20.12.27 2020年感謝 すべてに感謝



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「イザヤ1:18 さあ、来たれ。論じ合おう。ー主は言われるーたとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

雪の結晶

 今年は12月に入っても、いつまでも温かい日が続いていた印象がありますが、先々週頃から急に寒さが増してきました。戸外に出てきりっとした冷たい空気を感じると、やっといつもの冬がやって来た感じがしました。北陸や東北など寒い地域では大雪となった地域もありましたが、名古屋でもちらほらと雪が降り、外を歩くと体が緊張してしまうような寒さでした。路肩には、夜に降ったであろうみぞれのような雪のかたまりが残っていました。
 雪は真っ白で美しいイメージがありますが、雪の結晶もまた、よく知られているようにとても美しい形をしています。雪の結晶はきちんとした六角形で、まるでレース編みのモチーフようにきれいな模様をしています。結晶中の水の分子の並び方が、真上からみると正確な正六角形になっていて、この小さな結晶の周りに少しずつ水の分子がつながって、雪の結晶が成長します。その時の空気に含まれる水蒸気の量によっていろいろな模様になります。雪の結晶は一つとして同じものはないということですが、どうしてそんなに千差万別のきれいな模様ができるのかは、まだわかっていないそうです。雪の美しさや結晶の規則正しさを見るとき、私たちにはこの法則が決して偶然にできたものではないとわかります。すべてのものを造られた創造主がおられることを知ることができるのです。

聖書の中の雪

 「雪」は聖書の中にも出て来ますが、実際に「雪が降った」というように書かれている箇所は数カ所で、ほかは「雪のように白く」などのような使い方がされています。たとえば、イエス様が墓に葬られてから三日目の明け方、女たちが墓を見に行った時、大きな地震が起こって、主の使いが天から降りて来て石をわきに転がしてその上に座りましたが、「その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。(マタイ28:3)」と記されています。またヨブ記には、神様が雪や雹(ひょう)の倉を造って保管しておられること(ヨブ38:22)や、雪に対して「地に降れ」と命じておられる(同37:6)ことが書かれています。神様が主権を持って、気象を支配されていることがわかります。

あなたの罪は雪のように白くなる

 冒頭のみことばは、 イエス・キリストの十字架の贖いの預言です。 ここでの「白さ」は「潔白」という意味です。
 人は生まれながらの罪人です。罪の性質を持って生まれて来るので必ず罪を犯します。まず神の存在を認めないことが罪です。嘘つきで、利己的で人を愛することなど少しもできません。すぐに傷つけてしまいます。そのため、いつも罪悪感に責められていて、集中力を発揮できなかったり、言いようもない恐怖に襲われたりします。しかし、罪は自分で取り除くことは絶対にできません。神は罪ゆえに苦しんでいる私たちをあわれんでくださり、私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架につけてくださいました。どんなに酷い罪を犯していても、イエス・キリストを信じれば、あなたの罪は「雪のように白く」されるのです。

2020年感謝

 私たちはイエス・キリストを信じて罪赦され、永遠のいのちが与えられました。救いの恵みは、いくら感謝しても感謝しきれない神様からのプレゼントです。そして救われた私たちは、私たちの周りにある見るものすべては、神様が造ってくださり私たちに与えてくださったことを知っています。季節ごとに移り変わる自然も、街行く人々も、すべて神様が造られました。私たちの生活に起こるすべてのできごとも、神様のご支配の中にあります。そして神様は、私たちに祝福を約束してくださいました。ですから、神を信じる私たちのするべきことは、神様がしてくださっておられるすべてのことに、ただ感謝して歩むことです。
 2020年もあとわずかです。今年のテーマは「感謝」でした。この一年も神様が私たちとともにいてくださり、恵みを注いでくださったことを感謝します。多くの魂が救われました。コロナ禍にあって礼拝や学びが守られました。クリスマス集会も祝福されました。そして、神様の不思議な導きによって、新しいリトリートハウスが与えられ、そして私たちの望んだ通りの新しいプレヤーハウスが与えられようとしています。この恵みを通して、神様の祝福は人間的な思いをはるかに超えて与えられることを、私たちは教えられました。神様はすべてのことを働かせて益としてくださる方です。新しい年も、神様があふれる祝福を注いでくださいます。ただ主に感謝し期待して、2021年を迎えましょう。

20.12.20 クリスマスおめでとうございます



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「ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである 。」

ベートーヴェン生誕250年

 今年2020年は、ベートーヴェンが生まれてちょうど250年の節目の年だそうです。ベートーヴェンと言えば、白髪のロングヘアーに、キリッとした目で遠くを見つめている肖像画が印象的で、学校の音楽室で見たことがある人も多いと思います。彼は、父、祖父ともに音楽家で3歳の頃から父親にピアノを習っていました。父親の演奏会でピアノ奏者として演奏し、その才能を発揮します。その後、両親を亡くし、20代後半頃からは耳が聞こえにくくなり、40代半ばには、ほとんど聞こえなくなっていました。しかし彼は、すでに頭の中にある音を組み合わせて作曲をしていたのです。56歳で亡くなりますが、晩年に作曲した交響曲第9番第4楽章「歓喜の歌」は、日本では毎年この時期になると演奏されるほど親しまれています。様々な試練や苦しみの中で彼を支えていたのは神への信仰でした。彼は「わたしは何ら怖れることなく神と交わり、いつも神の力を感じ、またそれを知っています。」と言っています。
 ベートーヴェンやバッハなど、有名な音楽家が誕生して200年以上が経過した今でも、その残した功績などが語り継がれています。

イエス・キリストの誕生日

 そしてクリスマスは、イエス・キリストの誕生日であります。ベートーヴェンよりもはるか昔、2000年以上も前に、この地上にお生まれくださった神の御子であられるお方ですが、今もなお、世界中でこの救い主のご降誕をお祝いするクリスマスの時が持たれています。
 私たちはみな、自分の誕生日があり、毎年やってくるその日には、お祝いの言葉をかけてもらったり、ケーキやプレゼントなどでお祝いしてもらったりすることだと思います。それは誰にとっても嬉しい瞬間でありますが、私たちにとって最も嬉しい出来事は、やはり救い主のご降誕、クリスマスの時ではないでしょうか。

主は最高のプレゼントをくださった

 クリスマスは、私たちにとって特別な時であります。それは、「救い主がお生まれになる」という神様のご計画が実現した時だからです。救い主イエス・キリストが、処女マリアを通してお生まれになり、そして人としてこの地上での人生を歩まれ、私たちを罪から救い出すために十字架で身代わりとなって死んでくださったその神様の深い御愛のゆえに、私たちは救われました。主は私たちに、「救い」という最高のプレゼントを与えてくださいました。私たち人はみな、まことの神の御前に死んで滅ぶべきようなそのような罪を犯している者です。そんな罪ある者のために神は、救いの道を開いてくださり、私たちに対する愛を余すところなく示してくださいました。神が一方的に、しかも「ただ」で与えてくださった賜物(プレゼント)です。神様は、この世の造られる前からずっと、あなた一人のことに対してずっと変わらぬ愛を持ってご覧になっておられたのです。「あなたを救いたい」というただ一つの目的のために、救い主をあなたのために遣わしてくださったのです。これほどまでに一人の人のことを思って愛してくださる方は他にはいません。その救い主は今も生きておられる方です。救い主がお生まれくださるということ以上に嬉しいプレゼントが他にあるでしょうか。私たちは感謝しても感謝しきれないほどのたくさんの恵みを神様からいただいています。

心の中に主をお迎えしましょう

 私たちはこのクリスマスの時を覚えて、私たちのためにお生まれくださった救い主イエス・キリストのご降誕を、心からお祝いしたいと思います。救い主を心の中にお迎えすることによって、私たちはあらゆる世の誘惑、罪から守られるだけではなく、いつも心が神様に向けられていき、自然と心の奥底から喜びが湧き上がってきます。救われていることへの感謝があふれてきます。「こんな罪ある私のために主はお生まれくださったのだ」という主の深いご愛に感謝せずにはいられません。私たちは今、心に「平和の君」であられる主をお迎えしましょう。

20.12.13 主を愛する



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「申命記6:5 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

ポインセチア

 ペピタという貧しい少女がいました。クリスマスイブの夜、イエス様のお誕生日を祝うため、贈り物をしたいと思いましたが、あげるものも、贈り物を買うお金もありませんでした。ペピタが泣いていると、いとこのペドロが慰めました。「どんなにささやかなものでも、心がこもっていれば贈り物をもらった人はきっとうれしいはずだよ。」。そこでペピタは道端の草を摘み、心をこめてブーケをこしらえました。そして、恥ずかしい思いをこらえて教会に持っていくと、信じられないことが起きました。ブーケの草が美しい「花」に変わったのです。見たこともない真っ赤な植物に・・。メキシコに伝わる、メキシコ原産のポインセチアの物語です。
 クリスマスの時期を彩るポインセチア。よく知られているように、あの赤い花びらのように見える部分は花ではなく、苞(ほう)と呼ばれる、中央の小さな花のかたまりを保護する葉の部分だそうです。鮮やかな赤色は、寒い冬の時期に見る人の目を楽しませ、明るい気持ちにさせてくれます。花言葉は「祝福する」などですが、ペピタの心のこもった贈り物を、イエス様が喜んでくださり、祝福してくださったのでしょうか。

何が嬉しいか

 贈り物をもらうのは嬉しいものです。誕生日のお祝いや合格祝い、結婚祝いなど、私たちはよく贈り物をします。その場合は普段とは違って少し特別なもの、豪華なものかもしれません。その他にも手土産やちょっとしたお礼など、普段の生活の中でも、ものをあげたりもらったりすることはよくあると思います。もらったものが自分のほしかったものであったらもちろん嬉しいです。しかしささいなものであっても「今ほしかったんだ!」と、ちょうど良いタイミングでもらうと、また嬉しいものです。
 しかし何よりも嬉しいのは、その人がこの贈り物を準備するのに、自分のことを思い起こしてくれたことではないでしょうか。たとえお菓子一つのようにささいなものであっても、あの人に何かをあげようと思いつき、渡してくれるまで、その人が自分のことを思ってくれたことが嬉しいのだと思うのです。だれでも、だれかが自分のことを思ってくれるのは嬉しいものです。

従うことを喜ばれる神

 第一サムエル記に出てくるサウル王は、イスラエルの最初の王として神様に油注がれた人でした。ある時主は、「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。(Ⅰサムエル15:3)」と彼に命じられました。サウルは兵を集め、アマレクの町まで行ってアマレク人を討ち、王を生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶しました。しかしサウルは、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで聖絶しようとしませんでした。彼は主のことばを守らなかったのです。祭司サムエルが問いただした時、彼は「主に、いけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。(同15:21)」と言い訳しました。するとサムエルは「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うほどに 喜ばれるだろうか。 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(同15:22)」と言いました。神様が喜ばれるものは、羊や牛のようないけにえではなく、神様に従う心でありました。サウルは主のことばを退けたので、王位から退けられました。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。(Ⅰヨハネ5:3)」

主を愛しなさい

 イエス様は、律法学者が「どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)」と尋ねた時、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(同12:30)」であると答えられました。「心を尽くす」というのは、心の全部を使うということですから、心の中がいつも神様でいっぱいであることが、神様を愛することだということです。朝起きて支度をしている時も、職場や学校で過ごす時もずっと神様のことを思っていることです。一緒に過ごす同僚や友達を見る時も、窓から見える美しい風景を眺める時も、ああこれらはみんな神様が造られたものなのだ、と思うことです。そして神様を思うということは、神様のみことばを思い起こすことです。みことばは何が正しいかを私たちに教え、戒め、私たちを罪の誘惑から守ります。いつも神様を思う時、私たちの心は一日中神様に守られて過ごすことができます。神様はそのような私たちの心を喜んでくださいます。心を尽くして主を愛して参りましょう。

20.12.06 コントロールできない



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「ヤコブ3:8 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」

「ついうっかり」

 近年、SNS上での批判や誹謗中傷が問題になっています。今年8月、ある有名人歌手の女性が、安倍元首相の辞任会見を見て感極まった思いを、ラジオ番組の中で明かしました。「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて。」とコメントしました。プライベートでも親交があり、総理が苦渋の決断をする姿を見て素直に感じた思いを明かしたことだったと思います。このコメントに対して、京都のある大学講師がSNS上で、「醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために。」と投稿し炎上(ネット上での失言や暴言をきっかけに批判のコメントが殺到し、収拾がつかなくなる状態のこと)しました。この大学講師は、それまでも安倍政権に対する批判の投稿を繰り返していたそうです。そして批判が止まらないことを受けて、「つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします。」と謝罪のコメントを投稿するに至りました。
 このような「ついうっかり言ってしまった」という失言はSNS上だけではなく、テレビなど公の場に顔を出している政治家や有名人でも取り上げられ、後に謝罪することになるケースが多くあります。

舌を制することができる人はだれもいない

 私たちも日常生活で人と関わりを持つ中で、「ついうっかり言ってしまった」ということがあると思います。仲間と楽しく話をしている時、ついうっかり言わなくてもいい事を言ってしまったり、口げんかになる時に、過去のことを蒸し返して相手をののしってしまうことなど、心に思い当たることがあるかもしれません。誰でも「人を愛したい」「人の役に立つことをしたい」と思っています。そう思いながらも実際には、怒ったり批判したりしています。怒る言葉ではなく、愛の言葉を口にすればいいことは頭で理解できても、自分で話す言葉をコントロールすることができないでいます。ヤコブは、「舌を制することができる人は、だれもいません。」と言っています。私たちの内側には、そのような悪い考え、人を憎んだり妬んだりする思いなどの罪が相変わらず潜んでいます。それゆえに「心に満ちていることを口が話すのです。(マタイ12:34)」とありますように、ついうっかり言ってしまった言葉も、心にないことではなく、心にあることを話しているのです。ですから私たちは、自分で自分の話している言葉をコントロールすることができない者であるということを自覚しなければなりません。

