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「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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「ローマ人への手紙 10:11 聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」
なぜ明確な結果にならないのか
このようなことを考えたことはありませんでしょうか。「信じたのに、何も変わらない」「信じているのに、一向に変わらない」「これだけ信じているのに、癒されない」などのことです。
「確かに信じて、心が落ち着いた。心が晴れたような明るい気分になれた。しかし、結局、何も変わらないではないか。経済はいつも不足気味だし、家族関係のことも、願っているような劇的な変化を起こしてはいない。体調だって、また悪くなって、気分が塞ぎがちだ。聖書に出てくる人のように、明確に変われば、もっと真剣に信じられるのに。」
「信じたら、劇的に良くなって、信じる気持ちが弱くなると、途端に悪くなるなら、とても納得できるのに、なぜそうならないのか。信じない人たちの中にも、結構楽しく幸せに生きている人はいっぱいいるではないか。私の信じていることは本当に正しいのだろうか。」と考えるようなことはありませんか。
人生には、なぜ明確な結果が現れないのでしょうか。善人と悪人の受ける報いが、結果が、もっと明確になれば、みな幸せになれるのにと思ったことのある人は多いと思います。
祝福の基準
神様の私たちに対する命令は、神様の戒めに従いなさい、ということです。神様の戒めを守るなら祝福される、神様の命令を守らないなら呪われる、という明確な基準を神様は示してくださっています(申命記 28章)。聖書によりますと、祝福とは、豊かな経済であり、人々から尊敬を受け愛される人間関係であり、家族に恵まれることであり、健康で長生きの人生が与えられることです。一方呪いとは、貧しくなることであり、人間関係や家族関係でのトラブル、あらゆる病気であり、不幸な人生を送ることです。
これらの中にあって、私たちは愚かではありませんから、呪いを避け、祝福を受けようと、神様に従おうと決意したのです。恵まれないのは、神様の命令に従っていないからと分かりましたから、従って生きようと決意し、従って生き出したのです。 しかし、明確な変化というものが続きません。期待していたような手応えが感じられません。そこで、もっと明確に結果がすぐさまにでも表れれば、いくらでも神様に熱心に従い続けるのに、と考えたりもするのです。
ちょうど、エアコンのサーモスタットが、ある一定の温度になれば、冷暖房を停止させて、送風に切り替わるというように、信仰においても、態度や行動によって、祝福と呪いのオンオフが明確に表れれば、どれだけでも熱心になるさと思うのです。
聖書には、確かに神様の祝福の基準と約束が記されていますが、果たして、私たちはそれを満たしているでしょうか。また、どうやればそれを満たせるのでしょうか。
取り除かれない自己中心
私たちの根本的な問題は「自己中心」ということです。神様の戒めを守るのも、今までの自己中心を捨てて、これからは神様中心で生きるということに他なりません。自己中心を捨てよ、自分のしたいようにするという「わがまま」を捨てよ、神様に服従せよ、という命令をどれほど満たすことができているでしょうか。
私たちは幸せを求めて生きています。例外なくみなそうでしょう。幸せになるためには、自己中心がその敵であり、これを捨てなければならないと、命じられているのです。自己中心を捨てるなどは、とても苦痛なことと感じるかもしれません。しかし、本当は自己中心を捨てることが、もともと私たちが望んでいた、幸せを手にする唯一の道なのです。私たちはそれを素直に信じることができていないのです。
もし、私たちから見て、良いことを行うときに、とても恵まれて、悪いことをするときに、苦しい思いをする、というようなことが明確なオンオフとして表れれば、どういうことになるでしょうか。私たちは確かに命令には従うでしょう。しかし、その動機は、そうしないと祝福されないという「恐れ」によってであるでしょう。あるいは「損得勘定」によってです。
それでは、自分のしたいようにしたいという自己中心の思いは残ったままです。解決されていないのです。行動は、神様の望まれるものかも知れません。しかし、心は悪魔のものであるということが、まだ解決されないままです。
信頼
信仰とは、神様に対する絶対的な信頼のことです。私たちは、神様に信頼して生きるのです。たとえ、自分の思うように行かない中でも「それでも信頼し続ける」ことが求められています。神様はそのように信頼するものを失望させることはありません。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」のです。
自己中心が砕かれてこそ、私たちは主に信頼することができます。自己中心が生きていれば、当然、主に対する信頼が揺るぐことになります。人によっては、何度も砕かれる必要があるかも知れません。しかしそれは、形を変えた主からの祝福です。
どんなことがあっても、妨げられず、主に信頼し続けることができる、自由な信仰の素晴らしさに思いを馳せましょう。あらゆる点で祝福されている、あなたの姿が見えませんか。
「マタイの福音書 5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
心がきよい人は神を見る
イエス様は「心がきよい人は、神と出会うことができる幸せな人だ」と言われました。神様を見る条件が、こころがきよいということです。聖書は、私たちに対して、きよさを求めよ、と命じています。「心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(箴言 22:11)」
この箴言のみことばによりますと、きよさはまた、心に争いや悪口のないことでもあります。幸せであるためには、心に完全な汚れのないきよさを持つことが求められているのです。私たちが神様を愛するなら、「心のきよさを愛」する人、つまり心のきよさを求める人でありたいものです。
きよさを求める
きよさを求めることが必要なのですが、実際のところ、私たちにはきよさがないということもまた、認めなければならない事実です。私たちはささげ物として、きよさをささげることなどできません。差し出せるきよさなどないのですから。
ではどうすれば良いのでしょうか。確かに「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙 12:1)」と命じられています。ないものをささげよと要求されていることになります。
この場合、私たちがきよさにあずかるのは、イエス・キリストを信じる信仰を通してであることを理解しなければなりません。誰でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、その人は罪赦されてきよいとされます。きよさを求めるとは、イエス・キリストを信じることに他なりません。
「神を見る」ことは、きよくないとできないことです。きよくない私たちが、きよさを求めるためには、主であるイエス・キリストを見上げることが求められているのです。
澄んでくる
差し出せるきよさなど何もない、このような私たちですから、汚れた目で、汚れた心で、イエス・キリストを見上げることになります。ところが、このような汚れた目であっても、汚れた心であっても、キリストを見上げるなら、その目は、そして心は、だんだんと澄んでくる、という奇跡が起こるのです。
私たちは、イエス様を見上げ続けなければなりません。きよさは神様の御性質であり、神様からいただかなくては持つことのできない特別なものと言えます。私たちがイエス様を見上げ続けるとき、私たちはきよめられて行きます。濁りは澄んで来るのです。感謝します。これならできます。
イエス様から目を離さない
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル 12:2)」と、聖書はイエス様から目を離さないようにと命じています。私たちが道を誤るとき、敗北する時があるとするなら、主から目を離してしまっているからです。決して、イエス様から「目を離さないで」いることが求められています。救われる時も、救われた後も、それだけが求められているのです。あなたは「心がきよい人」と呼ばれます。あなたは「神を見る」のです。
「マタイの福音書 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」
あわれみ深くあれ
聖書は、私たちにあわれみ深くあれと命令しています。そして、あわれみ深くあるなら、その人はあわれみを受けると約束しています。
神様は「あわれみ深い」方です。私たちは、神様の憐れみによって生かされていることを知らなければなりません。イエス様がたとえ話の中でお話しされたように、私たちは神様のあわれみによって、返すことのできないほどの負債を全額免除された者です(マタイ18章)。イエス・キリストを救い主と信じて、滅びに至る罪から救われました。救われているのは、一方的な神様のあわれみによってであることを感謝します。
また「多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された(マタイ 14:14)」のです。イエス様の目的は、私たちの救いのために、十字架にかかられることでした。ですから、そのことを第一優先にされました。十字架のみわざを終えれば、信じる者に、救いといやしの道が開かれます。十字架は、目の前のいやしよりも優先される重要なことであったわけです。それにもかかわらず、イエス様のみ前に進み出た人は、全員いやされました。後回しにされなかったのです。主が進んでいやしてくださった動機は「あわれみ」によることなのです。主は、すべてにわたってあわれみ深いお方です。
そのように「あわれみ深い」主が、私たちに向かって、あわれみ深くありなさいと言われるのは、すでにあわれみを受けた私たちが、さらにあわれみを受けるためです。
あわれみ深いとは
一般的には、あわれみ深くあるということは、人に対してかわいそうと思う気持ちを強く持つこと、と考えられているのではないでしょうか。かわいそうな人を見て「気の毒に」と同情する思いを持つことが、良いこととされていると思います。もちろん、それが悪いことではありません。しかし「あわれみ深い」ということは、もっと深い関わりにおいて存在するものです。
例えば、映画を見て、登場人物に自分の感情を重ねて、涙を流すということは、よくあることだと思います。あるいは、知り合いの人に同情を寄せる場合もあるでしょう。これらのことも、聖書で言う「あわれみ深い」とは、少し違うことなのです。
「あわれみ」とは、生身の人間との関わりにおいて、生じるものです。映画の登場人物は、見ている私たちを傷つけることはありません。また私たちも登場人物を傷つけることはありません。知り合いでも、生身の関わり、付き合いをしていなければ、傷つき傷つけられることはないでしょう。しかし、そこには、本当の深い「あわれみ」は生まれてこないのです。
生身の人間を意識する
人は、おうおうにして生身の人間との関わりというものを避ける傾向にあります。クリスチャンであってもそうなのです。
人間関係が深くなればなるほど、その交わりは、良いにつけ悪いにつけ、ドロドロとしたものではないでしょうか。そのような人間関係に、疲れる思いを感じている人もいると思います。家族や、職場の人間関係などで多いと思います。
そこで、その疲れがいやされることを求めて、教会に来るわけです。そして、静かな神様との交わり求めるわけです。生身の人間との距離を置いて、心の平安を一時的には得ているわけです。しかし、そのような私たちに対して主は、あわれみ深くありなさい、と語られるのです。
教会に来てまでも、人間関係のわずらわしさを味わいたくない、ということで、相手の心の深い領域には触れようとはしません。また、自分も心の深い部分を見せることもありません。そんなことをしたら、わずらわしくて、辛くて、耐えきれません。表面的には、楽しく交わりをしていますが、どこか病んでいるのです。
本当はあわれみを必要としているのは、私たち自身です。主のあわれみが私たちをいやします。「あわれみ」を受ける人は、「あわれみ深い」人なのです。つまり、「あわれみ深い」とは、生身の人間との関わりに生きることです。生身の人間との関わりに生きる人は、あわれみを受け、奇跡的な、主のいやしと解放を受けるのです。
主のあわれみを知っている
とても好きな人、とても素敵な人、とても良い人、友達になりたい人、頼りになる人、そんな人との関係の中にいて、とても幸せな気分で、その関係を失いたくありません。でも、そこに「あわれみ」が存在するでしょうか。
目の前にいるそのような良い人を見て「この人も生身の人間だ。私はこの人の生身と付き合って行く」と、もし決意するなら、つまりその人の生身を認めようとするなら、途端にそこには厳しいものを感じないではいられません。その人をあわれむ心がなければ、これ以上近づきたくないことです。
私たちには「あわれみ」の心は、もともと持ち合わせていないことを知りましょう。それは主にあることであって、主からの「あわれみ」を知っていなければなりません。あの途方にくれた環境から救われたこと、罪の赦しをいただいて重荷を降ろしたこと、奇跡的にいやされたこと、変えられた家族関係、満たされた経済、生きる希望が与えられたこと、すべては主の「あわれみ」によって与えられたことです。「あわれみ深い」お方が、私たちの生身に寄り添ってくださいました。
主の「あわれみ」を十分に知っていて、主の「あわれみ」に感謝を忘れないで生きていること、これこそが「あわれみ深い」ということです。そのように生きることで、「あわれみ」を受けるのです。
「あわれみ」を知っているので、幾らかでも生身の人をあわれみたい、しかしその「あわれみ」がないので、本当に申し訳ないと思って生きています。それでも、その人は、常に主の「あわれみ」に対する感謝の中で生きています。相手に申し訳ないと思うような対応しかできませんが、そこに主の「あわれみ」を受けますから、失望させられることはありません。「あわれみ深」くあろうとし続けることが、人も自分も、いやされることになるからです。
人は誰でも、人も自分も、自身の生身の部分で苦しんでいます。そこに主の「あわれみ」が必要なのです。「あわれみ深い人」は、自分がすでに持っている「主のあわれみを受けたい」という思いを人に届ける人です。
「マタイの福音書 6:30-34 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
私たちの必要
私たちは、日常の生活の中で、幸せであることを望みます。おそらくすべての人が、望んでいることです。その願いの中身は、大別すると、健康であること、経済的に恵まれること、家庭生活をはじめとする人間関係が恵まれることです。私たちは日頃これらのことを、願っているわけです。そして、神様を信じる私たちは、神様にこれらのことを祈り求めます。
しかし、イエス様は「心配するのはやめなさい」と言われます。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」とも言われています。つまり「私たちの生活の心配事は、神様を信じない人たちも、必死になって求めているではないか、あなた方はそうであってはいけない」と言われていることなのです。
では、神様を信じる私たちは、どうあれば良いのでしょうか。私たちが信じる神様「天の父」は、私たちが日頃生活の中で求めていることはみな「必要であることを知っておられ」るのです。だから、信じるなら、心配するなということなのです。
