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「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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「Ⅰヨハネ 1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
神は光
第一ヨハネの手紙は、神様のことを一言で言うなら「光」であると言います。それは「暗いところが少しもない」ということです。実に神様は「暗いところが少しもない」完全な「光」なのです。
光の特徴として、挙げられるのが、闇に完全に打ち勝つということです。「ヨハネの福音書 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」神様の働きを妨げるものは何もなく、やみの働きである悪魔も、神様の前に、ひとたまりもありません。
イエス・キリストは「光」であって、私たちに「光」をもたらすために、此の世に来てくださいました。「ヨハネの福音書 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」人に必要なのは、すべてを照らし、明るみに出す「光」です。考えてみてください。もし、私たちに神様の完全な「光」があれば、私たちを苦しめるものは、何ひとつありません。多くの人は、前向きに積極的に考えたいのに、考えられなくなっています。あるいは、苛立たないでいたいのに、心配しないでいたいのに、そうしないではいられません。
これらの原因はすべてやみです。このやみに打ち勝つ「光」が、私たちに必要なことですが、神様はその答えである「光」なのです。
父の子ども
私たちは、イエス・キリストを信じて、神様の子どもとされました。「光」である神様は、私たちの父となってくださったことです。言うなれば私たちは光の子どもです。聖書は「エペソ人への手紙 5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と命令しています。
イエス・キリストを信じたならば、誰でも「光の子ども」であるという自覚を持たなければなりません。「光の子どもらしく」と言われますが、「光の子ども」はどのような考えを持つ者でしょうか。それが生き方にどのように表れるでしょうか。
父にあこがれて
一般的に、素晴らしい父親を持つ子どもは、「父のようになりたい」と父に対してあこがれを持つものです。父が自慢です。不幸にしてそのような思いを父親に抱くことができなかった方々もいます。しかし、本音は父が大好きです。
不完全な人間ではなく、私たちの真の父は、天の神様ですから、完全です。たとえ、「父」という響きに、必ずしも肯定的な思いを持てなくとも、そのことに影響されないで、天の父には、良き思いを持つことができます。父は「光であって暗いところが少しもない」お方であるからです。「私の父は素晴らしい」と言いましょう。
私たちは、父が自慢ですから、「父のようになりたい」と思います。
光となりたい
イエス様は、私たちに対して「マタイの福音書 5:14 あなたがたは、世界の光です」と言われました。イエス・キリストを信じて、すでに「光」であると言われていることです。その私たちが、さらに父にあこがれて、光の人生を歩みたいと願うことは、まったく自然なことです。人生の生活のあらゆる営みの中で、「光」を放つ生活をしたい、と思います。
どんな仕事を選ぼうとも、暗いところが少しもない光を放っている仕事をしたいと思うでしょう。家庭を持つ者は、暗いところが一つもない家庭を持ちたいと考えるでしょう。社会生活においても、友達関係においても、そう考えるでしょう。これは、父が光であると意識する「光の子ども」であればこそです。これが、「光の子どもとしてのビジョン」です。
あなたのビジョン
あなたは、すでに職業をお持ちでしょうか。あるいは、これから職業を決めていく予定でしょうか。いずれであっても、自分の仕事が、社会や人々の間にあって「光」を放つものでありたい、「暗いところが少しもない」ものでありたい、と願わなくてはなりません。
仕事で成功するために、第一に必要なのは、技術でも知識でもなく「誠実」であるからです。それをどの仕事で実現するかは、あなたに「光の子ども」としての自覚があって、神様に祈り求めるときに、与えられるのです。「ピリピ人への手紙 2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」
これは、家庭生活でも、人間関係でも、同じことです。「光」である父の子どもであることを、常に感謝する人生でありますように。
「ヨハネの福音書 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
子としての特権
さて、本日のみことばは、イエスの御名を信じた者は「神の子どもとされる特権」にあずかることができる、と伝えています。誰でも、イエス・キリストを自分の救い主と信じたなら、神の子どもとされたのです。これは特権です。特別な権利という意味です。
神様の子どもになるということは、誰もが望んで得られることではありません。むしろ、不可能なことです。だけど、特別に認める、と言われたのです。理由は、イエスの御名を信じたから、ということです。
シンプルすぎて、特権ではないように感じるかもしれませんが、自分が罪人であることを認めて、救い主が必要で、神様の示してくださるイエスの御名を信じて救われる、は神様への降参がなければ、できることではありません。現に、その簡単と思えることができない人々が、私たちの周りにたくさんいます。ですから、あなたが、今神の子どもであるということは「特権」であるのだと、理解をしなければなりません。
神の子どもとしての特権をいただきましたが、その特権の一つが、祈ることができるということです。子どもとなったから、父である神様とお話ができるようになったのです。今までは、神様に祈りが届くことはありませんでした。イエス・キリストの名前を使うことを許された今は、祈りがまことの神様に届くようになった、ということです。祈ることができることを感謝します。
父との会話
神様は、私たちの父ですから、祈ることは天の父との会話ということになります。つまり、神様と私たちは、親子の会話ができる親密な父子という関係であるわけです。
神様が、私たちを愛しているという事実については、みなさんも、もうすでによく知っていることと思います。また、私たちも父を愛しています。その意思表示は、イエス・キリストを信じるということによって、表されております。愛し合う父と子の関係にあることです。そこで、私たちは、子どもとして父にお話しするのですが、これが祈りということになります。
祈りというと、祈る側の私たちの姿勢が強調されることが多いですが、祈りを受ける神様の思いを考えてみましょう。父として、親として、神様は、大切な子どもとの会話を喜んでおられます。
もし、あなたが子どもの親であれば、子どもと話しをしたいと思うでしょうし、声を聞きたいと思っていると思います。あるいは、逆に、自分が子どもの立場として、親の心を思いやる時に、親が子どもと話しをしたがっているものだ、と感じたことはあると思います。
神様は、人間の親以上の思いを私たちに向けてくださっているお方です。父の側からの思いとして、私たちの祈りを、私たちが思っている以上に、望んでくださっておられるのです。
待っている父
ルカの福音書15章に出てくる放蕩息子は、父の心を知らずに家を出ました。が、父は息子が帰るまで、ずうっと待ち続けておりました。神様の心は、待っている父、であるのです。私たちが祈ることを、神様は待っておられます。私たちとの会話を楽しみにしておられます。
このことがわかりますと、祈りが、私たちがしなければならない義務、などという考えは持たなくなるでしょう。多くの方の、祈りに対する思いは「祈らねばならない。しかし、十分には祈っていない。もっと祈るべきだ。祈りに励もう」というものです。祈りを果たすことに、一生懸命であって、肝心の父との交わりということが薄れていることです。
父との楽しい交わりの中で、父に私たちの思いを打ち明けることができ、また、父から必要なことを語られ、教えられ、満たされて、行くことです。祈りといえば、いただくために、懇願によって勝ち取るというイメージの強いことです。しかし、待っておられる父の思いを知り、進んで父に応えようとするのが祈りであると覚えましょう。
そのようにして、父である神様との交わり、接触、出会いが持てるからこそ、その中で当然、恵を受けることになるのです。
『ルカの福音書 19:1-10 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』
イエス・キリストは、私たちのために、十字架に付けられました。十字架は刑罰の場所であり、イエス様がそこで私たちの身代わりとして、苦しみ、死んでくださったのです。
本来私たちが受けるべき罰を、代わって受けてくだっさったのです。まさに御からだを犠牲として差し出してくださり、私たちを救い出してくださったことでした。十字架は、神の愛が現された場所であると聖書は説明しています。愛とは与えることであり、十字架は無条件で犠牲を払うという愛が、示された場所であるのです。
キリストは、私たちのために苦しまれましたが、その犠牲の傷跡を見て満足されました。神様は、ご自身が犠牲を払って苦しまれることを喜ばれているのです。それは、私たちを滅びに向かわせないで、救い出すことに、ためらわず犠牲を払いたいと願っておられることなのです。
愛とは、無条件で与えるという犠牲、を払うことに喜びを感じることに他なりません。
主に感謝します。
さて今週のメッセージは、祈祷会においてお伝えした内容ですが、わかりやすくまとめてみたいと思います。エリコの町にイエス様が来られました。そこには取税人ザアカイがおりました。彼がイエス様に出会い、彼の心の中が変えられていった様子について、聖書から読み取っていきたいと思います。
取税人であるということ
ユダヤ(イスラエル)の社会では、取税人は罪人とされていました。異邦人(ユダヤ人以外の人々、つまり外国人)は罪人とされていました。神様を知らない人々だからです。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。人々の願いは、早くローマ帝国が滅ぼされて、イスラエルの国が再興されることでした。しかし、取税人はその罪人であるローマから委託を受けて、同胞であるユダヤ人から税金取り立てるわけです。そこで、彼ら取税人も神様に敵対する罪人であるとみなされていました。罪人であるということは、ユダヤの社会からは全く阻害される存在でした。会堂に入って礼拝を捧げることも許されませんし、存在自体が忌み嫌われました。
ですから、彼は孤独でした。取税人のかしらと書かれていますから、同業の仲間はいたでしょう。ですが、社会にすねている彼の思いは、容易に想像できます。「私は孤独だ」「誰も相手にしくてくれない」「みんな私のことを嫌っている」「みんな私をさげすんでいる」そんなことを肌で感じながら、生きていました。
壊れていくやる気
一方、彼にも、人としての生まれながら持っている、人生に対するやる気がありました。「幸せになりたい」「成功した良い人生を歩みたい」「人から尊敬されたい」「愛されたい」「人の役に立ちたい」「みんなと仲良く生きていきたい」という、誰もが持つ思いです。しかし、そのような彼が、生きるために選んだ道は、取税人の道でした。「誰かがやらなくてはならないのだから、私がやってもいいはずだ」「私の望みはお金だ。お金が私を幸せにし、私の人生を守る」という思いのもと、彼は人の批判を気にしつつも、それでも惨めな人生を送るよりはまし、さらにはお金になる仕事の魅力に抗し切れなくて、取税人の道を選び続けていたのでした。
しかし、取税人である生き方に、人々の反応はとても厳しいものです。表立っては、ザアカイに反抗しないものの、人々の冷たいさげすみの視線は容赦なく感じさせられることです。そのような世間に対して、彼は怒りの心を持って対応しました。怒りが、彼の本来の人間としてのやる気を完全に壊して行きました。彼の行動は、本来の自分の思いとは全く反対の方向に向かっていくことになります。「あいつらの態度が気に入らないから、余計に税金を取り立てて、こらしめてやる」「私には、権限が与えられているのだ。皆私を尊敬するべきだ。文句を言うなら、ローマに訴えてやる」「日頃私をバカにしやがって、あいつらが貧しい生活をしているのは、いい気味だ」というのが、彼の言い分であり、生き方となっていました。
イエス様との出会い
そのような中で、彼は自分の酷さを感じながらも、「あいつらだって心は汚いのだ。だから、私のしていることや生き方は、とりたてて問題だということではない。何よりも、そんな辛気臭いことを考えること自体が、ダメな人間のすることだ」と前を向いて生きようとしていました。自分のことを忘れ、自分のことを正直に認めようとする考えをはねのけつつ、それが前を向いて生きることだ、と自分を振り切って生きていました。自分を振り切ることができることが、彼にとっての成功であり、幸せでありました。
そんなとき、イエス様から声がかかりました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。ザアカイは、イエス様一行を家に迎え入れ、楽しい食事が始まりました。罪人の家に入ること、一緒に食事をすること、これらの行為は罪の行為であると、禁じられていました。当然、イエス様の行為は、人々の非難をあびました。しかし、そのような声を無視して、イエス様はザアカイと親しく時間を過ごしてくださったのです。
本当の自分の姿に向き合う時
ザアカイの心に少しずつ変化が起きました。それはイエス様から声をかけていただいたときから始まり、楽しい食事の交わりのときに最高潮に達しました。彼が感じたのは、世間の人とイエス様の、ザアカイに対する対応の違いでした。そこには明確なコントラストがありました。一方はさげすみの目であり、一方は暖かい愛の目でした。その状況の中で、彼は、自分の本当の姿について、思いを巡らしていくことになります。
普段は、違う自分を見ようとしていたのにです。今は本当の自分を正面から見ることをためらいません。対応の違いというコントラストが、自分というものを不思議に感じさせたからです。彼は考えます。「私は、取税人であり、人からも神様からも嫌われている。罪人であることは、わかっている」「自分の心の中には、怒りがあり、人々に対して、敵対心を燃やしている」「人に対して正しくないことをし、人のことを哀れむどころか、かえっていい気味だと思っている」「どう考えても褒められるところはない」と、自分のことを見つめました。
なぜ
「この方は、私のことを知らないのだろうか。知っていれば、私のところに来るはずがない」「いや、世間の人にわかっていることが、この方にわからないはずがない。この方は、神の人だから」と彼は考え続けます。「私が自分のことを知っている以上に、この方は私のことを知っておられるはずだ。なのにこの対応はなぜなんだろう」と思うのです。
そして、「この方が、神の人であるなら、もしかして、神様の思いがこれだということなのではないか」と彼は結論にたどり着くのです。一気にある思いが湧き上がってきました。「神様は、こんな私をどのようにして救おうかと考えてくださっている。それで、この方を遣わしてくださったのだ。神様は、熱心にこんな私をなんとか救おうとされている」とわかったのでした。
愛されている
「神様は、私が見ようとしなかった私の本当の姿を初めから、知っておられた。私は、今、本当の自分を見たときに、それがわかった」。「わかったら、こんな私に注がれている、神様の熱心が、わかった」。
そして、ついにわかるのです。「私は愛されている。私は捨てられていない」とわかった途端、彼は救われました。「財産の半分を貧しい人たちに施します。だまし取った物は、四倍にして返します」と告白するのでした。
愛されているとわかった瞬間、彼の心から怒りは消え去りました。彼の元のやる気は、取り戻されました。本当はしたかったこと、本当は生きたかった生き方、これがよみがえったのです。
