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「いやし」
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)
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Last updated 2023-07-04
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「伝道者の書 12章13節 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
感謝するとき
今年の恵みを主に感謝します。この一年の締めくくりとして、このみことばをいただきました。時間は毎日同じように流れていますから、一年の間で今日だけ感謝して、終わりだということではありません。毎日、毎時間、主に感謝することが、私たちのしたいことです。
しかしながら、聖書は、私たちが主に感謝することを忘れないようにと、時の区切りをもって思い出せと、教えていることも事実です。イスラエルの社会ではそれを大切なこととして、いつまでも記憶に留めようとしてきました。たとえば、その代表的なこととして「過越の祭」が挙げられると思います。神は、民がエジプトで奴隷の苦役にあえいでいた時、そこから彼らを救い出されました。エジプトの王は、モーセによって神様の奇跡を見せられながらも、何度も、一旦は解放を認めた心を翻し、民をエジプトから出て行かせない、と頑な心を崩しませんでした。
神様が起こされた最後の奇跡は「すべての初子を打つ」というものでした。そのとき、民の各家々は、神様の命令で、鴨居にほふった羊の血を塗りました。この血のしるしがある家の初子は打たれませんでした。まさに災いが「過越」たのです。主は、このことを記念として毎年行え、と言われました。この毎年の祭り事によって世代を継がれて、神様の起こされた奇跡の恵みを確認し、主への感謝を忘れないようにしてきたのです。
今日私たちにとっては、主の御降誕であるクリスマス、主の復活であるイースターが特に記念する大きな区切りのイベントとなっています。私たちは日頃、主の私たちのための身代わりの十字架を忘れているわけではありませんが、クリスマスやイースターの日を迎えるにあたり、ますますその感謝の記憶を明確にすることができます。
ということで、今年の一年という区切りを設けることによって、日頃の感謝を再確認できることを感謝します。今年もたくさんの恵みをいただきました。
結局のところ
私たちは人生や生活においてあれこれと悩むことが多いものです。今年を振り返ると、あなたにもたくさんの悩んだことがあったことでしょう。どうしたら良いかと迷ったことがあったでしょう。そんな私たちの人生ですが、聖書はその答えとして「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ」と言います。どう悩んでもどう迷っても、答えは、するべきことは「神を恐れよ。神の命令を守れ」ということなのです。「これが人間にとってすべてである」のです。
ということで、今年最後の締めくくりとして、最適なみことばと思わされるのです。もちろん、毎日このことの結論に気がつかされて、目を覚まし、前を向かされてきました。しかし今年の終わりにあって、やはり、主を恐れることに改めて決意させられ、新年を迎えることは大いなる祝福だと思うのです。
いかがでしょうか。今年を振り返ってみましょう。悩みも迷いもありました。しかし、そこからの回復は常に「神を恐れ」ることによって始まったということを、思い起こせる人は幸いです。すべての患いや災いの原因は、「神を恐れ」ないことにあります。そのとき、結論の答えとして「神を恐れ」ることを教えられたことです。「人間にとってすべてである」とは、本当に「すべてである」のです。この結論を、いつまでも覚えていたいものです。
得意になりたがる
私たちは「私はこれだけ恵まれた」と、自分がこの一年でどれだけ多くの恵みを受けたかを感じるとき、人と比較をして「自分はできている」「『神を恐れ』ることができた」と心密かに得意になりたがる傾向を持っています。自己中心だからです。そして、逆の「あまり恵みを受けたとは思えない」という場合、自分の不甲斐なさに落ち込んでしまうのです。
ここで「恵み」について考えてみましょう。「恵み」は文字どおり、神様によることです。私たちの側に、何の要因もありません。一方的に、いただく資格のない私たちに、神様がそのあわれみのゆえに、下さるものであることを理解しなければなりません。
「私は恵まれた」というのは、「神様が恵みを与えた」ということに他ならないのです。あくまでも主語は神様であって私たちではありません。その人が恵まれているという場合、ほめられるべきは、私たちではなく、神様なのです。神様の功績です。
私たちは、すでに良い者とされ受け入れられています。救われているなら、誰一人、良いからといって誇ることはできませんし、悪いからといって嘆く必要もないのです。
ここから出発
私たちにとっては、いつも、救われてすでに良い者とされたという、今日ここからの出発なのです。誇るべきは十字架だけです。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ 6:14)」
嘆くことは、罪です。主に対する不平不満なのですから。悪い時には反省することです。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(伝道者の書 7:14)」結論に戻らなければなりません。「『神を恐れ』ていただろうか」ということです。
今年の最後というこの区切りの節目に「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と確認させられることは、なんと大きな恵みでしょうか。
「ヨハネの福音書 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、言わずと知れたイエス・キリストの誕生日です。おそらく誰もが知っていることでしょう。そして不思議なことは、さらにはほとんどの人がこのお誕生日のお祝いのムードの中に浸っていることです。みなさんが、自分と関わりあることとして、イエス・キリストの誕生を喜んでいただいているのでしょうか。クリスマスを改めて考えて見たいと思います。
神が人となってくださった
「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」のです。主がお生れくださった目的は、ひとつは神が「愛」であることを具体的に現してくださるためでした。イエス・キリストを見れば、見えない神様の全てがわかります。そして主は肉体をとって、人としてこの地上を歩んでくださいました。決して罪を犯すことなく、人としての苦しみを全て経験をしてくださいました。主はあなたの苦しみを具体的に経験し、理解してくださったお方です。あなたのことは主に全て理解されているのです。
そしてさらに、人となってくださった目的は、十字架上で死ぬためでした。その死は、あなたの身代わりです。神様は、罪あるあなたを罰することでなく、身代わりの主を罰することにより、あなたの罪の償いを果たすことをしてくださったのです。あなたが信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、罪のない者として、神様との関係が始まるのです。つまり、イエス・キリストはあなたの救い主です。
神が人となられたこと、それは乙女マリヤに聖霊によってお生まれくださったことです。罪のない者だけがあなたの身代わりとなることができます。人の中には罪のない人は一人もいません。そこで神が人となる必要がありました。あなたのために、神が人となるために生まれてくださったとき、それがクリスマスということです。
あなたのための救い主
このように、イエス・キリストはあなたのための個人的な救い主として、お生れくださいました。世界中のすべての人の救い主であるのですが、関わりとしては、あなた一人のために生まれてくださったのであることを理解しなければなりません。
「えっ。私一人のためのお誕生ってどういう意味」と思うかもしれません。神様には、「あなた一人のために」という明確な目的があります。あなたは大勢の中の一人ではなく、神様にとってはかけがえのない大切な「あなた」なのです。神様の目は常にあなたに注がれています。あなたの人生はすべて神様に知られています。神様は、あなたを失いたくないのです。滅ぼしたくないということです。そのために、罪から救い出し、自らの交わりに入れようとしてくださったのです。そのための罪の身代わりであり、そのためのお誕生なのです。ですから、クリスマスは、あなた個人との関わりの中で、神様が人として生まれてくださった時なのです。だから、あなたがこのことを喜んでお祝いすることになるのです。
お祝いの場所
お祝いは、どこでするのかということを考えて見ましょう。あなたが、イエス・キリストを主と信じることは、あなたの心に主を迎えることです。つまり、主があなたの心の中にお生まれくださることなのです。ですから、心の内でお祝いすることがなければなりません。確かに、クリスマスは大勢が集まってお祝いをすることになるのですが、それは各自の心の内でお祝いしている人が集まって、同じように喜ぶ、ということであるべきでしょう。残念なことにほとんどの人が内でお祝いしていませんし、外にあると思っています。
あなた一人のために生まれてくださったのですから、あなたの心の内にお生まれくださるためには、あなたの個人的な決断が必要となってきます。そこで、みんなから離れて決意しなければならないということになります。これは実際勇気がいることかもしれません。孤独を感じてしまうことになるからです。
しかし、考えて見てください。人は結局は一人なのだということを。一人で生まれてきて、一人で死んでいくということです。誰も連れて行くことはできません。何も持って行くことはできません。ところが、人はみんなと同じであることで安心します。「群れていて安心」という心理なのですが、そこには実際何の保証もありません。
愛する人親しい人に囲まれていても、心の中心には満たされないものがあります。「つまらない」「おもしろくない」と思っている人のなんと多いことでしょうか。人はどんなに親しくても、あなたの心に入り込むことはできないのです。外に寄り添うだけです。一つになれているわけではありません。この満たされない心の中心に救い主のお誕生を迎えることが必要です。
自分一人で決断しなければなりません。誰も知らない自分の心の中心のことなのですから。自分の心に生まれてくださることを自分一人で歓迎する決断です。そして、この歓迎できた嬉しさをお祝いするのがクリスマスです。同じ喜びを持つ兄弟姉妹が集まれることを感謝します。
新しい自分が生きる
心の内に救い主をお迎えした自分、この新しい自分こそが、新しい人生の歩みを始めるのです。「私のことをすべて理解してくださっている方が、私の内におられる」のです。「私に奇跡の力と人のすべての考えに勝る勇気を与えてくださる方が、私の内におられる」のです。
そんなあなたが外に交わりを持つのです。あなたの家庭、あなたの職場、あなたの友人関係、全てがその恩恵を受けます。あなたは周りを祝福する、役に立つ存在、として生まれ変わるのです。
「マタイの福音書 7:13-14) 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
人生にある二つの道
人生には、二つの道があると言われます。一つは「狭い門」からしかはいれない「狭い道」と、「広い門」からはいれる「広い道」があります。
たとえば、「神が何と言われているかわからない」と言う人がいます。しかし、このとき二つの道を考えれば、どちらが「狭い道」でありどちらが「広い道」かおのずとわかります。「広い道」というのは案外楽な道であるのです。しかし、本当に自分には「狭い道」「広い道」、そこに入っていける「狭い門」「広い門」が見えているのか、と考える必要がありそうです。
主は「狭い門からはいりなさい」と言われています。「狭い道」を歩んでいくことになる「狭い門」とか「広い道」を歩んでいくことになる「広い門」というのは、どのようなものなのでしょうか。考えてみましょう。
いのちに至る門
自分は、本当に「いのちに至る門」を知って「狭い道」を歩んでいるのだろうかと考えてみましょう。確かにイエス・キリストを信じて救われています。このことに疑いようがない、ということでも、今実際に「狭い道」を歩んでいると言えるのか、と考えてみることです。
「狭い道」とは何なのか。この道は一人でしか歩めないのだということです。「狭い門」から入りました。ここからはいるには一人ではダメでした。イエス・キリストと一緒でないと入れませんでした。そのあとはどうでしょう。やはり道は「狭い」のです。イエス様とだけでしか歩めない道なのです。つまり「狭い門」からはいる「狭い道」は、どこまで行ってもイエス・キリストと二人っきりでなければなりません。ところがこの「狭い門」からはいる者は少ないのです。狭いと何が都合悪いのでしょうか。
孤独を感じてしまう
実際は、主とともに歩むことは、楽しくもあり、満たされていく道なのです。「いのち」があり滅びから免れる平安の道です。癒されて、希望が溢れる人生の道です。
ところがこの門を入りこの道を歩むためには、一人でなければなりません。イエス・キリストとともにしか入れない門であり、イエス・キリストとともにしか歩めない道なのですから。この門を入りこの道を歩むためには、みんなと離れなければなりません。愛する家族も友だちもみな置いて、自分一人で決断しなければなりません。ところが、そのような決断をするとき、人は孤独感に襲われます。「自分一人だけがみんなと違う」ということです。みんなと一緒だと安心できます。それで、「狭い門」は人気がなくて人が選択したがらないということです。確かに広い門はみんなと一緒に入ることができます。みんなと一緒に歩むことができます。しかし、その道は死に至る道、滅びに至る道なのだと、主は言われているのです。
実際は、孤独を感じるどころか、満たされ、慰められて、いつも平安を感じる道なのに、人は、孤独になってしまうのではと思い込む恐怖のために、その先にある「いのち」がわかりません。
落ち着いて、信頼する
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。(イザヤ 30:15)」
ユダの民は、狭い門を選びませんでした。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」とわかることなのに、「狭い門」の救いを見出せませんでした。主とともに歩むことよりも、人間的なものにより頼むこと、人の助けを求めたのです。
