24.11.17 いつも主にあって喜びなさい
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2024.11.17週報.pdf
「ピリピ4:4-5 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」
喜べないときがある
先日、名古屋に向かって高速道路を走っていたときのことですが、その日は秋晴れで、気温も心地よく、青空が明るく澄み渡っていて、少しだけ色づきはじめた木々の緑も目に映え、車の窓から外をながめているだけで、「なんか今日はわくわくしてくるね!」と思わず口にしてしまったくらい、嬉しい気持ちになりました。
お天気がよい時、体調がよいとき、仕事や勉強がうまくいっているとき、ほしいものが手に入った時など、何かよいことがあったときや、特に問題のないときは、私たちの心はいとも簡単に喜ぶことができます。しかし、そのよいことが取り上げられてしまったり、何か問題が起こってくると、とたんに喜べなくなります。
喜びは主ご自身
冒頭のみことばでパウロは、「いつも主にあって喜びなさい。」と勧めています。よいことがあったときだけでなく、悪いことが起こったときも、「いつも」喜ぶことができる理由は、「主にあって」というキーワードにあると教えられます。それは喜びの原因が、お天気や、人間関係や、自分の成績や実績など、私たちの外側にあるものではなく、私たちのうちにおられる「主ご自身」にあるということです。
聖書には「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」とあります。「私のいのちを救うために、身代わりとなって死んでくださるほどに私を愛してくださったお方が、私のうちにいてくださる」と知り、このお方との親しい交わりの中に生きられることは、なんという喜びでしょうか。そして、このお方によって永遠のいのちが与えられていることが、救われた者の力であり希望です。死の恐れは完全に消え去りました。主ご自身が私たちの喜びです。
寛容な心は喜びから
ところでパウロは、いつも喜ぶことの具体的な勧めとして、「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」と勧めました。「寛容」というのは、心が広く、ほかの人の意見を受け入れたり、ほかの人の失敗を許すことです。私たちの日常生活において、ささいなことであるいは深刻なことで、人と争い、ゆずらない、赦さないということがあるのではないでしょうか。どうしたら寛容になれるでしょうか。
パウロが言いたいことは、心に喜びや平安があるので寛容になることができるということです。寛容は、私たちが喜んで生きている中で、主が結んでくださる実です。そして、私たちがすべての人に寛容でなければならないのは、「主は近い」からです。世の終わりに主が戻ってこられたとき、私たちが赦していない人がいたら、主は悲しまれることでしょう。主はいつも私たちのすぐ近くにおられて、私たちがみこころに従おうとすると、必ず助けてくだるお方です。
いつも主にあって喜びなさい
ですから、私たちはいつも主にあって喜びましょう。良いことも悪いことも、どんな小さなことにも感謝しましょう。「ああ、今主が働いておられる。主は私を愛してくださっておられるので、理由はわからないけど、私にとって一番よいことをしてくださったのだ。主よ、感謝します。」と告白することを、毎日かかさず積み重ねていきましょう。いつも喜んでいることが私たちの生きる原動力です。(鈴木千史)
キャンプ準備感謝
先週、リトリートハウスで、キャンプの準備がご奉仕によって行われました。奉仕者は、田んぼでゲームができるように草を刈り、焚き火の薪を割り、少人数用の新しい焚き火台を試していました。今週のキャンプが主のご臨在を知るときとなりますように、祝福をお祈りください。
24.11.17 いつも主にあって喜びなさい
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「ピリピ4:4-5 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」
喜べないときがある
先日、名古屋に向かって高速道路を走っていたときのことですが、その日は秋晴れで、気温も心地よく、青空が明るく澄み渡っていて、少しだけ色づきはじめた木々の緑も目に映え、車の窓から外をながめているだけで、「なんか今日はわくわくしてくるね!」と思わず口にしてしまったくらい、嬉しい気持ちになりました。
お天気がよい時、体調がよいとき、仕事や勉強がうまくいっているとき、ほしいものが手に入った時など、何かよいことがあったときや、特に問題のないときは、私たちの心はいとも簡単に喜ぶことができます。しかし、そのよいことが取り上げられてしまったり、何か問題が起こってくると、とたんに喜べなくなります。
喜びは主ご自身
冒頭のみことばでパウロは、「いつも主にあって喜びなさい。」と勧めています。よいことがあったときだけでなく、悪いことが起こったときも、「いつも」喜ぶことができる理由は、「主にあって」というキーワードにあると教えられます。それは喜びの原因が、お天気や、人間関係や、自分の成績や実績など、私たちの外側にあるものではなく、私たちのうちにおられる「主ご自身」にあるということです。
聖書には「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」とあります。「私のいのちを救うために、身代わりとなって死んでくださるほどに私を愛してくださったお方が、私のうちにいてくださる」と知り、このお方との親しい交わりの中に生きられることは、なんという喜びでしょうか。そして、このお方によって永遠のいのちが与えられていることが、救われた者の力であり希望です。死の恐れは完全に消え去りました。主ご自身が私たちの喜びです。
寛容な心は喜びから
ところでパウロは、いつも喜ぶことの具体的な勧めとして、「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。」と勧めました。「寛容」というのは、心が広く、ほかの人の意見を受け入れたり、ほかの人の失敗を許すことです。私たちの日常生活において、ささいなことであるいは深刻なことで、人と争い、ゆずらない、赦さないということがあるのではないでしょうか。どうしたら寛容になれるでしょうか。
パウロが言いたいことは、心に喜びや平安があるので寛容になることができるということです。寛容は、私たちが喜んで生きている中で、主が結んでくださる実です。そして、私たちがすべての人に寛容でなければならないのは、「主は近い」からです。世の終わりに主が戻ってこられたとき、私たちが赦していない人がいたら、主は悲しまれることでしょう。主はいつも私たちのすぐ近くにおられて、私たちがみこころに従おうとすると、必ず助けてくだるお方です。
いつも主にあって喜びなさい
ですから、私たちはいつも主にあって喜びましょう。良いことも悪いことも、どんな小さなことにも感謝しましょう。「ああ、今主が働いておられる。主は私を愛してくださっておられるので、理由はわからないけど、私にとって一番よいことをしてくださったのだ。主よ、感謝します。」と告白することを、毎日かかさず積み重ねていきましょう。いつも喜んでいることが私たちの生きる原動力です。(鈴木千史)
キャンプ準備感謝
先週、リトリートハウスで、キャンプの準備がご奉仕によって行われました。奉仕者は、田んぼでゲームができるように草を刈り、焚き火の薪を割り、少人数用の新しい焚き火台を試していました。今週のキャンプが主のご臨在を知るときとなりますように、祝福をお祈りください。