誰でも、愛されることが、すべての解決です。この完全な愛は、人にはなく、神様だけが持つものです。本当の自分を認めるとき、それがわかるのです。現在位置に立つことなくして、救いはありません。
「ヘブル人への手紙 4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
現在位置 本当の自分を知る
現在位置とは、自分が今、どこに立っているか、を示す情報のことです。自分の本当の姿、それは一つには外面的な特徴である、容姿、立場や職業、あるいは資格や技術、学歴、家族や財産、などですが、これらは人にも大部分が知られていますし、自分ではさらに認めやすいものです。その人に貼られたラベルのようなものであり、見てわかる部分のことと言えます。
さらには内面的な特徴があります。性格や考え方、秘めた能力、心の中身や状態、全般のことです。心の中のことですから、見て分かりにくい部分です。本人にもわかっていないことが多くあるものです。また、外面的な特徴よりも、内面的な特徴の方が幾倍も大きく、深く、多岐にわたっている、と言えそうです。なぜなら、知れば知るほど、自分の本当の姿について、新しいことを発見するからです。 現在位置を正しく把握するとは、本当の自分の姿を正しく知る、ということです。現在位置を見誤っているなら、つまり、本当の自分に気づいていないなら、いくら目的地がわかっていても、たどり着くことはできません。人生において、本当の自分を知るということは、目指す目標よりも大切なことです。
自分を良い方向に見る傾向
聖書は、私たちが罪人であることを、指摘しています。私たちの本当の姿は悪く、正しく生きることや人間関係において敗北しており、それは直らないと言います。「エレミヤ 17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」
誰も、はじめから罪人であることを認める人はいません。そこまで自分は悪くはないと思っています。自分を良い方向に見る傾向があるのです。しかし、自分の本当の姿を知った時、その人は神の恵みを受けて救われます。良い方向に見ている時は救われない(神様を信じて人生を明け渡せない)のですが、本当の自分を知って、神様の御愛を知り、かんねんすることができるのです。
誰もが、自分を良い方向に見る傾向があります。ですから、現在位置を見誤っている可能性が大きいのです。本当の自分を知ってはいないのです。
本当の自分がわからない
すべての人は、自分から逃げています。本当の姿に直面したくないのです。それで自分を良い方向に見ようとします。薄々自分の無能力さに気がつきながら、自分を少しは良い者と見ようとするわけです。自分を励まして生きていることです。しかし、「それは直らない」ことですから、決して成功することはありません。
そこで自分の現在位置を正しく把握しようとするのですが、自分をよく見ようとする傾向があるので、どうしても、自分のひどい状態のことを、頭ではわかっても、口では言っていても、当たり前のようには理解していません。自分を悪く見ると、やる気がなくなり、敗北してしまうと考えているのです。だからこそ、今までは、自分をよく見て、励まして生きてきたのでした。自分のことをよく見たり、ありのままに見たり、心の中は揺れ動いています。本当の自分を探しながら、見つからない状態です。わかっているのに、です。わかることが嬉しくないのです。
しかし、私たちが必要なのは、神様の助けであって、自分の力ではないことを知らなければなりません。神様が働かれるのは、偽りの自分にではなく、本当の自分にであることは言うまでもありません。救われたのも、本当の自分を認めたからに他なりません。そこに、神様の御愛と赦しの恵みが注がれました。
明確な本当の自分
本当の自分を認めることを悩むことはありません。私たちは、自分を擁護する傾向があるので、自分をよく見ようとするのです。しかし、私たちを守るのは、私たちではなく、神様です。神様は私たちに、本当の姿を知りなさいと言われています。そして、その本当の姿の私たちを、どのようにして祝福するかに心を砕かれているのです。
神様は、私たちの本当の姿を知っておられます。それを私たちが、違った風に見ているなら、神様の恵みはそこには届いていないことです。本当の自分に届いているのです。良く見ている自分(見誤った現在位置)に届いていないことは、誰にでもわかることです。
神様が見ているのと同じ見方をすれば良いことです。神様はこれを助けようとしておられるのですから。アレコレと考えなくても、主が言われるのが自分です。明確なことです。このことがわかりますと、「こんな自分」に神様が一生懸命であることがわかります。それで、「ああ、愛されているのだな」とわかるのです。
本当の自分に気づき、これに一生懸命な主の熱心がわかることが、すべての解決なのです。
「箴言 26:2 逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」
いわれのないのろいはない
「のろい」とは祝福の反対語です。聖書は、人が神様の命令に従うときに祝福され、従わないときにのろわれる、と教えています(申命記28章)。「のろい」と聞くと、おどろおどろしい感じのすることですが、祝福されていないことが全部「のろい」なのだと考えれば、わかりやすいことです。祝福されているのが当たり前、と考えればよいと思います。
みことばが教えていることは、もし、私たちの生活に問題があるなら、それには原因がある、ということです。雀が、あるいはつばめが、逃げて行くのは、原因があってのことです。人や動物に捕われないように逃げて行くのです。そうしなければならない原因があるわけです。
同じように、人が「のろい」の中にあることも、原因があってのことだということです。「いわれのない」つまり原因がない「のろい」は、ないのだと教えています。
原因は自分自身にある
聖書は、私たちの苦しみの原因は、私たちの罪であると教えています。つまり、私たちが神様に従っていないことが、苦しみの原因であるということです。「いわれのない」苦しみはない、ということです。このことを聞いて怒る人もいます。自分は悪くない、というのです。あるいは、悪いから罰を与えるというのは、神のすることではない、と考えるからです。
しかし、神様は、私たちに原因があるからこそ、それをご自身が犠牲を払って、取り除きたい、と願われているのです。それが神様の愛です。それには、私たちが、神様のご指摘に同意をし、神様に私たちを差し出す、必要があるのです。ですから、原因は自分にあるのだ、と認めることができるなら、私たち自身が恵まれることです。
現在位置を知る
自分の目標に向かって行くためには、現在位置、すなわち現在の自分自身の本当の姿、を知ることが何をおいても必要なことです。特に目に見えない、心の問題、在り方については、目をそむけがちですが、そこにこそ現在に起きていることの原因があるわけですから、面と向かわなくてはなりません。
正直になるなら、色々なことが見えて来ます。能力のないこと、やる気のないこと、続かないこと、汚い心、隠す心、意地悪な心、人を攻撃する心、与えない心、見栄を張る心、高ぶる心、何よりも正直でないこと、もっと具体的に考えれば、たくさん出て来るでしょう。
自分の人生の結果は、これらのことが原因で起こっていることなのです。ですから、現在位置を知れば知るほど、解決の兆しの見えて来ることです。
主の愛
神様は、私たちの現在位置を指摘し、裁こうとしているのではありません。むしろ、その現在位置、私たちのあるがままの姿を示しつつ、どのようにして、そこから救い出そうか、助けようか、と考えられているのです。それがイエス・キリストの十字架であることは言うまでもありません。
神様の愛の熱意は、私たちを、どうしたら救えるか、どうしたらいやせるか、どうしたら解放できるか、に注がれています。それを受け取れるのは、私たちが、本当の自分を、目をそむけないで、喜んで見ることにかかっているのです。本当の自分から逃げる者に、主の愛がわかるはずがない、ということです。原因が砕かれることの素晴らしさを味わいましょう。
「ヨハネの福音書 15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
起きている問題
多くの方々の、抱えている問題は、ほとんどが心の内側の領域の問題です。つまり何を考えているか、です。落ち込んでいる場合、心の中に自分を責める声があります。「またやってしまった。なんて自分はダメなのだろう。」と、考えています。そして戦っています。「でも、私だけが悪いのではない。あの人だって悪い所がある。」「もちろん私ができなかったのは事実だけど、あの人ができていると言っても、大したことじゃない、あの程度じゃダメだ。」「あの人は、なんてみじめなんだろう。私はあの人よりはましだ。」人を攻撃したり、人を見下したりして自分を守り、持ち上げています。
しかし、自分のことをまともには見られません。逃げています。そして、責められ、弱り果てているのです。心の中に、神様以外の者との会話があるからです。それは、心のわずらいに留まらず、経済、仕事、勉強、人間関係、健康など、人生のあらゆる分野での問題の原因となっていることです。
私たちのアイデンティティ
私たちのアイデンティティ、つまり存在意義は、「神の子ども」「神のしもべ」「神の器」です。それはいずれも、父なる神様に聞いて生きる者であるということです。
私たちは、神様のくださる霊的な賜物によって神様の働きをする者、として召されています。イエス様がなさった働き、またそれ以上のことをする(ヨハネ 14:12)との約束をいただいています。この働きは、神様の語られていることを聞くことができて、はじめて、行なうことができるものです。そこで、とおり良き管、器、となるために、頑張ってきよくなろう、と私たちは考えます。自分を律し、祈り、聖書を読み、良いクリスチャンとして一生懸命生きようとします。ところが、はっきりと、み声を聞くことができるなどということは、多くの場合、起こりません。
そこで、いつの間にか、それは特別な人のこととあきらめてしまって、「神の子ども」「神のしもべ」「神の器」であるという自覚も薄れて行くことです。このような場合、どのように対処することが、必要なのでしょうか。
きよさは主からいただくこと
イエス様は、弟子たちに対し「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と言われました。弟子たちがきよくなるということは、弟子たちの努力や働きによることではなくて、主のみことばを聞くことにありました。私たちもまた、主との会話によって、きよさをいただけることを感謝します。
主との会話がないことが、私たちの人生の問題の原因であることです。そして、主との会話がないことが、きよさをいただくことができないことです。そこで、私たちのなすべきことは、努力でも、りっぱな行いでもなく、主との会話の中に生きることであるとわかります。
今主に聞いて生きているなら、問題のない人生を送ることができます。そして、それがきよさにあずかることです。であるなら、さらに主からの語りかけをいただくことができ、主の霊的な働きに用いられることです。
聞くことが働き
人を建て上げるときに「今、主は何をせよと言われているか」を聞いて、人に主のみこころを伝えることができます。主が自分を通して働いてくださるなら、人をいやすことができます。どのような働きも、今主がなさろうとしていることを知らされて、使われて行くのです。
ですから、聞けなければ、何もすることができません。自分の想像による自分の判断で、良かれと思うことをしたり、話したりすることになるだけです。たとえ良いことをすることができたとしても、単に人間としての最善をしたに過ぎません。そのようなことは、クリスチャン以外の人でもすることができることです。
私たちが、主の働きに生きるためには、毎日、毎時間、毎分、毎秒において、主との会話を続けることです。そうすることによって、きよめられ、整えられて、主の働きのために準備がなされて行くのです。
もし、日頃、主との会話がないときがあるなら、それは、神様から離れ、汚れているのだと悟ることです。それが問題の原因であるばかりでなく、主の働きからも遠く離れていることなのです。ふさわしい器となることを求める気持ちはあっても、空しいことです。「主に聞く」ことがキーポイントです。
「ヤコブの手紙 2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」
信じるということばの意味
一般的に、信じるということばは、その人がどう考えているかなど、人の感想や意見を表すことばとして使われています。しかし「神を信じる」とは、そのような程度のことではないことを、確認したいと思います。
たとえば一般的に、科学では認められていないことなどについて、あえてその存在を認める場合に「信じる」という表現を使ったりします。「幽霊がいるということを信じる」というようなときです。あるいは「霊を信じる」と言うこともあります。これらは、「自分はそう思う」と言っているのであり、「自分はその存在説に賛成である」と言っていることです。
しかし、聖書の「あなたは神様を信じますか」という問いかけは、そのようなレベルのことを言っているのではないことです。もっと多くの具体的な教えやメッセージの含まれていることです。そして、神様の存在は、より現実的なものであるのです。神様を信じるとは、聖書の言うことの全部を信じるということです。
神がおられる
まず神様を信じるとは、神様の存在を信じるということです。そして、神様はおひとりの方であって、真の神様以外は神ではないのです。他の神々を否定しなければなりません。今まで信じて来たものを捨てる必要があります。そして、間違ったものを信じて来たこと、真の神を信じてこなかったこと、を悔い改めなければなりません。
神様は創造主である
さらに、私たちが信じるおひとりの神様は、すべてのものの造り主です。天地万物宇宙が神様の御手によって造られたのだと信じなければなりません。宇宙や地球、自然やそこにある動植物もみな神様が造られました。
また、あなた自身が神様によって造られたことを知らなければなりません。人から人が生まれるというこの仕組みは、神様が造られたものです。神様は全てを支配しておられ、神様の御意志によってすべてが動かされておりますから、人と人の出会いも神様のお考えによって起こっています。
あなたのお父さんとお母さんは、神様の御意志によって、出会いました。そして、あなたは神様によって、お母さんのお腹の中で、組み立てられたわけです。神様に、いのちの息を吹き込まれて、あなたは生まれて来ました。
私たちは神様によって造られたのです。神様は私たちの父です。
私たちは罪人である
神様を信じるとは、私たちが神様に背いている罪人であることを認めることです。罪が壁となって、神様と私たちの間には交流がありません。
神様の御性質は「聖」であり、それは完全なきよさを意味します。「愛」である神様は私たちを愛しておられますが、神様の「聖」は、私たち罪ある者を受け入れることができません。罪人である私たちには神様がわかりませんし、神様との交わりもありません。
私たちは生まれながらにしての罪人であるので、必ず罪を犯します。ですから、このことを認めて、悔い改める必要があるのです。
十字架
イエス・キリストは、私たちの罪のために、身代わりとなって、十字架に死んでくださった、私たちの「救い主」です。神様は、私たちの罪を赦すために、救いの道を開いてくださいました。
神様は、私たちを罰しないで、代わりにイエス・キリストを罰してくださいました。このことを理解して、イエス様を救い主として、信じて受け入れるなら、あなたの罪は赦されるのです。
導かれて生きる
誰でも、罪が赦されたなら、その人と神様との交わりが始まります。今までは、全く神様と関係のない生き方をしていましたが、信じる者は新しくされ、神様の子どもとして生きるのです。
神様を信じるとは「今日からは神様の言われることに従って、生きて行きます」ということであり、今までの自分勝手な生き方を捨てるということを意味します。
信じていないのでは?
