週報(主の御手)LORD'S HANDS

週報(主の御手)
LORD'S HANDS

25.12.7 義に飢え渇く者


 
↓こちらをクリックすると週報全文を閲覧できます。
2025.12.07週報.pdf
 
「マタイ5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
 

神の義だけが本当の正しさ

 神の義は、完全な正しさです。神のみこころにかなうこと、神の正しさの基準に達することだけが、本当の正しさです。神の私たちに対する一番重要な命令、「愛しなさい」を完全に守り抜くことが神様の正しさの基準です。もし、ほんのわずかでも人を憎む思いが心に湧いたならば、もうあなたは神の命令を守れないことになります。ですから神の前に正しいと言える人は誰もいません。神は、罪ある私たちのために、救い主を送ってくださいました。御子イエス・キリストは、この地上での歩みにおいて、罪なき生活を全うされ、神が命じられたすべての律法を完全に守り通してくださいました。また、本来私たちが受けるべき罪の罰をすべて受けてくださいました。このキリストによって全うされた神の義が、イエス・キリストを信じる者に与えられるのです。「あなたは正しい。あなたはきよい」と宣言されて、本来は義とされる資格の全くない者に、神があわれみのゆえに、義と認めてくださる恵みです。私たちは、へりくだって主がしてくださったみわざを受け入れなくてはなりません。
 

なぜ義に飢え渇く必要があるのか

 義と認められることは、私たちが正しい人間になることではありません。正しくない者であるにもかかわらず、神のあわれみによって義と認めてくださったに過ぎません。ですから、「義と認められたのだから、あとは自分なりに生きていけばいいんだ」と、義と認められたことに満足してそこに安住していると、高ぶりが生じてきます。昔の自分と比べて「以前よりも信じることができるようになってきた」「祈れるようになってきた」と自分で成長してきたかのように誇るようになりますし、他の兄弟姉妹たちと比べて「あの人よりは信仰がある」「あの人よりもできている」と人を見下すようになります。それはイエス様が指摘された、自分を正しいとするあのパリサイ人たちと同じです。義とされるのは、「私こそ、義と言えるところなど何一つない者だ」と自覚して、神の前にあわれみを求めてすがる人です。ですから私たちは、義に飢え渇いて求めなくてはなりません。
 

主に従おうとする時、心が満たされる

 義に飢え渇くとは、神様の正しさを求めることです。みことばに照らして、みこころが何であるのかを切に追い求めることです。たとえば、仕事で切羽詰まり、焦って平安をなくしている中で主を見上げる時に、「私はすぐに焦って平安をなくしてしまうなあ」と自分の弱さに向き合うことを通して、主に対する飢え渇きが起こされます。また、周りの人たちがいる中で居心地の悪さを感じて、その場にいたくないと感じる時、愛せない人がいる時、心に緊張が生まれます。その中で「この状況に私を置いてくださっているのは主であって、みこころは今私が喜んでこの場所にいることだ」と示されて、主のなされることを喜んで受け入れ、主に従おうとする時、心は主にある平安と喜びで満たされます。
 

神との正しい関係に生きられることに感謝

 私たちは、神との正しい関係に生きてはじめて心が満たされます。それは、悔い改めて神のことばを受け入れ、そして神のことばに喜んで聞き従い、みこころを行なっていく関係です。私たちは神の子どもとされ、神様からの豊かな祝福にあずかる者とされていることに感謝してまいりましょう。そして義に飢え渇いて求めてまいりましょう。(岩下 栄作)
 


 

クリスマス集会に向けての準備

 クリスマス集会まで、残すところあと二週間となりました。先週の日曜日には、ゲネプロが行われました。クワイヤーは衣装を身にまとい、本番さながらに初めから終わりまで通して行われました。
 また、那古野アウトリーチでは、教会近くのお宅に訪問して、クリスマスのチラシを渡して、お誘いをしています。
 先日は、商店街に貼ってあるクリスマスのポスターを見た人から「チケットを購入したい」と問い合わせの電話があり、教会にチケットを購入しに来られました。クリスマス集会に向けた準備が進められています。ぜひお祈りください。

