19.12.29 2019年感謝 一致すること



「エペソ4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

イエスだけ

 2019年を主にあって感謝します。今年のテーマは「イエスだけ」でした。イエス様だけを見上げて歩んだ1年間であったことを主に感謝します。神様からたくさんの祝福がありました。多くの方が救われました。オイコス休暇、キャンプなど楽しい交わりがありました。働き人が起こされました。それぞれの問題が解決し、必要が満たされ、病が癒やされました。
 そして、先週はクリスマスコンサート&メッセージが開催されました。多くの方が参加してくださったことを感謝します。またお祈りを感謝します。来られた方が、「今年は特に歌声が一致していてよかった」と言われていたと聞き、神様に感謝しました。しかし、この「一致」というのは、歌声だけではなかったと思います。

賜物が用いられた

 クリスマスコンサート&メッセージでは、本番を迎えるために、多くの働きがありました。日曜日の練習では、会堂に多くの奉仕者が集まって、本番の通りに何回も練習しました。そのほかの日にも、練習を最後までずっと見守ってくださった奉仕者がおられました。会場に運び込む細かい荷物を、根気よく梱包しておられる奉仕者がいました。衣裳の準備に奔走してくださっている奉仕者がいました。お茶の準備をしてくださっている奉仕者がいました。そのほか、チケットを売る人、プログラムを作る人、受付の準備をする人、写真を撮る人、映像を撮る人、音に気を配る人、照明機器を操作する人、お客さんを案内する人、子どもの世話をする人、スライドを作る人、それを映す人、ポスターを貼る人、舞台にマイクや譜面台を配置する人、椅子を並べて会場を作る人、垂れ幕やツリーを準備する人、荷物を運ぶ人、片付ける人・・そして、みなさんが家族や知人に声をかけて、お客さんを集めてくださいました。どれ一つ欠けても、コンサートを開催することはできませんでした。この一致は、関わるすべての人が「イエスだけ」を見上げてはじめて成し遂げられるものです。一人ひとりの賜物を、神様が用いてくださったことを感謝します。

神があがめられるため

 「音楽の父」と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハは、熱心なクリスチャンでした。彼は自分の音楽を作る目的は「神の栄光を現すことだ」と言っていました。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところには、「S・D・G」というサインがあります。それは「SOLI DEO GLORIA」、「神にのみ栄光あれ」という意味です。この曲が神の栄光を現すものであるように、聞く人の心が神様に向くように、という願いを込めて作曲したのです。
 聖書には、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。(第1ペテロ4:10-11)」とあります。神様が私たちに賜物を与えてくださったのは、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。すべての賜物は、人々を神様に向けさせるために用いられなければなりません。クリスマスコンサート&メッセージが、訪れた人々の心が神様に向かうひと時となったことを信じ、神様に栄光をお返しいたします。

変わらない神

 クリスマスも終わり、もうすぐ大晦日です。私たちは年末になると、今年はどんな年だったかなとか、来年はどんな年にしようかな、と考えたりします。しかし神様は永遠のお方であり、神様にとっては時間の区切りなどはありません。私たちは移ろいやすく、気分が変わったり、決意が揺らいだり、また歳を取ったり、環境が変えられたりと、常に変化する者ですが、神様は、私たちがどんなに変わっても、決して変わることなく、私たちとともにずっといてくださる方です。だからこそ全面的に信頼できるお方です。そして私たちは、この変わらない方を見上げるので一致することができるのです。今年もあと少しですが、新しい年がさらに祝福されるように一致して祈りつつ、過ごして参りましょう。

19.12.22 クリスマスおめでとうございます



「 ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

クリスマス

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、言わずと知れたイエス・キリストの誕生日であります。イエス様が、この地上にお生まれくださったことをお祝いする日であります。
 毎年、クリスマスが近づいてくると、私の周りの人たちから、「もうすぐクリスマスだから、教会は忙しいんじゃないんですか。」と言われることがあります。私も昔はそうでありましたが、世間の人にとってクリスマスという日は、パーティーをしたり、ケーキを食べたり、子供にプレゼントをあげるというそんなイメージが定着しているのではないかと思います。「イエス・キリストの誕生をお祝いするのは、教会ですることで、私には特に関係のないこと」といった感じではないでしょうか。
 では、クリスマスは、教会に集うクリスチャンのための単なるイベントに過ぎないのでしょうか。

良き知らせ 福音

 イエス・キリストが地上にお生まれくださった目的は、私たち人類の罪をあがない、救い出すためでした。「あがない」というのは、本来、奴隷を解放する時に支払われる代価のことです。私たち人間は、生まれながらにして罪の性質を持っています。罪の支配、罪の奴隷状態にあるのです。 罪のもたらす結果は、死、滅びであります。 そして、人は、自分で犯したその罪を自分自身で償うことはできないのです。罪から解放されるためには、罪のないお方によって救いがもたらされなければならないのです。
 造り主なる真の神は、人が滅びに至ることがないようにと、救いの道を開いてくださいました。それが、御子イエス・キリストをこの地上に遣わすというクリスマスの出来事でした。それは、神が私たちを愛してくださるがゆえのことなのです。神様の側からその愛を示していただくことがなければ、私たち人間の側から、いくら神を知ろうとしても知ることは決してできないのです。神は、その御子イエス・キリストを十字架につけてくださり、尊い犠牲を払ってくださったのです。私たちの罪の身代わりとなってくださり、死んでくださったのです。
 そして、このキリストのあがないによって、人は、神の前に罪ある者であることを認め、悔い改め、イエス・キリストが救い主であることを信じて受け入れる信仰を通して、罪が赦され、罪の奴隷から完全に解放され、救われるのです。

私に関わりのある出来事

 この良き知らせのことを「福音」と言いますが、この福音は、イエス・キリストがお生まれくださってから2000年以上経過した今でも、多くの人に宣べ伝えられているのです。外国のある一部の人にだけ届けられているのではありません。その対象は、全世界のすべての人であります。ですから、今本紙を読んでおられるあなたにも、主は声をかけてくださっています。ですから、クリスマスは、あなたの人生にとても関わりのある重要な出来事なのです。

私の心に生まれてくださった救い主

 クリスマスは、私たちの心に生まれてくださったイエス・キリストの誕生をお祝いし、感謝する時であります。心に救い主イエス・キリストをお迎えする時、主は私たちの心の内に住むことがおできになります。この方との交わりの中に生きることができるのです。この生き方こそが、人が本来あるべき姿であり、人が神のみもとに立ち返る時、平安をいただいて生きられるのです。今も生きて働いておられる救い主の深い御愛に感謝し、クリスマスを喜びをもってお祝いしたいと思います。

19.12.15 悪口を言わない



「詩篇34:12-15 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと 日数の多いことを愛する人は。あなたの舌に悪口を言わせず 唇に欺きを語らせるな。悪を離れて 善を行い 平和を求め それを追い続けよ。主の目は正しい人たちの上にあり、その耳は 彼らの叫びに傾けられる。」

ネガポ辞典

 ネガポ辞典というアプリがあります。ネガティブ(否定的、悲観的)なことばを、ポジティブ(肯定的、楽観的)なことばに変換する辞典です。たとえば、「いい加減」→「おおらか」(意味:ささいなことは、とがめないこと)、「三日坊主」→「三日間も集中して物事に取り組むことができる」(意味:短期集中という点において、この坊主の右に出る者はない)、「明日からは月曜日だ」→「今日は休みだ!」(意味:まだ今日は休みだと考えるとうれしくなる。)など、なるほどと感心するものから、おもしろくて笑ってしまうものまで、600語余りが掲載されています。もともとは、二人の女子高校生が、あるデザインコンクールに出品するために作ったものだそうです。制作者の一人はこれを作った動機を、もともと自分自身がネガティブだったので、自分自身を元気づけてくれるものを考えれば、自分みたいに落ち込みやすい人も一緒に元気づけられてくれるのではないかと思い、制作したと語っていました。
 実際にネガポ辞典を読んでいると、特に人に対して、悪い面を見るのではなく、それを変換して良い面として見ることができれば、ずいぶん人間関係が平和になるだろうなと思わされます。

悪口を言ってしまう

 私たちは、人の言うことや、やることが気に入らない、あるいは正しくないと感じるとき、また、人の行動が自分にとって不利になっていると感じるとき、感情が害されたとき、その人のことを悪く思い、悪口を言ってしまうことがあります。多くは、その人に直接言うのではなく、その人のいないところで、別のだれかに言ってしまうのです。そういう時は自分の方が正しいと信じていますから、だれかに自分の方が正しいと言ってもらって安心したいのです。言った直後はすっきりします。しかし、しばらくすると、あんなことを言ってしまった、と後悔の念にかられたりもするのです。平安がありません。それなのに、つい忘れて同じことを繰り返してしまいます。人の自己中心は根深いものです。因みにネガポ辞典では、「嫌な奴」→「自分を向上させる鏡」(意味:きっと自分も同じことをしている(はず!)」です。
 冒頭のみことばは、主を恐れるならば、悪口を言ってはいけない、人を欺いてはならない、善を行いなさい、人との平和を求めなさい、と教えています。悪口は主に罪を犯すことなのです。ですから、私たちは悪口を、悔い改めなければなりません。

ことばで失敗する

 聖書には、「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(ヤコブ3:2)」とあります。ことばは、何気なく言ったつもりでも、聞いた人の心に影響を与えます。傷つけたり、怒らせたりするのです。「そんなつもりではなかったのに」と後悔させられることを、多くの人が体験しているのではないかと思います。だから、聖書にはことばに関する教えが、とてもたくさん書かれています。「ことば数が多いところには、背きがつきもの。自分の唇を制する者は賢い人。(箴言10:19)」「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(箴言18:21)」などです。「死と生」とは、自分が語ったことばの結果のことです。人は自分が語ったことばの責任をとらなければならない、と教えられています。私たちは、話すことばに気を配らなければなりません。

心に満ちていることを話す

 主の目には私たちは等しく罪人です。そして、そんな者を主は愛してくださっています。私たちの周りにいる人々も皆、神様に愛されている人々です。主に愛されているほどの人を悪く言ってはならないのです。イエス様は、「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。(ルカ6:45)」と言われました。ですから私たちは、まず心の中に良い物がなければなりません。良い物とは真の愛にほかなりません。そして、それは主だけが私たちに与えることのできるものなのです。私たちは、真の愛を主にすがり求めなければなりません。

19.12.08 流行



「 Ⅰコリント1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

流行語大賞

 「ONE TEAM」。「どんな強豪チームでも、選手たちの思い、心が一つにならなければチームとして機能しない」との思いから、ラグビーワールドカップで日本代表チームが掲げたスローガンが、今年の流行語大賞に選ばれました。1984年から続いているそうですが、毎年この時期になると、「今年はどんな言葉が選ばれるのか」と、注目を浴びています。世間をにぎわせ、心に残る言葉で、その年や時代を象徴する言葉が選ばれています。「流行語大賞」とは別に「トップテン」として選ばれたものには、「令和」や、「計画運休」「タピる」「〇〇ペイ」「♯KuToo」など、スマホやSNSが盛んなこの時代を反映するような言葉もありました。そんな中、このトップテンに入ることがなかった言葉が、ツイッター上で話題になっています。「上級国民」という言葉です。この言葉は、今年4月、東京・池袋で87歳の男性ドライバーが暴走し、通行人を次々とはねた事故がありましたが、それによって、SNS上で生まれた言葉です。男性が逮捕されなかったというニュースが流れ、「どうして逮捕されないのか」と批判の声があがり、男性が元高級官僚で、勲章を授与された経緯もあるため、そこから「上級国民だから逮捕されないのだ」という投稿がSNS等で拡散し、「上級国民」という言葉が広まったのです。「この言葉がなぜトップテンに入ることがなかったのか、入らないのはおかしい」と今、SNS上で流行語落選に対して異論が相次いでいるのです。

ネットスラング

 このSNSなどの、ネット上のコミュニケーションツールの中で使われる俗語、隠語、略語のことを「ネットスラング」と言います。今、私たちの生活の中で、メール、SNSなど、スマホやパソコンを介してのコミュニケーションが多くなりました。そのような中で、書き言葉でもない、話し言葉でもない、「打ち言葉」を使う機会が増えています。文化庁も、この「打ち言葉」をコミュニケーション言語のひとつに位置づけています。しかし、「俗語的な印象の強い表記は広く受け入れられるには至らない様子がうかがえる」と、注意を促すような報告もしています。
 例えば、ネットスラングの中には、「OK」と書き込みするのに、「おk」と入力したり、文章の終わりに、「w」(笑うという意味)とつけ足して、「。」で終わる味気ない文章を和らげるために使っています。これらの打ち言葉は、ビジネスなどの場ではなく、個人的なやりとりや、プライベートなグループの中で使われています。
 これらの文字によるコミュニケーションは、手軽にいつでもやりとりができる反面、本当に伝えたいことが伝わりにくいという面もあります。会って話をする時は、相手の目や表情、しぐさなどを感じながら、コミュニケーションを取ることができるので、相手が言わんとすることが分かる時もあります。それでも、十分には伝わっていないと感じる時もあると思います。であれば、メールやSNSでのやり取りにおいては、正しく伝えることを心がけないと誤解を招くことも起こってくるのです。

