13.12.29 先頭に立って戦う

 先頭に立って戦う


「申命記 10:11 民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」



今年も最後の日曜日となりました。この一年も、また主の恵みの中にあったことを感謝します。主は私たちとともに歩んでくださる方です。あなたが苦しんでおられるときに、主もまた苦しまれていることを感謝します。
私たちは、主の知らないところに、放って置かれることはありません。主は、私たちの苦しみを知ってくださっておられる方です。もし、あなたが苦しむ一年であったとしても、主の御愛の中に生かされていることを信じましょう。
今週もまた、主がお語りくださるみことばを行なってまいりましょう。

先頭に立って進め

このことばは、神様がモーセに対し、語られたことです。「民の先頭に立って進め」が主の命令でした。そして、「そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう」という約束なのです。指導者は、常に、「民の先頭に立って進」むことが求められます。
ダビデによって建国されたイスラエルは、戦いが一通り落ち着いて、ダビデ自らが戦いに出て行かなくても、部下たちに任せれば大丈夫な状況になりました。ダビデとイスラエル国家に余裕が生まれて来たわけです。そのようなとき、ダビデは、部下を送り出して、家で昼寝をするようになりました。このような生活の中で、ダビデにとって、信仰的には無防備な状況が生まれて来ました。そこで、何が起こったかというと、彼は姦淫の罪を犯し、それを隠すために、殺人まで犯してしまうという事態を招いてしまったのでした。
それまで、「先頭に立って」戦っていたダビデでしたが、そうしなくなったときに、無防備になって行きました。私たちもまた、自らが「先頭に立って」戦う意識を失ってはならないことです。

イエス様が先頭に立たれる

「ヨハネ 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」イエス様が、ご自分が羊の門であることを示されました。門番の声を羊は知っているので、門番が「先頭に立って」行くと、「声を知っている」羊は、門番の後を付いて行くのです。もし先頭に立たなければ、羊は右往左往するだけです。
イエス様が先頭に立たれているので、私たちはその後を付いて行くことができるのです。
さて、私たちはイエス様のなされることを見て、その後に付いて行く者ではありますが、イエス様の御心を自分の心としなければなりません。そうしたくてするということです。他に選択がなくて、付いて行くということでもなく、本心は付いて行きたくないけれど、そうしないとまずいからと言って付いて行くものでもないということです。イエス様のなされることに大賛成で、自らの意志もその方向を目指しているので、喜んで進んで行くという次第です。つまり、私たちにとって、主の示されること、主のなされることが、自分の望みであり、自分の願いでなければなりません。
できるできないは関係なく、賛成しているかが問われます。もし賛成をしていないのであれば、反対をしているのですから、主とともに歩むことは不可能なことです。
そういうことですから、私たちもまた、主の御心である「先頭に立って」歩むことを本心としなければなりません。主に導かれ、従う者でありながら、その精神は「先頭に立」つということです。
「ヨハネ 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

先頭に立ってすべきこと

神様の戒めは「愛しなさい」です。主を愛し、人を愛することが、主の私たちに命じられていることです。見えない神様を愛することは、見える人に対して愛することによって、実現すると信じます。イエス様は「マタイ 25:40 まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。
主が悲しんでいるところからは、離れなければなりません。その人が苦しむまで、放って置いて良いでしょう。しかし、人が苦しむなら、主もまた苦しまれます。私たちはそこに、近づかなければなりません。人が苦しんでいるなら、その人のかたわらに立ち、祈り、なぐさめ、主の愛を伝えることです。このことをさげすみ、あざ笑う声があるなら、私たちは「先頭に立って」戦うべきです。その反対の声は、私たちの心の中にあります。恐れ、恥と思う心は、私たちの中にあります。いよいよ、自分から進んで「先頭に立」つときが来たのです。

13.12.22 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (16)神に働いていただく

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (16)神に働いていただく


「マルコ 10:43-45 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

仕えなさい

イエス様は、私たちに対して、「みなに仕えるものになりなさい」「みなのしもべになりなさい」と教えられたのです。
私たちはともすれば、人を指導しようとしてしまいますし、人を変えよう、人を正そうとしがちです。自分が正しいと思うからです。しかし通常は、そのような働きはことごとく失敗をきたします。私たちが扱っているものは、人間の罪であり、罪ある人間であるからです。
自分が罪人であることをわきまえないで、自分の義の基準によって、人をさばこうとすれば、当然、正しい働きから迷い出ることになります。罪ある自分の態度が、かえって人を傷つけることになりますし、争いが生じることになります。そのようなことになるのであれば、自分がかえって、悪魔の道具として使われているのだと知らなければなりません。
私たちの人に対する態度は、仕える態度でなければなりません。人を導こうとするなら、しもべとなってその人に仕えることです。忍耐やへりくだりの必要なことですが、そうすることが、人を正しく導くことを可能にするのです。なぜなら、私たちの扱う罪というものの性質は、そのような方法でしか、勝利できないものなのです。
人が自らへりくだり、神様にその赦しを求めなければ、罪の問題は解決しません。争ったり、指摘したり、敵対して、非難したりしては、問題の解決はありません。それどころか、悪魔の思うつぼであって、二人とも穴に落ちることになるのです。
「マタイ 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
もし、正してあげたいと思う人がいるなら、不必要に立ち入ることをせず、しかも組せず、攻撃をかわしつつ、仕えることを旨としている信仰の友と心をあわせ、忍耐をもって見守ること、が仕えることです。そのような中に、御心が見えて来ます。

イエス様の手本

私たちは、指摘され、指導され、正されなければならない存在です。誰でも素直になれば、このことを認めるでしょう。しかし、主は、私たちに対して、強制的に何かをなそうとはされていません。常に、私たちが自主的に、立ちあがり、悔い改めて、主に立ち返ることを助けてくださろうとしています。
その働きの源は、主の御愛です。主ご自身が私たちのしもべとなって、私たちに仕えて下さるのです。そうされることによって、私たちを正しい道に向かわせるのです。
誰でも、愛されてはじめて、自分の罪を意識します。愛されてはじめて、素直になれます。素直になってはじめて、神様に心開くことができるようになります。
イエス様は、十字架により「贖いの代価として、自分のいのちを与え」てくださいました。誰でも、素直になれば、神様に受け入れられ、神様に働いていただけます。
イエス様の目的は「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」ですから、私たちはイエス様に仕えていただかなくてはなりません。イエス様に働いていただいてこそ、私たちは正しく立ち行くのです。
イエス様に仕えていただいてはじめて、私たちも人に仕えることができます。またそれしか、人を助ける方法はないのです。

私たちに働くために内に住まわれる主

イエス・キリストを自分の救い主と信じる者の内に、主は住んでくださっています。それは、私たちに、主がお働きくださるためです。
働くのは私たちではなく、キリストであることを理解しなければなりません。そこを間違えて、私たちは頑張ろうとするのです。
常に自分のしていることに確信がありません。ひねくれたものの見方をし、人を批判しています。働くのは自分でないということは、自分に死ぬということです。主に働いていただくのです。これが、キリストが自分の内に生きているということです。
主に働いていただく、生き方をするなら、私たちの人生はゆるぐことがないのです。

13.12.15 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (15)神に従う

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (15)神に従う


「ヤコブ 4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」


神に従いなさい

聖書は、私たちが神様に従うことを命令しています。多くの人は、このような命令を勘違いして、自分を縛り、自由を奪うものだと、思っています。しかし実際は全くの逆です。神様に従うことが、本当の自由です。実際に、私たちが願い続けて来た、自由な生き方がそこにあるのです。
「楽しく生きたい」「希望ある生き方をしたい」「健康でありたい」「豊かでありたい」「幸せになりたい」の願いの実現されるところ、それが神様の支配です。
ですからまず、私たちは神様に従わなければなりません。それが幸せになる方法です。もし、私たちが苦しんでいるなら、あるいは、人生が充実していないなら、その原因はただひとつ、神様から離れているからなのです。
神様に従いたいという意識においては、少しも緩みはないと言える(たとえできていなくても)でしょうか。そうでなければ離れているのです。もう少し詳しく言えば、従えているかどうかが、問われているのではなくて、従いたいという願いに、少しも偽りはないかと問われています。
もし、従いたいと強く願う人が、従えていないなら、そのことを悲しんで、もがくことになります。その場合には、神様のそばにいるのです。そして、その解決は、すぐにもなされます。
実際に従っていないのに、平気でいるなら、神様から離れているのです。この場合は、低調な状態が長く続くことになります。

壊す者

聖書は、人は罪人であって、自らの人生を壊しているものだと教えます。「ローマ 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。」悪魔は、この点において、私たちの心に働きかけます。
おそらく誰ひとり、本気で、「悪くなりたい」「不幸になりたい」と願う人はいないでしょう。しかしながら、多くは、そのようなことを自分自身に言い聞かせているのです。「失敗したらどうしよう」「私は人に受け入れられない」「愛されるはずがない」「やってられない」「もういやだ」「やり直せるはずがない」などのことを自分で自分に言っています。
私たちの、神様に従わないという、罪に悪魔は働きます。本当は幸せになりたいのに、本当は積極的になりたいのに、悪魔はその心を壊すのです。
罪とは、神様から離れ、実際に悪魔が働く領域に生きることを選択していることです。神様から離れることは、即、悪魔の支配に身を委ねることです。それで、少しでも神様から離れれば、私たちの良い志は、いつも壊されて行くのです。

悪魔に立ち向かう

聖書は「悪魔に立ち向かいなさい」と命令しています。それは、私たちが、何かの力と実際に戦うことを言っているのではありません。悪魔は神様に勝つことはできません。神様の敵ではありません。悪魔はすでに敗北している存在です。
しかし、私たち自身の場合は、悪魔に勝つことはできません。そのような力はないからです。私たちが悪魔に勝つ方法、それが神様に従うことなのです。私たちが神様に従って、悪魔に立ち向かえば、悪魔は私たちから逃げ去ります。私たちの内に住んでおられる神様を見るからです。
しかし、私たちが神様から離れているなら、悪魔は私たちを容易に打ち負かすことができるのです。つまり、あなたは、敗北や否定的なことを考え始める、ということです。
私たちが神様に従うなら、本気で神様を信じるなら、神様の言われることを大歓迎します。神様のご支配とみことばに縛られることを好みます。そこに本当の自由を味わうのですが、悪魔は指一本もあなたに触れることができないのです。たとえ、あなたが苦境に立たされても、そこであなたが考えることは、神様から来る勝利の考えであり、積極的な考えです。あなたの心は壊されることはありません。
「神様に従う」というみことばを、このように行なって土台としているならば、決してその人生という建物が壊れることがありません。

13.12.08 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (14)変わらない神

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (14)変わらない神


「マラキ 3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。」


変わることのない神

神様は、決して変わらない方です。それは、神様のお考えが変わることがない、ということです。
神様は、イスラエルを祝福すると言われましたが、その約束は、決して変わらないのです。神様から離れて、苦しみの中にある民に対して、神様は「変わることがない」と宣言されます。
もう完全に滅んでしまうのか、と思われる苦しみの中でした。しかし、先祖に「祝福する」と約束された神様のことばは、今も生きているというのです。この約束のゆえに、イエス・キリストがお生まれくださり、神様はその約束をお果たしになられるのです。
「Ⅰペテロ 1:25 『しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

