それは主のことばを重んじて、主を恐れる人の態度であります。しかし、その自覚がない人は、「自分の体や生活は、自分のものであって自分のしたいようにして何がいけないの?」という態度を取ることになります。ですから、悪習慣を続けていても平気でいられます。聖くありたいと願いつつ、それができないことについては、主が助けてくださいます。ですが、みこころを知っていながら、聖くありたいと願うことなく生活をしているとしたら、その心は主を侮る態度となります。「主のことばは大したことない。自分のことは自分が一番よくわかっているから、聞かなくても大丈夫。今の生活を続けても、別に何か大変なことが起こるわけではないし。」と、主を甘く見る態度にほかなりません。

主を侮ることで、その報いを受けることになる

 今、ウクライナの情勢を巡って、世界中に緊張が走り、その動向が注視されていますが、国と国との間に争いが起こるのは、ある一人の人の心に湧いてくる、怒りや憎しみなど、人間の罪から来るところの思いに端を発しています。その思いを持ち続け、同じ思いを持った人が増えて行き、それがやがて行動となって現れ争いが起こります。そして互いを滅ぼし合うことになります。しかしそれは、私たちも例外ではありません。状況が許せば、このような愚かなことをしてしまう根深い罪の性質を抱えている者であることをいつも心に留めていなければなりません。人間関係での争いも、ほんのささいなことがきっかけとなっている場合が多いと思います。
 人間関係が上手くいっていたり、何も問題がない時に、「人との関係が上手くいっているのも、私が愛することができているからだ」と思い、主の働きであることを全く忘れてしまっている時、主はそのような高ぶりの思いを砕かれるような出来事を起こされます。その語りかけを聞いて立ち返ることがあればいいですが、聞いても従わない、つまり主を侮ってしまうと、私たちのうちにある高ぶりの思いによって、周りの人との関係が徐々に崩れていきます。普段から一緒にいる人であれば、日々の行動や言葉の変化を敏感に感じて気がつきます。態度を改めることがなければ、やがて関係が悪化し、争いになったりします。自分の行いによって、その報いを受け取ることになります。箴言には、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(箴言18:21)」とありますが、私たちの心にある思い、口から出て来る言葉、行動が、神のことばを選ばないことによって、その報いを受け取ることになります。

主は熱心に求める者に報いてくださる

 ですから、私たちは今自分で気がついて進んで悔い改めなければなりません。「私は、神の愛を受けて生活しなければ、人を愛することなどできない者です。ですから、これからはあなたを愛し、あなたの言われることに喜んで従って行きます。」と、心から悔い改め、主に従う決意を持って御前に告白しなければなりません。主はその心をご覧になっておられ、ご自分に求める者に報いてくださいます。つまり、赦しを与え、良い行いに励むことが出来るように働かれ、助けてくださいます。
 私たちが何でも、主のみこころにかなう願いを熱心に求めて行くならば、主は私たちに、あふれんばかりの祝福と恵みとを与えてくださいます。主のみことばを熱心に求めてまいりましょう。
(岩下 栄作)

22.02.27 一日中主と語ろう



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「詩篇25:5 あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。」

語り合うスポーツ

 先週、冬のオリンピックが閉幕しました。今回日本は冬のオリンピックでは最多の18個のメダルを獲得しましたが、その中で史上初の銀メダルに輝いたのが、カーリング女子のロコ・ソナーレでした。試合を見ているとよくわかりますが、カーリングは選手同士がよく語り合うスポーツです。その語り合う声もマイクで拾われていたので、テレビで見ている人にもよく聞こえました。この語り合いは、氷の状態などについて情報を交換しているもので、とても重要なのだそうです。また、試合に臨む前にも長い時間をかけて、作戦を語り合うのだということでした。
 オリンピック開催中に新聞のコラムで知ったことですが、今回の予選の、ロコ・ソラーレのイギリス戦での敗因について、ある専門家は、試合中にミスとなったショットの前の、選手たちの語り合いの時間がいつになく短かったことを指摘しています。語り合いの時間が十分でないと敗北を招きがちになってしまうようです。コラムを読んで、私たちの信仰生活も同じではないかと思わされました。日常生活の中で神様と語る時間が十分でない時に、心にわいてくる罪の思いがいつまでも残って、敗北の生活に陥ってしまうんだな、と考えさせられました。

神様と語り合う恵み

 神様を信じた時、私たちは罪赦され聖霊がうちに住まわれて、神様と語り合うことができるようになりました。神様に語りかける方法は祈りです。私たちは祈りによってどんなことも神様に話すことができます。人には言えない悩みも話せますし、たとえ罪の思いがあってもそれをそのまま話すことができます。神様は私たちの語りかけに答えてくださいます。神様が語ってくださる方法は、多くは聖書のみことばを思い起こさせてくださることによって、または思いを与えてくださることによってです。
 たとえば人を赦せない思いがあって、「神様、あの人を赦したくありません。あんなことをされたら赦せるはずがないです。」と思いをそのまま話すと、心に「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。(ルカ6:37)」などと聖書のみことばが思い起こされて来ます。また、「神様は私を愛し私の罪を全部赦してくださっている、だから私も赦さなくては。」と、祈る前には考えられなかった思いが与えられたりします。その与えられたみことばや思いに従おうとする中で、「神様、あの人を赦します。助けてください。」と悔い改めて祈る祈りに変えられていきます。神様と語り合う中で私たちの心は罪から守られます。