私たちが求めるべきもの
神様を信じない人たちが求めているように、同じように求めるのはやめなさい、と命じられています。なぜそうしてはいけないと言うのでしょうか。
「天の父」は、私たちの必要をすべて知っておられるお方であり、私たちの必要のすべてを満たしてくださるお方です。「天の父」を信じるなら、事柄そのものではなく、与えることのできるお方「天の父」をまず求めなければなりません。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求め」ることこそ、必要なことなのです。神様を求めるということは、神様が自分の生活に臨んでくださることを、求めることです。つまり、私たちが神様の支配下に生きることを求めるということです。
神様の御支配の範囲が神の国です。ですから神の国を歓迎しなければなりません。そこで、神の国を「第一に求め」ることが必要なことです。さらには、神の国には、神様の正しい基準(「義」)があります。神様を求めるということは、神の国を求めること、神様の義を求めることなのです。そうすれば、必要は満たされるのです。心配するよりも、神様を求めることなのです。
義に飢え渇け
イエス様は「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ 5:6)」とも言われました。このみことばにおいても、必ず満たされると宣言されているのです。
もし、私たちが神様の「義」を「まず第一に求め」ているなら、「それ(「義」)に加えて、これらのもの(日常の必要)はすべて与えられ」るということです。ですから、いつも「義に飢え渇いている」人こそが、幸せな人なのです。必ず満たされた人生を送ることになるのですから。「義」に対する「飢え渇」きの姿勢を持って生きる人が幸せな人生を送る人と信じなければなりません。
誰でもそうであると思いますが「義」(ただ)しくあることの難しさを覚えることでしょう。しかし、ここでは義しくあれと言われているのではなく、「飢え渇」けと言われているのです。心の向きの問題です。例えば、何かの技術、才能に秀でている人の特徴を見るなら、その人にある特徴は「そのことが好きで好きでしようがない」という思いです。私たちが「義」を求めるとき、「義」であろうとする努力が必要なのではなく、「義」が好きで好きでしようがない、という思いであることが求められていることです。それが「飢え渇」きを生むのです。
心配の原因
病の癒しについては、必死で求めるでしょう。経済や家庭の問題についても、そうするでしょう。そのような「どうしても」という思いを神様の「義」しさに向けることです。それが満たされた人生を送る秘訣です。
もし、満たされない部分があるなら、「義に飢え渇」きましょう。何かの心配があるなら、「義に飢え渇いて」いないからということではないでしょうか。「義に飢え渇いている」なら、必ず必要は満たされるのです。「義に飢え渇いている者」になりましょう。
「マタイの福音書 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」
地を受け継ぐ
「地を受け継ぐ」とは、簡単に言いますと、この地上であらゆる祝福を受けることです。つまり、一般的なことばで言いますと、成功した人生を歩むことです。
受け継ぐとは、相続することです。財産を親から相続することによって、その人は豊かで、社会的にも満ち足りた人生を歩むことができます。単なる経済的な豊かさだけではなく、家庭生活も人間関係も祝福されたものとなる可能性が大きいと思います。
天の御国においては「柔和な者」が「地を受け継ぐ」のです。「柔和な者」が豊かな人生を送るのだ、ということです。
考えてみましょう。私たちの目には、この世においては、「柔和な者」は損をしてしまうように映ります。権力を駆使し、あらゆる力を用いて、自分の得たいものを得ていくことが、成功のためには必要だと感じないでしょうか。
でも「柔和な者」がそんなことをすることは考えられません。とすれば、神様が与えようとしておられる祝福はこの世のやり方で得られるようなものではなさそうです。
永遠の相続地
イスラエルの民にとっては「地を受け継ぐ」とは約束されたカナンの地を相続することを意味しました。神様から与えられた永遠の相続地でした。カナンは、アブラハムとその子孫に約束された地です。
アブラハムは、神様の命令に従って、甥のロトとともに約束の地にやってきました。しかし、旅を重ねる中で、持ち物や家畜、しもべたちがたくさん増えました。アブラハムとロトが一緒に生活するにはあまりにも混雑、混乱する状況でした。そこで、二人はそれぞれ選びたい場所を選んで、別れて生活することになりました。アブラハムは、ロトに好きな方を選ばせて、自分は残りの貧しい土地を選びました。それを神様から与えられたものとして受け取ったのです。
ロトは先に土地を選ぶことを許されて、与えられた権利を行使し、目に麗しい土地を選びました。その土地はどうなったでしょうか。その土地は、今は湖の底に沈んでいます。しかしながら、「柔和」な決断をしたアブラハムの受けたものは、今の子孫に至るまで、神様からの祝福を受けて残っているのです。
この世の目先の素晴らしさに飛びついて、はたまた自分の権利を行使して、一時的に得られたと思うものは空しい結果になって行きます。神様が与えようとしている祝福は、この世の祝福とは比べ物にならないほどに確かなものなのです。「柔和な者」が地を受け継ぐのです。
主を待ち望む
詩篇 37篇9節に「主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」とあります。「地を受け継ぐ」のは「主を待ち望む者」なのです。ということは、「柔和な者」と「主を待ち望む者」は同義語ということです。「柔和な者」とは「主を待ち望む者」のことですね。
「主を待ち望む者」は主からの答えを待って、導きを待って、主に従おうとする人のことです。「柔和」とはもともと私たちに備わっていることではなく、主から与えられるものであると認めなければなりません。
「柔和」な人とは、イエス・キリストのことです。イエス様は「わたしは心優しく(柔和で)、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ 11:29)」と言われました。イエス様は「柔和」であると言われたのです。ギリシャ語の新約聖書原典では、同じ単語が使われています。
「主を待ち望む者」は、「主に依り頼」む者です。聖書は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言 3:5)」と命令しています。「地を受け継ぐ」ために是非とも「柔和」でなければなりません。「柔和」であるためには、「主に依り頼」む者でなければなりません。「主に依り頼」むためには、「主を待ち望む者」でなければならないのです。
真の強さ
この世の人は、自分の力に頼りますが、クリスチャンは、神の力に頼ります。そして、神の力は、神の前にひざまずく者に与えられるのです。また、神様との交わりに生きる者は、真の強さを持ちます。その強さは人を押しのけません。
何よりも「柔和」であれるのは、自己主張から解放されているからに他なりません。「主に依り頼」む人は、一切の自己主張を捨てることが喜びでしょう。
周りが華やかで、人が先に進んでしまっていくのを見るときも、決して、人をうらやんではいけません。私たちは神様から「地を受け継ぐ」のです。欠乏した惨めな状況でも、じっと忍んで「主を待ち望む」姿勢こそが「柔和」なのです。
「イザヤ書 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
人として歩まれたお方
イエス・キリストは、神が人となられたお方です。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ 2:6-7)」
人となられた目的が、人の罪の身代わりとして、十字架に死んでくださることでした。罪のない者だけが、罪人の身代わりをすることができることですが、人間の中には罪のない者など一人もおりません。神様は、罪人である私たちを救うために、自らが犠牲を払い、身代わりをするという計画を立ててくださいました。そこで罪のない身代わりの人が必要であるわけです。そのために神が人となる必要がありました。神であられる方、キリストが人となってくださったのです。十字架で死ぬためでした。
人生を味わわれたお方
イエス様は、十字架の生けにえとなってくださっただけではなく、地上で生きている時には、人としての人生をすべて経験してくださいました。
イエス・キリストの人生は「人が顔をそむけるほどさげすまれ」た人生でした。誰も「彼を尊ばなかった」のです。そういう意味で彼は「悲しみの人」でした。およそ人が人生の中で味わうであろう苦しみのすべてを味わわれたことでした。
心が病むという表現がありますが、まさに人であれば、病になってしまうほどの苦しみの環境の中に生きてくださったことです。ですから病にはならなくとも「病」の苦しみのほどを「知っていた」のです。
イエス様が人として、私たちと同じように、この地上を歩んでくださいましたが、私たちと違う点が一つあります。罪を犯すことはなかったということです。病むということは、罪の結果であり、心が病むというのは、心が病んでしまいそうな、その出来事に対して、罪の反応をするからです。罪の反応というのは、憎んだり、さばいたり、恨んだり、という怒りや気落ちの反応のことです。イエス様は、人が病んでしまうような、苦しみを経験されましたので「病」の入り口「を知って」おられましたが、罪の反応をされませんから、「病」にはなりませんでした。
私たちが知らなければならないことは、私たちのあった苦しみ以上の苦しみを、主はすでに味わわれているということです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント 10:13)」
私たちの悲しみに寄り添う方
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル 4:15)」主は私たちが経験するであろう悲しみをすでに経験されています。ですから、私たちが弱さのゆえに経験する悲しみをすでに知っておられるのです。私たちが、悲しみの出来事を経験するとき、主はその悲しみがどんなものかすでに知っておられます。そればかりではありません。「同情」してくださるのです。
イエス様は、死んだラザロを前にして、人々の面前で涙を流されました(ヨハネ 11:35)。私たちの悲しみをも、同じように知ってくださって、私たちの悲しみにご自分の悲しみを重ね合わせて、ともに悲しんでくださるのです。そして、そのような主の反応に出会うとき、私たちは慰めを受けるのです。
愛する先にあるもの
私たちは、人を愛することを、教えられていますが、人を愛するとき、さらにその先にある究極の思いは、人の悲しみを自分の悲しみとすることです。それは、すでにそのような悲しみを知っている者だけが、することができることです。主はご自身の悲しみに耐え抜いてくださいました。罪を犯すことなく、病むことなく、勝利してくださったことです。父からの慰めを受け「自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足(イザヤ 53:11)」されました。
そのような方ですから、人の悲しみを自分の悲しみとして、重ね合わせることができるのです。だから私たちは、ともに悲しんでくださる主によって、確かな慰めと勝利を受けるのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ 5:4)」
さらには、主に勝利させられた私たちは、その慰めの経験により、人の悲しみに寄り添い、人の悲しみに自分の悲しみの経験を重ね、人と一緒になって人の悲しみを悲しむことができる者とされるのです。あなたは、悲しみの人であり、人の慰めの器となるのです。
「第一コリント 人への手紙 4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」
乞食に過ぎないのだ
「乞食に過ぎないのだ。本当だ。」とはマルチン・ルターのことばだそうです。「人は信仰によって救われる」との信条のもと、司祭であった彼は、教会に対して質問状を突きつけました。そのことで、彼はカトリック教会を破門になりました。それが、プロテスタント教会の始まりであるとされています。その後も一生にわたって、人々の信仰を導いた彼ですが、神様の恵みによって、すべてが与えられていることを深く悟るようになりました。
一生懸命に正しい生活に励んでも、結局、神様の求められる正しさには至ることができていない、という思いが常にありました。誰よりも正しく生きることを貫いたと思っても、心が晴れないという思いでした。救われないのです。
そんな彼が、悟ったことは、神様の要求される正しさは、イエス・キリストというかたちで、神様からの恵みとして与えられているのだ、ということでした。ただ受け取るだけと気がついたことでした。
人は神様からいただいてばかりで、本当に乞食であると、思ったことでした。それらすべてが神様からの一方的な恵みだと、しみじみ感じるようになった、という嬉しい気づきでした。
すべてはもらったもの
私たちの持っているもので、自分で身につけたり、生み出したりしたものは、実際は何一つないことに気づかされます。この世にこの体を神様からいただいて、生まれてきました。この命は神様からいただいたものです。お父さんもお母さんも、神様から私たちに与えられたものです。家族みんながそうです。
私たちの能力や力、これも与えられたものです。本当に私たちはいただいて生きているのです。ことばや考えもいただかなければ生きていけません。もらわないで自分で必要な考え方を生み出して生きようとしても、行き詰ってしまいます。イエス様が言われたように、人は神の口から出る一つ一つのことばによって生きるのです。
罪の赦しも、信じる信仰も、人を愛する愛も、与えることも、みな神様からいただかなければ、手にすることはできません。正しさも生きる勇気も、目標も、喜びも何もかも、よくよく考えてみれば、いただかなければ持つことはできないのだ、と教えられます。だから、聖書は「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」と問いかけているのです。
貧しいと悟れ
イエス様は山上の説教で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです(マタイ 5:3)」と言われました。私たち人間は、「心の貧しい者」で、何も持っていない者だと知らなければなりません。心が貧しいとは、霊的に自分を支える何物も持ち合わせていない、ということです。多少なりとも自分の心に、良いところ、満足できることが、ないということなのです。「少しはできている」とか「そこまで悪くない」とか、そういう思いさえ持てないほどに、愚かにも何もない、という状況なのです。
謙遜していうのではありません。謙遜には、よく見せることをあえて控えるという、自分を支えている自負心のようなものがあります。貧しいとはそれさえないということです。
実際に神様からいただかなくてはならないということを悟るためには、本当に自分は「心の貧しい者」だということを認めなければなりません。貧しさを本気で認めることを表すのに、的確なことばが「私はただの乞食だ」「乞食に過ぎないのだ」ということでしょう。開き直っていうのではありません。本当なのです。
すべていただいて生きるのだ