私たちに対する約束

神様は、アブラハムという先祖を選び、彼の子孫を祝福すると約束されました。ヤコブ(イスラエルのこと)は彼の子孫です。そして、さらにその子どもたち、その子孫が、アブラハムへの神様からの約束のゆえに、祝福されるのです。ですから、神様は「ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」と言われたのです。
今日、私たちイエス・キリストを信じる者は、アブラハムの子孫と呼ばれます。「ガラテヤ 3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
あなたがイエス・キリストを信じるなら、その信仰によって、アブラハムの子孫です。そして、あなたは、神様から祝福されるのです。この約束は変わることがありません。
あなたは言わなければなりません。「わたしはアブラハムの子孫だから、必ず神様によって祝福される」と。

変わる私たち

私たちは、良くなろうとして、「私は良くなる」とか「今日から私は変わる」と決意することが、常です。落ち込んでいる時は、そのような決意すらできませんでしたから、前向きに決意できる自分を嬉しく思ったりします。しかし、「変わらなければ」というその思いはありながらも、段々とその思いは弱くなり、元の変わらない生活に戻ることを経験して来ました。
神様は変わらない方ですが、私たちの決意は変わってしまうのです。と言うか元に戻ってしまうのです。元の変わらない自分にです。悪い意味での「変わらない自分」に「変わってしまう」のが、自分なのです。聖書は「エレミヤ 17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」と言います。
神様は約束通り私たちを祝福してくださるお方ですが、それを信じる私たちこそ変わってしまって、神様から離れてしまうのだということを知らねばなりません。

引き戻される喜び

必ず祝福してくださる神様から、離れないでいれば良いのです。私たちが祝福されることは、私たちの側の決意によることではありません。神様が変わらない方なので、一旦約束されたことは必ずなるのです。そのためには、約束を果たしてくださる神様のそばに、いつもいることです。
イスラエルの民は、神様から離れてしまいました。それで苦しみました。しかしその苦しみは、彼らに、彼ら自身が神様から離れていることが原因なのだ、と悟らせるために必要なことでした。神様のご計画は、彼らをご自身のそばに引き戻すことでした。彼らに約束した祝福を果たすためにです。
私たちは必ず祝福されるのですが、まず私たちは神様のそばに引き戻される必要があるのです。「主であるわたしは変わることがない」とのみことばを行なう者は、神様に引き戻されることを喜ぶのです。引き戻される者は、決してゆるぐことがありません。

13.12.01 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (13)神の手順に導かれる

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (13)神の手順に導かれる


「ピリピ人への手紙 2:12-14 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」

目標を達成する喜び

私たちは「このようになりたい」とか「これを実現したい」とか目標を持ちます。そして、望んでいることが現実のものとなれば、どんなに良いか、と考えます。しかし、本当のところ、それが当たり前のようにして、手に入ることでは満足しません。自然に実現していることには、喜んだり感謝したりは、しないのです。
たとえば、あなたは歩くことができるでしょうか。病気や障害があって、歩くことができない人がいます。彼らの望みは「歩くことができるようになりたい」であると思います。
一方、私たちは歩くことができます。つまり、その望みが実現しているのです。しかし、歩くことができることに、特別な感謝はありません。本当は今現在歩くことができることが、感謝なことなのです。
人間は、今手にしていないことを目標として、それを手に入れることが望みです。しかし、それが手に入ったということだけでは、喜びはほとんど感じないのです。

過程が評価されたい

たとえば、オリンピックを目指す選手の場合、金メダルを手に入れることが、何よりも願っていることではないでしょうか。しかし、そうだからと言って、ある日、宅配で金メダルが届けられたとしても、嬉しくはないでしょう。
金メダルにふさわしい、競争を制して、今までの練習の過酷さに報われる達成として、評価され与えられることが嬉しいことです。金メダルを目指すというのは、金メダルを所有できることを望んでいることではなく、そこに至るまでの過程と引き換えに、手に入れたい結果、つまり到達点を求めるということです。
結果に至るまでの過程が、実際は、到達することよりも大きな意味を持っているのです。

過程が意味を持つ

このように説明するときに「過程は良いから結果だけが欲しいのだ」という人がいるかも知れません。「宝くじで10億円、当たればどんなに良いか」と考えている人は多いでしょう。
仮定の話をすることも空しいことですが、宝くじが当たったとして、そのときは感謝し喜ぶことでしょう。ところが、ほどなく、お金を持っている自分が当たり前の自分となります。以前は、お金に困っているいやな自分でした。しかし今は、お金があるいやな自分であるだけです。
同じ額を事業で成功した人の場合はどうでしょうか。彼は自分の目標のために、自分をささげて来ました。勤勉であり、人と社会に貢献すべく、愛の思いを注いできました。いくつかの困難と問題を乗り越えて来ました。彼は事業で成功するためにはどうしたら良いか知っています。今手にしているお金よりも、自分の今までの過程に価値があることを知っています。お金をどう扱えば良いか知っています。これからの人生もまた、次の目指すところへと献身して向かっている途上です。彼は人に影響を与え、人に自分の考えを分かち合って行きたいと願っています。今までの過程に確信があるので、今現在が満たされており、これからの未来にも希望を持っているのです。

手順を踏ませる神様

今日のみことばは、神様の前に従順であり、神様に動かされることが、重要であることを教えています。神様は「みこころのままに、あなたがた(従順な者)のうちに働いて志を立てさせ」てくださるお方です。目標を持たせてくださるのです。そして、その目標は必ず達成されます。神様が「事を行なわせてくださる」からです。神様は、神様が与えた志(あなたの目標)の実現のために、あなたを動かしてくださいます。つまり必要な手順を踏ませてくださるのです。そして、その目標の実現とともに、それを手に入れる過程を生きる喜びを与えてくださるのです。神様の与えてくださるものは、「達成」と「事を行なって手に入れる」という二重の喜びなのです。
あなたに踏ませたいと願っている神様の手順は何なのでしょうか。まず悔い改めをさせることかも知れません。忍耐を持つことなのでしょうか。人を愛することが嬉しくなることでしょうか。人に対して犠牲を払うことを喜びと感じることでしょうか。放り出したくなるような出来事の中で、それでも神様に信頼することが揺れ動かないことでしょうか。勤勉な人になることでしょうか。
いずれにしても、長い年月の必要なことであるかも知れません。しかし、この踏まされる手順の中にこそ、到達点に向かう日々の生活の過程にこそ、本当に手に入れたい価値あるものがあるのです。私たちは、いつも二重の喜びを主から与えられるのです。
神様の踏ませる手順を歓迎し「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」というみことばを行なうことを土台とする人が、ゆるがない人生を生きることができるのです。

13.11.24 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (12)受け入れる

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (12)受け入れる


「ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

信仰とは受け入れること

聖書は「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と言います。私たちに信仰がなければ、神様は喜ばれないということですが、信仰がある、あるいは信仰がない、ということはどういうことを言うのでしょうか。
神様は「存在される」方です。見えないお方ですが、実際おられるお方です。神様は、モーセに対して、ご自分の名前を「出エジプト 3:14 わたしはある」と明かされました。私たちも、神様は「存在される」方であることを、受け入れなければなりません。神様の言われることを「受け入れること」が信仰です。
神様に近づこうとする者は「わたしはある」と言われる神様のみことばを、受け入れなければなりません。
「信じなければならない」と、冒頭のみことばは言いますが、「信じる」とは、神様の語られたみことばを受け入れることに他なりません。
また、イエス様は「ヨハネ 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と言われました。私たちは「イエス様の名前」によって祈ります。つまり「求める者」です。神様が「報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」
それが信仰なのですが、その意味は「わたしはそれをしましょう」と言われた、イエス様のみことばを受け入れることに他なりません。受け入れなければ、神様に喜ばれないのです。受け入れて、初めて、神様の約束が、私たちに成就することになります。

神様の側にすべてがある

神様の働きにおいて、私たちの側ですることは、何もありません。強いて言えば、「受け入れること」だけです。たとえば、神様は、私たちが救われるために、私たちの身代わりとして、御子を十字架に付けてくださいました。私たちは、その事実を、聖書のみことばのとおりに、「受け入れること」だけが求められています。
私たちをきよめ、私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもとし、私たちの内に住まわれることは、すべて神様のなされることです。
私たちがすることは、救いにおいては、十字架のことばを信じること、すなわち「マルコ 1:15 悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた、みことばを素直に信じて、悔い改めることを受け入れ、イエス様の十字架が、自分の罪のための身代わりであった、と言われていることを、受け入れることだけです。赦すことも、きよめることも、子どもとされることも、みな、受け入れた私たちに、神様がなさってくださることです。私たちの努力や熱心さが関係することはありません。

受け入れることがみことばを行なうこと

私たちは、ともすれば勘違いします。神様の約束に対して、自分の信じ方に「何か足りない所がある」という具合にです。
神様が良くわからないのは「存在される」方であることを信じる信じ方が弱いからだと思ってしまったりします。思いの強さを問題にして、信じることとは思いの強さであると考え、強く、強く信じこもうと努力することになります。信仰を感情の強さに置き換えてしまっているのです。
「信仰」とは、神様の語られたみことばを受け入れることなのです。疑いがあっても無視します。揺れ動いていても無視します。良くわかっていなくてもかまいません。自分が汚れていて、弱いと感じても、かまいません。「受け入れること」をしたならば、後は神様の働きにゆだねてかまわないのです。私たちはするべきことをしました。神様はご自身でなされた約束によって、私たちに近づいてくださいますし、私たちに報いてくださるのです。
私たちは信じられる気持ちになることに、こだわる生き方をして来ました。信じられる感じがしなければ、我慢できないのです。そこに自己中心があります。神様にゆだねられないのです。
感じにこだわることなく「受け入れること」が訓練される必要があります。私たちに必要なのは、それでも受け入れるという忍耐です。「ヤコブ 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」
神様のみことばを行なうこととは、みことばを受け入れることです。それだけで、私たちの人生はゆるぎません。

13.11.17 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (11)行いと真実をもって

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (11)行いと真実をもって


「Ⅰヨハネ 3:18-22 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」

ことばや口先だけでなく

「愛しなさい」が神様のみ心です。冒頭のみことばでは「行ないと真実をもって」愛そうではないか、とすすめています。口先だけで「愛」を語るのは、難しくありません。しかし、「愛の行動」ということになると、とても困難を覚えるのではないでしょうか。相手が、快く受け入れてくれないとき、愛する思いを持ち続けることが難しいと感じます。反抗されたり、いどまれたりする時はなおさらです。
相手のそのような態度を、ただ非難したくなります。相手と同じようにやり返して、言い負かして、自分の正しさを証明したい気持ちがつのって来ることです。本当に難しいことです。

人にはできないことでも

しかし聖書は、「真実の愛」が、そのような相手の反抗をも、乗り越えるものであることを教えています。忍耐をもって、愛することを学ばねばなりません。
まずは、もともとそのような愛する能力のない者であることを認めます。人にはできない領域のことをやろうとしているのだ、と理解しなければなりません。
私たちの内に住んでくださるようになった神様が、できない私たちに、できないことを命じておられるのです。人にはできないことを、させてくださる神様が、私たちとともに、おられるのです。
ですから、「できない」などとは言わないで、「してみよう」と言わなければなりません。私たちは、口先だけではなく「行いと真実をもって」愛することができるのです。
ヤコブの手紙では「ヤコブ 2:17 信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」と言っています。たとえ、困難と思えても、「愛する」ことには、とても大きな価値があります。

愛することの報い

さて、今日のみことばは「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます」と教えています。その理由は「私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているから」なのです。「愛すること」それが、神に喜ばれることです。「愛そうとする」とき、私たちは大胆に神様の前に出ることができます。「心に責められ」ることがないからです。
神様のみ前で「心に責められ」ることがなく、「大胆に」なれることは、大きな報いではないでしょうか。私たちは、自分の力で、いくら力んでも、本当には「心に責められ」ない生き方をすることはできないでしょう。それができるのです。

