26.3.29 イエスから目を離さない
↓こちらをクリックすると週報全文を閲覧できます。
2026.3.29 週報.pdf
「ヘブル12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
イエス様は、苦しみの先にある勝利を見ておられた
イエス・キリストは、多くのユダヤ人たちから、あざけられ、ののしられ、辱めを受けられました。しかし、それをものともせずに十字架の苦しみを耐え忍ばれました。そうなされたのは、「ご自分の前に置かれた喜びのため」でした。その喜びは、十字架の苦しみによって、父のみこころである救いの計画が成し遂げられることから来る喜びでした。イエス様は、ご自分が受けられた苦しみの向こうにある勝利をご覧になっておられたのです。それは、罪と死に対する勝利です。十字架のあがないによって、イエス・キリストは、この罪ある世、悪魔の支配に完全な勝利をとってくださいました。そのことを信じる信仰によって、私たちも罪に勝利することができるのです。
イエス様から目を離さない
イエス様は、「信仰の創始者であり完成者」であられるお方です。イエス様は、父のみこころが成し遂げられることだけに心を向けられ、父がなされることに、すべてゆだねられました。その全き信仰を持って、十字架に向かって行かれました。父なる神に全き信頼を持って、その信仰を貫いてくださいました。十字架の上で、「完了した(ヨハネ19:30)」と言われました。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ53:11)」とあるように、イエス様は、父のみこころが成し遂げられた、完了したことを喜ばれました。
「イエスから、目を離さない」ということは、いつも十字架の勝利を思い起こして生きることです。十字架の上での苦しみは、あなたの罪の身代わりとなるための苦しみでした。その十字架の勝利を見上げるとき、「私の罪は赦された。私の病はいやされた。私の思い煩いは、恐れは、もうすでに、イエス様が全部、私の代わりに引き受けてくださったので完全に打ち砕かれたのだ」ということがわかります。罪の問題は、十字架のあがないによってすでに決着がついていることを、信仰によって受け取らなくてはなりません。そこに、喜びや感謝の思いが湧いて来ます。
イエス様から目を離すと心が騒ぐ
しかし、イエス様から目を離した瞬間から、私たちは、イエス様以外のことに囚われ、心が騒ぎます。たとえば、「あの人は私のことをどう見ているだろうか」と自分に対する周囲の視線、評価が気になります。「私は愛されているだろうか、受け入れられているだろうか」という思いに囚われてしまいます。心が思い煩いに支配されて、打ちひしがれているその中で、その先にある十字架の勝利を見なくてはなりません。思い煩いは、あれこれと考えて悩み、心配することで、神のみこころではありません。思い煩いに勝利してくださったイエス様にすべてのことをゆだねなくてはなりません。起きている問題を主にゆだねる時、今最善がなされているとわかります。起こる出来事の一つ一つをつぶさに見て、主を喜ぶことを選択し続けて行く時に、心は主にある喜びで満たされ、思い煩いは取り去られます。
今、あなたの心は何を見ていますか
あなたの心は今どこに向いているでしょうか。あなたの心の中心には何があるでしょうか。私たちの心が、イエス様だけを見続けているなら、この世にあって勝利することができるのです。(岩下 栄作)
呼び出しベル
ステージ上にある奏楽者用の返しモニターに、呼び出し用のチャイムが取り付けられました。呼び出しボタンを押すと、操作卓にある表示板が、ランプと音で知らせてくれます。
呼び出しベルが設置されたことによって、スムーズな対応ができるようになりました。
26.3.29 イエスから目を離さない
↓こちらをクリックすると週報全文を閲覧できます。
2026.3.29 週報.pdf
「ヘブル12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
イエス様は、苦しみの先にある勝利を見ておられた
イエス・キリストは、多くのユダヤ人たちから、あざけられ、ののしられ、辱めを受けられました。しかし、それをものともせずに十字架の苦しみを耐え忍ばれました。そうなされたのは、「ご自分の前に置かれた喜びのため」でした。その喜びは、十字架の苦しみによって、父のみこころである救いの計画が成し遂げられることから来る喜びでした。イエス様は、ご自分が受けられた苦しみの向こうにある勝利をご覧になっておられたのです。それは、罪と死に対する勝利です。十字架のあがないによって、イエス・キリストは、この罪ある世、悪魔の支配に完全な勝利をとってくださいました。そのことを信じる信仰によって、私たちも罪に勝利することができるのです。
イエス様から目を離さない
イエス様は、「信仰の創始者であり完成者」であられるお方です。イエス様は、父のみこころが成し遂げられることだけに心を向けられ、父がなされることに、すべてゆだねられました。その全き信仰を持って、十字架に向かって行かれました。父なる神に全き信頼を持って、その信仰を貫いてくださいました。十字架の上で、「完了した(ヨハネ19:30)」と言われました。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ53:11)」とあるように、イエス様は、父のみこころが成し遂げられた、完了したことを喜ばれました。
「イエスから、目を離さない」ということは、いつも十字架の勝利を思い起こして生きることです。十字架の上での苦しみは、あなたの罪の身代わりとなるための苦しみでした。その十字架の勝利を見上げるとき、「私の罪は赦された。私の病はいやされた。私の思い煩いは、恐れは、もうすでに、イエス様が全部、私の代わりに引き受けてくださったので完全に打ち砕かれたのだ」ということがわかります。罪の問題は、十字架のあがないによってすでに決着がついていることを、信仰によって受け取らなくてはなりません。そこに、喜びや感謝の思いが湧いて来ます。
イエス様から目を離すと心が騒ぐ
しかし、イエス様から目を離した瞬間から、私たちは、イエス様以外のことに囚われ、心が騒ぎます。たとえば、「あの人は私のことをどう見ているだろうか」と自分に対する周囲の視線、評価が気になります。「私は愛されているだろうか、受け入れられているだろうか」という思いに囚われてしまいます。心が思い煩いに支配されて、打ちひしがれているその中で、その先にある十字架の勝利を見なくてはなりません。思い煩いは、あれこれと考えて悩み、心配することで、神のみこころではありません。思い煩いに勝利してくださったイエス様にすべてのことをゆだねなくてはなりません。起きている問題を主にゆだねる時、今最善がなされているとわかります。起こる出来事の一つ一つをつぶさに見て、主を喜ぶことを選択し続けて行く時に、心は主にある喜びで満たされ、思い煩いは取り去られます。
今、あなたの心は何を見ていますか
あなたの心は今どこに向いているでしょうか。あなたの心の中心には何があるでしょうか。私たちの心が、イエス様だけを見続けているなら、この世にあって勝利することができるのです。(岩下 栄作)
呼び出しベル
礼拝中、音響の問題が起きた時に、奏楽者とPA奉仕者とのやり取りがスムーズにできないことがありました。
ステージ上にある奏楽者用の返しモニターに、呼び出し用のチャイムが取り付けられました。呼び出しボタンを押すと、操作卓にある表示板が、ランプと音で知らせてくれます。
呼び出しベルが設置されたことによって、スムーズな対応ができるようになりました。