私たちが貧しさを本当に知れば、いただいて生きることにためらいはありません。いただかなければ、今日を生きていけないのです。今までは、成長しよう、良くなろうとしてきたかも知れません。しかし、そんな必要はありません。自分で身につけることなどできないのです。いただかなければなりません。いただけるのです。イエス・キリストを救い主と信じたことは、天の御国に生きられるようになったことです。つまり神様の支配下に生きることが許されたということです。神様の下で、ものを乞うて生きるのがクリスチャンです。
愛がないので愛をいただかなくてはなりません。忍耐がないので忍耐をいただかなくてはなりません。希望がないので希望をいただかなければなりません。喜びがないので喜びをいただかなければなりません。目標もやる気もいただけるのです。
いやしとか奇跡とかは、当然持っていないと知っていたので、いただこうとしてきたでしょう。しかし、そのほかの心の中にある見えない必要については、自分で身に付けようとしてきたのではありませんか。貧しさを悟ったなら、どんなことでも求めなければなりません。話すことばもいただいて話すのです。イエス様は「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです(マタイ 10:19)」とも言われています。
「いつかは今より成長して」「少しずつでもできるようになって」と思っているなら、そんな考えは捨てることです。それよりも今、いただくことです。
このことがわかりますと、とても楽になります。そして、実際にいただいて生きられるのだ、と実感させられます。汲々として、自分を奮い立たせることではなく、今もらおうとすることに全力を注ぐようになるからです。本当にもらえるんです。私たちは乞食ですが、主は憐れみ深いお方です。
「マタイの福音書 6:22-23 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
からだのあかりは目
全身が明るいかどうかは、目によって決まるということです。目が健全なら、全身も明るいというわけです。それだけ、私たちの体の調子は、目の元気度に表れているということでしょう。
目に元気が感じられなければ、やはり体全体の調子がとても悪そうに映ります。肩を落としながら、目だけは元気であるということは、考えられません。目に元気がない人は、肩を落として、からだ全体に元気がありません。
口で結構きついことを言っていても、目が笑っているなら、その人には、優しさが感じられるものです。目に優しさが表れているので、全身の雰囲気も優しいものと映ります。口は厳しいのにもかかわらずです。心が通い合っている者同士の会話などは、たとえ激しいものがあったとしても、目に本心が表れているものです。目が笑っているから、愛情は伝わっています。
そのように、からだのあかりは目なのです。目が暗いと全身が暗くなりますから、気をつけなさい、ということです。
目の光のもとの光
目が暗ければ、からだ全体が暗くなるということです。それなら、そのうちにある光が、暗ければ、その暗さは比較にならないほど暗くなるのではありませんか、とイエス様は言われたのです。
うちにある光とは、私たちの心にある光のことです。私たちはうちに光があるものだと、聖書は教えています。その光とは、私たちが信じる主イエス・キリストです。主は光です。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1:4)」
信じる私たちには、イエス・キリストの御霊が住んでおられます。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――(Ⅱコリント 13:5)」
イエス・キリストの御霊が、あなたのうちに住んでいると認めることが信仰です。この信仰によって、主は私たちのうちに住まわれるのです。つまり、信じるなら、光をうちに持つ者となります。このことは、私たちの思い込みとは違います。信仰とは主がしてくださったことに対する、信じる応答のことです。認めるということです。そうすると、その信仰を通して、事実として、主は確かに住まわれるのです。
そして、私たちは確かに、うちに光を持つのです。このうちの光が目のあかりの光源となり、目のあかりはからだ全体を明るくするのです。うちの光が明るくなれば、どれだけ全身が明るくなるか、想像できます。
あかりをさえぎるな
私たちの心にうれいがあれば、心はふさぎます。心は暗くなるのです。ところが、そんな時に、良い知らせを聞けば、心は晴れることになります。思春期に、日常がなんとなくつまらい感じになり、面白くないし、希望が持てない、やる気が起きない、ということが誰にでもあるものです。そんな時でさえ、想いを寄せる人からの連絡などがあったりすると、途端にいろんなうれいが吹き飛んでしまいます。心に光となる何かがあって、目が輝き、全身が明るくなるのです。起こる出来事によって、心のうちに光があったり、なかったりしているわけです。
私たちは、外の出来事に左右されることのない、うちに確かな光を持っていることを理解しなければなりません。私たちのうちにある確かな光は消えることはありません。外に起きる出来事のように、良かったり、悪かったりと、点いたり消えたりするものではなく、常に輝いているのです。もし、この光が目に輝いていないとすれば、私たちが心のうちで、さえぎっているからということです。どのようにしてさえぎるというのでしょうか。
それは、私たちが心のうちで、主の住まわれていることを認めないということによってです。いつも心のうちにおられる主を認めて生きることです。それが、あかりをさえぎらない生き方であり、目に光が輝くことになるのです。目が明るければ、全身が明るいのです。
主を賛美せよ
私たちは心のうちで主を見上げて、いつも主を賛美しなければなりません。主をほめたたえるということです。全てのものは、主の栄光を現すために造られました。主は賛美を求めておられます。もし私たちが主を賛美しなければ、主は道端の石に叫ばせるとさえ言われたことです(ルカ 19:40)。
主をほめたたえることは、主に賛意を申し上げることです。主に賛意を申し上げることは、主を認めることに他なりません。そのようにして、主をさえぎらないで、主の光を輝かせます。
賛美し続けるなら、いつも心が明るいのです。心が明るければ、当然目が明るいのです。目の明るい人は全身が明るい人なのです。その人の行いは明るい行いとなります。主に感謝します。
「マタイの福音書 9:20-22 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と心のうちで考えていたからである。 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った。」
あなたの信仰があなたを直した
12年の長血をわずらっていた女性が、イエス様によっていやされたお話です。彼女は、この方(イエス)の「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と信じて、イエス様の着物にさわりました。そして、いやされました。
「さわることでも」と思ったことでした。面と向かって出て行く勇気はありません。人目もはばかります。そんな彼女のできるすべてのことが、群衆の中からそうっと手を伸ばしてさわるという行為でした。
彼女はそれまでに財産の全てを使い果たすほどに、医者とか薬とかに頼ってきました。しかし、それも底をつきました。もうなすすべがないという、絶望的な状況でした。
そんな彼女に聞こえて来たイエス様のうわさです。知らない人がいないほど、イエス様のうわさは広まっていました。そのうわさを耳にし、イエス様が通られると聞いた彼女は、すぐさま立ち上がり、イエス様が通られる人混みの中に入って行ったことでした。
イエス様の着物に触ることができて、たちどころにいやされたわけです。そのとき、イエス様から力が流れ出るのをイエス様は感じられました。
イエス様がいやされたことは誰が見てもわかりました。しかし、イエス様は「振り向いて彼女を見て」「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われたのです。
この方だけを見る
「あなたの信仰」と主は言われましたが、私たちが持つべきである、主が要求されている信仰とは、どのようなものでしょうか。その内容について考えて見ましょう。
イエス様に出会うまでに、女性は、すべてのものを失いました。言わば、すべてのものをはぎ取られた状態です。そんな中で、ただ見上げるのは、イエス・キリストというこのお方だけでした。他には何もなかったのです。
自分の問題(病)を見ている間は、イエス様にすがることはありませんでした。また、それに伴い失った数多くのものを見ている間は、イエス様にすがることはありませんでした。
すべてがはぎ取られて、絶望したとき、彼女はイエス様だけを見ることができました。問題の大きさに捕われることなく、イエス様の大きさだけに目が行きました。
彼女の信仰は、イエス様だけを見る、まったく何ものも目に入らない、一途なものとなりました。この方だけを見る、この方に賭けた信仰でした。
本気で信じよう
あなたは、イエス・キリストというお方を信じていると思います。それは、神様がおられて、その神様を知るためには、イエス・キリストというお方を通してでなければならないと信じたからです。イエス様を見ることは神様を見ることです。イエスはまことの神であられます。
ここで、質問があります。神様がおられると信じながら、なぜ本気で信じることを控えている、かのような振る舞いをしているのでしょうか。もちろん私自身も含めてのことですが、なぜ信じているとは言いながら、神様は実際に今ここにいないかのように、生きているのでしょうか。実際に見えるかたちで、本当にそばにおられるときに、同じ振る舞いをするでしょうか。もっと、リアルに、喜んだり、期待したりするのではないでしょうか。
なぜ本気で信じて生きていないのでしょう。このお方に人生をかけていることが、自分にも人にも、明らかであるような生き方になっていないのでしょうか。
非常にベタな言い方ではありますが、なぜ本気で信じようとしないのでしょうか。本気で信じませんか。
失うものなし
私たちが主を信じたとき「神様がおられる。神様に人生を委ねよう」と決意したことでした。しかしその後は、神様がおられると本気で信じている様子ではなさそうな生き方です。本気で信じることを控えなければならない理由が、何かありそうです。
裏切られることを恐れているのでしょうか。それとも、神様を信じない人々の間で、人と違うことを恐れているのでしょうか。夢中になって人生をかけて信じて、恥をかくようなことになることを恐れているのでしょうか。
その全てにおいて、聖書は、私たちに対して「主に信頼せよ」と迫ります。信仰とは、神様に対する信頼に他なりません。
「この方に賭けてみよう」と言うときに、私たちは聖書に登場する信仰あると言われた人々が、私たちと同じ人である、とまず知らなければなりません。私たちと違って賢かったとか、強かったとか、純粋であったとか、いうわけではありません。私たちと変わらないのです。そのほとんどが、弱い人であり、罪深い人であり、愚かな人でありました。しかし、それでもその信仰がほめられたのです。違うところがあるのでしょうか。
女性の信仰は「きっと直る」、と主に対する信頼そのものでした。いやされたいという思いは、強かったことは理解できます。私たちも自分のことに当てはめますと、そのように思いますから。
「きっと直る」ということばには、現実的な期待が表れています。希望の域を超えてリアルな期待を持って、いや持たざるを得なくて、さわったことです。もしかしたら、という心配や、あるいは逆に、もしかしたらいやされるなどという、淡い期待ではありませんでした。
イエス様しか見えないのです。「イエス様が来られる」と聞いたとき、彼女は希望をわかせ、喜んだでしょう。私たちも信じようとするときに、同じような反応をすることでしょう。しかし、彼女と我々と、信頼して喜ぶ姿勢は同じでも、いやされるという期待は、彼女の方が確実にリアルなものです。
本気で信じる信仰の中身は、リアルな期待がいっぱい詰まったものなのです。その期待が、あなたを信仰の行動へと導きます。リアルな期待をしないで、失うものはあっても、リアルな期待にあふれて生きて、失うものはありません。
「詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
浮き沈み
私たちの生活には、大なり小なり浮き沈みがあります。感情面においての状態のことです。それが日々繰り返されています。
ある日は少しは喜んでいるように見えても、次の日は落ち込んでいるという具合です。さほど(と言っては失礼ですが)大きな問題が起きていないにも関わらずです。まったく、わずかなことで気分が保てなくなるのです。しかも、忙しい日々の中、嬉しいことに、いざ時間が取れても、やりたいことがあったはずなのに、何もやる気が起きません。基本的に、毎日が憂鬱です。
なぜ、感情の調子がなんともなかったり、悪かったりと、繰り返すのでしょうか。常に同じことを繰り返しているな、と感じている人もいるでしょう。
そして、少なからず「これでも、以前と比べたら少しは良くなった」と感じています。しかし、結局は成長していないのではないか、と薄々感じています。環境は変わった。多少は良くなった感じがする。でも、結局、浮き沈みする反応のパターンは変わっていないのではないか、と感じるのです。
こんな自分は変われるのでしょうか。また、変わる必要があるのでしょうか。どうしたら良いのでしょう。主の与えてくださる答えは何なのでしょうか。
エンジンを積んでいる
歌が得意な人とそうでない人がいます。歌が得意な人は、音(音程)がきちんと取れて、まるで楽器のようにスムーズに歌います。声を出して、リズムをとって、メロディを奏でる。それがとても楽しそうです。音が取れるのです。
反面、歌が得意だとは言えない人は、音を取ることが自分でできません。自分一人では、人が聞いて心地よい歌い方はできないのです。せいぜい独りよがりになって、楽譜を無視して、歌いたいように歌っているだけです。決して、人を心地よくさせることはできないのです。
しかし、そういう歌の得意でない人の中にも、自分で音は取れないが、一緒に歌ってくれる人がそばにいれば、割と正しく歌える人がいます。あるいは、楽器の伴奏があれば歌えるということもあります。
こういう人のことを「一応歌えるけどエンジンを積んでいない人」と言うのだそうです。つまり自分の心(頭)の中に音源を持っていないとうことです。しかし、一人で歌える人は、エンジンを積んでいる人で、音源を持っているのです。音階を自由に心で奏でることができます。正確に音が心の中に再現されているのです。
エンジンを積んでいない状態だ
さて、私たちの感情的、信仰的な浮き沈みは、このエンジンを積んでいない状態に似ていないでしょうか。
信じるには信じました。しかし、信仰の自立が果たせていません。神様のみことばを直接聞くことができていないのです。人から言われれば、納得することはあります。みんなと一緒に信じるなら、その気にもなれます。つまり、外からの建て上げがされている状態です。エンジンが外部にあるのです。常に牽引、つまり引っ張られてなら、動くことができている状態です。それでも、建て上がっていることは感謝なことです。しかし、続かないのです。
信じたくらいですから、聞く姿勢は持っています。素直なところもあります。また、信仰的でもあるでしょう。
この場合のエンジンは、他の人のことばや、他の書物や、ビデオや、インターネットなどです。あるいは日々の出来事などです。しかし、それらに触れていないときは、感情的にも信仰的にも落ち込んで行きます。自分ではエンジンを積んでいなので、自分で建て上げることができないのです。