語られたことを吟味する

 ところで、神様を信じる前の私たちは、神様ではないものに導かれて生きていました。それは、多くは自分なりの考えであり、また宗教、占い、思想などです。私たちの心に影響を与える霊的な存在は、聖霊か悪霊かのどちらかしかありません。ですから神様以外のものに導かれるということは、悪霊に導かれていることです。聖書ではそれを偶像礼拝と言います。自分なりの考えや思いにも背後に悪霊が働いているのです。
 悪霊は、人が神様を信じないように働きますが、神様を信じて救われたクリスチャンには恵まれないように働きます。神を疑わせることば、罪を犯させる誘惑のことばを語りかけて来るのです。ですから私たちが神様に祈る時、与えられた思いが本当に神様からのものであるかを吟味しなければなりません。それを見分けるには、その思いが聖書のみことばと一致しているかどうか吟味します。たとえば、「赦さないのは当然だ」という思いは、「赦しなさい」というみことばに反しますから、神様からのものではないとわかります。それは自分なりの考えです。吟味するためには、日頃から聖書のみことばに親しんでいることが大切です。「ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(Ⅰテサロニケ5:21-22)」

一日中主と語ろう

 冒頭のみことばは、ダビデの詩篇です。ダビデはいつも神様に伺い、戦いの時にも神様のみこころに従ったのでいつも勝利しました。いざという時に神様に伺うことができたのは、ダビデが一日中神様と語り、みことばを求めていたからです。「あなたこそ私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。」
 日常生活の中では問題はふいに起こってきますが、一日中神様と語っているならば、すぐに、「神様、今どうしたらよいでしょうか」などと語りかけることができます。私は神様に「今朝は寒いですね、あなたが造られたお天気ですね」「今からご奉仕があります、お守りください」「また失敗しました!これもあなたが起こされたことですね」「どうか愛することを助けてください」と、なるべく一日中神様に語りかけて、つぶやくことや不信仰に陥って平安をなくすことから守られています。神様は「絶えず祈りなさい。(Ⅰテサロニケ5:17)」と言われます。一日中神様に語りかけ、また聖書のみことばに親しんで、神様に心を守っていただき、勝利の生活を獲得して参りましょう。(鈴木千史)

22.02.20 主が回復させてくださる



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「エレミヤ33:6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。」

自分のしたいようにしてしまう

 「開けたら最後、You can't stop!」というキャッチコピーで有名な「プリングルス」というポテトチップスがありますが、スナック菓子は、開けたらもう最後まで食べ切らないと気が済まない食べ物だと思います。我が家でも、「お菓子を食べるよ」と言った瞬間に子どもたちがすぐテーブルに集まって来ます。菓子の袋を開けてものの2,3分でもう袋は空になっています。子どもたちの食欲はとどまる所を知りません。しかし食べ過ぎを注意しないで野放しにしていたら、将来子どもたちがどうなってしまうのかということは、だいたい想像がつく話です。
 再びコロナが流行って来た近頃は、自宅で過ごす時間が増えたという人も多いと思います。私の家でも、子どもが通っている幼稚園で感染者、濃厚接触者が出たことで自宅待機となり、二週間近くずっと家から出られない状況になりました。そんな生活が続きますと、だんだんと家にいることの方が快適で、家から出るのが面倒になったりすることがあると思います。子どもが先日、自宅待機が開けた日の朝、「幼稚園に行きたくない」と言い出しました。「家でずっと遊んでいたい」と言って聞きません。それまではいつも「早く幼稚園に行きたい」と言っていたような子が急にそんなことを言い出すようになるのです。これは放っておいてはいけないと思い、彼の話を聞いてあげて「先生や友達と遊ぼうよ」と話をしましたら行く気になりました。本人が行くと決めた瞬間からいつもの表情が戻って来ました。今回は二週間程度のことなので、幼稚園に行けばまたすぐに溶け込んで行けますが、このようなささいなことを繰り返すことによって、将来、不登校や非行に走ったり、「学校に行きたくない、勉強をしたくない、友達と会いたくない」とわがままを言って聞かなくなることが起きたりします。

わがままが自分自身を壊している

 子どもの中にそのような思いを見るときに、私たち大人にも同じような思いがあるのではないかと思わされます。子どものようにわがままを言って引きこもるようなことはないとしても、心の中で「仕事に行きたくないなあ」「あの仕事は面倒くさいなあ」「早く休みたいなあ」「今日もたくさんやることがあって嫌だなあ」と思いつつ働いているとしたら、それは子どもが引きこもっているのと同じことではないでしょうか。楽しいことがないと喜んで働いたり勉強することができないとしたら、それはもはや健康な状態とは言えません。私たちの心が塞いでいるのは、突然ではなく、毎日、毎時間、毎分、少しずつ嫌なことや否定的な考えを積み重ねていった結果です。最近よく言われるうつ病も、日々のストレスなどで食べ過ぎたり偏食になったり、お金を使い過ぎてしまったり、SNSやゲーム、インターネットにハマって寝不足などの悪習慣を招き、それが体にあらゆる症状として現れて来ます。結局、自分のわがままによって、生活習慣や自分の心を壊していることです。私たちがもし、今健康でないとしたら、主の癒やし、回復を求める必要があるのではないでしょうか。