流行はいつか廃(すた)れる

 流行語や、打ち言葉、ファッション、生活用品など、一時的には、人々が注目するようなものに目がとまり、「その流れに遅れをとってはならない」「周りのみんなは知っているのに、自分だけ知らないのは恥ずかしい、置いてきぼりになってしまう」と思って、それらに影響されたとしても、流行はいつかは消えてなくなってしまうものです。私たちは流行を知っていても、それにただ影響されて、流されてのめり込んでしまってはいけないのです。

みことばは変わることがない

 私たちは、いつまでも変わることのない主のみことばに信頼しなければなりません。みことばによって私たちは、苦しみの中にあって、慰めを受けますし、みことばによって、神の愛を知ることができます。みことばは、主イエスを信じる私たちにとっては、神の力として働き、私たちを罪から救い出し、死と滅びからの解放であり、永遠のいのちにあずかる祝福のことばなのです。
 このみことばを土台として、人生を築いて行く人の歩みは、決して崩れることはありません。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)」

19.12.01 思いやる心



「ヘブル13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」

思いやりノート

 小学4年生になったとき、担任になった先生が、ノートを一冊用意しなさい、そのノートの表紙に「思いやりノート」とタイトルを書きなさい、と言われました。そのノートは先生との通信ノートみたいなもので、その日にあったできごとや、その感想を何でも自由に書いてよいのです。書いて提出すると、先生がコメントを書いてくれるので、みんな競って積極的に提出していました。そして時々、先生がその中から選んだ文章のいくつかを、まとめて1枚にプリントしてくれたのです。その中にはただ日記風のものも多くありましたが、クラスの中に問題があればそのプリントを読んで、みんなで考えようということでもあったのです。けんかがあれば、先生が話し合いの場を作ってくれて、仲直りできるようにしてくれたり、仲間はずれにされている子がいれば、そのことについて考えさせたり、丁寧に話をしてくださったりしました。年配の理科の先生で、どちらかというと強面(こわおもて)の、厳しい男の先生でしたが、長い学校生活の中で、この先生のことが、「思いやり」ということばと一緒に一番心に残っています。「思いやり」をたたき込まれたな、という印象です。

危機感

 今は、SNSで何でも言いたいことを言って、簡単に拡散できる時代です。スマホなどで心ない中傷のことばを目にするたびに、心が痛むのは私だけではないと思います。たとえば、凶悪な犯罪者を罵倒(ばとう)することばは、耳を覆うものがあります。それは、正義感から出ているものなのでしょうが、そんなひどい表現がどこから出て来るのかと思うと、とても気になります。
 そんな風に感じる時、4年生の時に何度も聞いた「思いやり」ということばが、心の中に刻みつけられていることを感じるのです。今、自分が何かよいことができているということは決してありませんが、少なくとも言われた相手の気持を想像することはできますし、その人には何か事情があるのだろう、と想像することもできます。そう思うと、人を思いやることは誰かに教えてもらう必要があることではないかと、危機感を感じてしまうのです。

ローマ教皇の来日

 先週、ローマカトリック教会のフランシスコ教皇が、38年ぶりに来日しました。来日の目的の一つは、被爆地の長崎と広島を訪れ、核兵器の廃絶を呼びかけることでした。世界で唯一、原爆の被害を受けたこれらの地から、平和へのメッセージを語るためです。現地では被爆者の方々と対話をされる場面もありましたが、対話された方が、「 ローマからわざわざ、私どものために来ていただいて、本当にありがたいです。」と感激した面持ちで話されていました。被爆された方々は原爆の恐ろしさを身を持って体験された方々で、もう二度とこんな悲惨なできごとを繰り返してはならないと、内外に痛切に訴えておられる方々です。今回、全世界に影響力を持つローマ教皇が訪れたことは、どんなに力になったことかと思います。
 フランシスコ教皇は、歴代の教皇とは少し変わっているそうです。質素な生活を好み、庶民的で、特に貧しい人に寄り添うことに熱心に取り組んでおられるそうです。そして話すときは、わかりやすいことばを選ばれるそうです。報道を読みながら、「思いやり」ということばが、思い起こされてきたことでした。

思いやりは聖書の教え

 「思いやり」は聖書の教えです。聖書には、「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。(ヘブル13:1 - 3)」とあります。「兄弟愛」は、互いに愛し合うことですが、聖書の中心的な教えです。イエス様の十字架の犠牲ゆえに、私たちも愛し合うことができるのです。その具体的な行ないが、もてなすことです。アブラハムは、自分の天幕の前を三人の見知らぬ人が通りかかろうとしたところを引き止めて、心からのもてなしをしましたが、このうちの二人は御使い、もう一人は主ご自身でした。これは、旅人だけではなく、困っている人を助けなさいという教えです。また、信仰のために牢に入れられている人、虐げられて傷ついている人のことを思いやりなさいと教えています。弱い立場の人を思いやりなさいということです。「思いやり」は神様のみこころです。私たちは人を思いやることの大切さを、聖書から学ぶことができるのです。

19.11.24 主にあってできる



「 ピリピ4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

天才少年

 「はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)」。私たちは、神が天地万物を造られた創造主であることを信じています。アメリカで、若干11歳にして超名門大学に入学した、ウィリアム・マイリス君が、今注目を浴びています。彼は、「科学を通し、世界に向けて神様の存在を証明したいんだ」と言っています。夢は天文学者になることです。そんな彼は、1歳過ぎた頃に、たし算を覚え、2歳の時にはかけ算を習得し、5歳で英語、ギリシャ語、フランス語などのアルファベットもマスターしていたそうです。そして、9歳で高校を卒業し、11歳で大学に入学し、現在大学生として生活をしています。11歳ですと、私たち日本人であれば、小学校5年生にあたる年齢です。しかし、普段はというと、同年齢の子供と同じでゲームをしたり、テレビを観たり、友達とも楽しく遊んでいるようです。
 ウィリアム君は、父親がギリシャ正教会の司教をしていて、彼はクリスチャンです。彼は、あの有名な物理学者で無神論者であるスティーブン・ホーキングの唱えた「宇宙は、何もないという状態から、自らによって生み出された」という宇宙理論に対して、真っ向から異を唱え、「宇宙は、外的要因によって創り出された。つまり、神が宇宙を創り出したのだ。」と訴えています。

神から与えられた贈り物

 彼は、テレビ局のインタビューの中で、「誰もが、神様から贈り物を授かっている。ぼくは知識と科学と歴史を授かった」と話しています。「誰もが」と彼が言っているように、私たち一人ひとりに、神様からの贈り物が与えられているのです。私たちには考えるための頭脳が与えられています。想像力が与えられています。夢を持つことができます。子供の頃には、誰でも一度は自分のなりたい姿を思い描いたことがあると思います。「ぼくは将来、プロ野球選手になるんだ」「学校の先生になりたい」「私はケーキ屋さんをやりたい」などと、様々な夢を抱いたことがあると思います。私たちは、どんなことでも、自由に考え、思い描くことができます。
 しかし、現実はどうかと言うと、自分の考えた通りになっていなかったり、「まったくかけ離れてしまっているな」と感じることはないでしょうか。

途中でやめてしまう

 大人になり、社会人になり、「これからこの仕事で成功するぞ、頑張るぞ」と希望にあふれて新生活を始めます。そして、その中で、行き詰まりを覚えたり、人間関係の難しさを感じたり、恥をかくような出来事にあったりして壁にぶち当たることになります。すると、多くの人は、「自分は所詮こんなもんだよな」「私にはあの人のようにできる能力はないし」と言って自分の殻に閉じこもってしまいます。自分に制限をかけて、周囲を気にしつつ、歩調を合わせ、小さい枠の中で生きていきます。そして、やがては、「自分にはとてもできない」「向いていない」と言って、やめてしまいます。

あきらめることがなければ必ずできる

 私たちは、問題が起こるとき、自分の内面的なことに目が向きがちであります。私たちは、私たちの主イエス・キリストに目を向けなければなりません。主は不可能のない方です。私たちの心のうちに働いてくださり、事を行わせてくださる方です。主が成し遂げてくださいます。私たちは、その主に対する信仰によって、「主にあって不可能はない」「主が与えてくださったビジョンなので、これは必ず主にあって成し遂げられる」と祈り続けることができるのです。私たちが、「あきらめる」ことなく、求め続けていくならば、主は、その先にある道を開いてくださいます。そして、「自分ではこんなことは絶対にできない、無理だ」と考えていたことが、主にあって「できた」と知ることになります。
 私も、人前で話をしたり何かをするというのは、「自分にはとても無理だ、できない」と思っていました。「一対一で話をするのにも、自分の言いたいことをなかなか言えずにいるのに、人前で話をするなんてとても無理だ」と思っていました。「逃げ出したい」と思う瞬間もありました。それでも、主はあわれんでくださり、「わたしがともにいるではないか、わたしに信頼しなさい」と何度も何度も声をかけていただきました。そして私は、「主が必ず導いてくださる、成し遂げてくださる、私は主に信頼している」と告白し、祈りながらご奉仕をさせていただきました。昔の私では考えられなかったことが、主にあって「できた」ことでありました。「私は、主にあってどんなことでもできるのです。」と告白し、神が私たちに与えられた贈り物を用いて、主の栄光を現すために、仕えていきたいと思います。

19.11.17 和解の力



「Ⅱコリント5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」

映画「インビクタス」

 「インビクタス」というクリント・イーストウッド監督の映画があります。「ラグビーワールドカップ1995」を題材とした実話です。「インビクタス」はラテン語で、「屈服しない」という意味です。この映画は、南アフリカ共和国で初の黒人の大統領となったネルソン・マンデラ氏が、27年間もの長い投獄生活から釈放されるところから始まります。氏は同国のアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対したために、終身刑を受けていたのです。車中、道路の左右では、一方では白人がラグビーを、反対側では黒人が裸足でサッカーを練習しています。両者は高いフェンスで隔てられているのです。アパルトヘイトでは、住む場所も、交通機関も、結婚も何もかも、白人と黒人は分離していました。ラグビーは白人のスポーツで、国際試合をすることがあっても、黒人は自国チームではなく相手チームを応援していたそうです。少数の白人が黒人を支配し、両者は互いに憎み合っていたのです。
 しかし、91年にアパルトヘイトは廃止され、94年にマンデラ氏が大統領に就任すると、氏はラグビーで国を一つにすることを始めます。当時低迷していたナショナルチームの主将と会い、自身の政策を熱心に語り、励まし、黒人の子どもたちにラグビーを教えてほしいと依頼します。当然、白人側からも黒人側からも反対が起こりますが、氏は決してあきらめません。そして、多くの困難を乗り越え、95年の自国開催の大会で、南アフリカはみごとに初参加で初優勝を勝ち取るのです。映画では、氏が自国チームの主将に優勝カップを渡すシーンが感動的でした。

ラグビーワールドカップ2019

 今年のラグビーワールドカップは日本で開催されました。予想を超える日本チームの活躍に、今までラグビーを知らなかった人も「にわかファン」になり、日本中が盛り上がる大会となりました。日本チームの選手がさまざまな人種で構成されていたことも印象的でした。だからチームの目標は「ONE TEAM」(ワンチーム)です。そうして、初のベスト8入りを果たした日本が唯一、対戦で破れた国は、今回3度目の優勝を勝ち取った南アフリカでした。その南アフリカのチームもさまざまな人種で構成されていて、主将は黒人選手でした。そして、あらゆる人種の国民がみんな緑の服を着て、一つになって応援したのです。このことを、初優勝した時の主将であった元選手は、「今回の優勝は、1995年の初優勝を超える大きな意味がある」と評したそうです。

和解の力

 マンデラ氏が大統領になった際、白人は当然、報復を恐れました。しかし氏は、決して仕返しすることをせず、白人にも黒人にも和解を呼びかけたのです。氏は「被害者にとって、加害者への懲罰を放棄するということは受け入れがたいでしょう。しかし、平和のためにはどうしても必要なことなのです。」と語ったそうです。
 氏は、27年間の投獄生活で、食事や衣服も満足に与えられず、過酷な労働を強いられ、体を蝕(むしば)まれました。初めは看守に対する怒りであふれていました。しかし、次第に抑圧する側(白人)の心を考えるようになり、抑圧する側も解放されなければならないと気づいたそうです。白人のことばを学び、看守と対話ができるようになりました。和解を勝ち取ったのです。そして大統領に就任してからは、ひたすら民族間の和解と協調に努めて行きました。そのシンボルの一つがラグビーだったのです。