単に自分が知っているとか、賛成しているとかということなら、「悪霊」たちと同じレベルのことです。彼らも神様の存在を良く知っており、無視をしてはいないのです。しかし彼らは救われることはなく、むしろ神の敵であるのです。
神様を信じるとは、以上に述べたことがらの全てを知って受け入れているということに他なりません。生活のすべてに神様の存在と働きを歓迎していないなら、あるいは神様に従って生きているということでないなら、「信じている」とは言いがたいことになります。
へりくだって、「自分は神様を信じているのか」と問いかけなければなりません。神様を恐れる姿勢がないなら、いつもそう問いかけて、神様に立ち返ることが必要です。
「イザヤ 41:13 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから。」
恐れるな
神様の命令は「恐れてはいけない」です。神様は、自分に子どもがないので、将来はどうなるのかと恐れたアブラハムに対して「創世記 15:1 恐れるな。・・・あなたの受ける報いは非常に大きい。」と語られました。また、ユダの民に対して「イザヤ 41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と語られました。
外敵におびえ、苦しみにおびえ、病やわずらいを恐れている私たちに対して、神様の語られることは、常に「恐れるな」であるのです。そして、それは命令です。
あなたを取り巻く状況や、あなたの症状は、あなたを恐れさせるメッセージを発しているかも知れません。それらは「この状況を恐れよ」と命じているのです。その中で神様は「恐れるな」と命令しています。
主を恐れよ
一方、聖書は、神様を恐れることを命じています。「詩篇 33:8 全地よ。主を恐れよ。」と命令しています。聖書が教えていることは、神様を恐れること、神様以外のものを恐れないこと、です。
もし私たちが、わざわいを恐れているなら、神様の命令に背いていることになります。主は「恐れるな」と命じておられるのですから。神様の命令に背くことは、神様を恐れないことです。
たとえば、神様を恐れない民は、神様の命令に背いて、悪を平気で行なっていました。反対に、神様を恐れる人は、正しく生きようとします。決して罪を犯したくない、と思う心は神様を恐れる思いから生まれます。
神様を恐れる人は、神様の命令に忠実に従おうとします。たとえ、わざわいが恐れをもたらそうとしても、それよりも主の命令である「恐れるな」に反することを恐れるのです。従って主を恐れることと、主以外のものを恐れることとは同居することができません。言い代えれば、主を恐れるなら、他のものを恐れることはできませんし、他のものを恐れているなら、主を恐れていないのです。
恐れがあるなら
ということで、もし、私たちを何かの恐れが襲い、それがいつまでも去ることがないなら、主を恐れていない結果である、とへりくだって理解をすることが必要なことです。つまり、恐れがあることは、主を恐れていないことから生じる症状であると言えます。もし、私たちが主を恐れているなら、他の恐れに私たちが潰されることはありません。しかし、恐れに潰されそうになっているなら、その原因は、どこか主を恐れていない所がある、ということなのです。
へりくだって、自分を点検することは、恵みです。そこに解決の糸口があることを発見するからです。何度も何度も、恐れと戦っていて、繰り返しその恐れに潰されそうになっているなら、あなたのすることは「自分に主を恐れていないところはないか」と問いかけることが必要なのではないでしょうか。
恐れを克服するのでなく
「恐れるな」と言われているので、私たちは恐れをなくそうと、必死で戦うことをしがちです。しかし、戦えば戦うほど、恐れは容赦なく私たちを襲います。それで結局、その恐れから逃げ出すこと、あるいは忘れること、などの対策を取っている人も多いのです。しかし、恐れの問題は解決していません。
恐れは、主を恐れていない、という原因から生じる症状ならば、その原因をなくさなければなりません。熱が出る、という症状をいくら抑えても、また熱は出ます。その原因の風邪が治っていないからです。この場合の熱は、風邪が原因で起こる症状です。風邪を治せば熱の問題は解決します。
恐れを克服することよりも、主を恐れていないという根本的な態度を悔い改めるべきです。自分を見つめれば、驚くほどの数の、主を恐れていない考え方、行ない、というものが、あることを発見するでしょう。主を恐れる生き方が、私たちの人生の問題の、すべての解決となります。
「伝道者の書 12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
「ヘブル人への手紙 12:25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」
当然であるということ
聖書は、旧約聖書の民が、神様に背いて裁かれた事実を教えています。そして神様が、今は私たちに対して、イエス・キリストが救い主であることを信じよと語っておられるのだと言います。だから、イエス様を信じないなら、裁かれることは当然のことではないか、と説明しています。
一つの法則が事実であれば、私たちがそれに反するなら、わずらうのは当然のことである、とは誰でも理解できることです。重力の法則がありますが、これを無視して、高いところから飛び降りれば、怪我をするのは当然のことです。危険な運転をすれば、事故を起こすのは当然のことです。生活習慣を無視すれば、健康が損なわれるのは当然のことです。雨が降っているのに、傘をささなければ、濡れるのは当然のことです。
神様が存在されることが事実であるならば、さばきのあることは、当然のこと、ということになります。「ヘブル 9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」のです。
当然ではない、と考えたい
様々な法則の中で、それらを無視すれば、わずらうのは当然のことなのですが、人は、法則に背いても、影響を受けないで済む場合があるかのように、振る舞っています。たとえ法則に反しても、うまくやり抜くことができると考えているのだと思います。危険な運転をしたり、不健康な生活習慣を改めなかったり、怠け続けたり、ということの影響は、少ないと考えているかのようです。
同じように、神様の言われることを真剣に受け止めなかったり、すすんで従おうとしなかったりしていても、影響を受けないと考えているかのような振る舞いを、たくさん見ることができます。神様を恐れていない、ということです。
神様を信じてはいるのだけれど、自分なりに生きてもわずらいに遭うことはない、と考えているのでしょう。そうでありながら、わずらいの中にあって、なぜこんな目に遭うのだろう、と考えています。
本当は当然のこと、と言えることではないでしょうか。自然の法則や、社会の法則、人間関係の法則、身体の健康の法則、ひいては信仰の法則に至るまで、当然のことが起きている、と考えることが必要ではないでしょうか。
十分に納得できること
もし神様を恐れていないなら、自分が神様の恵みを手にしていなくても、当然のことです。神様は、神様のみことばに従う者を祝福すると、宣言されているのですから。
神様に明け渡していないのなら、悪魔に縛られていても当然のことです。悪魔は、神様に明け渡している者の内におられる神様を見て、逃げるのですから。
信じていないなら、神様の働きを見ることがないのも、当然のことです。神様は私たちの信仰を通して働かれるのですから。
もし自分が聖さを追い求めていないなら、神様がわからなくても当然のことです。聖くない者は神様を見ることができない、と言われているのですから。
我々の人生に起きていることは、不可解なことは一つもなく、みな原因のあることです。「箴言 26:2 逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない」のです。
当然と言えることが希望
神様がおられることが事実であると信じているなら、今の状況がたとえどのようなわずらいにあふれていても、当然であるとわかること、に希望の光が見えます。
神様を恐れていない、神様に明け渡していない、聖さを追い求めていない、なら今起きていることは当然ではないか、と悟ることができる人は幸いです。なぜなら、恐れれば良い、明け渡せば良い、聖さを追い求めれば良い、と答えがわかるからです。
もし、それらができていてなお、わずらっているならば、そこには希望はないでしょう。しかし、自分のわずらいは、神様を無視しているところから始まっているのだ、とわかれば改めることができます。すべてのわずらいは、神様が私たちに、聖さにあずからせようとして、なされていることなのです。「ヘブル 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」
「ルカの福音書 17:15-18 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。 そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』」
10人のらい病人のいやし
冒頭の聖句は「10人のらい病人のいやし」が書かれているところからの掲出です。先週の祈祷会で、メッセージをしましたが、簡単に振り返ってみたいと思います。
1人のサマリヤ人と9人のユダヤ人、あわせて10人のらい病人が一緒にいたようです。ユダヤ人はサマリヤ人を罪人として忌み嫌っていましたから、普通、サマリヤ人とは行動をともにしなかったと思われます。しかしそんな彼らがともにおりました。らい病という共通の苦しみがあり、らい病人は罪人とされていましたから、運命共同体との意識があったのでしょう。
ともかく、らい病であることは、生活が隔離される辛いことでした。人に近づくことが許されませんから、遠くからイエス様にいやしを願って叫びました。その結果「祭司に見せに行きなさい」と言われ、彼らが走る途中、全員いやされたのでした。
戻って来たサマリヤ人
いやされた内の1人は、喜んで戻って来ました。イエス様を礼拝するためでした。イエス様は他の9人のことを非難されているようですが、「祭司に見せに行きなさい」と言われ、忠実に従っているから戻って来てはいないのだ、とも取れることです。1人と9人はどこが違うのでしょうか。
イエス様は、このサマリヤ人のことを「神をあがめるために戻って来た者」と表現しておられます。律法によりますと、らい病であるかそうでないか、治ったか治っていないか、の判断は祭司がすることになっています。その判断基準が詳しく聖書に書かれています。曖昧な判断によって、らい病を見逃さないため、ということでしょう。
しかし、10人が受けたいやしは、誰が見てもわかるような完璧ないやしであったことでしょう。祭司でなくてもわかるほどのいやしのことです。旧約聖書にナアマンという人のらい病がいやされたことが書かれています。そのときのいやしは「(第2列王記 5:14)すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」と記されていますが、神様のいやしは、誰の目にも明らかであるようないやし、であることがうかがい知れます。
湧き上がる主に対する恐れ
サマリヤ人は、このいやしを実感し、とても感動したことです。人生が明るくなりました。喜びがこみ上げてきました。と同時に、このようないやしを行なわれるイエス様に、とてつもない恐れを感じたことでした。いやされる前にも、おそらく彼の心には、イエス様が主であるとの恐れがあったことでした。この完璧ないやしを与えられて、さらに、その恐れが確信的なものに変わったことでしょう。ひれ伏して礼拝せずにはいられない思いになって、戻って来たのです。
「こんな奇跡を行なわれる方は、一体どういう方なのか」「神様とは一体どういう方なのか」ということです。自分の思いをはるかに超える、神様という存在の偉大さを、改めて思い知らされたことです。
他の9人はどうでしょうか。彼らもまた、イエス様がいやす方であることを信じていました。必死になって、あわれみを求めたことでした。いやされて嬉しかったことです。嬉しくて祭司のところに向かいました。彼らにも、イエス様に対する、感謝の思いは十分にありました。後で、お礼のことばを言ったかもしれません。神様が、確かにいやされるお方であることを、感謝したことでしょう。しかし、この1人と9人の決定的な違いは「主に対する恐れ」であると思われるのです。
生まれる余裕が敵
聖書が教えていることは、神を恐れない者は、他のものを恐れるということです。人を恐れ、わざわいを恐れ、自分の将来を恐れます。
10人は、らい病という絶望的な病を恐れ、それがもたらす自分の行く末を恐れました。そして、いやされて、その恐れから完全に解放されました。いやされる前には、必死でした。もし、神様がいやしてくださるなら、他のものは何も要らないと思ったことでしょう。一生、神様に仕えて行きます、と思っていたことでしょう。
その思いは嘘ではありませんが、最大の恐れであった、らい病から解放されたときに、らい病の恐れは消え去りました。そこで、余裕が生まれたことでしょう。そして、あれほど切羽詰まって、主に必死だった思いが薄れて行くのです。「もう大丈夫だ」「もう心配ない」「こんなことになるなら、あれほど心配することはなかったのだ」という余裕です。
もし、主だけを恐れる恐れがあるなら、そこには余裕は生まれません。いやされる前も、いやされた後も、このようなことをされる偉大なる方、に目が注がれているのです。サマリヤ人は、主を恐れる思いが、呼び覚まされたか、さらに募ったか、なのです。
もし主を恐れる思いが、私たちにないならば、わざわいを恐れます。主にいやしを求め、いやされることもあるでしょう。しかし、感謝しつつも余裕が生まれて、次のわざわいを恐れることを繰り返してしまいます。 主を恐れることが人生の答えなのです。「こんな奇跡をなさる主」にいつも目を注いでまいりましょう。
「ヨハネ8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
自由がなぜ必要なのか
イエス様が「あなた方は自由になる」と伝えたときに、人々の反応は「我々は奴隷ではないから、自由だ。自由にされる必要などない」と訴えました。しかし、イエス様が言われることは、「あなた方は、罪を行なっており、罪を行なう者はその奴隷なのだ」ということです。人は、解放され自由にされる必要があるのです。
たとえば、クリスチャンならば誰でも、揺るぎなく信じたいと思っています。しかし、信じたいと思いながら、信じ切ることができない人は少なくありません。疑いや恐れの思いがあって、信じ続けることができないのです。真面目に信じたいと願いながら、です。 このことは、私たちが自由でないことを物語っています。信じたい、と願うなら、自由に信じることができること、これが本当の自由です。良い人間でありたい、と願い、自分の思ったとおりに、良い人間であり続けることができることが、本当の自由です。愛したいという願いのとおりに、愛し続けることができることが、本当の自由です。しかし、自由でないのです。
自由を与えてくださる方
私たちは、自分で自分を自由にすることが、実際にはできません。神様から、自由をいただかなければならないのです。ですが、はたして本当に自由になることができるのでしょうか。
イエス様は「もし子(イエス様)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」と言われました。イエス・キリストだけが、私たちを本当に自由にすることができるのです。
もし、イエス様を信じて、それでも自由でないとすれば、何が問題なのでしょうか。何の妨げもなく、自由に信じることができないのは、無理なことなのでしょうか。それとも私たちの側に問題があるのでしょうか。
妨げるもの
ここで、目を転じてみたいと思います。信じている(クリスチャンである)ということと、明け渡しているかどうかは、別のことだと多くの方は考えているようです。信じているけど、明け渡すには至っていない、という状況が存在するかのようです。
しかし考えてみましょう。信じるとは、イエス・キリストが救い主であって、このお方に「主導権を明け渡して生きます」という決意のことでした。明け渡したくないという思いが、少しでも残っているなら「信じる」けれど「信じたくない(=明け渡したくない)」と揺れ動く、矛盾状態であることがわかります。
「完全には明け渡したくない」ということそのものが敵であり、自由に信じることを妨げるのです。
明け渡すことなくして、始まらない
悩みはあるでしょう。「信じたいと思っているのに信じられない。」「愛したいと思っているのに、愛せない。」
しかし、明け渡していなければ当然の結果です。問題がある。うまく行っていない。煩いがある。それらは、明け渡していないなら、当然のことです。