まず、私の信仰が回復されないといけない

 預言者エレミヤは、偶像礼拝をやめようとしない民に滅びの警告をしましたが、彼らは一向に改めようとしません。その結果、バビロンへ捕囚として連れて行かれましたが、主はそれでもご自分の民を見捨てることはなさらず、「わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。」と、回復の約束をしてくださいました。主に従わず背いていたとしても、今悔い改めて主に求めるならば、主はご自分に求めて来る者を深くあわれんでくださり、受け入れて下さる方です。
 エデンの園で、人が喜んで働き、暮らしていたのは、神様との親しい交わり、主に喜んで従う正しい関係があったからです。食べることに不自由を感じることは全くなく、生活の必要も、また心も、すべてが満たされていました。イエス・キリストを信じる私たちにも主にある回復、満たし、癒やしがあることを信じます。その回復を願うならば、私たちのうちにある自己中心という不信仰を捨てなければなりません。「私には、自分の心の病、また悪習慣を回復させることのできる力はありません。回復させて下さるのは主です。」と告白して、主の権威を認めなければなりません。そして、「これからはあなたの言われることに従って行きます。弱い私を助けてください。」と、へりくだって主の助けを求めて行くならば、主はあなたの病、悪習慣を回復させてくださいます。その時私たちは、主が私たちの心や周りの状況に働かれるのを見ることになります。
 私たちは、神様の叱責のことばがなければ、つまり、神様の支配から離れてしまえば、とたんに自分のしたいようにしてしまうような愚かさを抱えていることを自覚して、主に助けを求めてまいりましょう。主は、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(Ⅰコリント10:12)」と語ってくださいますが、私もみことばを忘れて聞いていない時に、主から「そんな生活をしていると、また元のあの生活に戻ってしまうよ」と語られて、ハッと気づかされ悔い改めへと導かれることがあります。

主が回復させてくださる

 私は、自分の生活が少しずつ主によって変られていると感じる時があります。以前は、楽しいことがないと喜べませんでしたし、仕事でストレスを抱えると、ギャンブルをしたり仲間と酒を飲んでカラオケで歌ってストレスを発散したり、自分のしたいことをして、好き勝手にお金を使っていました。それが原因で、体調を崩し、心はいつも怒りと不安と恐れでいっぱいでした。心は満たされないままでした。しかし、主のご支配の下で生活し続ける中で、少しずつ変えられて来ています。今、特別な何か楽しいことがあるわけではない時に、心の平安、満たしを感じます。
 私たちは、病に完全に勝利して下さったイエス・キリストによって、今抱えている悪習慣、病に勝利して生きることができます。「私には、自分の心の病、また悪習慣を回復させることのできる力はありません。」と告白して、主の権威の下にへりくだって助けを求めるその先に、主は回復とさらなる祝福とを与えてくださいます。(岩下 栄作)

22.02.13 神を疑わない



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「ローマ4:19-21  彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めてもその信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」

私たちは神を信じた

 ヨハネの福音書には、イエス様の弟子のトマスがイエス様の復活を疑ったできごとが記されています。復活されたイエス様が、弟子たちが集まっているところにあらわれたとき、トマスはそこにいませんでした。弟子たちは彼に「私たちは主を見た(ヨハネ20:25)」と言いましたが、トマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません(同)」とイエス様の復活を疑いました。しかしその後、イエス様が再び弟子たちにあらわれてくださり、トマスに手の釘の跡と脇腹の刺された跡を見せてくださったとき、トマスは信じました。イエス様はトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(同20:29)」と言われました。
 今日私たちはイエス様に直接お会いすることはできません。「見ないで信じる人たちは幸いです。」というみことばは、今日の私たちにも語られています。私たちが見ないで神様を信じることができたのは、聖霊の働きによるものでした。私たちが神を求め始めると聖霊は私たちのそばに立ってくださり、イエス様を信じることができるように私たちの心に働いてくださいました。神様を信じることができたことは神様からの大きな恵みです。

神を疑うことになっていないか

 ところで、神様を信じるとはどういうことでしょうか。イエス様は、ご自分がのろわれたいちじくの木が、翌日枯れているのを弟子たちが見て驚いたとき、「神を信じなさい(マルコ11:22)」と言われました。それは「神様にはどんなことでもできること」を信じなさいということです。神様を信じるということは、ただ神様がおられるということだけでなく、神様は全知全能であられて、どんなことでもすることのできるお方であることを信じることです。
 しかし私たちは、神様を信じると言いながら、日常生活で問題が起こると動揺し、とたんに平安をなくしてしまう者です。経済が満たされない、仕事や子育てに疲れてしまう、職場や家庭の人間関係がうまくいかない、自分や家族の健康が心配だ、などということがあると、すぐに落胆し憂鬱になってしまうのです。神様はどんなことでもできるお方ですから、私たちの経済を満たすことがおできになります。私たちの疲れや病を癒やし、新しい力を与えることがおできになります。私たちの人間関係を回復し、問題を解決することがおできになります。ですから問題を目の前にして平安をなくしているのは、神様の全能を疑う姿勢にほかならないのだということに、私たちは気づかなくてはなりません。

アブラハムの信仰

 冒頭のみことばは、決して神の約束を疑わなかったアブラハムの信仰について教えています。彼は神様から召された時、祝福の約束をいただきました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(創世記12:2)」。しかし、何年経っても一向に子どもが与えられませんでしたので、アブラハムは、自分の召使いが跡取りになるのでしょうか、と神様に尋ねました。しかし神様は、そうではなく彼自身の子が跡を継ぐのだ、と言われました。アブラハムはこの神様の仰せを信じました。それは、彼が神様に信頼していたからです。彼は、神は自分を愛しておられ、必ず良いことをしてくださる方であると確信していました。アブラハムも妻のサラも非常な年寄りで、人間的には子どもを産むには不可能な状況でしたが、彼は神に信頼していたので、全知全能であられる神様は、自分に子どもを与えることのできるお方であると信じたのです。神様は彼の信仰を喜ばれ、約束通りアブラハムが100歳、サラが90歳の時にイサクを与えてくださいました。約束通りアブラハムは神様によって大いに祝福されました。