そのような彼らに対して主は、あわれみを持って待っていてくださると言われるのです。立ち返るなら答えてくださると言われます。そして主とともに歩むなら、「これが道だ。これを歩め(同20)」ということばを聞かせてくださると約束されています。主とともに歩む道は、孤独などではなく、いつもみ声の指示を聞いて生きられる「いのち」の道なのです。
「マタイの福音書 7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
求めなさい
自分にしてもらいたいことを、ほかの人にしなさい、というのが神様の命令です。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ 7:7-8)」と言われました。その理由が「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ 7:11)」というものでした。天の父のみこころは、子どもである私たちに、与えたいと願っておられることです。だから「求めよ」と言われるのです。
神様のみこころは私たちが願っていることが叶えられることです。当然ながら「ほかの人」の願いが叶えらるれことも、神様が望んでおられることです。私たちも他の人の願いが叶えられるようにと望まなければなりません。だから自分が望んでいることを「ほかの人にも」してあげなさいと言われるのです。
律法であり預言者
「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」ということが、「律法であり預言者」であるというのはどんな意味でしょうか。
「律法」とは、神様の戒めであり、神様の命令のことです。「律法」はひとことで言い表すならば「愛しなさい」に要約されます。神様の切なる願いは、私たちが「互いに愛し合うこと」「愛の人になること」です。ですから、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」とは、「愛しなさい」という「律法」を守れということに他なりません。
また「預言者」とは、神様からのメッセージを語る人のことです。「自分にしてもらいたいことを、ほかの人にしなさい」というみことばが、「預言者」として働くということです。つまり、この命令が神様からのメッセージであるということになります。
このように「愛しなさい」を実行するために、いつも心がけなければならないことが「自分にしてもらいたいこと」は「ほかの人にもそのように」するということなのです。「愛しなさい」をいつも具体的に考えさせられます。
自分にしてもらいたいこと
ところで、あなたが自分にしてほしいこと、とは何でしょうか。実際に、自分が何を人に望んでいるでしょうか。具体的に考えてみましょう。
人に多くは望まないと思っている人もいると思います。期待しないのです。しかし、人が最善の対応をするなら、自分はもっとリラックスできるのにとは思うと思います。
たとえば「安心させてくれる」ということが挙げられます。「心配をかけないでくれる」ということでもあるかも知れません。とにかく、何も心をわずらわされないでくれている、言い換えれば「頼りになる」「信頼できる」ということになるでしょう。さらには「裏切らない」ということになるでしょう。期待通りに振舞ってくれて「安心」を与えてくれることです。
あるいはまた「安心させてくれる」ということが、私たち自身の事柄、状態に関してのことである場合もあります。たとえば「そうっとしておいてほしい」という思いを持つことがあるでしょう。一人で静かに考えたい、人に触れられたくない、などの思いの時に、気遣ってくれて「そうっとしておいてくれる」ことが嬉しいものです。
また、一人で考えている時には、どんどん否定的になって行くような時に、静かな励ましにより「安心させてくれる」ことばは、嬉しいものです。根拠があり期待できることは、私たちを癒して行きます。考えることを整理させ、「励ましてくれる」助けは、もとより自分が望んでいることです。
言い換えれば、「勇気を与えてくれる」ということになるでしょう。「前向きに考えさせてくれる」ということです。私たちにとっては、神様に信頼できることが、何よりも嬉しいことです。人が、私たちの心を神様に信頼できるように向けてくれるなら、こんなに嬉しいことはありません。
ほかの人にもしてあげる
このように、自分の望んでいることは、要約すれば「安心」できることです。これが「自分にしてもらいたいこと」です。ですから私たちは、ほかの人に「安心」できることをしてあげるべきです。
そして「安心させる」ことが「愛する」ことです。本当に自分が何を望んでいるか、その実態を理解しなければなりません。そうしなければ、人にしてあげることが、表面的な行動となってしまい、心の伴わないものとなってしまいます。してあげているから良い、と思っていることの何と人には伝わっていないことでしょうか。
たとえば「家族に対してしている」というのは、ただ単にするべき義務を果たしているだけに過ぎないことがあります。「家族と一緒にする」となる時、家族を「安心させる」ということにつながるでしょう。自分が望んでいる「安心したい」という思いを理解しなければなりません。そうしてはじめて「ほかの人」が「安心」できることは何かを知ることができるのです。
「マタイの福音書 8:5-13 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、 言った。『主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。』 イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』 しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。』 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。』 それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」
おことばをいただかせてください
百人隊長が、彼のしもべのいやしを求めて、イエス様のところにやって来ました。しもべが中風の病で苦しんで、家で寝ていると言うのです。主は「行って直してあげよう」と言われました。大変うれしいことばです。百人隊長は、イエス様がいやすことがおできになる方であることを信じて、御許にやって来ました。わざわざ家まで行ってくれる。そして直接祈ってくれる。願ってもないことです。
ところが、百人隊長は、この主のわざわざの申し出を断りました。「イエス様を家に迎える資格はない」と言うのです。彼は、ローマの兵隊ですから、ユダヤ人ではありません。イエス・キリストは、まずはイスラエルの救いのために来てくださいました。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません(マタイ 15:24)」と主ご自身が言われています。
それで、異邦人である彼の家に主を入れる資格はない、ということなのですが、その上で彼は「ただ、おことばをいただかせてください」と言うのです。その理由については、主も驚かれたことでした。
主のことばの権威
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」という信仰をもって、彼は主の御前に進み出ておりました。今ここで、主が命じられるいやしのことばを聞いて、それを持って帰り、病で寝ているしもべに伝えれば、しもべはいやされる、と彼は信じておりました。
彼は、主の権威についての理解を、次のように説明しております。百人隊長である彼には、部下である兵士がいます。その彼らに彼が命じますと、「行け」と言えば行くし、「来い」といえば来るというのです。隊長と兵士の関係から言えば、当たり前のことのように思いますが、彼はそこにある「権威」について正しく理解をしていました。
兵士が自分の命令に従うからといって、彼に力があるわけでもなく、人を惹きつける魅力があるからでもない、その背後にある逆らい得ない権威が、兵士を動かしているのだ、と理解していました。そこには、ローマ皇帝はいない。しかしその権威はそこにある。これが兵士を動かしているのだ、ということです。彼が命じる命令には、ローマの権威による後ろ盾があるのだということです。
それゆえに、イエス様のおことばは、たとえイエス様を離れても、「その権威は失われず、必ずしもべの病をいやします」との彼の信仰でした。確かに主は「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ 55:11)」と言われています。一旦主が語られたら、そのみことばは必ず主の言われるとおりのことを成し遂げます。「いやす」と言われれば、必ずいやされるのです。
信仰を通して
イエス様の驚きは「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」というものでした。実際、ユダヤ人たちには、イエス様の権威を信じる者が、多くはありませんでした。ましてや、離れていても、主のことばには、神のいやしの権威がある、などと信じる人はいなかったということなのでしょう。
主のみことばの権威を認める百人隊長の信仰によって、彼のしもべはいやされました。主の仰せは「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」というものでした。「すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた」のでした。彼がまだそこにいる間に、まだしもべにおことばを伝える前に、しもべは完全にいやされたのでした。
たとえ、どんなに離れていても、主が言われることは必ず成就します。しかし、それは私たちの信仰を通してです。信仰は管です。主の権威をそのまま信じる通り良き管を、主は捜しておられます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル 11:6)」
主のことばの権威をそのまま信じる者でありましょう。主は「あなたがたの信仰のとおりになれ(マタイ 9:29)」と言われるのです。
「マルコの福音書 11:22-24 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
山が動く
イエス様は、私たちに「信じるなら」山は動くと言われました。山とは、私たちにとって動かしがたいと思われる、問題や病などのことです。常識では回復など到底望めないことが、動くのだと言われたのです。信じれば、です。
私たちにとって、長年当たり前のように苦しんできていること、もはや諦めて、真剣にその癒しや解決を求めなくなっているかもしれません。決して願ってはいないということではないにしても、叶えられると信じて、真剣に求めてはいないのではないでしょうか。
しかしながらもし、私たちが、山が動くのだと信じることができていたら、もっと真剣に願うということにはならないでしょうか。本日の聖書箇所は、何度も取り上げられたところですが、「信じる」ということについて考えてみましょう。
神を信じる
イエス様が、まず最初に言われたことは「神を信じなさい」でした。「奇跡を信じなさい」でも「癒しを信じなさい」でもありません。神を信じるということが、大前提です。
「信じるなら」山は動くのですが、それを動かすのは神様です。私たちは神様を信じて、神様を信じる信仰の土台の上に、私たちの必要を願うのです。まことの神イエス・キリストを信じる信仰なしに、いくら強く願ったところで、いくら自分の言った通りになると信じたところで、その通りになることはないでしょう。
私たちの祈りによって、山は動きますが、必要なことは、祈りに働く神様の力があることを信じることです。イエス様はご自身の働きを決して奇跡とは呼びませんでした。「わざ」と呼ばれました。それはイエス様が、父の名によって行う「わざ」ということです。私たちは、山を動かす神様のおられることを、いつも信じていなければなりません。
信じ続ける
多くの人がそうですが、「祈って求めるものはすでに受けた」と信じ続けることは困難と感じています。信じていないわけではありません。信じたいし、信じているのです。しかし、すぐさま、疑いや恐れが顔を出し、しばらくその中にひたってしまいます。そして気がつき、それらを追いやるのに一生懸命です。「すでに受けた」とはなっていないのです。
祈りがすぐに聞かれる場合もあれば、時間のかかる場合もあります。すぐに聞かれなくても、信じ続けることが必要です。そのためには、必要があれば、何度でも祈って平安を得ることが大切です。1日のすべての時間が、イエス・キリストに信頼し続けることでありたいものです。
イエスについて行く
私たちが信じている神様への確信は、次のみことばで表されるものです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(Ⅰヨハネ5:14)」
「願いを聞いてくださる」のが、私たちが信じている神様なのです。それがわかっていますから「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです(Ⅰヨハネ5:15)」。
私たちは、私たちの願いを聞いてくださるイエス・キリストとともに生きています。このことを信じなければなりません。イエス・キリストについて行くのです。弟子たちがそうであったように。
主を忘れたり、まるで主がいないかのように恐れたり、主の約束を疑ったり、など様々な不信仰で主の働きを妨げていませんでしょうか。このことが「すでに受けた」を壊しているのです。
「願いを聞いてくださる」神様、イエス・キリストにどこまでもついて行きます。
「詩篇 107:10-11 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。」
どうしてよいかわからない
人は「どうしてよいかわからない」と訴えることがよくあります。ある人は「本当に私はわからないので悩んでいるのだ」と言っています。「自分のしたいことがわからない」と言う人もいます。
今回は「人はなぜ悩むのか」について考えてみたいと思います。実際のところどうでしょう。「もし、自分が何も悩まないで生きられれば、もっと生活は充実し、もっと多くのことを成し遂げられるのに」と思ったことはないでしょうか。