神様のみこころは和解

 聖書には「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:27-28)」と記されています。憎しみを憎しみで返したら、どこまでも争いが続いて行くだけです。世界で起こっている、いつまでも続く紛争や、貿易摩擦などがまさにそのあらわれでしょう。
 神様のみこころは「和解」です。まず神様が、私たちと和解してくださいました。私たちは罪ゆえに、神様と敵対している者でした。しかし主は、あわれみによってイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださったので、信じる私たちの罪は完全に赦されました。神様と和解したのです。ですから、私たちは日常生活の中で、 神様が和解してくださったように、人との和解を求めなければなりません。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」

19.11.10 ネット中傷



「 箴言 11:3 直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。」

ネット上での中傷

 「自宅を放火するぞ」「流産しろ」「無銭飲食をした」。これは、元アイドルに対して日常的に繰り返されていた中傷の言葉の一部です。何年間にもわたって、ネット上の掲示板などを通してこのような書き込みがなされているのです。書き込みをされた本人は、「怖いと思うものもたくさんありました。」「人としてひどすぎると思った。」と言い、投稿者を特定するための手続きをしました。プロバイダに対して、「発信者情報開示請求」をして、投稿者を特定することができたのです。
 他にも、プロ野球選手の奧さんが、ネット上の掲示板内で繰り返し誹謗(ひぼう)中傷を受け、これもまた何年にもわたって書き込みをされ、子どもに対しての中傷もあったそうです。この奧さんも、投稿者を特定し、投稿した20代の女性に対して、200万円近くもの損害賠償を請求しました。
 他にも、いじめにあった中学の男子生徒は、ネットの掲示板で、実名をあげられ、「この前、自転車に乗っている◯◯をどこどこで見た」とまで書き込みされ、恐怖で外に出られなくなったそうです。

匿名という隠れ蓑(みの)

 ひと昔前では考えられなかったこのような誹謗中傷は、匿名で書き込むので、投稿者がどんな人なのか全くわかりません。そして大勢の人が、次から次へと人を中傷した内容の書き込みをするので、「みんなが言ってるからいくら言っても大丈夫だ」という集団心理が働き、罪悪感も薄れてきます。そして、ついには何でもありの無法地帯となってしまうのです。このような中傷は、ネット上に投稿の履歴は残っていても、誰が言っているのか分からないので、結局は、本人のいない所で隠れて悪口を言っているのと変わりません。ネット上の中傷の問題にかかわる弁護士は、「渋谷のハチ公前で、大声で言えないことでも、なぜかネットの世界では言えてしまう」と言っています。面と向かって言えないことでも、ネット上の、自分の素性が知られない場所では言えてしまうのです。

人の心にあるもの

 中傷する人の心には、ねたみや嫉妬(しっと)、不満、復讐(ふくしゅう)といった思いが強くあります。自分が大変だと感じている時に、人がほめられているとか、楽しそうに笑いながら話をしていると、「あの人はいいよね、何をやってもうまくいくし。私はこんなに大変な目にあっているのに。」といった人をねたむ思いが、常に心の中を支配しています。
 ヤコブの息子ヨセフは、父から特別に愛されていました。その父のヨセフに対する偏愛ぶりに、ヨセフの兄弟たちは、「何であいつにだけ、いつも良くしてやるのか、僕らへの接し方と全然違うじゃないか。」とヨセフをねたみ、その思いは、殺意へと変わっていきました。
 私たちの内側には、人をねたむ心、うらやましく思う心、憎しみといった心が常にあり、私たち自身の心を蝕(むしば)んでいくのです。よく事件のニュースを見ていますと、近所の人が、「あの人があんなことする人だとは思わなかった、きちんとあいさつするいい子でしたよ」と言うのを聞きます。私たちは罪人なので、状況が整えば簡単に罪を犯してしまいます。心を見張っていないと、簡単に人が言っている噂、陰口に乗っかってしまい、やがては自分が陰口を叩いているという自覚すら失ってしまいます。

誠実であれ

 主の御心は、私たちが誠実であることです。表面的には、良いことを言っても、心の中で、怒りを燃やし、人をねたんでいれば、それは不誠実な態度であります。
 本人のいない所で、悪口を言うならば、直接本人にも言うべきであります。本人の前で面と向かって言えないことであれば、他の人の前でも言ってはいけないことです。心の中でそう思うのも同じことです。言えなければ、治めなければなりません。主は私たちの心をご覧になっておられ、誠実な人を受け入れてくださいます。私たちは、主に喜ばれる生き方を選択したいと思います。

19.11.03 無関心



「ローマ12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」

無関心

 昨年(2018年)にノーベル平和賞を受賞した、コンゴ共和国のムクウェゲ医師が、先月来日しました。ムクウェゲ医師は、コンゴで性暴力被害にあった女性たちの治療と支援をしています。日本に来た目的は、現在も続いているコンゴ共和国の内戦で、あたり前のように起こっている性暴力の現状を知らせるためです。内戦の原因は、この国で豊富に産出する、レアメタル(稀少金属)の産地の奪い合いです。レアメタルはあまりなじみのないことばですが、実は私たちの生活に欠かせないものです。スマホやパソコンの材料の一部として使われているのです。こうして奪われたレアメタルは、国境を越えた場所で、不法に売買されているそうです。ムクウェゲ医師は、「あなたのポケットにあるスマートフォンにも、女性が襲われた土地で掘られた資源が入っているかもしれない」と訴えています。そして、このようにして世界はつながっているのだから、「自分のことだけ考えないことが大切だ。無関心ではいけない。」、と訴えていました。確かに、関心を持たなければ、遠い国で起こっている、このような悲惨なできごとを知ることはないでしょう。ネットやテレビのニュースで報道されても、聞かないで済ますことはいくらでもできます。インタビューでムクウェゲ医師が繰り返した「無関心」ということばが、とても心に残りました。

愛の反対は「無関心」

 「愛の対義語(反対語)は憎しみではなく無関心だ」ということばがあります。これは、1986年にやはりノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル氏のことばだそうです。(マザー・テレサも、このことばを使ったことはよく知られています。)ヴィーゼル氏は、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を奇跡的に生き延び、自身の強制収容所での経験を小説に書きました。ナチス・ドイツによって、約600万人のユダヤ人が犠牲になったと言われていますが、その虐殺には多くの民衆の「無関心」があったことを忘れてはならない、とヴィーゼル氏は訴えたのです。ヒトラーに強大な権力が与えられたのは、多くの民衆が彼による独裁に賛成したからです。勇気を持って、強く反対意見を言える人はほとんどいなかったということでしょう。

関心を持つことは大切

 最近、台風や大雨などの自然災害が各地で頻繁に起きています。多くの人はそのできごとを知っていますが、すぐに現地に出かけて、支援のボランティアに参加できる人は多くありません。しかし関心を持って、災害の状況や回復の様子を知ろうとすることは誰にでもできます。毎日のように報道される、世界各国の紛争や貧困、誰もが肌で感じる地球温暖化の問題、また過去に起こった戦争なども同様でしょう。これらの問題の解決のためには、まず多くの人が問題に関心を持ち、現状を知ることが大切だと、訴えられているのです。
 聖書は「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ローマ12:15)」と教えています。人は誰かが自分と同じ気持ちになってくれたら、それだけでうれしいと感じますし、慰められます。そして人と同じ気持ちになることは、人に関心を持っていなければできません。人は自己中心ですから、ともすると、まったく周りの人を気にかけないで過ごしてしまうことになりがちではないでしょうか。そんな私たちにこのみことばは、人を愛するとは人に関心を持つことなのだと、教えているのです。

関心を持ってくださる主

 イエス・キリストは、私たち人間の罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださるために、生まれてくださいました。100%、ご自分のためではなく私たち人間のために生まれてくださったのです。ですから主は私たち一人ひとりに関心を持っておられます。罪ゆえに苦しむ人間をあわれんでくださり、すべての人が救われるようにと気にかけておられるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」。主がまず私たちを愛し、救ってくださいました。ですから、私たちも人を愛したいと切に願います。愛することとは関心を持つことです。何か立派なことができなくても、気にかけてあげることはすぐにでもできそうです。私たちは、主がいつも私たちを気にかけておられることを、覚えなければなりません。

19.10.27 一歩踏み出す勇気



「イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

間一髪救出

 今年の2月、名古屋市内で、踏切内にいる女性が間一髪救出されるという出来事がありました。踏切の警告音が鳴り、遮断機が降りているのに、踏切内には乳母車を押しながら歩く高齢の女性がいました。踏切の手前で、停車している車の運転手の男性が、その様子を目撃するなり、車から飛び出して、「おばあさん!おばあさん!」と大声で叫び、助けに行きました。しかし、おばあさんは、耳がよく聞こえないので、全く反応がありません。そばまで行くと、線路の溝に乳母車がはまって抜け出せないでいたのです。男性は、おばあさんと乳母車を抱きかかえながら、そのまま線路の向こうへ渡ることができました。おばあさんと乳母車を抱えて歩くというのは、ある程度力のある人でないと出来ないことだと思います。電車は、その出来事の10秒後に、踏切を通過しました。男性が気づくのに少しでも遅れたり、もしくは誰も気づくことがなければ、大変なことになっていたのです。
 この男性は、現場の道をよく通る人で、この踏切は駅から近いところにあり、電車はそこまでスピードを出して通過しないことと、遮断機が下りてから電車が来るまでの時間をおおよそ知っていたので、「間に合うだろう」と思ったそうです。それにしても、突然のことで、このような行動を起こすのには勇気のいることだと思います。もし、皆さんがこの当事者だったとしたら、どうしたでしょうか。

本当はしたいのに一歩踏み出せない

 街中の人通りの多い場所を一人で歩いている時に、人がうずくまって倒れているのを見たらどうしますか。夏の暑い日に高齢者が倒れていたら「熱中症なのかな」と思いますし、週末の夜、繁華街で若い人が倒れていたら「酔っ払って倒れているのかな」と思いますし、状況にもよりますが、どんな具合なのか気になるはずです。すでに誰かが近くにいれば、近寄って行けますが、「今倒れた」という場面に遭遇した時に、すぐに走って行って声をかけてあげられるでしょうか。「助けた方がいいと思うけど、どうしたらいいだろう」とパニックになって全く動けなかったり、または「誰かが助けるだろう」と思い、見て見ぬ振りをしてその場を通り過ぎてしまうかもしれません。
 この場合は、突然の出来事ですが、私たち自身の心の中にも、「本当はしたい、変えたいと思ってはいるのに、なかなか変えられない、行動できない、一歩踏み出せないでいる」というような思いはないでしょうか。人の言うことを素直に聞けるようになりたい、人前で自分自身の心の内をさらけ出していきたい、自分から積極的に声をかけられるようになりたい、自ら進んで意見を言えるようになりたい、自分から手を挙げて奉仕や教会の活動に加わり、教会の中心で神様に仕えていきたいなど、他にもたくさんあると思います。しかし、そんな思いがありながらも、日々の生活に追われ、それどころではなかったりするのではないでしょうか。今いる場所や環境が、満足ではないけれども、そうかと言って、今のスタイルを変えるのには抵抗があるし、どうしようとあれこれ考えてしまって動けないでいるのではないでしょうか。

勇気が与えられる

 私たちは、主に助けていただかなければ、何一つ行うことはできません。今日、元気よく挨拶することも、機嫌よく仕事をするのも、目の前の仕事に集中することも、問題が次々と起こる中で心が平安でいられるのも、すべて主の助けがなければ、それをし続けることはできません。ですから、「主よ、今、一歩踏み出す勇気を与えて下さい。行動を起こす勇気をください。」と祈らなければなりません。

今飛び込んで行く

 私たちが、本当はしたいけど、その勇気がなく踏み出せない、と感じる中で、私たちは「怖い」と感じるその中へ、すすんで飛び込んで行かなければなりません。一人ではありません。主が一緒にいてくださいます。主はともに働いてくださって事を行わせてくださいます。主は、人の目にはできない、不可能と思えるような事であっても、それを成し遂げてくださる方である事を信じます。主に信頼して飛び込んで行く人を、主は必ず守ってくださり助けてくださいます。