神を疑わないために

 私たちが神を疑わないためにはどうすればよいでしょうか。 私は最近、やるべきことが進まないので焦って平安をなくすことがありました。その時主が、平安がないのは神様を疑っていることだと示してくださいました。悔い改めて祈ると、「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」というみことばが与えられました。私はどんなことでもできるお方に信頼しないで、自分には能力や体力がないとか、時間が足りないとか言って、自分の考えにとらわれて、神様のみことばを聞いていなかったことに気づかされました。みことばを思い巡らしていると、心が守られて成し遂げることができました。
 神様を疑わないために、私たちはいつも神様との信頼関係を築いていなければなりません。信頼のあるところには疑いが入り込む余地はありません。どんなことでもできるお方が、私たちを愛してくださり、決して離れずいつもともにいてくださるという恵みをみことばによって受け取り、いつも思い起こし、心の中に巡らしている者となって参りましょう。(鈴木千史)

22.02.06 心を動かされる時



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「使徒2:36-37 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」

自然の偉大さに心を動かされる

 愛知県の東部、長野県との県境の近くに稲武(いなぶ)という町があります。この町に、今の時期にしか見ることのできない景色があります。氷瀑(ひょうばく)と呼ばれる巨大なツララです。普通、氷瀑は氷った滝のことを言いますが、稲武の氷瀑は、地元の水道屋を営む人が個人的に作ったものです。「地元に多くの観光客が来てほしい」との願いから10年以上前から毎年やっているそうです。手作りの氷瀑は、山の斜面に丸太を格子状に組み、小さな穴を開けたパイプを張り巡らせて、気温が氷点下2度になった時に、山の湧き水を霧状にしてかけることで氷瀑が出来るそうです。何本もの太いツララが下に長く伸びている姿は圧巻です。その全体は、高さ約10メートル、幅約20メートルにもなるそうです。ツララは、雪が太陽に当たって溶け、したたる直前でまた凍る、ということを繰り返すことによって、どんどん下に伸びて行きます。溶けたり凍ったり、寒暖差のある気候が続かなければ、ツララは大きくなって行きません。自然のなせるわざです。また、この近くには、樹氷も見られるそうです。樹氷もまた、様々な条件が重なってできる現象です。氷点下5度以下で、ある程度の湿度があり、風が吹いて空気中の水蒸気が木にぶつかることによって氷になります。
 私は、たまたまテレビを観て知りましたが、一度行ってみたいと思いました。素晴らしい景色に圧倒される時、私たちは心を動かされます。それは神様が造られたものだからです。素晴らしい景色を造られた主をほめたたえずにはいられなくなります。主への感謝の思い、喜びが湧き上がり、とても嬉しくなります。

祈りの中で心を動かされる

 みなさんは、日常生活の中で心を動かされることはありますでしょうか。例えば、映画を観て感動したことや、スポーツを観戦していて、プレーする選手たちの真剣な姿を見て心を強く打たれたりすることがあると思います。また、自分がずっと求め続けてきた仕事の目標を達成できた瞬間や、久しく会っていなかった家族や知人と再会した時、他にも、主が祈りに答えてくださったと知った瞬間であったりするかもしれません。また、日々起こる問題の中で、不安や心配、恐れの思いがやって来るとき、私たちの心は揺さぶられます。
 私も、日々の祈りの中で強く示されることがあります。「あなたのうちに罪の思いはないか、人を憎んではいないか、『愛します』と口では言っているけれども本当に愛せているのか。」と主のことばが心に迫ってくる時、私の心は責められます。私たちの心は、主を信じているからこそ悪や罪に対して敏感になります。

十字架は私のためだと知る時、心を動かされる

 冒頭のみことばは、ペテロが大勢の民に対して説教をしている場面での出来事です。彼は、「イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と民に対して語りました。それを聞いていた民は強く心を打たれました。自分の内にある罪に責められる思いがやって来ました。「イエス・キリストを十字架につけたのは、他でもない、この私なんだ。」という思いでした。彼らは居ても立っても居られなくなり、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねました。するとペテロは、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38)」と答えました。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマ、洗礼を受けました。私たちも信じた時、「イエス・キリストを十字架につけたのはこの私だ。私の罪ゆえに主は、私の身代わりとなって死んでくださったのだ。」と知って心を動かされ、信仰告白へと導かれました。

進んで主に解決を求めよう

 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。(ヘブル4:12)」とありますが、神のことばは、私たちの心の奥底にある、普段自分でも意識していないような領域の思いをも明らかにしてくださいます。その時、神のことばが私たちの心に強く刺さります。もはや、隠れたり言い訳をしたりすることはできません。心当たりがある時に、「まあ、でも、そこまで深刻なことではないし。」と言って、放っておいてはいけません。
 自分が犯している罪や問題、欠点などが明らかにされることは主からの恵みです。私たちが、その問題をきっかけにして主を求め始めるようにと促しておられるからです。そうでなければ、私たちはずっと今の場所にとどまろうとして、何の解決もないまま過ごしてしまいます。自分の問題が明らかになることを恐れてはなりません。解決はすべてイエス・キリストにあると信じます。みことばによって心を刺されるとき、「主よ、私はどうしたらよいでしょうか」と、主に尋ねることになります。 
 私たちは、人から自分の問題を指摘されたり、自分ではどうにもならない状況になってはじめて、真剣に問題に向き合うということがあったりしますが、みことばによって示されるならば、今、心の向きを変えて解決の方向に出発しなければなりません。進んで主に解決を求めて行きたいと思います。私たちが求め始める時、主がともに働いてくださることを信じます。(岩下 栄作)