まず、完全に明け渡すことです。それが、クリスチャンとしてのスタートです。スタートに立ってもいなくて、何を悩み、煩っていることでしょうか。完全に明け渡してもなお、悩み煩うことがあるなら、そのとき訴えれば良いことです。神様は聞いてくださいます。
まずは本当の自由を味わってまいりましょう。
「ヨハネの福音書 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
何でもほしいものを求めなさい
「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい」と主は言われました。イエス様というぶどうの木に、私たちが枝としてとどまっているなら、ということです。私たちが、イエス・キリストを主と信じ、主のみことばに従い続ける、その関係にあり続けるなら、何でもかなえられるということです。求めるものは「何でも」与えられるという約束は、他にも、それぞれ個別に8カ所にわたって、語られています。(マタイ16:19、18:18、21:22、マルコ11:24、ヨハネ11:22、ヨハネ14:13、15:16、16:23)
これが、神の子どもとされた私たちクリスチャンに与えられている約束なのです。条件は、ただイエス・キリストにつながっているということだけです。そして「何でも」ということで、求めるものについては無条件なのです。この約束のみことばを真剣に受け取らなければなりません。
自由であることが最大の望み
あなたの一番欲しいものって何でしょうか。何でもかなえられるとすると、何を求めますか。病の中にある人は、いやされることを求めるでしょう。経済に困窮している人は、お金を求めるでしょう。問題を抱えている人は、家族や人間関係の回復を求めるでしょう。イエス様は、これらのものをお与えになる救い主です。「ルカの福音書 4:18-19 わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
いのちに別状のある健康の問題がある場合は別ですが、私たちが本当にほしいものは「自由」ではないでしょうか。実際、私たちは「しいたげ」を受けています。いやしを求める信仰が必要な場合でさえ「自由」に信じられることがなければ、信じ続けることができません。すぐに、何者かに、この心が壊されてしまうことです。経済的に豊かになろうとするときでも、そのやる気を邪魔されないで、「自由」にコツコツとやり続けることが必要です。成績のあがることを望みますが、最初の志を失わないで、「自由」に、勉強に熱意を持ち続けることができれば、夢が叶うことは確かなことだとわかります。健康を維持することも同じであり、健康の最大の敵であるストレスは、私たちが平安を持ち続けることに「自由」でないことから生じるものです。
また主は、罪を行なっている者は罪の奴隷である(ヨハネ 8:34)と言われました。この罪からも、私たちは完全に「自由」にされるのです。「ヨハネ 8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
「自由」が私たちの最大の望みです。「自由」を求めるなら、私たちは「自由」に生きられるのです。「ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
なぜ信頼できない
このように「自由」に考えることができ、「自由」に愛することができ、「自由」に信じることができ、「自由」に打ち込むことができるなら、どんなにか人生は素晴らしいことでしょう。私たちは罪から離れ、豊かになり、主の働きの管として使われて行くのです。恐れ、心配、ストレスとも無縁です。
しかしながら、なぜ「自由」を与えてくださる主に、完全に自分を明け渡すことができないでいる人が、多いのでしょうか。信頼しきれない人が、いるのでしょうか。明け渡したい、信頼したい、と言いながらも、自分を残しているのです。「詩篇 55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」と言われているのに、自分で心配しないと、心配でしようがありません。また、明け渡すことで、実際は、不自由になるのではないかと、恐れています。自由に遊べない、自由に楽しめない、自由に生きられない、という具合です。
主の約束の素晴らしさを信じているのに、なぜ、完全に飛び込めないのでしょうか。
つまらないものと引き換えに
主に完全に明け渡し、完全に主のものとなり、完全に主につながる枝となることを考えるとき、あなたの心によぎるものはどのようなことでしょうか。誰でも信じる者は、主のみことばの確かなことを知っています。だから、完全に主のものとなれれば、どんなにか良い働きをし、どんなにか祝福されるだろう、とは思うのです。しかし、そう信じると同時に、手放せないものがあるのではないでしょうか。この愉しみがなくなることが惜しい。主に縛られることが窮屈だ。主に支配されることが恐い。許される範囲で、少しは罪の生活をしたい。夢を追いかけ、大金を手にしたい。世の中の成功者や自由に生きている人に魅力を感じる。などということが、自分の後ろ髪を引きます。とにかく、惜しい、もったいない、あるいは恐い、心配なのです。
しかし、冷静になって考えてみると誰にもわかることですが、これらのすべてのものは、本当はつまらないものではないでしょうか。楽しい、魅力ある、と思っていることは、本当は自分を縛るものではないでしょうか。手放したくないものが、本当に平安をもたらしているでしょうか。かえって、不安とストレスをもたらし、心が病む原因となっていることです。
恐い、心配だから、手放さないで自分を守っていることで、うまく行っているのでしょうか。全く、つまらない結果の連続ではないでしょうか。私たちが、手放せないでいるものは、なんとつまらないものでしょうか。それに気付くべきです。「自由」でないのです。
明け渡せば良いのだ
イエス・キリストは、私たちを「自由」にする救い主です。本当はわかっているのですから、完全に主のふところに飛び込んで、明け渡してみようではないですか。このお方に人生を賭けてみようではないですか。私たちのすることは、信じて一歩踏み出すことです。明け渡したら、元に戻れない、と考えるのは錯覚です。いくらでも、望めば、信仰は後退させることができます。主から離れることができます。しかし、本当に明け渡してから、そのように考える人は実際にいないのです。「自由」が本当に素晴らしいからです。悪魔の手を振り切って、意を決して、主のふところに飛び込むことです。
「ピリピ人への手紙 2:1-4 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
行いの動機
みことばは、私たちの行動が、もともと「自己中心」の動機から来るものであると警告しています。それは「虚栄」でもあり、自分を良く見せるために、見栄をはって人の評価を得ようとしていることです。人によく思われることのどこがいけないのでしょう。人によく思われない行動をとることよりはずうっとましなことだと思われるのですが。
しかし、よく考えてみるとわかるのです。「自己中心や虚栄」というものは、私たちを縛る鎖のようなものです。そのような姿勢では、実際は真実な人生を送ることができません。
本当にやりたいことを見つけて、そのひとつに情熱を傾け、人生を賭けることほど、生きがいを持てることはないでしょう。たとえば、あるひとつの職業を見つけて、自分はこのために生まれて来たのだ、と感じることができれば、人生は本当に充実することでしょう。
ところが「自己中心や虚栄」というものは、それ自体が目的であり、目標であることになります。働くことでも、勉強することでも、奉仕することでも、人との交わりでも、すべてそれは「自己中心や虚栄」を満たす手段とされて行きます。何をやっても、人からのほめことばがなければ、とてもやる気を失うことです。おそらくは長続きはしないことですし、その行動は、とても疲れることです。本当には好きではないのですが、頑張って生きていることになるからです。
縛るもの コンプレックス
また「自己中心や虚栄」は、コンプレックス(劣等感)を生み出します。自分の心は常に満たされていません。自分は何か足りない、人から十分な評価を受けることができない、情けない者だ、との感じがぬぐえません。それで、ある人の前では、認められるために必死で頑張るのです。
さらには、自分よりはできない人だ、と思う人に対しては、心ひそかに優越感を持ち、見下げていることです。表面には出しませんが、心の中では、そのように考えているのです。そして、それが人としての当たり前、だと思い込んでいます。人生は、そのようなコンプレックスを乗り越えて、成長して行く過程のことだと、勘違いしているのです。
そのような人生の流れの中で、何とかして勝利者になりたい、と考えています。「私は、努力しないあの人のような敗北者ではない」ということが、自分の支えにさえなっています。
人生を満たすもの
このような私たちに、本当の満足を得させるものは、神様から来るものです。神様が、私たちを励ましてくださいます。神様が私たちを慰めてくださいます。神様ご自身が私たちと交わりを持ってくださいます。神様とともに歩むことがなければ、私たちは満たされることはありません。キリストを離れては、何ひとつできない者だと、改めて、感じさせられます。
私たちを解放し、自由にするのは「自己中心や虚栄」の真逆の動機です。それは「神様中心」であり「へりくだる心」のことです。実際に神様が存在され、生きて働いておられる方であることを信じるなら、当然の姿勢と言えます。
たとえクリスチャンと呼ばれる人であっても、神様のおられることを本気で信じていないなら「自己中心」にならざるを得ません。そうしないと、生きられないのです。見栄を飾ることを、人生の目的にせざるを得ません。
しかし、神様が自分を愛しておられ、働いておられることを知っているなら、人生で成功する道は、誰にでもわかります。「神様中心」に「へりくだる」ことが私たちの生きがいとなります。「ヤコブ 4:6 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」からです。
自分よりもすぐれた人
神様が求めておられることは、私たちの心の「一致」です。「同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つに」することがなければ、「神様中心」「へりくだる心」で生きることはできません。私たちが解放されて、本当の自由を手にするなら、コンプレックスとは全く無縁です。
私たちの周りの人々は、神様が愛して造られた特別な人だとわかります。人とは「自分よりもすぐれた人」なのです。私たちが、そのように人のことを思えることが、自分が本当に自由にされているのだという「しるし」だとわかります。
「箴言 21:21正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。」
心の正直さ
先週のセル研修で、ジャック・ヘイフォード師による「リーダーの誠実さ」のレッスンを学びました。クリスチャンの神様との関係を保つ上で、一番重要なことですので、内容を分かち合いたいと思います。
誠実さとは、神様から語られたみことばを「実行しなければならないという願いを持つこと」だということです。私たちは、祈りによって神様から語られます。聖書を読んで神様から語られます。また礼拝や交わりの中で、語られます。その語られたこと示されたことを、実行に移すことが何よりも重要だということです。
そしてそれは、行なう能力というよりも、心の正直さにかかって来ることなのです。つまり、神様のみこころを知っていて、それをごまかしたりしないことです。本当はしてはいけないことをしているとき、私たちの心には、偽りがあります。「これくらいはしても良いのだ」「これ以外にどうしろというのか」「悪いとは知らなかった」という具合です。どれも嘘です。言い訳であることがわかります。本当は悪いと知っていて、自分に妥協しているのです。ここには「誠実さ」はありません。
「誠実さ」とは正直な思いであり、ことばであり、態度です。日頃、「正直でありさえすれば、たとえ罪を犯しても、大きくつまずくことはない」と申し上げていますが、そのことに通じることだと思います。「誠実さ」は私たちの心に「神様のみこころを実行したい」という願いを起こすからです。
神様の基準を理解する
ことの善悪は、教えられて初めて理解ができます。聖書は「ローマ 7:7 律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」と言っています。このことは、教えられて初めて、罪がわかるということです。
「正直である事が大切」ということは、神様を知らない人でも言っていることです。ですから、神様を知らなくても、誠実を志す人は、正しいことを行なって生きようとしています。
一般に人は、家庭や学校で、世の中の人間関係や本やテレビ等々で善悪を学んでいます。一応、何が正しいか知っています。「誠実さ」とはその自分が理解している善悪の基準に従って、正しいことを行なおうとすることです。
しかし、正しいと思って行なっていても、それが神様の基準では正しくないときには、神様は私たちに介入して、教えてくださるのです。レッスンでは(創世記20:1-6)のアブラハムとアビメレクの言動を示して「誠実さ」を教えていました。アブラハムは自分の身を守るために、不正直になり、「妻サラは妹だ」と偽りました。アビメレクはそれならばと、サラを妻として召そうとしました。アビメレクの理解している善悪の基準では正しいことです。そこに神様が介入して、サラはアブラハムの妻であることを教えられました。アビメレクは、事実を知って、それを教えた神様に従って、誠実な対応をしました。
もし私たちが、自分の知っている範囲で、最大限に正直であろうとし、誠実に生きようとしているなら、たとえそれが間違ったことであるとしても、神様は教えてくださるのです。たとえば、私たちが真実の生き方を求め、神を求めているなら、今まで礼拝していた偶像の神々は間違いであり、創造主こそまことの神であることを、神様は示してくださるのです。それで、すぐに正しいことを行なったので、私たちは救われました。「誠実さ」こそ何よりも大切なことです。
すでに理解している基準
一方、私たちがすでに理解していることがらにおいて、知っていながら正しくない生き方をしているとき、はどうでしょう。つまり、薄々罪だとわかっているのに、それを止めないときです。そのようなときは、神様は決して、私たちに介入して、その誤りを指摘したりはしない、ということです。すでに私たちが知っている善悪の基準によって生きれば事足りることなので、何も指摘しないで、放っておかれるのです。
「誠実さ」とは私たちの心の向きの問題であり、誤りがあるなら、自分でその向きを変えることです。神様は、最後のさばきのときまで、その指摘を行なわれることはありません。私たちは自分で正直に、正しい方へ向きを変える生き方をしなければなりません。それが「誠実さ」です。神様が私たちに求めておられるのは、私たちが知ってることがらにおいて、妥協しないで生きることです。
誠実さを失うとき
そして、その「誠実さ」が失われて行くのは、ほんの少しずつの変化によることだと教えていました。肉屋が肉のかたまりを薄く切るとき、それだけではその大きさは全く変わっていないように見えます。しかし、それを繰り返して、見た目にもわかるようになるときが来ます。それと同じように、私たちの「誠実さ」が失われて行くとき、ほんのわずかな妥協が始まりとなるのです。
そこで「誠実さ」を失わないために、正直でないことをいっさい許さない態度が必要とされます。少しだけ「誠実さ」から離れることは、次のような態度のことです。自分に言い訳をして、妥協を許すことです。先に申し上げましたが「これくらいは許される」とか「わからない」とかの態度のことです。もし、とても正直であることが難しいと感じる場面でも「自分のしていることは罪だ。私はわかっていながら、神様に逆らっているのだ」と言わなければなりません。そして、正直であれるように神様に助けを求めることです。 またいかに自分が正しいかを主張する自己正当化の態度も、偽りの態度であり、少しずつ「誠実さ」から引き離して行きます。「この場合はしようがない」「必要があって、このことをしているのだ」というようなことです。
いずれにしても、私たちが常に完全に正直であることを求め続けていかない限り、少しずつ「誠実さ」から遠ざかって行くことになります。自分で気付かなければなりません。
「誠実な心」を維持することは、私たちの自主性にかかっていることです。神様は忍耐を持って、私たちの応答を待っておられます。
「ローマ人への手紙 1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。」
どうしたら良いかわからない?