神様の御前

神様の御前とは、私たちの生活の、あらゆる時間、あらゆる分野でのことを言います。私たちが、神様の支配から逃れることは、できないことです。すべての生活の領域で、神様のご支配にあることを、理解しなければなりません。つまり、私たちは、いつも神様の御前に立たされています。
「愛する」とき、私たちは、いつも「心に責められ」ることがなく、「大胆」でいられるのです。
「行ないと真実をもって愛そう」とするとき、私たちは、みことばを行なうという土台の上に人生を生きているのです。私たちの人生は、倒れることがありません。

13.11.10 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (10)愛しなさい

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (10)愛しなさい


[マルコ 12:29-31 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」]

一番たいせつな戒め

聖書の教えによると、「愛しなさい」ということが、一番たいせつな戒めです。私は、神様を信じ始めた頃、愛するということのたいせつさを十分には分かっていなかったように思います。たいせつであるとは理解していましたが、神様を信じることに付け加えられるもの、くらいにしか考えていませんでした。「信じること」が何よりもたいせつと考えていたのです。
しかし、たとえ、強く、揺るぎなく信じることができたとしても、そこには「信じることができている自分」というものが、かたくなに存在しています。そして、実際には「主に服従する」という姿勢になっていない、という問題が生じます。そのような信仰であれば、全く自分の信じている気持ちの強さにたよっていることであり、力がないことです。

神は愛

イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」の二つが、たいせつな戒めである、と教えられました。神様を信じるということは、神様を愛するということであることは、明白です。愛することなしに、信じることは、成り立たないのです。また、私たちが祝福を受けるためには、この愛を、同様に、人にも向けよと命令されるのは、当然のことなのです。
神様ご自身が「愛」であられるのです。「Ⅰヨハネ 4:16 神は愛です」から、愛することなしに、神様を知ることはできないのです。聖書は「Ⅰヨハネ 4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」と言います。「愛」が何よりもたいせつなことなのです。

愛し合う中に神様がおられる

さらに聖書は、私たちが互いに愛し合うなら、神が私たちの中におられると言います。「Ⅰヨハネ 4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
神様は見えないお方です。人は、神様を見たがります。存在する証拠を見せよというわけです。そのとき人々に、見えない神様を見せる方法は、私たちが互いに愛し合うことです。愛し合う私たちの中に、神様は臨在されるお方です。
愛は武器
悪魔は、ことのほか「愛」を嫌がります。神様が「愛」であるなら当然のことですが、「愛」を忌み嫌い、「愛」を壊そうと働きます。愛する気持ちをくじき、愛するやる気を失わせるように働きます。私たちのうちに、人を裁き、非難する思いを募らせるのは、悪魔の望むところです。仲たがいや、離婚、断絶といったことへ、進ませたいのです。
一方、愛することが悪魔の嫌がることであるので、私たちが人を愛することによって、悪魔に打ち勝つことができます。戦いの武器として「愛」は最強のものです。
言うまでもないことですが、人の問題の原因は「罪」です。人の不服従がその人にわずらい(不幸)を招いています。わずらって、どうしたら良いか分からなくなっている人は、そのことを知らないか、あるいは知ってはいても、真剣に信じていないかのどちらかです。その人のうちで、神様を愛さない、人を愛さない、ということが問題視されていないのです。「こんなんじゃいけない」と主に立ち返らなければなりません。
あなたの愛する人は、そのような状況にありながらも、あなたのアドバイスに耳を傾けないかもしれません。そればかりでなく、かえって反抗し、敵対心をあらわにして来るかもしれません。そのようなとき、あなたは、相手をいつくしんで見、いとおしんで相手を包むように対応しなければなりません。「これでもか」と愛し続けるのです。相手の悪意に対して、最高の善意を持って、対応する必要があります。「ローマ 12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」です。
人が進んで、「こんなことをしていてはいけない」と、神様に立ち返るのは、説得されたときではなく、愛されたときなのです。
愛こそが武器です。悪魔の、敵対心をあおるという誘惑が、役に立たなくなります。人の心にある憎しみや、憤りの思いが、なえてしまいます。言い負かしても、勝利とはなりません。進んで神様に立ち返るという勝利は、愛こそがもたらすものです。
「愛すること」が自分の考えの土台となっているなら、それは「岩」です。どんな洪水や嵐が来ても、びくともしません。私たちは「愛しなさい」というみことばを行なうことの土台(岩)の上に、人生を築きます。

13.11.03 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (9)聞きなさい

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (9)聞きなさい


「申命記 6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」



聞きなさいイスラエル

神様は、常に、イスラエルに向かって「聞きなさい」と言われました。それは、神様の言われることばに聞き従うことが祝福されることであり、神様のことばに聞き従わないことが呪いであるからです。
聖書では、「人は、神様のことばに聞き従わないで、不幸を味わっているのだ」と言われています。それでは、祝福されること、すなわち幸せであることは、どのようにして実現されて行くのでしょう。
それは、神様に聞き従うことから始まるのです。それゆえに、イスラエルを愛しておられる神様は、「聞きなさい」と語り続けてくださるのです。
今日、私たちは、イエス・キリストを信じて、イスラエルの民と同じ立場を与えられています。ですから、「聞きなさい」とは、私たちに対して、神様が言われていることです。

渦巻く色々な声

しかし、イスラエルがそうであったように、私たちの心の中には、実際に、色々な声の聞こえて来ることです。神様のことばだけではありません。その中で、私たちは、神様のことばを選り分けて、聞く必要があります。そうすることが、私たちが幸せになるための、ただひとつの道です。
恒常的に、心配を心に考えている場合があります。それは、恐怖が連続して、続いていることを意味します。神様は「恐れていなさい」とか「心配をしなさい」とかは言われていません。
あるいは何かにいらだっている場合があります。神様は「怒っていなさい」とも「裁きなさい」とも言われていません。もし、これらの声に聞き従い続けるなら、私たちは神様に対して、不従順を働いていることになります。
今あなたの心の中に、神様の「聞きなさい」と言われる声が響いているでしょうか。神様以外から来ることばが、私たちを不幸にしていることを、理解して、神様の言われることばだけを、聞こうとしなければなりません。渦巻く声の中から脱出することが必要です。

雑音の止む時

もし、私たちの心の中が、神様の言われることばだけで占められる様になるなら、心の中の色々な声は止みます。心は全き平安に包まれます。
私たちをわずらわせているのは、神様以外から来る様々な声です。それはたとえば、恐れであったり、怒りであったり、誘惑であったり、あるいは責めであったりする声のことです。神様のことばが、私たちの心に満ちるときには、 それらの声は完全に止みます。
みことばラリーで、一日中、聖書のことばに夢中になる時、今までにない平安を感じる方がおられました。一時的にしろ、神様のことばに集中できたことで、敵の声は、排除されて行ったことでした。
神様のみ声に打ち勝つことのできるものは、何もありません。わずらわす声が、闇の声ならば、神様のみ声は光です。「ヨハネ 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」のです。

私は神様の言われることばだけを聞く

私たちには、神様のことばだけを聞く信仰がゆだねられています。「聞きなさい」ということばに従う選択をしなければなりません。色々な思いのある中で、神様の言われていることばだけを選り分けて、聞く決心が問われています。いろいろと思いわずらうことがあるとしても、神様に従い通すことだけが、勝利であるのです。「申命記 28:2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福 ※ があなたに臨み、あなたは祝福される」のです。
※(町で、野で、生まれる者が、地の産物が、生まれる家畜が、群れの子牛が、雌羊が、かごが、こね鉢が、入る時に、出る時に、敵が敗走して、穀物蔵が、することすべてが、与えられた地で、聖なる民として、主の名が付けられて、豊かさで、借りることなく、かしらとされ、上に置かれて)祝福されるのです。(申命記 28:3~13)
神様のことばだけを聞くことが、心の土台となっているなら、その人は、嵐に遭っても、人生が守られるのです。

13.10.27 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (8)恐れるな

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く (8)恐れるな


「Ⅱ列王記 6:16-17 すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。 そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」

私たちとともにいる者

アラムの王は、エリシャに怒りを燃やし、エリシャを捕らえるために、軍隊を送りました。馬や戦車で構成されたアラムの軍隊が、エリシャのいる町を包囲しました。朝早く、エリシャのしもべ(若い者)がそれに気付いて、驚いてエリシャに、大変なことになったことを告げました。
そのときのエリシャのことばが、冒頭の聖句なのです。「私たちとともにいる者」とは、エリシャとともにいる神様の軍隊のことです。それは、アラムの軍勢よりも多いのだ、ということです。
エリシャは、しもべの目が開くように祈りました。すると、しもべの目が開かれて、「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のが見えたのです。しもべには見えませんでした。しかし、エリシャには見えていたのです。私たちも、信仰によって、信じる私たちを神の軍隊が取り囲み、私たちを守っていることを見ていなければなりません。

恐れ

恐れに関することは、聖書の中に、100箇所以上書かれています。それだけ、私たちは、恐れを抱きやすい者であるので、神様がみことばを送って励ましておられる、ということです。
悪魔は、私たちが何を恐れるか知っています。そして、そこをプッシュすることによって、私たちを思うがままに動かそうとします。聖書は、「ヤコブ 4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と言います。悪魔のねらいは、私たちの敗北です。悪魔は私たちが、どのような恐れを抱くと、どのように動くか知っています。それで、私たちの、恐れを抱く部分をプッシュして来るのです。すると、私たちは、その恐れに従って、行動してしまいます。恐れて逃げ出したり、恐れて怒り出し、自暴自棄になったり、萎縮したりします。
たとえば、イスラエルの民が、約束の地に攻めて行こうとしているときに、民が陥りやすいことは、敵の大きさに震えおののいてしまうことでした。
そこで、神様は、ヨシュアに「ヨシュア 1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」と語られました。
神様は、見えませんが、信じる私たちとともにおられる方です。恐れることは、必要のないことです。恐れれば、勝利を取ることはできません。悪魔は、それを知っているのです。

神様のご計画

悪魔は、私たちを恐れさせ、私たちに神のみこころを行なわせないように、私たちを誘います。私たちが感じようと感じまいと、神様はともにおられる方であることを信じなければなりません。
神様は、私たちを愛して、私たちが恐れの試みに遭うことを許されることがあります。それは、私たちが悪魔に完全に勝利することができることを教えるためです。
悪魔が私たちに働くことができるのは、悪魔の働く場所、すなわち足がかりがあるからです。
私たちが、恐れに勝利するためには、悪魔の足がかりを取り除くことです。それは、罪(神様に対する不従順)のことです。もし、私たちに罪の覚えがあるならば、進んで悔い改めなければなりません。「1ヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
ここでの神様の働きは、私たちをきよめることと、私たちを恐れから解放することです。そして、勇気を与えて、神様のご計画に私たちを進ませるのです。恐れを用いて、勝利を与えてくださる神様に感謝します。

みことばを行なうことを土台とする

「恐れるな」という神様の御心を理解しました。そして、恐れないで神様のご命令に従うためには、神様を信じて、悪魔に立ち向かうことであることを教えられました。それは、私たちの内に潜む、罪に向き合うことであり、罪を悲しんで、進んで悔い改めるという過程を含むことです。
エリシャのしもべには、神様に従わないで、自分勝手な罪の行動をとってしまう弱さがありました。目が開かれて、神様の軍勢を見ることができた時、悪魔の足がかりを進んで取り除きたいという、神様に対する恐れが、生じて来たことでしょう。
恐れに乗じる敵がいます。私たちは勝利することができるのです。「恐れるな」というみことばを行なうという過程を土台として、生きるなら、人生は揺るがないことだと、教えられているのです。