主は耳を傾けておられる

 主はどこにでもおられ、人と楽しく話をしているその輪の中におられます。家でいがみ合っている夫婦の間にもおられます。人は自分が言ったことを忘れていても主は聞いておられます。主は、私たちが人前に明らかにしたくないと感じている心の奥底にある罪もすべてご存知であられます。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。(ヘブル4:13)」。私たちは時に、人と楽しく話をしているその場所に主がおられないかのように、言いたいことを言ったり人の陰口を叩いたり、直接人に攻撃的にものを言ったりしているかもしれません。しかし主は聞いておられます。人と会話をしているその場所に主がおられるということをいつも意識していなければなりません。

人を建て上げる言葉を口にする

 私たちは、自分が普段どんな言葉を口にしているのかを点検しなければなりません。「私の説明や助言、指摘は、相手のことを思ってしていることだろうか。自分が言いたいことだけを言っていないだろうか。相手が自分の話を受け入れてくれるだろうかということばかり気にして、実際は相手のことを全く考えないで話しているのではないのか」ということを心に問いかけて点検しなければなりません。何を話せば良いのかは、主がその話す言葉を与えてくださいます。「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす(箴言12:18)」とありますように、私たちは自分の話したいことを話すのではなく、人を建て上げるための言葉や、人を思いやる言葉や、人に寄り添う言葉を口にしなければなりません。主のご支配が私たちの内に今あるならば、私たちの口から出てくる言葉は、人を癒やす働きとなります。主は、そのような人を用いて働きたいと願っておられます。私たちの口から出てくる言葉はいつも、主から語られるみことばでありたいと思います。

20.11.29 本当の友



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「箴言17:17 友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」

徒然草

 徒然草(つれづれぐさ)は、枕草子や方丈記と並んで日本で最古のエッセイ集です。作者の吉田兼好が日々の生活の中で得た考えを、思うままに綴(つづ)ったものですが、その中に「友の選び方」について書かかれている段があります。「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。」と書かれています。つり合わない身分の高い人、理解し合えない若者、健康すぎて病人の気持ちがわからない人、酒好き、勇ましく血気盛んな武士、嘘つき、欲が深い人は友達として望ましくないということです。一方、友達にしたい人については、「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師、三つには、知恵ある友。」とあります。物をくれるような気前のいい人、健康状態を相談できる医者は友だちにしておけというのは何だか打算的で苦笑しますが、兼好は病気がちだったのだろうと言う人もいます。だからこれらの基準は兼好の個人的な都合にもよるわけですが、今共感できるところも多々あります。このエッセイが書かれた約700年前にも、人々は現代と同じように人間関係の悩みを抱えていたんだな、と感じることができます。

友だちがほしい

 昨今は多くの人がSNSを使っています。LINE(ライン)やFacebook(フェイスブック)などを使って、毎日のように友だちや家族、時には未知の人とやりとりしている人は多いと思います。SNSは便利な反面、犯罪のきっかけになったり、書き込みが原因の自殺が後を絶たないことが社会問題になっています。それでも多くの人がSNSを手放そうとしないのは、人はいつも誰かとつながっていたいという思いがあるからでしょう。みんな友だちがほしいと思っているのです。
 では私たちは、どんな人と友だちになりたいでしょうか。一般的には、明るい人、楽しい人、話しやすい人、気の合う人、趣味が同じ人などでしょう。職場や学校には、いつも一緒に何となくおしゃべりして過ごす友だちがいると思います。しかし、多くの人が求めているのは、本当に自分のことを思ってくれて、真剣に話を聞いてくれたり、時には叱ってくれる友だちではないでしょうか。兼好も本当は、弱い人の気持がわかる友を求めていたことが伺われます。しかし、人は皆自分のことで精一杯で、人の弱さまで受け入れてくれる友だちを得るのは、そう簡単なことではないかもしれません。

聖書が教える「友」

 聖書には、「多くの友に関わる人は身を滅ぼす。しかし、兄弟以上に親密な友人もいる。(箴言18:24)」とあります。友だちには、悪に誘惑して滅びに至らせる友だちもあるが、兄弟よりも親密になり、いざという時にたよりになる友だちもある、だから友だちは選びなさいということです。聖書も友を選ぶように教えていることがわかります。ほかにも、たとえば「怒りっぽい者と交わるな。激しやすい者と一緒に行くな。(箴言22:24)」とあります。いくらいつも一緒にいる友だちだとしても、その人の悪い生き方まで真似てはいけないと教えているのです。
 一方で、冒頭のみことば、「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」は、友や兄弟のありかたを教えています。「どんなときにも愛する」ことの、聖書の中にある例は、ダビデとヨナタンの友情です。ヨナタンは、自分の父親がダビデを殺そうとしていることを知り、機転を利かせてダビデのいのちを助けました。自分の父親に背いてまでも、友のいのちを助けたのです。(Ⅰサムエル20章)友が苦しむ時は、その苦しみを分け合ってこそ、本当の友であるということです。

本当の友

 イエス様は「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」と言われました。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架でいのちを捨ててくださいました。そのようにして正に私たちの罪から来る苦しみを分け合ってくださり、私たちに対する愛をあらわしてくださいました。イエス・キリストこそ私たちの本当の友です。
 私たちはどこまでも自己中心的な者であり、だれかの本当の友になれるような愛は持っていませんし、またそれを人に求めることもできません。しかしイエス・キリストを信じて、友としていただいた私たちは、その受けた愛を人に注ぐことができるのです。私たちは友のために真剣にとりなし祈る者となりましょう。

20.11.22 主にゆだねよ



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「箴言16:3 あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。」

修学旅行の計画変更

 「修学旅行」といえば、小学校や中学校、または高校に在学中の大きなイベントの一つだと思います。私は今でも、当時修学旅行へ行った先で観光した場所や、その時の様子を覚えています。中学生の時に東京へ行った時のことはとても印象に残っています。当初は、クラスの中で4~5人ぐらいの班に分かれて、都内の観光ルートや交通手段を自分たちで決めて、班ごとにまとまって観光する予定でした。計画の段階からみなとても楽しそうで、ワクワクしていました。しかしその頃、あのオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、そして修学旅行へ行く2~3日前には、東京都庁で小包爆弾事件が起こり、修学旅行の計画は大きく変更され、観光バスに乗って全員での移動となり、観光する場所も制限されてしまいました。そして宿泊先は、事件の起こった都庁のすぐそばでした。この当時のことは、今でも忘れられません。
 そして今、コロナ禍で修学旅行を中止したり、延期したり、行き先を近場へ変更することを余儀なくされる学校がほとんどであります。子どもたちにとっては、とても楽しみにしているイベントだと思いますが、私も今の子どもたちの心境が分からなくもない気がします。

自分なりに考えるが計画通りにならない

 そして私たちも、普段の日々の生活の中で起こることや、また将来のことについて色々と考えたり、計画することがあると思います。
 私は救われる以前、「自分自身を変えたい、人生を変えたい、幸せになりたい」という思いを強く持ちつつも、何も変わっていない現状に悶々として生きていました。毎年この時期になると、「来年の計画を考えよう」と思って、来年のことや、その先の5年後、10年後、どうなりたいかということを計画していました。「仕事で成功したい、車が欲しい、旅行へ行きたい、親孝行をしたい」ということを思い描き、計画が完成すると、将来への希望にあふれとてもワクワクしてきます。しかし、年が変わってしばらく経つと、計画したときのワクワク感はどこかへ消えてしまい、日常生活に起こる様々な問題に日々追われて、それどころではなくなってしまいます。自分が計画した通りにはなっていないことばかりでした。
 普段の日常生活でも、私たちは様々なことを考え、予測しています。「今日は、あの続きの仕事を終わらせないといけない。それに加えて、人から頼まれている仕事もやらなければいけない。まず続きの仕事を午前中までに終わらせて、午後からは依頼された仕事に取り掛かろう。そうすれば今日中にすべて終えることができる。」と考えて、いざ仕事に取り掛かっても、予期せぬトラブルや問題が起こったりして、なかなか仕事がはかどらず、一日終わってみると、「全然進んでいなかった」ということもよくあると思います。私たちは、先のことをあれこれと自分で考えて、ある程度のことは予測することはできても、結果がどうなるかということについては、その結果が出るまでは全くわかりません。

事の決定は主がなされる

 主は、今世の中で起きている出来事や、私たちの身近で起きている出来事、私たち自身に起きている出来事のすべてをご支配され、導かれています。今日、空を見上げる時に雲一つない青空が広がっていること、一日中雨が降り続いていること、急に寒くなり冷え込んでくることも、すべて主が起こされていることです。
 今日、自分の予定していた仕事が、突然のトラブルによって変更せざるを得なくなることも、主がその決定をされていることです。予定通りにならないことで、私たちは慌てたり焦ったりすることがありますが、主がそのことを起こされているということを知らなければなりません。
 仕事で契約が成立することも主がその決定をされています。主がそのやり取りの現場におられて、相手の人の心を動かし、「よし、契約しよう」という決断に至らせるのです。また、契約にならないことや、契約になったものが白紙になってしまうことも、主がそのことを起こされます。私たちは、事の決定は主がなされ、起きている出来事に、主の目的、ご計画があり、主の主権があるということを認めなければなりません。

事の始めから主にお任せする

 ですから、私たちは自分の生活、人生のすべてを主にご支配していただかなければなりません。今日一日仕事を始める時から、起こることをすべて主の御手に委ねることです。「私には今日何が起こるのか、すべてを知ることはできません。あなただけがご存知であられます。何が起きても主がなされることですので、私は主の働きを歓迎し、喜びます。主のみこころがなされますように。」と祈って始めることが大切です。仕事をしている時も、主のご支配を歓迎しつつ、今日やるべき仕事、勉強、家事をコツコツとやり続けていくその先に、主がなされる一番良い結果へと導かれていきます。「トラブルはあったけど、予定通りに仕事を終えることができた」とか「思いがけない人から、契約したいという良い知らせが来た」ということが起きたりします。また、「何も起こらなかった」ということになるかもしれません。それでも主はその先に、私たちに対する良きご計画を持っておられ、そのために私たちを導いておられます。主のなされることはいつも最善です。私たちは主の前にへり下って、心の中に主のご支配を受け入れてただ主に信頼して歩んでまいりましょう。そうすれば、私たちの心にある計画は主にあって成し遂げられ、私たちは主にあって祝福されます。

20.11.15 互いに愛し合う



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「ヨハネ15:12  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

ぴよちゃん

 中日新聞の4コマ漫画「ねえぴよちゃん」が好きで、いつも楽しみに読んでいます。何が良いかというと、この漫画の登場人物はみんなやさしいのです。小学生3年生の女の子ぴよちゃんと飼い猫の又吉、家族やまわりの人々との心温まる日常が描かれていますが、こういう漫画によくある、ちょっと意地悪なキャラクターがいなくて、ぴよちゃんを取り巻く人々はみんな良い人ばかりなのです。4コマのほんの一瞬のストーリーなのに、登場人物のやさしい心に触れて、ほんのりと明るい気持ちになれる漫画です。
 中でもお気に入りは、ぴよちゃんの同級生のひみこちゃんです。彼女はお金持ちのお嬢様で、いつもきれいな服を着てピアノやバレエを習っています。ぴよちゃんのことが大好きなのですが、ツンデレな態度をとってしまい、後で後悔したりしてとてもいじらしいのです。一方ぴよちゃんはとてもポジティブで、そんなひみこちゃんの微妙な気持ちもつゆ知らず、誰とでも仲良しです。だけどひみこちゃんは嫉妬することもなく、ときには身を引いてちょっとさみしい気持ちになっていたりするのです。こんなに良い人ばかりいる世界もあるかもしれないな、と希望がわいて来るのです。調べてみると、この漫画のファンはたくさんおられるようで、ひみこちゃんも人気上昇中のようです。

暗いニュースの中で

 新聞やテレビのニュースは毎日、世界中で起こっているさまざまな問題を伝えます。コロナ禍で、ヨーロッパでは第2波第3波の感染拡大が起こっています。日本でもGO TOキャンペーンの影響か、観光地など地域によっては感染者が増加しています。経済の問題は相変わらず深刻です。毎日のように詐欺や殺人事件が報道されます。また、ここ数日持ちきりだったアメリカの大統領選挙は、開票が終わっても何かしらくすぶっていて釈然としません。
 もちろん明るいニュースもあるはずですが、耳に優先的に入ってくる情報を聞いていると、人間の無力さや、利己主義、尽きない欲望を目の当たりにし、いつの間にかやりきれないような暗い気持ちになってしまいます。そのような中で、新聞の片隅にさりげなく掲載された小さな4コマ漫画が人の心をとらえるのは、まるで砂漠の中のオアシスのように、登場人物が愛し合う、それぞれの愛を感じて、ほっとするからなのだと思えます。

大きな愛

 イエス様の弟子たちは、イエス様と一緒に生活していたとき、誰が自分たちの中で一番偉いかなどと争って、イエス様からたしなめられるような者たちでした。そんな彼らにイエス様は最後の晩餐で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」と教えられました。そして続けて、「わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と言われました。「友だち」はとても親しい人間関係です。ほかの人には話せないことを話せるのが友だちです。さらにイエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(同15:16)」と言われました。イエス様が十二弟子を選ばれたのは、彼らが特別に優秀だったからではありません。ある者は漁師、ある者は当時罪人とされていた取税人、というように皆ただの普通の人だったのです。イエス様はただ一方的に彼らを愛し選んでくださったのです。そして「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(同15:13)」と言われた通りに、すべての人の罪の身代わりとして、十字架で死んでくださいました。私たちに神様の「大きな愛」をはっきりと示してくださいました。そして、私たちも同じように「互いに愛し合」いなさい、と言われたのです。