「私は悩んでいる。どうしたら良いかわからない。どうしたら良いかわかりさえすれば、自分は、するべきことをはたしていけるのになあ」と考えている人もいます。でも本当にそうなのでしょうか。私たちは答えがわからないので、必要な正しいことをすることができていないのでしょうか。答えを見つければ、解決できるというのでしょうか。
本当は答えを知っている
本当は答えを知っているのです。あまりに乱暴な言い方かもしれませんが、人は多くの問題においては、その答えを知っています。しかし、その答えは実際は本人にとって「知りたくない答え」なのです。なぜなら、知ってしまえば、それを実行しなければならないからです。「実行したくない」という類の答えなので、あえて知りたくはないことなのです。
たとえば「なぜ、自分はやる気が出ないのだろう」と考えているとします。「どこがいけないのだろう」と考えるわけです。いろいろな方法を試してみます。本を読んだりして、勉強もしてみます。でも、やる気が出るわけではありません。「いつもと同じように、気分がすぐれない」いう言い方があっているかもしれません。とにかく答えは見つからないのです。
でも、落ち着いて、自分の求めていることを考えてみますと、「やる気を出してこのことをしたい」という願いです。そこで、まず最初に、「本当にこのことをしたいのですか」と問われなければなりません。ここでは「イエス」か「ノー」かの二つに一つの答えです。どちらでも構いません。ただ「ノー」ならばつまり「やる気なんか出したくない」と言っていることです。「やる気なんか出したくない」と望んでいることなのに、自分を偽って「やる気を出したい」と願うことは単なる格好つけたポーズに過ぎません。悩むこと自体を放棄しましょう。
答えを実行する
もし「イエス」と答えるならば「やる気を出したい」という願いは具体的には、どうしたいということなのか、考えてみましょう。「明るく振る舞い、社交的になりたい」ということなのでしょうか。「人を愛し、人に気楽にことばをかけ、人から慕われたい」ということなのでしょうか。「障害を物ともせず、電話でも直接でも積極的にアプローチしたい」ということなのでしょうか。いずれでも、その答えは簡単です。今すぐそのことをすれば良いのです。「悩んでいるのではなく、実行しなさい」です。
「簡単に言うな。それが難しいのだ」とおっしゃるかもしれません。そうですね。おそらく、実行しようとしたら、あなたの心の中には、大きな抵抗が生じることでしょう。そして、辛く苦しい思いをするはずです。しかし、このことが大切です。「これをやれば良いのだ」ということを真剣にやろうとして、できなくて辛い思いをするとき、あなたは「なぜ私にはこれができないのだろう」と悩むことになります。そんなことは今まで真剣に考えたことはなかったでしょう。「できない」くらいのことはわかっていました。しかし、自分自身に立ちはだかる真実の問題として、悩んだことはなかったのです。
必要なことは「やる気がなぜでないか」などではなく「このやれば良いとわかっている、具体的な小さな行動を、なぜ私にはできないのだろう」ということです。答えを実行しようとして、初めて気がつく真実の問題なのです。
へりくだって一歩踏み出す
実際にはこのような、今すぐやるという、小さな具体的な行動が答えなのですが、気に入らないので別の答えを探していたのです。そこで「どうしたらよいかわかりません」とか「わかったら、ちゃんとやれて、うまく行くのに」と思って来たのです。
私たちが今すぐやるという具体的な行動をやろうとするためには、実際には神様の助けがなければできないことだということに気がつきます。へりくだって降参して、神様の助けを求めなければなりません。
さあ、思い切ってやれば良いとわかっていることを実行してみましょう。一歩踏み出すことです。
実際には、意外とできてしまう事柄が多くあることも発見します。笑顔で生活することや快活に振る舞うことは、その都度その気になればできることです。「自分から進んで、人に謝り、和解をする」ということや「見込み客発見のために、積極的に自分から働きかけて行く」ことは、できないかもしれません。それで泣きながら、主に依り頼むということが、必要となります。
動かない自分を、今動かそうとするときに、生じる苦しみこそが、本当に取り組み悩むべき事柄なのです。
「マタイの福音書 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」
空の鳥 野の花を見よ
主は私たちにどのようにして生きるべきかを教えられました。そのために、空の鳥、野の花を模範とせよと言われたのです。空の鳥は今日という日を精一杯生きています。毎日、起きてすぐさま餌を探します。地面などの虫を好む鳥がいます。木の実を食べる鳥がいます。餌はいずれも、毎日探しに行かなければなりませんが、必ず調達することができます。自然には餌となるものが十分に用意されているからです。
鳥たちは、心配をしていません。夜が明ければ、一日に必要な活動を開始するだけです。明日のことを考えることもありませんし、今日の活動を尻込みすることもありません。とにかく、素速く動き回るのです。彼らの体は、空を飛び回ることができるように軽く造られています。体を重くしないように、食べ物は少量を何度も食べます。体の中に長くとどめないように、すぐに排泄します。羽毛は、沢山ありますが、一つ一つをうまくコントロールして、空を飛びます。寒さや水を防ぐ構造になっています。その仕組みはとても丈夫で、その上とても綺麗です。
これらの仕組みは神から与えられているのです。そして、餌や住まいの材料は、備えられているのです。つまり、神が彼らを養っておられるのです。
そこで「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と主は言われるのです。人もまた神によって造られたもので、生きる仕組みを与えられ、生きるために必要なものは全て備えられているのだと、主は言われるのです。そのことを悟るために、鳥を模範として見よ、と言われているのです。
野の花も同じです。彼らは、芽を出し成長し、置かれた場所で精一杯咲くだけです。水や栄養や光を必要としますが、心配などしません。今ある与えられている分だけで、不足を唱えないで、十分に生きているのです。もっと大きくとかもっときれいにとか、わずらうことはないのです。それでも人を楽しませるほどに、きれいに着飾っているのです。
神を見ることはできません。しかし、神の働きは見ることができます。空の鳥に、野の花に、神の創造のみわざと彼らに対する御意志が現れているのです。最高の生き方をすることができる仕組みと、必要な要素のために、自然の変化や収穫を備えられていることです。神の御意志は、鳥をそして花を豊かに養うことです。その御意志が(しかもそれ以上に)人間に向けられているのは当然のことではないかというのです。
私たちはどうなのか
私たちが当たり前のように心配をしている事柄について、主は指摘をされました。私たちは生活のことで、いつも大なり小なり心配をしているものです。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などの心配の経験は心当たりのあることです。いつも生活の中にわずらいがあるというのが、私たちの現実です。この当たり前にしていることが「おかしい」と考えるべきであると言われているのです。食べ物や着るものはわずらいの小さなものかもしれません。しかし、このわずらいの積み重ねで人生ができていることを知る時、全く的外れな生き方であることを悟らされるのです。今日を最高に充実させて生きることができません。人との競争や比較が、大きな問題となります。
「世界に一つだけの花」という歌が以前にヒット曲となりました。おそらくその歌詞が人々の心を打ったのだと思います。店先に並んだ花を見て、その花のどれもがとてもきれいだと改めて感じたという内容です。そして「花はどれが一番だなんて争いもしないで、自分自身を誇らしげに咲いている。そうだ。人間も花と一緒ではないか。だのに、なぜ人は一番になりたがるのだろう。ひとりひとり、自分自身を生きればいいことではないか」という内容です。多くの人が、自分自身の考え方の愚かさに気付かされたのでしょう。
人は心配に心配を重ねて生きています。「何を食べようか」という基本的な生存の欲求が満たされないからと、心配しています。しかし、主は心配するなと言われます。十分に食べ物があり、この心配が満たされても、次には、人よりも豊かでないことに劣等感を感じる、ということが続いて行くのです。心配は満たされてもとどまるところを知りません。人はまるで、心配できる事柄を探しているかのようで、「心配をしていないと心配」のようです。
我々のなすべき生活
全ての心配は、「何を食べようか」「何を飲もうか」という基本的な欲求で心配をすることから始まっています。そこにまず解決をいただかなければなりません。私たちは神様に養われているのです。「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。(マタイ 6:32)」と主は言われます。神が私たちに必要なものをみな知っておられるとすれば、私たちが何を心配することがありましょうか。心配は、全てこのことを知らないから起きていることに他なりません。
私たちがするべき生活は、思いわずらいのない生活です。まずは、知るべきです。「私は神に造られた。私は神に養われている。神は、私の必要をみなご存知である。」と。心配は神のしてくださることです。私たちがする必要のないことです。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇 55:22)」
「マタイの福音書 6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」
深く穴を掘る
いきなり唐突なことばで申し訳ないことです。深く穴を掘るとは、地面に穴を掘る作業のことです。例えば子どもの頃、砂場で深く穴を掘ってみたことはあると思います。その穴掘りに例えて、ビジネスの世界などでは仕事のやり方を説明したりします。
大きな穴を掘るには大きな労力と長い時間がかかります。そのような作業に着手しますと、なかなかはかどらないことから、本当に進んでいるのか、果たしてこれで良いのかなどと考え、結局はヤル気を失ってしまうようなことになって行きがちなのです。
例えば、何か新しい商売を始めるとき、一般的には、成果を得ようとするあまり、この方法あの方法と色々なやり方を取り入れようとしたりします。また顧客を広く獲得するために、商品の種類を増やしたり、客層を広げたりを考えようとするものです。これらのことが、なるべく大きな穴を掘れるようにしたい、という思いのことなのです。しかし、物事をうまく行かせたい(大きな穴を掘りたい)と思うなら、本当に大切なことは、深く穴を掘るという意識なのだということを説いています。
深く掘れば大きくなる
例え小さな穴を掘り始めても、それを進めて行きますと、その直径は自然と大きくなります。おそらくそれは砂場の作業で経験済みです。深く掘れば小さいままではいられないということです。入り口のところが崩れて広がってしまうのです。
ビジネスでも、どのような活動でも、一点に集中して深掘りをすることが大切なのです。何か一つにこだわって続けて行きますと、その周辺が広がっていくということです。商売であれば、関連商品が増えたり、新しい顧客が増えたり、ということが自動的に起り出すのだということです。
一点に集中して、穴掘り作業をやり続けることが大切なのですが、これには勇気が必要です。広く大きな穴掘り作業であれば、広く認知されることで、人々の賛同を得やすいことです。「頑張っていますね」とか「よくやっています」とかの反応を得やすいのです。ところが、細く深い穴掘り作業となると、あなたの信じたこだわりを、人には理解されないかもしれない、そのことをただひたすらやり続けることになるからです。しかしこのような一点に集中して物事をやり続けることが、実際には大きな成果を生み出すことになるのです。
隠れたところで見ておられる神様
聖書は、私たちが人に見られる生活ではなく、神様に見られる生活をしなさい、とすすめています。その理由は、報いを人からではなく、神様から受けるためであるというのです。もし、人に見られて、人から褒められたり感謝されたりするなら、それは人からの報いです。しかしそうなると、神様からの報いはもう受けられないのだということです。そこで、神様からの報いを受けるためには、ただ人には知られないで、善行などをすることであると教えています。
人には知られていないが、神様には知られているということを、意識して生きるなら、私たちの生活は全く変わるでしょう。それは、人には全く知られないが、神様にだけ知られているという生活です。人に知られたい、人からの報いを受けたいと願っている私たちが、ただひたすら神様にだけ知られ神様からの報いを期待して生活し続けることは、細く深い穴を掘り続ける作業のようではありませんでしょうか。
あなたを支えているのは、人ではなく神様です。ただ一つのこと、隠れたところで見ておられる神様に見ていただくこと、このことに集中して生きることです。誰もわかってくれてはいません。もっと人がわかってくれて賛成してくれる一般受けすることをした方が良いのではないか、と心が揺れるかもしれません。しかしその中で、ひたすら神様にだけ見ていただく生活をすることです。ただひたすら深くということになります。
それが、結果的には、大きな穴という成果になるのです。神様からの報いです。
父からの報いを受けられた主
イエス・キリストは人には理解されませんでした。主の目的はただ一つ、私たちのための十字架の贖いでした。ただひたすら十字架に向かわれた主は、お一人で黙々と父のご計画に従って行かれたのです。その結果、多くの人を勝ち取るという父からの報いを受けられました。
細くただ深い穴という十字架のみわざでしたが、その穴は小さなままではいませんでした。やがて弟子たちを引きずり込み、多くのその後に続く弟子が、私たちを含めて、起こされてきたことです。「主の歩まれた道を私も歩みたい」との賛同者が生み出されてきたことです。
あなたがただひたすら、隠れたところで見ておられる父に見ていただく生き方を貫くなら、それはまるで一人で深い穴を掘る作業のように勇気のいることですが、大きな成果を生み出すことになるのです。必ず、あなたに賛同する人が生み出されます。
「詩篇 43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」
絶望寸前
この詩篇の作者の心情は、絶望寸前ともいうべき状況でした。少なくとも本人はそのような思いで苦しんでいたようです。そんな思いが伝わって来ます。
何千年も前の人の思いですが、おそらくは当時の人々の思いを代表していることかと思います。現在の我々も同じような思いにかられることを考えますと、いつも人の苦しみは同じようであり、思い乱れて悩むことは人生の常なのかと改めて考えさせられます。