25.12.7 義に飢え渇く者
 


 
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「マタイ5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
 

神の義だけが本当の正しさ

 神の義は、完全な正しさです。神のみこころにかなうこと、神の正しさの基準に達することだけが、本当の正しさです。神の私たちに対する一番重要な命令、「愛しなさい」を完全に守り抜くことが神様の正しさの基準です。もし、ほんのわずかでも人を憎む思いが心に湧いたならば、もうあなたは神の命令を守れないことになります。ですから神の前に正しいと言える人は誰もいません。神は、罪ある私たちのために、救い主を送ってくださいました。御子イエス・キリストは、この地上での歩みにおいて、罪なき生活を全うされ、神が命じられたすべての律法を完全に守り通してくださいました。また、本来私たちが受けるべき罪の罰をすべて受けてくださいました。このキリストによって全うされた神の義が、イエス・キリストを信じる者に与えられるのです。「あなたは正しい。あなたはきよい」と宣言されて、本来は義とされる資格の全くない者に、神があわれみのゆえに、義と認めてくださる恵みです。私たちは、へりくだって主がしてくださったみわざを受け入れなくてはなりません。
 

なぜ義に飢え渇く必要があるのか

 義と認められることは、私たちが正しい人間になることではありません。正しくない者であるにもかかわらず、神のあわれみによって義と認めてくださったに過ぎません。ですから、「義と認められたのだから、あとは自分なりに生きていけばいいんだ」と、義と認められたことに満足してそこに安住していると、高ぶりが生じてきます。昔の自分と比べて「以前よりも信じることができるようになってきた」「祈れるようになってきた」と自分で成長してきたかのように誇るようになりますし、他の兄弟姉妹たちと比べて「あの人よりは信仰がある」「あの人よりもできている」と人を見下すようになります。それはイエス様が指摘された、自分を正しいとするあのパリサイ人たちと同じです。義とされるのは、「私こそ、義と言えるところなど何一つない者だ」と自覚して、神の前にあわれみを求めてすがる人です。ですから私たちは、義に飢え渇いて求めなくてはなりません。
 

主に従おうとする時、心が満たされる

 義に飢え渇くとは、神様の正しさを求めることです。みことばに照らして、みこころが何であるのかを切に追い求めることです。たとえば、仕事で切羽詰まり、焦って平安をなくしている中で主を見上げる時に、「私はすぐに焦って平安をなくしてしまうなあ」と自分の弱さに向き合うことを通して、主に対する飢え渇きが起こされます。また、周りの人たちがいる中で居心地の悪さを感じて、その場にいたくないと感じる時、愛せない人がいる時、心に緊張が生まれます。その中で「この状況に私を置いてくださっているのは主であって、みこころは今私が喜んでこの場所にいることだ」と示されて、主のなされることを喜んで受け入れ、主に従おうとする時、心は主にある平安と喜びで満たされます。
 

神との正しい関係に生きられることに感謝

 私たちは、神との正しい関係に生きてはじめて心が満たされます。それは、悔い改めて神のことばを受け入れ、そして神のことばに喜んで聞き従い、みこころを行なっていく関係です。私たちは神の子どもとされ、神様からの豊かな祝福にあずかる者とされていることに感謝してまいりましょう。そして義に飢え渇いて求めてまいりましょう。(岩下 栄作)
 


 

クリスマス集会に向けての準備

 クリスマス集会まで、残すところあと二週間となりました。先週の日曜日には、ゲネプロが行われました。クワイヤーは衣装を身にまとい、本番さながらに初めから終わりまで通して行われました。
 また、那古野アウトリーチでは、教会近くのお宅に訪問して、クリスマスのチラシを渡して、お誘いをしています。
 先日は、商店街に貼ってあるクリスマスのポスターを見た人から「チケットを購入したい」と問い合わせの電話があり、教会にチケットを購入しに来られました。クリスマス集会に向けた準備が進められています。ぜひお祈りください。