そばに火があるときは、勢いよく自分も燃えますが、一旦火が離れていくと自分では燃えることができなくて、自分で火を消してしまいます。火災の安全を守るために作られた、自消性のプラスチックがあります。そばに炎があるときは、熱せられて炎を上げることがあっても、 原因である炎が遠ざかれば、 自分を自分で消すことができる材料のことです。自消性と言います。
まるで、エンジンを積まない人は、信仰の自消性があるかのようです。みことばを聞いて喜んで受け入れるのです。しかし、根を張らないので、しばらく続くだけです。エンジンがないからです。こういう人のことを、イエス様は、岩地の人と言われました(種蒔きのたとえ)。
エンジンを積んでいる人
私たちクリスチャンは、御霊というエンジンを積んでいる者といえるでしょう。私たちは、御霊というエンジンを積んでいる「生ける神の宮なのです (2コリント 6:16)」。
ダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた」のです。つまり自分の内に主の働きを認め、主に服従して生きたということです。その結果、彼はいつも御霊によって建て上げられて生きました。それで、外的環境や心の中が揺れるようなことがあっても、いつもしっかりと立ち直ることができているということです。それを「主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」と表現しています。倒れそうになりながらも、いつも主に支えられているということです。問題があっても、瞬時に自分の中で解決されているということです。自分で燃えるのです。
明け渡しの重要性
神様を主として受け入れました。このお方に服従して生きるという決意です。このことの重要性を改めて考えてみましょう。
服従するとは、神様のなさることを喜んで受け入れるということです。聖書は「いつも喜んでいなさい(Ⅰテサロニケ 5:16)」と命令しています。主のなさることを受け入れ、信頼することです。その姿勢は、ただ信じて、喜んで疑わないことでしょう。今の現状が主のなさっていることだとまず認めなければなりません。
主には、私たちに対するご計画とお考えがあります。それらはみな、私たちにとって良いこととなる、と信じなければならないのです。その信仰を私たちの内に確立したい、と願っておられるのが、主の御心なのです。
今日置かれているこの場所で、主の主権を認めます。喜んで「私はここにいます」「私はここにいたいです」と叫ばなければなりません。現状がどうであれ、神様の御心は私たちが幸せになること、癒されること、家庭が祝福されること、豊かになること、であることを私たちは知っています。しかしながら、現状を見るとき、そうは思えないということが問題なのです。
エンジンはすでにあっても、「ここにいたいです」と賛成しなければ「エンジン搭載」とはならないことです。
「完全な明け渡し」という、結局、この問題を解決しない限り、浮き沈みは繰り返します。そんな中、一生懸命、浮こう浮こうとする努力を捨てて「エンジン搭載」で生きられるのが信仰です。
「ヨハネの福音書 3:14-15 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
十字架につけられなければならない
イエス様は、ニコデモに対して「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。「上げられる」とは、十字架にかけられる、という意味です。イエス様ご自身が、十字架にかけられる必要がある、と言われたのでした。その理由が、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」だということです。
イエス・キリストの十字架が、自分のためであると信じるなら救われます。私たちは、おそらくこのことをよく知っています。あなたも信じておられると思います。では「モーセが荒野で蛇を上げたように」とはどういうことなのでしょうか。
仰ぎ見れば生きる
イスラエルの民は、神様によって、エジプトの奴隷生活から救い出され、そしてモーセに導かれて、約束の地へと荒野を進んでいました。ところが、その旅の途中、彼らは食べ物や水に満足できず、ついに神様とモーセに逆らって、つぶやきました。
それで、神様は民の中に燃える蛇(毒蛇)を送られたのでした。民は蛇に噛み付かれ、多くの人々が死んだのです。そこで、民は悔い改め、モーセにとりなしを願ったので、モーセは神様に祈りました。そのとき主が語られたことは、青銅で燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ、そしてそれを仰ぎ見る者は生きる、というものでした。蛇に噛まれた人たちが、その上げられた蛇を見ると、いやされて生きることができました。
仰ぎ見て生きる(救われる)というのが、主の言われたことです。そこには、ただ主のあわれみだけがあります。人が仰ぎ見るということは、その主のあわれみにすがるということです。なんの方法も、果たす行いもありません。一方的にしてくださる主のいやしを受け取ることだけなのです。
同じように救い(「永遠のいのち」)も、それを手に入れる特別な方法があるわけでもなく、私たちが何かを果たすということでもなく、一方的に主のあわれみによって与えられるものだということです。私たちが救われるのは、ただ主が一方的にあわれんでくださることを、へりくだって、受け取ることによってだけなのです。人は、十字架を仰ぎ見て救われるのです。
悔い改めにふさわしい実
バプテスマのヨハネという人が、洗礼を受けようとした、サドカイ人やパリサイ人に対して、悔い改めにふさわしい実を結べ、と迫りました(マタイ 3:8)。この場合、悔い改めにふさわしい実とは、救い主が現れたときに、受け入れる信仰が備わっていることを意味するものです。いくら、自分のしていることを悔いても、イエス様を前にして、受け入れないならば、真の悔い改めには至っていないということです。
イエス・キリストを見上げる人と見上げない人がいるわけです。そして、主を見上げた人だけが救われるのです。なぜなら主を見上げる心には、自分が救われるにふさわしくない者だということを認め、「こんな者が救われるためには、ただただ主のあわれみにすがるしかない。私には救い主が必要です」という信仰があるからです。私たちは、主を仰ぎ見る信仰を持っていなければなりません。
十字架に付けられた主を見上げましょう。実際、十字架の刑罰は、むごたらしい光景です。むち打たれ、釘で固定された手足、傷だらけ、血だらけのイエス様の姿がそこにあります。主の十字架を仰ぎ見る信仰のない人には、ただの悲惨な光景です。以前にパッションという映画で描かれた十字架のシーンは、あながち誇張ではないでしょう。
しかし、そのむごたらしい十字架の光景は、仰ぎ見る私たちにとっては感謝と感動の光景です。イエス様は、私たちの罪を負って十字架にかけられています。そして、私たちのわずらいを身に引き受けてくださっています。私たちが主を見上げてわかることは、「ああ私の罪が裁かれている」「私のわずらいがみな負われている」ということです。主が身代わりを果たしてくださったので、一切の罪もわずらいも、私たちから取り除かれています。イスラエルの民が青銅の蛇を仰ぎ見て生きたように、私たちも仰ぎ見るとき、いやされ生きるのです。
湧き上がる信仰
私たちは、心の目で主を見なければなりません。みことばによって、心の目が開かれ、映像として心のスクリーンに、主の苦しみの光景が描かれて行きます。心からの悔い改めは、その主の十字架の光景を仰ぎ見る信仰を実らせ、主を仰ぎ見させます。
主を仰ぎ見るとき、私たちの心には、さらに信仰が湧き上がるのです。イエス様が私の罪を完全に背負って、身代わりで十字架に付いてくださっている。それを仰ぎ見て「私の罪は赦されている。私は救われた」と、信仰が湧き上がります。また、私の受けるわずらいをすべて背負って、十字架で苦しんでくださっている。それを見て「私のわずらいは主によって取り去られたのだ。私はいやされた」と信仰が湧きあがります。
「救われた」とか「いやされる」とか自分に言い聞かせることではなく、誰でもまっすぐに主を見上げるなら、信仰が湧き上がることです。私たちはいつも、十字架の主を仰ぎ見なければなりません。
「ルカの福音書 6:46-49 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
何を土台にして人生を築くか
イエス様の教えは「みことばこそが岩であり、その上に人生を築くとき、たとえ嵐がやって来ても、その人生は倒れることはないのだ」というものです。
苦難や試練というものに、私たちはとても弱いものです。病で苦しむとき、すぐに閉塞感を感じ、死を予感させられます。その心は、敗北の思いからなかなか抜け出せません。症状が良くなったり、希望の持てる診断が下ってはじめて、安心できるようになるのです。
症状や人間的な見通しは、砂地のようです。確かにまったく問題なく健康な時には、しっかりとした土台として機能します。しかし、一旦、悪い症状や悪い見通しになるとき、その土台はとてももろいものとなってしまいます。砂地がそうであるように。洪水が押し寄せて来るときには、まったく役に立たない土台となるわけです。その上の建物は、跡形もなく壊れてしまいます。
経済の困難も、私たちを途方に暮れさせます。今、奇跡的にお金が与えられるか、復調の兆しが見えることなしには、安心することができません。悪い状態が続けば続くほど、もう希望的な将来は描くことができません。このような砂地の上に人生を築くとき、やはりそれは壊れてしまうのです。
人間関係もその他の人生のあらゆる問題も、同じことです。調子の良いときは問題なく、人生はしっかりと建っていますが、一旦調子が悪くなると、途端に倒れてしまうのです。
人生をどこに建てるかについて、よく考えなければなりません。
古い生き方
私たちの生きて来た古い生き方は、人間的な考えや基準によって生きる、というものです。その基盤は、私たちをいかに納得させるものか、によることです。兆しが良ければ、私たちは、良くなって行くだろう、と納得することができます。それで心は喜び、希望をしっかりと持つことができます。機嫌が良くなるのです。
しかし、その反対に兆しが悪くなれば、悪いことが起きるだろう、という納得をしてしまいます。そうは考えたくなくても、そういう中で、良いことが起きるとは考えにくいものです。行き詰まりや、敗北、あらゆる悪いことを連想させる思いが、次から次へと脳裏をよぎったりします。このような土台の上には、もはや何も建ってはいられません。
私たちには新しい生き方が与えられました。それが、みことばの上に人生を生きるという生き方です。
みことばの上に人生を築くとは
みことばの上に人生を築くとは、常にみことばに立って生きるということです。そして、みことばに立って生きるとは、状況が語ることではなく、神様が語られることばによって生きるということです。
状況が語っていることが真実ではなく、神様が語っていることが真実であると信じることなのです。私たちの生活すべてにおいて、そのように考えなければなりません。もはや、私たちは新しい世界に生かされています。ですから、ものの見方をまったく新しく変えなければならないのです。聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ 12:2)」と教えています。
「心の一新によって」ものの見方を変えなければなりません。常にみことばが真実であることを信じましょう。たとえば、症状が「大変だ」と訴えても、神様が「わたしはあなたをいやす」と語られているので、常にそのみことばの約束の上に立ち続けることです。
私はいかに愛されているか
私たちは、自分がいかに神様から愛されているかを経験的に知るとき、心が一新され、ものの見方がまったく新しくなります。私たちの救いは、主が一方的に愛してくださることによって起こりました。このことを私たちは知識として頭では理解をしています。しかし、自分に直接に語られていることばとして、受け取っている人は少ないのです。「私は、主にとってかけがえのない者なのだ」と本気で信じているでしょうか。
苦悩や試練の中で、神様に取り扱われ、私たちが主の愛を経験させられるとき、みことばが真実であることを、本当に教えられる経験をすることになります。そのようなことを通して、経験的に神様の愛を知るようになります。神様が自分を愛していることを疑いようがない、ということなのです。
自分が神様を愛していることは、神様が愛してくれていることを知ったがゆえに、付属的に生じたことであって、神様の愛に触れた者に起きる当然の応答です。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)」重要なことは、神様が私たちをこの上もなく愛してくれているということなのです。このことに目覚めるときに、私たちのものの見方は、まったく変わります。常にみことばに立って生きるようになるのです。
問題を見ないで、神を見る
私たちは、神様が語られる通りの方であることを信じるとき、神様から力を受けます。問題があるとき、問題に目が行きがちです。問題はあります。ですから無視はしません。しかし、答えは神様にあります。神様は「いやす」と語っておられますし、「満たす」と語っておられます。また「解決する」と語っておられます。その問題がどのようになっていくか、を示唆しているのは、問題ではなく、神様のみことばであるのです。そして、問題よりも神様の答えの方がはるかに大きいのです。
みことばに立つとは、常に神様を見る生き方です。その基盤は、みことばであり、その原動力は「いかに神様に自分は愛されているかを知っていること」にあります。自分がいかに神様に愛されているか、を熱く語る人になりましょう。愛されていることが新しい生き方の原動力なのです。
「マタイの福音書 2:9-10 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
主に出会った
東方の博士たちは、救い主の誕生を星によって知りました。そして、主にお会いしたいと遠くの国から旅をして来たのでした。長い旅路を導いて来た星が、イエス様のお生まれになったところで、ピタリと止まりました。「ああ、やっと主にお会いできる」。「彼らはこの上もなく喜んだ」のです。躍り上がって喜んだのでした。
求める者にとっては、主に出会うことが、最高の喜びです。同じ知らせを聞いても、ヘロデ王は自分を脅かすものと感じ、主をなんとか退けようと考えました。祭司長や律法学者たちは、主の誕生について知識はありましたが、無関心でした。誰でも、求める者にとっては、主に出会うことこそ最高の喜びなのです。
喜びが原動力
人が生きるにあたって、心の中に喜びがあることが、その原動力となります。心が喜びに満たされているところから、全てのやる気は生まれてきます。例えば、普段あまり気の進まないことでも、よく晴れた休みの日などには、「さあ、今日は家の中を掃除するか」などとその気になってきます。心がなんとなく喜びに満ちているからです。そんな気持ちの良い日でも、心の中に憂いがあるなら、何もする気が起きないでしょう。
私たちの喜びは、外側からの影響によって起きることが、多いことです。人生の将来に良い見通しの立つ時、心は喜んでいます。人が自分に対して、良くしてくれるとき、人からの良い評判を得ているとき、私たちの心は喜びます。そして、それがやる気の原動力です。人生に犠牲を払うことや、人に与えることさえ、いとわない気持ちになります。
しかし、外からの影響による喜びは、結局は状況次第、人次第です。物事がうまくいかなければ、人が良くしてくれなければ、喜びを持つことは難しくなり、原動力を失います。