絶望してしまいそうな自分に対して、詩篇の作者は言い聞かせているのです。「なぜお前は、絶望しているのか。神を信じているのではないか。それなのになぜ、思い乱れているのか。全能の神の面前なのだ。主がお前に良くしてくださらないはずはないではないか。それなのになぜ思い乱れる必要があるのか。おかしいではないか。神はいないというのか。神は助けてくれないというのか。神はお前の味方ではないというのか。」などのことばを自分自身に言い聞かせているのです。
主を喜ぶことが力である
聖書は「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。(ネヘミヤ 8:10 2017版)」と教えています。つまりは、すべての状況の中にあって、神様に信頼することが、私たちに力を与えることである、ということです。主に信頼する人ならば、当然今を喜んでいることだからです。
だから「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ 5:16-18)」と、明快に命令を与えてもいます。イエス・キリストを信じる私たちに対して、神様の切なる願いは、わたしたちが「いつも喜んでいる」ということなのです。つまり神様は「心配などしないで、わたしに信頼しなさい」と言っておられることなのです。
ここで、問われていることは「信頼することができるのかどうか」ということです。
信頼できなかった民
昔、イスラエルの民は、エジプトで奴隷の苦役に苦しんでいました。彼らは「助けてください」と神様に叫び求めました。そんな彼らの声を神様は聞いてくださり、彼らを奴隷から救い出し、約束の地へと導かれました。モーセに先導されて、エジプトを脱出し、約束の地を目指して、荒野を旅する生活が始まりました。長くても3週間もあれば目的地に着ける旅程であったようです。
しかし、民としては、全く神様に信頼することができませんでした。それは、始まった荒野の旅において、まったく良いと思われることが起きていなかったからです。食べるものがない。飲み水がない。生活の物資がとにかくないのです。しかも周りは敵だらけで、いつ襲われるかわからない危険が満ちています。明日の命はわからない状況なのです。しかも、約束の地なんかあるかどうかもわからない、という中で民は主に信頼するどころか、逆に怒って神様に食ってかかるという有様だったのです。「神はこんなところに私たちを連れ出して、死なせようとするのか。こんなことなら、エジプトの奴隷の方が良かった。ああ、なつかしい。」とさえ思うようになったのでした。
神様は彼らから不信仰を取り除き、主に信頼することを教えるために、忍耐をもって不平不満の塊のような彼らを導かれました。そのために、約束の地にストレートにたどり着くのではなく、荒野の旅の中で悟らせるという方法を取られました。その結果、民は40年もの長きにわたって旅をしなければならないことになったのでした。
恵みの途上の兆候
荒野の旅は神様の確かな約束と導きによるものでしたが、人の目には全く、良いことに向かっているという兆候は見えませんでした。生活の物資がない。危険がいっぱいである。将来はどうなるのかわからない。そんな不安材料がいくつもある生活でした。しかし、そんな状況でも、確かにわかることはありました。神様が奇跡をもって、エジプトから救い出されたこと。また、神様が彼らを約束の地に必ず連れて行くと言われたこと。これらのことは、彼らにもわかってはいることでした。しかし、現状を見るとき、その不安材料は神様に信頼することを吹き飛ばしてしまいました。信頼するどころじゃなかったのです。
神様の言われていることはこうです。「この荒野の旅が、祝福された生活の途上であると信頼せよ」ということです。信頼しているなら、当然その生活を夢見、今喜んでいるということになるわけです。本当は荒野は彼らにとって喜ぶ旅であったのです。
今日、私たちも同じように祝福の途上にあるものです。確かにあの罪の奴隷の生活から救われました。私たちの叫びに主は答えてくださったのです。そして、今までとは違って、主が共におられる人生の旅に出発しました。確実に祝福へと導かれているその途上にあるのが、今の新しい歩なのです。
見える吉兆はないかもしれません。しかし、主の言われることは、私たちが吉兆を喜ぶことではなく「主を喜ぶことをせよ」ということです。もし私たちが、同じところをぐるぐる回っているかのような人生を送っているなら「ここから抜け出られないでいるのは、主に信頼することを忘れているからではないか」とへりくだる必要がないでしょうか。
良い兆しを探し回って、見つけては喜んでいるのではなくて、今このところで主を喜ぶことが力なのだと覚えることです。冒頭の詩篇の作者の告白は「 私はなおも神をほめたたえる」です。「なおも」というのは「それでも」という意味です。絶望しそうになり、思い乱れる状況、良い兆しは感じられない、「それでもなお私は神を喜ぶのだ」と主に信頼することを告白しているのです。
「マタイの福音書 6:10 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
自分の生活の中に
主は私たちに対して「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈りなさいと教えておられます。文字どおり、天国で神様のみこころがなされているように、この地でも神様のみこころがなされますように、という祈りです。つまり、私たちが「みこころが行われること」を願うこと、が求められているのです。
私たちがそのようにみこころが行われることを願うなら、私たちの願いと私たちの行動とが一致しているか、が問われることになります。そうしてみますと、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」という祈りは「まず私たちの自分の生活の中に、みこころが行われますように」という切なる願いのことだとわかります。いかがでしょうか。あなたは、何よりも自分の生活の中に主のみこころがなされますようにと、願うでしょうか。
普段の生活の中にこそ
「救い」とは、私たちが神様から離れた世界で生活しているところから、救い出されて神様の御支配に置かれることです。誰でも、イエス・キリストを救い主として信じて救われます。この世の支配から救い出されて、神様の子どもとして生かされるのです。
その救いが、実際の生活の中で、微に入り細に入り、導かれてなければ、救いは虚しいこととなってしまいます。つまり日々実生活の中で、具体的に主に導かれて生きていなければ嬉しくないことです。
私たちは多くのとき、自分の慣れたこと、得意なこと、いつものことについては自分なりにどんどん推し進めていくことをしてしまいがちです。そして、ついには疲れ果て、あるいは問題に突き当たり、そこで主の助けを求めるということをしています。また、それが当たり前であるかのように考えているのです。しかし、日常の自分でできる当たり前の生活の中にこそ、主の導きが必要です。「ここに主のみこころがなされますように」と願って生活していなければなりません。
たとえば、毎日の生活習慣はどうでしょう。多くの人の悩みは、規則正しい生活をしたいのに、難しい、すぐに乱れてしまう、と感じていることです。毎日の人との関係はどうでしょう。知らず知らずのうちに、感情が害されるようなことや、人の感情を害してしまうことが、起きたりしませんでしょうか。毎日あらゆる場面に「みこころが行われますように」と祈る必要があるのです。
祈りがなければ抽象的に
もし「みこころが行われますように」と願っていても、実際に祈りがなければ、私たちの生活の中にみこころが行われるということが具体的にはなりません。神様を信じている私たちが、みこころが行われることについては、誰しもが賛成することでしょう。しかし、それは漠然と願っていることではないでしょうか。私たちが日常の生活の場面で「ここに主の御心が行われますように」と祈ることがなければ、その場に主のみこころがなされることを、本当には願っていないと思います。
私たちに必要なのは、みこころを問う生活です。例えば、会社で会議に参加しているとします。あなたはそこでは、他の参加者と同様に、議事の進行についてのことを考えていると思います。しかし、そこに必要なのは主のみこころが行われることです。そこで、心の中で「主のみこころが行われますように」と祈る必要があるのです。この祈りがなければ、みこころを求めることが忘れられてしまいます。みこころが行われることに反対だ、とは思っていないでしょう。しかし、日頃祈ることがなければ、願うことが具体的にはなって行きにくいのです。
生活のあらゆる場面に、みこころがなされることが必要です。一人でいるときに「みこころが行われるますように」と小さく祈る習慣を持ちましょう。家族と一緒にいるとき、友達と一緒にいるとき、働いているとき、勉強しているとき、「みこころが行われるますように」と祈るのです。小さくつぶやくように祈る、と言った方が適切かもしれません。それで私たちの生活は、みこころに沿うように変わっていくでしょう。したいようにして疲れ果てること、困ることが少なくなると思うのです。
流れに逆らって
私たちが生活の中で、みこころを問う生活をして行こうとするなら、私たちは今までの流れに逆らって立つことになります。今まではその流れに流されていたのではないでしょうか。社会には流れがあります。人々の生活には流れがあります。また、自分の生活にも流れがあります。いわゆる、ひとりでに進んでいく傾向のことです。
しかし、この流れに逆らって、主のみこころが行われることを願うのです。そのとき、私たちは流れに逆らってそこに立とうとしているわけです。そうして初めて、私たちの普段の生活の中に主のみこころがなされるのを見るようになるのです。
想像してみてください。自分が関わるすべての時間の中に、すべての営みの中に、主のみこころがなされて行くことを。みこころを願う自分が、みこころを求めて生活している様を。今までとは違う生活がそこにあります。
「ローマ人への手紙 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」
他債務超過
聖書は「自分の給料で満足しなさい。(ルカ 3:14)」と、私たちが自分の収入の範囲で満足して生活するようにと教えています。経済的な不足は、私たちの生活に不満をもたらすものです。私たちの心の中には、どうしても欲しい、これがなければ幸せになれない、などの思いが渦巻いていて、収入の十分でない自分の人生に満足できないでいます。経済的に豊かになりたいと願うことは、許されますし、成長や好転を目指して日々の地道な努力を積み重ねることは、充実した人生を送るためには必要なことです。
しかし、今の状態に我慢できないという弱さがあることで、ついつい問題を起してしまいがちです。経済的な不足に対する不満によって、犯罪に走る人もいます。犯罪に走るほどではなくとも、 多くが陥ることは借金をすることではないでしょうか。多額多岐にわたって借金を重ねれば、さらに深刻で多重債務と呼ばれます。
そんな私たちに対して、聖書は「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と命じています。債務超過に陥っている私たちに対しての答えは、イエス・キリストを信じて新しく生きることです。そして、コツコツと正しい生き方を重ね直すこと、新しくやり直すことが、債務超過に対する処方であることを学ばねばなりません。
多重債務は自分には無縁であると思っている方も多いと思いますが、債務は経済的なことだけではないのだということを、考えてみましょう。
睡眠負債
最近、健康面からの警告として、睡眠負債ということが叫ばれています。毎日の睡眠が足りていないということです。一日一日はたとえ朝眠いと思っても、元気に活動ができています。特に調子が優れないという症状は表れませんからあまり問題にはしません。しかし、体は毎日少しずつダメージを受けているそうです。
人間が眠るということは、その間に体を休ませる状態に置くということです。呼吸も静かになり、回数も少し減ります。活動していた血液の流れが穏やかになります。血圧が下がって静かに血液が流れています。心臓の負担が軽くなり、筋肉や臓器も休むことができます。体の中の老廃物を廃棄する働きがスムーズになされて行きます。激しい流れや高い圧力によって傷ついた血管壁などが修復されて行きます。
ところが睡眠が十分でないと、この休息、修復が十分になされません。本来回復できているはずのことがなされないのです。ある医師は「人は血管とともに老いる」と言っておりまして、若さとは血管が若いかどうかだと言っています。無駄な睡眠も問題ですが、知らず知らずのうちに睡眠負債に陥っていることはないか、と気遣うことが必要です。
「私はどこででも、少しの間でも、すぐ眠ることができる」と言っている人は案外睡眠負債に陥っていることが多いそうです。教会でも、「ああこの人は睡眠が足りていないのだな」と思われる人が見受けられることです。「今負債を返しているのですね」と、幾らかでも睡眠負債の解消に役立っていることを感謝はしますが、根本的な解決は毎日の負債を重ねないことです。無駄なことに使っている時間を捨てて、早く寝て十分な睡眠をとって朝を迎え、早天で祈るという健康的な生活を始めてはいかがでしょうか。
愛されるという負債
イエス様は「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ 13:34)」と言われました。聖書の命令は「互いに愛し合いなさい」ということです。私たちが人を愛するなら、それは神様の「律法を完全に守っている」ことになります。聖書の教えは「受けるよりも与えるほうが幸いである。(使徒 20:35)」ということなのです。
一方、聖書は決して「愛されなさい」とは命じてはいません。私たちのすることは、愛することであって愛されることではないのです。愛することは与えることであり、愛されることは受けることです。もし愛することよりも愛されることの方が多ければ、私たちは「愛」において債務超過になっていることです。ここにも債務が発生する可能性があることです。
しかし、人がいくらあなたのことを愛したからといって、人は悪いことをしているわけではありません。律法を守っていることになります。だから、愛されるということの借りは構わないのです。それは「別です」と教えられています。あなたが愛されるとき、人が神様の律法を守って、与える生活をしていることを感謝しましょう。その上で私たちがさらにすることは「人を愛すること」です。ゆめゆめ、愛されることの方が多いというような債務超過に陥らないようにしましょう。