13.10.20 自分に死ぬこと

 自分に死ぬこと


「ローマ 6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」




最強の二人

誰でも、イエス・キリストを救い主として、受け入れたならば、その人の内にはイエス・キリストの御霊である聖霊様が住まわれます。「Ⅰコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
これは、私たちがイエス様とひとつにされたということです。
私たちは、聖霊様とともに生き、聖霊様とともに動きます。もはや、以前のように、一人ではなく、二人なのです。新しい自分は、本当の自分とイエス様とのペアによって、成り立っているのです。私たちは、罪人であり、愚かでありますが、ともにおられる方は、神であられる方であり、全知全能、無限のお方です。
大富豪の障害者と彼を介護する青年のペアの生き様を描く、最強の二人という映画がありましたが、今や私たちは、無力な自分と無限の神様との最強のペアとして生きているのです。

死にあずかるバプテスマ

イエス・キリストを信じて、私たちは、全く新しくされました。そのことについて、確認しておきましょう。聖書は、私たちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けた時、古い自分は死んだのであり、そして、新しく生まれたのだと説明しています。
「ローマ 6:3-4 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
新しく、生まれるために、一度死ぬということが霊の世界で起こりました。もはや自分は以前の自分ではなく、新しい自分なのだと理解しなければなりません。イエス様を信じた時、自分はイエス様の十字架に同じように付けられて、死んだのです。
イエス様は、私たちの罪の身代わりとして、十字架に、確かに死なれました。このお方を信じた私たちも、その十字架の死にあずかり、死んだ者とみなされるのです。
イエス様は、十字架に死なれただけでなく、死を打ち破り復活なされました。ですから、聖書は「ローマ 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」と言い、私たちは復活して、生きているのだということです。

主の邪魔をしない

では、新しく主とのペアで生きるとは、実際にはどのようなことになるのでしょうか。
私たちは、信じて新しくされたと言えども、実際は、以前と変わらない生き方や生活を続けることができます。人によっては、クリスチャンになったことは、自分がそう決心しただけで、実際の自分に何か変化があったわけではなく、ただ自分の考えが変わっただけだと、考える人もいます。
つまり、古い自分が死んだと言われているだけで、自分が死ぬという実際の出来事があったのではないと思っています。新しく生まれた、と言われているが、そう考えろと言われているだけだと思っています。
しかし、私たちの心の中には、神様の御霊が住まわれていて、実際にお働きになります。新しい自分は、全く新しい、霊的な超自然的な生き方をするように、召されています。そのためには、助け主である聖霊様の邪魔をしない生き方をしなければなりません。
もし、以前のように、自分が生きるなら、聖霊様はすぐに引っ込まれます。私たちのやりたいように、させられます。そうなると、私たちは、古い自分が一人で生きているという以前の生き方をしてしまっていることになります。
霊的に死んだという立場をいただきました。このことを受け取らなければなりません。どのような霊的な事実も、私たちが受け取らなければ、私たちの人生に実現することはありません。パウロは、死んだ自分が、実際に生きているのは、「信仰によっている」のだと言います。「ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
イエス様とともに、十字架に死んだ自分が、今は、イエス様とともに生きているのだ、と信仰によって受け取らなければなりません。そうすれば、実際に、内に働かれる神様の奇跡の働きを経験して生きることになるのです。そのためには、自分自身を捨てなければなりません。主に生きていただくことです。イエス・キリストというお方が、「自分(あなたの名前)」という人間を生きてくださるのです。

13.10.13 神様との会話(祈り)[5]人生を決めているもの

 神様との会話(祈り)[5]人生を決めているもの


「ピリピ4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」





できないということ

真の神様を信じる信仰の出発点は、自分はできない者であることを認め、自分に絶望することです。イエス様は「ヨハネ 15:5 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われました。
私たちは「できる」ことに価値があると考えて来ました。できる自分になることを目指し、できる社会になることを目指して、生きて来たのです。しかし、いくらできても、それが幸せという結果にはつながらない、というのが人生の事実なのです。
「昔は良かった」とか「文明と引き換えに、多くのものを失った」という声は昔から聞かれることです。あるいは「幸せとは何なのか」と、人は問いかけてきました。「できる」ことが、いくら実現しても、何も問題を解決してはいません。実際、人間は「何もできない」というのが、本当のところです。この「絶望」を知ることなしに、人生の答えに向かうことはできません。
真の解決は、私たちが、主のもとに戻ることであり、主につながることだけです。主から離れては「何もすることができないからです」

できるということ

ところが、「できない」と断じる聖書が、「できる」ということについても教えています。パウロは「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」と宣言しました。それは「強くしてくださる方(神様)によって」ということで、あくまでも、できるのは神様であるのです。イエス様は「ルカ 18:27 人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われました。
「神様によって」ということが重要なポイントです。つまり「主にあって」ということです。それは、神様の支配の下にあってということですから、やはり「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」を噛み締めざるを得ません。
主にあれば、私たちに不可能はありません。私たちは「どんなことでもできるのです」「マタイ 17:20 もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

欠点が人生を決める

図を見てください。「できる」を求める私たちですが、人生を決めているのは、実際には、「できる」部分ではなく、かえって、「できない」部分であることを理解する必要があります。長所、得意なこと、秀でた能力、が人生を牽引し、結果を産み出して行く、と普通は考えます。しかし、特別に、専門のことを学んでも、自分の得意な分野を磨いても、実際には、「恐れ」や「ふてくされること」、が人生を決めているのです。
能力はあっても、「恐れ」が失敗を考えさせ、実際に失敗をしてしまいます。あるいは、一生懸命にやるのですが、人がそれを認めないと、怒り、ふてくされて、やる気をなくしてしまいます。
これらのことに懲りて、神様を求めるとき、神様は、これらの欠点をあがない、罪責感から私たちを解放してくださいます。人生の結果は変えられ、人間関係や、経済や、心や健康に回復を見ます。
しかし、他の欠点のところから、成功は漏れて行きます。それらをも認めて、神様に差し出さなければなりません。たとえば、少し不正直であることで、神様に心を打ち明けることができません。洗いざらい、告白すること、自分の弱さを認めること、が必要です。「私の正直さには問題がありません。だから、ここに助けは要りません。」と言っているなら、神様に助けられることはあるはずがありません。
正直に、たとえ恥ずかしくとも、心をみな打ち明ければ、人生は好転し出します。しかし、次には、「自分には集中力がない」、続かないという問題に直面させられます。
良い面を伸ばす、ということは悪いことではありません。しかし、それで、人生の結果が決まることはありません。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」のみことばを忘れてはなりません。得意な能力が、十分に発揮されるためには、私たちの存在すべてが、主のご支配にある必要があります。
自分には、特徴がある、少し得意なことがある、身に付けて来た能力がある、と思っても、自分の人生を決めているのは、これらのことではなく、自分の欠点ではないか、と悟ることは重要なことです。イエス様を信じる信仰にはその答えがあるのです。

13.10.06 神様との会話(祈り)[4]敵 もう一人の自分

 神様との会話(祈り)[4]敵 もう一人の自分


「Ⅱコリント 11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」





自己対話の傾向

誰でも、自分で、自分に語りかけることがあります。それは、独り言ということでもあります。「ちぇっ。また失敗してしまった。一体こんなことで、これからも大丈夫なのだろうか。いい加減にしろよ。」
まるで、目の前に誰かがいて、その人に話しているような具合ですが、誰もいないのです。誰に話しているのでしょうか。私たちはこのように、客観的に、自分を相手にして、話していることがあります。
人によって程度の差はありますが、大なり小なり、このようなことをしながら、自分の疑問を投げかけ、自分でそれに答えたりしています。自己対話の傾向があることです。

自分を損なうもの

このような中で、ある人には、もう少し第三者的な心の中の声として、意識される場合があります。それは確かに自分が自分と話していることなのですが、良く分析してみると、何者かが自分に語りかけている、という感じのすることなのです。
「常に上の方から、自分を監視する視線を感じる」と証言する方もおられます。あるいは「この声が命じたので、怒りが湧き上がって来た(切れた)」という人もいます。新聞などでは、「心の中の声が、やれと命じたので、犯罪を犯した」という記事も目にしますが、人の心の中に、その人の意志とは別に、その人に影響を与えるという存在が、まるであるかのようです。

責める声

さらに、良く分析してみますと、この声は「責める声」であるということです。
「こんなんじゃいけない。」「何をやっているのだ。」「誰もお前を認めはしないさ。」「ああ。ダメじゃないか。」
自分で自分に言ってしまっていることなのですが、この声に責められて、一生懸命に、答えようとしている自分が、またあるのです。しかし、どんなに頑張っても、その責めから自由になったことはありません。
いつも、責められているのです。ほめられ、なぐさめられたことはありません。そればかりか、神様に従おうとして、良いことをしようとしたりすると、かえって「そんなことをして何になる」「みんなできていないのさ、お前もやめた方が楽になれるよ」などと誘惑をするのです。そして、その通りにすると、「ああ。それでもクリスチャンか」と言って、また責めるのです。
神様のみことばを聞いて、本当の自分は、喜んで、素直に受け取りますが、もう一人の自分は「確かに、良いことばではある。しかし、本当に神様に信頼してしまって、世の中の人とうまくやって行くことができるのだろうか。みんなが納得することをするべきだから、それまで待とう」と言うのです。
自分で自分に相談して、最初の強い決意は消えてしまいます。いつも、中途半端な信仰に踏み留まってしまうのです。

味方ではない

よくよく考えてみますと、自分の中に存在するこの声は、自分の味方をしたことはありません。神様の声に従おうとする時、励ますことはありません。離れようとする時、叱ることはありません。いつも引き離そうとする方向に誘惑します。そして、次には責めて、赦しや慰めという神様の声ではなく、「もっと努力してから、神様に立ち返れ」と嘘のメッセージを言うのです。
自分の内にある自分の声ですから、自分の味方をしている声だと、私たちは考えます。しかし、その声のしていることは敵対する働きです。
聖書は「サタンさえ光の御使いに変装するのです」と言います。自分の中の声が、顕著に自分を破壊しているなら、自分の考えの背後に、霊的な敵の存在があると考えざるを得ません。

必要があって存在した

自分の声に悩む方には、幼少の頃、「強い孤独、寂しさを経験した」と言う方が少なくありません。毎日のように、一人で、留守番をしたり、親の帰りを待っていたりする時、自分の内に話し相手が必要で、自分に話して遊んだり、あるいは何か相手を想定して話したりしての一人遊びが顕著でした。
必要があって、自分をなぐさめるために、自分を守るために、招いた存在なのです。大人になっても、その関係は続きます。その相手がないと、自分が自分でなくなるような恐怖を感じます。考えることができなくなります。
しかし、今わかることは、「自分の味方ではない」ということです。そして、必要な話し相手は、神様であるということです。昔、必要とした相手を捨てて、今、必要な方を話し相手として新しく生きることを始めなければなりません。
神様は私たちの味方です。父は私たちをほめてくれます。正してくれます。たとえ、罪があっても、怒りがあっても、くじけていても、そのまま伝えて大丈夫なお方です。一日中、そのようにして祈ることができるのです。背後に敵の働くもう一人の自分の声が、敵であり、なくて生きられることを知ることです。