心の中に起きる喜びこそが、周りに影響されない、自分次第のやる気を生み出します。幸せは自分次第というのが真実です。そして、それは主から来るのです。
主が喜び
誰でも、主の前に出るとき、喜びに満たされます。主を求める思いがあるならです。東方の博士たちがそうであったように。
主を前にするとき、私たちは主のことしか見えません。主のことしか見えないとき、主のことしか考えないとき、そこに生まれるのは、主に対する讃美です。神様のことをありのままに言うと、必ず神様をほめることになります。主のありのままがそうですから。
私たちのありのままを、そのまま言うと、私たちをけなすことになるかもしれませんが、主はそうではありません。主を前にして、主だけを見ていれば、主のことだけを考えていれば、心の中に湧き上がるのは、主に対するほめことばです。
主のことをそのまま言うことが、主をほめることであり、讃美です。そして、讃美には喜びが当然伴います。誰でも、相手の人を心からほめる時には、その人のことを喜んでいます。同じように、私たちは、主に出会って嬉しくて、主だけを見ているから、讃美が出てくるのです。ここに人生の原動力があります。
主のことをいつもそのまま言うことです。口で、心の中で。
「あなたは、不可能のない神です。」「あなたは、奇跡をもって答えてくださる方です。」「あなたはすべてのものを造られた創造主です。」「あなたはどんな病も癒すことができる方です。」「あなたの前に行った人はすべて癒されました。」「あなたは、私を愛してくださっています。」「あなたは、私のために犠牲を払って、悪の支配から救い出してくださいました。」「あなたは、私が祝福されること、幸せになることを願ってくださっています。」「あなたは、私を豊かにしてくださいます。」「あなたは、私の家庭を祝福に満ちたものとしてくださいます。」「あなたは、私の問題をことごとく解決してくださいます。」
挙げれば、限りなくありますが、主ご自身のこと、主のしてくださったこと、主がしてくださること、などを言うことです。主を前にしていれば、当たり前に出てくる思いなのです。主の前にこそ、本当の喜びがあります。不可能を可能にする、超自然的な生き方がそこにあるからです。
「コリント人への手紙第一 2:11-12 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」
神様に出会う領域
誰でもそうであると思いますが、心の深いところは、誰にも話さないし、見せないという部分があるのではないでしょうか。普段は、そのことを意識をしていないかもしれません。人は当然知ることがないことですが、自分も気づかないでいる、そんな領域のことです。
ところが、一旦、悩み苦しむようなことがあるときには、その深い領域で悶え苦しむというようなことが起きます。人に相談したとしても、その全部を詳細に説明しきれるわけではありません。当然、自分だけが抱えているという部分が、それでも残っているのです。
人からのアドバイスや意見が自分の心の中で思い巡らされます。そして、納得や理解が生まれます。これらのことは、人に説明することができます。しかし、さらにその奥に、それでも人には知らせない部分が存在していることです。
時間が経てば、心で悩み苦しんだことも、思い巡らしたことも、結論(納得とか諦め)を得て、やがておさまって行きます。そして、さらに、人には知らせないその領域にまで、納得や理解した結論が浸透して行きます。それが、最終的な解決の時です。良い結果であるにしろ、悪い結果であるにしろ、落ち着くわけです。
そのような、ほんの小さな領域が人にはあるものです。本日のみことばは、「人の心のことは、その人のうちにある霊」にしかわからないことだと言います。自分でも説明できない、「自分の霊という心の小さなある領域が、自分の心の中を知っている」と理解できます。この「霊」という部分が、神様と出会うのです。そして、生きるのです。
神様との会話
クリスチャンであることの特権は、一つには、神様との会話の中に生きることができるということです。祈りにおいて、私たちは神様に、願いや悔い改めなどを伝えます。そして、その祈りの中で、神様からは、印象とか、よぎる思いとか、浮かんでくるみことばなどが、送られて来ます。それらが神様からのものかどうかは、聖書に照らして合致することで、わかります。聖書に合致しないものは、どんなに素晴らしく感じようとも、神様が語られていることではありません。
このように、祈りは双方向のコミュニケーションとなっています。さらには、口での神様との会話が、心の中でも続けられていくことになります。つまり、全時間神様との会話を続けていけるわけで、そのように生きられることが与えられた特権なのです。この会話を途切らせてはいけないのです。
敗北は、起きている事実に影響されて、私たちの心の中でまず始まります。「大変だ」「どうなっていくのだろう」「大丈夫だ」「いや、やっぱりダメだ」などが繰り返され、完全に打ちのめされて行きます。
主が私たちのうちに住んでくださっているのは、私たちの会話の相手となり、私たちを勝利に導いてくださるためです。どのような問題も、恐れも、罪や汚れの思いも、弱さも、苛立ちも、絶望の思いも、うろたえる思いも、すべて主に話していくならば、主からは建て上げのことばが来ます。そうしないで、考えたり悩んでいるなら、必ず失意落胆の敗北の方向に行ってしまいます。
私たちのうちに住まわれる主は、私たちの助け主です。敗北は心の中から始まるとすれば、考えの最初から助けられる必要があります。神様との会話を途切らせてはいけないわけです。
心の深い「霊」という領域で、神様との出会いを果たしました。それで、私たちの「霊」が生きました。そして、そのときから「神の御霊」が私たちの心に住んでくださいました。このようにして、「霊」において、「神の御霊」との会話に生きる人生が始まったのです。
今 語られているのだ
神様は常に、私たちに語ってくださっているわけです。それで、私たちにはいつも神様のみこころがわかっているのです。「みこころがわからない」という場合は、本当は、みこころはわかっているのに、そのみこころを受け取らないで、他の答えを期待しているということではないでしょうか。
たとえば、いやしを求めているとしましょう。そのとき、主のみこころはいやすことである、とわかっているのです。しかし、依然として、症状が続くとき、「みこころは、いやすことなのか、いやさないことなのか、わからない」と言ってしまいがちです。心のうちにある御霊の声は、「わたしは主、あなたをいやす者である(出エジプト 15:26)」と語っています。間違いありません。あなたに知らされていないのは、それがいつなのかということです。それも、みこころです。あなたはさらに聞き続けていかなければなりません。
神様は語られています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります(マルコ 11:24)」と。それを知るなら、あなたはすでにいやされたと信じて、結果を待つことです。
それでも、また疑いや恐れが襲ってくるときに、あなたに聞こえて来ています。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です(ヤコブ 1:6-8)」と。「疑う」なと語られています。「すべての道に安定を欠い」ていると語られています。主との会話はずうっと続くのです。もしこれが途切れれば、敗北をもたらす反対のことがずうっと続くわけです。神様は今語られています。
「ルカの福音書 5:12-13 さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。』 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」
喜んで癒される主
らい病人が、主に癒しを求めて、御前に進み出ました。彼は、「わたしは主、あなたをいやす者である。(出エジプト 15:26)」このみことばのとおりに神様のことを信じていました。神様こそが、奇跡をもって癒されるお方、であることを知っていました。だからこそ、イエス様が神様から来られたお方であることを信じ、癒しを求めて進み出たわけです。
しかし、ここに一つの確信の持てないことがありました。「主は癒すお方である。しかし私のことを癒してくださるだろうか」ということです。それで「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」ということばが彼の口から出てきたわけです。そこで主の返答は明快でした。「わたしの心だ。きよくなれ。」主の御心が癒すこと、なのはもちろんですが、「あなたを癒すことが、わたしの心だ」と言われているのです。
「すると、すぐに、そのらい病が消えた」のです。そのとき主は「手を伸ばして、彼にさわ」ってくださっています。らい病は伝染性の皮膚病です。それでも主は進んで触れてくださっています。主は喜んで癒してくださっているのです。「主は私を喜んで癒してくださる」のです。主の御心は「私を癒すこと」なのです。
病が罪の結果ならば
聖書を読みますと、神様の戒めを守らないことが、呪いを受けてしまう原因である、と説明されています。呪いとは、祝福されないことのすべてのことです。申命記28章を読みますと、その呪いの中に多くの病が記述されています。神様の戒めを守らないこと、つまり罪が病を招いています。
神様の一番の願いは、人がその罪から救われることです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ 3:16)」
主は、私たちの罪を取り除くために、喜んで十字架について、身代わりとなって死んでくださいました。主の御心は、私たちが悔い改め、罪の赦しを得て、解放されることです。病の原因である罪が取り除かれることが御心ならば、当然、病が癒されることは御心であるのです。
あなたが罪の赦しを願う人ならば、はっきりと「私を癒すことが神の御心である」と言えるのです。あえて「私を癒すこと(は)」と言わないで、「私を癒すこと(が)」と申し上げました。癒されることは、私たちが受ける多くの中の一つ、というようなものではなく、これこそが神様の願いなのです。
罪からの救いを一番に願われるのが御心ならば、その罪の結果である病から解放されることこそ、神様の一番の私たちに対する願いなのです。だから「私を癒すことが神の御心です」と言わなければなりません。
御心は聖
また神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない(1ペテロ 1:16)」と言われています。私たちが聖さを保っていること、が御心です。もちろん私たちの聖さは、イエス・キリストを信じて悔い改めることによって与えられることです。ですから、癒されることを望むならば、聖さを願う心を持たなければなりません。つまり罪を憎む心を持つことです。
私たちは努力によって、自分で自分を聖くすることはできないことです。しかし、聖くありたいという願いは、誰でも持つことができます。そしてその願いは、イエス・キリストを信じる信仰を通して叶えられるのです。聖くありたいという願いを持ち、罪を憎む心を持たなければなりません。
もし、聖くありたいと切に願うことがなければ、主の御心に反対していることです。それでも癒しに関してだけは、賛成しようとしても、確信を持つことはできないでしょう。聖さにおいては反対し、癒しにおいては確信を持ちたいと願うことの、なんと矛盾していることでしょうか。
癒されたいと願うなら、罪を憎む心を持つことです。
献身することは御心
さらに聖書は「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(ローマ 12:1)」と命じています。イエス・キリストを信じる私たちが、主に全てをささげること、すなわち献身することが、御心です。
私たちは、自分の人生の全てを主に明け渡さなければなりません。その決意を強く表さなければなりません。それが御心だからです。ですからもし、献身することにちゅうちょする思いがあるなら、御心に反対していることです。
これもまた、御心に反対する心を持ちながら、癒しの御心に確信を持つことができない原因となります。私たちは喜んで神様に全人生をささげなければなりません。全てが神様に明け渡されている人生の、いかに素晴らしいことかを知ることです。
天国には病がありません。イエス・キリストを信じて、私たちは地上においても神様の御支配に生きる者です。つまりこの地上においてすでに、天国に生きているのです。だから、献身したここには、病がありません。それで、確信を持って言うことができます。「私が癒されることが神の御心」と。
イエス・キリストを信じて、罪の赦しを得て、聖さを願い、献身をして、御心の中に生きましょう。
「第二コリント人への手紙 5:14-16 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」
すべての人のための死
イエス・キリストは、すべての人の罪の身代わりとして、十字架で死なれました。私たちの罪を代わって負ってくださり、十字架で身代わりとして死刑の罰を受けてくださったのです。
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(Ⅰペテロ 3:18) 」
私たちは、イエス様が十字架で死んでくださったので、私たちはすでに自分の罰を受けてしまった、とみなされるのです。ですから、もはや罪の罰を受けることがない、ということになりました。その罪の赦しの事実が、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、私たちの人生に実体化するのです。信じなければなりません。
聖書の説明はこうです。イエス様が私たちの身代わりとして死なれた、それは私たちが十字架の罰を受けたのと同じこととみなされる、それゆえに、イエス様の死によって、私たちも死んだのだ、ということです。私たちがそのことを信じ、イエス様を救い主として受け入れるときに、死んだとみなされていることが、事実上の出来事として、捉えることができるようになるのです。
実際に、私たちは、信仰によって、自分がすでに死んだ者であることを事実上の出来事として、受け取って生きています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ 2:20)」
すべての人が死んだ
ですから、キリストが「すべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだ」ということです。キリストの死は、全人類の身代わりの死ですから、十字架で死なれたことによって、すべての人は、十字架につけられた、ということなのです。誰でも、イエス・キリストを救い主と信じるなら、「私はキリストとともに十字架につけられました」ということが実体化するのです。言い換えれば、すべての人は、キリストが身代わりとして死んでくださったので、十字架で死んだ者となっている、ということです。誰でも、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れるなら、そのことがその人の上に事実上の出来事となるということです。皆、キリストの死に与っているのです。あとは信じれば良いのです。
キリストのために生きる
すべての人は、死んだわけですが、イエス・キリストを信じるとき、さらにはイエス・キリストの復活にも与ることになると、聖書は教えています。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ 6:5)」
