25.06.08 主イエスを知る確かな証拠

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2025.06.08週報.pdf
「Ⅱペテロ1:16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」
ペテロは見たことを伝えた
ペテロは、主の再臨について話したことは、作り話によってではなく、私が見たこと、経験した事実に基づいて話していると伝えています。それは、あの変貌の山での出来事でした。ペテロとヤコブとヨハネ3人の弟子たちは、イエス様が主の栄光の御姿へと変えられるのを見ました。それは、世の終わりの時、イエス様が再び来られる時の栄光を受けられた御姿でした。イエス様は、その御姿を彼らに啓示されたのです。彼らは主のみわざを見て、主の御声を聞きました。この主の栄光の御姿を垣間見た経験が、後になって、彼らが主の働きを進めて行く時の大きな力となりました。
主のみわざを見た経験が確信となる
私たちも、聖書に書いている真理をただ頭の知識として知っているだけでは、人に対して確信を持って話すことはできません。自分が見たこと、経験したことが、私たちの主に対する確信となる時、たとえ人からイエス様のことについて否定されたとしても「いや、それは違うよ」と、自分の言葉で正しく反論することができ、信仰に堅く立つことができます。パウロも主のみわざを見て経験しましたが、彼は「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした(Ⅰコリント2:4)」と話しています。主のみわざを見て経験することは、彼らだけの特別なものではなくて、今日の私たちにも同じ聖霊様が働いておられ、当時の人たちと同じ体験、経験をすることができることを私たちは信じなくてはなりません。
主のみわざを見ることができる
私たちは、日々の生活の中で主のみわざを見て経験することができます。病のいやし、人間関係の回復、経済の満たし、すべて主のみわざです。また私たちは、聖霊の働きによって、私たち自身が変えられて行く経験をします。たとえば、私たちはいつも御霊に満たされた生活をすることが主にあってできます。それは主を喜ぶことです。私たちは何かうれしい出来事があれば喜べますし、嫌な出来事があれば、その喜びは消えてしまいます。この世の人たちは、「誰でもそんな時はあるよ」と言うかもしれません。しかし、主イエスを知っている私たちは、起こる出来事のすべてが主の主権のもとで起きていることだと知っています。主のなされることを喜んで、主を見上げて生きられることを知っていますし、わずかな時間でもそのことを経験したことがあると思います。主を喜ぶことをし続けるその先に、これまで経験したことのなかった新たな気づき、主にある喜び、今までに感じたことのない穏やかな心、主にある平安で心が満たされるという経験をします。その時、そこに働く聖霊の働きが確かにあることがハッキリとわかります。
「私は知っている」という確信
主のみわざを見て経験することは、私たちに主に対する揺るぎない確信を与えてくれます。みことばの真理を知る時、とてもリラックスして生きられるようになります。「私は真実を知っている」という主に対する確信の思いが、私たちの日々の生活を支える原動力となります。主の素晴らしいみわざを見て、経験してまいりましょう。(岩下 栄作)
壁新聞のご奉仕
先週の日曜日は、今年の壁新聞作成のためのミーティングが行われました。プレヤーハウス倉庫にある大型プリンターの使い方を確認し、各記事の作成を誰が担当するのかを決めました。壁新聞のご奉仕のためにもお祈りください。

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「Ⅱペテロ1:16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」
ペテロは見たことを伝えた
ペテロは、主の再臨について話したことは、作り話によってではなく、私が見たこと、経験した事実に基づいて話していると伝えています。それは、あの変貌の山での出来事でした。ペテロとヤコブとヨハネ3人の弟子たちは、イエス様が主の栄光の御姿へと変えられるのを見ました。それは、世の終わりの時、イエス様が再び来られる時の栄光を受けられた御姿でした。イエス様は、その御姿を彼らに啓示されたのです。彼らは主のみわざを見て、主の御声を聞きました。この主の栄光の御姿を垣間見た経験が、後になって、彼らが主の働きを進めて行く時の大きな力となりました。
主のみわざを見た経験が確信となる
私たちも、聖書に書いている真理をただ頭の知識として知っているだけでは、人に対して確信を持って話すことはできません。自分が見たこと、経験したことが、私たちの主に対する確信となる時、たとえ人からイエス様のことについて否定されたとしても「いや、それは違うよ」と、自分の言葉で正しく反論することができ、信仰に堅く立つことができます。パウロも主のみわざを見て経験しましたが、彼は「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした(Ⅰコリント2:4)」と話しています。主のみわざを見て経験することは、彼らだけの特別なものではなくて、今日の私たちにも同じ聖霊様が働いておられ、当時の人たちと同じ体験、経験をすることができることを私たちは信じなくてはなりません。
主のみわざを見ることができる
私たちは、日々の生活の中で主のみわざを見て経験することができます。病のいやし、人間関係の回復、経済の満たし、すべて主のみわざです。また私たちは、聖霊の働きによって、私たち自身が変えられて行く経験をします。たとえば、私たちはいつも御霊に満たされた生活をすることが主にあってできます。それは主を喜ぶことです。私たちは何かうれしい出来事があれば喜べますし、嫌な出来事があれば、その喜びは消えてしまいます。この世の人たちは、「誰でもそんな時はあるよ」と言うかもしれません。しかし、主イエスを知っている私たちは、起こる出来事のすべてが主の主権のもとで起きていることだと知っています。主のなされることを喜んで、主を見上げて生きられることを知っていますし、わずかな時間でもそのことを経験したことがあると思います。主を喜ぶことをし続けるその先に、これまで経験したことのなかった新たな気づき、主にある喜び、今までに感じたことのない穏やかな心、主にある平安で心が満たされるという経験をします。その時、そこに働く聖霊の働きが確かにあることがハッキリとわかります。
「私は知っている」という確信
主のみわざを見て経験することは、私たちに主に対する揺るぎない確信を与えてくれます。みことばの真理を知る時、とてもリラックスして生きられるようになります。「私は真実を知っている」という主に対する確信の思いが、私たちの日々の生活を支える原動力となります。主の素晴らしいみわざを見て、経験してまいりましょう。(岩下 栄作)
壁新聞のご奉仕
先週の日曜日は、今年の壁新聞作成のためのミーティングが行われました。プレヤーハウス倉庫にある大型プリンターの使い方を確認し、各記事の作成を誰が担当するのかを決めました。壁新聞のご奉仕のためにもお祈りください。