13.9.29 神様との会話(祈り)[3]ひれ伏す生き方

 神様との会話(祈り)[3]ひれ伏す生き方


「詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」


ゆるぐことがない

ダビデは、いつも自分の前に主を置く生活をしました。それは、いつも自分の目の前に主を見て生きるということです。神様が自分の前におられると覚え、神様を礼拝しつつ、御声を伺いつつ、生活するということです。
そのような生き方は、自分の中の一番の重要ポジション(右)に、主がおられることであるとダビデは言っています。普通は、誰でも、自分の中心は自分だと考えています。しかし、ダビデは、自分が中心ではなく、神様が自分の心を支配され、中心に働いてくださることを歓迎しました。
そのためには、いつも自分の目の前に、神様を見て、生きることだとイメージしたわけです。どこへ行っても、いつでも、あらゆるシーンを神様を通して、見ようとしました。そのような生き方こそ、心の中においては、中心に神様がおられ、自分が支配されて生きることになっていると悟ったことでした。
確かにゆるぐことのない、確信を持って生きられたのです。「主は必ず、私をお守りくださる。」「主は必ず、敵を倒してくださる。」と信仰が常に湧き上がって来たことでした。

父との会話

さて、祈りとは、父との会話であるとお話ししました。神様の子どもとしての自覚に目覚めて、父との交わりをなせることは、特権でした。
イエス・キリストを信じる私たちには、私たちの父である神様が住んでくださっています。もう一人の助け主、聖霊様が、私たちの心に住んでくださいましたが、そのお方は、父の御霊であり、父が住まわれていることと同じ意味を持つことでした。
それゆえ、私たちは、「父さん」と呼んで、父とお話をすることができるのです。ですから、一日中、父さんとの会話の中に生きることです。他の悪しきものに導かれることを拒否して、父の御霊に導かれて生きなければなりません。

父はまことの神であられる

そこで、私たちは私たちの内に、聖霊というかたちで、住まわれている父に対して、さらには、まことの神様であることを、理解しなければなりません。実際に、このお方に権威があり、力があり、主権をもって全てを支配されているのです。それゆえに、私たちに敵対する者は何もありません。「ローマ 8:31 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
ダビデが、自分の前に主を置いて、主が中心である生き方をし、主に支配されることを歓迎したように、私たちも、主が中心におられる生き方をしなければなりません。

ひれ伏す生き方

主を前に置くことは、私たちの内に住まわれている父を、いつも自分の前に見ることです。神様を前にして、神様を通して、あらゆる生活のシーンを見なければなりません。どこを見ても、神様が支配されている光景なのです。人を見ても、出来事を見ても、そうなのです。
そのようなとき、私たちは思わず、目の前の主にひれ伏すことになります。ダビデがそうであったようにです。この姿勢は、主の臨在を認め、主に恐れを持って、近づき、礼拝をしていることです。つまり祈っているのです。
恐れつつ、その状況について、その人について、申し上げることになります。また、私たちの願いを申し上げることになります。あるいは、私たちの感じている、喜怒哀楽の思いを打ち明けることになります。
「この集まりはとても雰囲気が良いですね」「このすてきな人もあなたが造られたのですね」と言います。「主よどうか私をお守りください」と言います。あるいは「恐いです」とか「嬉しいです」とかを率直に申し上げます。そうすることによって、主とともに歩んでいることを確信できます。
また、そのような交わりの中、主から語られるのです。「恐れてはならない」「これは主の戦いである」などのダビデに語られたようなみことばを受け取ることもできます。戒めを受けることも多いでしょう。
私たちは、まことの神である父と一日中、ひれ伏しつつ会話して、敵対する者のない人生を歩むのです。

13.9.22 神様との会話(祈り)[2]父との会話

 神様との会話(祈り)[2]父との会話


「ローマ 8:14-15 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」

神の子ども

神様は、私たちの父であられる方です。私たちは、神様が創造主であることを信じています。それは、神様が私たちをも造られたのだということです。神様が私たちをお造りにならなければ、私たちは存在していないのです。
そのような、神の子どもである私たちですが、イエス様が「放蕩息子のたとえ(ルカ15章)」でお話しされたように、私たちは父の家を出て、さまよう者でした。そのような私たちではありましたが、イエス・キリストを信じて、父なる神様のふところに帰ることができました。父は「死んでいたのが生き返った」と喜んでくださいました。
私たちの父は、真の神様であり、私たちは神の子どもであるのです。その神の子どもであることの証拠は、「神の御霊に導かれ」ているということです。

人は何かに導かれている

神の子どもとは、「神の御霊に導かれる」人のことを言うのだとわかりました。では、もし、神の御霊に導かれていなければ、どうなっているということなのでしょうか。
人は生まれながらに、何かに導かれて生きています。私たちに影響を与える霊的な存在というものは、大きく分けると、2種類しかありません。神の霊か、悪い霊かということです。
一般的に、人が導きを求めるものをあげてみます。それは、「宗教」「先祖」「占い」「哲学」「思想」「考え方」「人生観」「直感」「自分なりの思い」「自信」「信念」などなどです。他にもあげられると思いますが、これらを大きく分けてみますと、だいたい、「宗教」「考え方」「自分」ということでしょう。
聖書は「宗教」のことを偶像礼拝と呼び、真の神でない者を礼拝していることだと教えています。「先祖」を拝むことや「占い」も含めて、すべての宗教は、その背後にある悪魔悪霊を拝んでいることに他なりません。
「考え方」もかたちを変えた宗教です。こうあれば良いのになあ、という人の考えを信心していることです。「哲学」「思想」「人の考え」などもいわゆる「宗教」なのです。
また「自分」も結局は自分の「考え」に頼るということですから、これもまた「宗教」ということになります。「人生観」「直感」「自分なりの思い」「自信」「信念」などに導かれることも、偶像礼拝なのです。これらは、当たり前のようにして心に存在するものです。しかし、それらのことは、真の神様から植え付けられた「人生観」「直感」「自分なりの思い」「自信」「信念」でなければなりません。
「宗教」も「考え方」も「自分」も、つまりその正体は、「人の考え」なのです。偶像礼拝の正体は、「人の考え」に他なりません。その背後には、悪魔、悪霊の存在のあることです。
「神の御霊に導かれ」ているか、悪霊に導かれているか、のどちらかしかないのです。

父との会話

「神の御霊に導かれる」とは、「父」である神様との会話に生きるということです。「子ども」として、私たちは「父」に話をすることができます。「アバ」つまり「父ちゃん」と呼べるのです。自分の心の中にあることをみな、話しましょう。自分の心に起こっていることを、みな申し上げましょう。
「父ちゃん」は、私たちの心に「印象」を与え、「みことば」を思い出させ、「思い」を湧き上がらせ、私たちにお語りくださるのです。これが「父」との会話であり、「祈り」なのです。口に出して祈ることができない時でも、絶え間なく、父との会話が心の中で続けられなければなりません。
「御霊に導かれて」生きて行ける特権、を神様に感謝します。ゆめゆめ、「父」以外の者に導かれている時があってはならないのです。

13.9.15 神様との会話(祈り)[1]神様が内に住まわれる

 神様との会話(祈り)[1]神様が内に住まわれる


「Ⅰコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

もう一人の助け主を遣わすという約束

イエス様は弟子たちに「もう一人の助け主を送る」と言われました。「ヨハネ 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
イエス様ご自身が、助け主として、地上を歩まれ、文字通り助けを求める人々を助けられました。イエス様はご自身で証しして「マタイ 11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」と言われたように、助け主として働かれました。
イエス様が、十字架のみわざを終えられ、天に昇られた後、信じる者にもう一人の助け主、すなわち聖霊様、を遣わすと約束されました。

聖霊の宮となった

私たちが、イエス・キリストを信じる時、もう一人の助け主である聖霊様が、私たちの内に住まわれます。それは、私たちが新しく生まれることでもあります。パウロは、「ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と告白しています。イエス・キリストを信じて古い自分は死んだ、今は内にキリストが生きているという新しい自分だ、ということです。
もう一人の助け主である聖霊様が来られるのは、信じる者の内に住んでくださるためです。神様は、私たちの内に住むことのできるお方なのです。「ヨハネ 14:23 だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
ですから、神様が住まわれているこの体は、神殿、すなわち神の宮となったのです。あなたは、ご自分のからだを神の宮にふさわしく用いているでしょうか。

交わりという特権

弟子たちは、神の御子であるイエス様と常に一緒に行動しました。全く無学なただの人であっても、イエス様によって守られました。イエス様が、律法学者やパリサイ人など裁く人々を論破してくださったからです。罪人と言われる者でありましたが、イエス様が、病人をいやし、悪霊を追い出され、奇跡のわざを行なわれることを目の当たりに見ることができました。弱い者でありましたが、教えられ、訓練され、遣わされました。ただ神の御子とともに歩んだからです。
私たちは、このような弟子たちをある意味、うらやましく思います。しかし、イエス様の約束は、全世界の、全時代の、信じる者に同じように、いやそれ以上に、内に住んで働いてくださるということなのです。私たちは、毎日、毎時間、毎分毎秒、神様とともに交わりつつ、生きられる特権をいただいたのです。
新しい自分は、古い生き方を捨てて(死んで)、神様とともに交わりを持って生きているという自分です。古い生き方が捨てられていなければなりません。以前の自分は、神様との交わりのない、自分だけで生きている自分です。今や新しい自分は、本当の自分と神様(イエス・キリストの御霊である聖霊様)とがひとつになった自分であることを自覚しなければなりません。

話し相手が神様

以上のことは、自分の心の中の話し相手が、聖霊様であるということです。このことを自覚するなら、新しい自分という恵みを実感することができます。
古い自分は、心の中で、もうひとりの自分と対話していました。心理学などでは「自己対話」ということが、分析されていますが、このことの悲惨さについては、次の機会に紙面を割きます。
私たちが味わうべき恵みは、自分の心の中の話し相手が神様であるということです。まるで、弟子たちがイエス様と一緒に生活したように、それ以上に親しみと同一感を持って、主とともに生きることになるのです。
聖書は「Ⅰテサロニケ 5:17 絶えず祈りなさい」と教えます。イエス様に教えられつつ、イエス様のなされたみわざをなしつつ、24時間恵みの中に生きられることを知りましょう。

13.9.08 悟れないということ

 悟れないということ


「黙示録 9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」

世の終わりのときに

今週の聖句は、祈祷会で取り上げたみことばです。この世の終わりのときにどのようなことが起きるのかを、黙示録から学んでいます。第六のラッパが鳴って、人類の三分の一が滅ぼされるような災害が起きます。生き残った人々は、どうしたかと言いますと、全く今までと同じように、神様を信じない生活を続けたというのです。
おそらく、「今までに経験したことのないような大変な災害だったね。」「生き残ったのは運が良かったね。」「これからは心を一つにして、復興を目指して、生きて行こうね。」などの会話が交わされたことです。
「これは聖書に記されている神様の審きが起こったのだ。」「今こそ悔い改めて神様に立ち返る時だ。」「逃れることができたのは、神様が悔い改める機会を与えてくださったことなのだ。」と悟る人はほとんどいなかったのです。
それで、神様の審きはさらに続けられて行きます。

悟れないということ

人類の三分の一が滅んで行くということは、おそらく誰もが今までに感じたことのない、恐れを感じる、大変な出来事です。何かを考えさせられます。
しかし、実際には、「真の神様がおられる」ということ、「神様がこの世にメッセージを語ってくださっている」ということ、などについては、全く気付かないで済まされて行くのです。
このことは、大変不思議なことです。誰でも大きく揺さぶられて、気付かされるような経験だと思うのに、人々は、そうは気付かないのです。大変なことだということはわかるのでしょうが、「聖書の言うとおりになっている」とか「神様はおられる方だ」ということについては、信じようとしないということです。