そして、パウロが「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と言うように、十字架に死んだ者が、実際に生きているのは、キリストを信じる信仰によってであるのです。ですから、私たちは、すべての人に呼びかけたいと思います。「あなたは、すでに十字架に死んだので、罪の罰は終わっています。ただ、この事実を受け取るためには、このことを信じなければなりません。そして、信じれば、あなたは信仰によって生きるのです」と。
さらには、新しく生まれて生きる目的は「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ことなのです。私たちは、本来、神様の栄光をあらわすために、神様によって造られた者です。それが神様から離れ、神様の栄光をすっかり失っている者でした。キリストによって、本来の目的に生きることができるように、戻されるのです。イエス・キリストのために生きることこそ、私たちの人生の目的であり、生きがいなのです。
人間的な標準でなく
さらにパウロは「今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」と言います。彼は、イエス・キリストを信じる前は、人間的にイエス様を見ていました。そして、迫害していました。しかし、今は、イエス様のことを「私のために十字架で死んでくださった神の御子」と知るようになりました。そして、人を見るとき、ただの人ではなく「この人のために、イエス・キリストは身代わりとして死んでくださったのだ」と見るようになったということです。
私たちは、すでにイエス・キリストを「人間的な標準で知」ってはいません。「自分のために死んでよみがえった方」と知っています。ですから、私たちは周りの人を見るときも「人間的な標準で人を知ろうとはし」ないのです。もはや、ただの人ではありません。「この人は、イエス・キリストの身代わりの死とよみがえりに与っている人なのだ」と見ることです。主が私たちにしてくださったことを、理解するとき、私たちの主に対する見方、そして人を見る見方が変わります。
「第二コリント人への手紙 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
生まれながらの罪のリアルさ
イエス様は、私たちが受けるべき罪の罰を、私たちに代わって受けてくださいました。身代わりとなってくださったのです。
私たちは、罪人であって、さばかれる運命にあります。そのさばきは永遠の死であって、この地上にあっては、人生におけるあらゆる苦しみのことです。
病や貧困、人生のトラブルといったものは、すべて私たちの罪の呪いの結果である、と聖書は教えています。人は、神様から離れて、罪ある存在として生まれ、罪の中に生き、そして、罪あるまま死んでいきます。死後には、その罪のために、神の御前でさばかれ、永遠の滅びに至るのだ、ということです。
人の苦しみは、神様から離れた罪の結果です。私たちは、人の罪のリアルさに目を向けなければなりません。この世に、罪の苦しみが現実の問題として、存在していることを、理解しなければなりません。そして、死後にさばきが待っているという現実を知らなければなりません。
自分が、自分の理解を超えてはるかに罪人である、ことを知ることはとても重要なことです。自分が、霊的に破綻していることを知れば、自分の人生に起きていることが、当然のことだと理解できるからです。
例えば、自分は他の人と変わらず、普通に振舞っているのに、人から誤解されたり、受け入れられていないとすれば、何か原因が自分の内にあるのだ、と自分を見つめることが必要です。人に良いことをしているつもりでも、実際は、自分のために、人からの評価を求めてしていること、であったりするかもしれません。このようなケースは、立ち止まって自分を正直に掘り下げなければ、気がつくことができません。
多くの場合、そこには自分勝手な思いが潜んでいます。絶対認めたくないような自分が存在しています。罪の悔い改めは、神様との関係を築くためには、絶対に必要なことです。しかし、本当の自分をわかっていなければ、本当には悔い改めることはできないのです。思いをはるかに超えた、神様への反逆の思いが、確かにその存在がリアルにあるのです。
あがないのリアルさ
神様は、このような私たちを、その愛のゆえに、放っておけなくて、この罪の現実に手を差し伸べてくださいました。私たちを、この罪の現実から救い出すために、道を開いてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架です。
このことをリアルさをもって理解する必要があります。多くの場合、十字架の意味は信じてはいますが、それが実際に自分の人生、生活に、直接的に影響を及ぼしていることをリアルさをもって理解している人は少ないのではないでしょうか。
信じる前は、わずらいが、自分の人生にあるのは当然のことでした。しかし、信じた今は、わずらいが自分を苦しめることは、もはやないのです。イエス・キリストを信じるなら、私たちは、もはやさばかれることはありません。罪の赦しは、現実のこととして、起きています。罪がないから、さばかれないのです。罪がないから、祝福を受けることができます。罪がないから、実際に神の子どもであるのです。
もし、苦しんでいるなら、「こんなはずはない」と、言わなければなりません。いわれのないことです。聖書は「いわれのないのろいはやって来ない(箴言 26:2)」と言っています。もし、いわれ(原因)があるとすれば、それは私たちが、イエス・キリストの十字架のあがないのリアルさを、文字通りには受け取ってはいない、ということにあるのではないでしょうか。
すべてを支配されている、創造主であられる、神様がリアルさをもって存在されている。現実に、自分が神様に造られたものである。現実に、生まれながらの霊的な破綻者である。それで、現実に神様から遠く離されている。ゆえに、神様の祝福を受けることができない。サタンは、現実に存在し、私を縛り放題である。
そのような状態の私を、神様は、その愛のゆえに、放って置かれないで、救いの計画を現実に歴史の中で実行してくださった。御子イエス・キリストは、私の罪の身代わりとして、現実に十字架に付けられた。私の罪のつぐないは、現実に完了している。もはや私の罪に対するさばきは終わった。だから、もはや私は現実にさばかれることはない。サタンは私を縛ることはできない。罪の結果である人生の苦しみは、もはや私に現実の問題として起こらない。
私は現実に神の子どもである。私は現実に信じる者の権威をいただいている。今までは、サタンが私を支配していたが、今や、イエス・キリストの御名によって、現実に、私がサタンの支配者である。私は、私に生活の苦しみをもって襲いかかるサタンを、現実に退けることができる。私はサタンとその手下である悪霊に、現実に離れて行くように命じることができる。
私は現実性をもって、与えられた権威をもって生きるので、敗北することはない。
このように、聖書のみことばは、私たちの人生にリアルに実現しています。あれこれと悩む前に、聖書のリアルさの中に生きる、ことがまずもって必要なことです。
「ヘブル人への手紙 4: 6-9 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」
祝福の神
本日は、神様が私たちに対して、何を最優先にしてくださろうとしているかについて、みことばから教えられたいと思います。
神様は祝福の神です。イエス・キリストを救い主と信じる者、私たちに対して、ご自身に誓って、祝福を与えてくださいます。
「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(ガラテヤ 3:7-9)」
誰でも、イエス・キリストを救い主と信じたなら、その人は、アブラハムの子孫です。ですから、アブラハムに誓われた誓いをもって、信じる私たちを、神様は必ず祝福してくださるのです。祝福とは、いやしであり、満たしであり、長寿であり、家庭の幸せ、煩いからの解放、人生のすべての祝福のことです。
信仰は管
神様は、私たちの信仰を通して働かれます。神様は、私たちの信仰をパイプとして用いられます。神様の恵みは、このパイプを通して、圧倒的に、私たちに注がれるのです。
ですから、約束を果たしたい、と願われている神様は、私たちに信仰があるようにと、求めておられるわけです。信仰がなければ神様は喜ばれません。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル 11:6)」
クリスチャンは祝福されますが、そのために必要なのは信仰です。クリスチャンは、信仰によって生きなければなりません。「『義人は信仰によって生きる。』のだからです(ガラテヤ 3:11)」。
このように、いかに信仰というものが大切で、神様が私たちに切に願われていることか、ということがよくわかります。
陥りがちな誤った理解
ここで、私たちが信仰について、ともすれば誤りがちな考え方について、考えてみましょう。一つには、信仰は努力であるかのように考えてしまうことです。つまり、強く信じること、私たちの信じる思いの強さが、結果を生むのだと考えてしまうことです。
それで、信じはしても、祝福はもっと強く信じることができるようになってからだ、と考えてしまいます。これは間違いです。信仰は意志による選択であり、決意のことです。強さの度合いが問われることではなく、選択したかしなかったかが問われます。イエス・キリストを信じたか、信じなかったか、です。
主を信じたなら、その信仰は管として働きます。あなたは祝福されるのです。イエス様は「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません(マタイ 17:20)」と言われました。ですから、今日信じた新しいクリスチャンでも、今日祝福されるのです。
もう一つは「神様は全能の神様であるから、神様にできないことはない。神様は、私が多少不信仰でも、神様が働けなくなるなんてことはないだろう。」と考えてしまうことです。これも大きな間違いです。どう間違っていると言うのでしょうか。
神様の優先順位
冒頭に述べましたように、神様は祝福の神様です。いつも、神様は私たちを祝福しようと働かれています。しかし、私たちが不信仰であれば「管」がなくなってしまいます。私たちの一番必要としていることは「管」、つまり信仰です。思い出してください。私たちが信仰を持つことができたのは、信仰も神様からいただいたからです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ 2:8)」
祝福の一番は、信仰が与えられることです。もし、私たちが不信仰に陥れば、神様の私たちに与えたいことは、一番に信仰です。祝福のリストの筆頭に、信仰があるということです。それで、神様の私たちにされることの最優先事項が、不信仰を取り除くということです。
イスラエルの民が、荒野を40年も巡らされたのは、不信仰を取り除くためであった、と聖書は言います。私たちの意志が、信仰にむくために、必要な旅路が荒野ということになります。このことに気づかなければ、いつまでも、荒野を巡ることになります。あなたは、自分が今荒野の旅をしている、と感じたことはありませんか。同じような低空飛行がいつまでも続くようなことです。
荒野は、不信仰に対する罰などではありません。祝福のための、神様の、私たちへの最優先事項としての、不信仰取り除きの行程なのです。早く脱出するためには、ゆめゆめ「心をかたくなにしてはならない」のです。
「ヘブル人への手紙 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
信仰がなくては神に喜ばれることができない。
信仰は、神様と私たちをつなぐ管です。神様を信じることが管となって、私たちは神様に関係付けられます。イエス・キリストを信じる信仰を通してのみ、私たちは神様につながることができます。私たちとのつながりを神様は求めておられますから、私たちに信仰がなければ、当然ながら喜ばれません。
また、この信仰の管を通してのみ、神様は私たちに働くことができます。神様は祝福の神様です。ですから、私たちを祝福したいと願っています。私たちを救いたい、私たちをいやしたい、私たちを満たしたい、と願われています。
そして、私たちに必要なものは、すべて天に用意されているのです。それらは信仰の管を通してのみ、私たちに届けられます。神様はいつも与えようとしておられますから、私たちに信仰がなければ、悲しまれることになります。
私たちに信仰があることが神様を喜ばせるのです。
神様がおられる
私たちは神様がおられることを信じなければなりません。今、神様が自分とともにいてくださる、と知っていなければなりません。イエス様は「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。(ヨハネ 8:29)」と言われました。いつも父なる神様は、イエス様と一緒にいてくださっている、という宣言です。
人々に父なる神様が見えたわけではありません。感じたわけでもありません。しかし、それでも、父なる神様は、イエス様とともにおられたのであり、イエス様はそれを知っておられた、ということです。
それはイエス様のことですから、当然のことではないですか、私たちの場合とは違うでしょう、と言われる方もいるかもしれません。しかし、イエス様は「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。(ヨハネ 14:16)」と言われました。イエス様の場合と同じように、私たちにも父なる神がともにおられること、それが「もうひとりの助け主」聖霊様によって実現しているのです。
イエス・キリストを信じる者には、いつも神様がともにおられます。私たちは決して、捨てられて「孤児」にされることはありません(ヨハネ 14:18)。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ 28:20)」という主の変わらない約束があります。信じるなら、神様は喜ばれます。
報いてくださる
「おられる」神様は、また「報いてくださる」神様です。主はあわれみの神様であられ、イエス様のところに行った人々は、すべていやされました。主はあわれみのゆえに、決して後回しにしないで、苦しんでいる人々をいやされたのでした。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない(ローマ 10:11)」のです。また「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか(ヨハネ 11:40)」とマルタに言われ、兄弟のラザロは死からよみがえらせていただきました。
私たちは、神様が報いてくださる方であることを信じなければなりません。主は、私たちに与えたいものをたくさん用意されています。それは、人が救われること、さらにはいやされること、満たされること、問題が解決されること、一切のわずらいというものが取り去られること、などなど私たちが望むすべてのことです。このことを本当に信じることが、神様を喜ばせることなのです。
今ここにおられる
神様がおられることについて、私たちは知っていなければなりません。イエス様が知っておられたように。信仰とは、神様の言われたことを受け取ること、認めることを言います。「いつも、あなたがたとともにいます」ということを認めなければなりません。
ところが、自己中心の私たちがしてしまいがちな間違いが一つあります。それは、自分が感じることが必要だ、と考えてしまうことです。それで、一生懸命に、主がおられることを、感じよう、感じよう、としてしまいます。感じられるときには、嬉しくて、主がおられます、と言うのですが、その感じがなくなりますと、途端に言えなくなるのです。