互いに愛し合うことができる

 神様がまず私たちを愛してくださったので、私たちは、互いに愛することができます。「ぴよちゃん」を取り巻く人々は、皆良い人ばかりですが、現実に職場、学校、家族親戚など私たちの周りには、自分にとって良い人ばかりがいるわけではありません。意地悪な人、悪口を言ってくる人、相手にしてくれない人、協力してくれない人など、自分にとって都合の悪い人が必ずいます。神様が命じている愛はそんな人をも愛する愛です。「そんなことはとてもできない。」と私たちはあきらめてしまいそうですが、そんな愛することのできない私たちを、イエス様は愛し、選んで救ってくださり、友と呼んでくださいました。どんなに愛せない出来事があったとしても、私たちはいつもこの神様の「大きな愛」に立ち返らなければなりません。神様の愛を受け取ってはじめて、私たちは真に愛し合うことができるのです。

20.11.08 私たちの望み




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「Ⅰコリント15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」

空飛ぶクルマ   

 昔のSF映画で、近代的な高層ビルが立ち並び、たくさんのクルマが上空を勢いよく飛び交っているワンシーンを目にしたことがある人も多いと思いますが、それが現実となる日はそう遠くないかもしれません。二ヶ月ほど前、豊田市のとある場所で、空飛ぶクルマの有人飛行実験が行われ、4分間のフライトに成功しました。車体は全長4メートルほどで、四隅にはプロペラとモーターが取り付けられており、ドローンの大型版といったイメージです。車内はシンプルで、人が一人座れるスペースだけがあり、前方には大きなモニターがあります。ハンドルはなく、すべて自動運転です。時速60kmの速さで、目的地まで自動で飛んで行きます。3年前の実験では、たったの3秒で墜落してしまったそうです。空飛ぶクルマの開発者は、「何回も何回も失敗してここまで来た。早期の実用化を目指していきたい。」と話しています。

暮らしが変わることへの期待

 また今年の3月、東京の山手線の駅に、無人店舗のコンビニエンスストアがオープンし話題となっています。入り口には駅の改札のようなゲートがあり、スマホをかざして入店します。これで誰が入店したのかが分かります。店内の天井には50台のカメラが設置され、客が商品の陳列棚から自分の買いたい商品を手に取りマイバッグに入れると、その商品が検知されます。そして買い物を終えてゲートを通過して外へ出ると決済が完了します。このような画期的なシステムを導入している店舗はまだごく僅かですが、近い将来はどこでも見る光景になるかもしれません。その他にも、ドローンによる郵便の配達や、ロボットを活用した様々なサービスなど、AIなどの技術の進歩によって、様々な新しいサービスが生み出されています。このような明るいニュースを耳にしますと、「これからどんな便利で豊かな暮らしが待っているのだろうか」と、この先に待っている未来に期待を持つことができます。

生きることに希望が持てない

 世の中がどんどん変わっていき、日常の暮らしにも変化が出てきている一方で、私たち自身の生活、人生はどうでしょうか。この先の将来に対して、期待や希望で満ちあふれているでしょうか。先日、こんなアンケート調査がありました。俳優や声優の人たちを対象としたアンケートで、「仕事が原因で死にたいと思ったことがあるか」という質問に対して、約3割の人が、「ある」と回答していたそうです。最近は、SNSの書き込みによる中傷がクローズアップされたりしていますが、生きることに希望が持てなくなってしまうということは、何も有名人だけの話だけではなく、普通に暮らしている私たちの心の中にも潜んでいることであったりします。楽しく感じられる時は良いのですが、そう感じなくなってくると顔がだんだん曇り始め、人から言われることや評価されることに敏感になったり、自分の中であれこれと悩み考えて、コントロールがきかなくなっていきます。それが毎日続いて行きますとしまいには、「私は何のために生きているのだろうか」と問いかけるようになってきます。生きることに意味や希望が持てなくなってきます。

主は復活してくださった

 人は誰でも、まことの神に出会うことがなければ、生きる意味、目的、希望を見出すことはできません。イエス・キリストに出会うならば、罪の赦しをいただいて、永遠に主とともに生きられるという希望を持って、この地上での人生を生きることができるように変えられます。
 イエス・キリストは、人としてこの地上を歩まれ、そして十字架にかかられ、死んでくださいました。そして三日目に死からよみがえって復活してくださいました。それはイエス様が全く罪のないお方だったからであります。罪のないお方が、罪あるこの私の身代わりとなって死んでくださいました。このお方を信じる者に罪の赦しが与えられ、やがて主が再び来られる再臨の時に、主と同じ栄光の体へと変えられます。それは全く罪のないお方であられる主が、先によみがえってくださったからであります。「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(第一コリント15:20)」。この事実によって、私たちもやがて復活するという望みを抱いて、この地上での歩みを過ごすことができるのです。
 もしキリストの復活がなかったとしたら、私たちが信じていることが全く意味のないことになってしまいます。罪の赦しはなく、罪を犯さないようにして我慢して生きることになり、日曜日に集まって「主は生きておられる」と叫びながら礼拝し、ささげ物をして、イエス・キリストを宣べ伝えるというすべてのことがむなしいこととなり、世の中で一番哀れな存在となってしまいます。実際に世の中の人たちは、私たちクリスチャンのことをそのように見ています。「日曜日という貴重な休みの時間をそんなことに使って」というような目で見ています。しかしそれは事実を知らないからだけです。イエス・キリストに出会って罪赦されて、この先の人生、そして死んだ後やがて復活し、永遠という時間をみもとで過ごすことができるということを知らないだけなのです。私たちのために、死を打ち破って復活して勝利を取ってくださったイエス・キリストに希望を抱いて生きられる恵みに感謝します。

20.11.01 満ち足りた生活



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「詩篇65:4 幸いなことよ あなたが選び 近寄せられた人 あなたの大庭に住む人は。私たちは あなたの家の良いもの あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。」

世界一貧しい大統領

 先月末、ウルグアイのムヒカ元大統領が、政治からの引退を表明したと報道されました。コロナ禍で、ウルグアイの死者数は50人と、ブラジルなど他の南米諸国に比べて相当少ないそうですが、これはムヒカ大統領と後任の大統領の時代に国の公衆衛生が大幅に強化されていたからだと評価されています。彼は「世界一貧しい大統領」と呼ばれ、国内外で愛されました。給料の9割を寄付し、大統領官邸には住まず、自然に囲まれた郊外で清貧な生活をしました。「世界一貧しい大統領」と呼ばれることをどう思うかと尋ねられ、「貧しい人とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない。」と答えました。「モノを買う時、人はお金で買っていると思っているが、そうではなくてそのお金を稼ぐために働いた人生の時間で買っている。買い物と引き換えに人生の残りの時間がなくなってしまっては元も子もない。簡素に生きていれば人は自由だ。」と言います。彼が幸せを感じるのは、野菜や花を作っている時や、地元の人々と会話をする時だそうです。彼のことばは多くの人に影響を与えました。 

際限ない欲望

 私たちの住む社会は消費社会です。お店には魅力的なモノがあふれています。次から次へと新しいモノが作られ、巧みに宣伝しては人々の購買意欲をあおります。スマホなどもどんどん機種が新しくなっていき、人々はまだ十分使えても買い替えて行きます。困るのはパソコンなどは新しくしないと、以前と同じ使い方ができなくなって来ることです。アプリケーションもバージョンアップするからです。技術が進歩するのは良いことですが、高額な商品ですから、もう少し消費者目線で考えてくれないものかと感じるのは私だけではないでしょう。
 さらに、今はインターネット上でいつでもどこでも買い物ができます。商品は無限かと思われるくらいの数があり、選ぼうとしてもきりがありません。それに費やす時間も膨大です。求めもしないのに、商品の情報が画面のあちこちに飛び出て来ます。欲しいモノを何でも買おうとすれば、多くのお金が必要です。私たちは時にムヒカ氏のように、必要以上に欲しがっていないだろうか、と静かに考えてみることも必要ではないでしょうか。

金銭を愛すること

 聖書は金銭を愛することを警告しています。イエス様は、金銭を好むパリサイ人に、金持ちとラザロの話をされました。
 あるところに金持ちがいました。彼は毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。彼の家の門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていました。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られました。彼はよみで炎の中で熱さに苦しんでいました。金持ちはアブラハムに叫びました。「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。(ルカ16:24)」するとアブラハムは、「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。(同16:25)」と言いました。「アブラハムのふところ」は、天国の待合室のようなところ、「よみ」は地獄の待合室のようなところです。金持ちがアブラハムのふところに行けなかったのは、悔い改めなかったからです。金持ちは金銭に頼り、神様に信頼せず、背を向けて生きていました。一方ラザロは、生きている間住むところもなく、着るものも食べるものも満足に得ることができず、苦しい生活が強いられていました。ですから、いつも神様により頼み、神様の哀れみによって生かされていました。
 イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マタイ19:24)」と言われました。私たちは金銭を愛することを警戒しなければなりません。

満ち足りた生活

 本当に満ち足りた生活は、欲しいモノを何でも手に入れる生活ではなく、神様がともにおられる生活です。確かに生活に必要なものはあります。聖書はそれを禁じているのではありません。しかし必要なものは神様が与えてくださると約束されています。私たちは心配しないでいればよいのです。そして、求めるものは何でも与えられると約束されています。神様とともに歩む時、私たちはそれが本当に必要なものなのか、みこころを求めるようになります。大切なことは、私たちの心をこの世のモノにではなく神様に向けることです。そうすれば私たちは、どんな境遇にも左右されない、自由で満ち足りた生活を手に入れることができます。                                         

20.10.25 とこしえまで守られる



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「詩篇121:7-8 主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。」

わが子を守るために戦う   

 先日テレビで、アフリカのタンガーニ湖という湖に生息する魚たちの子育てについての番組を観ました。その湖は、世界有数の淡水魚の宝庫と呼ばれ、世界でもそこでしか見ることのできない魚たちがたくさんいます。25mプールほどの面積の浅瀬に、15,000匹以上もの魚がひしめき合うようにして泳いでいます。しかし、魚たちにとってはのんびり暮らしている余裕はありません。周りには敵がたくさんおり、いつ仕留めようかとその機会を狙って待っているのです。人間にとっては、きれいな湖を泳ぐ魚たちをいつまでも眺めていたい場所ですが、彼らにとっては一瞬の隙もゆるすことのできない戦場なのです。その中で、シクリッドと呼ばれる種類の一つに、クーへという黄色い体に黒の縦縞模様が特徴の淡水魚がいます。彼らは自分が産んだたくさんの卵を守るために必死で戦っています。卵は二日後に孵化(ふか)し、稚魚となります。その後一週間ほどで泳げるようになりますが、この時期が一番危険な時です。敵が近づいて来ます。するとこのピンチに、親の魚は稚魚たちを一瞬のうちにして口の中に入れるのです。そして、岩場の隠れた所に移動し、そこで吐き出します。このようにして子どもたちを安全な場所に移動させながら身を守っています。
 他にも、口の中でずっと卵を守り、吐き出した時にはもう稚魚になっているという魚もいます。親は卵を口に含んでいる間、何も食べないで生活しています。わが子を守るためには、自分を犠牲にしてでも育てていく親の必死な思いが伝わってきます。

いつも気にかけている

 そして、私たち人間もみな、生まれてから両親によって育てられます。親はひと時も子どもから目を離せません。赤ちゃんが泣けばミルクをあげないといけません。オムツを替えてあげないといけません。ハイハイできるようになると、家に置いてある物を手にとって飲みこんでしまう危険もあります。やがて歩けるようになり、一緒に散歩に出かける時に、しっかりと手を繋いでいないと、いつどこへ行くのか分かりません。危険な目に遭わないようにといつも気にかけています。さらに大きくなり、会話ができるようになると、今度は親の言うことを聞かなくなりわがままになります。そして学校へ行くようになると、友達と遊んだりして過ごす時間が多くなり、家族と過ごす時間が少なくなります。思春期になり、口をきかなくなり反抗的な態度をとる時に、親は「思い詰めたりしないだろうか、学校で何が起きているんだろう」と、子供のことがとても心配で気になります。
 そのようにして、親は子どものことをずっと気にかけてはいますが、ずっと子どもと一緒にいるわけにはいきませんし、子どものことばかり考えてはいられません。子どもはいずれ結婚したり、一人暮らしをして親元を離れて行きます。

神はとこしえまであなたを守り導かれる

 しかし私たちの主は、あなたを守るために、あなたのことをずっとご覧になっておられ、あなたのうちに働いて導いてくださいます。この世の造られる前からあなたのことを選び、今に至るまでずっと愛し続けておられます。「どうやって救い出そうか」とあなた一人のためにずっと心を砕いておられ気にかけてくださっていたのです。そして、救い出すだけではなく、その後もずっとあなたのことを思って、「どうすればわたしの言っていることに気づいてくれるだろうか」と考えておられ、そのためにあらゆる出来事を起こしてくださいます。仕事で、「私にはできないかもしれない」と感じるような状況に置いてくださり、その中で神様にすがり求めるようにと、私たちのために事を起こしておられるのです。私たちのすぐ近くにおられ、一日中守り導いてくださいます。健康を守って下さるので、体を動かすことができ、人と話すことができ、食べることができ、働くことができます。車に乗っている間、その道中守って下さいます。守り導いてくださるので、安心して目的地にたどり着くことができます。経済を守ってくださるので、今日安心して働くことができ、家族と楽しく過ごすことができるのです。
 すべての出来事の背後に主の働きがあることを私たちは信じなければなりません。私たちの力ではコントロールすることができないことばかりです。今日普通に生活ができているのは、ここまで守り導いて下さった神様によることです。生まれてから今日に至るまで、神様の導きによって私たちは導かれていることを感謝します。

みこころを行いたい

 私たちは「あなたのみこころを行いたいです」と願う心を持ってまいりましょう。「主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。(箴言18:10)」。主に信頼する者は危険から守られます。正しい人とは、正しく何かができている人ではなく、神様の言われることに聞き従いたいと願う素直な心を持つ人のことです。心の主導権を神様に明け渡して生きる人は、主によって必ず守られます。たとえ倒れそうになっても主が支えてくださいます。再び立ち上がらせてくださいます。私たちの人生は、主にあって全てのことが守られ、祝福されます。