神様はあなたを愛していると言います。自分が完全な愛で十分に愛されている存在、であることを再確認しなければなりません。だから人に愛を借りなければならないことなどないのです。それでも人に愛されて借りを作るのは、人のためであって自分のためではありません。自分のためにはそれ以上に人を愛すること、神様に愛されていることを感謝し、愛に生きることだけです。
多重債務から解放されて
このように多重債務は経済だけではないことがわかります。私たちのすることは、今日を主に従って生きることだけです。考えてみてください。私たちの陥っている問題は、すべて私たちの選択の結果起きたことではないでしょうか。そのことの回復と解放は、私たちが選択を新しく正しくやり直して生きることだけなのです。
それは、何の変哲も無い地味な行為かもしれません。しかし、あまり目立たない静かな間違えた選択を積み重ねて、今があるわけです。今度は、何の変哲も無い地味な良い選択をして、つまり今御心に生きるということの瞬間の積み重ねをして行くことなのです。それがこの多重債務から解放されて行く道なのです。
「詩篇 42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」
感情と意志
私たちは、自分の思いなどを表すときに、心を指して表現したり、ある時は頭を指して表現したりします。例えば「頭ではわかるんですけどね」とか、「心が受け付けません」とかの表現です。理屈としては、わかるのですが、なんとなくその気にはなれないというような場合があります。
ほとんどの人がそうだと思いますけれど、どうしても元気でありたい、そうあるべきであると強く思っている、しかし、嬉しくはなく、元気を出したいのに出せる気分にはなれない、ということがあります。そのようなときに、私たちは自分の意志をもって、心に「そんなことではどうするんだ。大丈夫だ元気だせ」と言い聞かせたりするのです。これらの心の中の働きを、意志と感情という部分に分けて、なんとなくですが理解しているのではないでしょうか。
確かに、意志の存在するパート(心の中の領域)があるようですし、感じるという感情のパートがあるような気がします。とにかくそれらは、一緒のものではなく、別物という認識でいます。感情と意志という種類の違うものが私たちの内側に存在していると言えるわけです。少し理屈っぽい話になりましたが、今回は、これらのことに焦点を当てて、信仰について考えてみたいと思います。
心と頭
ある牧師先生が、心と頭の働きについて説明してくれました。それによりますと「頭は心に従うものである」そしてそれが健全な在り方だというのです。まず心に感じるものがあって、それを頭がその通りに表現する、そのような流れで働いていることが正常なことであると言います。例えば、心に安らぎを感じていて、それを頭を使って、口を動かして、顔に表して「私は今とても安らかです」というようなことです。この場合、頭は心に従って働いているわけです。
ところが、多くの人は逆に、頭で心を従わせている、ということです。心に不安なものを感じ、心の中が嫌な思いで満たされているというような場合、そんな状態はとても嫌ですし、早く抜け出したいと普通は思いますから、頭が心に命じるわけです。「そんなことをいつまでも考えていてはいけない。早く忘れて、前向きになれ。楽しいことを考えよう」と。つまり、頭が主導権を取り、心を変えようとしているのです。この状態が不健全だというわけです。
心の癒し
このことは、人の心の傷の癒しについての話のセミナーで話されたことです。なぜ、このような説明がされたかと言いますと、根本からの癒しに至るためには、頭が心に言い聞かせることではなく、心に感じるものが変えられる必要があるからということです。傷ついた過去(多くは幼少期)に戻って、そこにある誤解や、稚拙な判断について、癒され、慰められる必要があるのです。
人は、子どもの頃の体験をそのまま引きずって、大人になります。一人の子どもがそのまま大きくなったのが、一人の大人、あなたということです。そこで、心に築かれた土台から、自動的に自分ではコントロールできない反応が出てきます。それを普通は、頭を使って心に言い聞かせることをして、精一杯コントロールしようとしています。残念なことに同じようなことを繰り返してしているのではないでしょうか。心の感じ方が、昔と少しも変わらないからです。
「一人ぽっちにされて寂しい思いをした。その時の不安な思い」それが、人の反応に対し敏感にさせます。「本当にこの人は、私を受け入れてくれているだろうか。」「私のことをわかってくれているのか。」「私はそのうちに放って置かれるのではないか。」「私なんか誰も愛してくれない。」親や周りの大人から受けたあの時の感情がそのまま湧き上がってきます。今起きている事柄が、当時の状況にオーバーラップするのです。
過去のことは意識していません。自動的に感情だけが湧き上がってくるのです。これが癒されるためには、誤解や稚拙な考えが正されなければなりません。その癒しのためには、イエス・キリストによる慰めと、真の罪の悔い改めに導かれる必要があります。また、私たち自身が、幼稚な反応によって人を傷付けてきたわけですから、人を癒すために同じ努力と年月を、重ねる必要があることに気づかされます。今度は人のための癒しの管となるということです。
心でキリストに出会う
心が頭を従えていられるなら、どんなに良いことでしょう。頭が心に向かって励ます必要がないということです。意志が感情に向かって「悪いことを感じるな。大丈夫だ」という必要がないのです。
そのような状況は心に何があるかによって変わることです。心にキリストが満ちているなら、心でイエス・キリストとの出会いを果たしているなら、みことばが湧き上がってきます。心は常に良いもので満たされているのです。頭は心に従って「神様感謝します」と感謝を表すのです。
ときどきは、意志が感情を助けることもあります。心に向かって「イエス様を迎えているか」「思い乱れている原因は、神様がいないからではないか」と信仰を促すときです。意志が励ますことはありません。励ますのは、今心に迎えているイエス・キリストの働きであるからです。
「箴言 14:29 怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。30 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」
穏やかな人生
穏やかな人生こそが、主が私たちに与えてくださる最大の祝福です。ヤコブは、神様に選ばれた人でありましたが、彼のことを聖書は「穏やかな人となり、天幕に住んでいた」と記しています。イスラエルの民が、一人の正しいリーダーに導かれる時、国は永きにわたって穏やかでした。「この国は四十年の間、穏やかであった。(士師記 3:11)」神様が人に与えてくださる穏やかな人生こそが、祝福なのです。
人は自分の人生が穏やかでないことを感じ、真の穏やかさを求めて、一生懸命に生きているのではないでしょうか。イスラエルの民も、神様から遠ざかってしまった時には、その生活の中に穏やかさを失い、神様を叫び求めたことでした。その時、主は再び穏やかな生活を取り戻してくださいました。しかし、その安逸な生活の中で、信仰がやがては後退してしまい、また再び穏やかさを失う事態となって行く、そのようなことが世代を超えて繰り返されました。
それでは、穏やかな人生の恵みを確かめるために、みことばによって教えられて参りましょう。
穏やかさを奪うもの
さて、私たちの生活から穏やかさを奪うものにはどんなものがあるでしょうか。まず、経済の不足が挙げられると思います。何を食べるか何を飲むか、着るものの心配、住むところの心配、これらは人生に必ず付いて回るものです。これらが一応満たされていて、人は穏やかな心を持って生活することができます。しかし、人によっては、とりあえずは十分満たされていながら、それでも心配でしようがないという人もいます。イエス様は、神様が養ってくださるのだから、「そういうわけだから(神様が養ってくださるのだから)、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ 6:31)」と言われました。
健康への不安は、私たちから穏やかさを奪って行きます。もし人間が死なない存在ならば、病気はそんなに恐れられることではないでしょう。しかし病気になる時、それは死を予感させることになります。そんな恐れのある私たちに、主は癒し主として訪れてくださっています。イエス様のもとに行った人は全て癒されました。福音の中心にあるものは、根本的な癒しであることを感謝します。魂の癒しであり、肉体の癒しです。
また怒りは、私たちを穏やかにはさせません。心に苦々しい思いを持ち続けますと、私たちの体は壊れて行きます。神様はカインに対して「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。(創世記 4:6-7)」と言われました。私たちは私たちの罪に対して、正しく対応しなければなりません。
また、孤独は私たちから穏やかな心を奪い去ります。一人でいることが孤独なのではありません。わかってもらえていない、という満たされない思いが、孤独の正体です。穏やかで一人でいられるなら、おそらくはとっても充実していると感じるのではないでしょうか。わかってもらいたいけど、誰もわかってくれない、だから一生懸命自分の存在をアピールしようとします。私たちが孤独から解放されるのは、主が自分を愛してくださっているのだと、本当にわかったその時です。
他にも焦りがあります。「こんなんじゃいけない」と思ってなんとか今ある状況を改善しようともがいている人はたくさんいます。「こんなんでいいのだ」と自分自身を、そして自分の人生をありのままに受け入れる時、私たちは焦りから解放されます。私たちの人生の主は、私たち自身ではなく、神様です。このことがわかるまで、服従することが本当の自由だと知るまで、焦りは私たちを追いやって行きます。「こんなんでいいのだ」とわかった瞬間穏やかな心が訪れます。
癒された心
イエス・キリストを信じる時、私たちは魂の癒しを主からいただきます。その癒しは、私たちの心に穏やかさとして現れます。およそ穏やかさを奪うすべてのものが、主を信じる信仰によって取り去られるからです。主を信じて明け渡す人生は、あらゆる不足からの解放です。また病からの解放です。そして罪の赦しは、私たちを罪責感から解放し、恥から逃げないで生きられる自由が与えられるのです。主の赦しは、私たちに罪を犯した人に対して、私たちが赦そうとする愛の思いをかきたてます。誰よりも主が私のことをわかってくれているということ、愛されているということが、私たちを根本的に癒します。
イエス・キリストを信じることは、癒されて穏やかな心、そして穏やかな人生を与えられることなのです。
穏やかな舌
穏やかな心からは、穏やかなことばが出てきます。主に癒された穏やかな心が、私たちの周りに伝染します。「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅(箴言 15:4)」。
この恩恵を一番受けるのは家族ではないでしょうか。あなたを通して、家族が癒されて行くことがまだ起きていなければ、あなたの癒しは、もっともっと受けられる可能性を残しています。主の癒しは、驚くべきものです。あなたは、あなたの愛する人たちの癒しの道具となるのです。
以前あなたが病んでいたので、周りが傷ついたことです。周りの人は責めたりはしないでしょう。しかし、本当に完全な癒しは、あなたがこれからする愛の行為の積み重ねによって、回復されて行くことだと受け取りましょう。それがあなたの役割です。
伝道とは、あなたの心に、その中心に癒しが始まり、それがまるで水面の波紋が広がるように、周りに特に家族に広がることではないでしょうか。家族にはごまかしがききません。イエス・キリストは穏やかな心という完全な癒しを与えてくださるお方であることを信じましょう。
「詩篇 139:1-10 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。」
すべては神様に知られている
私たち自身は、また私たちの人生は、すべて神様に知られています。神様の知らないことは、何一つありません。聖書は、神様が「私のすわるのも、立つのも知っておられ」ると言います。私たちがする日常の細かな動作も、主に知られているということです。「私の歩みと私の伏すのを見守」っておられるお方であると証言しています。私たちの行いで主に知られていないことは、何一つないのです。私たちの行いは、どんなに小さなことであれ、主の前に隠れてはいません。全てが明らかです。
そして、神様は私たちの心の中をさえ、全て知っておられると言います。それは「私の思いを遠くから読み取られ」るほどであるというのです。私たちは一人で悩み、また一人で隠れて罪を犯し、誰も知らないはずだと思っていますが、神様には全く明らかであるのです。心の中でさえ、神様に隠して置けることは、何一つないのです。
だから、私たちの心の願いでさえ、私たちが主に願い出る前に、主にはすでに知られていることなのです。「ことばが私の舌にのぼる前に(私たちが口に出して言う前に)」、「なんと主」は「それをことごとく知っておられ」るのです。
知られている人生
「私の道をことごとく知っておられます」というのは、神様が私たちの人生を知っておられるということです。私たちが今まで歩んできた過去の出来事を神様は、全て知っておられます。神様は、過去、現在、未来に同時に存在することのできるお方です。それゆえに、私たちが過去に犯した罪も、今現在それが起こっているかのように、見ることがおできになる方です。私たちの過去はみな神様に知られてしまっています。ですから、私たちが、神様のみ前に悔い改めて、赦しを乞うまで、神様は悲しまれているわけです。
そして、神様は私たちの現在のことは、もちろん、ようく知っておられるわけです。私たちは「前から後ろから」主に「取り囲」まれています。「御手」は、私たちの「上に置かれ」ているのです。
さらには、神様は私たちの未来をご存知の方です。未来にも、今現在住むことがおできになる主は、私たちの未来を全てご存知であるわけです。私たちは、未来に何が起こるか全く知ることはできません。私たちに、未来のことでできることは、主の御手にこれからの「道」を委ねることだけです。神様は、信じる者に対して、これから起こることを啓示され、そしてことを行われるお方です。私たちが、主を信じて、その「道」を委ねる時に、決して失望させられることはありません。「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』 (ローマ人への手紙 10:11)」と。
世界の果てに逃げても