19.10.20 見えない神



「ローマ1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」

秋の七草

 暑さもやっとやわらぎ、夕方には虫の音も響くようになりました。先日は車窓から、道端にすすきの穂が伸びて、風にさわさわと揺らいでいるのを見ました。すすきは「秋の七草」の一つです。「秋の七草」は万葉集に由来します。万葉集は奈良時代の終わりごろに完成した日本で一番古い歌集で、「令和」という新しい元号は、この歌集の中のことばが使われたことで、話題になりました。
 万葉集の中に、「秋の野に 咲きたる花を 指折(およびお)り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」「萩の花 尾花(おばな) 葛(くず)花 なでしこが花 をみなえし また藤袴(ふじばかま) 朝顔が花」という歌があります。2つの歌が連続していますが、これが「秋の七草」です。山上憶良(やまのうえのおくら)という歌人の作です。「尾花」はすすきのこと、「朝顔」は、あの夏に咲く朝顔ではなく、ききょうのことだそうです。 すすきを「尾花(おばな)」と言うのは、動物のしっぽ(尾)に似ているからだそうです。万葉集には、多くの歌に植物が詠(よ)まれています。昔から人々は、季節ごとに移り変わる花や草木の美しさに魅了され、その思いを表現して来ました。

不思議な感覚

 植物と言えば思い出すのは、子どもの頃に感じた不思議な感覚です。小学生のころ、通学路の道端や、家の近所の野原に友達としゃがみ込んで、よく草花を摘んで遊びました。シロツメクサを摘んで花輪を造ったり、タンポポの綿毛を摘んで、ふっと吹いて飛ばしたり、四葉のクローバーを捜したり・・そんな風にして遊んでいると、ある時、とても小さな草花を見つけました。ぱっと見ると、ただの草にしか見えないのですが、よく見るととてもきれいな水色の花がたくさん咲いていたのです。花の大きさは2、3ミリくらいです。こんなに小さいのに、大きな花と同じように、完全な花の形をしていることを、とても不思議に感じました。踏まれてしまうような道端の草の花なのに、小さな水色の花びらが5枚、きれいに花の形に並んでいます。こんなにきれいな水色は見たことがないと思いました。その花が気に入って、野原に行くとよく捜していました。あとで、それは「胡瓜草(きゅうりぐさ)」という名前であることを教わりましたが、今でもその時に感じた何とも言えない不思議な感覚を思い出します。そしてこのごろふと、あのとき、これを造られた方、神様がおられることを、何となく感じていたのかもしれないなと、思います。

すべてのものを造られた神

 神様はこの世にあるすべてのものを造られました。創世記には、神様が創造を始められてから3日目に、植物を造られたと書いてあります。「神は仰せられた。『地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。』すると、そのようになった。地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。(創世記1:11-12)」
 ですから、私たちの身近にある植物に目をとめて、よく観察するとき、これを造られた方がおられることを人が感じるのは、とても自然なことなのだと思います。たとえば、春に美しく咲いた桜は、しばらくすると散って、葉だけになります。秋になれば紅葉し、冬になればその葉も散って、木だけになります。しかし、また春が巡って来ると、芽を出して、花が咲く準備を始めているのです。これは人の手によることではありません。この営(いとな)みを支配されている方が、おられるのです。

見えない神

 よく、「神様を見ることができれば信じるのに。」と言う人がいますが、神は霊であられますから、見ることはできません。しかし聖書には、「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(ローマ1:20)」と記されています。神様は見えないお方ですが、私たちは神様を、神様が創造された被造物によって知ることができるのです。季節ごとに移り変わるさまざまな種類の木々や草花、規則正しい天体の運行、鳥や動物や虫たちのおどろくほど細かい体の構造や精巧な機能、水などの物質の奇跡的な性質を知り、また、目の当たりにするとき、それを造った方がおられることを私たちは悟ります。神様を疑う余地はないのです。ですから人は誰でも素直に、創造主であられる神様を信じなければなりません。このお方を恐れ、その御業(みわざ)をほめたたえなければなりません。

19.10.13 交わりは楽しい時間



「 ヘブル10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」

人との関わり

 私たちの日常生活は、人との関わりなくしては成り立ちません。家族や親戚、学校の友達、職場の同僚、取引先の人、近所の人などと、毎日関わりを持って過ごしています。その中で、共に集まって食事をしたり、レクリエーションをしたり、何気ない話をして楽しんだりして、同じ時間を共有して過ごすことがあります。そのような時間が交わりの時となります。
 家族とは、毎日食事の時間を共にすることがあると思いますし、職場では、昼休みに同僚と昼ごはんを一緒に食べたり、時には会社のみんなで旅行へ行ったりする機会もあると思います。それらの時は、普段仕事や勉強、家事をしている時とは違って、心が落ち着き、心休まる時間となります。話の中で、相手のことを知ったり、普段は見せない一面が見えたりして、何気ない会話であっても、そこにいるだけで楽しいと感じる時間でもあります。私も普段、顔は知っていても、話す機会があまりない人と、交わりの時などに話す機会があって話をすると、普段の印象と違って「意外としゃべる人なんだ」「こんな一面があったんだ」と感じることがあります。

一人でいたい

 私たちは、人との関わりの中で、相手のことを知り、親近感を覚えたりして、段々とその人との距離を縮めていくわけですが、仕事や勉強、家事などで疲れてしまうと、人と集まって食事をするとか、話をするということが面倒臭くなってしまったりします。「休みの時まで人と一緒にいるのは嫌だ」「人と話すのは疲れる」と言って、その交わりから離れようとしてしまいます。仕事でも、「あからさまに関わりを避けることもできないので、それなりには付き合う」というような程度で関わりを持つことになります。「できることなら一人でいたい、もしくは気心のしれた仲間とだけならいてもいい」というようなことになっていきます。そうやって、人との関わりを極力避けて生きようとすると、仕事をしていても、勉強をしていても、人と一緒にいることが段々と息苦しく感じてくるようになります。

交わることは与えること

 主は、地上に人を造られた時、「人がひとりでいるのは良くない。(創世記2:18)」と仰せられて、助け手を与えられました。人は、神様と人間と、そして人間同士が、交わりをして生きる者として造られたのです。ですから、私たちが、人と関わりを持たないで生きようとする心、思いは主のみこころではないのです。人に対して無関心なのは、愛する姿勢とは正反対のことなのです。また、そのような思いは、人に対してだけではなく、神様に対しても向けられることになります。「神様との交わりを持ちたくない、祈りたくない」という思いとなっていきます。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。(Ⅰヨハネ4:20)」
 神様を愛する人は、隣人を愛する人です。主が言われることは、「愛しなさい」「与えなさい」です。私たちがすることは、自分からその交わりの中に加わっていくことです。教会は、イエス・キリストを信じる人たちの群れです。サークルや、仲のいい友達の集まりではありません。ですから、年齢も違えば、仕事も違いますし、育ってきた環境も、生活している環境もみな違います。教会に集う人は、同じイエス・キリストを信じる信仰を持った友です。兄弟姉妹です。私たちが愛し合うところに、神の愛が現されるのです。

交わりは楽しい

 交わりの時は、神様が与えてくださった恵みの時です。私たちが、与えたいと願い、その交わりの中に入っていき、人に笑顔を向け、人の話に耳を傾けていく時、その場にいる人たちに良い影響を与えると同時に、何よりも自分自身が「居心地が良い」と感じることだと思います。職場においても、家庭においても、まず自分から話しかけて、人の話を聞いていくことで、私たちは、キリストの香りを放ち、世の光として光を放つ者として用いられていくのです。

19.10.06 時間を活かす



「エペソ5:15-16 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」

いのちはどこにあるか

 一昨年、105歳で天に召された医師、日野原重明先生は、晩年日本全国の小学校で「いのちの授業」をされていました。先生は子どもたちのいじめや自殺の報道に心を痛められ、現役で診療をするかたわら、この出張授業を90歳から始められたそうです。
 小学生に「いのちはどこにあるの?」と聞くと、胸の心臓のあたりに手を置くそうです。そこで先生は、聴診器を配って、子どもたちが互いに心臓の音を聞き合うよう指示します。そして、心臓は生きるために必要だけど、心臓はポンプで血液を送り出す仕事をしているだけで、そこにいのちがあるのではないことを伝えます。そして、「いのちとは君が持っていて、君が使うことのできる時間のことだよ。君たちはその時間をどう使っているの?」と尋ねます。子どもたちは、朝起きてからご飯を食べた、勉強をした、遊んだなどと答えます。「君がしたいようにできるもの、それが君が持っているいのちだよ。」と話すと、みんな、ふとわかったような表情になるそうです。「じゃあ、君らしくいのちを使うとはどういうことなんだろう?」と言うと、そこで子どもたちは、自分のためだけに時間を使っていたことに気づくそうです。何かしなくちゃいけない、と感じ始めるのです。「君たちはその大切な『いのちの時間』を他のいのちのために使わなければいけないよ。人はそうやって、お互いの『いのちの時間』を分け合って生きて行くものなんだよ」と、先生は教えたそうです。

時間がない?

 日々の生活で、多くの人は毎日忙しくしています。あれもやらなくてはならない、これもやらなくてはならない、と時間に追われています。仕事が立て込んでいるけど、家事もしなくてはならない、子どもと遊んであげたいけど、夕食も作らなくてはならない、両親を訪問したいけど、買い物にも行かなくてはならない、それに、祈りたいし聖書も読みたいし・・と。一日はあっと言う間に過ぎてしまい、やり残したことでいっぱいです。そして「もっと時間があればいいのに」とつぶやいたりしています。
 しかし考えて見ると時間は誰にでも同じだけ、一日24時間与えられています。常々思うのは、時間がないのではなくて時間の使い方が不得手なだけ、ということです。自分の時間(=いのち)をどう使うのか、私たちも考えて見る必要はないでしょうか。

機会を十分に活かしなさい

 冒頭のみことばは、パウロがエペソの長老たちに語ったことばです。「知恵のない者としてではなく、知恵のある者として機会を十分に活かしなさい。(エペソ5:15 - 16)」と教えました。神を信じて救われた者は、神から与えられた時間を十分に活かしなさい、いいかげんな時間の過ごし方をしてはいけません、ということです。言い替えれば、自分の時間を神様のみこころのために使いなさい、ということです。私たちの時間は、聖書が「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。(詩篇90:10)」と言うように、限りなくあるのではありません。だから自分に与えられた時間を一瞬一瞬心して用いなさいと言っているのです。
 たとえば、私たちは礼拝や祈祷会に行きます。すると、その分自分の時間が減ったように思うかもしれません。しかし、それは見当違いです。かえってほかの時間をむだにしないで、注意深く使うことができるのです。主を礼拝し、また祈ることによって、生きる力や知恵や希望が与えられ、心に平安が与えられ、仕事でも家事でも遊びでも、ほかのするべきことを、効率よく、集中してやり遂げることができるようにされるからです。

主に仕えるために時間を使う

 イエス様は、私たちの罪の身代わりとなってくださるために来られ、人としてこの地上を歩んでくださいました。人々の病を癒やし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせてくださいました。そして弟子たちや群衆に神の国について教えられました。そして、十字架に向かって行かれたのです。主はご自分の時間を100%私たちに仕えるために使ってくださいました。ですから私たちも、与えられている自分の時間を、まず、主に仕えるために使わなければなりません。イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と教えられました。まず主に仕えることに、惜しみなく自分の時間を使って行く時に、ほかのすべての生活の必要が満たされて行くのです。私たちは生活の優先順位について知恵を働かせなければなりません。

19.09.29 聞くことは与えること



「マタイ7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」

聞いていますか

 私たちの普段の生活で、人の話を聞く場面はたくさんあると思います。人から用事を頼まれる時、会社の朝礼や学校の授業だったり、友達から旅行に行った時の話を聞いたりすることや、家で今日あった出来事についての話を聞く時、人から相談を受ける時、人から何かを教えてもらう時など、考えるだけでもたくさんあります。そんな場面を思い起こす時に、あなたは相手の話をきちんと理解して聞いていますでしょうか。「ちゃんと聞いています」という人もいれば、「全然聞けていない」という人もいるかもしれません。自分の中では、「聞いている」つもりであっても、「相手の言いたいことを100%理解できていますか」と言われると、自信を持って「理解しています」と、言える人は少ないのではないでしょうか。
 仕事がたくさんあってバタバタしている時に、上司から用事を頼まれ、「はい、わかりました。」と、返事をしても、後になって、「さっき、何て言われたんだっけ」といって、うろ覚えで返事をしてしまったと感じることはありませんでしょうか。友達から、昨日食べに行った美味しいケーキ屋さんの話を聞いている時に、自分がそこまで関心のない話だったりすると、部分的に聞いて、「そっか、よかったね」と答えはするものの、その話に共感したりすることなく済ませてしまったりといった経験はないでしょうか。
 よく考えてみると、私たちは人の話を聞いているようであっても、実際には相手が本当に言いたいことを理解して聞いてはいないのではないか、ということを教えられるのです。