20.10.18 いつまでも残るもの



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「Ⅰコリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

古代エジプトのミイラ

 今月初め、今年の八月にエジプトのカイロ近郊で発見された木棺(もっかん)59個が公開されました。これらは聖職者の木棺で、中にはミイラが納められていました。木棺には赤や緑で模様や古代神などの絵が書かれていて、保存状態が極めてよかったため、色鮮やかなものばかりです。紀元前664年~525年のものだということですので、そのようなきれいな色があせないで残されていることは驚くべき事です。
 古代エジプト人は、死後の世界や魂の復活を信じていました。そのため来世での生活に備え、肉体をミイラにして保存しました。完全に保存された肉体のみが「永遠の生」を得ることができ、来世で幸福に生きるために必要不可欠なものと考えられていたそうです。棺の中には、死者が「永遠の生」を来世で獲得するための呪文、「死者の書」が置かれ、「永遠の生」を得た後に死者を養うために、船の模型や召使の人形が置かれました。
 聖書の創世記にも、エジプトの宰相(さいしょう)となっていたヨセフが、父ヤコブがその地で死んだ時、彼をミイラにして葬ったとあります。そしてヨセフもミイラにして葬られました。ミイラはエジプトだけでなく世界各地で発見されています。

朽ちないものはない

 聖書には「神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者3:11)」とありますが、永遠のいのちを求め、人の体を永遠に残そうとしたミイラも、その心のあらわれでしょう。しかし、形のあるものでいつまでも朽ちないものは何もありません。どんな物も必ず朽ちて行くことは、私たちの生活の中でも実感できます。たとえば道を歩いていると、時々とても古い建物を見かけることがあります。トタンは錆びてめくれ、壁に穴が空いているのを見ると、この建物もその昔、建てたばかりのときは新品でピカピカだっだのだろうなと想像できます。また、食べ物には必ず消費期限があります。缶詰や梅干などの保存食はかなりの年月もちますが、永遠に保存できるわけではありません。着るものなどもそうです。以前スキー場で、古いスキー靴が文字通りバラバラに崩れるのを目の当たりに見て、見かけは堅くて丈夫そうな物も、ほんの数年の年月が経っただけで朽ちるのだと悟らされたことを思い出します。物質は必ず崩壊し拡散して行くのです。これはエントロピーの法則と呼ばれる神様が定められた科学の法則です。

いつまでも残るもの

 しかし、聖書は永遠に残るものがあると言っています。それは物質ではありません。冒頭の第一コリントのみことばには、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。
 聖書が言う「愛」は神様の愛です。神様は私たちを愛してくださり、私たちが自分の罪ゆえに滅びることのないように、イエス・キリストを地上に送ってくださいました。そしてキリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、復活してくださいました。キリストを信じる人は罪赦され、滅びることなく永遠のいのちが与えられるのです。神様の愛は、ご自分のいのちを犠牲にするほど私たちを愛してくださった愛です。
 このように、まず神様の「愛」がありました。その愛を知って、私たちは神様を信じる「信仰」、そして罪が赦されたことを信じる「信仰」が与えられました。さらに信じる者には永遠のいのちが得られるという「希望」が与えられました。この「信仰」「希望」は、私たちが自分から神様を拒まない限り、永遠になくなることはありません。「いつまでも残るの」です。神様の愛がなければ、私たちは信仰も希望も持つことはできませんでした。だから、「愛」「一番すぐれている」のです。神様が与えてくださった恵みを感謝します。

永遠の愛

 神様は私たちに「愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント14:1)」と言われます。私たちは、神様のように人を完全に愛することなどできません。しかしまず神様が愛してくださったので、私たちは愛することができます。夫婦の愛も、親子の愛も、そのほかの人間関係もみなそうです。人は愛されて初めて、愛するやる気が与えられるからです。また神様の愛は、永遠に変わることがありません。古今東西の人々が求めた「永遠」は、真の神様を信じ、キリストの十字架の愛と赦しを受け入れる時に与えられるのです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ31:3)」

20.10.11 約束は果たされる



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「ヘブル10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」

脱ハンコ   

 9月に菅内閣が発足してからもうすぐ一ヶ月になろうとしています。今、デジタル化へ向けた改革が進められていますが、その中で河野規制改革担当大臣が中心となって行われている「脱ハンコ」改革が、今、各行政機関で実行されています。現在、押印(おういん)が必要な行政手続きは、全部で1万種類以上もあるそうです。その中で、不動産や銀行関係の契約など、必要な手続きはわずかしかなく、そのほとんどが電子化に伴って廃止できるものばかりだそうです。コロナによる自粛期間中には、ハンコを押すためだけに職員が登庁することも度々あったそうです。
 また、民間企業でもハンコを廃止する方向へと動いています。社内で経費の精算の承認をもらうために、課長、部長、社長それぞれのハンコをもらうために回るという必要があったり、取引先との契約書を郵送で送って先方が確認し、ハンコを押して送り返してもらうという流れがあり、とても時間がかかっていました。しかし現在は、クラウド上で契約書にサインをし、複数の人がすぐにチェックをしたり承認ができるようになり、正確かつスピーディーなやりとりが出来るようになっています。
 ハンコは契約の時など、双方が「合意しました」という証拠として押しますが、本来契約は、双方の合意があれば口約束で成立します。しかし後になって、もめ事や争いになったときの証拠として残すためにハンコを押します。

口約束での失敗

 私は昔、職場の仲間から「一ヶ月後に返すからお金を貸してほしい」と言われて貸したことがありました。毎日顔を合わせて、親しく話をする仲だったので、自分も生活が大変だったにもかかわらずお金を貸してあげました。口約束をしたのです。返してくれるだろうと信じていました。約束の期限である一ヶ月後、「もうちょっと待ってて。必ず返すから。」と言われて待つことにしました。それからしばらくして、彼は会社に来なくなりました。電話をかけてみましたが、まったく出ませんでした。そのとき私は、「裏切られた」と思いました。その後、彼と会うことはありませんでした。
 聖書には、「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。(イザヤ2:22)」とありますが、人が、どんなに素晴らしいことや良いことと感じるようなことを言っていても、その心は簡単に変わってしまうので、信用することも信頼することもできません。

神の約束は変わらない

 しかし、私たちの信じている神様は真実なお方であられます。ですから約束を破ったり、忘れてしまうようなことは決してありません。「わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない(詩篇89:34)」。ノアの洪水の時に、ノアとその家族以外の人はみな滅ぼされましたが、その後主は「大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない(創世記9:11)」と約束されました。そのしるしとして虹を立てられました。ですから二度と洪水によって地が滅ぼされることはないのです。今でも、雨が上がった空を見上げる時に、主が約束されたことを思い起こさせる七色のきれいな虹を見ることができます。
 また、主はアブラハムに「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。(創世記17:19)」と約束されました。サラはそのお告げをそばで聞いておりましたが、心の中で笑いながら「こんな年になった私が子どもを産むなんて」と言いました。しかし主は、サラを顧みてくださり子どもを与えてくださいました。さらに主はアブラハムに、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(創世記15:18)」と言われ、カナンの地を与える約束をされ、成就されました。
 主の約束は、聖書の中だけの話ではなく、イエス・キリストを信じる私たちにも当然果たされるものです。仕事で行き詰まりを覚えて「もうダメかも。私にはできない。」という思いがよぎる時、主に信頼しなければなりません。主は「試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」と約束して下さっています。私たちは主のみことばの約束を信じる信仰を貫かなければなりません。その先に必ず主は道を備えてくださいます。

希望を告白する

 主が望まれることは、私たちがいやされて健やかになることです。親子、夫婦の関係がいやされ回復することです。経済が祝福されることです。これらのことは私たちが日頃から常に望んでいる事柄だと思います。主が言われたことは必ずなると信じているでしょうか。信じるならば、その希望を毎日告白して生きる必要があります。主がいつそのことを果たされるのかは、主ご自身にしか分からないことです。主は「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。(ヘブル10:36)」と私たちに語ってくださいます。疑いの思いがやって来たとしても、動揺しないで、主の言われる約束を告白して行きましょう。「主は、私をいやすと言われるので、その約束は必ず果たされます。」と告白してまいりましょう。主は今もその約束を果たすためのご計画を進められています。

20.10.04 特別な一人



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「ローマ5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

一人のことを思う   

 風もすっかり涼しくなって秋も深まり、店先には赤い林檎がたくさん並ぶようになってきました。林檎と言えばこんな詩があります。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとにみえしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思いけり」。島崎藤村の「初恋」という詩の冒頭です。高校の時、担任の先生がお気に入りで、よくこの詩について話しておられました。朗読すると耳に心地よく、詩の情景が思い浮かびます。藤村の詩の中で一番人気のある詩ですが、その理由は多くの人が共感するからだと言われています。この詩にはモデルがいるとされていますが、作者が愛した一人の女性への思いが、大勢の人に共感を呼ぶのでしょう。
 先日あるドラマの中のセリフに「誰か一人のために書いた詩は多くの人が共感する。」というのがありました。創作に行き詰まった作詞家に、その恩師が助言したことばです。確かにそうだと思いました。誰かを思って詩を書くとしたら、そのことばは真実です。それはその人の心の本当の思いだからです。その誰かはその人にとってきっと大切な人であるでしょう。一人の人を心から思って書いたことばは、多くの人の共感を呼ぶのです。

神様のことばは一人のため

 聖書のみことばは、神様が私たち一人ひとりのことを思って、一人ひとりにあてて書かれた、真実のことばです。神様は私たちを愛し造ってくださり、私たちが滅びることのないように、ご自分のひとり子を私たちの罪の身代わりとして十字架につけられました。そして信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいました。これが聖書に書いてある神様のメッセージです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」
 私たちは、聖書のメッセージを聞いて、こんな罪人の自分のために、神様が犠牲を払ってくださったことを知って感動し、自分勝手な生き方を悔い改めて、聖書のみことばに従って生きる者に変えられたのです。神様のみことばを感謝します。

一人のために立ち止まってくださる主

 聖書の中に、長血の女の話が書かれています。ある時、イエス様のところに多くの群衆が押し寄せていました。イエス様に病をいやしていただくために来た人ばかりでなく、イエス様のなさる奇跡を一目見ようと集まった人も大勢いて、隙間もないほど人であふれていました。そこに12年もの間、出血の病をわずらっている女性がまぎれ込み、イエス様の後ろから近づいて、その衣の房に触れました。イエス様にさわればきっと治ると思ったからです。すると、ただちに出血が止まりました。イエス様はすぐに気がついて、「だれがわたしの衣にさわったのですか。(マルコ5:30)」と言われました。弟子たちは、こんなに大勢人がいるのに、誰がさわったのかわかるわけがないと思ったのです。しかしイエス様は「周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。(同5:32)」とあります。この時、イエス様はヤイロという人の娘をいやすために、急いで彼の家に向かわれる途中でした。その娘は死にかかっていたからです。なのに立ち止まって衣をさわった人を捜されたのです。彼女は恐れおののきながらイエス様の御前にひれ伏して真実を話しました。イエス様は彼女に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。(同5:34)」と声をかけてくださいました。主が、彼女とかかわりを持ってくださったのです。彼女はどんなに喜びに満たされたことでしょう。彼女は病がいやされただけでなく、イエス様を信じて救われたのです。神様はたった一人の救いのために、立ち止まってくださり、かかわりを持ってくださるお方です。

特別な一人

 あなたが生まれる前にあなたの両親は、毎日喜びのうちに準備をしていました。産着や寝具をそろえ、名前を考えてあなたが産まれるのを心待ちにしていました。しかし神様はそれよりもっと前、あなたが母親の胎内に宿る前からあなたを知っておられました。どんな髪の色にしようか、どんな目の色にしようかとデザインを考えて、誰をあなたの両親にしようかと選んでおられました。あなたの黒くてまっすぐな髪は、あなたのために特別に神様が選んでくださったものです。あなたの黒い目もちょっと白い肌の色も、生意気な性格も全部神様のデザインです。あなたは気に入らないかもしれませんが、あなたは神様にとって特別な一人、最高の作品なのです。この方の愛に目を留めて歩むならば、あなたはどんな困難の時も平安のうちを歩むことができるのです。 

20.09.27 私の住まい



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「詩篇23:6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」

アドレスホッパー

 最近、「アドレスホッパー」と名乗る人たちの存在がメディアなどで取り上げられクローズアップされています。アドレスホッパーとは、自分の住まいを持たないで各地を転々として生活している人のことを言います。宿は、ホテルや旅館、ゲストハウス、シェアハウス、カプセルホテルなど様々で、毎日移動したり、何日か滞在して次の宿へ移動しています。アドレスホッパーを2年以上続けているある男性は、転職がきっかけで今の生活を始めたそうです。転職によって収入が減る中で、「仕事をして帰宅してただ寝るだけの場所(家)に10万以上もかけることに納得がいかない」と思い、今の生活を始めたそうです。しかし、一番の理由は、一人暮らしに飽きたからということでした。働いて家に帰り、また働きに行くという繰り返しの生活に飽きてしまい、毎日住む場所を変えることで、毎日新しい人との出会いや、新たな価値観を見つけられるのではないかという期待があって始めたそうです。仕事はすべてオンラインで完結できるので問題がなく、所持品は、パソコンや必要最低限の衣類、洗面具、洗濯用洗剤などをバッグに入れて移動し、住民票は、シェアオフィスに置いていて住民税も納めているそうです。現在、このような生活を始める人が増えています。