もっと気付けない今

私たちは、いよいよ世の終わりが来たなら、「ああ。いよいよ神様の審きが始まったな。」とわかると思っています。「本当に聖書の言うとおりのことが起こっている。いよいよ襟を正さなければならない。」と考えて、真剣になるだろうと思っています。
そのときがくれば、いかに頑固な自分でも、いかに鈍い自分でも、「さすがにこれは真剣にならざるを得ない。」と考えると思っています。しかし、そのとき、ほとんどの人は、それでも気付けないのです。
たとえば今であれば、地震や風雨の災害が目立って起きていると思います。世の中に殺人などの犯罪が、多くなって来ていると感じるような昨今です。それでも、まだ平安であり、普段通りの生活をすることができる当たり前の日々です。決してまだ審きの時ではありません。
神様の世に対する揺さぶりは、黙示録にある審きの時には、とても激しいものです。今も揺さぶられていると信じますが、小さいと言えるでしょう。
比較をすれば、審きの時よりも、今は逆に、真剣さを持つにはもっと難しい状況なのです。私が言いたいことは、激しくても悟れないのが人間ならば、穏やかな今はもっと悟れないで当たり前ではないか、ということなのです。

いつも語りかけておられる神

審きの時は、神様からの「悔い改めて、立ち返りなさい」という激しい語りかけです。今の時は「悔い改めて、立ち返りなさい」という静かな語りかけなのです。
つまり、語りかけていないから、聞こえないのではなくて、語りかけているのに、聞いていないのです。「激しく言ってもらえば、いかな自分でも聞くことになるさ。」は見当違いです。
悟らない(気付けない)というのは、鈍さの問題ではありません。悟ろうとしないという意志の問題なのです。今、自分は、悟ろうとしないという、反抗の問題を抱えているのではないか、とへりくだって、主に立ち返る必要はないでしょうか。
神様は、今語りかけておられます。いつも語りかけておられます。私たちは、そのみ声を聞いて生活しなければなりません。イエス・キリストを信じるということは、「今日から、あなたに聞いて、生きて行きます。」という特権を与えられたことです。それを、無駄にしてはなりません。

13.9.01 もーやっこ

 もーやっこ


「使徒の働き 4:32-34 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。」


聞こえて来る歌

最近のことですが、商店街から聞こえて来る歌がとても気になりました。「〜やっこ」と歌っているのですが、どこかで聞いたような、知っているような、なつかしいような、そんな歌だったからです。聞き続けたからそうなるのか、それとも前から知っているのか、わかりませんでした。でも知らない歌でした。実際は「もーやっこ」と歌っていたのでした。
聞いたり調べたりして、わかったことは、「もーやっこ」とは、共同で、持ち合う、分け合う、という意味の名古屋ことばだということです。市内には「もーやっこ」を店名にしているお好み焼き屋さんもあるようです。
一つを皆で使うという意味で使われている「もーやっこ」ですが、これは、「もやう【舫う・催合う・最合う】」という日本語から派生していることばだそうです。辞書にも載っていますが、「もやう」は、「二そうの舟をつなぎあわせる」さらには「寄り合って共同で事をする。また、物を共同で使用する」という意味です。

合いことば「もーやっこ」

恥ずかしながら、私は全然知らなかったことばです。そもそも、西区役所の主導で、3年ほど前から「もーやっこ」を合ことばに、区政運営に取り組んでいるようです。「みんなの力を持ち寄り、西区をより暮らしやすく、魅力的なまちにしていきたい」「さまざまな心配事や日々の生活の喜びを分かち合うまちにしていきたい」という思いなのだそうです。
例えば、「もーやっこ」のロゴマークを作ったり、「西区もーやっこのうた」という区のオリジナルソング(これが気になった歌)を作ったり、また、区民が気軽に音楽など楽しめるようにと区役所で「もーやっこ広場・ハートフルステージ」を開いたり、区を挙げて、「もーやっこ計画」を推進しているとのことです。

歌詞の内容

その歌詞の内容には、西区の歴史や産業などが歌われていて、「仲良くしよう」という内容になっています。
歌詞に出て来る「岩倉街道」は、だいたい名鉄犬山線に沿っており、終点は犬山城に至ります。たくさんの史跡や古い道標があるとのことで、一度歩いてみたいと思いました。途中には、処刑されたキリシタンの墓や芭蕉の句碑などもあるようです。
「美濃路」は、東海道の宮宿(熱田)を起点として中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)につながる街道です。近くでは、一部、堀川に並行して走っています。「四間道(しけみち)」は、昔のたたずまいを残している町並みですが、すぐ近くですので、皆さんもオイコス休暇で歩いたことがあると思います。
その「四間道」よりさらに堀川沿いに路地があります。そこは、「美濃路」の一部です。「四間道」は堀川からの荷揚げの機能を持つ家屋が並びます。「美濃路」の裏手に当たる道を、防火用に四間に拡げられたのが「四間道」です。
江戸時代の処刑場であり、その慰霊のために建てられた栄国寺も「美濃路」の沿道にあります。そこはキリシタンの処刑の場所でもあり、切支丹遺跡資料館が設置されています。
さて教会周辺は、ものづくりの歴史がある地域でもあります。今年のオイコス休暇で訪れましたが、歩いてすぐ近くに、トヨタ産業技術記念館がありますし、窯業の技術と歴史を紹介するノリタケの森があります。さらには、この地域は、菓子メーカーや菓子問屋をはじめ、多くの菓子製造関連業者があります。お菓子作り産業の盛んな地域でもあるのです。

心と思いを一つにして

さて、人々は、「もーやっこ」の精神を大切にし、この精神を広めて行きたいと思っています。
初代教会においては、人々は「心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」のです。それで「ひとりも乏しい者がなかった」のです。そのような群れの中で(教会で)、「主イエスの復活を非常に力強くあかし」することができました。
伝道ということを考えるときに、人々の心に取り入る鍵は、「もーやっこ」の精神ではないかと、考えさせられたことです。名古屋市内は、多くのキリシタンの殉教の血が流されたところでもあります。私たちの教会は、その先人の犠牲の上に建てられています。そして、人々は、聖書の精神と同じように、理想ながらも、「一つ」になることを願っています。「一つ」になる、そのことは、もとより、神様が私たちに要求しておられることです。「ピリピ 2:2 あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」
まず、私たちが一つになることだと改めて教えられます。そのような精神を、人々は求めているからです。

13.8.25 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(7) 私は霊である

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(7) 私は霊である


「Ⅰテサロニケ 5:23 あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」


霊、たましい、からだ

聖書が教えている、私たちがどのような存在であるか、ということについて十分な理解を持つことが必要です。私たちは肉体を持っており、その中にたましいがあります。そしてそのたましいの中心には霊があります。体、たましい、霊、の三部構成というわけです。聖書は「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と言います。
たましいとは、私たちの心のことを指します。心は大別して、意識できる心、無意識の心がありますが、これらすべてがたましいです。考えたり、記憶したり、感じたりします。生まれつき備わっています。
一方、霊とは、そのたましいの中心にあって、神様とつながるところです。神様との交流がなされる部分と言うことができます。

新しく生まれる必要がある

ところが、私たちは生まれながらの罪人であって、神様との交わりはありません。つまり、霊は死んだ状態であるのです。聖書は「エペソ 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であると教えています。そこで、この霊が生きなければ(生まれなければ)なりません。
イエス様がニコデモに教えられたことは、次のとおりでした。「ヨハネ 3:5-7 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」
神様との関係を持つには、誰でも、霊が新しく生まれなければなりません。イエス・キリストだけが、私たちを新しく生まれさせることのできるお方です。あなたが、イエス・キリストをあなたの救い主であることを信じ、受け入れたなら、あなたは新しく生まれたのです。あなたの霊は生きたのです。そして、神様とつながりました。つまりそれは、神様の霊が私たちの内に住まわれたということでもあるのです。

私たちの本質は霊

私たちは「霊、たましい、からだ」というかたちで存在しています。そこで、私たちの本質は何かと言いますと、それは「霊」なのです。からだは、霊の容れ物ですし、私たちはこの(からだの)中に住んでいます。たましいの中心は霊ですし、霊が生きているか死んでいるかによって、たましい(こころ)は影響を受けます。
霊が生きているなら、神様とつながっていますから、神様からの思いが、私たちに常に語られるようになります。私たちの思いとは別に、神様の思いが心に湧き上がって来る、ということです。私たちはそれを選択することができるのです。
しかし、もし、霊が生きていないなら(キリストをまだ信じていないなら)、その人の心には、生まれながらの、自分の思いや、神様以外の思い、があるだけです。決して、神様のみ声を受け取ることはできません。
「霊」が私たちの中心であり、心やからだに影響を与えているのです。「霊」こそが私たちの存在そのものです。
私たちがイエス・キリストを信じて、霊が新しく生まれ、同時に神様の霊が私たちの内に住まわれ、「霊」である自分が、神様とともに生きるようになったのです。

みことばを行なうことが人生の土台

このような、私たちの立場を宣言する神様のみことばを、行なうとはどのように考えれば良いでしょうか。それは、取りも直さず、そのまま受け入れるということに他なりません。「私は新しく生まれた」であり、「私は神様とつながりを持っている」です。「私の本質は霊である」であり、「私はからだという容れ物の中に住んでいる」と言わなければなりません。そして、さらには「神様の霊(聖霊様)がともに住んでくださっている」です。
「私は神様に愛されている」や「私は神様に赦されている」と同じように受け入れることが、行なうことです。
このように、私たちの考えのどこを切っても、みことばが私たちの考えとなっていることが、私たちの心に岩の基礎が築かれていることになります。神様は、この信仰に答えてくださいますし、この土台の上に人生を建てるなら、私たちは倒れることがありません。

13.8.18 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(6) 聖霊の宮

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(6) 聖霊の宮


「第一コリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

聖霊が住まわれた

イエス様が、私たちに約束されたことの一つが、「もう一人の助け主をあなた方に遣わします。その方は真理の御霊です。」ということです。誰でもイエス・キリストを信じるなら、その人のうちに聖霊様が住まわれます。イエス様は、次のように話されました。
「ヨハネ 14:16-17 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

受け入れることの重要性

あなたは、自分の内に聖霊様が住まわれていることを信じているでしょうか。ここで大切なことは、あなたがそう思うとか、そう感じるとかのことを言っているのではありません。このことを受け入れているか、と問われているのです。「世はその方を受け入れることができ」ないのです。聖書のことばは事実を言い表しています。見えない神様の働きが説明されるとき、あなたがそう思えていることや、そう感じることができていること、が大切なことではありません。それは、どちらでも良いのです。あなたの考えに関わらず、神様のことばは事実です。私たちがすることは、みことばをうのみにして、受け入れることです。このことが信仰です。
この信仰は、裏切られることはありません。神様が、この受け入れる信仰を通して答えてくださるからです。感じられるようになるとか、わかるようになるとかは、将来のことかも知れません。しかし、受け入れることは、「今」のことです。言えることは、信仰は成長するものではなくて、「今」持つものであることを知りましょう。
「世は受け入れることができ」ないのです。あなたはどうでしょうか。わかろうとする誘惑を捨てて、「今」受け入れることをするならば、あなたの内に住まわれる主がお働きくださいます。

聖霊の宮であるという土台

さて、みことばを聞いて行なうことが、心の中に岩の土台を築くことになります。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮」であるというみことばを行なうこととは、このみことばを受け入れることに他なりません。自分のからだが、神様を宿している神殿であることを受け入れなければなりません。聖書がそう言っているのです。
自分の考えのどこを切っても、「聖霊の宮」であるという考えが横たわっているのです。この上に人生を生きることです。そうすれば、私たちの人生は、どんな嵐にも倒れることがありません。