興味を持って聞く姿勢

 人の話を聞くためにまず必要なことは、相手に興味を持って聞くということです。その人のことを「知りたい」「この人はどういう人なんだろう」「どんなことに関心を持っているのだろう」という姿勢を持って話を聞くことです。
 ある作家は、「聞くという行為には5つのレベルがある」と言っています。一つ目は、相手を無視して話を全く聞かないというレベルです。二つ目は、聞くふりをすることです。「うん、うん」と相づちは打つが、話の中身は全く耳に入っていないレベルです。三つ目は、選択的に聞く態度です。話の部分部分だけを耳に入れるレベルです。四つ目は、注意して聞くことです。相手の話に神経を集中させて聞く姿勢です。そして最後のレベルは、相手の身になって、相手がどういう思いで話しているのかを理解しようとして聞くことです。このような姿勢で話を聞くことができれば、話している側の立場からしても、「この人は私の話を親身になって聞いてくれている」と感じるはずです。

自分のことを話したい

 私たちが、人の話をきちんと聞くことができない理由の一つに、「自分のことを話したい」という思い、欲が出てしまうという問題があります。相手が、「先週、家族で焼肉を食べに行ったんだけど、とっても美味しかったよ。そのお店の肉は飛騨牛を使ってて・・」と話している時に、自分が昔行ったことのある美味しかった焼肉屋のことを思い出して、その時のことを話したくて、相手の話しにかぶせて話し始めたりすることがあるかもしれません。他にも、相手が話している時に、その話の内容について自分が知っていることだったりすると、「あ、それ分かる、分かる」と言って、「知ってますよ」みたいな顔をして聞いていて、相手が言うことを最後まで聞くことなく、次に自分が何を話そうかとばかり考えていたりすることもあるかもしれません。多くの人は、「理解して聞くのではなく、回答しようとして聞いている」のだそうです。自分が話したいという前提があるので、相手のためにではなく、自分が話すために聞いているのです。

聞くことは与えること

 本当に人の話を聞くためには、相手の心の中に入って、相手と同じ気持ちになって聞こうとすることです。そこには、自分の思いや考えは一切ありません。そのように、ただ聞くことに徹していくことで、相手のことを理解できますし、相手が自分の体験したことを話しているとき、聞いているこちら側も、まるでそこにいて経験したかのようにして聞くことができるのです。相手のことだけを思って聞くとき、私たちは与えていることになります。
 私たちが主に祈る時に、主は、私たちがどんな思いで祈っているのかを知っておられます。そして、すべての祈りを聞いてくださっておられます。心の中に入ってくださって、あわれんでくださり慰めてくださいます。私たちは、主が惜しみなく、その愛と恵みを豊かに私たちに与えてくださっていることを知る時に、同じようにして、周りの身近な人に対して、与えていくことができるのです。それは何か大きな影響を与えていくということではなく、普段の会話の中で、「聞く」ということによって、与えていくことができるのです。それは、今目の前にいる人との会話の中でできることなのです。
 主は、「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい(マタイ10:8)」と言われました。たくさんの恵みをいただいている私たちは、周囲の人たちに対して、喜んで与えていく者になりたいと願います。そのように歩み始める時、私たちの職場での人間関係が、家族との関係が、主によって必ず祝福されます。

19.09.22 痛み



「イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」

痛みを和らげる

 先日、新聞のコラムに、人はどれだけ痛みに耐えられるか調べた実験の話が載っていました。その実験では、冷たい水に手をつけていられる時間が、痛みの目じるし(指標)に用いられました。実験では、恋人の写真を置いておくと、痛みに耐えられる時間が伸びたそうです。また、写真がなくても、自分の親しい人のことを考えるだけでも、同じように痛みに耐えられる時間が伸びるそうです。仕事場に家族の写真を置いたり、スマホの待ち受け画面に子どもの写真を載せているのをよく見かけますが、それは、日常のあわただしさの中で、自分の愛する人の顔を見ただけで、一瞬でも緊張が解けたり、心が安らぐからなのでしょう。
 「痛み」は、それが体の痛みであっても、心の痛みであっても、できれば避けたいと思うものではないでしょうか。たとえば、ほんの少し指先を怪我しただけで、絶えずズキズキと痛んで、気持ちまで憂鬱になってしまいます。また、人間関係の中で傷ついたり、仕事で挫折したり、どうにも解決できないような問題を抱えているとき、私たちは心が痛みます。そして、早く問題が解決して、この痛みの煩いから解放されたいと切に願います。

痛みは必要

 しかし、もし「痛み」がなかったら、果たして私たちは他の人の気持ちをわかってあげることができるでしょうか。自分が痛みに苦しんだことがあるので、だれかが苦しんでいるとき、その痛みを自分のことのように感じてあげることができるのではないでしょうか。弱い私たち人間にとって、だれかが痛みをわかってくれるということは、大きな慰めです。
 「先天性無痛覚症」という非常にまれな病気があるそうですが、生まれつき「痛み」の感覚がない病気です。痛みがないので、たとえばやけどをしても気づかないことがあるそうです。また痛みは、これ以上力を入れると骨折する、というように、制御作用として働くそうですが、それができないため、力を入れすぎて、骨折したり筋肉や関節を傷つけてしまうこともあるそうです。そして、この病の人に共通する、性格的な特徴は、短気で怒りっぽく、自己中心で、冷淡な性質を持っていることだそうです。人は「痛み」を知っているからこそ、ほかの人を思いやることができるのだということがわかります。

痛みを味わってくださった主

 冒頭のみことばは、救い主イエス・キリストについての、イザヤの預言です。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。(イザヤ53:3 - 4)」。主イエス・キリストは神であられる方なのに、人としてこの地上に来られた時、人々は、このお方こそが救い主であるということを認めませんでした。それどころか、蔑(さげす)み、のけ者にしたのでした。しかし、人々からどんなに蔑(さげす)まれても、主は「ののしり返さず(Ⅰペテロ2:23)」 その痛みに淡々と耐えてくださいました。そのようにして、私たち人間が味わう、すべての痛みを味わってくださったのです。そして、そのお方が、私たち罪人の身代わりとなって、十字架で死んでくださったのです。そのようにして、預言の通りに、主は主を信じる私たちのすべての「病を負い」「痛みを担っ」てくださいました。

痛みを和らげてくださる主

 日常の生活の中で、私たちはだれでも痛みを感じるできごとに出会います。しかし、すべての痛みは、主がすでに味わってくださったものであることを思い起こす時、私たちは慰められます。主が私たちの痛みをわかってくださるからです。主は、私たち一人一人の心を知っておられ、あわれみ、いつくしんでくださるお方です。たとえ、私たちの周りの親しい人々が私たちを見捨てたとしても、主は決して見捨てられないお方です。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」。そのようなお方がおられることを考えるだけで、私たちの痛みは和らぐのです。そして、慰めてくださるお方がおられるので、私たちも、苦しんでいる人を、真に思いやることができるのです。私たちは、このお方がともにおられることを忘れてはなりません。
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(Ⅱコリント1:4)」

19.09.15 大規模停電



「詩篇103:2 わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

大規模停電

 先週、台風15号が、千葉県を中心とする関東地方を直撃し、甚大(じんだい)な被害をもたらしました。今回の台風は、記録的な暴風となりました。最大瞬間風速は、千葉市で57.5メートルにもなったそうです。電気を送るための送電線を支える巨大な鉄塔が2基も倒れ、電柱が80基以上も倒れたのです。屋根や窓ガラスなどが電線に飛んできて、断線してしまったりして、関東地方で90万軒を超える大規模な停電となりました。

生活に与える影響

 その停電による影響で、この30度を超える暑さの中で、エアコンが使えない状態になっています。夜も部屋の明かりはつきません。ロウソクをつけたり、懐中電灯の明かりでしのいでいます。冷蔵庫も使えません。テレビも見られません。携帯やスマホも充電が出来ません。そして、水も出なくなっています。水を汲み上げるポンプの電源が入らないので使えなくなり、トイレの水も流れない状況です。洗濯もできないですし、食料を調達しようにも、近くのコンビニやスーパーも同じように停電になり、店を休業していたり、営業していても品切れになっています。ガソリンスタンドも給油機が使えなくて営業停止になっているところが多く、災害に対応しているスタンドに人が殺到し、4時間待ちの長蛇の列ができていました。
 今回、鉄塔や電柱が倒れた関係で、停電の復旧作業が大幅に遅れているそうです。作業員が現場に行くと、電柱に亀裂が入っていたり、電線が切れかかっていたり、変圧器が壊れていたり、各家庭に線を引き込むための引込み線が切れていたりして、予想以上に時間がかかっているようです。特別に設けられた避難所へ避難して過ごす人もいますが、その避難所へ行くことができない人もいるようです。

まず神様に感謝する

 それまであった日常の生活が、一瞬の出来事によって、生活が一変してしまったのです。私たちもニュースで見たり聞いたりして、大変さを想像することはできても、実際にその状況に出くわすことがないと、本当には、そこで今苦しい生活を強いられている人の気持ちはわからないものです。
 私たちも、日々神様とともに過ごすこの生活の中で、働いていること、家族がいてくれること、食べる物に困ることなく生活できていること、そして何よりも、今日健康でいられること、生きられることが感謝なことでありますが、そのことが当たり前になって、それでも、現状に不満を持って、「あれが欲しい、これがしたい」と言いながら、満足できないでいることはないでしょうか。主は、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。(ヘブル13:5)」と言われています。そして、今あるものは、すべて、主が与えてくださっているもの、主からのいただき物であることを忘れてはなりません。まず、与えてくださっておられる神様に感謝するべきではないでしょうか。その上で、欲しいものがあれば、「与えてください」と求めて祈るべきであります。

主が良くしてくださったこと


「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」。主が、私たちにしてくださったことを一つ一つ思い起こす時に、リストに書ききれないほどのことが、次から次へと出てくるのではないでしょうか。自分が救われたこと、病をいやしてくださったこと、必要を満たしてくださったこと、家族が救われたこと、試験に合格させてくださったこと、就職先が与えられたこと、トラブルや問題を解決してくださったこと、友達とケンカした時に、謝る勇気を与えてくださったこと、罪を赦してくださったこと、仕事を成功させてくださったこと、やる気を与えてくださったこと、愛したいという思いに変えられたことなど、たくさん出てくると思います。それらのことを、「一つも忘れてはいけない」と言われています。
 私たちは、すべてのものを与えてくださる神様に、感謝の思いを表し、自分自身の持てるものすべてを主に献げ、自分自身を主に差し出して、主に仕えてまいりましょう。

19.09.08 ことばの力



「 ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」

ことばの力

 私たちは毎日、当たり前のように話したり、書いたりしています。つまり、ことばを使っているわけですが、少し意識してみると、ことばは人の心にとても影響を与えていることに気づきます。つくづく思うのは、ことばが書かれていることが、とても大切なことがある、ということです。
 たとえば、料理の名前がそうです。私はよくおかずを作って、保存容器に入れ、冷蔵庫に入れておくのですが、あるときから、その保存容器に何が入っているか書くことをはじめました。容器の数が増えてきたからです。するとすぐに、書いておくことはとても重要なことなんだと気づきました。名前が書いてないと、まず「これなんだっけ?」と容器のふたを開けます。見て、そうかこれだった、とは思いますが、何となくそれを食べる意欲がなくなっているのです。しかし、料理の名前が書いてあれば、ふたを開けなくても、文字を見るだけで、すぐ中身のイメージがわきます。「マカロニサラダ」と書いてあれば、「そうだ、マカロニサラダがあった!今日はこれを食べよう」と、はじめから味を思い描き、期待して冷蔵庫から取り出すことになります。料理の名前を書くようになってから、作ったおかずを余すところなく活用できるようになりました。たかがおかずで大げさかもしれませんが、何だかそれだけで、生活が楽しくなってくるから不思議です。「ことばの力ってすごいな」と思わされます。

ことばは目に飛び込んでくる

 ところで、私の家には、玄関や部屋のあちらこちらに、みことばの額や、みことばの盾(たて)などが置いてありますが、人が来ると、それらが、その人の目に留まっているのがわかります。口には出さなくても、「あっ、読んでいるな」、とわかります。人はことばを見ると、とりあえず読むんですね。ことばは目に飛び込んで来るのです。 一般的な普通のことばでも人の心に影響を与えるのですから、増してみことばはどれだけ、それに触れる人の心に働いてくださるだろう、と期待しながら思うのです。
 先日、父が家に来たことがありました。お茶の用意をしていると、「ぬしはわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。」と声が聞こえてきました。父の座っているちょうど目の前に、詩篇23篇のみことばが全文書いてある壁掛けが、かけてあったのです。それを大きな声で読んでいたのでした。「主」は、「ぬし」ではなくて、「しゅ」なのですが・・・。やはり、ことばを見ると読みたくなるようです。みことばがかけてあってよかった、と思いました。