新しい環境への期待

 私は、家族で引っ越したり、仕事の転勤で何度か住まいを変えた経験があります。東京に転勤になった時には、都会の生活に憧れていたので、「きっと人生の価値観を変えるような何かがある」という期待でワクワクしたことを覚えています。今まで住んでいた環境とはまったく違い、とても新鮮でした。しかしそんな生活にも慣れてくると、場所は違っても以前と同じような日常がやってきます。結局、環境を変えてどこに住んでみても、環境を変えたことで私自身は何も変わっていませんでした。
 私たちも、「今のこの環境が変われば何かが変わるかもしれない」とか「新しい人との出会いがあれば自分も変われるかもしれない」というような、自分以外の外的なものに期待をしたり求めたりする思いがあるかもしれませんが、住む場所や働く環境を変えたとしても、それで自分が変わることはありません。

主は賛美を住まいとされる

 イエス・キリストを信じた私たちが住むべき場所、居るべき場所は主の家であります。主の家は神がおられるところです。神がおられるところは賛美のあるところです。主は賛美のあるところを好まれて、そこをご自分の住まいとされます。ですから、私たちは主をほめたたえなければなりません。「主は今も生きて働いておられ、すべての出来事に主の主権があり、あなたの御支配によって導かれています。あなたは、愛であられ、私に声をかけて助けてくださり、そばに寄り添ってあわれんでくださり、慰め励ましてくださる方です。こんな素晴らしいお方がいつもともにおられる恵みを感謝します。」と賛美するところに主は住まわれます。働いている時に主を賛美しているならば、その職場に主はおられます。家事をしながら主を賛美する時に主はそこにおられます。私たちが賛美することを主は喜んでくださいます。

主の家に住むことが願い

 私たちは、いつも主の家に住むこと、主を見上げて賛美をし、主のことをいつも考え思い巡らす生活をしたいと思います。それが私たちの一番の願いです。ダビデは、神様との交わりの場である神の宮へ行くことが一番の喜びでした。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。(詩篇27:4)」とありますが、信じる私たちのうちにおられる神様にいつも礼拝をし、信じる者がともに集う場所である教会で礼拝することが、私たちにとっての喜びです。
 今素直になって御声に聞き、神様を礼拝する時に、私たちの心は主にある平安で包まれます。主の家が私の憩いの場となります。主にだけ目を向けて、主のことを思い巡らして歩んでまいりましょう。

20.09.20 永遠の喜び



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「創世記21:5-6 アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。サラは言った。『神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。』」

イグノーベル賞

 9月に入り暑さもやっと和らいできました。今月はイグノーベル賞の授賞式がアメリカで行われます。これはノーベル賞のパロディーで、「イグノーベル(ignoble)」は「不名誉な」とか「下品な」という意味です。「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる業績」や風変わりな研究に贈られる賞です。賞状はノーベル賞受賞者から渡され、賞金はなし、参加も自己負担です。授賞式のスピーチは、短時間でいかに会場を笑わせるかがポイントで、1分を超えると、8歳の女の子が「たいくつなの」と止めに入ります。今年で30回目を迎えますが、日本人は継続的に受賞しています。
 たとえば、1997年には「たまごっち」開発者が「数百万人分の労働時間を仮想ペットの飼育に費やさせたこと」で経済賞を、2011年にはある企業の理事長が「火災など、緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度発見と、これを利用したわさび警報装置の開発」で化学賞を受賞しています。受賞理由を聞いただけで、笑ってしまうものばかりです。

笑うと健康になる

 近年、笑うことが心や体に良いということが、医学的に実証されつつあり、病気の治療においても注目を浴びています。人の体には、若くて健康でも1日3000~5000個ものがん細胞が発生しているそうですが、これを退治するのが、ナチュラルキラーという細胞です。体内に50億個あると言われており、この働きが活発だと、がんや感染症にかかりにくくなるそうです。私たちが笑うとナチュラル細胞を活性化させます。すると、がん細胞やウイルスなどの病気のもとを攻撃するので、免疫力が高まるそうです。逆に、悲しみやストレスなどマイナスの情報を受け取ると、ナチュラル細胞の働きが鈍くなり免疫力が低下します。その他にも、笑うとエンドルフィンという脳内ホルモンが分泌されますが、この物質は幸福感をもたらし、痛みを軽減するそうです。
 笑うのが嫌いという人はそれほど多くはないと思いますが、多忙な日常生活の中で、いつの間にか笑うことを忘れていた、ということはあるのではないでしょうか。笑いと健康の関係を知ると、積極的に笑いを求めることは大切だと思わされます。

笑いを下さる神

 神様はアブラハムに現れ、妻のサラについて「わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。(創世記17:16)」と言われました。しかし「アブラハムはひれ伏して、笑った。(同17節)」と記されています。100歳の自分と90歳の妻に子が生まれるだろうか、と疑う苦笑です。その後、御使いが現れて、来年の今ごろ「サラには男の子が生まれています。(同18:10)」と預言した時、サラも心の中で苦笑しました。しかし御使いは、「主にとって不可能なことがあるだろうか(創世記18:14)」とサラをたしなめました。後にサラは、御使いの預言の通りにみごもって男の子を生みます。その時サラの心は喜びにあふれ、冒頭の聖句ですが「神は私に笑いを下さいました。」と言いました。神様はアブラハムとサラの苦笑を、神様への感謝と喜びから生まれる本当の笑いへと変えてくださったのです。神様は、私たちに喜びを与え、笑いを与えて下さる方です。

永遠の喜び

 聖書は、「いつも喜んでいなさい。(第一テサロニケ5:16)」と言います。喜びには笑いがともないますから、笑うことは神様のみこころです。私たちは、おもしろいことを見たり聞いたりすると笑います。お笑い番組はとても人気があります。漫才やコントを見て大笑いすると、気分もよくなります。実際、「お笑い」は病気の治療にも用いられているようです。また、家族や気の合う仲間と楽しく過ごす時も、そこには必ず笑いがあふれます。しかしみことばは、「いつも喜んでいなさい。」と命令しています。「いつも」ということは、笑う気分でない時も、喜ぶことが何もない時も「いつも」ということです。
 神様が私たちにくださった最大の喜びは「福音」=良い知らせです。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられました。日常生活は、楽しいことばかりではありません。お笑い番組も楽しい団らんも、束の間の笑いでしかありません。しかし福音を信じる者には決して揺るがない喜びがあります。神様はすべてを益としてくださると知っているからです。イエス・キリストを信じることこそが、永遠の喜びなのです。「今泣いている人たちは幸いです。 あなたがたは笑うようになるからです。(ルカ6:21)」

20.09.13 幸せに生きられる道



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「Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」

幸福度ランキング

 先日ニュースで、2020年の「都道府県幸福度ランキング」が発表されました。これは「日本総合研究所」という研究機関が独自にランク付けしているもので、健康、仕事、教育など各分野ごとに、国の統計に基づいて分析し、2年に一度発表しています。1位は福井県で、2014年から4回連続で日本一になりました。その要因として、仕事面で女性の就業率が高いこと、また教育面では不登校児童が少ないことや待機児童率が低いことが挙げられています。県民へのインタビューでは、「以前東京に住んでいたが、東京よりも地域のつながりを感じるし、まわりの人もみな優しいと感じる」という声や「自然も多く子供を育てる環境としてはいい」という声がありました。県も「日本一幸せな県」を全面に押し出しPR活動をしています。
 今、東京や大阪など都会から移住して来る人や問い合わせが増えているようです。福井県に住めば幸せになれるかのようなイメージを持ってしまいそうですが、日本一幸せな県というのは、あくまで生活のしやすさなどの環境が整っているという話であって、県民一人ひとりが幸せかどうかはまた別の問題です。研究所も「自分の住む地域の特徴や課題を客観的に知るきっかけにしてほしい」と言っていて、地域活性化のために役立てることが目的となっています。

楽しいから幸せなのだろうか

 では、私たちにとって幸せとは何なのかということを考える時に、多くの場合、自分にとって楽しいことや嬉しいことが起こるときに幸せを感じると言います。家族や友達と旅行などで出かける時や、自分の趣味を楽しんでいる時、テストや試験に合格した時、周りの人から愛されていると感じる時など、そのようなことが次から次へと起こるときに「幸せだと感じる」と言います。つまり、楽しい出来事が起こる時は幸せで、それが過ぎ去ってしまい、楽しいと感じなかったり、苦しい出来事が続く時は、幸せとは思えないということです。
 他にも、ものが豊かにあって、欲しい物をいつでも自由に買うことができるだけの経済力があるとか、豊富な知識や知恵があって何でも要領よくやってのけるだけの能力があるとか、そういった能力や安心できる何かがあることで幸せになれると言う人もいます。しかし、それらのものはすべて外的なものであったり一時的なものでしかなく、取り去られたり、過ぎ去ってしまえば、幸せではなくなってしまうということになります。

キリストに望みをおく

 私たちは、私たちの主であるイエス・キリストに望みを置かなければなりません。どこの国に住んでいても、どんな生活をしていようとも、私たちの生活には、仕事のことや家庭のこと健康のことなどの問題が日々起こります。苦難や困難な状況におかれるとき、「この大変な状況から逃れることができれば、もっと楽しく明るく生きられる」という所に望みをおいたり、「今は苦しいけれど歯を食いしばって我慢して、これを乗り越えることができたら、楽しいことが待っている。」という所に望みをおいたりしているかもしれません。
 しかし、イエス・キリストを信じた私たちは、この苦しみの中にあって望みを抱いて生きることができるのです。「今経済的にとても苦しい。この先どうなるか分からない。収入が途絶えれば生活できなくなってしまう。」という状況に置かれていたとしても、「主は必ずこの不足を満たしてくださる方、善きことをなされるお方なので、何が起こっても私は主にだけ信頼します。」という望みを抱いて生きることができます。仕事でなかなか事が前に進んで行かず、「とてもできるとは思えない」という状況に置かれるときに、「主は耐えることのできない試練はないと言われる。脱出の道を備えてくださっている。必ず主に答え、解決がある」という望みを持つことができます。

今幸せになれる

 イエス様は「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)」と言われました。信じる者のうちに神の国はもうすでにあると言います。神の国は、主への賛美であふれ、祝福にあふれ、喜びで満ちあふれている場所です。痛みも苦しみも、死も病もない場所です。その神の国が信じる私たちのうちにあるのです。今私たちが、心の中に主のご支配を迎え入れて心の王座を主に明け渡す時に、私たちの心には主への賛美と喜びがあふれ、主の祝福にあずかることができます。今幸せになることができます。すると、人と話をすることが楽しいですし、働くことが楽しくなります。ご奉仕することが楽しくなります。何をしても喜びを感じることができます。私たちは主にあって今幸せになれるのです。主を心に迎え入れる決意をして前進してまいりましょう。

20.09.06 神様のご計画



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「エレミヤ29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

インド門の写真

 先々月、新聞に掲載されていた二枚の写真が目に止まりました。インドの都市、ニューデリーの観光名所「インド門」の写真です。1枚は、青空を背景に、褐色のインド門がくっきりと見える、きれいな絵はがきのような写真で、もう1枚は、大気汚染によるスモッグのために、目を凝らして見てやっとインド門がうっすらと影のように見える、まるで白黒のような写真です。説明を読まないと同じ場所の写真とは気づかないほどです。青空の写真は今年の初夏、スモッグでかすんでいる写真は昨年の秋頃の写真だそうです。
 コロナ禍で、外出や営業の規制が行なわれているため、二酸化炭素の排出量が劇的に改善しているのだそうです。インドの都市は以前から世界一大気汚染が深刻で、視界が悪くて飛行機が欠航したり、車の通行を規制したりしていました。しかし今回のコロナ禍で思いがけず、目ではっきりとわかるほど大気汚染が改善したのです。ほかにもヨーロッパでは、観光客が激減したため、ベネチアの運河など、河川の水質が改善しているそうです。

誰にも止められなかったこと

 コロナ禍では、ほかにも今まであり得なかったできごとが起こっています。たとえば、外出自粛要請が出たため、テレワークや会議ソフトを使った働き方が広がりました。最初は仕方なく始まったことでしたが、始めてみると思いがけず便利で、経費も削減できることがわかり、積極的に取り入れようとする動きも出ています。今まで都心に広い事務所を借りてた企業が、社員が出社しなくても支障のないことがわかって事務所を解約し、もっと有益なことにお金を回すことができるようになったとか、何時間もかけて満員電車で都心に通勤していた人が、自宅で仕事ができることがわかり、もっと環境のよい地方の県に移住するということが起きています。人口の流出に悩んでいた地方の県でも、移住する人々を喜んで歓迎しています。都心への人口集中は、災害時のパニックが予想されるなどの問題が指摘されていましたが、今まで誰にも止められなかったのです。大気汚染なども同様です。それが今回コロナ禍で揺さぶられ、何かが動き始めていると、多くの人が感じているのではないでしょうか。少なくとも人々が今まで後回しにしてきた問題を考え直す機会となっていることは、確かだと言えます。

人にはできないことも神にはできる

 イエス様が弟子たちに、金持ちが天の御国に入ることは難しい、と教えた時、弟子たちはたいへん驚いて、「それでは、だれが救われることができるでしょう。(マタイ19:25)」と言いました。イエス様は、「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(同19:26)」と答えられました。
 たとえば、人は誰もが生まれながらの罪人ですから、人が人を罪から救うことはできません。しかし神様は人を愛してくださり、人を救うためにイエス・キリストを人として地上に送ってくださいました。イエス・キリストが人の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じるだけで、人は罪が赦され、天国に入ることができるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」。神様は、人には決してできないことを為し遂げてくださる方です。

神様のご計画

 神様は主権をお持ちであられます。コロナ禍のさまざまな事象もすべて神様のご支配の中で起こされていることです。そして、ご自分のひとり子を犠牲にしてくださるほど私たちを愛してくださった神様は、必ず私たちに良いことをしてくださる方です。
 しかし、ときに私たちは、これのどこが良いことなのか、理解できないことがあります。コロナ禍では世界中で多くの方が亡くなりました。今も重体で苦しんでおられる方が大勢おられます。人の移動が縮小されて、経済も大打撃を受けています。しかし神様がこの事態を用いて、ご自身のご計画のために、地球上のすべての人間を揺り動かしてくださっておられることは確かです。そして冒頭のエレミヤのみことばの通りに、神様のご計画は、私たちがもっと平安に、もっと幸せになるためのご計画です。ですから私たちは決してむやみにうろたえる必要はないのです。神様のなさることをほめたたえ、神様からいただく知恵を用いつつ、ただ静かに神様のなさることを見て参りましょう。