「今」の連続の人生

イエス様と同じ神である聖霊様が、私たちの内に住んでおられるという不思議を感謝します。人として歩まれた人間イエスの内にお働きになられた、同じ御霊の神様が、住まわれているのです。
もう一度繰り返しますが、大切なことは、「今」このことを受け入れることです。感じられることを待ってはいけません。聖霊様が働かれるのに必要な自分になって行くことを期待してはいけません。受け入れるとは、感じや考えによらないことで、ただ素直に、みことばの言っていることに、「今」へりくだることです。土台となることとは、この「今」が一生、途切れることなく続くことです。
そのような土台が築かれれば、あなたの人生は何があっても倒れません。イエス様と同じ、またそれ以上の働きが、あなたになされます。このみことばが事実であることを、聖霊様自らが、証明してくださるのです。あなたは、主の働きをするのです。

13.8.11 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(5) きよくあれ

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(5) きよくあれ


「第一ペテロ 1:16それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」


土台について

みことばを行なうということをもう一度確認しましょう。イエス様は、イエス様の言われたことを、聞いて、それを行なう人のことを、「岩の上に家を建てた賢い人」と言われました。
「みことばを行なうこと」が心の中に土台として築かれていて、その上に人生という家を建てなければなりません。その人生は倒れないのです。みことばを行なうことが土台となっていることとは、みことばが私たち自身の考えそのものとなっていることです。気が付いたり、思い直したりすることのない当たり前の考えです。
たとえば、「私は男(女)である」とか「私は今日眠る」とかは、改めて気が付かなければ行動に移せないことではありません。当たり前のことで、心の土台となっています。当たり前に男(女)として行動します。当たり前に夜になれば眠ります。これらの考えによって心の土台が築かれています。

きよくあれということ

私たちが問われているのは、聖書にあることばについてです。神様の言われることについて、それをしっかり聞き、それを行なっているか、ということです。それが当たり前の土台となっているか、ということです。
いくつかみことばを挙げて、土台となるように考えて来ました。今週は、「きよくありなさい」ということを考えてみます。神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と命じています。私たちが「聖」であるということは、どのようにして実現されるのでしょうか。
私たちの問題は、「きよくない」ということです。どうあがいても「聖」であることは達成できません。しかし、イエス・キリストが救い主であることを、信じるなら、あなたの罪は赦され、きよくされます。信じることは、罪を悔い改めて、赦しを求めることです。つまり、「きよくない」ことが罪であることを認めて、赦しを乞うことです。
イエス・キリストを信じることには、「きよくあろうとする方向」とイエス様に助けを求めることの両方が含まれています。このことで、「聖」を達成することができています。きよくあることが行動としてできていなくても、イエス・キリストを信じ、きよくありたいと常に願っているなら、「聖でなければならない」というみことばを行なっているのです。「きよくあれ」というみことばを守り続けているのです。みことばを行なうという土台が築かれています。

倒れている

私たちは、ともすれば、嵐のない人生、雨風のない生活を求めます。そして、それが祝福だと考えています。平安な、わずらいのない人生を主に感謝します。しかし、私たちを実際に苦しめているのは、私たちが倒れるという事実です。
たとえば、病にしても、それが問題とされるのは、死を予感させるからです。実際に少々具合が悪くても、必ず治ることが保証されていることならば、なんてことはありません。少しくらいは、顔がゆがむかも知れませんが、「絶好調」と叫ぶでしょう。
家族や人間関係に問題があるとき、それが問題であるとされるのは、別離や、孤独を予感させるからです。必ずまたもとに戻ることだとわかっていることなら、ほとんど問題にしません。
また経済的に問題があるとき、それを恐れるのは、破綻や行き詰まり、人からの軽蔑、苦しい生活の始まり、などを連想させるからです。いつか元に戻れるということなら、また新たに、やり直す元気が湧き上がって来るのです。
立ち上がることができないこと、つまり倒れてしまうことが、私たちの人生の問題です。事実、私たちは生活の中で、小さな「倒れ」を経験し、それを積み重ねて来ているのです。
人のことばによって傷ついています。これは倒れていることです。自分の考えが自分を責めています。これは倒れていることです。小さな倒れなので、それほど深刻にはなっていないかも知れませんが、確実に小さく倒れているのです。

倒れないという恵み

一方倒れないでいる人もいます。何言われても元気です。自分のことばが自分を建て上げています。
人のことばや顔色に気を使うことは、小さな嵐に出会っていることではないでしょうか。自分で自分を励ますことができない事実は、あるいは機嫌良くしていられないという事実は、小さな洪水ではないでしょうか。そのような出来事に倒れ放しで、それを毎日積み重ねるという経験をしていることです。
嵐や試練がないということよりも、あっても倒れないということが、とてつもない大きな恵みであることがわかります。「ヨハネ16:33 世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と主は言われました。このことは「患難があるのはしようがない。しかし勝てる方法がある」と言われたことではなく、「世に勝てる」ということが、つまり倒れないということが恵みなのだ、と言われているのです。
きよくあろうとすることが、力です。倒れない人生を主に感謝します。

13.8.04 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(4) 聖霊の宮である

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(4) 聖霊の宮である


「Ⅰコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

聖霊の宮である

私たちが、イエス・キリストを信じた時、私たちの内に聖霊様が住まわれるようになったと聖書は教えます。
「ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
パウロは、自分がイエス・キリストを信じたことは、自分が、イエス・キリストとともに十字架に付けられたことを意味し、古い自分は、死んだのだと言います。新しい自分は、キリストが内に生きてくださっている自分であり、キリストが住まわれる新しい自分となったのだ、と証言しています。
誰でも、イエス・キリストを信じる者の内には、神の御霊である聖霊様が住んでくださるようになったのです。このことは、イエス・キリストが私たちの中に住んでくださっていることと同じです。救い主であり、助け主であるイエス様が、私たちの内に住まわれて、私たちを支配してくださる不思議、を心から感謝します。私たちはいつでも、全能の神様とともに、歩むことができるのです。

イエス様が見本

イエス様が、宣教を開始された時、まず人のするべきこととして、洗礼を受けられました。聖書は、そのとき、聖霊が鳩のように下られたと言います。
「マタイ 3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」
イエス様は、神が人となられたお方です。神であるのです。(ヨハネ 1:1)しかし、イエス様は、地上では、神としてではなく、正しい人間として歩んでくださいました。私たちの生きる苦しみを、自ら味わってくださるために、神の力を用いないで、人として歩まれました。
しかしながら、イエス様は、神様のなされる不思議なわざをされました。病人をいやされました。死人を生き返らせました。嵐を静めるなど、奇跡を行なわれました。このことは、イエス様の力ではなく、イエス様の内に住まわれた聖霊様の働きによることです。そして、これが私たちイエス・キリストを信じて生きる者のサンプルとして示してくださったことなのです。
正しい(私たちにとってはイエス様を信じる)人は、どのようにして生きるのかという見本であるわけです。正しい人は、父なる神様を礼拝します。そしてその者の内には聖霊様が住まわれて、その正しい人(あなた)を管として、聖霊様が働かれるのです。
イエス様が、まさに正しい人として、そのサンプルの生き方を示してくださったことです。私たちもイエス様と同じように、神様の管として用いられるのです。

イエス様と同じわざ

聖霊様を住まわせている体であることを知らなければなりません。そして、イエス様と同じわざをするために召されているのだ、と知らなければなりません。
イエス様は「ヨハネ 14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。
また「マルコ 16:17-18 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とも言われました。みな、私たちが聖霊の宮となることの証言です。
このことが、私たちの根本的な考えの土台となっていることが、岩の基盤となります。この上に人生を生きるならば、決して倒れることはありません。

聖霊の宮であることを土台とする生活

私たちは、聖霊の宮である生き方をしなければなりません。聖霊の宮であるということが、私たちの信念です。もはや私たちの考えそのものとなっています。つまりそれが事実であり、当たり前ということです。
このような心の土台が築かれ、この自覚の上に生活をするということが、岩の上に人生という家を建てることになるのです。
聖霊の宮が、朝起きます。聖霊の宮が学校に行くのです。聖霊の宮が学校で勉強をします。聖霊の宮が友だちと話をし、遊ぶのです。聖霊の宮が、会社に行きます。聖霊の宮が仕事をします。聖霊の宮が、同僚や上司と話をし、交わるのです。聖霊の宮が、恋愛をし、結婚をし、家庭を築き、子育てをするのです。
このような人生は、嵐が来ても、決して倒れることがありません。びくともしないということです。聖霊の宮とされていることを主に感謝します。

13.7.28 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(3) 主はいやす方

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(3) 主はいやす方


「出エジプト15:26 もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

いやしは主にある

本日のみことばは、神様ご自身が、いやし主であると宣言されているものです。事実、「見えない神のかたち(コロサイ1:15)」であるイエス様が、なさったみわざは、そのほとんどが人々をいやすことでした。
「マタイ 11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」
イエス様は、人々に対して「ヨハネ14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われました。神様がいやされる方であることを当然として言われています。そして、そのわざをイエス様がなさっているのだから、ご自分が神が人となられた方であることを信じるようにと、言われたことです。
今日、医療や健康法だけが人をいやすことのように信じられていますが、これらの上におられて、支配されている神様が、これらをも用いて、あるいは直接的に、いやしを行なわれていることを信じなければなりません。現在においても、イエス・キリストは同じように働かれているのです。

いやし主との関係を保つ

ここで、「主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら」と言われていることに注目をします。主の言われていることを、聞いて行なうならば、という条件が付与されていることです。
イエス・キリストの福音は、聞いて行なうことができない私たちの罪を、主が身代わりで負ってくださったので、信じる者は罪赦される、という良き知らせのことです。「聞いて行ないたい」という実現不可能な願いが、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、叶えられるということです。
私たちにとって「聞いて行なう」ことの意味は、「聞いて行ないたい」という切なる願いを持ちつつ、その助けをイエス・キリストに求めて生きるということにほかなりません。できない者ではありながらも、「聞いて行ないたい」という切なる願いにあふれている者であるということです。
本日のみことばは「聞いて行なう」ことによって、いやし主である神様との関係が築かれ、主はその者をいやされるという確信を持たせるみことばなのです。
イエス・キリストを信じる私たちにとっては、「聞いて行ないたい」と願っているので、神様との関係が保たれており、それゆえに神様のいやしにあずかることができるのです。

このみことばの土台の上に生きる

「主はいやす方」であるという確信が、私たちの心の土台になっていなければなりません。必要なときに思い起こすことではなく、「主はいやす方」であることが、私たちの当たり前の考えとなっているということです。この考えの上に人生を築くことが必要です。そうすれば、嵐が来ても倒れません。
私たちが病を恐れるのは、それが死を連想させるからです。しかしそのようなときにも、私たちは希望を持つことができます。私たちがいやしを必要としているのは、単に病の症状が取り除かれるということにとどまりません。
考え方がいやされる必要があります。不幸になる考え方、後ろ向き、絶望する心、考え方自身が病んでいること、これらが肉体の不調の根底をなしていることがあります。「主はいやす方」であることが心の土台になっているなら、これらをもいやされる必要があると、主に立ち返ることを求めることにはならないでしょうか。
習慣がいやされる必要があります。病の多くは悪い習慣によるものです。そのような場合、症状が取り除かれても、またその日から悪い習慣に体をゆだねることになります。体は、あなたのそのような扱いに、悲鳴を上げ続けているのです。「主はいやす方」が土台となっている人は、習慣がいやされることを求めるのではないでしょうか。
信仰がいやされる必要があります。健全な信仰は、主を心から愛します。人々を心から愛します。不信仰とは、信仰が病んでいることです。たとえ病の症状がいやされても、信仰が病んでいるなら、悪魔のしたい放題に身を任せていることになります。すぐにもわずらいが押し寄せて来るのは当然のことです。
「主はいやす方」が心の土台となっている人は、信仰がいやされることを切に求める人です。
このように、「主はいやす方」であるというみことばが、確信となっている人は、岩の土台を持っている人であり、この岩の上に人生を築きますから、試練やわずらい、問題が起きても、決して倒れることはありません。「いやす方」に取り扱われて、立ち上がって行くのです。