どうしたら良いかわからない、と悩むことばを良く聞きます。さて、私たちは、本当に答えがわからなくて、迷っているのでしょうか。今回はそのようなことを考えてみたいと思います。
たとえば、「そんなことはしてはいけないよ」と注意をすれば良いのか、注意しない方が良いのか、悩んでいるとします。言えば良いのだとわかっていることを、あえて、どうしたら良いかと、悩んでいるようなことです。落ち着いて真剣に検討すれば、「言った方が良いんだよな」とわかるのですが、「恐くて言えない」とか「恥ずかしくて言えない」とかが心の奥底にあるので、どちらにしたら良いかと迷っているわけです。
ここにある真実は「わからない」ではなくて「わかっている」です。
日々の生活の中で、神様が語ってくださっていることにも、「なんと言われているかわからない」と答えます。しかし本当はわかっているのです。「わたしを信じなさい」「わたしに信頼して、喜んでいなさい」「お互いに愛し合いなさい」「わたしの言うすべての命令に従いなさい」「わたしはあなたを愛している」「わたしは造り主であって、すべての者の主である」「わたしは全てを治めている」などは、クリスチャンなら誰にでもわかることです。
しかし、自分が今欲していることばではないので、自分がしたいことを他に探して求めています。それがわからないので「どう言われているかわからない」と言うのです。
「この方向に行きなさい。そして、そこにある◯色の扉を開きなさい」などと占いのようなことを言われれば「わかります」と答えるかもしれません。
ここにある真実は「今何を言われているか、わかっている」です。しかし自分の聞きたいことが聞こえてこないので「なんと言われているか、わからない」と答えていることです。
本当はわかっている
「どうしたら良いかわからない」のではなく「どうしたら良いかわかっている」というのが真実なのです。
生活の中を振り返ってみましょう。家庭の中のことでは「ちゃんと話し合うべきだ」「良く理解してあげるべきだ」とわかっています。自分のことでも「もっと祈った方が良い」「聖書を読むべきだ」「明け渡すべきだ」「罪から離れるべきだ」「礼拝を守るべきだ」とわかっています。人間関係においても「愛するべきだ」「赦してあげるべきだ」「与えるべきだ」とわかっています。
さらには「喜んでいなさいと言われている」「働くべきだ」「勉強するべきだ」とわかっています。
ではなぜ、答えがわかっていながら、どうして問題が解決していないのでしょうか。なぜ、わかっていることを行なわないのでしょうか。
私たちクリスチャンの人生の問題は、答えがわからないということではなくて、神様が示されている答えがわかっていても「それができない」ということです。また「やる気になれない」ということです。さらに大きな問題は「わかっていても、みことばに魅力を感じない」ということです。できている人は、みことばの魅力に取り付かれているのに、その人は、魅力を全く持てないでいることです。 ですから、なんと言われているかわかっていても、そんなに嬉しくはないのです。ただ、従うべきだということは、わかっていますので、律法的に従ってはいます。つまり、決まりだから守るというような動機です。そして、他のみんなも同じようだ、と考えています。信仰は努力だと感じていることでしょう。みことばに対して、魅力と親しみを抱けません。
このように、私たちの人生の問題は、わかっているけど、できない、やる気が出ない、魅力を感じない、ということです。
イエス様を離れては何もできない
本当は、どのような問題でも、今言われている神様の声を聞き、すなおに従い続けて行けば、解決されることです。
人間関係のトラブルがあれば、「今、出かけて行って、正直に話しなさい」「赦してあげなさい」「その人のありのままを理解してあげなさい」「笑顔を向けなさい」「親切なことばをかけなさい」「さばいてはいけません」・・・そのとき示されるこれらのみことばを着々と行なって行くことです。
通常、私たちは「このようなことは難しくてできない」と感じることかもしれません。「そんなことわかっているけど、やりたくない」と思うかもしれません。「そんなことをすることで、本当に素晴らしい未来が開かれて行くとは思えない」と言うかもしれません。
実際、これらのことは、イエス・キリストにつながっていなければ、できないことです。イエス様の言われた「ヨハネ 15:5 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」のみことばが本当によくわかります。勉強や経済の問題でも、「わたしに信頼しなさい」「信じるなら、どんなことでもできます」「そむきの罪を告白しない者は、成功しない」「思いわずらわないで、集中しなさい」「コツコツと勉強しなさい」「コツコツと働きなさい」・・・と言われる主のみことばを着々と行なって行くことが解決に至る道です。
このようなことを難しい、やりたくない、魅力ない、と感じてしまう私たちにはむずかしいことでしょう。「難しい、やりたくない、魅力ない」と感じるようなことを行なうことは、イエス・キリストにつながっていて、はじめてできることです。
何か大きなことをなすことではなく、本当に小さなこと、それを淡々と行動すること、それが本当に人生で重要なことだとわかります。考えてみてください。このようなことができるなら、実際に山は動くのです。不可能だと感じることがありますでしょう。やる気が出ないということがあるでしょう。いくら魅力を語られても、信じられないということがあるでしょう。しかし、このことを打ち砕いて行かなければ、人生は、切り開いて行けないのです。幸せにはなれません。
できるとは
あなたは、今まで何かを成し遂げて来たと思っているかもしれません。今も何かを成し遂げていると感じているかもしれません。しかし、それであなたは幸せになったでしょうか。誰かを幸せにできたでしょうか。できたと思っているのは、大いなる錯覚に過ぎません。本当は、もっと良くできたはずです。不可能と感じること、やる気のないこと、魅力を感じないこと、これらが砕かれて前進できて行くことが「できる」ということです。みことばに素直に完全に従おうとするなら、本当はできない者だとわかります。イエス・キリストにつながることだけが答えだとわかるのです。
「第一コリント人への手紙 4:1-4 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」
自分を放っておくことはできない
自分を放っておく、というタイトルですが、突飛な表現と感じられたかも知れません。多くの人は、自分を放っておくことなど、意識したことがないと思います。そんなことは、考えたことがない、と言われるでしょう。
なぜなら、誰でも、自分をなんとかしなくては、と考えているからです。自分のことを好きな人は、もっと自分が良くなれば良いと考えますし、自分のことを嫌いな人は、できるなら自分を変えたいと考えています。
あれこれと、自分に対して、注文を付けるのが、普通ではないでしょうか。多くの人は、自分にこだわっていますし、自分に「もっと頑張れ」「もっと良くなれ」「大丈夫だ」「できる」と語りかけています。
自分のことも人のことも放っておけない
そして、それを周りの人にも、言っているのではないでしょうか。特に親しい人、親や兄弟、特に子ども、また友だちなど、に言っています。あれこれ言っているということです。言えない立場の人にならば、声に出さないで、心の中で言っています。「ダメじゃないか」「そんなことで良いのですか」「もっとちゃんと」「こうあるべき。ああ、あるべき」。放っておけないのです。
そんな私たちでも、人のことならば、もう懲りて、放っておこうと考えることはあります。しかし、自分のことを、放っておこうと考えたことのある人、は少ないと思います。
重要なこと
神様はパウロを通して、聖書のことばによって教えています。私たちクリスチャンは「キリストのしもべ、また神の奥義の管理者」です。そして「忠実」であることが要求されています。しかしながら、確かに忠実であることが要求されることですが、それは管理者にとって、あれやこれやと人や自分に言うことが、重要なことではないということです。管理者にとっては、主である神様が重要なのだということです。
私たちの上に常に立たれている方、主が全てをさばかれるのだ、ということを理解しなければならないのです。つまり、主ご自身が、あれやこれやと言われることですから、人や自分の意見は重要なことではない、ということです。
パウロの思い
それで、パウロは、人々がパウロに対して言う、色々なことは「非常に小さなこと」と言うのです。さらに、彼は「自分で自分をさばくことさえしません」とさえ言います。自分にも、あれやこれやとは言わないということです。自分を放っておいています。
パウロ自身は、非難されることは何もないので、あれやこれやと言われることは何もない、と自負しています。自分は正しく生きている、という自信です。しかし、それだからといって(何も自分に言うことがないからといって)、自分を放っておくことができている、というのではないのです。神様の前に出れば、罪人であると判決を受ける身(「無罪」ではない)と心得ています。
自分に色々と言いたいことがあっても、あるいはパウロのように、自信があっても、誰でも神様の前に出れば、言い訳のできない罪がある者です。だから、人の判定は重要ではなく、神様のさばきが重要なのだと言うのです。
神様の言われるあれやこれやで生きる
あれやこれやと言うのは、自分ではなくて(もちろん人でもなくて)、神様です。それで、人や自分の言うあれやこれやを放っておいて、神様の言うあれやこれやで生きることが重要である、と言うのです。「管理者」は常に主人に聞かなければなりません。主に代わって、あれやこれやと言うようになってはいけないのです。
自分のことを放っておけて、自分にあれやこれやと言わない人は、主の言われるあれやこれやで生きることのできる人です。自分には変えなければいけないところがあります。しかし、するべきことは、変えようとすることではなく、今、この瞬間に、主の言われることを聞くことです。ダメな人間が、ダメなまま、主の言われることで生きること、これが救われた特権です。
自分には解決しなければならない、問題があります。しかし、それを解決することが重要なことではないのです。問題のある中で、そのまま、今、この瞬間に、主の言われることを聞くのです。これが人生の問題が解決される生き方です。
自分の内面的なことであれ、人間関係のことであれ、経済のこと、家庭のこと、健康のこと、なんであれ自分に言い聞かせることはありません。その中で、主にあれやこれや言われて生きようとすることです。
このように、自分のことを放っておける人は、人のことも放っておける人です。人に本当に必要なことは、人が自分と同じように、神様を見出すことだと知っているからです。そのために必要なことは、自分が自分のことを放っておけている、(だから恵まれている)という証しです。
「ヨブ記 42:1-6 ヨブは主に答えて言った。 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。 知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。 さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」
ヨブの主張
ヨブは、思いがけない災難に遭いました。しかし、自分がそのような目に遭うことは、全く納得のいかないことでした。神様も認めるとおり、ヨブは常に正しい生き方をして来たからでした。自分には、悪いところがないのに、なぜこのような目に遭わなければいけないのか、悩んで憤りました。
そのような中で神様は「38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と、ついにヨブに語りかけました。宇宙が、天地が、誰によってどのように造られたのか、お前に説明ができるか、その広大さを知っているのか、これが、誰によって、どのように運行されているのか説明できるか、自然現象や動植物の生態についてのこと、延々と問いかけます。
さらに「40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ」と迫ります。そこで、ヨブは「40:5 もう口答えしません」と降参するのです。それでも、神様は、ヨブに対して、人は無力で何もできない者であること、すべては神様のものであること、人は一方的に神様から恵みを受けるだけの存在であって、神様に恩を売ることなどできないことだ、なのに高ぶっていると、語り続けます。
そして、その後のヨブのことばが、冒頭の掲題聖句なのです。
罪とは造り主を認めないこと
人の罪の本質は自己中心です。自分の主張を収めません。あくまでも主張したいのです。自分の納得のいかないことは、受け入れたくありません。そこで、神様のことも、この世の成り立ちも、自分が考えたいように考えようとします。
ヨブは自分で、正しいと思う生き方をして来ました。神様のことも信じて来ました。しかしその正しさの中に罪がありました。神様が、ヨブの考えに関係なく、したいことができる方であることを受け入れなければなりませんでした。「知識もなくて、摂理をおおい隠す者」であったことを悟ったのです。つまり、本当のことは、何もわかっていないくせに、かえって自分の主張によって、摂理(神様の働き)を見せられているのに、まったく理解することができていなかったとわかったのです。
神様の存在、神様ご自身のこと、神様のなされていること、これらのことは、罪人である人には全くわかりません。なぜなら、神様がそういう在り方をされているお方だからです。「Ⅰコリント 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです」。それなのに、人は、この世の成り立ちや、人生の生き方などについて、自分なりの考えを主張しているのです。これが自己中心の罪です。その結果、私たちは生まれながらの罪人であって、私たちの性格に罪が染み込んでいるのです。
降参しなければ信じることはできない