たとえ私たちが、世界の果てまで逃げても「暁の翼をかって、海の果てに住んでも」それでも、私たちは主の御手から逃れることはできません。日の出に太陽が、世界の果てのような遠くから登ってきますが、その太陽の翼を手に入れて、それで羽ばたいて、世界の果てまで飛ぶことができたとしても、そこにも主はおられるお方です。
私たちは、決して主から逃れることはできません。たとえ「よみに床を設けても(死後の世界に逃げ込んだとしても)」、「そこにあなたは(神様は)おられます」ということです。私たちは、身も心も、神様から逃れることはできません。私たちは、神様に完璧なまでに知られ、心の中身、考えていることさえ、ことごとく知られており、過去も現在も未来も、死後の世界でさえ、神様には知られており、神様から逃れることはできないのです。
こんなにも近いとは
私たちは、自分に一番近い存在は、自分自身であると考えます。つまり自分のことをよく知っている存在は、ほかならぬ全てを知り尽くしている自分自身であると思っています。
誰でも、自分のことを意識する自分がいることを認めるでしょう。そしてその意識している自分が、自分のことを一番よく知っていると思っています。「自分のことが一番わかっているのは自分だ」という具合にです。またそれゆえに「人は自分のことを本当には知らない」あるいは「誰も自分のことをわかってくれない」などとも考えたりすることもあります。
しかし、神様は、私たち以上に私たちに近い方です。私たちが自分を知っている以上に私たち自身のことをよく知っておられる方、が神様なのです。そして、その神様は、私たちが想像する以上に私たち自身の近くにおられるお方なのです。私たちは、私たちの一番近くにいるのが、私たち自身だと思っていますが、主は私たちよりも私たち自身に近いお方なのです。「私よりも私自身に近いところにおられる」のが神様です。
このことがわかりますと、全く神様の前で、取り繕うことが無意味だとわかります。よく見せようとすることの虚しさがわかります。どんな罪も弱さも、隠す必要はないこと、無駄なことがわかります。また、わかっていただこうとして、くどくど祈る必要がないことがわかります。
こんなに近くにおられる神様に感謝します。
「マタイの福音書 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
造り主がおられる
「主人」とは神様のことです。私たちは神様の「しもべ」であると言われています。主はすべてのものを造られたお方です。宇宙も、この地球も、自然も、動物も、植物も、そして私たち人間も、すべてが造り主である神様の手のわざによることです。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇 19:1)」
そして、私たちの住む自然の中に法則を定められ、これを運用運行しておられます。たとえば、宇宙を見ますと、太陽系だけに目をやっても、とても精巧精密な法則によって運行がなされていることがわかります。とても緻密な細かな計算をしなければわからないほどですが、私たちの想像をはるかに超えた大いなる知恵によって、成り立っていることがわかります。それは規則正しく季節、年月をめぐって繰り返されています。地球もその他の惑星も太陽の周りを規則正しく回っていますが、それぞれの軌道が複雑であっても、衝突することはありません。規則正しく繰り返されているのです。地球には四季があります。そのことによって、私たちは快適な生活を享受することができています。そして地球には、水があり、空気があります。私たち人間が住むのに最善の環境がまずもって備えられているのです。
人の存在に目をやって見ましょう。人は被造物の中でも特別な存在であり、万物の頂点に置かれています。神様のみこころは「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。(創世記 1:28)」です。私たち人間のために、人間以外の万物は造られていることがわかります。宇宙も、地球も、自然も、動物も、植物もすべてが人間のために造られており、主はこれを人間に託されたことです。そして、これが造り主である神様の喜びです。
造り主の喜び
造り主である神様の喜びとは、ご自身の栄光(素晴らしさ)を現すことです。神様は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。(創世記 1:26)」と言われて、人を造っておられます。人を見れば、見えない神様の素晴らしさがわかるように、私たちは神様に似せて造られています。見えない神様に、見える私たちが似せて造られているのですが、それは心があり、人格があるということです。不幸なことに人は罪を犯し、神様に似せて造られた「かたち」を損なってしまいましたが、神様のみこころは、イエス・キリストによってこの「かたち」が取り戻されることです。
わかりやすく言うと、次のようなことです。造り主である神様は、ご自身の栄光を現したいと願っておられる。そのためにご自身の栄光の現れを人に託され、ご自身に似せて人を造られた。神様の栄光は、造られたすべてのものによって現され、とりわけ神様の「かたち」である人間によって現されます。神様はこれらの被造物の素晴らしさをもって、造ったご自身の素晴らしさを現そうとしておられます。これらの栄光の現れを見ることが、造り主である主の喜びです。その喜びを、人に体験させ、一緒に喜びたいと願っておられるわけです。だから「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言われているのです。
たくさんのものを任せよう
神様が、失われた私たちの元の「かたち」を取り戻し、人に本来の目的に生きて欲しいと切に願われていることです。つまり、救われて、神の子どもとなり「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」に生きることです。すべてのものは神様のものです。そして、私たち神の子どもとされた者に「たくさんの物を任せよう」とおっしゃりたいのです。
私たちは所詮、造られた者にすぎず、何一つ自分のものはありません。みな与えられたものです。私たちがこの世で、多く所有することがあっても、それはみな神様から管理を任されたことにすぎません。私たちが「忠実」であれば、神様は私たちに多くのものを任せてくださいます。それは、仕事や財産などの経済の分野のことであり、家庭や家族、友だちなどの人間関係の分野のことであり、そのほか人生のすべてに関することです。
多くのものを所有することに汲々として、高ぶったり、落ち込んだり、しているというのが私たちの現状ですが、本来、管理をさせていただいているのだ、ということを知らなければなりません。
造られた物としての自然を理解し、その中にある法則を理解し、造られた者に過ぎないという人間の本来の姿を理解し、社会の仕組みの中に働く主の摂理を理解しなければなりません。これらのすべての管理を、順次「任せ」ていきたいというのが、みこころです。管理することは、とても大きな喜びです。主は主権をもって、全世界の営みを管理しておられます。この「主人の喜びを」私たちに味わわせたいということです。
忠実
私たちに求められるのは「忠実」ということです。「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(Ⅰコリント 4:2)」
冒頭のみことばは、タラントの教えと呼ばれる、主の語られたたとえ話の中のみことばですが、この「忠実なしもべ」のように、今自分で所有している能力を、管理を任されたものと理解し、今、任された現状に感謝し、「忠実」に精一杯これを生かして生きることが求められているのです。
もう一度主人のことばを聞きましょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われたいものです。
「マタイの福音書 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
あなたの敵を愛しなさい
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ 5:44)」と言われました。そして「敵を愛」することの具体的行動の一つとして、誰にでも「あいさつ」をすることを挙げられました。
ここで、敵とは文字通りの憎い人や戦い続けている人という意味だけのことではなく、自分に良くしてくれない人、自分を愛してくれない人、のことをも含んでの話となっています。あなたの周りに、あなたに良くしてはくれない人、あなたのことを愛してはくれていない人、はたくさんいるのではないでしょうか。彼らのことを、あなたは、また私たちは、敵として憎んでいることなのだ、と言われていることです。少なくとも、こちらから善意を示してはいないだろうし、喜んでもいない、ということではないでしょうか。
そんな彼らに対して、私たちの方から「愛しなさい」と言われていることです。その具体的行動の第一歩として「あいさつ」が挙げられました。具体的に示していただけることは、私たちにとって、わかりやすいこととなります。「あなたの敵を愛しなさい」については、一応理解はし「アーメン」と応答するでしょう。しかし、それをすぐに具体的行動として表すことはないのではないでしょうか。「わかってはいるけど、本当にはわかっていない」ということです。
もちろん「敵を愛する」ことが「あいさつ」だけを意味することではないのは、わかっているでしょう。ですが、あいさつをしてくれない人に「あいさつ」をすることで、「敵を愛する」ことを私たちは理解し始めるのです。
あいさつされるときはあいさつしやすい
私たちは、相手から、たとえ全くの知らない人でも、あるいは普通は口を聞いてくれない相手であっても、向こうから「あいさつ」されれば、その返事をすることにはあまり抵抗がありません。なぜなのでしょう。「あいさつ」を「愛」と置き換えれば、少しはその理解に役に立ちそうです。異性との間の恋愛感情は少し別のことかもしれませんが、こと人間としての「あいさつ(愛)」は、受ければ気持ちの良いものです。ところが、自分から先に投げかけるのは、とても勇気がいったりするものです。何が違うのでしょうか。
まず一つには、私たちは常に、相手が自分のことをどう思っているのかが、とても気になります。こちらから声をかけるとき、当然、返事の返ってくることはおそらく間違いのないことだと思ってはいますが、それにしても、相手の人は突然のこちらの変貌ぶりに何を思うだろう、などということは考えてしまいます。「返事はしてくれるものの、いぶかっているだろうな」とか「渋々返事をされたら、嫌だな」とかを考えるのです。そうなると、こちらから「あいさつ(愛)」することは、とても気の進むことではなくなってしまいます。向こうからされれば、こちらは気兼ねなく、機嫌よくあいさつできるのに、です。
本当の愛
誰でも、自分を愛しているでしょう。中には自分を愛せないで苦しんでいる人もいるかもしれませんが。しかし人の常として、自分を愛するということは、だれでも基本的にはしていることです。少なくとも、そう思います。「誰でも、自分のことが一番かわいい」とは世の中でもよく言われていることです。聖書も「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(マタイ 22:39)」と言い、私たちが自分を愛していることが、前提で述べられています。
しかし、本当の愛ということを考えますときに、他人を愛さない愛というものは存在しないことに気がつかされます。つまり、私たちが人を愛していないなら、私たちは愛を知らないのだ、と言わざるを得ません。人を愛していない者は、愛そのものを持っていなくて、すなわちそういう人は、結局自分をも愛していないのだ、ということがわかります。人を愛していない人は、自分をも憎んでいる、のです。
「自分がかわいい」「自分が一番」とかは愛ではないのだということです。
わかってほしい
結局、私たちの根底にあるのは、自分への愛ではなく、自分をわかってほしいという思いであり、自分をまんざらでもないと思っている心なのです。そのまんざらでもないことの少しでも、人にわかってもらいたいと願っています。それを、自分への愛だと勘違いしています。そのような心からは、人を愛する愛の思いが、生じてくるはずがないのです。
そのような自己中心の思いを断ち切るために、人を愛する第一歩を踏み出すべきなのです。それが、自分から「あいさつ」するということなのです。自分から「あいさつ」することにはシンプルながら、重要な意味が含まれています。私たちが、進んで、どこででも、誰にでも、「あいさつ」し出して、その意味を実際に知ることになります。聖書のみことばを信じましょう。
「マタイの福音書 5:33-34、37さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
誓ったことは果たせ
聖書の命令は、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」です。しかし、イエス様はこの戒めのさらに深い神様の真意を明らかにしてくださいました。イエス様は、パリサイ人たち宗教の指導者を非難されましたが、それは彼らが形式的に戒めに従っているだけで、神様の本当の心を理解してなかったからです。
主のみこころは、パリサイ人の義(正しさ)以上のものを人間に要求されていることです。本当に聖くなければ、人は天国に入ることはできないのです。つまり、神様の私たちに求められる正しさというものは「完全」です。「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」という命令に対して、そこに求められる「完全」とはどういうことか、ということを主は説明してくださったのです。
決して誓ってはいけません
その答えが「決して誓ってはいけません」でした。普通に聞けば、文字どおり「ああ。まったく誓うことはしなくて良いのだ。だけど、神様はなぜ、そんな自堕落なとも思われる生活をすすめておられるのだろうか。今まで、誓うことが多少でもあったからこそ、自分は道を踏み外さないでやってこられたと思うし、少なくとも、これくらいで持ち応えられてきたのではないか」と考えるでしょう。
ところが「決して誓ってはいけません」の戒めは、とても守るに難しいことなのです。ようく考えてみますと、とても厳しい要求だということが、わかって来るのです。
なぜ人は誓うのか
そもそも人はなぜ誓うのでしょうか。その原因は、日頃の自分のことばに真実には生きていないからなのです。私たちはあまりにも、自分のことば通りに生きるということを重要視しません。自分の話すことばや、考えることについて、無頓着でさえあります。