13.7.21 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(2) 私は神に赦されている

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(2) 私は神に赦されている


「ヨハネ 8:11 彼女は言った。『主よ。だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」

姦淫の女性

冒頭の聖書のことばは、姦淫の現場で捕まえられた女性とイエス様との会話です。姦淫を犯せば、石打の死刑と律法に定められています。人々は、イエス様がどのような判断をするのか、試そうと思って、この女性を連れて来ました。
しかし、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われたイエス様のことばに、誰も石を投げることができなくて、みな、そこを去って行ったのでした。そして、イエス様は言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」これが、神様の御心であり、イエス・キリストを信じる私たちに対する、神の思いなのです。

人生の土台

先週に続いて、人生の土台について、学んでまいりたいと思います。みことばを行なうことが、岩の基礎となるのだと教えられました。この基礎の上に家を建てるなら、嵐が来ても、家は倒れることはない、ということが主の教えでした。
みことばを行なうことを土台とする、ということは、みことばが私たちの心の根底をなしており、私たちの考え、信念となっているということになります。この土台の上に、生活を営むことです。人生を築くことです。

主の赦し

今回は、「主の赦し」について、取り上げています。「主の赦し」がどのように私たちの心の土台となる必要があるのでしょうか。
神様の基準によれば、罪を犯したものは、罰を受けることになります。姦淫の女性が、石打の刑に処せられるべきであったようにです。しかし、そのような女性を主は赦されました。
神様の御性質は、あくまでも罪を犯したものを罰することですが、イエス・キリストは罪人である私たちを救うために、この世に来られました。誰でも、イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、神様に受け入れていただけるのです。姦淫の女性を裁くことのできる、罪のない者は一人もいませんでした。イエス・キリストは裁くことのできる方でしたが、この女性の罪を赦されました。
主の赦しは、イエス・キリストが、私たち罪人の罪をご自分が負ってくださり、私たちの身代わりとなって、十字架で死んでくださったことによるものです。私たちは、裁かれなければなりません。しかし、信じる者のために、イエス・キリストが身代わりとなって、裁かれてくださったのです。これが神様の私たちに対する愛です。

あなたを罪に定めない

あなたが、イエス・キリストを信じたときに、それまでの罪は、みな赦されました。「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されたのです。このみことばが、心の根底の土台となっていなければなりません。
このみことばを行なうことが、土台となるわけですが、そのためには、私たちは、このみことばを受け入れなければなりません。赦しを受け取っていることです。主の赦しを受け取って、それが私たちの考え、信念となるまでになって、心の底に横たわっていることです。この土台の上に、人生を生きるのです。
もちろんですが、私たちはまた罪を犯す哀れな者です。主は「今からは決して罪を犯してはなりません」と言ってくださるのですが、私たちの問題は、それを守ることができないことです。

私は赦されている

しかし、「私は赦されている」と赦しを受け取っている(主の赦しの宣言を受け取っている)私たちは、この土台の上に生活をしています。赦されたことが、嬉しくてたまらない、という土台があるのです。
もし、新しく罪を犯しても、悔い改めつつ生きることを選択して行くことでしょう。悔い改めて、赦されて生きる、という人生(家)を築いて行くことになります。
「私は赦されている」ということを行なっている人、つまり赦しを受け取って、自分の考えや信念となっている人は、岩の土台の上に、人生という家を築いているのです。その人は、試練がやって来ても、倒れないのです。主に感謝します。

13.7.14 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(1) 私は神に愛されている

 みことばを行なうという土台の上に人生を築く(1) 私は神に愛されている


「イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」


岩の上に家を建てる賢い人

イエス様が、イエス様のことばを聞いて、それを行なう人は、岩の上に家を建てる人にたとえることができると言われました。岩の上に家を建てるなら、嵐が来てもびくともしないで、その家は倒れることがないように、その人もまた倒れることがないからだ、ということです。
一方、イエス様のことばを聞いてもそれを行なわない人は、砂の上に家を建てる人と同じようだと言われました。砂の上の家は、嵐が来ると土台ごと流されてしまうのです。そのような人のことを、愚かな人と呼ばれ、試練が来ると、倒れてしまうことになると言われました。

みことばを行なうこと

私たちは、イエス・キリストを信じて救われました。行ないによることではなく、信仰によって救われたのです。神様のみことばに賛成し、それを行ないたいと願いましたが、悲しいかな、それができないことを認めざるを得ません。このような者が救われるためには、ただただ救い主イエス・キリストにすがる他ありません。この信仰が認められ、受け入れていただいたのです。
ですから、信仰には、神様のみことばに賛成する姿勢が含まれており、みことばを行ないたいという切なる願いが含まれているのです。
心の中にある、人生の土台は、できない者でありながらも、みことばを行ないたいという、強い思いのあることです。神様のことばが、根底に明確にあり、それが自分の考えとなっていることです。つまり、あらゆることをきっかけに、みことばを行なおうとする行動に出ることになります。
たとえば、「愛しなさい」というみことばを受け入れています。これが土台となっていることは、好かれても、嫌われても、感じが良くても、悪くても、その時々に、心が「愛そう」と反応することです。結果に関係なく、その都度、なお「愛そう」とすることになります。
それでは、みことばが人生の土台となることについて、さらに具体的に考えて行きましょう。

愛されている

心の根底にみことばの土台が築かれるためには、私たちが、神様のみことばを受け入れなければなりません。私たちが感じるか感じないかに関わらずです。理解できるか理解できないかに関わらずです。
神様は、「あなたを愛している」と叫ばれています。私たちは、このみことばを受け入れ、心の土台としていなければなりません。いくら、神様が「愛している」と言われても、私たちがそれを受け入れるのでなければ、決して私たちの心の中にそれが土台として築かれることがないのは、誰にもわかることです。
神様が「愛している」と言うのですから、私たちは、「愛されている」と受け取らなければなりません。「私は、神様に愛されている」というのが、私たちの人生の土台です。

愛されているという土台の上に人生を営む

「私は神様に愛されている」という全く自分の考えとも信念ともなりきったものが心の中にあるということです。ただ神様がそう言われているという理由だけでです。これを土台として、この上に人生を築くのです。
どのような家を建てようとも、主は、問われません。土台だけを問うてくださっているのです。土台が、砂か岩かということです。「私は神様に愛されている」という土台の上に人生を生きることが、岩の上に人生を建てることです。試練が来ても、決して、倒れません。
「神様に愛されている」という土台の上に、朝起き身支度をし、学校に行き勉強をするのです。この土台の上に働くのです。何を勉強しようと、どのような仕事をしようと、問われていません。この土台の上に、遊ぶのです。この土台の上に、どこに進学するか、どこに就職するか、誰と結婚するか、などを選択して行くことです。土台だけが問われているのです。
決して倒れない人生のゆえに、主に感謝します。

13.7.07 黒雲の中で学ばされて

 黒雲の中で学ばされて


「ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 」


さて、今回は先週の続きです。キャロザース師が、主をほめたたえる生活を続ける中で、胃の苦しみの中を通らされました。ついに、信仰により、2000年前の十字架で、いやされていることを受け取りました。しかし、なお苦しみは続きます。
(讃美の力 第7章 主イエスの喜び P243 から続く)

手術をしても異常は発見できず

「軍を去る前に、医師たちは私の胃を手術することに決めました。ところが切開してみたところ、私がその時まで数年間悩まされてきた苦しみの明白な原因を、医師たちは発見できませんでした。従って彼らは私の状態をよくするためにどうすればよいのか分からなかったのです。
手術後、病院のベッドに横たわっていた時、苦痛が以前になかったほど激しくなりました。鎮痛剤も麻酔薬も効きませんでした。何時間も眠れず、本当にその部屋の暗闇が押し迫ってくるかのように感じながら横になっていました。私はまわりをうろついている悪しき闇の力を身近に感じ、その恐怖に屈服しそうになる誘惑と必死に戦いました。死にたくはなかったのですが、このような惨めな姿で生きていることを恐れたのです。」

どのようになろうともかまいません

「その暗闇がいよいよ大きくなったと見えた瞬間、私は叫びました。『主よ何が起ころうとも、どのように惨めになろうともかまいません。このこと全部をあなたに感謝します。あなたがここから何かよいことを起こそうとしておられることを信じます』
その瞬間、病室の暗闇は太陽よりも輝く白光で破られ、追い払われました。」

数年前の幻で見せられた光

「その光は数年前、幻で見たのと同じような輝いた光でした。その時、聖霊がその幻を私に説明してくださいました。すなわち、陽の輝く牧場をおおうように黒雲がただよい、その雲の上には輝く白光があるのです。雲の上高く、キリストがすでに私たちのために確保してくださっているよろこびと祝福があるのです。
しかしそこへ到達するためには、混乱と苦しみの黒雲を真っすぐに貫くはしごを上らねばなりませんでした。その雲の中は、私たちの普通の感覚----見、聞き、感じる----を用いても、方向を知ることができないのです。ただ信仰によって一段一段神を讃美することによってのみ、そのはしごを上ることができるのです。
暗い雲を貫いて上っていく間に、感覚に頼る気持が取り除かれて、神のみ言葉に信頼することを学んでいくのです。讃美のはしごは私たちを高く天に引き上げ、そこでキリストと共なる座を与えてくれるのです。
この驚くべき輝く光に全身を包まれて病院のベッドに横たわっていた時、かつて幻であったものが今や現実になっていることを、私は突然悟りました。」

黒雲の中で学ばされて

「神が私の苦しみを益とされていると信じて、信仰によって歩んできた数年間は、暗闇と不安の黒雲の中を上っていく数年間だったのです。その雲がなければ、私は自分の感覚と感情に頼る気持を捨てることを決して学ばなかったでしょう。
今や、私はその黒雲をさらに大きくするすべての状況から神に感謝できるようになりました。他のどんな方法で私は、このように神に信頼することを学び得たでしょうか。他のどんな方法で私は、このようにうるわしい光とよろこびにひたることを経験し得たでしょうか。」

いやされた

「病院から退院した時、胃の状態についても神は何かをしてくださったことを知りました。かつては何時間もの苦しみにさらされたその食物にも、もはや悩まされなくなりました。何年もの間、遠ざけていたいちごも、りんごも、アイスクリームも今は安心して食べられるというこの新しい自由に私は歓喜しました。
過去数年間、他人のために祈れば、すぐにいやされたのです。けれども神は私をみ言葉に信頼させることによって私の信仰を強める道を選ばれたのでした。」

第一の(主に信頼する)ことを第一にせよ

「讃美は神のいやしの力を解放します。しかし、いやしは第二次的なものです。自分自身の安楽や、いやされて体の苦しみから解放されたいという願いを第一にしている間は、私たちは間違った見方をしているのです。そのような態度をもっていると、結局は私たちのための神のご計画がわからなくなります。」