神様は、私たちの努力や理解によっては、知ることができないお方です。これが「神の知恵」ということなのです。罪が、聖なる神様と私たちとの隔ての壁となって、人がどんなに熱心に求めても、拝んでも、神様と出会うことはありません。神様は私たちの罪の問題を取り扱われます。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださいましたが、それを、私たちは信じなければなりません。それは、私たちにある罪を悔い改めて、赦しを乞うことを意味します。造り主を認めてこなかったことを「ごめんなさい」と言わなければならないことです。それには、自分の主張を捨てて、「もう四の五の言いません。あなたの言われることを受け入れます」という降参が必要なのです。
この降参ができないことが罪の本質です。当然、罪は残り、神様とは隔たっているのですから、神様のことはわかるはずもない、ことです。しかし、一旦、降参すれば、ヨブのように「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」となるのです。
学ぶことや理解することではなく「降参すること」だけが人間にとって必要なことです。
「ローマ人への手紙 12:1-2 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
主を離れては何もできない
今年のテーマは「思いやる心」ですが、人を思いやることができるのは、自分を知っている人だけだということを申し上げて来ました。「自分は弱い」「悪い」「汚れている」「何もできない者だ」と本当に認めることなくして、人を思いやることはできません。なぜなら、そのような私たちのための解決が、イエス・キリストであるからです。
自分もそうであるように、結局、人は弱さや罪責感、無能感から必死で逃れようとしています。つまり、本当の自分を認めないで、一生懸命に、自分を応援することばを探しているのです。しかし、本当の自分を認めずして、イエス・キリストの解決を受けることができることはできないことです。
もし、私たち自身が、本当の自分をすすんで認めようとしていないなら、真実をもって、人を思いやることは不可能なことです。かわいそう、気の毒、助けたい、と思うことができたとしても、それだけです。人間的な力のない励まししか与えることはできません。しかも、たちが悪いのは、かわいそうと思えている自分が、正しく良いことをしていると、思い込んでいることです。そして、助けようとしない人を批判したり、できていない自分を裁いたりしています。
人に必要なのは、イエス・キリストであると信じなければなりません。まず、自分に必要なのは、イエス・キリストであると本当にわかっているかということです。それは、自分は何もできない者であることを本当に知っていることです。「ヨハネ 15:5わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
神のみこころのとおりに生きる
聖書は、私たちが、私たちの「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と命じます。そうすることが「霊的な礼拝」であるからということです。つまり、私たちが自分のからだを聖い供え物としてささげることが、神様との真実の交わりになるという意味です。
そして、からだをささげることとは「この世と調子を合わせ」ないことであるのですが、「いや、むしろ」この世と調子を合わせない以上のことを要求します、とさらに言っています。
「心の一新によって自分を変えなさい」ということが言われています。それは、自分自身をささげて、もはや自分の考えではなく、神様のお考えに従って生きなさいということです。「12:3 慎み深い考え方をしなさい」ということばによっても命じています。
私たちが「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ためには、私たち自身のからだが、ささげられている必要があるのです。そうでなければ、みこころのとおりには生きられません。もし、生活の中で「どうしたらよいかわからない」「みこころがわからない」「答えがわからない」ということがあるなら、その原因は、からだをささげていない、ことにあります。
すべては、明け渡してからのことだ
人生には、色々な悩みがあります。問題があります。課題があります。私たちは「どうしたらよいだろう」と悩みます。その解決を求めて、悶々とすることもあります。しかし、そのような状態になるのは、私たち自身が、主に明け渡していないから、です。
どのみち、私たちの計画ではなく、神様のご計画がなります。あれもこれも、神様のなさっておられることです。私たちは、真実、何もできない者です。私たちは「自分の願いのとおりではなく、神様のなさりたいことをなさってください」と言わなければなりません。
悩むのは、まず明け渡してからです。明け渡してもいないのに、それが原因で起こっていること、あるいはわからないでいること、なのに、悩んでいても遠回りをするだけです。
「伝道者の書 12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」のです。
「ルカの福音書 22:42 父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
どのみち主のみこころがなる
聖書は「箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」と言います。私たちは、あれこれ考え、計画を練ります。また、色々と考えて、行動します。しかし、前にも分かち合っておりますが、主のみこころだけがなっていることを知らなければなりません。
どう頑張ったところで、人は、人生に結局は影響を与えることはできていないのだ、と知ることは賢明なことです。「箴言 10:22 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」とさえ言われているのです。まことに主の主権を知れば、もっともなことだと教えられることです。
私たちが開き直ろうと、投げやりになろうと、はたまた、思いっきり張り切ろうと、主は、なさりたいことを、何者にも邪魔されないで、なされておられるお方であることです。
あなたが、このメッセージを聞き「しょせん、自分の努力は無駄だ」と投げやりになるなら、そのあなたの態度や考え方に、必要な最善を、主がなされて行きます。人が、環境が、主のみこころにそって、動かされて行くのです。
その逆も、同様です。努力して成功しても、結局、富ませてくださったのは主である、と悟らされるところに導かれます。
元気を出す人も、元気を失う人にも、主は目的を持って働かれます。いずれの人も「主の主権を認めて、主のなさることをすすんで、喜んで受け入れる者」となるように、導くことが主の目的です。主に降参して、へりくだることです。
自分の考えを捨てよ
ということで、主のみこころを歓迎しないで、自分の考えに固執することが、人間の不幸の原因であることに気づかされるのです。自分の人生を破壊しているのは、自分の考えということです。
いくら建設的であり、愛に基づく考えであっても、そこには自己中心の罪が染み込んでいるものです。認められなければ、残念に思い、人を恨みますし、批判されれば、怒り出します。うまく行けば、得意になります。人のため、社会のため、あなたのため、と言いながら、実は自分のためであることが、本音としてあります。
さらに、自分の願いには、必ず、「恐れが」付きまといます。「うまく行かなかったらどうしよう」と考えています。結局その恐れが、自分や相手を壊して行くのですが、人はそれを克服して生きようとしています。イエス様は、人として歩んでくださったがゆえに、死に対する恐れを感じてくださいました。しかし、イエス様は「恐くない。大丈夫だ」と恐れを克服してくださったのではありません。
「この杯をわたしから取りのけてください」がイエス様の願いでしたが「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。ご自分の考えを捨てて、父の「みこころ」をご自分のお考えとされたのです。そして、恐れに勝利して、立ち上がられました。
主のみこころを、自分の考えとすることが、恐れから解放される唯一の道です。不幸の原因が打ち砕かれなければなりません。
本音を捨てる
自分の考えを捨てるということは、ある人にとっては、誤解しやすいことばとなります。
やめたい仕事をやむなく続けている人は多いと思います。そんなとき、自分の考えは「この仕事を続けなければならない」だから、その考えを捨てるべきだ、みこころは仕事をやめることだ、と考えてしまうかもしれません。しかし、ここでの自分の本音は「こんな仕事、やめることができるなら、やめたい」ということとはっきりしています。本音は「できればやめたい」です。
「できればやめたい」であっても「できれば続けたい」であっても、それが「主のみこころと違うなら捨てます」ということが大切なのです。主が「やめなさい」と言われるなら、やめ、主が「続けなさい」と言われるなら、続けること、です。イエス様は、父の言われるままに、従ってくださいました。
私たちが、自分の考えを捨てて、主のみこころを自分の考えとし、みこころがなることを、望むなら、恐れは砕かれます。そして、どのみち人生は「みこころのとおりにしてください」という願いだけが、実現しているところだと知るのです。
「イザヤ 42:20 あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」
神様は語っておられる
神様は、私たちに対して、いつも語ってくださっているお方です。教会で語られる聖書のみことばや説教だけでなく、毎日のあらゆる出来事の中で、神様は啓示してくださっておられることです。それは、多くは「思い起こさせる」ということによってです。
たとえば、私たちが人に出会うとき、神様がそこで語っておられることは「これは、わたしが造ったわたしの愛する者である」です。
「これを愛しなさい」と言われているでしょう。そして「わたしがこの人を愛していることを伝えなさい」と語ってくださっておられます。
また、私たちが小さな罪を犯すとき「わたしはそれをあなたに命じてはいない」と語っておられるでしょう。「こんなことをしていてはいけないな」と私たちが思うとき、そう語ってくださっているのは神様です。
私たちが人生に迷うとき、主は「あなたの考えを捨てて、わたしに服従しなさい」と語っておられます。そして、落ち込み、恐れ、元気をなくすとき、「わたしに明け渡しなさい」「わたしに信頼しなさい」「人や周りではなく、あなたに罪がある」と語っておられます。
このような神様からの語りかけが、瞬間、瞬間において、なされています。
どうしたら良いかわからない
ですが、「ああ。私はどうしたら良いかわからない」ということばを良く聞きます。しかし、本当でしょうか。本当にどうして良いかわからないということも、あるにはありますが、多くの場合は、わかっていながら、他の答えを求めてます。
「確かに、そうすれば良いことはわかります」「聖書がそう教えていることは、わかります」と言います。「だけど、具体的にどうして良いかわからないのです」と言うのです。何か、神様が言われていることを理解する、特別な方法があるかのように、思っておられるようです。
残念ながら、それはありません。重要なことは、神様がすでに語られていることを、認め受け入れることです。つまり、聞こうとすることだけが必要なことです。「わからない」と言う人の本音は、「聞きたくない」「他のことを聞きたい」「わかりたくない」です。 私たちの問題は、まず基本的なことを、すすんで聞こうとしていないことにあるのではないでしょうか。聞こうとしない者には、みこころはわかりません。しかし、聞こうとすると「すでにわかっている聞きたくないことを、受け入れなければならない」ということではありませんでしょうか。とりあえず「わからない」と答えておく他ありません。
我々の心にある本当のこと
私たちの心にある真実とは、まず「神様がなんと言われているか、わかっている」です。そして、「わかっていても、それをやる気が起きない」です。そこで「やる気になれるもっと違ったことを聞きたい」となるのです。そうすると、そのようなことは、神様はお示しになっていないものですから、努力しても見つからないのです。ついには「わかりません」ということになります。みなさん自身やみなさんの周りにいる、落ち込んでいる人を観察してみれば、みな同じ反応をしていることがわかります。
必要なことは「わかる」ことではありません。「降参する」ことです。それができないことが、唯一最大の問題なのです。降参するなら、今、神様の語られていることが明確にわかります。
「喜んでいなさい」「神様はここにおられる」「みこころがなされている」「恐れるな」「服従しなさい」と今確かに語られているのです。
今語られているみことばの力
普通、このような語りかけを聞こうとはしません。それらに魅力がないからです。自分を納得させる魅力ある答えを求めています。降参しない限り、今語られているみことばの魅力を、味わうことがあるわけがない、ことを知りましょう。
「降参しなさい」を聞く人は、それが本当に自由を与えることばだとわかります。平安を経験し、愛にあふれるやる気を経験し、そのような心に賜物としての聖霊様が働くことを経験するのです。「人生はこのようにして生きて行けば良いのだ」とわかるのです。超自然的な生き方が本当にあるとわかるのです。
「わからない」とは決して言わず、へりくだって今語られていることをすすんで受け入れましょう。神様が存在されるお方であると本当に信じるなら、そうすべきです。
「箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」
すべての上に立たれる支配者
聖書は、神様がすべてのものの支配者であられることを教えています。神様は、全宇宙とその中に住む者すべての造り主であられ、それを支配されている方です。
天体は、神様の御意志によって運行されています。私たちの周りに日々起こること、人の言動や考え、私たちの行動や心の中に起こること、すべての上に主の権威があります。神様と無関係で起こっていることはひとつもありません。
日々色々なことが起こり、世界中で変化がありますが、神様はその上に立たれている方であり、全宇宙の支配者であられるお方です。神様の与り知らぬ所で起きていることは、ひとつもないことを知るべきです。