20.08.30 世に勝つ者となる



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「ヨハネ16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

つらく悲しい世の中

 毎年8月になりますと、必ず「今年は戦後何年になりました」というニュースが報道されますが、今年は戦後75年ということで、特集番組も放送されていました。その中で、戦時中の様子を日記として綴った作品で、「戦中派不戦日記」という本があります。山田風太郎という小説家の作品ですが、彼は当時23歳で、病気を理由に召集を見送られ戦場に行くことはありませんでした。医学生として過ごした当時の日常を日記としてまとめました。
 この作品は今も多くの人に読まれている作品ですが、今この作品を漫画化したものが反響を呼んでいると話題になっています。作者は、少女漫画家として活躍している勝田文(かつたぶん)さんという女性です。「つらくて悲しい世の中、せめて漫画くらいは楽しく読んでほしい」というのが、彼女の漫画家としてのスタイルであり価値観だそうです。今回、戦時中をテーマにした漫画の依頼に「戦争ものは描けない」と最初は戸惑いがあったそうです。しかし、「ここ数年感じていた、何か世の中の不安な雰囲気が、当時の雰囲気と変わらないなって思った。ずっと心に感じていた何かがあったので、描けるかもしれない」と感じて依頼を受けたそうです。
 今世の中は、コロナ禍にあって、景気も後退し、この先どうなるのか全く予測がつかない中で、人はみな、「このままではいけない。何とかしてこの暗い雰囲気を明るくさせなければならない。」という希望が持てることや、明るくなれること、喜びを感じることができる何かを求めているのではないかと思います。

世は労苦とわざわいで満ちている

 詩篇には、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは 労苦とわざわいです。(詩篇90:10)」とあります。私たちが生きている世の中は、確かに労苦やわざわいがほとんどであります。私たちは、一日の大半、一週間のほとんどは働いて過ごしています。その労働は、この世に罪が入り込んだことによって苦しみとなり、額に汗を流して糧を得るようになりました。そして、世の中はわざわいで満ちています。コロナ禍にあり、異常気象があり、国と国は対立し、人種差別がずっと続いています。テレビをつけると毎日のように、殺人事件や不正、賄賂、横領といったニュースを目にします。
 私たちの生活の中でも、自分の仕事が思い通りに行かず悩み苦しむことが多くあったり、体が痛みによって思うように動かすことができなかったりすることや、人との関係が上手く行かなくて悩んでいることもあると思います。「そんな暗い雰囲気を何とかして明るくしなくては」と思い、人とワイワイ楽しく話したり、遊んだりしてストレスを解消させて、次から次へと襲ってくる問題や心の声に負けまいと必死になって打ち勝とうとしています。

主は世に打ち勝ってくださった

 しかし私たちは、この世の中にあって主に信頼しなければなりません。主は、この世の罪、死、苦しみ、痛みのすべてに打ち勝ってくださいました。十字架にかかられて私たちの罪のための身代わりとなって死んでくださいましたが、三日目に死からよみがえってくださいました。そのお方は今も生きて働いておられ、信じる私たちのうちに住んでくださっているのです。主の復活があったので、私たちは罪贖われて、主にある勝利を手にすることができる者とされました。つらく悲しい世の中にあっても、勝利して生きることができるのです。「私にはできないかもしれない」という敗北感、「この先のことを考えると不安で仕方がない」という閉塞感や心配、恐れに打ち勝つことができるのです。自分の思いをすべて主にお任せして生きる時に、主は私たちを敵の攻撃から守ってくださいます。 主は、この世にいる敵である悪魔、サタンよりも力があるお方です。「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ 4:4)」。ですから、主に信頼する者は守られるのです。

祈りによって勝つことができる

 私たちが世に勝つ者となるためにすることは、祈ることです。仕事よりも家事よりも、良い人間関係を築くことよりも、何よりも祈ることが優先すべきことでなければなりません。祈りによって、敵に勝利することができます。敵は、私たちが勝てるような相手ではありません。アダムとエバが、エデンの園で蛇にそそのかされたように、敵はとても巧妙な手口で私たちを騙そうとしてきます。私たちの力で太刀打ちできるような相手ではないということを知らなければなりません。
 ダビデは主に信頼したので、苦しみの中にあっても、自分のうちにある叫びを主に申し上げて祈ったので心が守られました。「主よ、私のこの叫びを聞いてください。」と切実に訴えかけました。もし、ダビデが祈っていなかったら、彼の心はズタズタになって立ち直れないほどになっていたことだと思います。
 私たちも、毎日問題が起こります。お金のやりくりで困っていることや、人から誤解されることや、仕事でのトラブルで翻弄されてしまうことなどがあると思います。そんな倒れてしまいそうな状況にあっても、祈ることによって、ズルズルと後退することなく心が守られます。祈ることで「主が解決して下さる」という信仰が与えられ、前を向くことができます。祈ることによって、私たちはこの世に生きる者として圧倒的な勝利者となれるのです。

20.08.23 主は避け所



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「詩篇91:1-2 いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と。」

木陰の涼しさ

 数年前、ある観光地でロープウェイに乗り、小高い山の上に登りました。初夏の頃で天気もよく、景色は素晴らしかったのですが、日差しが暑くてゆっくり眺めていられず、早々に大きな木の木陰に入りました。そしてそこにあったベンチに腰をかけたら、そこは別世界のように涼しく、その温度差にびっくりしました。木陰を一歩出るとまた元の暑さですから、この大きな差はなぜなのかと、とても印象に残りました。それまでそれほど日陰を気にしていませんでしたが、それ以来意識して、暑いときはできるだけ、日陰が多くある道を選んで歩くようになりました。

木陰はなぜ涼しいか

 多くの人は暑さは気温で決まると思っています。しかし日向(ひなた)と木陰では、気温はほとんど変わらないそうです。暑さや涼しさは、気温のほかにも湿度、風速、放射(日射や地面からの赤外放射など)が影響します。もちろん、どんな服装をしているかや、どれだけ体を動かしているかも影響します。木陰は日射をさえぎり、人に直接あたる日射を減らします。さらに地面に日陰を作り、地面の温度が高くなるのを防ぎます。木陰によって日射の約8割、地面からの赤外放射の約6割が減少して、体感温度が約6℃下がるそうです。そう知ると、木陰が涼しいのもわけがわかります。今年の夏は、コロナ禍でマスクをはずせない上に猛暑日が続き、あちらこちらから熱中症に注意するようにと叫ばれていますが、そんな中で木陰などの日陰は、人を暑さから守り、保護してくれるのに有効な場所となっているでしょう。

御翼の陰

 「木陰」と聞いて聖書の中で思い出すのは、創世記でアブラハムが、暑い日にマムレの樫の木の下で三人の旅人をもてなした場面や、神様が、預言者ヨナの機嫌を直すために、とうごまをヨナの上をおおうようにして生えさせて、太陽の灼け着くような日差しから彼を守ろうとされた場面ですが、「陰」ということばは聖書では、「保護する」という意味でよく使われています。
 たとえば詩篇には、「御翼の陰」という表現が幾度も出て来ます。「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいは あなたに身を避けていますから。私は 滅びが過ぎ去るまで 御翼の陰に身を避けます。(詩篇57:1)」。この詩篇の作者ダビデは、四六時中敵から命をねらわれているという苦悩の中にいましたが、まるでひな鳥が親鳥の翼におおわれて守られているように、天地を作られた神様が苦悩の中にいる自分をおおってくださり守ってくださると確信して、神様に切に訴える祈りをささげています。
 その昔、神様はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。もし彼らが神に従うならば、祝福するという約束です。(申命記28:1-14)ダビデはどんな苦難のときも神様に全面的に信頼していましたから、必ず祝福を得るという確信を得ていました。そして今日、神を信じる私たちもまたこの約束にあずかることができるのです。

主は避け所

 神様は私たちの避け所です。冒頭のみことば、「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と。」の「隠れ場に住む」とは、神様の守りの下に留まり続ける、ということです。私たちが毎日自分の家に帰るように、何があっても神様に戻って行くならば、神様が保護してくださるということです。
 私たちが何かを為し遂げようとするとき、私たちを惑わすのは、絶えず話しかけて来る、私たちの心の中の敵のことばです。敵は、「お前のような罪人が幸せになれるはずがない。」「お前は役に立たないから価値がない。」などと言って来ます。私たちが苦しむのはこの敵のことばに惑わされるからです。しかし神様のみことばは、「あなたの罪は赦された。(マルコ2:5)」「安心して行きなさい。(マルコ5:34)」であり、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)」です。私たちはまるで炎天下で木陰に身を避けて涼むように、神様のみことばに身を避けて、安心して生きることができるのです。
 生活の中で私たちが悶々とするとき、たった一人でもわかってくれる人がいれば、たった一人でも賛成してくれる人がいれば、勇気づけられ、また立ち上がる力を得ることができます。神様は私たちの苦しみのすべてを知っておられる方です。ですから困難の中で、私たちはこのお方に助けを求め、このお方のみことばだけを聞き、このお方に全面的に信頼して歩んで参りましょう。

20.08.16 もっと自由に生きられる



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「箴言 29:25 人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」

人の目が気になる

 7月は、豪雨のニュースが連日のように報道されていました。熊本県や岐阜県、山形県など、全国各地で豪雨による被害が出ました。そんな中、山形県の豪雨では、県内を流れる最上川が何か所にもわたって氾濫し、住宅などの被害は出たものの死者、行方不明者は一人も出ませんでした。それは自治体の迅速な対応によることでした。町の担当者は、「最上川は急流で、熊本の球磨(くま)川とよく似ている。球磨川が氾濫したのを見て『ここも同じではないか』と思った。そう思ったとき、早めの避難指示を出すことを決断した。もしかしたら、後から怒られることになるかもしれないが、それでもいいからとにかく指示を出そうと思った。」と当時のことを振り返って話していました。この判断が功を奏して、住民の多くの命が守られました。もし担当者が、「住民を避難させて何も起こらなかったときに、『避難指示を出さなくてよかったじゃないか』と言われたらどうしよう」と思い、住民からの視線を気にして判断を躊躇していたら大惨事を引き起こしていたかもしれません。

わなにかかっている

 今、テレビをつけますと、毎日コロナウイルスの感染者の発表のために各都道府県の知事が会見を開いています。そして、知事が記者たちの質問を受ける時間があります。多くの知事または政府の会見では、記者からの質問に答えるために想定問答集というものがあらかじめ用意されています。担当者が事前に、新聞やテレビの記者を訪ね、質問の内容を収集します。そして他にも想定される質問を自ら考えて用意します。しかし、その膨大な時間を費やして準備された問答集のほとんどは使われることなく、紙くずと化していきます。
 その中で、大阪府の吉村知事の記者会見の様子は、他とは全く違い、想定問答集と呼ばれるようなものは一切ありません。記者から受ける質問に、自分の言葉でわかりやすく答えています。このスタイルは、元大阪府知事の橋下徹氏が始めたのをきっかけに、今も続いています。橋下氏は、この想定問答集が周到につくられていることについて、「『知事が答えられなかったら恥だ。』とか『間違ったことを言ったら大変なことになる』と考えられているからだ。」と指摘しています。
 私たちも人からの評価を恐れるあまり、「きちんと正しく行わなくてはいけない。そうでないと周りから何を言われるか分からない」ということばかりに心が向いていると、「批判されないためにはどうすれば良いだろうか」ということが行動の基準となっていきます。例えば、人から任された仕事を正確に効率よく、かつ喜びをもって行いたいと本心では思っているはずなのに、「ちゃんとやっていないと、またうるさく言われてしまう。ここまでやっておけば言われなくて済むだろう」というような行動となっていきます。すると、仕事だけではなく生活のすべてにおいていつも人の評価を気にした行動となり、わなにかかった状態になって抜け出せなくなってしまいます。

主はどのように見ておられるのか

 私たちは、人の目から見て自分がどう見られているかではなくて、「神様の目から見て私はどう見られているのか」ということに心の目が向けられている必要があります。主は「わたしはあなたのことを、世の造られる前からずっと知っているし、今までずっとあなたのことを気にかけてきた。そしてあなたのことを愛している」という目で見ておられます。
 例えば、仕事でミスをして周りの人に迷惑をかけてしまった時、人の目を気にすると、「きっとあの人は、私のことをできなかったという目で見ている」となります。しかし神様の目は、「あなたはできなかったかもしれないが、そのことであなたを愛さなくなることはない。変わらずあなたを愛している」という目で見ておられます。私たちがそのとても大きな主の愛を受け取るときに、「できていない自分が恥ずかしい」とか、「私はもっと正しく生きていかないといけないのだ」といった思いはすべて払拭(ふっしょく)されます。主は、私たちのことを自分の「子ども」として見ておられます。「パパはいつも君のことを見ているし、いつも近くにいる。安心して好きなことをすればいいんだよ。パパはいつでも君の味方だよ。」という視線が私たちに注がれています。そのことを知る時、私たちは神様から見られていることが嬉しくなります。そんな神様のことを愛したいと思うようになります。無条件で一方的に愛し受け入れてくれるその愛に突き動かされるように、神様を愛したい、そして周りの人をも愛したいという思いへと変えられていきます。

もっと自由に生きられる

 主の視線をずっと感じて生活するときに、私たちは心にあった人からどう思われるだろうかという視線から解放されます。
 ダビデは、契約の箱が町に運び込まれてきたとき、大勢の人が見ている前で、裸同然の格好で、喜び踊っていました。その様子を高いところから眺めていた妻のミカルは、蔑(さげす)んだ目で見ていましたが、ダビデは「私を選んでくださった主の前で、私は喜び踊るのだ。」と言いました。私たちの心が全く主に委ねられているとき、心には「主がご覧になっておられる」という喜びであふれ、私たちの心は守られます。どんな人の前でも大胆に出ていくことができます。私たちは主にあって自由にされることを感謝します。