まず、自分のことばにこだわろうとしません。口に出したことばであっても、簡単に忘れ去られてしまいます。特に大見得を切って宣言するような場合は割とこだわります。しかしその宣言そのものが誓うということです。それは「今度こそ、ことば通りにやる」という誓いの宣言ということになります。しかし、それでもそのことばを成し遂げて真実に生きられた、ということはほとんどないのではないでしょうか。
日頃、ことばや考えが貫かれなくても、当たり前のように平気で生きている、ということです。特に小さなことばに対して、不真実な態度が当たり前となっていることです。特に誓ったり、宣言したり、することでなければ、責任を感じないでいるのです。
そういう不真実な生活の中で、自分の意志を固め、真実でありたいと思うことが必要とされるときが来ます。つまりは「変わりたい。確実にやり遂げたい」と考えるときのことです。自分を変えたいとか、必ず成功したい、などの想いを持つ必要を強く感じるときです。普段は、小さな不真実の積み重ねの生活ですから、それほど困りません。
例えば普段「いつも喜んでいよう」「コツコツと勉強や努力を重ねよう」などと考えてはいますが、どんなことがあっても、その思いを成し遂げようとはしていません。簡単に自分の小さな不真実を許してしまっているわけです。でも「こんなことではいけない」と、いよいよ迫られる場合があります。本当に変わらなければならないと、切羽詰まるときです。あるいは、重要な局面を迎え、失敗ができない時などです。こんな時に誓う必要が出てくるわけです。
誓う必要のない生活をせよ
イエス様が言われた「決して誓ってはいけません」は、「誓う必要のない生活をしなさい」ということです。普段の自分のことばに真実に生きていれば、たとえ切羽詰まるときであっても、いつもの通りにやれば良いことです。あえて、誓わなければならないのは、普段の自分のことばや思いに、不真実に生きていて、しかも慣れっこになっているからです。
主は「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と言われました。あなたの「はい」は、いつも真実な「はい」を意味していますでしょうか。あなたの「いいえ」は、いつも真実な「いいえ」を表しているでしょうか。自分のことばに、ごくごくの日常において、真実でなければなりません。
「ネヘミヤ書 8:10 主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
主を喜ぶことが力
掲題のみことばは、新改訳聖書2017年度版の訳によるものです。2版及び3版では、欄外に別訳として同じことばが記載されています。「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」ではなく、よりストレートに「主を喜ぶこと」が私たちの力である、と言い表しています。それが本来の最適な意味であると判断されたからでしょう。
力と言えるものはたくさんあるでしょう。「主に対する絶対的な信頼」ですとか「強固な意志」であるとか「祈り」とか「愛すること」とか「誠実さ」とか挙げればいっぱいあることです。しかし、本日のみことばは、それらに増して最も大切なこととして、「主を喜ぶこと」が示されているのです。「主を喜ぶこと」が私たちの信仰生活にどのように働くのかを考えてみたいと思います。
私たちは主を必要としている
私たちが救われたのは、ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じて、ただ主を救い主として受け入れることによってです。つまり、信じるだけで救われたのです。それは、私たちがそれ以外の方法では、救われる者ではないからでした。神様の要求は「義」であって、完全なきよさです。それは、神様の戒めである律法(聖書の命令)を完全に守ることによって達成されることでした。
しかしながら、できる人は一人もいません。そこで神様は、御子イエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとして、十字架につけてくださいました。このことを信じて、主を救い主として受け入れるなら、救われるという道が開かれたことでした。これは、とても大きなしかも特別な恵みであり、福音(良い知らせ)でした。
言い換えれば、私たちは、主に全面的に信頼しなければ救われない者なのです。さらに、私たちが信仰生活において、神様に受け入れられ、祝福されるためには、主のみこころに叶う生活が求められます。
では神様は、私たちが救われるためには助けて、後は私たちの自力で祝福を勝ち取れと言われるか、ということを考えなければなりません。主は私たちに救われるときも救われた後も信頼することを要求されているのです。救いのときと同様、それ以外に私たちが祝福される道はないからです。
多くの人が失敗をしている
信仰生活の中で、私たちクリスチャンの多くは、苦しんでいます。頑張っているのです。それは、尊いことではあります。しかし、そこには一生懸命の努力があります。あるいは、まったく諦めて救われる前とあまり変わらない生活をしている場合もあります。罪に勝利して、身も魂も健やかであることとは程遠いということが現実ではないでしょうか。
信仰生活とは、一つの道徳の基準を知り、それを守ることに汲々とするというようなものなのでしょうか。確かに私たちは、聖書の教えを新しく教えられました。ところが、その聖書が、「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ 3:24)」と説明しています。律法は、救われるために私たちが守る基準です。しかし、その役割は、私たちにそれができないことを悟らせることなのです。神様の願っておられることを知れば知るほど、私たちは自分が罪人であることを気付かされます。「こんな罪ある私は救われることなどできない」と気づくわけです。
このことがわかりますと、救い主イエス・キリストにすがるしかないということに気づかされることになります。このようにして、律法を知れば知るほど、私たちは主に信頼することに追いやられます。「私には、イエス・キリストという救い主が必要である」と告白せずにはいられません。
さて、このことは、救われるときだけ必要というのではなくて、救われた後もいつまでも同じように、主に信頼することでしか、神様の要求は満たせないのです。主は、私たちに主に信頼することを強く求めておられます。
主を喜ぶこととは
私たちが嬉しいのは、あくまでも主ご自身のことです。起きている出来事が嬉しいというのではありません。なぜ主が嬉しいかと言いますと、主に対する信頼が希望と信仰を湧き上がらせるからです。
主は主権を持って働いておられます。主の働きを妨げることができるものは何者も、何事もありません。たとえ悪魔であっても主の主権の前には全く主の敵ではないのです。主が望まれれば一瞬で悪魔は滅ぼされますし、災いは消え去ります。つまり主はしたいことがおできになる方なのです。ですから、私たちは全面的に信頼することができます。
また、主は善なるお方であり、良いことしかされません。神様はご自身のお考えで、したいことをされていますが、それは全て良いことなのです。悪意や間違いは起こりようがありません。
さらには、神様は愛であり、神様はあなたを愛しています。考えてみてください、したいことがおできになる方であり、良いことしかなされない方であり、あなたを愛してやまないお方であるなら、今現在起こっていることは、あなたにとっての最善であるのです。
私たちには、時として、最善と映らない場合があるでしょう。しかし、必ず最も良きことがなされているのです。私たちはそのことに信頼することができます。
とにかく、このお方に信頼して行けば、最善の道を歩めるのです。そんな主が嬉しいのです。この状況の中で、希望を持つことができます。そして、実際に主が信頼する者にお働きくださる奇跡を見ることができるのです。それは、私たちが努力では決して成し遂げることができなかったことです。
その信頼の究極の姿勢が主を喜ぶことなのです。主を喜ぶことが力であることを体験してまいりましょう。
「Ⅱコリント人への手紙 5:14-15 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
キリストの愛
本日のみことばは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と教えています。では「キリストの愛」とはなんなのか、そしてそれが「取り囲んでいる」とは、どういうことなのかについて考えてみたいと思います。
多くの人は、主が自分を愛してくださっていることを知っています。私たちは「アーメン」とうなづきます。そして「キリストの愛が取り囲んでいる」と聞くと、何か温かいものを感じます。勇気が湧いてきます。しかし、そのときはそうであっても、それっきりではないでしょうか。
まず「キリストの愛」とはそういうことではないのだということを理解して「キリストの愛」を知ることを本当の意味で突き詰めて理解しなければなりません。
自分にとっての主の愛とは
まず、大切なことは、主の愛が自分にどのように作用したかをはっきりと覚えなければなりません。主の愛とは、与える愛であり、十字架に犠牲を払ってくださった愛であり、私の身代わりを果たしてくださったことであり、私のために生贄となって、神の怒りをなだめてくださったことです。
このことを具体的に捉えていなければなりません。人によっては、社会的にも非難される重大な罪を犯してきた人もいるでしょう。あるいは、人には言えない罪を犯してきた人もいます。そして、その罪の責めに苦しんできました。悔い改めても、償いを果たしても、心が重く晴れません。何をやろうにも、常に自分の心の中に責めがあります。「こんな私が幸せになっちゃいけない」「不幸であることが自分の一番の償いである」と思ってしまうのです。「こんな私は汚れている」といつも悲しんでいます。「そんなことはない。前を向いて新しく生きよう」と思うのに、いつも自分に打ちひしがれています。
そんなとき、キリストに出会いました。主のご愛と赦しを知りました。罪は本当に神の赦しがなければなくならないことを実感しました。悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じて受け入れました。そのとき本当に、長年の重荷が取れました。本当に新しくされたということが嬉しくてたまりません。見るものみな違って見えました。新しい自分が生まれたとわかりました。
これらのことが具体的に映像として自分の心にあること、そして、それをことばで具体的に人に説明できること、これがあなたの「キリストの愛」のかたちです。どこでどう生きていたのか、どのような人間であったのか、何をしてしまったのか、そしてどのように苦しんだのか、詳細にことばで言い表せるのです。
さらに「キリストの愛」はどのように自分に働いたのか、十字架は自分にとってどういう意味を持つのかを詳細に説明できるのです。「具体的に言い表したこの自分のために」「具体的に言い表した自分の犯した罪のために」主が犠牲となってくださったという関連性、これらが映像として、まるで映画のように心に描かれています。そして、救われたあの日のように、心の中に主に対する感謝が溢れています。
取り囲んでいる
このようにして、具体的にキリストの愛が自分に対して、どのようなことをしたのかが、はっきりと意識されていることが必要です。とにかく、何をしていても、また何を考えていたとしても、自分の考えの中身が、キリストの愛という具体的な映像が満ち溢れて形成されているのです。消えたり、薄くなることがないのです。
毎日この喜びに包まれて祈ります。ことのはじめから、自分がどういう人間であって、どんな苦しみの中に生きていたことか、口に出して毎日祈っています。そんな自分が主の前に進み出て、救われた経緯を感謝して、思い出して祈るのです。それが毎日の祈りです。
さらには、人に対して、いつも喜び踊りながら、少し興奮気味に主の愛の素晴らしさを、自分に起こった出来事として、具体的に話すのです。これが証です。同じ境遇の人がその証でとても力づけられます。いつもこの証が続くのです。
このように、自分が愛された事実を具体的に描いて、感謝に溢れているこの意識、この考え、これが自分の中身となっています。そうなりますと、まさにこの意識が常に自分を取り囲んでいるということになります。そして、その意識の中身こそ「キリストの愛」の具体的な形です。つまり「キリストの愛」がその人を「取り囲んでいる」ということになるのです。
主のために生きる
そして、その考えに取り囲まれていると、つまり自分にしてくださった主の愛が具体的に自分の頭の中に映像としてあり続けていて、そうなので主に感謝していることも続いていて、そんな感情が溢れていると、主の愛を伝えたくて、まさに突き動かされる衝動にかられるのです。
ウィルソン師が、話されていたように「なぜ、そうしたのですか」に答えなどありません。「どうして、行動したのか、考えても理由などわかりません」。「ただ、突き動かされたのです」と答えるのが精一杯、ということになるのです。納得して動いたのではない、葛藤を乗り越えたのでもない「ただせずにはおられなかったのだ」ということです。
主の愛の具体的なかたちは、それぞれ自分の生身に触れてくださった主の取り扱いの結果ですから、みな違うわけです。あなたには、あなたの「キリストの愛」が具体的な体験としてあるわけです。重要なことは、それが具体的に心の中に言い表されていることです。そうすれば、具体的であるからこそ、その映像が心の中に満ち溢れているのです。そして、当然あのとき感謝したように、今も感謝の心が溢れているのです。これが「キリストの愛が取り囲んでいる」ということです。あなたはもはや「自分のために」生きようとは思いません。「自分のために死んでよみがえった方(キリスト)のために」生きたいと願うのです。
「マタイの福音書 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
律法を実現する
イエス様が「わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃棄するためにではなく、成就するために来た」と言われました。あえて「廃棄ではなく、成就である」と言われています。
おそらく、イエス様の言っておられることに対して、誤解をする者があったのかもしれません。イエス様は救いは律法ではなく、信仰によることであるとの趣旨をお話しされたことでした。このことは、後のパウロの手紙によって私たちには明らかになります。が、当時の人たちには、律法(旧約聖書)が命じることが廃棄され、新しい戒め(イエス・キリスト)が到来したのだ、と思い込んだ人もいたのかも、と考えられることです。
イエス様は「わたしを信じなさい」ということを強調されました。しかし、それは律法の廃棄ではなく、むしろ律法を成就することなのだと改めて教えられているわけです。
