週報(主の御手)LORD'S HANDS

週報(主の御手)
LORD'S HANDS

24.07.07 霊の乳を慕い求めなさい


 
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2024.7.7週報.pdf
 
「Ⅰペテロ2:1-3 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」
 

すべての悪を捨てる

 私たちは、神のみことばに従うことによって、たましいがきよめられました。ペテロはここで、「ですからあなたがたは、まずあらゆる悪を捨てなさい。」と命じていますが、私たちが神の御心を知るためには、まず心のうちにあるあらゆる罪や汚れがきよめられなくてはなりません。人を真実に愛そうとするならばそうです。たとえば、人から強い口調で言われることがある時に、途端にそれまであった冷静さや平安な心はすっかりどこかへ消えてしまい、それに代わって恐れや怒りの思いが心を支配して、自分が言いたいことが全く言えなくなってしまうということがあったりすると思います。私たちはまず、心にあるあらゆる悪を捨てなければなりません。罪に気がついて、罪を認めて、罪を捨てることなくして霊的な成長は決してありません。

純粋な霊の乳

 きよめられた心にみことばが語られる時、私たちはそれを素直に受け入れることができます。そこでペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」と命じています。「霊の乳」とはみことばのことです。神のことばは、純粋で混じり気がありません。それは、神のみことばが真実で、きよく正しいことを意味しています。人の言葉や考えは、ころころ変わってしまいますし、利己的な思いや偽りの思いがそこに潜んでいたりします。しかし神のことばは完全で、少しも間違いはありません。聖書に書かれているみことばの約束は、ことごとくその通りに実現しますし、そのことばは変わることがありません。だからこそ、私たちはみことばに全面的に信頼することができるのです。ですから私たちは、みことばを聞いて、自分の解釈を挟まないで、みことばを文字通りそのまま受け入れなければなりません。

みことばを慕い求める

 そして、霊の乳を慕い求めること、つまりみことばを慕い求めることは、みことばを一途に求めることです。ダビデは、主の宮で礼拝すること、主のことを思い巡らすことをただ一途に求めていました。それが彼のたった一つの願いでありました。彼は、国を治めるリーダーとして部下をまとめて導くことや、また家庭のことなど、多くを任されていましたが、彼はどんな状況に置かれても、どこにいても神を礼拝することを何よりも第一にしていました。私たちもまた、みことばを一途に求めることが、私たちの仕事や勉強、家庭生活のどんなことよりも第一優先でなくてはなりません。
 たとえば、疲れ果ててやる気が起きない時、体の不調を感じる時に、私たちの心はかき乱されてしまいます。自分の身に起きていることを喜ぶことができず思い煩ったり、「こんなにも疲れているんだから落ち込むのも仕方がないことではないか」と、自分が大変であることを周りの人にわかってもらいたい、そんな思いになるかもしれません。私たちは、そのような中に置かれる時にこそ、みことばを慕い求めなくてはなりません。問題が起こることや、苦しみ、困難にあうことは、私たちが神を求め始めることのきっかけとなります。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」。自ら進んでみことばを求める時に主は、「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と語ってくださいますし、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。(マタイ7:12)」と語ってくださいます。そのみことばに応答し従おうとするときに、主のなされることを喜ぶことが出来ますし、自分の大変さをわかってもらおうとすることではなくて、かえって自分から人に愛を示すことができるようになります。

成長して救いを得る

 私たちは、みことばを何よりも一途に求める生活の中で、人や周りの環境が変わることよりも、みことばによって私たち自身が変えられて行くことを経験することができます。私たちの歩みは、救われて終わりではありません。この世の終わりの救いの完成の時まで続いていきます。赤ちゃんが熱心になってお母さんのミルクを求めるように、私たちも、みことばを慕い求め続けるならば、主が私たちをキリストに似た者へとだんだんと変えてくださり、成長させてくださいます。みことばは、その人を全く新しくして、その人の人生を変えてしまうほど力のあるものです。霊的成長は、まず自分の内にあるあらゆる罪や汚れを捨てて、みことばを慕い求めることから始まります。(岩下 栄作)