20.08.09 孤独ではない



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「詩篇68:6 神は孤独な者を家に住まわせ 捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。 しかし頑迷な者は 焦げつく地に住む。」

夏の夕暮れ

 梅雨も明け、暑さも本格的になってきました。毎朝早くからせみがにぎやかに鳴き始め、今日も暑くなるぞ、と告げているようです。日中は暑くて、少しでも外を歩くと太陽の熱と光の攻撃を浴びてへとへとになりますが、夕方には暑さもやわらぎ、何だかほっとします。そんな夏の夕方から夜にかけての時間が、私は好きです。遅い時刻になってもうっすらと明るさが残っていて、どこからともなく虫の声が聞こえ始め、いつの間にか暗くなっている感じが、ゆったりしていていいなと思います。
 「春はあけぼの」で始まる平安時代の名著「枕草子」の作者も「夏は夜」(夏は夜がいい)と、ほぼ同じ意見です。彼女は「夏の夜の闇の中に蛍が飛び交うのがいい」と言います。実際、現代の町中では蛍にはなかなか出会えませんが、空を見上げれば暗闇に輝く星の光を楽しむことができます。彼女は夜がいい、と言っていますが、夕暮れから夜にかけての時間も、暗くても外に出て楽しく過ごせるという開放的な雰囲気が、何となく幸せな気分をかもし出していて素敵だなと思います。

山本寛斎さん

 先月、日本を代表するデザイナーの一人である山本寛斎さんが亡くなりました。寛斎さんと言えば、あの満面の笑顔と、あざやかな色のスーツをいつも着こなしておられたのが印象的でした。日本人で初めて、ロンドンでファッションショーを開催し、日本の文化を取り入れた斬新なデザインで注目を集めました。あのデビッド・ボウイの衣裳を手がけたり、イヴェントのプロデューサーとしても活躍しました。いつも元気でエネルギッシュに活動されていました。
 最近読んだある記事で、彼は夕暮れ時の風景が苦手だったと知りました。幼少期にご両親が離婚されたそうで、一時暮らした児童施設から脱走を図り、親戚を尋ねましたが追い返されてしまったそうです。その時、列車の中から見た夕暮れの寂しい色の記憶。自分がきれいで明るく元気いっぱいの世界を作り出そうとするのは、「あの寂しい風景から逃れるためかもしれない」と書いていたそうです。夕暮れが苦手な人もいるんだなと思いました。そして、あの明るい配色や奇抜なデザインは、そんなところから生まれたのかと意外さを感じ、決して表面には現れなかった、彼の心の奥底にある孤独を思いました。

サマリヤの女

 ヨハネの福音書にサマリヤの女が出てきます。彼女は孤独でした。過去に五回も結婚していて、今一緒に住んでいる夫とは正式に結婚していなかったのです。愛に飢え渇いていました。真に愛されることを求め、次々に夫を変えてきたのでしょう。ですから町の人々から軽蔑されて白い目で見られていました。彼女は人目を避けて、真昼間の炎天下に水を汲みに来ました。イエス様は井戸の傍らに、座っておられました。そして女性に、「わたしに水を飲ませてください(ヨハネ4:7)」と声をかけられました。ユダヤ人とサマリア人は敵対していましたから、女性はユダヤ人のイエス様が自分に声をかけられたことに驚きました。イエス様は彼女の飢え渇きと孤独をよく知っておられたのです。イエス様に「あなたの夫をここに呼んで来なさい。(同4:16)」と言われ、彼女は自分のしたことをすべて知っている方がおられることを知りました。そして、イエス・キリストこそ救い主であると信じて救われたのです。そして人々の中へ出て行って、キリストを証しする者に変えられました。彼女の孤独は癒されたのです。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。(ヨハネ4:14)」

孤独ではない

 この世界を造られた真の主は、唯一私たちの孤独を癒してくださいます。枕草子の作者は自然の中に心の慰めを見いだしましたが、自然は神様が造られたものです。神様は自然を通して人を癒してくださいます。一方寛斎さんは、子どもの頃のさびしさから逃れるために、明るい元気な色を使って、心に潜む孤独に立ち向かっておられました。彼が真の神様を信じていたかわかりませんが、どんなに人間的に成功し、華やかな世界に身を置いていても、真の神様を信じることなしには、彼の孤独は根本的に癒されることはなかったはずです。しかしサマリヤの女は、イエス様に出会い、彼を救い主であると信じて罪赦され救われました。自分の孤独を知っておられる方がいると知り完全に癒されたのです。
 神様は私たちを愛し造ってくださいました。ですから私たちの心の中にある思いをすべてご存知であられます。変わらないお方が心を知ってくださっているということが、真の慰めなのです。

20.08.02 賛美されるべき方



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「詩篇145:3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは 測り知ることもできません。」

バイオミメティックス(生物模倣技術)

 先日、九州大学などのメンバーで構成された研究グループが、「昆虫の中で最も小さく羽が折り畳まれる」と言われているハサミムシの、羽の折り畳みの仕組みを解明したというニュースが報道されていました。今回の解明は、今後、人工衛星用の太陽光パネルや、傘、扇子などの日用品などに幅広く応用できるとして注目を集めています。このような、生物に備えられた機能を真似て、ものづくりなどに利用する技術のことを「バイオミメティックス」といいます。ハサミムシは、開いた羽を15分の1程度まで小さく畳むことができ、その折り畳み方がとても複雑だと思われてきたそうですが、実はシンプルなパターンであることがわかったのです。扇のような形をした羽の折り目は、扇の要にあたる部分から放射状に規則的に伸びていて、その状態から、扇子を閉じるようにして羽を閉じ、さらに半分に折り畳むことができるそうです。この一瞬のうちにしてコンパクトに折り畳む術が、様々なものに応用できるということなのです。
 他にも、私たちが普段、コードを束ねたり、バッグの開閉部分で使ったりしているマジックテープも、生物模倣技術による商品です。これは、ゴボウの花にあるトゲがヒントになっています。ゴボウの花は、いわゆる、ひっつき虫と呼ばれるもので、アザミに似てトゲがたくさんついています。このトゲの先が鉤(かぎ・フック)のようになっていて、服などの繊維に引っかかり付着します。この仕組みに着目し作られました。
 また、500系新幹線は、車両の先端が、鳥のくちばしのように尖っていますが、これは、冒頭の写真にもありますが、カワセミのくちばしからヒントを得て設計されました。時速300kmという速さでトンネルに突入するとき、トンネル内部の空気が一気に圧縮されて、トンネルの出口部分で「ドーン!」という爆発音のような音が出ます。この騒音を解消すべく参考になったのがカワセミのくちばしでした。カワセミは、餌を捕まえるために抵抗力の大きい水中に飛び込んでも水しぶきはほとんど上がりません。このことをヒントにして作られました。

長い時間をかけて研究されてきた

 そして、このような研究、実験は、最近始まったことではなく、昔からされています。一つの研究だけを取ってみても、そこには莫大な研究費がかかり、多くの人が携わり、膨大な資料を集め、長い年月をかけて行っていることだと思いますし、一生涯をその一つの研究だけに費やす人も数多くいることだと思います。そして、研究を積み重ねていっても、必ず成果につながったり良い結果が得られるという保証もありませんので、まったく先行きの見えない世界であると思います。
 今後、生物に関する様々な研究がなされ、新たな発見や解明が発表されたとしても、それは地球に生息するすべての生物から見れば、ほんの一部にすぎないことですし、詳しい生態やメカニズムが明らかになっていないことはいくらでもあり、すべてを網羅することはとても不可能に思えるような領域ではないかと思います。

生きる物はすべて神のことばによって造られた

 創造主なる神様は、すべての生きる物、そしてそのとても優れた素晴らしい機能を一瞬のうちにして造られました。それは神のことばによることでした。神が、「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。(創世記1:20)」と仰せられると、その言われた通りに、そこに生き物が群がったのでした。神はいのちを与えることのできるお方であり、無から有を生じさせることのできるお方であられます。神が生きる物を造られたときに、すでにその優れた機能のすべてが備えられていたのです。決して、長い年月をかけてだんだんと今の形へと進化してきたのではありません。人は神が造られたものを真似て応用し、ものを作り出すことはできても、いのちあるもの自体を作り出すことはできません。私たちは、この生物に秘められた素晴らしい機能を見る時に、神様の素晴らしい知恵が現されていることを知ることができるのです。

神のみわざをほめたたえよ

 ですから私たちは、神様のすばらしいみわざをほめたたえなければなりません。最高のデザイナーであられる方が造られた作品はどれを見ても素晴らしいものばかりです。野に咲いている一輪の花を見ても、その放射状にきれいに並んでいる花びらの様子や、形や色、香り、成長する様子など、人間の手によってでは決して表現することのできない精巧さを見るとき、そこに神様の栄光が現されているのです。私たち人間も、特別に神様が愛して下さって造られた存在です。神のかたちに似せて造られました。ですから、感情がありますし、知恵を持って考えることができますし、他の生物とまったく区別される人格ある存在です。誰一人として同じ人は存在しません。目も鼻も口も、顔の輪郭も声も、みな一人一人違います。それは神様が一人ずつ特別に思い入れを持って造られたからです。「あなた」という人は、世界でただ一つの神の作品です。神様の最高傑作が「あなた」であり、ここに神様の栄光が現されているのです。
 主は、賛美を受けるべきお方であられ、賛美を受けるにふさわしいお方であられます。私たちが主を賛美するとき、主の栄光を見ることができるのです。

20.07.26 真のリラックス



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「マタイ11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

花を見てリラックスする

 多くの人は花が好きです。庭に季節ごとに咲く花の木を植えたり、鉢植えを育てたり、花びんに活けて飾ったりして楽しみます。誕生日などのお祝いに花束を贈りますし、結婚式や卒業式などの式典にも花は欠かせません。花は私たちの生活に溶けこんで、私たちの生活を彩ってくれるものです。
 先日、「花の観賞は人間の脳に影響を与え、ストレスで上昇した血圧やストレスホルモンの値を低下させることを実証した」という研究成果が新聞で紹介されていました。森林を散歩したり、緑の木々の写真を見たりすると、ストレスが軽減されることは知られていましたが、花による軽減効果は今回初めて検証されたそうです。実験では、ストレスを与えるためヘビや交通事故などの不快な画像を提示した後、花や青空の画像を見てもらって、血圧とホルモン、脳の活動の変化を調べたそうです。すると花の画像を見たあと、ストレスを示す数値が下がりました。ほかの画像では変化がなかったそうです。花の画像に引きつけられ、ストレスの源の不快な画像から意識がそれたためで、男女差も、個人差もあまりないそうです。今後、花の画像を見る方法が、病気の治療にも生かせるか検証していくということでした。

ストレス

 私たちは毎日忙しく過ごしています。仕事、学校の勉強、子育て、家事、家庭生活、ご近所との付き合いなど、やるべきことがたくさんあります。そんな中で、ほとんどの人がストレスを感じているのではないでしょうか。仕事が忙しくて休む暇がない、職場の上司が理不尽なことを言う、部下が言うことを聞かない、夫が家事や育児を手伝ってくれない、クラスにいじわるな子がいる、経済が満たされない、体の調子が悪いなど、思い通りに行かないことがあると私たちはストレスを感じます。近年過労死が問題になっています。働き過ぎてストレスが極限に達すると、死に至るのです。私たちにはリラックスする時間が必要です。

リラックスするためには

 「ストレス解消」ということばをよく耳にしますが、私たちはストレスを解消してリラックスするために、忙しい日常生活からのがれて何かをしようとします。今回コロナ禍で、不要不急の外出を控えよう、と呼びかけられました。旅行はもちろん、イベント、コンサート、映画や演劇、スポーツ観戦、家族や友人と外食に出かけることなどが不要不急です。こうしてみると、こういうことはみな、人がリラックスを得るためにしたいと願って求めることばかりだと思わされます。人の心にゆとりや安らぎを与えるもの、生活を豊かにするものと言ってよいかもしれません。このコロナ禍では自粛は仕方のないことですが、不要不急と言われている活動は、私たちのリラックスのためには、至急必要なことと言えるのではないでしょうか。
 しかし、実際はこのようなリラックスは一時的なものです。旅行もコンサートも、その時には日常のストレスを忘れて、見たことのない風景や珍しい食べ物を楽しんだり、生の演奏を聴いて心安らいだりしますが、家に帰ってくれば、次の日からまたいつもの日常に戻ります。自然の中へ出かけて行って、森林の緑に心洗われたり、きれいな川や海で遊んで満ち足りたとしても、しばらくはその印象が続きますが、日常の忙しさの中ではいつしか心の中から消えてしまいます。一時的にリラックスできたとしても、毎日起こるストレスは、尽きることがありません。

真のリラックス

 神様は私たち人間を特別に愛してくださり、人間のためにすべての被造物を造ってくださいました。食べるために植物や動物を、衣服や家を作るために材料を用意してくださいました。そして、私たちがリラックスできるように、美しい自然や、芸術や人との楽しい交わりを与えてくださったのです。美しい花を見て私たちがリラックスするしくみは、神様がはじめから造られたものです。それを、人間が後から検証したに過ぎません。
 しかし真のリラックスは、神様ご自身から来ます。イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われました。主は私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、信じる私たちの思い煩いのすべてを負ってくださいました。日常生活の中でストレスは避けられませんが、その中で私たちは神様とともにリラックスして生きることができます。私たちがリラックスする時間は、神様と会話する時=祈りです。信じる私たちは、「主よ、私は疲れています。休ませてください。」と祈ることができます。主の御前に重荷を下ろして祈って参りましょう。

20.07.19 ほかに神があってはならない




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「出エジプト20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」