当時も今もそうですが、確かに神の戒めである旧約聖書の律法が与えられてはいるが、それを満たす者、守り切る者が一人もいないという現実があるわけです。律法の成就とは、これを守り切ること、実現することです。
罪のない歩み
イエス・キリストは、私たちと同じ人間となってくださいました。私たちと違うところは、この地上を生きるにあたって、全く罪を犯されなかったということです。このことは私たちの模範でもありましたが、主は人として、罪に対して勝利して、律法を守り切る生活をしてくださったことでした。一切の罪を犯すことなく「見よ。このようにして生きることだ」と示してくださったのです。そして、イエス・キリストを救い主と信じる者は、主を信じる信仰を通して救われる、という道を開いてくださったのです。つまり、信じる者はイエス様の勝利にあずかれるのです。私たちは、イエス・キリストを通して、律法を守り切ったものとして認められるということなのです。
誰でも、信じる者は救われるのです。パリサイ人は少なくとも、当時の一般の人々よりは、守っていました。言わば、きよいと言われる生活をしていたのです。このパリサイ人の義に勝る義を、イエス・キリストを信じて成し遂げることになるのです。
神のなぐさめ
私たちは、この守りきれないと思われる律法を示されるとき、とても困難を覚えます。「そんなこと、厳しすぎる」と感じるわけです。「それではダメだ」と言われて意気消沈します。
そこで「ありのままで救われる」「そのままで良いのだ」と言われるとホッとするわけです。このように厳しいことばではなく、なぐさめのことばを聞きたいと思うのです。
「ありのままで救われる」と言われる一方で、「律法は成就される」「律法は大切なことである」と厳しく言われると、「なんと神様はアメとムチを使い分けておられることか」と感じる人もいるわけです。
しかし、神様のなぐさめとは、どのようなものかを考えなくてはなりません。あなたは、なぐさめられてホッとするかもしれませんが、一方でなぐさめられて勇気を得るということもあるのです。なぐさめられて「ああよかった。このままで良いのだ」と安心してその場に休み込んでしまうのが、神様の、私たちにさせたいことではありません。なぐさめられて「ああよかった。このままで、立ち上がれば良いのだ」と安心して前進させるためのなぐさめなのです。神様のなぐさめは、私たちに前を向かせます。
パリサイ人の義に勝る義
私たちが前進させられるのは、律法の命じる方向です。「愛しなさい」と命じられています。が、これを成し遂げたことはありません。しかし、なぐさめられて、「愛したい」「主の言われることを守りたい」と再び神様の命令に従うことを、励まされて立ち上がるのです。
たとえば、勉強にしろ、仕事にしろ、成績を上げること、実績を出すことは、人間にとって喜びです。成し遂げた喜び、達成して喜びというものを感じます。ところが、イエス・キリストを信じて神の国に生きていますと、そのようなものをいくら成し遂げても、みことばのとおり「虚しさを感じる」ことになります。どんな良いことをしようとです。「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(Ⅰコリント 13:2)」
何かを成し遂げている自分に満足できるわけではなく、むしろ罪を犯している自分を残念に思う思いが、私たちを支配します。律法から離れている一般の人には起こらないことですが、私たち主を信じる者には、当然なのです。
たとえば、嘘をついている自分があるとすれば、どんなに良いことで褒められようとも、むなしく感じるのです。そこで、悔い改めて初めて、心に安らぎを覚えるのです。物事の成就ではなく、律法の成就が嬉しいのです。神の国に生きていて、初めてそう思えるのです。
このようにしてパリサイ人の義にまさる義が実現されていくことになります。主に感謝します。
「詩篇 27:4-6 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」
ただ一つの願い
詩篇の作者(ダビデ)は言います。自分の願いはただ一つですと。それは、一生の間「主の家に住むこと」であるというのです。「主の家に住む」とは、自分の人生がすべて主のものである状態のことです。神様の御支配のもとに、いつもへりくだって、みことばに従って生きるということです。そこには常に神様からの目が注がれ、自分の目もいつも主を見上げている、という生き方です。いわば生き方が礼拝なのです。
詩篇の23篇6節でも「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」と同じ作者が告白をしています。「神様が私の羊飼いなので、いつくしみと恵が、私を追ってきます。」「だからそのようなすばらしい主の家にいつまでも住みたいです」と言っています。
おそらく「主の家に住む」という生き方をダビデはして来たことでしょう。そして改めて振り返って、主からいただいた恵の大きさを考えて、「主の家に住む」ことの素晴らしさを噛み締めています。
しかしその背景を考えてみますと、苦難の中にあったのかも知れません。息子の謀反で苦しんでいたときであるとも言われています。くずおれそうになりながらも、それでも「主は今まで守ってくださった。今回も必ず大丈夫だ。」だからこそ「私はこれからも主の家に住み続けます」と拠り所を失うまいとの強い思いを宣言していることです。
麗しさを仰ぎ見る
ダビデはこのように、人生の最も大切なこととして、主の家での礼拝に生きることを第一に掲げているわけです。そして「主の家に住む」目的は「主の麗しさを仰ぎ見」ることだと言うのです。主への「思いにふける」ことが切なる望みです。
麗しいということばは、私たちは知ってはいても、日常あまり使うことがありません。せいぜい「見目麗しい人」などと冗談交じりに言うくらいです。改めて辞書で確かめてみますと、「おどろくほどよく整っていて美しい。ほめたくなる(心があたたまる)ほど立派である。」ということです。神様を見上げますと、私たちが、そのように感じるということです。おどろくほど(神様には失礼な表現かもしれませんが)よく整っている様を、そしてその美しさを、私たちは目にするわけです。そこには感嘆の思いしかありません。その素晴らしさ偉大さは、思わずほめたくなるほどのものです。自然と賛美の心が湧いてきます。自然と膝を折って、ひれ伏しぬかずくことになります。礼拝したくなることです。十分に言い表せてはいないでしょうが、神様の麗しさとはこのようなことでしょう。
神様のこのような「麗しさ」を見上げるとき、思いをはるかに超えた力が、そこに注がれて来るのです。ダビデは、このようなことを経験しつつ生きました。だから「何者にも邪魔されないで、一日中、一生の間、主の家に住むことをしたいのだ。ここにこそ、全ての答え、解決があるからだ」という彼の本音が告白されているのです。
苦しみは、「主を仰ぎ見」る者を、主から引き離そうとします。だけど、その苦しみの答えは、この、主との交わりの中にある、ということを知っているからこそ、必死にそこから引き離されまいとする彼の思いです。私たちの人生にも同じように重なることではないでしょうか。
主を賛美する心
主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見るということは、ただただ主を賛美することに一辺倒であることです。まっすぐに主を見上げるということです。どこまでも、ただ主を心の底からほめたくなる、そのように心があたたまるまで、主を見つめることが私たちのするべきことです。私たちは主の麗しさを仰ぎ見ることができます。その時、主イエス・キリストだけが答えであるということが、本当にわかります。
なんという平安。こんな私が愛されているという強烈な思い。澄み切った心。冴え渡る意識。そのとき、今まではわかっていたけれど、しようとしなかったこと、それではいけないと思い、踏ん張ってやってきたこと、しかし疲れ果ててしまったこと、そんなことは全く吹き飛びます。今は、やりたいのです。誰が止めようとも、やりたくてしょうがないのです。主に仕えたいのです。もとよりやります、といってきたことでした。で、頑張って自分のうちに去来する、不安や恐れ、人目を気にすること、などの邪魔する思いを振り切って行動していたのです。今は違います。邪魔するものがありません。主の麗しさを見上げているからです。答えであるイエス・キリストを見上げています。本当に彼こそ答えなのです。
希望を失わないでいられる
ときとして、苦難に見舞われ、何もかも失ってしまったかのような出来事に出会う場合が人生にはあります。しかし、一旦、主の家に住むことを覚えた人は、答えである主を、仰ぎ見る姿勢を失いません。私たちは希望を失わないで生きられるのです。また、主との交わりに引き入れられ、その状況の中で、主を仰ぎ見続けます。
そして、心の中の邪魔者は退けられて行きます。愛されているという強烈な思いが再び訪れます。澄んだ冴え渡った心で、行動することに奮い立たせられるのです。主に感謝します。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ 8:35、37)」
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル 13:15)
考えるとおりの人間
聖書は、「人は心の中で考える通りの人間である(箴言 23:7 英詳約聖書)」と教えています。おそらく多くの人は、人を見て、その人がどんな人か瞬時にとらえます。そして、その人を構成している中身が、例えば知識・経験・技術・培って来た性質・性格などがぎっしり詰まったものだと、思っています。一見しただけで、その人の中身がどのようなものかを感じるわけです。
また、自分のことも同じで、知識・経験・スキルなど、あるいは性格において、の集合体、詰まったものが自分だと認識しています。そして、さらには自分のことについては、常に足りないものを感じています。そのように足りないと感じることがコンプレックスとなります。
ほとんどの人は、このような認識を人にも自分にも持っているのではないでしょうか。私もそうでした。しかし、聖書の言うことは、人とはそのような、私たちが思っているようないろんなものが詰まっている中身によって決定づけられているのではない、ということです。
人とは、その人が、今考えているそのこと、それがその人であるということです。ですから今自分が何を考えているかが、非常に重要なこととなります。
心の中に何があるか
人がその人らしく見えるのは、その人が今考えている事柄によるのです。ですから、自信のある人だとあなたの目に映れば、その人は自信のあることを考えています。楽しい人は、楽しいことを考えているのです。怖いと感じる人は、心に深刻なことを考えていることでしょう。嬉しそうな人は、心に喜びがあるからです。
これらのことは、日々変わります。喜び快活な生活を送れる日もあれば、ふさぎ込む日もあります。毎日多かれ少なかれ変化しています。しかし、そのような中でも、根本的にいつも同じ傾向の自分が存在するのも確かです。毎日がなんとなく楽しくない、と基本的に同じ感情の下で生きている人も大勢います。「なんか面白くないなあ」「楽しいことが起きないかなあ」と小さな嘆きを呟きながら生きている人も多いでしょう。私の友達にもいました。いつもため息をついているのです。
一方、「もっと積極的に生きよう」と「だから、こんなんじゃいけない。こんなんじゃいけない」と自分に言い聞かせて生きている人もいます。私はそういうタイプでした。常に何かに追われ、プレッシャーを感じ、焦っているのです。
あるいは、恐れを感じていて、不安や心配が日常的に止むことがない人もいるでしょう。心の奥底に恐れがあって、日常の出来事によっては、それが和らいだり、強まったりしていることです。「そうだ。大丈夫だ」と希望を持つことができたり、打ちひしがれて、「逃げ出したい」と思ったりの繰り返しがあります。
他にもたくさんのことを私たちは考えますが、その考えていることそのものが、私たちを決定づけるわけです。
心の中身を変える
おそらく、ほとんどの人は、以上のようなことを意識するとき、自分を変えてしまいたいと思っていると思います。そのためには、今考えていることを変える、という非常にシンプルなことが求められることになります。今、この瞬間の考えさえ変えることができれば、私たちは変わります。人とは考えるとおりのものですから。
今、「力強く」「前向き」な人間になりたいと思っているなら、今、心の中に前向きな自信の溢れる態度を取れば良いのです。しかしそんなことは、おそらく何度も聞いてきたことだと言われるかも知れません。そうです。成すべきこと、考えるべきことはわかっているのに、こんな簡単なことさえ、非常に難しいと感じさせられています。
心の中身を変えるというのは、非常にシンプルで誰にでもできそうな感じがしますが、なぜこんなにも難しいのでしょうか。「考えるとおり」と言われながらも、この「考える」ということが、私たちにとっては、自分では簡単にコントロールできない、ままならぬことなのです。
確かに、私たちの心に働く、破壊する敵がいます。「もう悩むのはよそう。決めた。前向きで行く」と決意しても、すぐ崩されます。この敵に打ち勝つためには、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
祈りが扉を開く
そこで、私たちの心の中身を変えるには、まことの神である主に対する祈りが必要です。祈りが最重要事項なのです。祈りとは、神様との交わりであり、会話です。主に申し上げ、そして主から語られる、受ける、という双方向のコミュニケーションです。
祈りの中では、私たちから主にささげること、それは唇に賛美のいけにえを捧げることになります。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル 13:15)」
私たちが心を注ぎ出して、主に思いをはせるとき、私たちの心に湧き上がるのは、神様への感謝であり、神様を喜び、ほめたたえる思いです。実際は、主に対する賛美が、心の中に、しかも一日中、溢れていることが必要です。そこには、悪魔が入り込むことはできないからです。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(詩篇 22:3)」神様の住まいに悪魔は近づくことができません。
主を賛美する心を持ちましょう。心の中には主への賛美しか存在しない、そのように主への賛美で心の中にあるものを追い出しましょう。その時、あなたの心には静けさ、平安が訪れます。あなたは壊されないで、前を向くことができます。
出エジプト記 15:26
わたしは主、あなたをいやす者である。(新改訳第3版)