みことばは生きて働く

 神様のみことばは、生きて働くことばです。創世記には、神様がみことばをもって、この世界のすべてのものを造られた経緯が記されています。神様が「光、あれ。(創世記1:3)」と仰せられると、光がありました。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。(創世記1:20)」と仰せられると、水の中に住む生き物と、翼のあるすべての鳥が創造されました。神様のみことばには権威があります。神様が「あれ」と命じられると、それはそこにあらなければならないのです。神様が言われたことばは必ず成し遂げられるのです。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ55:11)」

みことばに影響されて生きる

 私たちは救われて、いつでも神様と交わることができるようになりました。私たちのうちに住まわれる聖霊は、信じる私たちにいつもみことばを思い起こさせてくださいます。また私たちは、神様の力あるみことばを、いつでも聖書で読むことができます。
 日常生活の中で私たちはさまざまな困難に出会います。経済の問題、人間関係の問題、健康の問題などさまざまです。しかし、私たちの心にみことばがあるならば、私たちの心は守られます。たとえば、周りがみんな敵だと感じるとき、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」と、みことばを思い起こせば、孤独の中にあって、私たちはみことばによって励まされ、慰めを受け、いやされて、また立ち上がることができるようにされます。
 しかしもし、私たちがみことばに心を向けることを忘れてしまうなら、心の中は、たちまち怒りや寂しさや不安でいっぱいになってしまうでしょう。私たちの問題は、心の中にみことば以外のものがあることなのです。みことばは生きて働く、力あることばです。聖書を読み、みことばを蓄えましょう。みことばに影響されて生きるとき、私たちの心はいつも守られるのです。「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。(詩篇119:11)」

19.09.01 スマホ依存症



「マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

便利なスマートフォン

 スマートフォンは今、私たちの生活に必要不可欠なものとなってきました。電車やバスの車内、信号待ちしている人も皆ほとんどの人がスマホを見ています。一昔前には見られなかった光景です。スマホがなかった時代は、電車に乗れば、本を読んだり、外の景色を見ながら考え事をしたり、寝たりしていましたが、今はいつでもどこでも皆、スマホを片手に持っています。私はいつも、「みんなスマホで何を見ているのかな」と気になります。仕事のメールをチェックしている人もいるでしょうし、天気のチェックや、地図で行き先を調べている人もいるでしょう。SNSで他の人とやりとりをしていたり、SNSに投稿されたものをチェックしている人もいるでしょう。ゲームをしている人もいれば、自分の好きな動画を見ている人もいるかもしれません。人との連絡も昔のように固定電話や携帯を使って話をしなくても、メールやチャットですぐにコミュニケーションが取れます。欲しい情報も簡単に入手できます。買い物も欲しいものがあれば、ワンクリックで買うことができます。生活などの必要な物のために使用するのにはとても便利ですが、それが一日中手放さずにはいられなくなってしまうようであれば問題です。

スマホがないと生きていけない

 最近は、「歩きスマホ」「ながらスマホ」が問題になっています。歩きながらスマートフォンを操作すると視界が極端に狭くなり、衝突や転倒の事故にもつながり、周囲の迷惑にもなります。以前、ファミレスに行った時に、家族4人で来て、注文をし料理が来るのを待っている人たちがいました。その人たちを見ると、親も子どもも全員がそれぞれのスマホを持って、会話をすることもなくずっと自分のスマホに見入っていました。その光景を見てちょっと切なく感じました。スマホに依存してしまうようになると、どんどん自分一人の世界にのめり込んでいき、周囲で起きていることや、人に対して関心を持たなくなってきて、関わるのが面倒になってきます。スマホが自分の居場所になってしまうのです。そして、さらには注意力や集中力、記憶力や判断力も低下し脳に異常をきたすことになります。「スマホがないと生きていけない」「持っていないと落ち着かない、不安になる」と感じているなら、すでにスマホに依存した生活になっています。

主がおられないと生きていけない

 私たちは、神様との交わりの中に生きていなければ、正しいことを行うことのできない者です。自分で自分をコントロールして誘惑に打ち勝つことのできるような強さは持っていません。むしろ、簡単に誘惑に流されてしまう弱い者です。友人から、「遊びに行こう、ご飯食べに行こう」と誘われれば、本当は仕事や勉強をしたいと思っているのに、「じゃあ行こうか」と言って、人の誘いにのってしまう者ではないでしょうか。一人でいる時でも、「今日こそ、この仕事を、勉強を終わらせるぞ!」「部屋を片付けるぞ」と決意しても、お腹が空けば何か食べたくなって、やるべきことを中断してしまいますし、疲れていると、眠たくなって寝てしまう弱い者ではないでしょうか。私たちは、主がともにおられなければ、生きていけない者だと悟ることが必要なのです。

神様第一の生活

 私たちの生活の中で一番優先されるべきものは何でしょうか。仕事をして収入を得て家族を養っていくことでしょうか。しっかり勉強をしていい成績を取ることでしょうか。健康な体を維持するために運動をしたり、きちんと睡眠を取ることでしょうか。私たちの生活の中でまず一番優先すべきは、主のみことばを聞くことです。
 イエス様をもてなすために、忙しく働いていたマルタにイエス様は言われました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。(ルカ10:41~42)」と言ってマルタを諭(さと)しました。私たちの日常生活でも、やるべきことが次から次へとあって、色々なことに気を配っています。問題も次から次へと、毎日のようにやってきます。そんな中で、「ちょっと息抜きで」と思いスマホを手に取り見ていると、「今度行くお店はどんなところかチェックしておこう」と言って考えなくてもいいことを考え始めたり、「あのゲームの続きをちょっとだけやろう」「なんか面白い動画はないかな」と言って、見なくてもいいものを見て時間を浪費してしまったりしています。私たちは何をするにも、まず主のみことばに聞き入る生活をしたいと思います。主に聞いて、主が「しなさい」と言われることをしていくなら、私たちの生活は主にあって守られ、正しいことを行なっていくことができるのです。神様を第一とする生活をする人を、主は必ず祝福してくださいます。

19.08.25 見守ってほしい



「創世記16:13 そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』と呼んだ。彼女は、『私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは』と言ったのである。」

なんもしない人

 少し前に、NHKの番組で「レンタルなんもしない人」という不思議な仕事(?)をしている男性の特集をしていました。彼は出版社などに勤めましたが、どれも続かず、自分はつくづく仕事に向いていないと思い、「なんもしない」ことを選択したということです。「なんもしない人(ぼく)を貸し出します。常時受付中です。国分寺駅からの交通費と、飲食代等の諸経費だけ(かかれば)ご負担いただきます。お問い合わせはDMでもなんでも。飲み食いと、ごくかんたんなうけこたえ以外、なんもできかねます。」とツイートすると、2日目から依頼が来始めて、今は毎日20件くらい依頼のある中から、3~5件をこなしているそうです。「何もせず、ただそこにいるだけ」なのに、貸し出しを求める人の依頼が後を絶たないのです。

ただ見守ってほしい

 この番組を見ていて興味をそそられたのは、その依頼の内容です。ある女子大生の依頼は、野遊びをするのを見守ってほしい、というものでした。彼女は、いなかの実家で野遊びを楽しんだことがなつかしくて、都会にいる今もしたいけど、公園で一人で遊ぶ勇気がないので、自分が野遊びしているのをただ見守ってほしい、と依頼したのでした。公園で、彼女は花を摘んだり、木に登ったりして嬉しそうに遊んでいましたが、男性は、つかず離れず何もしないでただそこにいて、彼女が遊ぶのを淡々と見守っていました。通りかかった人は、二人を普通のカップルだと思ったことでしょう。彼女は野遊びを満喫し嬉しそうでした。ただ一緒にいることが、こんなに役に立つことなのかと思わされました。

またある主婦は、引っ越したはいいが、片付けが苦手で家が散らかっている、しかし仕事と子育てが忙しくて、手をつけることができない、誰かが見ていてくれればきっと取りかかれるから、ただ片付けを見守ってほしい、と依頼をしました。当日、彼女の家を訪れた男性は、彼女の希望でただ食卓に座り、何もしないで、淡々と単行本を読み続けていました。その中で彼女は着々と片付けをしていきます。そして、ついに家中の片付けをすることができたのです。彼女は彼にとても感謝していました。そこに人がいるというだけで、やる気が与えられるものなのですね。 画面から、多くの人が、誰かに見守ってほしい、一緒にいてほしい、と願うものなのだということがひしひしと伝わって来ました。それが他人でも構わないのですから。そしてまた、人は特に何もしなくても、ただそこにいるだけで、役に立つことができるほど価値のある、重要な存在なのだ、とも思わされました。

あなたはエル・ロイ

 冒頭のみことばは、創世記のできごとです。ハガルは女奴隷で、アブラハムの妻、サラに仕えていました。サラには、なかなか子どもができませんでした。 そこでサラは、夫であるアブラハムにハガルを与えて、子どもを得ようとしました。しかし、ハガルは身ごもると、サラを軽く見るようになりました。サラは怒り、彼女を苦しめたので、ハガルはサラから逃げ去りました。ハガルが荒野の泉のほとりにいると、御使いがあらわれ、主人であるサラのもとに帰り、身を低くしなさいと諭(さと)しました。そして、彼女が産む子どもの子孫もまた、数え切れないほど多くなる、と神様の約束を告げたのです。身ごもっている身で、行くあてもなく、これからこの荒野でどうなってしまうのか、と途方にくれていたであろうハガルを、神様はちゃんと見ていてくださったのです。ハガルはどんなに慰められたことでしょう。ハガルは自分をかえりみてくださった神様の名前を「エル・ロイ(創世記16:13)」と呼びました。「私を見てくださる神」という意味です。

私を見てくださる神

  神様は、「エル・ロイ」であられる方、すなわち「私を見てくださる神」です。神様は人を、ご自分に似せて、価値ある者として造ってくださいました。そして奇(くす)しいわざをもって、私たち一人一人を特別に愛し、見守っておられるのです。「主は 天から目を注ぎ 人の子らをすべてご覧になる。(詩篇33:13)」
 毎日の生活の中で、仕事に没頭しているとき、学校で勉強をしているとき、神様はあなたを見守っておられます。仕事に失敗して落ち込んでいるときも、友達とけんかをして、なんだか一人ぼっちだな、と感じているときも、神様はあなたを見守っておられます。食事をしているときも、寝ているときも、道を歩いているときも、車を運転しているときも、 家族や友達と話しているときも、スマホに夢中になっているときも、どんなときにも、神様は天から目を注いで、あなたを見守っておられるのです。いつも見守ってくださる方がおられるということは、何と心強いことでしょう。神様の見守りの中で、私たちは、どんなことがあっても時には慰められ、時には教えられて、安心して生活することができるのです。

19.08.18 成熟した完全な者



「ヤコブ1:3-4 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」

江戸崎かぼちゃ

 ここ最近、完熟トマトや完熟マンゴーなど、完熟にこだわった野菜や果物を見かけることが多くなりました。少し前のテレビ番組で、茨城の江戸崎かぼちゃが取り上げられていました。このかぼちゃは、ホクホクした食感と甘みがあるのが特徴です。そのおいしさの理由は、畑で完熟させて収穫しているからです。一般的なかぼちゃは、花が咲いてから45日ほど経過した、でんぷんが最も多い時期に収穫されるのですが、江戸崎かぼちゃは、さらに10日ほど待って、でんぷんの一部が糖に変わり始めた完熟の状態で収穫するのです。そして、さらに専門検査員による厳正なチェックが行われて出荷されるのです。値段は、普通のかぼちゃの倍ぐらいするそうです。農家の人たちは、とにかく「完熟採り」にこだわってかぼちゃ作りにたずさわっています。収穫のタイミングが早すぎるとまだ完全には熟していなかったり、遅くなってしまっても甘みが強くなりすぎて、ホクホク感がなくなったりと、一日早くても遅くても、違いが出るようで、見極めるポイントはあっても、完全には判断ができないそうです。最終的には、割って中を見てみないと分からないそうです。
 かぼちゃの葉には、太陽の光を遮(さえぎ)る役目があるのですが、葉の隙間から光が当たってしまうとかぼちゃが焼けて色が変わってしまい、出荷ができなくなるので、日よけのための粘着テープを貼るそうです。そうすることによって日焼けを防いでいるのです。そして、かぼちゃの下には、発泡スチロールが敷かれ、土に触れて変色しないようにしています。かぼちゃは玉が膨らんでくると、表面が柔らかくなり、茎などが触れると傷ついてしまうのです。そのようにして、自分の子どもを育てるかのように、愛情と手間ひまをかけて育てているのです。農家の人の間では、「江戸崎かぼちゃは、放っておいては育たない」と言われているそうです。