24.07.07 霊の乳を慕い求めなさい
 


 
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「Ⅰペテロ2:1-3 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」
 

すべての悪を捨てる

 私たちは、神のみことばに従うことによって、たましいがきよめられました。ペテロはここで、「ですからあなたがたは、まずあらゆる悪を捨てなさい。」と命じていますが、私たちが神の御心を知るためには、まず心のうちにあるあらゆる罪や汚れがきよめられなくてはなりません。人を真実に愛そうとするならばそうです。たとえば、人から強い口調で言われることがある時に、途端にそれまであった冷静さや平安な心はすっかりどこかへ消えてしまい、それに代わって恐れや怒りの思いが心を支配して、自分が言いたいことが全く言えなくなってしまうということがあったりすると思います。私たちはまず、心にあるあらゆる悪を捨てなければなりません。罪に気がついて、罪を認めて、罪を捨てることなくして霊的な成長は決してありません。

純粋な霊の乳

 きよめられた心にみことばが語られる時、私たちはそれを素直に受け入れることができます。そこでペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」と命じています。「霊の乳」とはみことばのことです。神のことばは、純粋で混じり気がありません。それは、神のみことばが真実で、きよく正しいことを意味しています。人の言葉や考えは、ころころ変わってしまいますし、利己的な思いや偽りの思いがそこに潜んでいたりします。しかし神のことばは完全で、少しも間違いはありません。聖書に書かれているみことばの約束は、ことごとくその通りに実現しますし、そのことばは変わることがありません。だからこそ、私たちはみことばに全面的に信頼することができるのです。ですから私たちは、みことばを聞いて、自分の解釈を挟まないで、みことばを文字通りそのまま受け入れなければなりません。

みことばを慕い求める

 そして、霊の乳を慕い求めること、つまりみことばを慕い求めることは、みことばを一途に求めることです。ダビデは、主の宮で礼拝すること、主のことを思い巡らすことをただ一途に求めていました。それが彼のたった一つの願いでありました。彼は、国を治めるリーダーとして部下をまとめて導くことや、また家庭のことなど、多くを任されていましたが、彼はどんな状況に置かれても、どこにいても神を礼拝することを何よりも第一にしていました。私たちもまた、みことばを一途に求めることが、私たちの仕事や勉強、家庭生活のどんなことよりも第一優先でなくてはなりません。
 たとえば、疲れ果ててやる気が起きない時、体の不調を感じる時に、私たちの心はかき乱されてしまいます。自分の身に起きていることを喜ぶことができず思い煩ったり、「こんなにも疲れているんだから落ち込むのも仕方がないことではないか」と、自分が大変であることを周りの人にわかってもらいたい、そんな思いになるかもしれません。私たちは、そのような中に置かれる時にこそ、みことばを慕い求めなくてはなりません。問題が起こることや、苦しみ、困難にあうことは、私たちが神を求め始めることのきっかけとなります。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」。自ら進んでみことばを求める時に主は、「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5:16)」と語ってくださいますし、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。(マタイ7:12)」と語ってくださいます。そのみことばに応答し従おうとするときに、主のなされることを喜ぶことが出来ますし、自分の大変さをわかってもらおうとすることではなくて、かえって自分から人に愛を示すことができるようになります。

成長して救いを得る

 私たちは、みことばを何よりも一途に求める生活の中で、人や周りの環境が変わることよりも、みことばによって私たち自身が変えられて行くことを経験することができます。私たちの歩みは、救われて終わりではありません。この世の終わりの救いの完成の時まで続いていきます。赤ちゃんが熱心になってお母さんのミルクを求めるように、私たちも、みことばを慕い求め続けるならば、主が私たちをキリストに似た者へとだんだんと変えてくださり、成長させてくださいます。みことばは、その人を全く新しくして、その人の人生を変えてしまうほど力のあるものです。霊的成長は、まず自分の内にあるあらゆる罪や汚れを捨てて、みことばを慕い求めることから始まります。(岩下 栄作)