自分の考えが成るという錯覚
ということで、全世界において、また自分の人生において、結局は神様のお考えだけが実現しているのです。このことが信じられますでしょうか。
人には自由意志がありますから、自分が考える通りのことが起こっていると言われるかもしれません。成し遂げる意志を持って、課題に立ち向かうときに、その課題を克服できる、と一般的には考えられています。
また、消極的な考えを持って、行動するなら、必ずその結果、失敗に至ると考えます。私たちはどのような考えでも持つことができます。そして、その考えに比例するかのように、結果が起きることも事実です。
しかし、ことを起こされているのは、実際に神様なのです。神様はみこころをお持ちでありながら、それを実現できなくて、困っているお方ではないことを、知るべきです。もっと言うならば、良い考えであっても、悪い考えであっても、私たちが、それらを持つこと自体が、神様の許可がなければ、起こり得ないことなのです。
もし私たちが、神様にとって、悪い考えを持つなら、神様はそれを止めることがおできになる方です。何でもできるお方が、それを止めておられないとしたら、神様がそうしたいからに他なりません。私たちの考えが実現しているというのは錯覚で、神様のお考えが実現しているのです。
法則は神様のご意志
天体の運行は、規則的な法則によってなされています。これは神様が与えられた、天体が持つ性質です。神様のなさりたいとおりに、天体は動いています。一日があり、一年があり、その中に四季があり、天候があります。神様のなさりたいとおりに、なされています。私たちが習った、科学の法則、物理の法則もみな神様の御意志であり、それが実現されています。
また、私たち人間社会においても、法則があります。健康な生活を営むには、健康の習慣が必要です。健康になる習慣、病気になる習慣、これらを造られたのは神様であり、神様の御意志が私たちの身体に起こっています。
一方、生活の仕組みにおいては、経済の法則、人間関係の法則、政治や法律、国際関係、等の法則があり、それらは人間が作り出したものです。それでも、その仕組みを考え出し、あるいは見出す能力をお与えになったのは神様であり、神様がそれらを許し、止められないという方法で、実現しておられるのです。神様の御意志がなされています。
呼応する神様のはかりごと
私たちに自由意志が与えられていますが、神様の目的は、私たちがその自由意志をもって、神様を愛することです。自由意志があってはじめて、愛が存在します。神様を愛することもできれば、そうしないこともできる、その中で自由意志をもって、あえて神様を愛するこ
神様が起こされているすべては、神様のみこころを私たちが好んで行なうようになる所に、導くためです。強制的に、恐れで従わせることでなく、愛の行動に生きることを求めておられるということです。
あなたが怒りに身を任せれば、それなりのことが起こります。人間関係が壊れます。大きくなれば、国家間の戦争になります。あなたは、自分が招いた結果だ、と考えるかもしれません。見た目にはそうです。しかしその背後には神様のご支配があることを知るべきです。あなたが起こる結果に懲りて、また自分の考えで生きることが間違いであることを悟り、進んで人を赦し、愛する人生を送りたいと、自由意志で選ぶのを待ってくださっておられることです。 一旦そのことに気付き、神様に助けを求めるなら、イエス・キリストを通して、あなたを助けて、目的に導かれるのです。すべてに神様の御意志が実現していることです。
気落ちし、投げやりになると、生活は破綻して行きます。このことを起こされているのは神様です。あなたが自由意志で神様を心から選ぶ所に、導かれるためです。そうならなければ、そうなるまで事態が続くことです。神様のはかりごとが実現しているのです。
前向きになって、自分で頑張れば成功できるのだ、と考え行動して、豊かになります。神様はこれを許されます。人は、これを自分の積極的な考えの結果だと考えます。しかし、そうではなくて、神様のはかりごとが実現しているのです。
結局は神様のお考えだけが実現しているのだと知らなければなりません。それを知るまで、成功裏に生きても、実際は荒野を旅させられているのです。「大丈夫だ」「人より良い」「うまく行っている」と感じながら、実際の平安がないということほどみじめなことはありません。ことを実現しているのは、自分ではなくて、神様であることを気付くまで、荒野は続きます。
成功でも、失敗でも、積極的考えを持つことでも、消極的考えを持ってしまうことでも、信仰があることも、不信仰であることも、それを実現しているのは、神様です。自分ではないのです。私たちの態度に呼応して、ことが起こされるだけです。
神様はご自身の目的、私たちが自分の考えを捨てて生きること、に私たちを導くために、私たちの選択に呼応するように、細部に至る出来事まで実現しておられます。
「箴言 3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」
不幸の原因「自分の考え」
人生には、実際に苦しみが存在します。大昔から、人は、なぜ人間は苦しんで生きなければならないのか、幸せになるためには何が必要なのか、を問い続けて来ました。
一般的に、人は「自分の考え」によって、自分を縛り、恐れ、身を滅ぼして行くのだと理解されています。その通りなのですが、そこで、そうならないためには、自分の考えを建設的な方向へと変えて行くことが大切だとされます。しかし、大変な苦闘が繰り広げられて行くことになります。なかなか変わらないのです。
ことがうまく行くことを望みます。成功を考えるのです。ところが、そこには必ず、「うまくいかなかったらどうしよう」という恐れが付いて回るのです。
破壊するもの
この恐れが曲者です。これが私たちを破壊して行くのです。悩み続けて、疑心暗鬼になります。人を恐れて「うつ状態」になり、心が開けません。ささいなことばで、すぐに傷つきます。
「自分は、愛されていない、価値のない存在である」と考えてしまいます。当然、うまく行かないという事態を招いてしまいます。にもかかわらず、本人は、「うまくいかなかった」「人に恵まれなかった」と、まわりのせいであるかのように考えています。
このような人生でも、困難を切り抜いて生きている人はいます。自分の考えをふるい立たせて、積極的に考え、振る舞うことによってです。このような人を、一般的には強い人、勝者と考えます。
彼らは、とりあえずは、自分の中にある、敗北的な考え、否定的、消極的な考えを追い出し、前向きな態度を保つことができています。さらには、気を許せば、途端に敗北的な恐怖が自分を襲い、落胆や投げやりな気持ちに、陥って行く運命にあるということも、知っています。敗者であれ、勝者であれ、日々戦って生きているのです。
人生は「自分の考え」という破壊的な環境の中にあります。どうやればこれに勝てるのでしょう。
「自分の考え」を捨てる
聖書は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」と教えています。「自分の考えを捨てて、主の考えで生きよ」ということです。
そこで、何も考えない状態のことが、自分の考えを捨てることだと思っている人もいます。「心配しないように、心配しないように」、一生懸命に「心配」を捨てようとしています。この場合の問題は「一向に捨てられない」ということです。いつまでも「心配」が付きまといます。「心配」が「自分の考え」だと思うので、これを捨てることが、必要と考えています。果たしてそうなのでしょうか。 あなたは「うまく行きますように」と考えています。しかし、これは自分の考えではないでしょうか。これを捨てよ、と言われているのです。信じられますか?
私たちは、今現在、神様のお考えが実現していると信じています。クリスチャンならば、普通はそう理解しています。今起こっていることが、神様のお考えです。それに対して「うまく行きますように」という私たちの「自分の考え」があります。
では、「神様が望まれるなら、うまく行かなくても結構です」と告白することが、自分の考えを捨てることではないでしょうか。できますか?そうすれば、破壊から離れて、すこやかで、平安で、満たされ、祝福された人生を歩むことができます。
みこころと祈り
「うまく行くように」は、「うまく行かなかったら、どうしよう」が付きまといます。同じように「解決されたい」「恐れ、心配がなくなるように」「嫌われないように」「苦しみがなくなるように」「成績が上がるように」「満たされるように」「いやされるように」・・・、は「そうならなかったら、どうしよう」あるいは「そうなったらどうしよう」という恐怖が付きまとうのです。
以上はすべて、私たちの考えであり、「どうしよう」は、私たちの考えに付いて来る恐怖、であることを知ることです。「自分の考え」が無くなれば、恐怖もなくなるのです。
すでにお話ししたように、この「自分の考え」を捨てるには「うまく行かなくても構いません」「解決されなくても、なくならなくても、上がらなくても、満たされなくても、いやされなくても、構いません。神様が望まれるなら」と告白することです。ここには、神様への信頼があります。
勘違いをしないでください。私たちは、「不幸になるように」とか「救われないように」とか「いやされないように」とか「満たされないように」とかを望んでいるのではありません。
「救い、平安、いやし、満たし、解放、自由、解決、祝福・・」については、そうなるように、祈らなければなりません。神様のみこころ、すなわち神様のお考えであるからです。「自分の考え」であると思うかもしれません。しかし「自分の考え」である前に、すでに「神様の考え」であるのです。
しかし、「救い、平安、いやし、満たし、解放、自由、解決、祝福・・」を実現させるための方法(やり方)について、「神様のお考え」は、私たちの「自分の考え」とは違うのだと悟らなければなりません。「自分の考え」を捨てましょう。完全降伏が必要です。
「ネヘミヤ8:10 [別訳] 主を喜ぶことは、あなた方の力であるから。」
すべては主のご支配の中で
神様は、主権をもって働いておられます。起きている出来事は、すべて神様の御意志であるということです。
まず、この世の存在は、すべて神様の御意志によって、成り立っています。創造主である神様は、何もない所から宇宙を造られました。そして、すべては神様のご支配のもとに保たれています。
神様の与り知らぬ所で起きていることは、何ひとつありません。神様は、悪いことを止めることができますし、良いことを起こすことができます。主権とは、したいことができるという力のことです。この力には、たとえ、悪魔であっても抵抗することはできません。
なぜ悪が勝利しているの
このようにお話ししますと、「神様が悪魔の働きを止めることができるなら、なぜ、止めないのですか」、と人は言います。この世における、いっさいの悪は、神様から来ることはありません。悪は、すべて悪魔からやって来ます。神様にお考えがあり、私たちにはその理由と、善悪の判断ができないだけです。
たとえば、ハバククは、「なぜ、国内に悪や不信仰がはびこっているのを放っておかれるのですか。いつまでですか」(ハバクク書)と、信仰の熱心から、問いかけます。そのとき、神様の答えは、凶暴なカルデヤ人を起こし、ユダの不信仰な民を滅ぼす、と言われるものでした。ここで、ハバククは、「いくら私たちの民が悪いと言っても、あのカルデヤ人の方がもっと悪いではないですか。彼らを許して、私たちを滅ぼすのですか。すべては、神様が放って置かれているので、起こっているのでは」とさらに問いかけます。
神様が示されたご計画は、凶暴なカルデヤ人を使って、ユダの不信仰を砕き、その後、使われたカルデヤ人は、神様の手で滅ぼされて行く、というものでした。
これから先のことや、起きていることの理由は、私たちにはわからないけれど、正しい人は、そのような環境の中で、神様に信頼して生きて行くのだ、と教えられたことでした。
神様は善なる方です。私たちにはわからなくても、私たちにとっての最善がなされています。私たちは、神様のやり方に賛成しなければなりません。今起きていることを、主のみこころと喜び、主に感謝することが、主を讃美することです。そして、それは私たちの力なのです。
主のご支配に生きる
私たちは、神様のご支配の下に生きなければなりません。神様のご支配下、すなわちそこが天国、神の国です。この神の国にあってこそ、神様の奇跡にあずかれることです。神様のご支配に生きるとは、神様のやり方に文句を言わないことであり、神様のやり方を喜んで歓迎することです。
私たちは、悪を肯定しているのではありません。自分をのろっているのでもありません。むしろその逆です。私たちの人生は、良いことへと導かれています。悪は滅びに向かっています。それが神様のお考えであり、ご計画です。ただ、私たちには、わからないのです。ハバククにわからなかったようにです。
あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。その中を通らされて、自分が造りかえられ、神様の御旨が良くわかり、神様に対する信頼が強固な者となるのです。最善であったとわかる日が必ず来るのです。今、神様のご支配下に生きましょう。
「詩篇 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
「マタイの福音書 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちのありのまま
私たちには、問題があります。聖書は、それを「罪」と言います。私たちが、霊的に破綻していて、神様の望まれる良いことは、何ひとつできない、ということです。良いことをしたいという願いを持ちつつ、それができないということです。
たとえば、人に喜ばれる優しいことばを、かけてあげられる人でありたい、と願っています。しかしながら、相手が嫌な対応をしたり、態度が好ましくないと、途端に、良いことをしてあげたいとは思えなくなります。そして、意地悪なことを言ったり、悪い対応をしたり、してしまいます。
真面目に正しく、生きたいと願っています。年初に「今年こそは」と決意をしたり、勉強や行動の計画を立てたりします。しかし、心の中に、色々な雑念がわき、誘惑の思いがやって来て、そのやる気は続かなくなってしまいます。