養ってくださるお方

 私たちもまた、神様によって養っていただかなければ、生きてはいけない者であります。私たちは、神の子どもですから、日々父なる神様から頂くみことばによって、力が、喜びが、やる気が、元気が与えられ、健やかに前を向いて前進することができるのです。主は、毎日、一瞬たりとも休むことなく働いておられ、あなたが神のご支配から離れて滅びに至ることがないようにと、そばにいてくださって声をかけてくださっています。常にあなたのことを気にかけていてくださるのです。そんなお方に養われていることを私たちが知るときに、感謝せずにはいられません。その主が私たちに願っておられることは、「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者」となってほしいということです。それは、キリストに似た者へと変えられていくことです。

神を知って神に近づく

 そのために、私たちは個人的な関係において神様を知ることを求めていかなければなりません。人との関わりにおいても、初めは外見のイメージだけで人を見ていても、関係が深くなり、話をする機会が増えてくると、その人のことについて知ることになります。仕事のことや家族のこと、趣味や生い立ちなどを聞いたりすると、少しずつその人との距離が縮まっていき、親近感が湧いてきて、相手のことをもっと知りたいと思うようになります。主との関係においても同じではないでしょうか。私たちの日常生活の出来事を通して、主を知ることができるのです。仕事でトラブルや問題が起きたときに、「主よ、どうしたらいいでしょうか」と聞き、答えをいただいて、問題が解決された、「愛せない、イライラする」と感じるときに、「主よ、この人を愛せません。どうしたらいいですか。」と聞き、答えをいただき、愛せなかった人を愛せるように変えられた、といった事を通して主の愛を知ることになったりします。主は、あらゆる日常の出来事を通して、私たちと関わりを持ってくださいます。
 私たちは、主によって信仰が与えられ、訓練させられ、忍耐することを教えられながら、神を知り神に近づくことができるのです。そのようにして主は、私たちを完全な成熟した者となるために導いてくださっているのです。

19.08.11 猛暑



「創世記8:22 この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」

猛暑日 

 先日、はじめての道を歩くことがありました。 駅から徒歩20分のある会館まで行きたかったのですが、その日は猛暑日でした。時間は昼過ぎです。日傘をさして歩き始めました。しばらく歩いて、商店街のおじさんに道を尋ねると、地図を見ながら、「まだ結構歩きますよ。」と教えてくれました。
 そこからが大変でした。広い車道沿いにずっとまっすぐ進んでいけばよいのですが、あるのはビルばかりで、日陰がまったくないのです。日傘があっても、まさに「焼け石に水」で、日差しが容赦なく照りつけて来ます。いつもはあまりかかない汗が、顔を伝ってゆっくりと落ちてきます。途中デパートがあり、そこだけは歩道にひさしがあって、しばらく日陰を歩くことができました。しかしほっとしたのもつかの間。また炎天下に突入です。やっと到着して時計を見ると、予測通りほぼ20分かかっていましたが、なんと長く感じたことか。暑さでへとへとになってしまいました。帰りはさすがに歩く元気もなく、バスに乗りました。

北海道も35度

 「猛暑日」というのは、気象予報用語で最高気温が35度以上の日を指すそうですが、7月下旬の梅雨明けから始まった猛暑は、北海道でも35度を記録するほど猛威をふるっています。「地球温暖化」ということばを聞くようになってから久しいですが、年々暑さが増していることがはっきりと感じられるので、これからどこまで暑くなるのか、とちょっと心配になります。
  先日は大阪の遊園地で、着ぐるみを着てショーの練習をしていた若い男性が熱中症で亡くなるという、痛ましい事故がありました。 また、高齢者の方がいつものように農作業に出かけ、そのまま畑で倒れて亡くなっていた、という事故も後を絶ちません。私たちの今までの普通の生活が、普通では済まなくなっていることを痛感させられます。誰もが、自分のいのちを守るための対策を、意識しないではいられません。
 一方、暑さ対策のためのグッズもいろいろと工夫されています。手持ちの小型扇風機や、水でぬらして振るだけで冷たくなるタオルが人気です。アスファルトの道路の温度を下げる塗料も開発されているそうです。猛暑の中でも快適に過ごそうと、前向きに取り組む心意気に、何だか明るい気持ちにさせられます。

暑さに弱り果てたヨナ

 聖書の中にも暑さに弱り果てた人がいました。ヨナ書に登場する預言者ヨナです。ヨナは、神様がニネベの人々にさばきを下すことを思いとどまられたことに怒って不機嫌になり、町から離れた仮小屋に座っていました。すると神様は、ヨナの不機嫌を直すために、唐胡麻(とうごま)を、ヨナの上をおおうように生えさせ、日陰を作ってヨナを喜ばせました。しかし、それを一晩で枯らせてしまったのです。「太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』(ヨナ4:8)」。この唐胡麻(とうごま)のできごとは、神様がヨナを諭すためにされたことですが、この時の、暑さに弱り果てたヨナの気持ちが、今、猛暑の中を過ごしている私たちにもよくわかります。

神様の主権

 聖書は、暑さも寒さも神様が備えられたものであると記しています。「この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。(創世記8:22)」。この地上の気象の変化に、人間がどんなに一喜一憂しようとも、これを支配しておられるのは、この世のすべてのものをお造りになった神様です。ヨナは神様のされたことで不機嫌になりましたが、神様は、神様がどんなにあわれみ深いお方であられるか、ヨナに悟らせたかったのです。神様のされることはいつも一番良いことです。ですから、理由はわからなくても、この猛暑も神様からの贈り物にちがいありません。そして、神様はどんなに困難な時にも、それに立ち向かう力を与えてくださるお方です。

19.08.04 夢中になること



「イザヤ 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」

夏の高校野球

 毎年、この時期に行われる高校野球は、全国3500校以上の高校が参加し、もう100年以上開催されていて、歴史ある大会となっています。地方大会で、各都道府県の代表校が決定し、その代表校が甲子園の舞台で優勝を目指して戦います。この大会は、「負けたら終わり」です。つまり、地方大会を含め、すべての試合に勝った学校だけが優勝できるのです。ですので、チームにとっても選手たちにとっても、今日行われる試合がすべてなのです。今日勝たないと次はありません。高校野球を観ていて一番心を動かされるのは、選手たちが、勝敗が決まるゲームセットの瞬間まで、たとえ点差が離れリードされていても、全くあきらめる様子がなく、食らいついている姿です。そんな時、あるヒットがきっかけで、大逆転勝ちをしたりすることがあります。観ているこちらも、自分がチームの一員であるかのように「やったー!」と大喜びをしてしまうほど、嬉しくなります。試合に勝っていくと、当然試合数が多くなり、暑さの中でプレーをしていて疲れを覚えるはずなのに、選手たちは疲れるどころか、その目は真剣そのもので、とても輝いています。

ただ一つの目標を目指して

 私も、中学生時代の部活動で野球をしていた時は、真夏の暑さの中練習をしていましたが、体力的に疲れを覚えても、「もうやりたくない、しんどい」と感じることはありませんでした。それは、チームのみんなが、「大会で優勝する!」という同じ目標に向かって、練習に取り組んでいたからだと思います。大会で優勝することはできませんでしたが、最後の試合が終わった時、チームメイトのみんなが抱き合って、お互いに「ありがとう」と言って感謝しあいました。それは、これまでしてきた厳しい練習や、試合に勝った時の喜び、負けた日のあの悔しい思い、3年間ずっと同じ時間をともに過ごしてきた仲間なので、それらすべての出来事が思い起こされた瞬間だったのだと思います。

目の輝き

 今、あなたの心は喜んでいますでしょうか。目は輝いていますでしょうか。イエス様は、「 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。(マタイ6:22、23)」と言われました。相手の目を見れば、その人の調子がわかるということです。目が輝いていれば、心は喜びに躍(おど)っていることでしょう。今心にある一番の関心事は何でしょうか。仕事のことでしょうか。「クレームの対応をしないといけない」「明日が期限の仕事をやらないといけない」とか、家庭のことで、「子供が言うことを聞かないで、宿題もしないでゲームばかりして遊んでいる」とか、「今月のお金をやり繰りすることで頭がいっぱいだ」とか、様々だと思います。どんなことであれ、もし、心が煩っているなら目も輝きを失うことになりますし、今やるべき目の前のことにただ集中して、周囲の状況も気にならないほどに没頭していれば、目は輝いていることでしょう。

イエスだけ

 私たちは、日常生活のことよりも、その上におられるイエス様を見上げて、このお方に夢中になる生活をしてまいりましょう。仕事をしているその所におられるイエス様に、「今日の仕事を祝福して下さい」と祈り、人と話していて、「隣人を愛しなさい」と語られるときに、「この人を愛します」と祈りながら話しをします。一人でいる時も、「主をほめたたえます」と賛美して、心の内におられる主との交わりの中に居続けてまいりましょう。そのように一日中、イエス様に夢中になって生活をしていく私たちの目は輝いています。心の内に、光であられるイエス・キリストが住んでくださっているので、私たちの表情は自然と明るくなります。主を待ち望んで歩む人の足は、決して疲れることがありません。

19.07.28 黄金律



「マタイ7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」

傘のマナー

 先月、女優で、女子プロレスラーの角田奈緒さんが、ツイッターで傘のマナーを呼びかけて、SNS上で静かな話題になったそうです。電車の中で、傘を腕にかけて座席の前に立つと、座っている人の足に当たることや、子どもの顔の位置に傘の先端があることが気になって、投稿したそうです。ダメな持ち方を、スマホで自撮りして、こんな持ち方はやめよう、と呼びかけています。
 ファンからは、「気をつけます」「人に不快な思いをさせてはだめだよね」などの共感のコメントが寄せられたり、自分のマナーの悪さに気づいて考え直してくれた人もいたそうで、思いがけない反響に本人も驚いたとのことです。
 角田さんは、「公共の場で、周りの人への気配りや思いやりを持つことを常に念頭においています。自分が気になること、嫌な思いをするようなことはしない。『逆の立場になって考える。』これが何より分かりやすくて大切なことではないかと思います。」と言われています。本当にそう思います。

バスの中で

 毎朝私が乗るバス停から、目の不自由な年配の女性が一緒に乗ることがあります。白杖(はくじょう)でバスのステップをつついて、確かめながら上って行かれます。バスの中はいつもほぼ満席なのですが、なぜか乗ってすぐ左側にある優先席が、よく空いています。そして誰かしら「ここ空いてますよ。」とその人に声をかけるのです。それを聞いて、「そうか、席が空いているかどうか、確かめることができないからなんだな。」と気づきました。人が座っているかもしれないですから、手でさわって確かめられないですよね。その女性は、いつも待っていたように「ありがとうございます。」と言ってすぐに腰掛けます。席が空いていないときも、誰かしらすぐ立ち上がって席を譲ります。ある時、乗り口から少し離れたところの席が空いていたときは、年配の男性がその人の手を取って座らせてあげていました。
 バスに乗っている人が、その女性がそこから乗って来ることを知っていて、みんなで気を配っているように見えます。少なくとも私は、その女性がバスの中で立っているのを見たことがありません。人の心のあたたかさを感じてうれしくなります。

自己中心

 上述のできごととは対象的に、今月はじめに東京のある町で全盲の男性が暴力を受けるできごとがありました。路上で、点字ブロックの上を歩いて職場に向かっていたところ、通行人と正面からぶつかって、白杖(はくじょう)が壊れてしまったのです。つえを拾おうとかがんだところ、男の声で「目が見えないのに一人で歩くな」と言われ、右足を蹴られた、というのです。けがはありませんでしたが、その男はそのまま立ち去ったということです。散らばったつえの部品を拾ってくれた通行人が、ぶつかった相手は若いサラリーマン風の男だったと教えてくれましたが、歩きスマホだった疑いがあります。男性は、予備のつえで、職場には行けたそうですが、「白杖(はくじょう)がなければ外を一歩も歩けない人がいることを分かってほしい。(これでは外を歩くのが)不安でたまらない。」と取材に答えて訴えたそうです。

黄金律

 聖書には、人間はみな、生まれながらの罪人であると書いてあります。生まれながらに自己中心なのです。上述の男は、ぶつかったことを謝るべきなのに、「自分が歩いているのをじゃまされた」としか考えていません。もし、目の見えない人が外を歩く時にどんなに不安かということを、少しでも想像していたら、ののしったり、暴力をふるったりすることはおそらくできなかったでしょう。しかし人間はみな、同じような罪の体質を持っている者だということを、認めなければなりません。
 イエス様は、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。(マタイ7:12)」と教えました。これは聖書の中で「黄金律」と呼ばれる教えです。神様は、私たちのほしいものを何でも与えてくださる方です。だから私たちも、同じようにほかの人にしなさい、と言われたのです。自分がその人の立場だったら、何をしてほしいか、またしてほしくないか、想像しなさいということです。
 イエス・キリストは、罪ゆえに苦しむ私たちを、あわれんでくださり、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって、私たちを救ってくださいました。その愛ゆえに、私たちも人を愛することができるのです。人間は誰でも、神様の救いが必要です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」