22.01.30 新しくされ続ける



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「コロサイ3:8-10 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」

サブスク

 最近「サブスク」ということばをよく聞きます。サブスクはサブスクリプション(定期購読)の略で、利用料金を支払うと、製品を買うのではなくサービスが一定期間利用できる方式です。音楽や映画や本などのサブスクは数年前から多くの人が利用していますが、そのほかにも自動車、家具や家電、コーヒーやラーメンなどの飲食関係、花、おもちゃなどいろいろなサブスクがあるようです。その一つに、洋服のサブスクがあります。洋服は値段が安くはないので、購入には慎重になりますし、普通それほど頻繁に買うものではないと思います。しかしサブスクならば、定額を払えばサービスによっては月に何回もいろいろな新しい服を楽しむことができ、クリーニングなどのメインテナンスも自分でする必要がなく、クローゼットがいっぱいになることもないので人気なのだそうです。誰でも新しい洋服を着るときは、何かリフレッシュしたようなうれしい気持ちになるものではないでしょうか。生活を楽しむためにこんなサブスクを利用するのも、一つの知恵かもしれません。

古い生活と新しい生活

 ところで今日のみことばは、パウロがコロサイの教会の人々にあてた手紙です「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」と、衣服のたとえを用いています。TPOということばがありますが、衣服は時や場所や場合によって変えます。たとえば夏には涼しい服を着ますし、冬には暖かい服を着ます。このみことばでパウロは、救われて新しくされた者は、古い衣服(古い生活)を脱ぎ捨てて、新しい衣服(新しい生活)を着たのだ、と教えます。
 では、古い生活、新しい生活とはどんなものでしょうか。パウロは彼らに「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。(同3:5)」、さらに「怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい(同3:8)」と忠告しています。このような罪に導かれている生活が古い生活です。コロサイのクリスチャンたちは、救われているのにもかかわらず罪に鈍感であり、偽の教えに惑わされそうになっていました。パウロはそんな彼らの未熟な信仰を心配して、手紙を書き送ったのです。手紙の中でパウロは、「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(同3:12)」と教えました。このようなものを求めるのが新しい生活です。

新しい生活を歩んでいるか

 私たちも救われて新しくされた者です。どこが新しいかというと、神を信じた私たちのうちには御霊が住んでおられるので、救われる前の罪の思いではなく、御霊の思いに導かれて生活できるようにされたということです。御霊の思いは「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」です。新しくされた人は、主に似た者と変えられていくということです。
 ところで私たちは、新しい生活を歩んでいるでしょうか。私自身を振り返ってみると、到底そうとは言えないと思わされます。人間関係の中で人の反応が自分の思い通りでないとイライラしてつい寛容さを忘れ、相手の言ったことを否定してしまったりする者です。また自分では普通に話しているつもりでも、つっけんどんな言い方になっていて、相手を傷つけてしまう者です。また自分の仕事や生活に精一杯であると、いつの間にか人を思いやることを忘れてしまっているような者です。イエス様は「柔和な者は幸いです。(マタイ5:5)」と言われますから、柔和になりたいと切に願いますが現状はほど遠く、すぐに感情的になってしまい、ああまたやってしまったと落胆しているような者です。パウロは、「新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け」ると言いますが、どうしたら新しい生活を続けることができるでしょうか。

新しくされ続ける

 同じ手紙の中でパウロは、「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(同3:2)」と教えました。「上にあるもの」とは、神の右の座につかれているイエス様のこと、「地にあるもの」とは、罪の思いです。人は心の中にあることを言ったり行なったりします。だからいつもイエス様のことを思うことがとても必要です。これが新しくされ続ける方法です。
 人を悪く思ってしまうときに、イエス様のことを思うと、主はこんな罪深い私のために死んでくださったほどに私を愛してくださったのだ、と思い起こします。そしてこの目の前にいる人も、主に造られ主に愛されている人なのだ、と思い起こします。すると「わたしが与えた愛でこの人を愛しなさい」という主の声を聞くことができます。愛する力は主から与えられます。イエス様をいつも思うことによって、新しい人を着続けて参りましょう「愛は結びの帯として完全です。(同3:14)」(鈴木千史)

22.01.23 集中力は神から与えられる



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「ヨハネ14:1 『あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

ボールが止まって見えるほどの集中力

 プロのスポーツ選手の中で、よく「ボールが止まって見えた」「ゾーンに入った」という言葉を聞くことがあります。集中力が高まり、周囲の音や景色が全く意識から外れ、目の前のプレーにただ没頭し、最高のパフォーマンスを発揮できた時に選手の口から出てくる言葉です。野球であれば時速100キロを超えるボールがバッターの近くに迫ってきますが、止まるはずのないボールが止まって見えるほど、すべての意識がそこに集中している状態です。
 昔、プロ野球選手として活躍した川上哲治さんという方は、ある年、シーズン開幕からずっとスランプに陥り、もがき続けていました。それは当時の監督との折り合いが悪かったことが原因でした。感情的に衝突することが多く、精神的なストレスによって集中力を乱してしまったのです。ある日、川上さんは、すべての雑念を振り払うように、ただひたすらにボールを打ち返していました。時間が経つのも忘れるくらい集中していたその時でした。ボールが、自分がスイングするポイントまで来た時、止まったように見えたのです。その瞬間に「これだ!」という自分の中での確信を得たそうです。それからは、「すべてのボールが同じ空間で止まる、それを打つ、『これだ』と感じる。」そのことの繰り返しだったそうです。「相手をしてくれているピッチャーの『もう勘弁してください』という言葉でハッと我に返った時、自分の中に自信のような気持ちが芽生えていたんだ」と話しています。