自分の行動や考えは、「罪」だらけで、好ましくない、と素直になったときには考えます。今度からは、神様に従って、きよい生活をして行きたい、と悔い改めます。しかし心に余裕ができると、すぐに、「少しくらいは良いのだ」と考え、罪を犯さないで生きることに、真剣ではなくなります。
そのような自分を抱えつつ、その都度、悔い改め、考え直して、さらに良い人間になって行こう、成長していこう、としています。そして、以前に比べたら、少しは良くなっている、クリスチャンとして、大分成長した、などと考えています。
確かに、経験は積んだかもしれません。しかし、私たちの実態は、放って置けば、罪を犯してしまう人間であり、中身は結局は悪いまま、というものです。
神様の与えてくださった答え
そのような、破綻している人間に対して、神様の開いてくださった救いの道が、イエス・キリストを救い主として信じて生きることです。我々は、神様の助けなしに、生きられない存在です。しかも、神様の助けをいただく必要がありながら、神様に近づくことができない存在です。
「聖」であられる神様が、「罪人」の私たちを受け入れることができません。「聖」つまり神様の聖さは、「罪」を受け入れること、交わることが全くできないという意味です。「罪」を受け入れるならば、「聖」は壊れます。神様でなくなるということです。
そのような「罪」の解決が、イエス・キリストの十字架によってなされたのです。イエス・キリストが、私たちの「罪」そのものとなってくださって、十字架で処罰されてくださいました。誰でも、イエス・キリストを信じる者は、「罪」の処罰が済んだ、きよい者として、神様に受け入れられます。
神様は、イエス・キリストを信じる者に働いて、支配してくださることができるのです。このことを、イエス様は「もう一人の助け主が与えられる(ヨハネ 16:7)」と説明してくださいました。私たちは、神様である聖霊によって、支配されて生きる道、が与えられたのです。神様の支配、神の国に生きることが、人生の答えなのです。
ありのままの破綻した私たちが、そのまま神様にご支配されて、生きることが、私たちが幸せに、成功裏に生きる道なのです。
できない自分を、直して、あるいは成長させて、生きることが人生の答えではありません。そこには、成功はないからです。失敗しかありません。
ありのままの自分を、神様のご支配に委ねて、神様に使っていただく人生こそが、神様のみこころと私たちの思いを満足させる、生き方なのです。「直そうとするな。神様に直してもらえ」ということです。
ありのままに絶望せよ
このことは、できない自分に対して、開き直ることではありません。「できないから、良いのだ」、「できなくてどこが悪い」、「みんな、できはしないのだ」と、できなくて当然という態度で生きることではありません。できないことは、とてつもなく、辛いこととして、今まで通り感じていることが必要です。
今まではクリスチャンとして、「できていないけれど、将来はできるようになって、認められる時が来る」という希望を持って、生きて来たかもしれません。だから、現状、少し悪くても、自分をなぐさめられました。
しかし今、「あなたは、悪くて直らない(エレミヤ 17:9)」と認めよ、と言われて、「このままが、人間なんだ」と安心するかもしれません。しかし、悪いからこそ、良く生きられる道が開かれたのです。
神様のご支配に生きなければなりません。神様に明け渡し、服従する生き方でなく、努力して、良くなろうとする、生き方を、それでも知らず知らずに続けるなら、成功はないのだと知らなければなりません。つまり、神様の完全なご支配に生きなければ、また、嘆かわしい人生を送って行くことになるのだと、知ることです。
「もう二度と、自分なりに生きることはしたくない」と言わなければなりません。それは、ありのままでしかない自分を認めつつも、ありのままの自分に絶望している人だけが、言えることです。
そして、その人は、神様の完全なご支配に生きることの、恵みと平安を経験する人なのです。誰でも、神様のご支配に生きて、成功の道を歩むことができます。
「ヘブル人への手紙 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
主の経験されたこと
人として歩んでくださったイエス様の経験によって、神様は私たちの弱さを知ってくださっています。それゆえに、私たちを思いやることがおできになるのです。
主は、私たちと同じ人間として、苦しみの中を生きてくださいました。そして、罪を犯されませんでした。勝利してこの世を生きてくださったのです。
主は日々の生活の中で、次のように感じてくださったことです。
たとえば、人々の無理解や理不尽な対応の中で、「ああ。人は、人々の無神経なことばに対して、恨みを抱くようになるのだな。」
あるいは、人の攻撃的な態度の中で、「ああ。人は、このようなときに、怒りをもって対応してしまうのだな。怒り、裁くという愚かな罪の反応をするのだな。」
愛されず、無視され、軽んじられる人々の冷たい対応の中で、「ああ。人は、このような状況の中で、すねて、悪魔との会話を始めていくのだな。悪魔に心を開いていくのだな。」
ものごとがうまく行かず、失敗が続く中で、「ああ。人は、このような出来事の中で、自分を顧みることなく、神に対して憤っていくのだな。」
病や肉体の苦しみの中で、「ああ。人は、この苦しみの中で、神の支配から迷い出て、死を恐れ、必死になって、愚かなものに助けを求めていくのだな。」
自分に限界を感じ、将来に希望を持つことができない、落胆した、思いの中で、「ああ。人はこのような思いで、信仰を捨てていくのだな。見えない神を見ることができていないのだな。」
自分が自分でありたいと願いつつ、誰も自分を認めてくれない、自分も自分を評価できない、そんな満たされない思いが襲う中で、「ああ。人は、自分という存在の、その成り立ちがわからないでいるのだな。自分が造られた存在であることを受け入れていないのだな。神に降参することができないで、落ち込んでいくのだな。」
と、あなたのおかれている状況と、その中でとる、あなたの心の反応をつぶさに知っておられます。冷静になれば、恥ずかしい限りではありますが、絶望する理由、罪を犯す理由、悪しき行いを手放せない理由、赦せない理由、憤る理由、落ち込む理由、すべてを知っておられるのです。そして、実際に、それに抗って生きることができる生き方を知っておられ、助けようとしてくださっているのです。
わたしを住まわせよ
イエス・キリストは救い主であられ、私たちの内に住むことがおできなる、助け主であることを知らなければなりません。(ヨハネ14:16)
私たちの現状を理解し、思いやってくださる主は、そこから救い出してくださる救い主です。患難のある世に打ち勝つ(ヨハネ16:33)ために、主は私たちの内に来て下るのです。あなたを赦し、きよめるために、十字架で死んでくださいました。
あなたが、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じるなら、神様はあなたを赦し、きよくすることがおできになります。そして、きよくなったあなたの中に来てくださり、住むことがおできになるのです。
この世において勝利するために、すでに世に勝たれた主が、あなたに住んでくださって、主導権をとって生きてくださるのです。私たちは世に勝てるのです。つまり、無神経なことばの中で、攻撃的な態度の中で、冷たい対応の中で、失敗の中で、病の中で、落胆の中で、満たされない中で、苦しみの中で、罪の反応をしないで、平安で、喜びに満ち、やる気に満ちて、希望にあふれて、愛にあふれて、生きることができるのです。
主が支配してくださるからです。誰でも、イエス・キリストを信じて、神様のご支配の中に生きなければなりません。主は「わたしに住まわせよ」と言っておられるのです。
あなたは、イエス・キリストを救い主と信じて受け入れたでしょうか。もしまだであれば、すぐに信じて新しくされることです。新しい自分とは、自分が生きているのではなく、主が自分の内に生きてくださっているという自分、です。もはや、自分に頼ることは必要ないのです。
わたしに生きさせよ
では、すでに、信じておられるというあなたには、なんと語っておられるでしょうか。
もし、主に従う決心をしたにもかかわらず、自分中心に生きているなら、主に生きていただく決心をし直す必要があるでしょう。あなたがこの世にあって、勝利できないでいるなら、あなたが自分で生きているからに他なりません。せっかく主が内に住まわれているのにです。
勝利できない、つまりこの世でうまく生きられないときに、私たちがしがちなことは、自分で克服しようとすることです。良いことのように見えます。しかし、それは世の中の人がしている生き方です。神様を知らないところでの生き方であるのです。「しっかりしよう」とか「平気でいよう」とか「元気を出そう」とか「やる気を出そう」とか、目先の解決に必死になって、同じような対応を繰り返していないでしょうか。
私たちがすることは、小手先の対応ではなく、住んでいる所(場所)を変えることです。神様に生きていただかなければなりません。主導権を明け渡すことです。
主は「わたしに生きさせよ」「わたしに任せよ」と言われます。どこにいても、神様のご支配の下に、生きなければなりません。自分ではなく、主に生きていただくことです。(ガラテヤ 2:20)
主のご支配の中に生きるか、この世に生きるか、そのどちらでも、クリスチャンは選ぶことができます。が、主のご支配に生きることが、主を愛することであり、主を喜ばせることです。そして、私たちが幸せに生きる生き方です。
自分に死んで、主に生きていただければ、本当に、すべてに勝利できるのだ、これがイエス・キリストを信じることだ、ということをもう一度考えてみましょう。
「ヘブル人への手紙 5:2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」
あけましておめでとうございます。新しい2015年が始まりました。今年も、主の御霊とみことばに支配される祝福を味わって参りたいと思います。
思いやる心
さて本年のテーマは「思いやる心」が与えられました。主に感謝します。
イエス・キリストは人となられて、肉体を持って、この罪の誘惑のあふれる地上を歩んでくださったことです。人間としての弱さを持ちながら、罪に勝利してくださったことです。
ですから、弱さを持つ私たちのことを思いやることがおできになる方だと、聖書は言います。イエス様の思いやりの中で生かされている私たちは、主と同様に、他の人を思いやって生きることができるのです。そして、私たち自身が祝福されるためには、そうするべきです。
自分で自分をどうすることもできない
私たちは、幸せを望んでいます。そして、良い人間でありたいと願っています。そうではないと反論したい人もいるかもしれません。「別に私は、良い人間になりたいとは思っていない」。「私は私であって、自分のしたい生き方をするだけだ」。「人に迷惑をかけなければ良いではないか」。というような意見でしょう。しかし、それは、世をすねての態度であって、人や周りに絶望し、あきらめている人の態度です。
もし、人や周りの善意に期待できるなら、自分も良い人間でありたい、と思うでしょう。たとえどのような、悪人と言われる人でも(あなたがそうだと言っているのではありません)、幼少期は、おそらく、かわいい子どもであったことでしょう。素直な反応をしていましたし、人の愛情を素直に求めたことです。
人の本音は「良い人間だと思われたい」です。たとえ内側が悪くてもです。だけど、そう思って、努力したのですが、一向に変わりませんでした。変えることができません。イエス・キリストに出会って、ただ、このような自分が、主に従って生きて行くだけと悟りました。これが、このような自分の成功裏に生きる、祝福された道であると、知りました。
自分の義
私たちは、人を恨んだりします。人を恨んでいない、という人でも、自覚しないで、人を恨んでいるものです。無意識に人を批判している人がそうです。人のした行為を赦せないと思っています。
あるいは、過去にされた、人のことばや行いをいつまでも、忘れないで覚えていることが、恨んでいることです。あなたは、恨んでいない、もうなんとも思っていない、と言いますが、覚えているなら、恨んでいることなのです。少なくとも、その記憶がよみがえるときに、あなたは腹立たしい思いになるからです。愛とは、人のした悪を思わないことです。(Ⅰコリント 13:5)
「そんなことをするべきではない」とか「こうあるべきだ」とかの、あなた自身の基準が、構築され、その基準によって、人を見ることが捨てられません。聖書は、そのような基準を、「自分の義(ピリピ 3:9)」と説明しています。自分の義は砕かれなければなりません。砕かれてはじめて、思いやる心を持つことができるのです。
他の人も自分をどうすることもできない
私たちが自分のことをどうすることもできないように、人も、自分のことをどうすることもできない、弱さを抱えているのだ、と知るべきです。特に、私たちの上に立つ人たちに対しては、私たちは、理想をかざして、「こうあるべきだ」と考えがちです。しかし、その人たちもまた、弱さを抱える、生身の人間であるのです。その代表が、私たちの親でしょう。
両親のことを考えてみましょう。親の本音は何でしょうか。「良い父親でありたい」「良い夫でありたい」、「良い母親でありたい」「良い妻でありたい」ではありませんでしょうか。そのような思いを持ちながら、感情に負けて、罪に負けて、抱えている不安に負けて、あなたに理不尽な態度を取ったかも知れません。決して良いこととは言えませんが、あなたと同じ、自分をどうすることもできない人間が、しでかしたことなのです。このことは、その人自身とイエス・キリストとの関係でしか解決できないことです。
忍耐
「ヘブル 10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」と聖書は言います。私たちが、人のことを思いやり、忍耐を持って、その人の真の解決を待つ必要があるのです。
主が私たちに忍耐をしてくださった結果、私たちは救われました。人を思いやるなら、人の助けになることは、ただ一つだけだとわかります。私たちが、忍耐をもって、人の心を理解し、キリストに導くことです。
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)