多様性

 最近、テレビや新聞などで、「多様性」「ダイバーシティ」といった言葉を耳にするようになりました。ただ言葉だけを聞いても、何のことを言っているのかよくわからないといった感じがしますが、「様々な考え方や価値観」という意味で使われます。働き方や、家族のあり方などは様々であり、人それぞれ考え方、価値観は異なるので、それを否定するのではなく、受け入れましょうという時には、「多様性を受け入れる」「多様性を認める」というような言い方をします。
 ひと昔前の日本人の働き方は、女性は、結婚し子供ができたら仕事を辞めて家事育児に専念するといった風潮がありましたが、最近は、仕事と育児の両立を求める人が多くなり、結婚して子供ができても、会社を辞めずに育児休暇制度を利用して、しばらくの間休みをとり、ある時期を過ぎると職場に復帰するという人も増えてきました。また、女性だけではなく、男性が育児休暇を取得するケースも増えてきました。さらには、コロナをきっかけとして、テレワークや時差出勤などの勤務スタイルが増えつつあり、働き方も「多様化」していると言えるかもしれません。
 また、最近問題となっているLGBT(性的少数者をあらわす言葉)は今、あらゆる国や地域でその動きを推進するための運動や活動がなされています。「性のあり方は多様であって、周りはそれを受け入れてあげるべきである」といった、聖書とはまったく相反する考えが広まっている現実もあります。
 家庭のあり方についても、人それぞれであり、それを非難したりするのではなく、多様性を認めて受け入れようとする向きがあります。「夫婦だからといって一緒に暮らさないといけないことはない」という考え方から、「別居婚」や「週末婚」と言われるような、平日は離れて暮らしていて週末だけ会って過ごすなど、子育てがひと段落した世代の人が、離婚はしないけれども互いに干渉しないで、自分の好きなことをやって過ごすといった生活をしている人もいたりします。

八百万の神

 日本では古くから、八百万(やおよろず)の神がいると考えられています。八百(やお)は数が極めて多いことを意味し、万(よろず)は、様々であるという意味なので、「多種多様な数多くの神」ということです。山、海、森、大木、巨大な岩など、自然の中に神が宿っていると信じて、それを拝んでいます。その他にも、安産や子宝の神様、交通安全の神様、商売繁盛の神様など数えきれないほどの神様が存在していると考えています。
 そして日本人は、様々な文化や考え方を受け入れる風習があります。家族でクリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘を鳴らし、元旦は神社へ初詣に行き、願い事をしておみくじを引き、結婚式は教会で挙げて、子供ができたら、七五三のために神社へ行き、葬式はお坊さんを呼んで行うといったことが、当たり前のように行われています。このようにして、日本では、様々な考え方、価値観があり、良いと思われるものであれば、それを受け入れたり、認めたりする事柄が数多くあります。

神を信じて生きる人生と信じないで生きる人生

 しかし、私たちの人間の生き方、人生は大きく分けて二つに分かれるのではないかと思います。「真の神を信じて生きる人生」と「真の神を信じないで生きる人生」です。前者は、「この世界は、神によって創造されたのだ」と信じています。創造主であられる神を信じて生きるならば、私たちは正しく考え判断して進んでいくことができます。結婚や夫婦関係、家庭のあり方についても、聖書に基づいて正しく考えることができます。たとえ過ちを犯したとしても、それに気づかせてくださる方がおられ、また正しい道へと引き戻してくださる方がともにいてくださるのです。
 一方、真の神様を信じて生きていないと、何が正しいのかが分からなくなり、世の考え方、思想、価値観によってどんどん自分本位の考えへと進んでいってしまいます。自分の利益になることだけを追い求め、自分の目に正しいと思うことを行い、楽しく生きていければそれでいいというような楽観的な考えになっていきます。
 神を信じて生きる人の人生と、そうでない人の人生は、どちらを選択するのかで大きく変わります。今日、明日大きな変化はなくても、10年20年経った時に「経済が祝福されていた」「習慣が変えられた」「必要が満たされていた」という明らかな変化が起きているはずです。私自身も、「もし、今現在も神様を信じないで生活していたらどうなっているだろうか」と考えるだけで、「神様のもとから離れたくない」と思いますし、主のあわれみで生かされているのだと感謝せずにはいられなくなります。

神を恐れよ

 私たちは、ただ真の神様だけを神として礼拝し、仕えていかなければなりません。伝道者の書には、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者12:13)」とありますが、人間のすることは、真の神を恐れ、その命令を守ることであり、私たちはいつもここに立ち返らなければなりません。
 私たちが信じている神様は、人間が造り出した神ではなく、私たち人間を造られた神様であり、今も生きておられ、愛してくださっている愛の神であり、私たちに祝福を与えてくださる真実なお方であられます。神はお一人であられ、ほかには神はいません。私たちはただ主を恐れて歩んでまいりましょう。

20.07.12 日ごとの糧



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「マタイ6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」

ダッバーワーラー

 「スタンリーのお弁当箱」というインド映画があります。主人公のスタンリーは小学4年生で、明るくてクラスの人気者です。お昼になると、友だちはみんなお母さんが作ってくれたお弁当を食べますが、スタンリーはお弁当を持って来ることができず、いつも水道の水を飲んでいました。それを見た子どもたちは、自分たちのお弁当を分けてあげるのですが、意地悪な教師に見つかって叱られ、スタンリーは学校に行かなくなってしまいます・・。児童労働の問題を扱った映画なのですが、一般の子どもたちを集めて映画のワークショップをする中で撮影されたため、カメラがあることを知らされていない子どもたちの生き生きした表情がとても魅力的な映画です。そして、子どもたちが食べているお弁当がまたとてもおいしそうで、魅力的なのです。
 この映画の中に、「ダッバーワーラー」というお弁当の配達業者が出て来ます。ダッバーは、金属製で三段重ねのインドのお弁当箱のことです。家庭で作ったお弁当を、職場や学校へ届けてくれる業者ですが、手押し車や自転車などで一人で一度にいくつものお弁当箱を運び、正確な時間に届けてくれるそうです。インドの都市ムンバイで100年の歴史を持つ職業だそうですが、こんな職業があることに驚きました。最近日本でも、自宅に料理を届けてくれる「ウーバーイーツ」が流行っていますが、人は食べることには惜しまず情熱を注ぐものだな、と思わされます。

エッセンシャルワーカー

 コロナ禍で、エッセンシャルワーカーということばを聞くようになりました。たとえば、医療関係者、介護に携わる人、運送や宅配のトラックの運転手、ごみ収集に携わっている人、スーパーマーケットのレジ係、警備員など、人々が外出自粛をしている中で、感染のリスクを負いながらも、現場で働き続けていた方々のことです。「エッセンシャル」とは英語で「必要不可欠な」という意味で、 私たちの基本的な生活に、なくてはならない職業ということです。外出を控えるといっても、人は誰もが食事をしなければ生きていけませんから、スーパーやコンビニで働く人やごみ収集をしてくれる人がいてくれないと困ってしまいます。各国の大統領や首相がスピーチの冒頭に、エッセンシャルワーカーの方々に敬意の意を述べる報道もありました。コロナ禍で、人々がエッセンシャルワーカーの重要性に気づき、感謝の気持を持つようになったことは、コロナ禍がもたらした良いニュースです。それにしても、人はどんな状況でも食べることだけは省略できないんだなと、痛感させられます。

主の祈り

 冒頭のみことばは、イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」の中の一節です。「主の祈り」は、神様が私たちに、ご自分に何を願うことを求めておられるかを教えるみことばです。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」という一節は、今日必要な食べ物を求める祈りです。食べ物はいのちと直結しています。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる(マタイ4:4)」と言われ、人はみことばに従わなければ生きていけないことを教えられましたが、同じように私たちは文字通りの「パン」も食べなければ生きていくことができません。神様は私たちの食べ物にも関心を持ってくださる方です。親は子どもが十分に食べているかどうか、いつも気にかけているものです。そして子どもは親に、「お腹空いた、何かちょうだい」と臆面もなく求めます。それと同じように、「お父さん、今日食べる物を与えてください。」と神に求めなさいと言っておられるのです。そんな親密な関係を、神様が私たちと持ってくださることを感謝します。

日ごとの糧を与えてくださる主

 私たちが「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と祈る時、ともすると、もう与えられているのに何故祈らなければならないのかと思うかもしれません。おそらく今日食べるものが何もないという人は、少なくとも今の日本にはほとんどいないでしょう。しかし、私たちが糧を得るために働くことができる毎日の生活こそが、神様の恵みであることに気づかなければなりません。今日仕事に出かけられるのは、また家事をすることができるのは、神様がやる気と健康を与えてくださっているからにほかなりません。さらに穀物や野菜が実り、家畜や魚が育つのも、いのちを司っておられる神様のわざです。神様が働いてくださらなければ私たちは何も手に入れることなどできないのです。毎日心をこめて、神様に「日ごとの糧」を求めて祈りましょう。

20.07.05 いつまでも変わらない神のことば



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「マルコ13:31 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

長い歴史に幕

 先日、NTTのハローページが、2021年10月以降に発行される最終版をもって終了するという発表がありました。130年の長い歴史に幕を閉じることとなりました。個人宅の電話番号が掲載されている電話帳ですが、昔はどの家庭でも電話機のそばに必ず置いてあったのではないかと思います。私の家にも、昔はハローページと企業用のタウンページが置いてありました。友人の自宅へ電話をする時に調べたりしましたが、「とても分厚くて重たい」そんなイメージがありました。近年、携帯電話の普及や、個人情報保護の意識が高まる中、発行部数は年々減少傾向にあったようです。
 電話帳の始まりは、1890年の明治時代にまでさかのぼります。最初は、一枚の紙に230件ほどの個人や企業の連絡先が掲載されていただけのものでした。それが、ピークの1990年代には6500万件までになりましたが、昨年は120万件と、大きく減少していました。30年前と今とでは、明らかに人の通信手段は大きく変わりました。最近は、電話帳を目にする機会がほとんど無くなってしまいましたが、電話帳だけではなく、固定電話や、公衆電話の数も毎年減少しています。様々なものがデジタル化にシフトしていく中で、その役割を終えるサービスもたくさん出てきています。
 地元名古屋の老舗デパート「丸栄」も、二年前に営業を終了しました。その歴史は、前身の呉服屋時代を含めると403年にもなるそうです。400年前ですと江戸時代の創業ということになります。かつては、西日本最大の売り場面積を誇り、名古屋にある、松坂屋、三越、名鉄百貨店の大手百貨店と並んで、「4M」と呼ばれていました。現在、大型のショッピングモールや商業施設がいたるところでオープンし、ネット通販による買い物が増え、さらには高齢化が進み、あらゆる時代の変化によって、デパートの業界も衰退しつつあるのではないかと思います。
 また、現在、コロナウイルスの関連による倒産も相次いでいます。100年以上も続いた老舗のレストラン、旅館などの倒産が相次いでいます。今までは当たり前のように身近に存在していたものが、時代の変化に伴って衰退していき、その終わりの時を迎えることとなっています。

人間のいのちも限りがある

 そしてまた、私たちのいのちも限りあるもので、いつかその終わりの時を迎えることになります。造り主なる神は、「人の齢は百二十年にしよう。(創世記6:3)」と定められました。現在、日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳だそうです。聖書には、「私たちは 自分の齢を 一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。(詩篇90:9-10)」とありますように、70年、80年という時間は、地球の約6千年という歴史からすれば、ほんの一瞬に過ぎないものであります。
 人の魂(たましい)は、神の御前にあって同じ一つの魂です。過去に偉大な発明、人類の歴史を変え、社会に大きな影響を与えてきた名だたる偉人と呼ばれる人であっても、大きな事件を起こし、社会に強烈なイメージを与えた凶悪犯であっても、どんな人であっても死は同じように訪れ、その魂は主の御前にあってみな同じであり、大きいとか小さいといったことは全くありません。人の魂は、主のご支配の下にあり、人間がそれをコントロールすることはできません。明日必ず生きているという保証はありません。すべて神様の手に委ねられているのです。

聖書は今もなお、人々に影響を与え続けている

 神のことばである聖書は、あらゆる時代のあらゆる人々に対して影響を与え続けています。世界中で毎日のように数えきれないほどの本が出版されていますが、聖書はその中でも、毎年、世界のベストセラーとなっており、現在、2500以上もの言語に翻訳されています。科学者、音楽家、医者、経営者、大統領、政治家などの著名人のみならず、あらゆる時代の、様々な立場の人々の人生に大きな影響を与えています。
 アポロ15号で月面着陸した宇宙飛行士は、「宇宙は神が造られたとしか考えられない」と言っています。また、アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンは、「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」とも言っています。他にも、日本銀行の総裁を務めたことのある速水優さんは、「私は『主共にいます』『主われを愛す』『主すべてを知りたもう』という三つのことを心の中に入れて出て行けば、人を恐れないで、相手の顔を見て言うことができることを何回も体験しました。」と言っています。クロネコヤマトでおなじみ、ヤマト運輸の創業者である小倉昌男さんは、「経営というのは、自分が人にしてもらいたいと思うことを相手にもしてあげること。自分がやられたら嫌なことは相手にもしない。この二つに行き着く。僕はそうやって経営をやってきた」と言っています。
 昔から、あらゆる時代の人が聞いて影響を受けてきた聖書のことばが、今日の私たちにも変わることなく届けられています。そして神のことばは、これからもずっと変わることなく人々に影響を与え続けていくことだと思います。

みことばに毎日触れる

 ですから私たちは、毎日みことばに触れる生活をしていきたいと思います。聖書を読むことによってみことばに触れ、生活の中で主から語られることによって、みことばに触れることができます。みことばに毎日触れ続けていることで、私たちは変えられていきます。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)」とありますように、みことばをまず聞くことが、私たちの信仰の土台となります。どんな人の励ましの言葉や、今日あった嬉しい出来事も、ほんの一瞬のうちにして、過ぎ去ってしまいます。しかし、みことばは、ずっと私たちの心に語りかけられていて、それは決して消え去ることはありません。「私はあなたのみことばを心に蓄えます。(詩篇119:11)」