集中する時、大きな力を発揮することができる

 私たちにも、このような最高のパフォーマンスを発揮するための集中力が神様から与えられています。ですから、何者にも邪魔されないで、ただ目の前のことだけに集中して取り組むことが出来る時に、私たちは多くのことを成し遂げて行くことが出来ます。仕事や勉強でも、毎日コツコツと目の前のやるべきことを成し遂げていくことができるので、それが後になって、「いつの間にかこんなにも出来ていた」と気付かされることになります。
 私たちは、偉大な成果、功績を残した有名な指導者やプロアスリートと呼ばれるような人たちの輝かしい姿を見て、「あの人は才能に恵まれていたんだよ」と一言で片付けてしまうことがあったりしますが、そんな人たちであっても日常生活では、私たちと同じように毎日やるべき必要な事や練習に取り組んでいます。その日々の行動の積み重ねが、やがて実を結ぶ時がやって来ます。そのために、集中して取り組むことは、どんな人にとっても必要不可欠ではないかと思います。

罪の問題を抱えていると集中できなくなる

 しかし、私たちが毎日仕事や勉強に励む中で、もし、「集中して取り組むことが出来ない」とか、「すぐに他のことに心が向き気が散ってしまう」という問題があるならば、その原因が何なのかという事に注目する必要があります。
 その一つとして、苛立ちや怒りの問題があると思います。自分の思い通りに事が進んでいないことに対する苛立ちや焦りの思いであったり、周囲の人たちの自分に対する視線、評価を気にするあまりプレッシャーを感じて、「きちんとやらないと周囲から受け入れてもらえない」という思いが妨げとなって集中できなくなることがあったりします。また、人をさばいていたり、怒りを持ち続けていたりすることがあるかもしれません。否定的な思いを持ちつつ、仕事や勉強に集中することは決して出来ません。ヤコブは、「罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:8)」と言っていますが、怒りや苛立ちの思いを持ちつつ、神様に仕えることは出来ません。もし人に対してさばく思いや怒りの思いがあるならば、その人との関係の回復を願うこと、また、抱えている罪の問題を主に悔い改めて祈り、赦しを受け取らなければなりません。恐れや苛立ちがあるならば、主に信頼していないことを認めて悔い改めなければなりません。

神に心を集中させる時、力が与えられる

 私たちの内にある苛立ちや怒りの思いがぬぐい去られ、神様だけに心が向けられて行く時、私たちは目の前の仕事に、作業に集中して取り組むことができ、勉強に集中することができるようになります。聖書を読むことに、祈ることに集中できるようになります。人の話を聞くことに集中できるようになります。
 私は今、音響映像のご奉仕や、リトリートハウスのご奉仕で様々な機械や道具を使っての作業をすることなど、様々なご奉仕をさせていただいていますが、これらのことが少しずつ出来るようにされて来ているのも、教会でご奉仕させていただくようになってからのことです。それまでの自分は、何事にも興味は持つものの、面倒なことはやりたくないというのが前提にいつもあったので、自分の好きなことの範囲でしかやらないとか、面倒になったら途中であきらめてしまうということがほとんどでした。しかし、ご奉仕させていただく中で、面倒だと感じるようなことに面と向き合うこと、そして何より、神様に心が向けられていく中で、集中して取り組むことの喜びを知ることが出来ました。そして、さらに深く知りたいという更なる興味、関心の思いが与えられ、やる気が湧いて来て、進んでやりたいという思いが与えられています。私たちは、神様に集中する中で、やる気が与えられ、多くの事を成し遂げて行くことが出来ます。ですから、いつも神様に心を向けつつ、仕事や勉強、家事育児に励んでまいりましょう。(岩下 栄作)

22.01.16 みそばにいる幸せ



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「詩篇73:27-28 見よあなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き 不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。 私は 神である主を私の避け所とし あなたのすべてのみわざを語り告げます。」

幸せって何だろう

 毎月送られてくる小冊子に、「幸せって何だろう」というタイトルのコラムがあります。様々な著名人が、自分にとって何が幸せなのかということを綴っているもので、毎回興味深く読んでいます。ある女優は、家庭菜園で子どもと農作業をしていると、野菜の成長とともに子どもの成長を感じて幸せだと言います。ある芸人は、孤独を愛し一人キャンプをしているときが幸せだと言います。ある小説家は、抱いていた夢をあまりにも早く叶えてしまったが、幸せをめいっぱい感じることは小説家として前進するエネルギーを失ってしまうことなので、幸せになりたいと願い続ける状態がベストなのだと言います。
 人が何に幸せを感じるかはそれぞれですが、どんな人も自分にとっての幸せを求めて生きているのだと思います。お金があれば
幸せだと思いますからそのためにせっせと働きます。あの学校に合格できれば幸せ、あの会社に就職できれば幸せと思いますから一生懸命努力します。家庭生活が幸せだと思いますから、家族のために一生懸命尽くします。あるいは、大きな目標はないけれど、日々生活している中に小さな幸せを見つけることが喜びなのだという人もいるでしょう。

すべては空しい

 イスラエルの王で栄華をきわめたソロモンは「私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女(そばめ)を手に入れた。こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。(伝道者2:8-9)」「私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(同2:11)」と言いました。多くのすばらしい財宝や人材を手に入れ、諸外国の王たちからも賞賛されるような知恵を持つソロモンはどんなに幸せであっただろうと思いきや、すべては空しい、と言うのです。どんなに立派な地位や財産を手に入れても、決して幸せになれない人間の姿があります。そしてソロモンは「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者12:13)」という結論に至ったのです。