私たちが知らなければならないことは、感じても感じなくても、主が私たちとともにおられる、ということです。主のご臨在は、私たちの思いや感情によらないことです。
今、見えるこの状況が、神様がおられて支配されているという状態なのです。今ある、自分のありのままに、主がともにおられる、というのが現実なのです。感じる人もいれば、感じない人もいる、信じる人もいれば、信じない人もいる、しかし、主は、その上にご臨在くださっており、すべてを主権をもってご支配されているのです。ただ私たちの信仰によって、つながっているか、つながっていないかの違いがあるだけです。
みことばの宣言どおりに認める、ということが信仰です。この信仰を神様は喜ばれます。そして、この信仰を通して、私たちは主の、山をも動かす奇跡を見るのです。
「ピリピ人への手紙 4: 8-9 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
真の信仰は行ないに現れる
真の信仰は、行ないとして現れる、と聖書は教えています。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです(ヤコブの手紙 2:17)」。行ないとして現れない信仰ならば、それは死んだもの、です。本当は信仰がないということです。私たちは、まずはこのことを理解をしておく必要があります。
では次に、行ないはどこから出てくるのでしょうか。それは信仰のあるところ、つまり心からです。心にあることが行ないとして出てきます。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです(マタイ 12:34)」と言われました。心の中に満ちていることが行ないとして出てきます。あなたの心の中には、何が満ちているでしょうか。
心を留めること
本日のみことばは、私たちに対して「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」に「心を留めなさい」と命じています。心を留めるとは、心を向けるということです。これらのことに積極的に意識を向けて行くことを学びたいと思います。
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」とは、一言で言えば「良いこと」です。その「良いこと」を意識し、考え、あるいは探しなさい、と言われていることなのです。
私たちは周りにそのような良いことを探し、心を向けなければなりません。また、私たちの心の中に、そのような良いことを探し、そしてそれを思い続けなければなりません。
なぜならば、それが神様に対して心を留めることになるからです。神様は「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」そのものである方、またその原因である方です。
本当はやった方が良いと思う
私たちに問題があるとすれば、心にあるとは言いながら、それが行ない、行動として出て来ていないということです。そんなことは当然良いことだとわかっている(心に留めている)と言いながら、心に留めてはいないのです。このことに決着をつけなければなりません。
あなたの心には「本当はこうしなければいけないんだよな」と思いつつも、まったく行動に移せていないことはありませんか。いつも、そう思い続けて来ました。何度も、考えさせられました。そして今でも「やらなくては」「やった方が良い」と思っています。
そのようなことを、聖書は「死んだもの」と言っています。それなのに、私たちはなぜそんなもの(考えだけで行動しない死んだもの)を大切にしているのでしょうか。そんな考えだけのことは、ない方が良いくらいです。役に立たない「死んだもの」だからです。
しかし「やらなくても良いのだ」と考えるには、後ろめたさが襲います。だけど、やろうとする気にはなれません。そこで「やらなくては」と考えはするものの、行動には移さない、というところに留まっているのです。ある意味自分にとっては、ちょうど良い宙ぶらりんの状態です。でも、これは死んでいる状態です。なんと、聖書の言うとおりではありませんか。
今やる
今こそ、そのことをやって見ることです。やれば良いとわかっていることを、今、やりましょう。私たちの考えていることは、やった方が良いのか、やらない方が良いのか、何をしたら良いのか、わからないことではありません。やれば良いとわかっていることです。
今、前を向くこと、今声をかけること、今微笑むこと、今喜ぶこと、今祈ること、今聖書を読むこと、今できることは数限りなくあります。私たちはもはや、行ないのない信仰とは決別しなければなりません。
心に留めるべきことは「やれば良いとわかっていることを今やる」ということについてです。あれこれと考えることではなく、「今やるというテーマ」について心を留めるべきです。行なおうとする生きた信仰に、主が奇跡をもって働かれることを経験させていただきましょう。
「イザヤ書 29:13 そこで主は仰せられた。『この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。』
16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった。』と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ。』と言えようか。」
心が遠く離れている
ユダの民の信仰は形式的なものでした。神様を信じる態度をとってはいましたが「その心はわたし(神様)から遠く離れている」と言われるようなものでした。彼らは、確かに口では信じていると言いますし、神をほめたたえてもいます。でも心がそうはなっていないのでした。
彼らは神様を恐れる態度を示してはいました。しかし、それは「人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」のでした。「神を恐れるなら、神に受け入れられる。神を恐れるなら祝福される」と教えられ、一つの方法論として、生き方として、神様を恐れている姿勢を見せていたのでした。しかし心には、神様を恐れる真実の思いがありませんでした。
つまり、真に神様を恐れるというのではなく、損得や評価を考えた上での、人間的なパフォーマンスといったところです。実際に神様を認め、面と向かい、愛する思いを抱いたり、恐いという思いを抱いたりということはまったくなかったのでしょう。
さて、私たちはどうでしょうか。同じようなことが、私たちにも、ありがちではないでしょうか。
造られた者
人は神様に造られた者です。たとえば、あなたは、神様が直接手をかけて、神様により造られました。神様は、今のあなたのようにかたち造るために、前もって考え、計画し、遺伝子情報を準備し、あなたを造られたのです。しかも、それは天地を造る前からの計画でした。
あなたも、あなたの両親も、あなたの祖父母も、さらにはその先祖も、直接、神様の手により造られていることです。一人一人、直接神様と一本の糸でつながっているのです。このつながりが「造った者」と「造られた者」という関係です。これを先祖、ルーツでまとめると一本の太い糸となります。しかし、それをほぐせば、一本一本が、神様と直接つながっている糸なのです。
私たちは、造られた者ですから、存在しています。もし造られなかったら、私たちは存在していません。造り主なる神様がいなかったら、私たちもいないのです。神様が存在しないのであったら、私たちは存在しないのです。このことを本当に理解しなければなりません。事実だからです。民も理解してはいなかったようです。
造られた者なら、造った方に感謝して生きることです。造られた者なら、造った方の言われることを聞いて生きることです。あなたはいかがでしょうか。
さかさに考えている
「あなたがたは、物をさかさに考えている」と、ユダの人々に神様は手厳しく言われました。彼らは、まるで自分たちが自分の力で存在しているかのように、振る舞っていました。そこに、神様がイザヤを通して教えれば、「彼は私を造らなかった」と否定をしました。また、神様が注意をすれば、「彼はわからずやだ」と反論するのでした。
まったく、「さかさに考えている」ことでした。人間が中心であり、神様が人間のための単なる知恵や方法に過ぎないことになっているのでした。これは、大変なことであり、重大な罪であることがわかります。
人間の罪は、造り主を認めないということです。「さかさに考えている」ことが人の罪であって、それは性質となって現れてきます。その結果、人はその人生で苦しむことになります。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ 7:20-23)」
造られた者に過ぎない
私たちは造られた者に過ぎません。造られた者に過ぎない、ということを悟る時、私たちは重荷を下ろすことができます。造られた者に過ぎませんから、造られた者に過ぎないという態度をとって生きることです。
造られた者に過ぎないという態度を取らないがゆえに、私たちは人生で苦しむことになります。造られた者に過ぎないのに、自分で存在しているかのごとくに考え、生きます。その結果、いつも反抗心を抱え、神様の知恵や導きを悟ることができません。平安を保つことができません。素直になることができないのです。
私たちは結局は造られた者です。このことを認めることは、全面的に降伏することがなければ、できないことです。仕事のことを考える時でも、家庭や家族のことを考える時でも、将来を考える時でも、造られた者に過ぎないのだという態度を持つなら、苦しむことなく道は開かれて行きます。
悪魔の妨害と誘惑がまったくなくなることをあなたは経験することになります。造った方が中心です。私たちは、「過ぎない」のです。
[エレミヤ書 6:10-15 私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。 私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。「それを、道ばたにいる子どもの上にも、若い男の集まりの上にも、ぶちまけよ。夫も妻も、ともどもに、年寄りも齢の満ちた者も共に捕えられ、 彼らの家は、畑や妻もろともに、他人のものとなる。それは、わたしがこの国の住民に手を伸ばすからだ。――主の御告げ。―― なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。]
みことばを喜ばない民
ユダの民は、エレミヤが語る神様のことばを聞こうとはしませんでした。「彼らはそれを喜ばな」かったのでした。なぜなら彼らにとって、主の語ることばは苦しくて、魅力のないことだったからです。
これから、悪くなって行く、敵に攻められ捕囚となる、などと言われることに耐えられなかったのです。しかし、彼らのしていること、現在の信仰のあり方を問われれば、あきらかに神様に逆らっていることで、自分なりにしたいように生きていたことでした。「そんなことを続けていれば、必ず弱くなって、敵に滅ぼされるのだ」という神様のみ思いは完全に無視されていたことです。「自分たちは、それなりに一生懸命にやっている」「他にどうしろというのだ」と怒りさえ持っていました。「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(箴言 19:3)」のです。
平安だ平安だ
そして、彼らのしていることは、「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」ことでした。民のほとんどが「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっている」のでした。
先行きの不安があることに対して「大丈夫だ。大丈夫だ」と自らに言い聞かせていることでした。「神を信じている自分たちが、滅んでいくはずがない」と思っていました。「神が私たちを見捨てるわけがない。敵の攻撃は神によって食い止められる」と自分に言い聞かせているのでした。決して、自分たちの深いところにある、解決されなければならない、真の原因である罪の問題について、向き合おうなどとは思わないのでした。
彼らのしていることは「傷を手軽にいやし」ていることなのでした。人間的な慰めを語り合い、表面的な慰めを預言として伝えることなどです。なぜ悪い方向に向かっているのか、自分たちの抱えている問題は何なのか、などとは真剣に問おうとはしないのでした。結局彼らは、やがては攻められ、捕囚として苦しみの歴史を歩むことになります。
忘れるという対処法
聖書がこれらのことを教えているのは、私たちが同じ過ちを犯さないためです。私たちが何かの問題を薄々とでも感じるとき、あるいは不安がつのるとき、「平安だ、平安だ」と言い聞かせて、その瞬間をしのいではいませんでしょうか。
心の奥にまだ解決されていない問題があるにもかかわらず、そのことにフタをして「もう思い出さない」と、忘れることによって自分を守っていないでしょうか。表面的には問題がないように生きられますが、心の奥にある傷は、私たちの思考を、考えを、さらには人生をコントロールして行きます。私たちが望まない方向にです。
たとえば、人と自由に交わることができなかったり、人の愛を疑ったり、自分を開示することを極端に恐れ、ありのままの自分では到底いられなかったりしていることです。本当の自分の願いは、人前でもリラックスできていることなのに、心配や恐れを乗り越えて将来に向かって生きていくことなのに、まったくその逆の状態が、当たり前のようにいつまでも続いているのです。それでも「大丈夫だ。大丈夫だ」と、問題から逃げることに一生懸命なのです。
過去に傷ついたことがありました。苦しんだことがありました。それらも、慰められ、励まされて、以前のようには苦しまなくなりました。毎日のように思い出していた辛いことが、今は思い出さないで済むようになりました。しかし、その記憶がよぎったりするのです。そのときは「平安だ。平安だ」と唱えて、すぐさま思いを切り替えています。しかし、イエス・キリストにある解決とは、そのようなことなのでしょうか。
問題の解決が「思い出さないで済んでいる」ということなら、なぜ自分の奥深くで、何か得体の知れないものがうごめいているのでしょうか。そこには、悪魔の罠があります。神様は私たちに思い出させないというような解決を与える方ではありません。真の解決とはなんでしょうか。
勝利の旗が立っている
イエス・キリストが勝ち取ってくださった勝利とは、文字どおり勝つことであって、逃げることではありません。過去の辛い出来事、失敗、犯した罪、苦しんだ経験、これらにみな勝利してくださいました。このような過去の目を背けたくなるような出来事を見るとき、思い出すとき、あるいは自分の情けない性格、おどろおどろした汚れた心根、などを改めて見るとき、そこに主がしてくださった「みわざ」を見て感謝の想いになれること、それが勝利の結果なのです。
そこには勝利の「旗」が立っています。「あんな罪を犯していたのに赦された」。そこに「赦しの旗」を見ます。「あんな辛い出来事があったのにいやされている」。そこに「いやしの旗」が立っているのを見ます。「こんな情けない自分が愛され、受け入れられている」。そこに「解放の旗」が立っているのを見ます。これらの「旗」はみな、イエス・キリストが勝ち取ってくださった勝利なのです。
問題の解決は、イエス・キリストにしかありません。私たちは、過去でも、自分のありのままでも、忘れてはなりません。いつでも思い起こしています。そして、そこに立っている「旗」を見て、いつも感謝している、というのが私たちにとっての真の解決なのです。これが救いであり、いやしであり、解放なのです。
