25.08.24 実らないいちじくの木

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2025.08.24週報.pdf
「ルカ13:8-9 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
実らないいちじくの木のたとえ
冒頭のみことばは、イエス様の「実らないいちじくの木のたとえ」です。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植え、実を探しに来たが見つかりません。そこで、ぶどう園の番人に、『三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが見つからないから、切り倒してしまいなさい』と言いました。ところが番人は、『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』と答えました」。
このたとえで、「ある人」は天の父なる神、「いちじくの木」はイスラエルの人々、「番人」はイエス様です。そして、「実」を結ぶとは、イスラエルの人々がイエス・キリストを信じて救われることです。
主はイスラエルの救いを待っておられる
イスラエルの人々は、神様に選ばれた民であるのに、長い間神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。そのため彼らは弱くなり、ローマの支配下に置かれ苦しんでいました。神様は、そんな彼らをあわれんでくださり、イエス様を救い主として送ってくださいましたが、彼らの心はかたくなで、イエス様が目の前でなさる奇跡を見ても、信じることがありませんでした。彼らは、罪ゆえに滅ぼされても当然の歩みをしていたのです。
ところが、このたとえ話の番人は、もう一年、この実を結ばないいちじくの木の面倒を見させてほしいと言っています。イエス様は、イスラエルの人々が悔い改めてイエス・キリストを信じ、救われることを、愛と忍耐をもって待ってくださっておられるのです。
実は主は私たちが信頼することを待っておられる
私たちはイエス・キリストを信じてすでに救われました。私たちもまた、罪ゆえに滅びの道を歩む者でしたが、主があわれみによって悔い改めに導いてくださったので、私たちのの罪は赦され、永遠のいのちが与えられました。
では、救われた私たちには、このたとえはどのように適用されるでしょうか。救われた私たちの願いは、神様に届くようになりました。私たちにはたくさんの願いがあります。経済が満たされること、健康が守られること、人間関係が回復すること、家族の救い、また手にいれたい物があります。ところが「祈って待っても、聞かれないではないか。」と思う人もいるでしょう。祈りが聞かれない、待たされている、と思っていませんか。実はその時、待っているのは私たちではなく、主の方だ、と気づかなければならないのではないでしょうか。主は、私たちが主に信頼することを待っておられるのです。もし私たちの祈りが、祈った先から何でもすぐに聞かれるならば、私たちは神様に信頼することを学ぶ機会がありません。主の深いご配慮を感謝します。
主に信頼して歩む
わたしたちにとっての「実」は、どんな状況でも、主に信頼して歩むことです。主は私たちが信頼することを、待ってくださっておられます。このお方に信頼して歩んで参りましょう。(鈴木千史)
告別式感謝
残されたご家族の平安と救いのためにお祈りください。

25.08.24 実らないいちじくの木

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「ルカ13:8-9 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
実らないいちじくの木のたとえ
冒頭のみことばは、イエス様の「実らないいちじくの木のたとえ」です。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植え、実を探しに来たが見つかりません。そこで、ぶどう園の番人に、『三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが見つからないから、切り倒してしまいなさい』と言いました。ところが番人は、『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』と答えました」。
このたとえで、「ある人」は天の父なる神、「いちじくの木」はイスラエルの人々、「番人」はイエス様です。そして、「実」を結ぶとは、イスラエルの人々がイエス・キリストを信じて救われることです。
主はイスラエルの救いを待っておられる
イスラエルの人々は、神様に選ばれた民であるのに、長い間神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。そのため彼らは弱くなり、ローマの支配下に置かれ苦しんでいました。神様は、そんな彼らをあわれんでくださり、イエス様を救い主として送ってくださいましたが、彼らの心はかたくなで、イエス様が目の前でなさる奇跡を見ても、信じることがありませんでした。彼らは、罪ゆえに滅ぼされても当然の歩みをしていたのです。
ところが、このたとえ話の番人は、もう一年、この実を結ばないいちじくの木の面倒を見させてほしいと言っています。イエス様は、イスラエルの人々が悔い改めてイエス・キリストを信じ、救われることを、愛と忍耐をもって待ってくださっておられるのです。
実は主は私たちが信頼することを待っておられる
私たちはイエス・キリストを信じてすでに救われました。私たちもまた、罪ゆえに滅びの道を歩む者でしたが、主があわれみによって悔い改めに導いてくださったので、私たちのの罪は赦され、永遠のいのちが与えられました。
では、救われた私たちには、このたとえはどのように適用されるでしょうか。救われた私たちの願いは、神様に届くようになりました。私たちにはたくさんの願いがあります。経済が満たされること、健康が守られること、人間関係が回復すること、家族の救い、また手にいれたい物があります。ところが「祈って待っても、聞かれないではないか。」と思う人もいるでしょう。祈りが聞かれない、待たされている、と思っていませんか。実はその時、待っているのは私たちではなく、主の方だ、と気づかなければならないのではないでしょうか。主は、私たちが主に信頼することを待っておられるのです。もし私たちの祈りが、祈った先から何でもすぐに聞かれるならば、私たちは神様に信頼することを学ぶ機会がありません。主の深いご配慮を感謝します。
主に信頼して歩む
わたしたちにとっての「実」は、どんな状況でも、主に信頼して歩むことです。主は私たちが信頼することを、待ってくださっておられます。このお方に信頼して歩んで参りましょう。(鈴木千史)
告別式感謝
残されたご家族の平安と救いのためにお祈りください。