みそばにいるとは神の命令を守ること

 ところで、冒頭の詩篇の作者は、「私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。」と言いました。彼は、神を敬わない不信仰な者が繁栄し、民の人気を集めていることを見てねたみを覚え、神を疑い心乱れていました。しかしその苦悩の中で、問題の解決は、自分の知恵や力によることではなく、神様によることを悟りました。彼は祈り求める中で、「神様のみそばにいることが幸せ」なのだと立ち返ることができたのです。イエス様は「わたしにとどまりなさい。(ヨハネ15:4)」と言われましたが、みそばにいるとは、私たちが神様から離れることなく、いつも神様にとどまっていることです。そしてとどまっているということは、ソロモンが神を恐れよ。神の命令を守れ。」と悟ったように、神様のご命令を守って生きるということです。
 私は最近、自分が人から受け入れられないと思い込み、思い悩んでいるうちに、受け入れられようとする思いで心の中がいっぱいになり、いつの間にか自分が与えること、愛することを忘れてしまっていたことがありました。とても苦しくて平安がなくなってしまいました。その中で神様が、「あなたは愛することが必要ではないのか」と指摘してくださり、愛することを始めたら、平安が戻ってきました。もう決して神様のみそばから離れないでいたい、与える生き方がしたいと思いました。立ち返らせてくださった神様に感謝します。

みそばにいる幸せ

 神様の命令を守って生きることが私たちにとって幸せなことです。イエス様は、心の中にある思い「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり(マタイ15:19)」が人をけがすと言われました。救われた私たちもみな依然として罪人であり、心の中には罪の思いが潜んでいます。たとえばどんなに不当なできごとがあったとしても、人を愛さない思い、赦さない思いをほうっておくと、いつの間にか心は疲れ果て、平安がなく、ものごとに集中することもできません。「愛しなさい」という命令が私たちの心を罪の思いから守ります。またパウロは「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。(エペソ5:18)」と命じました。少しくらいと思っても、酒に酔うことは神様のみそばから離れてしまうという深刻な結果を招くことになります。神様の命令に真剣に耳を傾けなければなりません。
 神様の命令を守ろうとするとき、私たちの心の思いは罪から守られ、平安で幸せな生活を保つことができます。いつも神様のみそばにいる者となって参りましょう。(鈴木千史)

22.01.09 神を賛美して生きることが喜び



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「詩篇34:1 私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある。」

ベートーヴェンの曲に込めた思い

 「年末と言えば『第九』」と言われるほど、日本では年末の代名詞となっているベートーヴェンの交響曲第九番ですが、昨年末にニュースの特集の中で、NHK交響楽団による第九演奏会の本番までの舞台裏が取材されていたのを観ました。毎年、海外から指揮者や声楽家を招いて行われるそうですが、昨年は海外からの渡航制限もあり、ゲストを招くことが出来なくなったそうです。その影響で、本番一ヶ月前から、メンバーを入れ替えて臨むことを余儀なくされました。今回指揮を任されたのが、尾高忠明さんという50年のキャリアを持つ方でした。尾高さんは、ベートーヴェンが書いた第九の楽譜と向き合い、彼がこの曲で何を表現したかったのかを知ろうとしました。強く演奏して欲しい箇所には、赤鉛筆で力強くフォルティッシモ(強調して演奏する記号)が記され、優しく演奏して欲しい箇所にはそのことを表す記号が記されています。尾高さんは、彼が曲に込めた思いを知りそれを表現しようとして指揮を執りました。ベートーヴェンは、難聴に苦しみ、また孤独を感じながら晩年を過ごしていたようです。そのような中でこの交響曲第九番が完成し、演奏されました。この曲をもとにして作られたのが、聖歌「みかみのあいをば」という曲です。他にもバッハやモーツァルトなど、有名な作曲家が作る曲の中に神を賛美する曲を見ることが出来ます。作曲から何百年も経った今でも演奏し続けられていることは、人々の心の中に神を求める思いがあるからではないでしょうか。

人は、神を賛美するために造られた

 私たちも礼拝で賛美をしますが、それは、神様をほめたたえるためです。私たちの心が神様に向けられて行く時です。聖書交読の時に読む詩篇も、賛美が一貫したテーマとなっています。主を賛美するというのは、神様の素晴らしさを、私たちの口を持ってほめたたえることです。「神様、あなたがこの素晴らしい大空、海、太陽、山々を造られました。あなたの御手のわざです。あなたは何でもお出来になられるお方です。不可能のないお方です。あなたは、聖いお方で、全く汚れ、罪のないお方です。あなたは、愛に満ちておられ、あわれみ深いお方です。その素晴らしさのゆえに、私はただ、あなたをほめたたえます。感謝します。」と、主のご性質、みわざを感謝して、主をほめることです。
 私たちはみな、神によって造られた存在です。ですから、造り主であられる神様を愛し、従い、賛美して生きることは、人間としてごく当たり前で自然なことです。人はみな、主を賛美するために造られた者です。