「旗」は自動的には立ちません。私たちが自分の過去やありのままを、逃げないで見続けること、そしてそれを解決していただくために、主に差し出すことをして、主のしてくださった勝利を受け取らなければなりません。
実際には差し出すことは、辛く苦しいことです。ですから、忘れようとする自分なりの解決に生きてきました。それが信仰だとも思ってきました。もしそれが信仰ならば、誰がそんな生き方に魅力を感じることでしょうか。あなたが信じたいのに、苦しんでいるのは、信仰によって忘れることができると思っているからです。そんなことが信仰ではありません。
本当の勝利を味わいましょう。逃げて忘れることが解決だと思わないでください。「平安だ。平安だ」と言っているよりも、自分の暗部を見て、悩み苦しんでいることの方がよほど良いことです。その方向に解決があります。神様は、あなたを本当に助けることができる方なのです。
「マタイの福音書 4:18-20 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』 彼らはすぐに網を捨てて従った。」
召された弟子
イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。そのときペテロとアンデレに出会いました。彼らは兄弟でした。彼らは漁師であり、湖で網を打っていました。その彼らにイエス様は声をかけられました。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。イエス様は彼らを選ばれました。つまり「召された」のです。
「彼らはすぐに網を捨てて従」いました。彼らの仕事は漁師でありました。恐らくは家族もありましたでしょうし、家もあるでしょう。しかし、それらを捨てて、イエス様について行ったのでした。ペテロは「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました(マタイ 19:27)」と言っています。文字通り何もかも捨てたということです。イエス様を救い主と信じることは、イエス様について行く決心をすることです。ついて行くためには、捨てる必要があることを知らなければなりません。
心の中身を捨てること
イエス様は「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、(妻、)子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ 19:29)」とも言われました。実際、イエス様に召された弟子たちは、家や家族や財産などを捨てて来たのでした。将来の計画や目標もあったのだろうと思います。それまでに築いて来たものがあったことです。そこには特別な思い入れのあったことでしょう。すべてを捨てるとは、彼らの心の中身を捨てるということに他なりません。自分なりの考えを捨てるということです。
考えてみますと、彼らのしたことはとても大きな決断であったことがわかります。なぜ、これほどまでのことを、彼らが「すぐに」できたのでしょうか。私たちに同じことができるのだろうかと考えさせられます。
すべてと引き換えにしても
想像してわかることは、その答えは、イエス様との出会いにあると思われます。イエス様に出会うなら、自分のすべてのものを引き換えにしても、是非ともついて行きたいと願う心が起こされるのだ、ということです。
主は天の御国についてたとえ話をされました(マタイ 13:44-46)。天の御国は、「畑に隠された宝 (マタイ 13:44)」のようなもの、また「すばらしい値うちの真珠 (マタイ 13:46)」のようなもの、とたとえられました。それらは、「持ち物を全部売り払って」も、手に入れたいものだということです。
イエス様に出会うと、今あるすべてのものと引き換えにしてでも、ついて行きたいと願う、ということでしょう。それほど、主を信じる新しい人生が素晴らしいということです。
家族も家も、仕事も、将来も目標も、私たちにとって必要ではないのかというと、必要なものです。それなのに、これらを捨てても手に入れたい新しい人生には、何が待っているというのでしょうか。
主は「捨てた者はすべて、その幾倍もを受け」ると言われました。「また永遠のいのちを受け」るとも言われました。結局、私たちが、現在、しがみついているものは、主のくださるものと置き換えられなければならないということなのです。それこそが、すべてを引き換えにしても、手に入れたいすばらしいものなのです。
砕かれる自己中心
私たちの人生の問題は何でしょうか。それは、私たちが自己中心であり、自分勝手に生きているということです。その結果、私たちは苦しんでいます。その生活の全てに、自己中心による破壊が起きています。
誰でもあまり認めたがらないことですが、自分の人生は失敗であり破綻しているのだ、と知る人は幸いです。そこに神様中心という解決を得るからです。
自分の願いを捨てる、ということには抵抗があると思います。たとえば自分の目標を捨てるということには、にわかには応じられないでしょう。幸せになりたいのに、その願いを捨てろ、ということになるからです。
しかし、神様がどう言っておられるかを知らなければなりません。主は「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます(マタイ 6:32)」と言われました。神様は私たちに何が必要かわかっておられます。私たちは神様のくださるものを受け取って生きなければなりません。
私たちが自分なりに願って手に入れたものは、どこかにヒビが入っていると考えられませんでしょうか。とすれば、これから手に入れるものも、同じことです。自己中心の人生が生み出すものは、結局、私たちの内に巣食う罪によって、傷つけられたものでしかありません。
自分の願いを捨てるとは、自己中心が砕かれる作業です。自分のものは捨てて、神様からのものを受け取ることについて、都合のいいように、取捨選択することは容易です。しかし、無条件ですべてのものを捨てるとなると、自己中心が砕かれなければできないことなのです。
主に全てを差し出しましょう。一旦、そのことがなされれば、神様中心に生きる人生に、一歩踏み出すことになります。それは、「ああ、全てを引き換えにして良かった」と思わされる、すばらしい人生の始まることです。
私たちは、どのように頑張っても、結局は「粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。(エレミヤ 18:6)」ことを悟らなければなりません。実は、すべてを捨てることが、すべてが祝福されることなのです。
「ヨハネの福音書 13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
残るところなく
イエス様はいよいよ十字架の死を前にして「その愛を残るところなく示され」ました。弟子たちの足を洗い、ご自分がされたように、お互いが仕え、愛し合いなさいと教えられました。
ご自分が世を去って行かれること、イエス様につながること、イエス様の名を使うこと、すでに世に勝っていること、平安であること、などたくさんのことを教えられました。そして、思わぬことが起こっても、恐れることがないようにと言われました。
その後、ゲッセマネの園で捕らえられ、十字架に向かわれて行きます。ご自分の持っておられる愛、また愛するとはこういうことなのだ、ということを「残るところなく」示されたのです。その究極が、十字架の死でありました。ご自身のいのちを惜しげも無く差し出してくださいました。文字通りご自分の持てる全てを注ぎだして死んで行かれたのでした。私たちを救い出すための、進んで払われた犠牲でした。イエス様の姿勢に、私たちは学ばなければなりません。ただ良いことというのではなく、その先に勝利があるのだ、ということなのです。
自分にできることをした女
ある女は、イエス様の頭に高価な香油を全て注ぎ出しましたが、それは「自分にできることをした(マルコ 14:8)」のでした。イエス様に対する感謝を表すために「自分にできる」最高、最善のことをしたことでした。彼女の持てる、恐らくは全財産であったであろうと思われます。それをただイエス様のためだけに消費するという使い方でした。当然周りの者たちは「なんともったいないことか。貧しい人々への施しに使えるのに」と思ったことでした。
イエス様が「その愛を残るところなく示された」こと、そして、そのように「お互いが愛し合いなさい」と言われたことに、彼女は応答するように、彼女の愛を「残るところなく」表したのでした。
彼女のしたことは、イエス様が言われたように、イエス様のための「埋葬の用意」となり、イエス様が苦難に向かうことへの励ましとなったのです。彼女はそのようなことはおそらく意図しなかったことでしょう。しかし、愛と感謝を「残るところなく」注ぎ出したことが、主が喜ばれる最善の行為となったのでした。
余裕がない中で
当然、イエス様が「残るところなく」愛を示されたということは、余裕があってしたことではありませんでした。人間として、まさにその生涯を終えようとするときに、余裕は残されていません。ご自分のことで精一杯のはずです。しかし、イエス様はそのような、恐れ苦しみで精一杯であろう中で、愛を与えるということをしてくださったのでした。
一方、この女も生活に余裕があるはずがありません。自分の生活や将来設計に必要なすべてであろう香油を注ぎ出しました。余裕がない中で、与えること、愛することをしたことでした。
自分に余裕があってすることに、意味があるのかと考えさせられることです。自分のことで精一杯という余裕がない中で、人に与えるために一歩踏み出すことが、大きな意味をなし、大きな働きとなるのだ、と教えられます。
注ぎ出しているだろうか
力や行動、ささげものなどについては、目に見えるものですから、それを注ぎ出すことに困難を感じてしまうかもしれません。しかし、それらのことは一旦置いておいて、目に見えないものを注ぎ出すということを考えてみましょう。愛するとは、心の問題です。自分の心に余裕がない場合にでも、人にその心を与えることはできることではないでしょうか。
例えば、自分が辛くても、苦しくても、人に笑顔を与えるということはできることではないでしょうか。それが愛ではないでしょうか。自分が落ち込んでいても、人を励ますことばをかけてあげることは、できることではないでしょうか。明るく快活に振舞ったり、自分を犠牲にして、その場に溶け込み、人の居場所となることは、難しいようでも今できることではあるのです。しかも、これらのことをしたからといって、お金や財産のように減っていくものではありません。かえって、私たちの心の中で増えていくもの、自分をも励まし、影響を与えるものではありませんでしょうか。
余裕がない中ですることに意味があります。人にも自分にも良い結果をもたらすのです。それは主が喜ばれる、主の働きなのです。与える勝利の生き方は、まず私たちの心の向きがそのように定まって始まり、広がっていくことです。
「マルコの福音書 14:8-9 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
2018年 主にあって あけましておめでとうございます。
みなさんはどのような思いを持って、新年をお迎えのことでしょうか。今年も主にあって、恵まれた年でありますように、心からお祈りいたします。
さて、今年のテーマは「福音に生きる」が与えられています。その意味は、実生活において、良き知らせの実際的な恵みに与ること、またその良き知らせを宣べ伝えることです。これらが2018年の生活の中心でありますようにと、心に覚えたいと思います。
迫り来る十字架のときを前にして
聖書は「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。(マルコ 14:3)」と記しています。
イエス様が十字架につけられる数日前の出来事です。いよいよその時が来るに当たって、非常に意義深いことが、ひとりの女によって、なされたのでした。
周りの人の目には、その行為はとても愚かに映りました。彼らは「『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた(同 4、5)」のでした。しかし、それは奇しくもイエス様のためには、「埋葬の用意」となりました。また、十字架を前にして苦しむイエス様への、励ましの行為となりました。主はそれを「りっぱなこと(6)」として賞賛されました。
その香りは、どこまでもイエス様の行かれるところに、ついて行くことになります。ピラトの前に、十字架に、墓に、まさに「埋葬の用意」となったことです。
イエス様への感謝が動機
この女は実際には、十字架のときを理解していたわけではなかったでしょう。弟子たちがそうであったように。彼女はただ一心に、イエス様への感謝を表したいとの願いで、この行為を行なっているのです。
他の福音書ではよみがえらせていただいたラザロの姉妹マリヤとも記されていますので、彼女には、主への特別な感謝があったことが伺い知れることです。日頃から感謝の想いが溢れていることでしたでしょう。それがこの日このとき、最高潮に達し、止むに止まれぬ行為としてなされたことです。
彼女の心には、特別な目的や打算はなく、ただ感謝が動機で、したくてしたのです。それが、主のための最善の行為として、受け入れられたことなのです。
私たちが、あれこれと考え、目論んで、何が喜ばれることなのか、画策を巡らしてなす行為には、おそらく、ひとりよがりや自己中心、自分が認められることなどの自己礼賛の思いが潜んでいることです。しかしひとたび私たちが、主への感謝が動機で、しかも止むに止まれぬ、主のためにという思いで、ことをなすならば、それは主のために最善となることだと教えられます。
今しかない
人々は「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができた」と思いました。確かに私たちも、同様の判断をするかも知れません。三百デナリとは年収に値します。年収分をその場に注ぎだしてしまう、ということができるでしょうか。伝道のために、何か大きなことのために役に立てたい、と考えるのが普通のこととなるでしょう。もし、彼女の心に、主への感謝以外の思いが少しでも混じっていたなら、常識的な周りの人々と同じ判断になったことと思うのです。
しかし、そのみわざ(十字架)の大きさ、そのときが迫り来る緊迫感、を理解した上でこのみことばを読めば、彼女が、彼女も人々も予想しなかった「りっぱなこと」をしたことなのだとわかります。
主の説明はこうです。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(7)」貧しい人たちに施しをしたいというなら、これから人生の中でいくらでもできることです。しかし、主の「埋葬の用意」となると、今しかない、ということなのです。
主への感謝が動機で、感謝に溢れて、主のために何かをしたいという願いは、今しかない、最善をさせる、のだとさらに教えられることです。今しかない、ということは主以外に誰が知り得るでしょうか。
自分にできることを
十字架の死を意識された主は「その愛を残るところなく示され(ヨハネ 13:1)」ました。そして、愛ゆえに、命を投げ出そうとしておられました。この女は主に応えるように「自分にできること」、持てるもののすべて、を差し出したのです。
「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とのことばは、主がどれほど、彼女の献身と愛に感動されたかを表しています。
福音に生きることが、私たちの人生の目的です。
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)