19.07.21 覚えてくれている



「詩篇 139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。」

覚えてくれている

 「はるきく~ん!」「ゆみかちゃ~ん!」幼稚園の先生が、園庭で遊んでいる子どもたちに向かって、お母さんがお迎えに来たことを知らせるために、大きな声で呼びかけます。すると、自分の名前を呼ばれた子は、遊びをやめて走って先生のところへ戻ってきて、カバンを持ち、帰る支度をします。
 私が、初めて幼稚園に子どもを迎えに行った時、先生が、私の顔を見るなり、「しおんく~ん!」と子どもに向かって大きな声で呼びかけました。こちらが名前を言っていないのに、すぐ呼んでくれたのです。私はその時、「この先生、何で私のことを知っているのだろう」と思いました。入園式などで何度か幼稚園に行ったことはありましたが、それでもほんのわずかな時間でしたし、先生と会話をしたこともありませんでした。「私の顔が子どもにそっくりだからなのだろうか」とも感じました。それもあるのかもしれませんが、幼稚園の先生たちは、子どもの名前はもちろんのこと、親の顔もちゃんと覚えているのです。また別の日に、他の先生が入り口に立っていた時も、同じように呼んでくれました。毎日迎えに行っているお母さんであれば、覚えているのもわかりますが、たまにしか顔を出さない親のことを覚えてくれていたので、私はそのことに感心して、「この先生、私のことをわかってくれているんだ」と思い、ちょっと嬉しい気持ちになりました。 恐らく、他の保護者のことも同じように覚えているのではないかと思います。先生たちが、子どもに対して、とても関心を持って接しているのが、子どもたちとのやりとりの中で垣間見え、その雰囲気が伝わってきます。ですから、ただ園児の名前や保護者の顔を覚えている、知っているということだけではなく、子どもの様子をいつも観察して気にかけて見ている、そんな感じがします。

気にかけてくれていることが嬉しい

 覚えてくれているのは、その人が自分のことに関心を持ってくれているからです。親は、自分の子どものことをいつも気にかけています。「来週テストがあるって言ってたけど、ちゃんと勉強できてるのかな」「今日は、帰ってきた時の表情がいつもと違うけど、学校で何かあったのかな」と心配してくれます。会社の上司は、自分の部下のことを気にかけています。「明日の会議のための資料の準備はちゃんとできてるんだろうか」と気にかけてくれています。社長であれば、社員全員のことを気にかけています。上司や親など身近な人が、いつも自分のことを気にかけてくれていることを私たちが知る時に、そのことをとても嬉しく感じるものではないでしょうか。

すべてのことを覚えていてくださるお方

 しかし、身近な人が自分のことを気にかけてくれていること以上に嬉しいことは、神様がいつも気にかけていてくださることです。神様は、あなたのことを一日中気にかけていてくださるお方です。「誰も、この私の苦しい状況、辛い気持ちを理解してくれる人はいないだろう」と感じる時に、神様はその思いを知っていてくださいます。感じた思いのすべて、起きた出来事の一つ一つを詳細に覚えていてくださいます。今この瞬間も、私たちの心を見ておられ、心に感じる思いのすべてを、神は知っていてくださるのです。「私はあの人にひどいことを言って傷つけてしまった、どうしよう」「あの人を愛せない、赦せなくて怒りが湧(わ)いてくる」「今日もまたあの人と顔を合わせないといけない、いやだな」などと感じているすべてのことを主は聞いておられ、私たちのことを気にかけていてくださるのです。神は、私たちの身近な気心の知れた仲間、家族よりも、私のことを知っていてくださるのです。
 「神は私のことを、ずっと気にかけてくれているんだ、この思いをわかってくれているんだ」ということを、私たちが知る時に、私たちは、主からの慰めをいただくことになり、主からの平安をいただくことになるのです。

安心して生きられる

 主が、私たちの思い、行動をいつも見ていてくださるので、私たちは、孤独を感じることは全くありません。自分で心配をする必要も全くありません。私のことを一番よく理解してくれて、何か問題が起きれば助けてくださるお方がおられるので、安心して生きられるのです。今日やるべきことに夢中になって全力で取り組むことができるのです。私のことを覚えていてくださる主が、いつも共にいてくださる恵みに感謝します。

19.07.14 夏のうぐいす



「創世記1:20-22 神は仰せられた。『水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。』神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。神はそれらを祝福して、『生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』と仰せられた。」

夏に鳴くうぐいす

 そろそろ梅雨明けが近づいて来ました。毎年梅雨が明けると、いっせいにせみが鳴き出しますが、そのせみの鳴き声に混ざって、近所の家の庭の茂みの中から、「ホーホケキョ」と、うぐいすの鳴き声が聞こえて来るのです。はじめて聞いたときは、「夏にうぐいす?」ととても奇妙に感じましたが、何年も聞き続けるうちにだんだんなじんできて、せみの声をバックに聞こえて来る「ホーホケキョ」を、楽しみに待つようになりました。それにしても、うぐいすは別名で「春告鳥」(はるつげどり)とも呼ばれ、春の訪れを告げる、春の鳥のイメージが強いのですが、夏にも鳴くものなのでしょうか。
 うぐいすが「ホーホケキョ」と鳴くのは、繁殖期のオスだけで、普段の鳴き方は、「チャッチャッ」という舌打ちのような声だそうです。メスもこの声です。そして、警戒した時などは、「ケキョケキョケキョ・・・」とけたたましく鳴き続け、他のオスに対して「俺の縄張りに入るな」という強い警告をしているそうです。そう言われてみると、確かにそんな鳴き声も聞いたことがあります。オスの縄張りは、直径200mほどの範囲で、「ホーホケキョ」と高らかにさえずって、花嫁募集と縄張り宣言をします。メスがやってきて、つがいになったと思うと、また別のメスを求めてさえずり続けます。つまりうぐいすは一夫多妻で、オスは6~7羽のメスを求めてさえずりを続けます。そのため、さえずる期間が長くて、9月にまで及ぶことがあるそうです。だから夏にも鳴いていることがあるのですね。
 しかし、うぐいすのオスは、盛んにメスを獲得しようとするだけで、子育てには全く参加しないそうです。巣づくりから卵を抱くこと、ヒナを育てることまでメスだけで行います。

ツバメの巣づくり

 うぐいすと同じく、春になるとよく見かけるツバメの巣作りも、個性があって興味をそそられます。ツバメは3月下旬から6月下旬にかけて、巣作りをします。うぐいすとは違い、つがいで協力して作業をするそうです。泥とワラを口にすくって、口の中で唾液と混ぜてこね上げます。そのまま巣を作る場所へ移動して、少しずつ口の中の材料を付けていきます。唾液が接着剤のはたらきをするので、垂直の壁に作ってもしっかりくっつくそうです。夜明けとともに作業を開始し、午前中の10時頃に終了します。その後は泥を乾かす時間帯です。しっかり乾かして、丈夫な巣を作るそうです。巣は1週間程度で完成します。巣の場所は、軒下など雨が降り込まないところです。また、猫や蛇が近づかないよう、足場もなく、人通りがある安全な場所を選ぶそうです。そして、ひなにえさを与えるのも、オスとメスが交代で行います。

空の鳥を見なさい

 うぐいすの鳴き声を聞くとき、私たちはその澄んだ、あたり一帯に響きわたる声に聞き入ります。あんなに小さな体からどうしてこんなに大きな音を響かせることができるのだろうか、と不思議に思います。また、ツバメの巣作りを見るとき、こんな知恵をどうやって身につけることができたのだろうか、と驚きます。巣は、おわんをたて半分にしたような形にきちんと作られています。そこで4、5羽のひなが、3週間を過ごせるのです。聖書には「空の鳥を見なさい。(マタイ6:26)」とあります。私たちのまわりにある自然をよく見ると、そこに人間が理解することのできない、何か大きな力が働いていることに気づくのです。

創造主の知恵

 神様は、この世界を6日間かけて造られ、7日目に完成されました。そして、冒頭の聖句にありますように、鳥と水の中の生き物は5日目に造られました。そして、それを良しと見られて祝福し、「『生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ(創世記1:22)』」と仰せられたのです。
 神様の造られた生き物にはそれぞれ個性があります。子育ての方法もさまざまですが、その知恵を与えられたのは神様です。鳥の仲間一つを取ってみても、9000種類もいるそうですが、体の形、色、大きさもそれぞれみんな違います。私たちはクジャクの羽の模様に驚嘆し、カワセミの美しい青色に魅せられます。そして、それを模倣しようとするのです。神様は優れたデザイナーであられるお方です。私たち人間は神様の測り知れない知恵に、感嘆させられるのです。「われらの主は偉大であり 力強く その英知は測り知れない。(詩篇147:5)」

19.07.07 退職代行



「箴言 29:25 人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」

退職代行

 「会社を退職したいと思っているが、自分の口からは言い出せない」という人に代わって、退職の手続きや連絡を行う「退職代行」というサービスを利用する人が今増えているそうです。昨年、テレビ番組でも取り上げられ、さらに認知度が増し、代行会社の数も増えているようです。電話やLINE、メールで相談をしてすぐに辞められる、会社への連絡は一切不要、という手軽さから「ストレスなく退職ができる」と、今利用者が増えているようです。料金は、3~5万円ぐらいで、利用者にとっては、「上司に顔を合わせないで辞められるのであれば安い」と感じるようです。このサービスを利用する人の理由は、「上司に話をしたが、『もう少し頑張ってほしい』『今社長と話をしている』などと言われ、引き伸ばされて、なかなか退職の意志を受け入れてくれない」と言う人や、「辞めたいと言い出せる雰囲気ではない」「退職のことで会社と揉めたくない」など様々です。
 一方、代行会社から退職の意向を告げられる会社側の声は、「退職するそぶりが見えなかったので、突然のことで戸惑っている。なぜ退職したのか分からない。」「どうして退職に至ったのかをきちんと教えてほしい、とてもショックだ」と、驚きを隠せない様子が伝わってきます。
 他にも「謝罪代行」というサービスも、ここ最近依頼が増えているそうです。「バイト先でトラブルを起こしてしまい、店長から『親に連絡する』と言われ、親には知られたくないので、親の代わりになってもらい謝ってほしい」というケースや、「職場で、取引先に対して大きなミスをしてしまい、上司と一緒に謝罪に行くことになってしまったのだが、その事を上司に言えないので、代わりに上司役を演じてもらって一緒に謝りに行ってほしい」などといったケースがあります。

避けて通る

 会社を退職することも、ミスやトラブルが起きたことに対して謝ることも、どちらも自分自身の問題であります。きちんと上司に話をすれば、解決される問題です。
 私も、アルバイトや正社員として、何社か会社に勤めていましたが、退職の意志を伝える時は、それまでに「どう話せば良いか」と色々と考えて、「言いたくないな」という思いがありました。しかし、自分で決めて始めた仕事なので、辞める時も自分でその意志を、直接相手に伝えるのは当然のことであります。直接相手に伝えないのは、「面倒なことは極力避けて通りたい」「自分が怒られたくない、傷つきたくない」という思いで、自分のことばかり考えていて、相手のことについては全く考えていないことです。その時はうまく切り抜けられたとしても、いずれ同じような場面に遭遇した時に、また回避する方向に考えていくことになります。相変わらず、自分自身の問題は解決されていません。

問題に面と向き合う

 家庭内やその他の人間関係の中でも、ケンカや言い争いが起きる時に、自分に非があって「謝らなければいけない」と思っても、自分から声をかけることにとても大きな抵抗を感じて、なかなか切り出すことができなかったりします。「できることなら言わないで済ませたい。」そんな思いがあります。
 私たちの日々の生活の中で、「できることなら避けて通りたい、言わないで済ませたい」と感じる出来事に遭遇する時に、その状況、問題に面と向き合っていかなければなりません。「嫌だな、めんどくさいな、後回しにしようかな」と感じる時に、私たちが主に目を向けるならば、主は、「その嫌だと感じていることからまず先にしなさい」と語ってくださいます。その主の語りかけに応答する時、主はともに働いてくださって、問題に立ち向かっていく勇気を与えてくださり、成し遂げる力を与えてくださって事を行わせてくださいます。前を向いて前進していくことができるのは、主にあって可能なことです。