あらゆるときに主を賛美する

 しかし、私たちの心に主への賛美がなくなると、私たちは喜びを失ってしまいます。関心が人のことばかりに向いてしまいます。自分が苦手だと感じる人と関わりを持つ時に、「あの人はどうも苦手だなあ。話が合わないし、あまり関わりたくないなあ。」と思うと、途端に心に喜びがなくなり、人に対する恐れ、不安、心配の思いが心を支配するようになります。「また何か自分のことを悪く言われるのではないか」と考えたりします。しかし、その状況の中で主を賛美しなければなりません。主は私たちに対して、良きご計画を持っておられます。主は目的があって目の前の状況を起こしておられます。ですから、主のなされることを嫌がってはなりません。どんな状況に置かれようとも、置かれたその場所で主を賛美し続けることが、私たちが一番にするべきことです。
 ダビデは、サウルに殺されるかもしれないという恐怖の中、ガテの王アキシュのもとに身を寄せますが、そこでも身の危険を感じて王のもとから逃れます。彼は、襲ってくる恐怖、苦難の中で、その口から出て来る言葉はいつも主への賛美でした。私たちも、様々な心配や不安、恐れに囚われてしまうことがあると思います。しかし、そんな状況の中でも主を賛美したいと思います。

神を賛美して生きる時、平安がやって来る

 私たちは、主のみもとで主を賛美して生きる時、平安を得ることができます。主を賛美して生きることが、みこころにかなう生き方です。
 私は、救われてから長年、造り主を本当には認めないで心に平安がなく過ごしていました。ですから、心に喜びがないのに喜んでいるかのように振る舞い、とても疲れていました。しかし主に賛成して、今いる場所、置かれている環境を嫌がらないで、主のなされることを喜び、心の向きが変えられたことによって、平安を得ることが出来ました。主を賛美し、祈り、みことばとともに歩んで行きたいと願うように変えられました。
 神学者でもあり、初期のキリスト教会において大きな影響を与えたアウグスティヌスは、自身の著書の中で、「あなたを讃えることが喜びであるように、それは、あなたがわれわれを、あなたに向けて造られたからです。そのため、われわれの心は、あなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません。」と記しています。それは彼自身が、神を知っていながら神から離れて、あの放蕩息子のように自分勝手に生きて、その中でもがき苦しみ、ついには神のみもとに立ち返って平安を得た経験を著書に記しているのです。
 主のみもとで、主を賛美して生きることが、私たちにとっての一番の喜びでありたいと思います。(岩下 栄作)

22.01.02 平安



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「イザヤ書26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

 主にある新年、あけましておめでとうございます。今年のテーマは「平安」です。世の中は依然としてコロナ禍にあり、新種のオミクロン株の感染の広がりが心配されています。その中でこの年末年始は、昨年よりも帰郷や旅行で移動する人の数が増えているようですが、多くの人は心の中に漠然と不安をかかえながらの休日となっているのではないでしょうか。しかし神を信じる私たちは、日常のさまざまなできごとが起こる中でも、いつも神様に感謝して祈ることによって心が守られ、全き平安をいただいて歩むことができますことを神様に感謝します。

平安がほしい

 私たちはいろいろな願いがあります。欲しい物やこうなりたいという思いが誰にでもあると思います。この年始めに、「今年はこれをやり遂げよう」と決意した方もおられるのではないでしょうか。しかしよくよく考えてみると、私たちが一番ほしいのは「平安」ではないでしょうか。心が平安であれば、仕事にも、勉強にも、子育てにも、遊びにも、またどんな目標であってもそれを達成するために集中することができます。いくら願いがあっても、心の中がいつも不安に満ちていたら集中することができません。しかし私たちは弱い者で、少しでも失敗したり、人から何かを言われたりすると、とたんに平安を失くしてやる気まで失ってしまう者です。ですからいつも平安でいたいと願います。

神様に信頼する

 冒頭のみことばは、「志の堅固な者」を神様は全き平安のうちに守られる、と教えています。「志」とは、「こうしよう」と心に決めることです。「神様に信頼しよう」と堅く心に決めて、どんなときにも神様に信頼し続ける人に、神様は平安を与えて守ってくださるという約束です。
 信頼するとは何をすることでしょうか。パウロは「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」と教えました。神様は善なるお方ですから、神様のなさることはすべて良いことです。私たちの目には良いことに見えなくても、神様の目には最善のことが起こっているのです。たとえば、救われる前、私は自己中心ゆえに家族が崩壊しそうになりましたが、そのことがあったので福音を聞く機会が与えられて、イエス・キリストを信じて救いの恵みに与ることができました。
 ですから、仕事に失敗しても、試験に合格できなくても、同僚や家族や友達とうまくいかないことがあっても、日常の中で起こるどんなできごとに対しても感謝して祈ることが、神様に信頼する姿勢です。そうして信頼する中で、どうしてこのような状況なのに、こんなに平安でいられるのだろう、と不思議に思うような平安が与えられます。

わたしの平安を与えます

 ところでイエス様は弟子たちに、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)」と言われました。「わたしの平安」というのはイエス様ご自身の平安です。イエス様は父なる神様と完全に親密な関係をお持ちでした。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。(ヨハネ5:19)」。イエス様の平安は、父なる神様のみこころに完全に従って歩まれた中で得られた平安です。そして、その平安を私たちにも与えてくださると約束してくださったのです。

みこころを求める

 私たちもまた神様と親密な関係を持つことができます。私たちが祈り、また聖書を読んで神様のみこころを求めようとするとき、私たちのうちに住まわれる聖霊はみことばを思い起こさせてくださり、私たちのするべきことを教えてくださいます。私は最近、みこころを求めて聖書を読んでいる時に、「愛がなければ、何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)」と語られて、悔い改めて心が正され、平安が与えられたことがありました。
 私たちが堅固な志を持って神様に信頼し、いつも神様のなさることに賛成して感謝して祈り、いつもみこころを求めて従おうとするとき、神様は全き平安を与えてくださいます。今年一年も、神様のメッセージに耳を傾け、感謝して祈り、聖書を読むことによって、神様との親密な関係を築き、いつも平安をいただいて歩んで参りましょう。(鈴木千史)